北勝海信芳の情報(ほくとうみのぶよし) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
北勝海 信芳さんについて調べます
■名前・氏名 |
北勝海信芳と関係のある人
北の富士勝昭: なお、北の富士は、栃ノ海死去の5日前である2021年1月場所の千秋楽に自身の弟子である八角理事長(北勝海信芳)を表敬訪問した際に、協会執行部の一員で栃ノ海の弟子であり現在の春日野親方である栃乃和歌清隆から栃ノ海が入院しているのと、病状は聞いていたそうである。 千代の富士貢: 8歳年下である弟弟子・北勝海信芳との稽古は毎回壮絶だったという。 大乃国康: 北海道・十勝管内の柔道関係者の中では、1年後輩の保志(のち第61代横綱・北勝海信芳、広尾郡広尾町出身)と共に名前が知られていた。 安念山治: それでも当時は横綱が千代の富士貢しか存在せず、協会が一人横綱状態を早期に解決したかったことと、同時期に北勝海信芳の大関昇進が決定的で、北尾を大関に据え置くと「1横綱6大関」という非常にバランスの悪い番付となるため、北尾の横綱昇進が決定した。 孝乃富士忠雄: 若手の頃は同部屋同期入門の北勝海信芳や、双羽黒(北尾光司)、寺尾常史、琴ヶ梅剛史、小錦八十吉らとともに「花のサンパチ組」と称された。 |
北勝海信芳の情報まとめ
北勝海 信芳(ほくとうみ のぶよし)さんの誕生日は1963年6月22日です。北海道出身の相撲のようです。
現在、母親、卒業、兄弟、引退、事件、家族、結婚、離婚、再婚、姉妹に関する情報もありますね。今年の情報もありました。北勝海信芳の現在の年齢は61歳のようです。
北勝海信芳のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)北勝海 信芳(ほくとうみ のぶよし、1963年6月22日 - )は、北海道広尾郡広尾町出身で九重部屋に所属した元大相撲力士。第61代横綱。本名は保志 信芳(ほし のぶよし)。現役時代の体格は身長181cm、体重151kg。得意技は押し、左四つ、寄り。愛称は苗字を捩った「ポチ」、および海外公演で付けられた「ブルドッグ」。「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)の一人。血液型はA型。 現在は、年寄・ 小学生時代に、既に北の富士から九重部屋への勧誘を受けていた。 1977年におじの勤務先の社長が13代井筒(第52代横綱・北の富士)と知り合いだったことが縁で勧誘されるが、13代井筒は以前勧誘したことがあるのを覚えていなかった。ちょうど保志は柔道で名を上げて他の相撲部屋にも勧誘されていたが、母親が電話で13代井筒に「最初に来てくれたあの部屋に行きたい」という保志の意向を伝えた。翌年(1978年)に東京に転校して以来、12代九重(井筒から名跡変更)のもとで稽古を積んでいる。 中学卒業の1979年(昭和54年)3月場所に初土俵。同期生には横綱・双羽黒や関脇・琴ヶ梅がいるほか、のちにプロレスラーとなった安田忠夫(小結・孝乃富士)とは同期・同部屋・同学年の関係である。幕下に上がると部屋の横綱・千代の富士の付け人を命じられ、千代の富士との激しい稽古を重ねて強くなった。柔道経験者ながらも前に出る取り口に徹していた。 1983年(昭和58年)3月場所、19歳で新十両。北勝海と同じ北海道・十勝地方(河西郡芽室町)出身であり、中学時代には地方に名の知れた柔道選手でもあった、一学年齢上の大乃国がこの場所新入幕で、同郷のライバルといわれ始める。 1983年9月場所に20歳で新入幕。1985年(昭和60年)から前頭上位・三役の地位で好成績が目立ち始め、当時「将来の大関候補」とも呼ばれている。十両から関脇までは同期生のなかで一番早く昇進した。 1986年(昭和61年)3月場所、兄弟子の横綱・千代の富士が3日目から途中休場するが、それに奮起した保志が13勝2敗で自身念願の幕内初優勝を果たした(当時の5大関総撃破)。なお保志の優勝は史上初の四股名の読みが二文字の力士の幕内優勝であり2022年の九州場所で阿炎政虎が優勝するまでは唯一の例であった。その次の5月場所は11勝4敗で、関脇の地位で3場所合計32勝を挙げたが、当時大関は5人も居たことや終盤優勝争いから完全脱落したことなどから不運にも見送られる。しかし翌7月場所も12勝3敗の好成績により、関脇で3場所計36勝で異論無しに当場所後ようやく大関昇進となった(尚この7月場所は北尾〈のち双羽黒〉の横綱昇進も懸かっており、その北尾が横綱昇進を決め大関が1人減ったことから「6大関」は実現しなかった)。ちなみに、この1986年の九重部屋の新年会では「関脇維持では格好悪い」という事で言い出して大関を目標としていたが、それが達成された形となった。 初土俵から本名の「保志」で相撲をとり続けていたため本人曰く「志を保つという意味もある。」とも発言していた。大関昇進が決まると、師匠は四股名を考えたが、出身地の「 大関昇進後、大関4場所目の1987年(昭和62年)3月場所には、上位陣総崩れの中12勝3敗の成績ながらも6場所ぶり2回目の幕内優勝となる。自身初の綱獲りだった翌5月場所は、12日目迄大関(当時)大乃国と共に12戦全勝だったが、13日目初対戦の平幕・両国に苦杯を喫し1敗に後退。千秋楽で14戦全勝の大乃国と対戦するも、結局寄り倒されて13勝2敗と優勝次点の成績に終わる。15戦全勝優勝の大乃国とは2勝の差があり、千秋楽の後に日本相撲協会から横綱審議委員会へ諮問するとの公表も「横綱昇進は微妙」と報道された。 しかし、それまでの北勝海の稽古熱心な所と品格の良さが、横審委員会から高評価を得たことなどにより、満場一致で同場所後に大関5場所目での横綱昇進が決定した(同時に関脇小錦も大関に昇進となる)。横綱昇進伝達式では「横綱の名をけがさぬよう、これからも一生懸命稽古し、努力します」と口上を述べた。 横綱土俵入りは兄弟子・千代の富士の指導の下、雲龍型を選択。新横綱の1987年7月場所は11勝4敗と優勝を逃したが、翌9月場所は14勝1敗で横綱初優勝、通算3回目の優勝を果たした。翌11月場所では13勝2敗の優勝次点の成績ながらも、自身初の年間最多勝に輝いた。しかし1988年(昭和63年)3月場所の千秋楽では、横綱大乃国に本割と優勝決定戦で連敗、逆転で優勝を奪われた。同年5月場所も終盤まで優勝を争ったものの、14日目に大関(当時)旭富士との取組前、支度部屋での準備運動で持病の腰痛を悪化させてしまい、翌日の千秋楽は自身初めての不戦敗・休場となる。次の7月場所からは腰痛が回復せず3場所連続全休となった。 再起をかけた翌1989年(平成元年)1月場所は、直前に発熱も重なり出場が危ぶまれたが、昭和天皇崩御で初日が1日遅れたこともあって回復が初日に間に合い出場。初日から自身初の14連勝を達成、千秋楽に1敗の旭富士に敗れ自身初の全勝優勝は逸したが、14勝1敗同士の優勝決定戦でその旭富士に勝利し、8場所ぶり4回目の幕内優勝を果たして完全復活に嬉し涙を浮かべた。これが平成初の幕内最高優勝となった。また、同年5月場所でも13勝2敗同士の優勝決定戦に進出、再び旭富士を倒して5回目の幕内優勝を達成。さらに同7月場所では、12勝3敗の成績で千代の富士と史上初の同部屋横綱同士の優勝決定戦で対戦。敗れはしたものの、その後の相撲でも横綱として充分な強さを発揮して優勝回数も多く重ねていった。また1989年11月場所は2場所連続で11勝4敗に留まったが、2年ぶり2度目の年間最多勝を受賞する。 1990年(平成2年)3月場所の千秋楽は、横綱北勝海、大関小錦、関脇霧島(場所後大関昇進)の3人の優勝決定巴戦となった。最初の北勝海対小錦戦は小錦が勝利。次の小錦対霧島戦は霧島が勝って小錦の優勝ならず。霧島は次の北勝海戦に勝てば霧島の幕内初優勝だったが、北勝海が勝ってまだ対戦は続く。そして次の小錦戦は北勝海が下手投げで下して2連勝、ようやく北勝海が5場所振り6回目の幕内優勝が決まった。何と三つ巴の対戦が四番も続くという大熱戦だった。しかし、北勝海の持病である腰痛の影響は大きく、次の5月場所以降は10勝前後で終わる事が多く、雲行きが怪しくなった。水中ウォーキングやマイナス190度の冷凍室に入る等さまざまな治療やリハビリを試しつつ、横綱としての懸命の土俵が続いていた。それでも、1990年9月場所は千秋楽にて13勝1敗の相星決戦で、当時新横綱だった旭富士を下し、7回目の幕内優勝を成し遂げている。 なお北勝海曰く、リハビリには1日8時間を要したといい、現役引退後の2017年9月25日に行われた横綱審議委員会の定例会合では宮田亮平委員が、「リハビリの方が稽古よりキツイ面もある」と力士たちに厳しいリハビリを積んで万全の状態で出場してほしいという考えから、その事実を知っていた上で北勝海に敢えて「横綱時代に3場所連続で休んだときにどれくらいリハビリをされましたか?」と質問している。特に冷凍室治療には150万円も診療代を使用しており、それだけでなく辛さも物凄かったため、その4年後には「もう一度、あの厳しいリハビリに耐えられる自信がない」と冷凍室治療を諦めて引退を決意したほどである。 1991年(平成3年)3月場所は、14日目に大乃国と優勝争いトップの12勝1敗同士の対決で、北勝海が寄り倒してひとり1敗を保持したものの、この一番で左膝を土俵の俵に強かに打って負傷してしまう。翌日千秋楽も北勝海の左膝は激痛で、まともに相撲が取れない状態だったが、隠し通しつつ横綱土俵入り及び三役揃い踏みを難なく務めあげた。この場所千秋楽結びの一番は横綱同士の北勝海対旭富士戦で、その結び前の一番は横綱大乃国対大関霧島戦だった。この場所の霧島は14日目で4勝10敗と負け越し、誰もがこの対戦は前日まで12勝2敗の大乃国が有利と見られ、千秋楽本割で大乃国が勝ち北勝海が負けると両者13勝2敗同士の優勝決定戦となっていた。ところが大乃国は過去幕内での霧島戦が6勝7敗の苦手とし、さらに久々の優勝のプレッシャーもあったのか、不調の霧島に大相撲の末まさかの敗戦で12勝3敗となり、この時点で13勝1敗だった北勝海の3場所ぶり通算8回目の幕内優勝が決まったのである。その後北勝海は結びの一番で、痛めた左膝を庇いながら旭富士に呆気なく押し出されて完敗。大阪府立体育会館の観客や関係者達も大きくどよめいた一番だったが、これが北勝海の最後の優勝となった(北勝海が膝をケガしている事を対戦相手の旭富士は分かっていたが、大乃国と霧島は全く知らなかったという)。 北勝海はこの膝のケガをきっかけに、休場が多くなっていった。当時漫画雑誌で「実力的に大関候補でないのは北勝海位ですかね。」と揶揄された他やくみつるにも再三「ねばり腰だけは一流。」などと揶揄されていた。「当時は4横綱が番付に名を連ねていたが、5月場所の千代の富士の引退を皮切りに、次の7月場所では大乃国、翌1992年(平成4年)1月場所では旭富士も相次いで土俵を去り、同年3月にはついに北勝海のみの一人横綱となった。3月場所に再起を賭けて出場したものの、北勝海らしい相撲は全く見られず、初日から水戸泉、久島海に2連敗してそのまま途中休場した。北勝海は横綱の責任感からぎりぎりまで復活を目指したが、度重なるケガは殆ど回復しないために同年5月場所直前の5月8日、番付に名を残しながら28歳10か月の若さで現役引退を表明した(横綱で廃業・死亡者を除けば栃ノ海・大乃国に次ぐ史上3位の早齢だった)。これにより、わずか1年の間に4人の横綱が全ていなくなってしまった。なお、北勝海の横綱在位数は29場所(番付上は30場所)だった。また北勝海の引退により昭和時代に横綱に昇進した力士は全員引退となった。さらに大鵬が新横綱だった1961年11月場所から30年以上続いた北海道出身力士の横綱が途絶えた。 その後、1992年5月場所から5場所(番付上では1992年7月から4場所)の間横綱空位(1931年〈昭和6年〉5月〜1932年〈昭和7年〉10月以来60年ぶり2例目)が続いたが、翌1993年(平成5年)1月場所後に曙がようやく横綱昇進を果たした。その直後北勝海の引退相撲が行われ、最後の横綱土俵入りには、新横綱の曙が太刀持ちを務めた(露払いは当時大関の小錦)。 引退相撲では当時異例とも言える、北勝海最後の取組が行われ、その対戦相手は同じ「花のサンパチ組」の寺尾だった。北勝海が最後の場所となった1992年3月場所、3日目の対戦が寺尾と決まっていたが、北勝海は不戦敗となり5月場所前に引退したため、彼自身寺尾と対戦出来なかったことが心残りだったという。そして彼は、引退相撲で寺尾と最後の対戦をしたいと申し出ると、寺尾は快く承諾。そしてその取組では、寺尾が北勝海を寄り切って勝利したが、勝負が決まった瞬間寺尾は北勝海に「お疲れ様」と労いの言葉を贈った。 素質はそれほどなかったが、非常に稽古熱心であり特に千代の富士との稽古は凄まじいものだった。その稽古熱心さから雑用を免除されており、チャンコ番をさせた兄弟子が千代の富士に叱られたという逸話も聞かれる。本人も千代の富士がいなければ綱などとても取れなかったという。横綱経験者としては自身が最多受賞である三賞11回の記録や甘めの横綱昇進などを引き合いに出して「それだけ特別に評価されてきたという証拠」という趣旨の主張を自伝に記述している。さらに師匠の九重は「千代の富士が大横綱になったことよりも、北勝海が横綱に昇進した事が一番の驚きだった」とも語っている。特に北勝海は幕内昇進後、千代の富士が休場した場所や3月場所には滅法強く、その時期での幕内優勝が多かった。髪の量は多い方だったが、頭から当たって突き押しで相撲を取るため、引退直前には額の生え際の毛は擦り切れかけていた。エメラルドグリーンの廻しを主に使用していたが、横綱昇進後は赤紫色の締め込みも見られた。 また北勝海は、もともとは十両に昇進することを最大の目標としていた、とも語っている。富士昇(北天佑の実弟)事件を特集した相撲雑誌などに、将来の目標を「横綱」とした富士昇と対比する形で発言が引用掲載されている。当時、大関栃光に外見も取り口も似ているといわれ、師匠の九重も栃光の本を渡し読むように助言したという。現役時代より現在に至るまで後援会長は鈴木宗男が務めている。媒酌人は浅田満が務めた。化粧廻しも浅田が経営していたハンナンから贈られたことがある。 なお、1991年7月場所千秋楽の旭富士対北勝海戦を最後に、日本出身横綱同士の本場所での対戦は行われていない(2019年〈平成31年〉時点)。 引退と同時に横綱5年特権の一代年寄・北勝海を襲名。これは、同じ九重部屋所属の元・島錦の7代八角から定年後の年寄名跡譲渡の確約があったためであり、先代八角が定年退職した1993年9月場所後に8代八角を襲名した。同年10月に八角部屋を立ち上げ北勝力、海鵬ら関取9人を出している。また弟子の数が多く、ことに関取予備軍である幕下力士が多く所属しており、スカウト活動と育成の手腕に優れている。一方、「師匠が行ってきた稽古の3分の1で横綱になれる大器」「大関なんか、やる気になったら1年ですよ」「あれを大関にできなかったら、八角親方、あんたの責任だよって、僕は言ってるんです」と北の富士に才能を評価されていた隠岐の海は関脇止まりで引退しており、ある意味では育成に失敗している。2000年(平成12年)から2期4年監事(現在の副理事)を務めた。 広報部長としては2016年のインタビューで師匠・北の富士から「八角が広報部長の時ぐらいからでしょう。ファン拡大に本腰を入れ始めたのは。彼にそんな才覚があるとは思わなかったな」とその手腕を評価されるなどしている。 2010年に役員待遇に就任したが、2011年の大相撲八百長問題で年寄谷川(元・海鵬)と保志光の関与が発覚し、谷川は解雇、保志光も引退し、これに伴う責任として役員待遇を辞任した。 2012年の役員改選で理事に当選し、広報部長、指導普及部長、危機管理部長、博物館運営委員に就任。同年5月場所にて優勝争いの先頭を並走した栃煌山の千秋楽の対戦相手に決まっていた琴欧洲が当日になって休場届を出し不戦勝を与えることがわかった際には「優勝に関わる相撲で大関が休場してこんな形になっては観客に申し訳ない、昨晩のうちにわかっていれば割り返しで対応できたのに、今日になってからでは遅過ぎる。こんなことでは本人も師匠も自覚が足りないと言われても仕方がない。協会の危機管理能力も問われかねない事態だ」と苦言を呈していた。実際栃煌山不戦勝の場内放送から勝ち名乗りまでの間国技館内はブーイングの嵐だった。 NHKの大相撲中継では、2010年まで通常横綱経験者は行わない午後1時から2時30分までの幕下以下の取組の解説を1場所に1度担当した。また、サンデースポーツでは「八角親方の金言苦言」というコーナーを持ち、実演を交えた解説を行っている。近年の力士のぶつかり稽古の不足に警鐘を鳴らしており、「(胸を出してもらえるのだから)ありがたくぶつかれ」、「(きつい稽古も)毎日やってると普通になってくる。普通になるまでやらなくちゃいけない」などと発言している。 2012年9月26日、日馬富士の横綱昇進の伝達式では、協会理事として使者を務めた(日馬富士と同じ一門の玉垣審判委員が同行)。また、2014年3月26日の鶴竜の横綱昇進伝達式でも、同様に協会理事として使者を務めた(鶴竜と同じ一門の湊審判委員が同行)。 2014年の役員改選と同時に行われた新たな職務分掌では、理事の序列2位である事業部長の役職を与えられた。 2015年11月20日に北の湖敏満(日本相撲協会理事長)が死去したことにより、理事長代行に就任した。代行業務としてはこれより以前の同年7月場所千秋楽以降、北の湖の体調不良のため協会御挨拶と表彰式を代理で務めていた。北の湖死去直後の11月場所千秋楽の協会御挨拶では訃報に触れず、土俵優先を貫く故人の遺志に従って「平成27年11月22日、公益財団法人日本相撲協会理事長、北の湖敏満代読、八角信芳」と読み上げた。 2015年12月18日、日本相撲協会理事会にて第13代理事長に選出された。高砂一門からは初の理事長となった。好角家で知られる漫画家のやくみつるはその十数年前、冗談半分で「親方が理事長になったらついていきます」とヨイショしたが、現役時代に横綱として突出した存在でもなかった八角に、当時は理事長の目があるとは考えられなかったと後に振り返っている。やくみつるは2016年の雑誌の記事で「今となっては、もっと真剣に言っておくべきだったと悔やんでおります(笑)」と語っている。 2016年3月28日、日本相撲協会理事会で理事長に再選された(実質的な理事長1期目)。貴乃花理事(元横綱)との一騎打ちとなり、理事による多数決を6対2で制した。堅実な運営が幅広く支持を集めた。 同年7月31日、同じ九重部屋の兄弟子だった13代九重(第58代横綱・千代の富士)が、膵臓癌により61歳で逝去。訃報の直後はショックが大きくコメント出来ず、翌8月1日記者陣に対して「(体調が)悪いと聞いていたが、現役時から絶対に強い、負けない、必ず治るだろうと思っていた。まだ信じられない」と驚きを隠せず「兄弟子でしたが、もう1人の親方という感じだった。『本当にお疲れさまでした』と言いたい」と目を潤ませていた。 広報部長や事業部長など豊富な職務経験や幅広い視野を生かし、理事長としてさまざまな改革やファンサービスを実行している。 2017年1月にさまざまな災害の被災地支援などを目的にする「社会貢献部」を設置。同年7月の名古屋場所では九州北部豪雨の被災地支援として会場内に募金箱を設置し「少しでもお役に立てれば」と話した。 同年11月場所千秋楽、場所中に発覚してから角界を揺るがしていた日馬富士の貴ノ岩に対する暴行事件に関して「横綱・日馬富士の問題により皆様には多大なるご心配、ご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げます」と千秋楽恒例の協会あいさつで述べた。 2018年2月2日に行われた理事選挙では11人が立候補した中で11票を獲得して当選し、理事長続投が決定。 2018年9月の秋場所では、国技館内に「キッズルーム」を新設し、家族連れの来場者が観戦を一層楽しめるように配慮した。 平成最後の本場所となった2019年3月場所、初日恒例の協会挨拶で館内のファンに向けて「平成最後」の文言を入れた。 令和最初の本場所となった2019年5月場所では、初日恒例の協会挨拶で「横綱白鵬の休場は誠に遺憾ではございます」としつつも「新しい時代にふさわしい白熱した相撲で、皆さまのご期待にお応えできることと存じます」と「新しい時代」を強調した。 同場所後には諮問機関として「大相撲の継承発展を考える有識者会議」を発足させた。メンバーはプロ野球ソフトバンクの王貞治球団会長や女優の紺野美沙子ら8人で、国際化が進む日本社会における国技発展などについて提言を受けることにした。 同年12月13日に、13代東関(元幕内・潮丸)が血管肉腫のため41歳で逝去。高砂一門葬の葬儀委員長としての弔辞では「明るく、誠実な人柄から、弟子には慕われ、先輩親方からは大変かわいがられました。私もそういった人柄にほれ、一回りも若いあなたにいろいろな相談をしてきました。そのたびに、あなたの言葉に助けられてきました。本当に素晴らしい人でした」「自分の体の一部を失うように感じています。41歳という若さで旅立たなければならないということに、運命の残酷さを痛感しています」と生前の故人との思い出や親交について明かした。2020年1月31日の協会理事会で16代振分(元小結・高見盛)が東関部屋の継承者として承認されるまでの間は、高砂一門の長として東関部屋を八角部屋に一時預かりをして責任者となった。 2020年3月23日、理事会にて全会一致で理事長に再選され、記者会見で「伝統を守っていくことが一番の課題だが、まず当面の最重要課題は新型コロナウイルスへの対応。全協会員が結束を固め、また外部の方々のご指導を 2021年1月場所初日の協会挨拶では「世界中に感動を届けることができるよう努力」と述べ、白鵬・鶴竜の両横綱の休場を謝罪した。取組後の取材で「緊急事態宣言になってるけど開催して、(昨年の)春場所でも言ったけど、相撲を取るだけではない。祈願してやってるわけだから。そういう思いを含めていい相撲をしないといけないと思う」と開催の意義を説明していた。 同年7月3日、7月場所の安全を祈願する土俵祭が行われたが、大雨による新幹線の運転見合わせにより足止めを受けて欠席となった。 2022年3月26日、理事長再選が確実であることが関係者の話で分かり、実質的な理事長4期目に入ることとなった。 同年7月24日、協会は部屋の北勝富士が新型コロナウイルスに感染したと発表した。部屋の力士で感染発覚後に取組があった隠岐の海は休場。濃厚接触者に該当する自身も休場することになり、八角理事長の代行は陸奥事業部長(元大関・霧島)が務めることになった。千秋楽に理事長が表彰式を欠席することは異常事態と言える。 9月2日、両国国技館で一般公開となる還暦土俵入りが行われた。太刀持ちは君ヶ濱(元関脇・隠岐の海)、露払いは北勝富士。3ヶ月ほど前にこの日の披露が決まったが、1ヶ月ほど前に腰痛を発症し、日課の散歩もままならず、体調にだけは留意してこの日を迎えた。入場の際に館内から「北勝海!」と声が上がり、これには八角も「ジーンと来ました。現役の頃を思い出しました」と感慨深げであった。せり上がりを終えた後の2回目の四股の際に、少し足を滑らせ「1回目にうまくいって、その気になって2回目は滑って慌てた」と苦笑いも浮かべた。支度部屋で関係者と記念撮影などで過ごした後、報道対応した八角は、現役時の師匠だったNHK相撲解説者の北の富士について言及。八角部屋創設から30年の節目だが「周りが本当に応援してくれたからこそ、ここまでできた。最初は北の富士親方の関係者、知り合いがほとんど」と、北の富士の後援者が、そのまま八角親方を支援する形で引き継がれたことを説明。そして北の富士について「先日、退院しましたよ」と近況を語っていた。 2024年1月26日、理事候補選に無投票当選。同年3月25日の評議員会で理事就任が正式に承認された後、同日開催された理事会で理事長続投が正式に承認された。 同年11月12日、かつての師匠・北の富士(第52代横綱)が82歳で病死。9日後の11月21日に記者陣へ対し、晩年の元師匠は入退院の繰り返しだった事を明かしつつ、「いつも楽しい師匠で、盛り上げてくれた。怒られた事は殆ど無く、褒めて良い方向に導いてくれた。技術的に言われたりする事も無かった。そんな親方だったから、横綱を2人も誕生させたと思う」と時折り笑みを浮かべながら、現役時代を懐古していた。 通算成績:591勝286敗109休 勝率.674 幕内成績:465勝206敗109休 勝率.693 大関成績:56勝19敗 勝率.747 横綱成績:250勝76敗109休 勝率.767 幕内在位:52場所(番付上では53場所) 横綱在位:29場所(番付上では30場所) 大関在位:5場所 三役在位:13場所(関脇9場所、小結4場所) 連勝記録:20(1990年9月場所2日目 - 1990年11月場所6日目) 年間最多勝:1987年(74勝16敗)、1989年(72勝18敗) 連続6場所勝利:75(1987年5月場所 - 1988年3月場所) 通算(幕内)連続勝ち越し記録:18場所(1985年7月場所 - 1988年5月場所) 幕内連続2桁勝利記録:11場所(1989年1月場所 - 1990年9月場所) 幕内最高優勝:8回(1986年3月場所、1987年3月場所、1987年9月場所、1989年1月場所、1989年5月場所、1990年3月場所、1990年9月場所、1991年3月場所) 十両優勝:1回(1983年7月場所) 幕下優勝:1回(1983年1月場所) 序二段優勝:1回(1979年7月場所) 三賞: 11回(横綱経験者としては歴代1位)
敢闘賞:3回(1983年11月場所、1984年1月場所、1986年5月場所) 技能賞:5回(1984年11月場所、1985年7月場所、1985年11月場所、1986年1月場所、1986年3月場所) 金星: 1個(北の湖1個) 他に優勝決定戦(巴戦は1990年3月場所)で旭富士に2勝、霧島に1勝、小錦に1勝1敗、大乃国と千代の富士(唯一の同部屋横綱決戦)に各1敗がある。 (カッコ内は勝敗数の中に占める不戦勝・不戦敗の数) 保志 信芳(1979年3月場所 - 1980年1月場所、1980年5月場所 - 1985年9月場所) 富士若 信芳(1980年3月場所) 保志 延芳(1985年11月場所 - 1986年7月場所) 北勝海 信芳(1986年9月場所 - 1992年5月場所) 特別に大の苦手な力士はおらず、現役時代に対戦した横綱・大関陣とはほぼ互角に渡り合い、下位力士で苦手とする力士もいなかった。 第55代横綱・北の湖に対しては既に全盛期を過ぎていた事もあって、3勝2敗と1つの差で勝ち越している。 兄弟子・千代の富士の「天敵」と言われた第59代横綱・隆の里に対しては5勝5敗と全くの互角であり、1985年1月場所以降は4連勝していた。1986年1月場所初日に当時関脇・保志の四股名で対戦、肩透かしで敗れた隆の里は、この取組を最後に現役引退となった。 北勝海と同じ「花のサンパチ組」だった第60代横綱・双羽黒に対しては、8勝9敗と1つの差で負け越しのほぼ互角だった。 北勝海と同じ北海道十勝地方出身で1学年上の第62代横綱・大乃国に対しては、優勝決定戦を含めると14勝21敗と一番の苦手としており(1つ不戦敗有り)、特に1985年3月場所から1986年1月場所まで6連敗を喫するなど圧倒的な差をつけられていた。だが、北勝海が横綱昇進した1987年7月場所以降は決定戦を含め8勝6敗(1不戦敗)と力関係が逆転し、さらに1989年1月場所以降の成績は6勝2敗と大きく勝ち越している。 第63代横綱・旭富士に対しては、優勝決定戦を含めると23勝19敗と僅かの差で勝ち越している。 のち第64代横綱・曙に対しては4回対戦し、2勝2敗と全く互角の成績だった。 のち第65代横綱・貴乃花(当時貴花田)は2回のみ対戦し、初対戦は敗れるも2回目の取組では勝利し1勝1敗と互角の成績。 のち第66代横綱・若乃花(当時若花田)も2回のみ対戦し、2戦2勝だった。 先輩大関・琴風に対しては5勝4敗とほぼ互角だった。琴風に対しては1敗 → 3連勝 → 3連敗 → 2連勝とほぼ交互の星取りだった。 先輩大関・若嶋津に対しては13勝9敗と勝ち越していた。1984年11月場所時点では3勝4敗と負け越していたが、1985年以降は5月場所から11月場所まで4連勝をするなど10勝5敗と得意としていた。 先輩大関・朝潮に対しては15勝11敗と4つの差で勝ち越している。初顔から4連敗を喫するなど、初顔〜1985年の対戦成績は4勝7敗と苦手としていたが、1986年以降の成績は11勝4敗とカモにしており、北勝海の大関獲り以降、両者の力関係が逆転したことがわかる。 先輩大関・北天佑に対しては17勝18敗と1つの差で負け越しのほぼ互角。かつて大関昇進前の1985年5月場所から1986年1月場所にかけて5連敗するなど苦手としていたが、横綱昇進以降は1989年5月場所から1990年3月場所まで6連勝するなど10勝5敗と力関係が逆転している。 横綱双羽黒らと同じ「花のサンパチ組」の後輩大関・小錦に対しても、優勝決定巴戦を含めると16勝17敗と1つの差で負け越し(1つ不戦勝有り)。1985年5月場所から1986年11月場所までは6連敗を喫していたが、その後の1987年1月場所から1987年11月場所まで6連勝をするなどほぼ互角だった事がわかる。 後輩大関・霧島に対しては優勝決定巴戦を含むと11勝6敗と得意にしていた。初顔から7連勝をしておりカモとしている時期もあったが、霧島が三役に定着した後は4勝6敗と苦手としていた。 1990年3月場所での優勝決定巴戦。最初の小錦戦で負けたものの、その後霧島戦と小錦戦で連勝してようやく優勝を決めた。「今迄の相撲人生の中で一番苦しい優勝だった。もしあと一戦あったら腰が持たなかったかもしれない」と語った。 復活優勝の1989年1月場所、北勝海自身初の全勝優勝がかかった千秋楽本割・結びの一番では、旭富士に完敗し14勝1敗同士の優勝決定戦へ。「あの時(1988年3月場所)のことが頭を過ぎった」というが、「土俵に上がれるだけで幸せなんだから」と気持ちを切り替えて決定戦で旭富士を下した。8場所振り4回目の幕内優勝に目に北勝海は涙を浮かべながら、「まさか優勝するとは夢にも思わなかった。治療先では会う人全てがとても良くしてくれたから、自分も苦しい治療やリハビリを乗り切れたのだと思う。とにかく復活することが出来て本当に嬉しい。今までに会った人に感謝したい」と喜びを語る前に治療時にお世話になった人たちへのお礼の言葉を述べた。また、この場所前リハビリから帰ってきた北勝海を見た師匠の12代九重は「以前より胸板が厚くなった。本気でリハビリに取り組んでいたんだ」と喜んだという。北勝海の人柄や真面目さを感じさせるエピソードである。 3月場所にめっぽう強く、自身の幕内優勝8回のうち半数の4回は3月場所で記録したものである(その他優勝同点も1回)。兄弟子の横綱・千代の富士は、幕内優勝31回もしながら、3月場所の優勝はわずか3回に留まった。さらに千代の富士が休場した場所で、弟弟子の北勝海が優勝するというケースも過去に5回もあった(1986年3月場所、1987年9月場所、1989年5月場所、1990年9月場所、1991年3月場所)。他の3回も千代の富士が後半戦優勝争いから脱落した時(1987年3月場所・11勝4敗、1989年1月場所・11勝4敗、1990年3月場所・10勝5敗)の優勝である。 初優勝した1986年3月場所、北勝海(当時は保志)は関脇以下の力士としては初めて「1場所5大関撃破」を達成している。翌年の3月場所は益荒雄が小結で同じ記録を賭けて当時大関の北勝海と対戦。北勝海は益荒雄を下し同じ記録達成は阻止した。この場所北勝海は12勝3敗で2度目の優勝を果たした。 1988年3月場所、横綱・大乃国に逆転で幕内優勝をさらわれた際は大きなショックを受け、「あの悔しさは一生忘れない」と語っていた。屈辱を胸に秘め臨んだ翌5月場所だったが、千秋楽の大乃国戦で初めての不戦敗・休場となり、さらに7月場所から3場所も続いて全休。北勝海のプライドは相当に切り裂かれていた。復活優勝した1989年1月場所では、14日目に大乃国を生涯最高の相撲で一直線で押し出した。さらに同年9月場所の千秋楽の結びの一番では、7勝7敗と勝ち越しをかけた大乃国と対戦するも容赦なくあっさり下し、これで大乃国は7勝8敗とついに負け越してしまった。1988年3月場所で「これ以上にない屈辱を受けた」という北勝海が、大乃国に対して「15日制が定着してからは初めての横綱皆勤負け越し」というそれ以上の屈辱を与える形でリベンジした。特に1988年7月・9月・11月場所の連続全休は本人にとっても衝撃だったが、それによって人間的に大きくなったと、2002年の記者クラブ担当時代に語っており、講演でも逆転優勝されたこの場所のことで1時間は持つという。 1991年1月場所前での稽古総見では曙が初参加。旭富士や霧島などの上位陣に稽古を頼むも相手にされない。しかし北勝海は曙と積極的に稽古し、羽目板にぶつけられることもしばしばだった。その1月場所では曙の突っ張りをかわし、腰についた北勝海が切り返しで圧勝。「稽古場ではあんなのなかったのに」と落胆する曙。北勝海は「曙と稽古しておいて良かった。(稽古を)してなければ強さもわからなかったし、やり辛かった。だてに羽目板にぶつけられていたわけじゃないよ」と振り返る。 現役引退後、解説者として出演した「大相撲ダイジェスト」で、霧島の取り組みを解説する際には「大関・霧島関」と敬称付きで呼んでいた。(霧島は北勝海より4歳年上で、初土俵も4年先輩の為。北勝海自身が28歳で引退した為、引退時点では霧島以外にも北勝海より年上の現役力士が多くいた) 同じ花のサンパチ組としてしのぎを削った元関脇・寺尾の錣山親方が死去した際は「回転の良い突っ張りからの真っ向勝負で、何度か苦杯をなめたこともありました。現役を長く務められ、師匠としても、関脇阿炎、小結豊真将など多くの力士を育て、相撲道の継承と発展に尽力されました」と錣山親方の現役時代を振り返りつつ親方時代を労った。 初の大関獲りが懸かった1986年5月場所は11勝4敗で昇進は見送りになったが、11勝で大関になれると思っていた保志は相当落ち込み、場所後の稽古にも身が入らなかったという。しかし千代の富士はそれを見逃さず、保志に対し「まだまだ稽古が足りないからだ」と助言。その後保志は千代の富士との猛稽古で徐々に自信を取り戻し、翌場所も12勝3敗で文句なしの大関獲りを実現した。 綱獲り前3場所の成績は36勝9敗、さらに直前の成績では15戦全勝した大乃国との差は星2つ。現在の横綱昇進条件である「大関で2場所連続優勝、又はそれに準ずる成績」に充分該当するとは言えなかったが「北勝海だから昇進出来た」という声も多かった。それだけ品格や稽古熱心さが評価されていた(幕内優勝は8回達成したが、横綱昇進後も連続優勝は一度も果たせなかった)。師匠の12代九重(当時)は、かつて千代の富士の横綱昇進時には「ウルフ、引退する時はスパッと潔く辞めような」と語ったが、性格が生真面目な北勝海に対しては「横綱は本当に大変な地位だぞ。勝てなくなったら引退するしかないんだから」と自ら経験した横綱の重みと厳しさを伝えたという。 現役時代に行った千代の富士の胸を借りてのぶつかり稽古は、ベテラン記者でさえも「あれほどすごいものを見たことがない」と感嘆するほどすさまじいものであった。 北の富士は北勝海のことを「素質ではその辺の力士と変わらないが、稽古熱心さでは100人に1人の素材」と評した。なお素質不足を気力で補う相撲の性質だったため、気が緩む面のある優勝決定後の取組は4戦4敗であった。 1991年3月場所千秋楽の北勝海は、前日の大乃国戦で左膝を負傷するも医者に行かず一晩中氷水等で冷やし続けていた。それでも、千秋楽当日の横綱土俵入りと自身取組前に三役揃い踏みをする際は、膝の痛みはそれほど気にならなかったらしい。また北勝海が結びの一番の対戦前、土俵下で大乃国対霧島戦を見ていたが、自身も不振の霧島なら大乃国に負けるだろうと思っていたという。しかしこの対戦は予想を翻し霧島が大乃国を寄り切って勝利。この瞬間北勝海の8回目の幕内優勝が決まったが、同時に左膝の激痛が酷くなったのである。その後結びの一番での旭富士戦は全く相撲に成らずに敗北。左足を引き摺りながら花道を歩いた後、記者陣とのインタビューでは「大阪のお客さんに失礼しました。最後は良い相撲を取りたかったのに」と語り、幸運がもたらした優勝であった。 千代の富士の優勝、または優勝争いで何度も援護射撃をしている。新横綱の1987年7月場所は優勝と綱獲りが懸かっていた大関・大乃国を千秋楽に下し、千代の富士に21回目の優勝をプレゼントした(大乃国は場所後の横綱昇進も逃す)他、1987年11月場所14日目には、千代の富士と共に全勝だった横綱・双羽黒を下している(翌千秋楽、千代の富士は双羽黒を下し22回目の優勝を決めた)。1988年1月場所14日目には全勝の大関・旭富士を下し援護射撃したが、千代の富士は同日の結びの一番で大関・小錦に、千秋楽に旭富士に敗れ優勝を逃した。1989年11月場所12日目にも全勝の小錦を下しまたも援護射撃。しかし千代の富士は翌13日目小錦に敗れ優勝を逃している。 1989年7月場所での千代の富士と史上初の同部屋横綱同士の優勝決定戦。本人曰く「廻しを切ろうとしても切れなかった。稽古場でも強かったが本番では全く違う(ほど強かった)」と脱帽。しかし取組後北勝海・千代の富士は二人共「もう二度と対戦したくない」。12代九重もかつて「一度は(千代の富士対北勝海の)決定戦を見てみたい」と語っていたが、二人の決定戦の終了後は「師匠としてもまともに見ていられなかった。もう(決定戦は)やらなくていい」とコメントしている。これが両者にとって最初で最後の優勝決定戦だった。 1991年7月場所は休場明けで且つ稽古不足で大不振。12日目にようやく勝ち越しを決めたが、引退したばかりの千代の富士に「勝ち越しおめでとう」と冷やかされる。また9日目には、同郷のライバルの大乃国が28歳9か月の若さで引退を表明、自身にとっても大きなショックだったという。さらに千秋楽は北勝海と同じく8勝6敗同士の成績不振ながら旭富士との横綱対決。「泡の抜けたビール」「史上最低の千秋楽相星決戦」と叩かれる始末。熱戦の末北勝海は旭富士を寄り切りで下し、何とか9勝目を挙げた。それでも北勝海にとっては現役最後の千秋楽まで皆勤した場所となり、翌9月場所以降は度重なる怪我に苦しみ、全休と途中休場とを繰り返す羽目となる。 自身3場所連続休場となった1992年1月場所中に旭富士も引退、これで横綱は北勝海たった一人となる。同場所3日目、旭富士の現役最後の取組となった若花田(のち3代若乃花)戦での北勝海は「その相撲(TV生中継)は見ていなかった。もしかしたら…という思いがあったのかも知れない」と顔を強ばらせながらコメント。翌3月場所、「ゲンの良い」大阪で奇跡の復活を目指したものの、1勝も出来ずに4場所連続休場へ。「相撲勘が戻っていない。もう少し時間が欲しい」と沈痛な表情ながら「場所後の巡業で猛稽古して次の5月場所で進退を掛ける」と公言していた。
北の富士は「再起を期待したが想像以上に体力が衰え、大事な気力も落ちてしまっていた。横綱がいなくなるのは心苦しいが、このまま本場所を出場しても横綱の名を汚すだけだと思った」と、自ら引き際の潔さを貫きつつ北勝海を延々説得し、引退を決意させたという。千代の富士は「自身が現役辞めてから、僅か1年後に引退するとは思わなかったから、本当に寂しい。でも自分が長く横綱を張れたのは、彼が九重部屋にいてくれたお陰」と労っていた。 大関時代に九重部屋の後援会によって三つ揃えの化粧廻しを用意されており、明治神宮で行われる初の横綱土俵入りでは、異例(大抵、一門の先輩横綱から三つ揃えを借りる)となる自前の三つ揃えで臨んだ。還暦土俵入りでも使用された。 老人ホームなどの福祉施設への慰問を現役時代より定期的に行っており、地元北海道の障害者施設に個人的に寄付もしている。これについて北勝海は「父をはじめ地元の人たちの理解があったから、相撲の世界でやってこれた。時間さえあれば地元に帰って積極的に祭事にも参加したいし、自分を育ててくれた地元に恩を返したい。」と語っている。また、長野県長野市の児童福祉施設の設立にも発起人として名を連ねている。知的障害を持つ海士の島信之(最高位・東幕下17枚目、2022年7月場所引退)を弟子に迎え入れたのも障害者に理解を持っているところによる。 2020年始に時事通信の相撲記者の若林哲治と対談した際、白鵬が34歳になっても横綱として活躍していることに関して「普段の準備運動の賜物じゃないですか」と話しており、物議を醸している白鵬のかち上げについては「私の場合は相手がかち上げにきた方がやりやすかった。相手の脇が空くからちょうど(突き押しで)いきやすい」と肯定している 横綱時代の1990年2月に結婚したが2003年8月に離婚、2005年に14歳年下の現在の妻と再婚している。子供は前妻との間に1人、現妻との間に2人いる。前妻との結婚式での媒酌人は当時ハンナンの社長であった浅田満である。 『サンクチュアリ -聖域-』が第8話まで公開された時点で暫定全話を鑑賞した感想について「せっかく元力士たちが登場しているんだから、頭と頭で当たる激しいぶつかりとか、もっと“本物”の稽古を見せなくちゃ」と指導者目線で注文を付けた。 日刊スポーツの還暦記念インタビューでは「60歳になれば、楽になると思っていたんでしょうね。まさか、そのころ見ていた栃錦さん(先々代春日野親方)と同じように、60歳で理事長をやっているとは」と感慨にふけり、還暦土俵入りについて「9月2日に国技館でやることになりました。太刀持ちは隠岐の海(現君ケ浜親方)、露払いは北勝富士の予定」と予定を示し、還暦土俵入りとしては異例の一般公開を目指す方針を語った。将来の夢を「ハワイに飽きるまでいたいですね(笑い)。2週間以上とか。今は毎日必死ですけど、いつかはそんな生活を送りたいですね」と語った。 2024年10月24日に行われたプロ野球ドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから育成2位指名を受けた澁谷純希は遠縁の親戚(従姉妹の孫)にあたり、指名された際には祝福のコメントを寄せた。 ^ 1980年3月場所時に「富士若」の四股名に改名したこともあったが、負け越したため1場所で本名に戻している。 ^ 「十勝海」の四股名は後に弟子(八角部屋所属力士)に使われることになるが、最高位西幕下17枚目で引退した。 ^ 人名漢字では「勝」を『とう』、「海」を『み』と読むことは可能であり、これを適用すると、「北・勝・海」の正確な読みは「ほく・とう・み」である。弟子の北勝力にも「北勝」は『ほくとう』と説明したことがあるという。 ^ 実際に師匠・12代九重は、大関時代の1969年11月場所で2回目の幕内優勝を達成時、横綱昇進に関し相撲協会が横審委員会へ諮問されたが、当時の横審委員8人全員に反対されて見送りに。それでも、翌1970年1月場所に大関で2場所連続優勝を果たし、文句無しの好成績で第52代横綱へ正式に昇進した。 ^ なお寺尾はその後も、「花のサンパチ組」だった琴ヶ梅と小錦の引退相撲でも、最後の取組相手として二人共に指名され、土俵に上がり勝負した。 ^ これについては北勝海の師匠でこの日正面解説を務めた北の富士勝昭も「あってはいけないこと、這ってでも出場して欲しい、勝ち名乗りの前なら間に合うから休場届を取り消して土俵に来てくれないか」、向正面の舞の海秀平も「もし逆の立場で、琴欧洲が優勝争いの先頭だったら土俵に上がっていたと思うんですよ」と全く同意見であった。 ^ 日馬富士の所属一門である春日山・伊勢ヶ濱連合(現・伊勢ヶ濱一門)の理事であった雷(元幕内・春日富士)が9月場所中に退職したため、代役の理事として八角が選ばれた。この大役を務め上げて「光栄です。なかなかこういうタイミングはない。昨夜は緊張して眠れなかった。出来は50点」と語った。 ^ 鶴竜の所属一門である時津風一門の理事が審判部長の鏡山(元関脇・多賀竜)一人しかいないため。 ^ 大乃国と優勝決定戦 ^ 腰部椎間板損傷・左股関節挫傷により千秋楽不戦敗 ^ 腰部椎間板損傷・左股関節挫傷により全休 ^ 腰部椎間板損傷により全休 ^ 腰部椎間板ヘルニア・強直性脊椎炎疑により全休 ^ 旭富士と優勝決定戦 ^ 千代の富士と優勝決定戦 ^ 小錦・霧島と優勝決定戦 ^ 左膝内側側副靱帯損傷により全休 ^ 頸部外傷性頸椎頸髄症・左肩関節挫傷・左肘関節挫傷・右足首距腿関節骨片により全休 ^ 左膝内側側副靱帯損傷・変形性膝関節症により8日目から途中休場 ^ 左膝内障により全休 ^ 左肩関節及び左肘関節挫傷後遺症により3日目から途中休場 ^ 5月場所直前の5月8日に引退表明 ^ その後2009年9月場所に小結・把瑠都、2012年11月場所に関脇・豪栄道が北勝海に次ぐ「5大関撃破」を果たした。 ^ 稽古でも手を抜かない曙を上位陣が嫌ったとされている。 ^ 対戦相手の横綱旭富士も北勝海と同様に、1991年7月場所が現役最後の皆勤場所になった。 ^ 日本相撲協会新理事長に八角親方 任期は来年3月まで 朝日新聞 2015年12月18日閲覧 ^ 北海道新聞夕刊 「私の中の歴史-力のサムライ伝」2005年7月28日 ^ ベースボール・マガジン社「大相撲熱闘譜」Vol.3 千代の富士時代とそれに挑んだ男たち p.21 ^ アプリスタイル『スポーツ報知 大相撲ジャーナル』2021年1月号 59頁 ^ 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)140ページから141ページ ^ 「『湖』を『うみ』と読ましてもええんか」師匠の思いと弟子の力で読ませるしこ名(2/2ページ) 日刊ゲンダイDIGITAL 2023/09/08 06:00 (2023年10月15日閲覧) ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p64 ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号p114-115 ^ !横綱審議委員会、中途半端な出場望まない「厳しいリハビリで完治せよ」 2017年9月26日7時0分 スポーツ報知 ^ 朝日新聞2013年3月20日23面 ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p18-19 ^ 大空出版『相撲ファン』vol.4 14頁 ^ 相撲協会、理事長代行は八角親方 日刊スポーツ 2015年11月20日閲覧 ^ 北の湖部屋の千秋楽、北太樹が万感の白星で締める 日刊スポーツ 2015年11月23日 ^ 新理事長に元横綱北勝海の八角事業部長 日刊スポーツ 2015年12月18日 ^ 大空出版『相撲ファン』vol.4 107頁 ^ 現職の八角理事長が再選 6対2で貴乃花親方上回る日刊スポーツ2016年3月28日 ^ 八角理事長、九重親方の死去「整理できなかった」 日刊スポーツ 2016年8月1日 ^ 貴乃花親方は落選=10人の理事候補決まる-相撲協会 JIJI.COM (時事通信社、2018年2月3日閲覧) ^ “国技館にキッズルーム”. SANSPO.COM(サンスポ). 2021年1月5日閲覧。 ^ 八角理事長、平成最後の場所いい相撲で終われれば 日刊スポーツ 2019年3月10日20時13分(日刊スポーツ新聞社、2019年3月20日閲覧) ^ 八角理事長「白鵬休場は遺憾」も「新しい時代」強調 日刊スポーツ 2019年5月12日15時48分(日刊スポーツ新聞社、2019年5月12日閲覧) ^ “相撲協会が有識者会議設置 王氏ら国技発展へ提言”. 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中日スポーツ、2023年6月22日 ^ 100年後のために、師匠の指導を 八角理事長に聞く 若林哲治の土俵百景(1/4ページ) 時事通信 2020年1月1日(2020年1月3日閲覧) ^ 八角理事長Netflix「サンクチュアリ」観賞済み「もっと本物の稽古見せなくちゃ」と注文 日刊スポーツ 2023年6月23日4時46分 (2023年6月23日閲覧) ^ 八角理事長9月に両国国技館で還暦土俵入り「しなびた体だけど、私も一肌脱がないと(笑い)」 日刊スポーツ 2023年6月22日20時54分 (2023年6月23日閲覧) ^ 「親戚からプロ野球選手が」 角界トップの遠縁が日本ハムの育成2位 スポーツ報知 2024年10月25日6時45分 (2024年10月25日閲覧) 横綱一覧 大相撲優勝力士一覧 現役年寄一覧 鈴木宗男 - 北勝海と同じ、北海道十勝地方(足寄郡足寄町)出身の後援会長。 松山千春 - 鈴木宗男と同じく、北海道十勝地方(足寄町)出身のシンガーソングライター(兄弟子・千代の富士と同じ1955年生まれ)。 サクラホクトオー - 北勝海にちなんで名付けられた。 ブルドッグ - 1991年10月のロンドン公演において、現地メディアが北勝海につけた通称。 北勝海 - 歴代横綱 - 日本相撲協会公式サイト 北勝海 信芳 - 日本相撲協会 “北勝海 信芳・生涯星取表”. 2013年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年12月22日閲覧。 表 話 編 歴 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 琴櫻将傑 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 表 話 編 歴 1957 栃錦清隆 1958 若乃花幹士 1959 栃錦清隆 1960 大鵬幸喜 1961 大鵬幸喜 1962 大鵬幸喜 1963 大鵬幸喜 1964 大鵬幸喜 1965 佐田の山晋松 1966 柏戸剛 1967 大鵬幸喜 / 柏戸剛 1968 玉乃島正夫 1969 北の富士勝昭 1970 北の富士勝昭 / 玉の海正洋 1971 北の富士勝昭 1972 輪島大士 1973 輪島大士 1974 北の湖敏満 1975 北の湖敏満 1976 輪島大士 1977 北の湖敏満 1978 北の湖敏満 1979 北の湖敏満 1980 北の湖敏満 1981 北の湖敏満 1982 千代の富士貢 1983 隆の里俊英 1984 若嶋津六夫 1985 千代の富士貢 1986 千代の富士貢 1987 北勝海信芳 1988 旭富士正也 1989 北勝海信芳 1990 旭富士正也 1991 霧島一博 1992 貴花田光司 1993 曙太郎 1994 貴乃花光司 1995 貴乃花光司 1996 貴乃花光司 1997 貴乃花光司 1998 若乃花勝 1999 武蔵丸光洋 2000 曙太郎 2001 武蔵丸光洋 2002 朝青龍明徳 2003 朝青龍明徳 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 朝青龍明徳 2007 白鵬翔 2008 白鵬翔 2009 白鵬翔 2010 白鵬翔 2011 白鵬翔 2012 白鵬翔 2013 白鵬翔 2014 白鵬翔 2015 白鵬翔 2016 稀勢の里寛 2017 白鵬翔 2018 栃ノ心剛史 2019 朝乃山英樹 2020 貴景勝光信 2021 照ノ富士春雄 2022 若隆景渥 2023 霧島鐵力 2024 琴櫻将傑 表 話 編 歴 出羽海 中立 高崎 境川 関ノ戸 山科 振分 立田川 武隈 春日野 富士ヶ根 二十山 竹縄 三保ヶ関 清見潟 岩友 玉ノ井 雷 入間川(停年後再雇用) 藤島 大鳴戸 山分 待乳山 錦島 武蔵川 二子山 山響 小野川 木村瀬平(木瀬) 若藤 稲川 井筒 千田川 尾上 千賀ノ浦 北陣 式守秀五郎(式秀) 立浪 二所ノ関 中村 佐渡ヶ嶽 粂川 白玉 浜風 荒磯 尾車 押尾川 鳴戸 秀ノ山 片男波 熊ヶ谷 田子ノ浦 西岩 放駒 松ヶ根 芝田山 峰崎(停年後再雇用) 高田川 花籠(停年後再雇用) 大嶽 阿武松 不知火 常盤山 湊川 湊 錣山 時津風 中川 枝川 荒汐 浦風 伊勢ノ海 勝ノ浦 甲山 立川 春日山 鏡山(停年後再雇用) 音羽山 陸奥(停年後再雇用) 追手風 立田山(停年後再雇用) 高島(停年後再雇用) 高砂 若松 錦戸 九重 谷川 佐ノ山 大山 八角 陣幕 東関 君ヶ濱 伊勢ヶ濱 楯山 宮城野 間垣 安治川 大島 玉垣 浅香山 友綱 朝日山 桐山 出来山 表 話 編 歴 八角 陣幕 東関 君ヶ濱 北勝富士 北の若 北勝丸 北勝龍 隠岐の浜 藤の谷 福津海 北勝就 北勝栄 北勝泉 北勝伊 北勝真 原 隠岐の富士 木村要之助 木村幸三郎 大吉 床路 床尚 表 話 編 歴 初代明石志賀之助 2代綾川五郎次 3代丸山権太左衛門 4代谷風梶之助 5代小野川喜三郎 6代阿武松緑之助 7代稲妻雷五郎 8代不知火諾右衛門 9代秀ノ山雷五郎 10代雲龍久吉 11代不知火光右衛門 12代陣幕久五郎 13代鬼面山谷五郎 14代境川浪右衛門 15代梅ヶ谷藤太郎(初代) 16代西ノ海嘉治郎(初代) 17代小錦八十吉 18代大砲万右エ門 19代常陸山谷右エ門 20代梅ヶ谷藤太郎(2代) 21代若嶌權四郎 22代太刀山峯右エ門 23代大木戸森右エ門 24代鳳谷五郎 25代西ノ海嘉治郎(2代) 26代大錦卯一郎 27代栃木山守也 28代大錦大五郎 29代宮城山福松 30代西ノ海嘉治郎(3代) 31代常ノ花寛市 32代玉錦三右エ門 33代武藏山武 34代男女ノ川登三 35代双葉山定次 36代羽黒山政司 37代安藝ノ海節男 38代照國萬藏 39代前田山英五郎 40代東富士欽壹 41代千代の山雅信 42代鏡里喜代治 43代吉葉山潤之輔 44代栃錦清隆 45代若乃花幹士(初代) 46代朝潮太郎 47代柏戸剛 48代大鵬幸喜 49代栃ノ海晃嘉 50代佐田の山晋松 51代玉の海正洋 52代北の富士勝昭 53代琴櫻傑將 54代輪島大士 55代北の湖敏満 56代若乃花幹士(2代) 57代三重ノ海剛司 58代千代の富士貢 59代隆の里俊英 60代双羽黒光司 61代北勝海信芳 62代大乃国康 63代旭富士正也 64代曙太郎 65代貴乃花光司 66代若乃花勝 67代武蔵丸光洋 68代朝青龍明徳 69代白鵬翔 70代日馬富士公平 71代鶴竜力三郎 72代稀勢の里寛 73代照ノ富士春雄 雷電爲右エ門 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 表 話 編 歴 廣瀬正徳 1928 - 1938 出羽海秀光 1944 - 1957 時津風定次 1957 - 1968 武蔵川喜偉 1968 - 1974 春日野清隆 1974 - 1988 二子山勝治 1988 - 1992 境川尚 1992 - 1998 時津風勝男 1998 - 2002 北の湖敏満 2002 - 2008 武蔵川晃偉 2008 - 2010 村山弘義(代行) 2010 放駒輝門 2010 - 2012 北の湖敏満 2012 - 2015 八角信芳 2015 - 現在 表 話 編 歴 76 輪島大士 77 北の湖敏満 78 北の湖敏満 79 北の湖敏満 80 若乃花幹士 81 千代の富士貢 82 若嶋津六夫 83 隆の里俊英 84 若嶋津六夫 85 北尾光司 86 千代の富士貢 87 北勝海信芳 88 千代の富士貢 89 千代の富士貢 90 旭富士正也 91 貴花田光司 92 貴花田光司 93 若ノ花勝 94 貴乃花光司 95 貴乃花光司 96 貴乃花光司 97 貴乃花光司 98 若乃花勝 99 武蔵丸光洋 00 魁皇博之 01 栃東大裕 02 朝青龍明徳 03 朝青龍明徳 04 朝青龍明徳 05 朝青龍明徳 06 朝青龍明徳 07 白鵬翔 08 白鵬翔 09 なし 10 白鵬翔 11 琴奨菊和弘 12 日馬富士公平 13 白鵬翔 14 なし 15 嘉風雅継 16 なし 17 なし 18 御嶽海久司 19 朝乃山英樹 20-21 中止 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川竜男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田知子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田川由紀子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 加藤好雄 松本幸四郎 陳舜臣 佐久間良子 木田勇 向田邦子 島田陽子 鈴木喜久子 角田好雄 渡辺一雄 石毛宏典 古手川祐子 緒形拳 花井幸子 倉本昌弘 森光子 坂田栄男 高橋洋子 秋竜山 澤地久枝 香川宏 生沼スミエ 玉の海梅吉 森英恵 山藤章二 池上季実子 広岡達朗 村松友視 真野響子 滝田栄 橋田壽賀子 前橋汀子 市川猿之助 香川宏 三船敏郎 松本幸四郎 大原麗子 田淵幸一 樋口久子 松坂慶子 田中裕子 隆の里俊英 谷川浩司 林真理子 胡桃沢耕史 宮尾登美子 山口小夜子 役所広司 菊池綜一 江上由美 釜本邦茂 名取裕子 風間杜夫 石井幹子 連城三紀彦 里中満智子 衣笠祥雄 松坂慶子 市川海老蔵 遠藤利男 三田佳子 中村吉右衛門 高野悦子 小池一夫 武原はん ジェームス三木 山口洋子 吉田義男 大地真央 北尾光司 中野正之 森光子 清原和博 森下洋子 雁屋哲 黒柳朝 加藤芳郎 山崎洋子 渡辺謙 加納みゆき 千代の富士貢 吉岡利夫 若尾文子 中井貴一 森瑤子 江藤俊哉 俵万智 逢坂剛 森口祐子 近藤真一 若村麻由美 北勝海信芳 今西陽一郎 三田佳子 片岡孝夫 伊藤京子 森祇晶 浅野温子 安野光雅 伊勢桃代 新井満 山口智子 千代の富士貢 沖清司 千代の富士貢 いしだあゆみ ねじめ正一 小林浩美 中村勘九郎 村崎芙蓉子 西田敏行 石岡瑛子 斎藤雅樹 渡辺梓 沖清司 山本陽子 中村鴈治郎 諏訪内晶子 野田秀樹 コシノジュンコ 渡辺久信 森口祐子 松岡修造 沢口靖子 真田広之 小林由紀子 増井光子 山崎豊子 秋山幸二 芦原すなお 荻野アンナ 若花田勝 貴花田光司 緒形直人 鷲尾いさ子 田中好子 内林達夫 有森裕子 曙太郎 古賀稔彦 富司純子 中田久美 野茂英雄 村上弘明 伊藤みどり 森光子 高橋克彦 松尾武 三田佳子 米長邦雄 市川團十郎 細川直美 筒井道隆 つみきみほ 松原敏春 平瀬真由美 宮尾登美子 川淵三郎 内館牧子 田村亮子 植木等 野村克也 中丸三千繪 古田敦也 ミヤコ蝶々 曙太郎 古橋廣之進 大林素子 松尾武 イチロー 赤井英和 奥野史子 岩下志麻 羽生善治 南井克巳 賀来千香子 川本ゆかり 市川崑 森光子 上田洋一 古田敦也 田村亮子 天海祐希 竹中直人 原辰徳 水谷八重子 中村紘子 ジョージ川口 柳家小さん 大石芳野 上田洋一 有森裕子 川口能活 江角マキコ 仰木彬 清水市代 中村橋之助 森英恵 桂米朝 大石静 周防正行 大橋晴夫 井原正巳 吉永小百合 片岡仁左衛門 伊藤みどり 佐々木主浩 佐藤夕美子 本木雅弘 篠田節子 谷川浩司 吉行あぐり 大橋晴夫 清水宏保 藤原紀香 琴錦功宗 中村玉緒 松平健 俵万智 ジェームス三木 服部道子 熊川哲也 浅利純子 伊東律子 出島武春 松嶋菜々子 内館牧子 野村萬斎 田村亮子 津川雅彦 草笛光子 阿久悠 福嶋晃子 乙武洋匡 伊東律子 田村亮子 長嶋茂雄 高橋尚子 渡辺謙 池内淳子 佐々木主浩 岡本綾 井上康生 木村佳乃 内藤國雄 出田幸彦 栃東大裕 川原亜矢子 室伏広治 竹田恆和 松岡佑子 唐沢寿明 平良とみ 天海祐希 藤田宜永 森下洋子 出田幸彦 朝青龍明徳 米倉涼子 市川新之助 阿川佐和子 宮本恒靖 仲間由紀恵 高橋由伸 恩田美栄 岩合光昭 岸惠子 中村季恵 浅野ゆう子 五木寛之 優香 三谷幸喜 村山由佳 末續慎吾 村主章枝 武田真治 有馬稲子 星野仙一 中村季恵 野口みずき 野村忠宏 橋田壽賀子 中村勘九郎 荒川静香 滝沢秀明 高島礼子 和田一浩 森光子 日野原重明 琴欧州勝紀 薬師丸ひろ子 野口聡一 長澤まさみ 山田洋次 森光子 上川隆也 眞鍋かをり 林家正蔵 栗原はるみ 渡辺謙 阿木燿子 リリー・フランキー 藤山直美 内野聖陽 横峯さくら 田口壮 吉田都 鎌田實 瀬戸内寂聴 宮﨑あおい 上田桃子 岡島秀樹 青木功 中村勘三郎 新垣結衣 茂木健一郎 坂東眞理子 陣内智則 藤原紀香 本木雅弘 吉田沙保里 太田雄貴 高橋尚子 松本幸四郎 松坂慶子 姜尚中 堀北真希 妻夫木聡 上野由岐子 白鵬翔 草刈民代 阿部寛 深田恭子 原辰徳 勝間和代 城田優 杉山愛 西田敏行 森光子 野口聡一 湊かなえ 岩崎夏海 寺島しのぶ 髙橋大輔 上野樹里 伊勢谷友介 仲間由紀恵 北大路欣也 武良布枝 大竹しのぶ 田中将大 コシノジュンコ 三谷幸喜 鈴木京香 佐々木則夫 鈴木明子 松山ケンイチ 松井冬子 琴奨菊和弘 綾瀬はるか 尾木直樹 澤穂希 中村勘九郎 樹木希林 桂文枝 吉田沙保里 入江陵介 菅野よう子 日馬富士公平 田中将大 滝川クリステル 宮藤官九郎 宮本信子 杉良太郎 風吹ジュン 岡田准一 杏 片岡愛之助 阿川佐和子 中園ミホ 尾上松也 蜷川実花 山中伸弥 井上真央 阿部寛 仲間由紀恵 タモリ 黒柳徹子 羽生結弦 堺雅人 長澤まさみ 大泉洋 土屋太鳳 三宅宏実 上橋菜穂子 所ジョージ 有村架純 又吉直樹 高畑充希 辻沙絵 草刈正雄 新垣結衣 大谷翔平 萩野公介 伊調馨 秋本治 春風亭昇太 村田沙耶香 村田諒太 村上茉愛 加藤一二三 吉岡里帆 高橋一生 宮本信子 鈴木亮平 林真理子 阿部サダヲ 安藤サクラ 池江璃花子 小平奈緒 佐藤健 出川哲朗 永野芽郁 中村勘九郎 夏井いつき 野村萬斎 長谷部誠 井上尚弥 上沼恵美子 サンドウィッチマン 渋野日向子 瀬戸大也 田中圭 戸田恵梨香 中西麻耶 長谷川博己 広瀬すず 吉野彰 黒柳徹子 サンドウィッチマン 杉咲花 染谷将太 チコちゃん 宮崎美子 宮本亞門 室伏広治 吉沢亮 石川佳純 清原果耶 小池栄子 坂口健太郎 谷真海 三谷幸喜 芦田愛菜 黒柳徹子 西村宏堂 羽生結弦 坂東彌十郎 福原遥 松本潤 村上宗隆 森保一 吉田都 北口榛花 国枝慎吾 堺雅人 俵万智 寺島しのぶ 寺田宜弘 バカリズム 吉高由里子 北海道出身の大相撲力士 九重部屋 八角部屋 日本相撲協会理事長 横綱 1963年生 NHK紅白歌合戦審査員 鈴木宗男 存命人物 外部リンクがリンク切れになっている記事/2023年9月 2024/12/16 22:25更新
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