佐藤嘉洋の情報(さとうよしひろ) 格闘家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png?)
佐藤 嘉洋さんについて調べます
■名前・氏名 |
佐藤嘉洋と関係のある人
アンディ=サワー: 2011年4月23日、東日本大震災復興チャリティー大会となったSHOOT BOXING 2011 act.2にて、佐藤嘉洋と対戦。 ブアカーオ=ポープラムック: 2022年10月28日、タイのラジャダムナン・スタジアムで開催されたラジャダムナン・ワールド・シリーズ(RWS)で佐藤嘉洋とエキシビジョンを行った。 ブアカーオ=ポープラムック: 2008年2月2日、K-1 WORLD MAX 2008で佐藤嘉洋と対戦。 ブアカーオ=ポープラムック: 2008年7月7日、K-1 WORLD MAX 2008 FINAL8のトーナメント準々決勝で佐藤嘉洋と対戦し、3R右ストレートでKO負け。 ブアカーオ=ポープラムック: 2006年6月30日、K-1 WORLD MAX 2006の準々決勝で佐藤嘉洋を2RKOで破ると、続く準決勝でドラゴを判定で下し、決勝戦では前年の決勝で敗れたアンディ・サワーをKOで破り、K-1 WORLD MAX史上初の2度目の王者となった。 平本蓮: 予想も毎回外す」「技術面もライバルの佐藤嘉洋選手の方が上手かった。 アルバート=クラウス: 10月3日の準々決勝では佐藤嘉洋に判定勝ちしたものの、準決勝でアンディ・サワーに判定負け。 小比類巻貴之: 2月2日、K-1 WORLD MAX 2008で佐藤嘉洋と開幕戦出場を賭けて対戦予定であったが、自身の両膝靭帯損傷のため欠場となった。 日菜太: 試合後は「日本人最強決定戦をどこのリングでもいいから早くやりたい」と佐藤嘉洋との対戦をアピールした。 魔裟斗: 2008年10月1日、K-1 WORLD MAX 2008 FINALのトーナメント準決勝で、かねてから魔裟斗との対戦を熱望していた佐藤嘉洋と対戦。当時は「優勢選手に必ず10ポイントを付ける」というルールがあったにもかかわらず、優勢と判断された佐藤嘉洋に9ポイントしか付かなかったため、物議を醸した。 関根勤: 先見の明もあり、オランダで活躍していたものの日本では評価・知名度とも低かった佐藤嘉洋をK-1プロデューサー・谷川貞治に推薦した。 ブアカーオ=ポープラムック: 2013年10月6日、宮城県のゼビオアリーナで開催されたMAX MUAYTHAI WORLD CHAMPION 2013 JAPANで佐藤嘉洋と通算4度目の対戦を行い、判定勝ちを収めた。 武田幸三: 2010年5月16日、新日本キックボクシング協会「FINAL 武田幸三引退記念興行」の、メインイベントで佐藤嘉洋と引退エキシビションマッチで対戦した。 |
佐藤嘉洋の情報まとめ
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
佐藤 嘉洋(さとう よしひろ)さんの誕生日は1981年1月25日です。愛知出身の格闘家のようです。
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
人物、ファイトスタイルなどについてまとめました。引退、卒業、結婚、兄弟、家族に関する情報もありますね。佐藤嘉洋の現在の年齢は43歳のようです。
佐藤嘉洋のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)佐藤 嘉洋(さとう よしひろ、1981年1月25日 - )は、日本の元キックボクサー、ムエタイ選手。愛知県名古屋市出身。名古屋JKファクトリー所属。マネージメント先は株式会社ジャパン・スポーツ・マーケティング。元ISKAオリエンタル世界ライトミドル級王者。元WPKCムエタイ世界スーパーウェルター級王者。元WKAムエタイ世界ウェルター級王者。 K-1で、ブアカーオ・ポー.プラムックやアルバート・クラウスといった歴代王者に勝利した実績を持ち、ムエタイでも世界タイトルを獲得した。 格闘技を始めたきっかけは、ボクシングジムを見学する約束をしていた友人と直前に喧嘩となり、コテンパンにされたことだという。その後、自宅近くにあったキックボクシングジム『名古屋JKファクトリー』に入門し、グローブ空手選手権優勝を経て、1998年12月25日にプロデビュー、宮本勲と対戦し、判定勝ちを収めた。 2000年4月9日、ウェルター級転向後の初試合を發田隆治と対戦し、判定勝ち。 2000年11月26日、初めての外国人との対戦となったタノムサック・デーラッド(タイ)戦で1RKO負け。プロデビュー後の連勝は7で止まった。 2001年6月17日、全日本キックボクシング連盟移籍後の初試合で千葉友浩と対戦し、1RKO勝ち。 2001年11月17日、ミラン・ステビッチ(ユーゴスラビア)とWKAムエタイ世界ウェルター級タイトルマッチを行い、4RTKO勝ち。王座奪取成功。 2002年10月17日、K-1出場権獲得試合で清水貴彦に判定勝ち。しかし、K-1には出場出来なかった。 2003年12月6日、スーパーリーグでシェイン・チャップマン(ニュージーランド)と対戦。2R終了後、チャップマンの脛の負傷によりTKO勝ち(ドクターストップ)。スーパーリーグでの日本人初勝利となった。 2004年2月28日、ヤッシーン・ベンファッジ(フランス)の持つWPKC世界ムエタイスーパーウェルター級王座に挑戦。5Rにダウンを2回奪い逆転判定勝ち。王座奪取成功。 2004年4月17日、チャンプアック・チョー・シープラーサート(タイ)とWPMF世界ウェルター級タイトルマッチを行い、肘打ちによる流血のため、4RTKO負け。 2005年2月6日、全日本キックボクシング連盟興行で山本優弥と対戦し、1Rに2回、2Rに2回、3Rに1回、4Rに1回と計6回のダウンを奪い、ジャッジ3者とも50-39という大差の判定勝ち。佐藤は自分が思う強い選手との試合がなかなか組まれない当時の状況に不満を感じており、この試合が組まれた段階で全日本キックボクシング連盟退団を決意していた。 2日後の2月8日、全日本キックボクシング連盟および所属していた名古屋JKファクトリーを退団、人材派遣会社・フルキャストグループ傘下のフルキャストスポーツ(現:イーマ)所属となった。(後に名古屋JKファクトリーの小森次郎会長と和解し、再び同ジム所属となっている) 2005年5月4日、K-1 WORLD MAX 2005 世界一決定トーナメント開幕戦で、「日本人最後の大物」という触れ込みでK-1に初参戦。ウィリアム・ディンダー(オランダ)と対戦し、ローキックの連打を繰り出すなどして判定勝ち。 2005年10月5日、K-1 WORLD MAX 2005 世界王者対抗戦でガオグライ・ゲーンノラシン(タイ)と対戦。執拗なまでのローキック、膝蹴りの連打で判定勝利。勝利後、歓喜の余り号泣した。 2006年2月4日、K-1 WORLD MAX 2006 日本代表決定トーナメントに出場し、1回戦で新田明臣、準決勝で上山龍紀、決勝でTATSUJIを破り優勝。 2006年4月5日、K-1 WORLD MAX 2006 世界一決定トーナメント開幕戦に出場し、トーナメント1回戦でマイク・ザンビディス(ギリシャ)に判定勝ち。 2006年6月30日、K-1 WORLD MAX 2006 世界一決定トーナメント決勝戦に出場。トーナメント準々決勝でブアカーオ・ポー.プラムック(タイ)にパンチ勝負を挑んだのが裏目に出て2RKO負け。 2007年2月5日、K-1 WORLD MAX 2007 日本代表決定トーナメントに出場。1回戦の白須康仁、準決勝の尾崎圭司共に相手にペースを握らせず判定勝ち。決勝では前年と同じくTATSUJIと対戦、顔面への跳び膝蹴りでKO勝ちし、2連覇を達成。佐藤自身、K-1では初のKO勝利で優勝に花を添えた。 2007年6月28日、K-1 WORLD MAX 2007 世界一決定トーナメント開幕戦のトーナメント1回戦でデニス・シュナイドミラー(ドイツ)に判定勝ち。 2007年10月3日、K-1 WORLD MAX 2007 世界一決定トーナメント決勝戦のトーナメント準々決勝でアルバート・クラウス(オランダ)と再戦。後半、真っ向からの打ち合いを展開するが、判定負け。しかし、谷川貞治K-1イベントプロデューサーは「今までで一番いい試合だった。」と讃えた。 2008年2月2日、K-1 WORLD MAX 2008 〜日本代表決定トーナメント〜で小比類巻貴之と開幕戦出場を賭けて対戦予定であったが、小比類巻が靭帯損傷により欠場、代わりにブアカーオ・ポー.プラムックとのワンマッチに変更された。試合は延長まで縺れ込み、左フックでブアカーオをぐらつかせる場面もあったが、1-2の判定負け。 2008年4月9日、K-1 WORLD MAX 2008のトーナメント1回戦でムラット・ディレッキー(ベルギー)と対戦し、判定勝ち。 2008年7月7日、K-1 WORLD MAX 2008 FINAL8のトーナメント準々決勝でブアカーオ・ポー.プラムックと対戦。3Rに膝蹴りを効かせ、右ストレートでKO勝ち。3度目の対戦でブアカーオ越えを果たした。 2008年10月1日、K-1 WORLD MAX 2008 FINALのトーナメント準決勝で、以前から対戦を熱望していた魔裟斗と対戦。3Rに左フックでダウンを奪うも、判定負け。当時は「優勢選手に必ず10ポイントを付ける」というルールがあったにも関わらず、優勢と判断された佐藤嘉洋に9ポイントしか付かなかった為、これが不信と混乱を招いて、判定終了後に観客席からリング上に向かって物が投げ込むファンもいた。 試合数日後のインタビューでは、「KOで倒さないといけない、ということですね。息の根を止めるくらいに」「ルールを把握していなかった自分が悪い」としながらも、採点には納得出来ないとも述べた。 2008年12月31日、Dynamite!!に初出場し、アルトゥール・キシェンコ(ウクライナ)と対戦。0-2の判定負け。 2009年4月21日、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL16のトーナメント1回戦でドラゴ(アルメニア)と対戦。延長R判定負けを喫し、FINAL8進出はならなかった。 2009年7月13日、K-1 WORLD MAX 2009 World Championship Tournament FINAL8のリザーブファイトでユーリ・メスと対戦。互角の展開となり延長R2-1で判定勝ちを収めた。 2009年10月26日、K-1 WORLD MAX 2009 FINALのリザーブファイトで城戸康裕と対戦し、2Rに互いにダウンを一度ずつ奪い、右フックで2度目のダウンを奪ってKO勝ち。 2010年3月27日、K-1 WORLD MAX 2010 〜-70kg Japan Tournament〜でダニロ・ザノリニと対戦し、右膝蹴りでKO勝ち。当初はジョルジオ・ペトロシアンと対戦予定であったが、ペトロシアンの右拳負傷により対戦相手が変更となった。 2010年5月29日、IT'S SHOWTIMEでパジョンスック・ルークプラバーツと対戦し、0-5の判定負けを喫した。 2010年7月5日、K-1 WORLD MAX 2010 〜-70kg World Championship Tournament FINAL16〜で山本優弥と5年ぶりに再戦し、2-0の判定勝ち。後日、ジャッジの集計ミスが発覚し、3-0の判定勝ちへの訂正が発表された。 2010年8月14日、Krush.9で名城裕司と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。当初は山本優弥が出場予定であったが、急性虫垂炎および汎発性腹膜炎による欠場を受けての出場となった。 2010年11月8日、K-1 WORLD MAX 2010 FINALのトーナメント準々決勝でミハウ・グロガフスキー、準決勝でドラゴをそれぞれ判定で破り、自身初の決勝進出もジョルジオ・ペトロシアンに判定負け。準優勝に終わった。 2011年6月25日、K-1 WORLD MAX 2011 -63kg Japan Tournament FINALで3度目の対戦となるアルバート・クラウスに3R終盤にダウン寸前まで追い込み、2-0の判定勝ちを収めた。 2011年7月2日、名古屋市瑞穂区にキックボクシングフィットネスジム「名古屋JKフィットネス」をオープン。 2012年2月17日、Krush.16で、ファディ・メルザの保持するISKAオリエンタル世界ライトミドル級王座に挑戦。王者を終始圧倒し、ジャッジ3者とも50-45の判定で王座を奪取した。 2013年2月22日、SHOOT BOXING 2013 act.1でヘンリー・オプスタルと対戦し、判定勝ち。 2013年3月、『悩める男子に捧げる 1001のローキック』を出版。 2013年10月6日、MAX MUAYTHAI WORLD CHAMPION 2013 JAPANでブアカーオ・ポー.プラムックと通算4度目の対戦し、判定負け。ブアカーオとの対戦戦績を1勝3敗とした。 2015年1月18日、K-1 WORLD GP 2015 -60kg初代王座決定トーナメントのスーパーファイトにてサニー・ダールベックと対戦。延長RKO負けを喫した。 2015年5月4日、Krush.54にてジョーダン・ピケオーと対戦。2RKO負けを喫した。 2015年5月8日、同年の7月4日に開催されるK−1 WORLD GP −70kg初代王座決定トーナメントに出場し、1回戦でアルメン・ペトロシアンと再戦予定であったが、出場辞退を発表した。 2015年7月21日、記者会見で現役引退を発表した。 2017年3月に『日本キックボクシング選手協会』を設立。2018年3月から一般財団法人化して同協会の代表理事を務めている。 2022年10月28日、タイのラジャダムナン・スタジアムで開催された格闘技イベントRWSで、ブアカーオ・ポー.プラムック(現役時代3回対戦)とエキシビジョンマッチを行う。本気で戦うわけではないという契約の元で行われたエキシビションマッチだったが、ブアカーオが全力のフックで佐藤の顎を撃ち抜いて1RKOし、勝ち誇って手を上げた。その後、佐藤が『エキシビションにも関わらずブアカーオが全力で攻めてきた件』でRWS主催者に抗議。後日、佐藤には主催者から謝罪と違約金が支払われた。佐藤は「怒りが無いといえば嘘になる。だが怒りに任せて腹いせはしたくない」「倒される直前までブアカーオを信じていた」「実力で優る方が騙し討ちをする形ですから、私としては訳が分かりません」「4度も拳を合わせた戦友だから大丈夫だ、と信じていましたが違ったようです。世の中は、不条理なこともありますね。」「こういうことならせめて全力で戦いたかった」と話した。試合後、現役復帰することについては否定している。 人物名城大学附属高等学校を経て、名城大学商学部(現:経営学部)卒業。 現役引退後は地元愛知県で、整体院『ぶる〜と整体院』、キックボクシングフィットネスジム『名古屋JKF』を経営している。実家は喫茶店を営んでいる。 記者会見や試合後のマイクパフォーマンスでは、「愛を知る県、愛知県から来ました佐藤嘉洋です。」を常套句にしていて、得意技の一つである右ストレートに「愛知拳」と命名した。 2007年11月29日に同郷の一般人女性と入籍、同年12月9日に結婚披露宴を行い、2010年1月9日には、第一子となる男児が誕生。2014年7月1日に第二子となる女児が誕生した。 2005年頃から、オンライントレードによる株式投資を行っていたが、2006年1月のいわゆるライブドア・ショックによる株価暴落を受け、「今までの儲けが全部無くなってしまった。」とインタビューで語り話題となった。 サッカー選手の小野伸二とは、オランダのスーパーリーグ時代に交流があった(煽りVTRより)。また、『ぶる〜と整体院』に、Jリーグ・名古屋グランパスエイトに所属していた本田圭佑等のスポーツ選手やタレントが来店したり、実家の喫茶店には同じグランパスエイトの楢﨑正剛が来店している。 グラビアアイドルの夏川純とはお互いの家に泊まりに来るほど仲が良かったが、佐藤自身は熊田曜子のファンであった。 名古屋北リトルリーグ出身で、後輩に堂上兄弟がいる。 ファイトスタイルローキックとパンチ主体のファイトスタイルを持ち、同じ個所を執拗に攻め続けて相手選手にダメージを蓄積させる戦法を持つ。また、手数も多く、タレントの関根勤は佐藤の試合映像を分析し、「3秒に1回攻撃する男」と評している。リーチの長いローキックと前蹴り、顎やボディへのテンカオ(組み付かない形での膝蹴り)、そしてタイミングを合わせたパンチによって試合の流れを掴む効率の良い戦いを展開し、ダメージの蓄積により相手選手をTKOないしドクターストップに追い込む勝ち方も少なくない。 以前はKOに対する拘りを持っていなかったが、2006年9月の試合でアルバート・クラウスに敗北後、関係者やファンからだけでは無く家族からも「ファイトスタイルを変えた方がいい」とダメ出しをされ、ヤケ酒を呷るほど腐っていたという。しかし、ライバル視する魔裟斗がK-1 WORLD MAXを背負い体を張って戦う姿勢を見て、「これまでは勝てばいいと思ってやってきたが、KOも大事だなと思うようになってきた。もっと気持ちを前面に出していきたい。」と述べるなど、積極的にKOを狙う姿勢が見られる様になった。 アルバート・クラウスはアメリカ『MMAYOU』のインタビューの中で、「今までで一番苦労した対戦相手は?」と聞かれ佐藤の名前を挙げている。「(K-1 WORLD MAX)2007年のトーナメントの佐藤は普通じゃなかった。まるでマシーンと戦っている様だった。」と述べている。 2024/06/25 04:20更新
|
satou yoshihiro
佐藤嘉洋と同じ誕生日1月25日生まれ、同じ愛知出身の人
TOPニュース
Hey! Say! JUMPの有岡大貴と松岡茉優が結婚を発表
NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に
King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表
平野紫耀、神宮寺勇太、岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。
元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕
佐藤嘉洋と近い名前の人
話題のアホネイター
![佐藤嘉洋](https://if2.info/geinou/logo/佐藤嘉洋.gif)
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「佐藤嘉洋」を素材として二次利用しています。