北杜夫の情報(きたもりお) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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北杜夫の情報まとめ
北 杜夫(きた もりお)さんの誕生日は1927年5月1日です。東京出身の作家のようです。
卒業、父親、現在、映画、家族、テレビ、趣味、結婚、ドラマ、母親に関する情報もありますね。2011年に亡くなられているようです。
北杜夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)北 杜夫(きた もりお、本名:斎藤 宗吉〈さいとう そうきち〉、1927年〈昭和2年〉5月1日 - 2011年〈平成23年〉10月24日)は、日本の小説家、エッセイスト、精神科医、医学博士。位階は従四位。 祖父は医師で政治家の斎藤紀一。父は紀一の養子で、歌人で医師の斎藤茂吉。兄はエッセイストで精神科医の斎藤茂太。娘はエッセイストの斎藤由香。 東北大学医学部を卒業。精神科医のかたわら、『文芸首都』に参加。水産庁調査船の船医の体験をユーモラスに描いた『どくとるマンボウ航海記』(1960年)で好評を得、以後「どくとるマンボウ」ものを次々に発表した。 『夜と霧の隅で』(1960年)で芥川賞を受賞。『楡家の人びと』(1964年)は、近代における最初の市民小説と高く評価された。 東京市赤坂区青山南町に、父・茂吉、母・輝子の次男として生まれた。生家は母・輝子の実父・斎藤紀一が創設した精神病院「青山脳病院」であった。 少年時代は昆虫採集に熱中する日々を送り、文学には興味を抱かなかった。 青南小学校では4年まで金免状の優等生だったが、腎臓病による病欠で5年から劣等生となり、府立一中の受験を断念した。麻布中学時代の成績は259人中6番であった。麻布では不良グループの一人につきまとわれ、手の指の間に指を挟まれて締めつけられるなどのいじめを受けた。国語で、勝俣久作の指導を受けた。部活動では理科学研究部博物班(現:生物部)に入り、当時部長であったフクロウこと橋本碩(後に静岡大学名誉教授・生物学者)の指導を受け昆虫採集にのめり込んでいった。特にコガネムシ類を集中的に蒐集し、種類数で日本産の約8割・標本箱100箱分あった。部の1級上には後年の文芸評論家・奥野健男がいた。 戦中から戦後の混乱の最中、ファーブルのような昆虫学者になるべく松本高校(旧制)に入学し、学友たちと刺激し合う日々を送る中で初めてトーマス・マンの作品に出逢う。中でも『トニオ・クレーゲル』や『魔の山』から強く深い影響を与えられたことがきっかけとなり作家を志すようになる。先輩に辻邦生がおり、終生の付き合いとなる。当時の松高にはマンの翻訳で名高い望月市恵がドイツ語教授として在任しており、マンの研究者としてはもとより、その人柄や教育者として望月のあらゆる面に強く尊敬の念を抱き、卒業後も交流は続いた。文学以外には卓球部のキャプテンを務め、インターハイに出場した。高校の寮祭(思誠寮の西寮)に際しては、対外宣伝部なるものを立ち上げ、街頭での演説および寸劇の演出を自ら行うなど、来場者拡大のための運動を精力的に行った。また、松本高校を志望する理由の一つであった日本アルプス登山に頻繁に挑むなどして高校時代を過ごす。ただし、川原の石をリュックサックに詰めて毎日10キロを歩かせるといった訓練に恐れをなし、山岳部には参加しなかった。 父・茂吉の短歌の素晴らしさに触れた北は、それまでは恐ろしいカミナリ親父、頑固親父としか思っていなかった父親を優れた文学者として尊敬するようになった。しかし、進路を決める際、志望外であった医学部へ進学することを一方的に厳命され、ささやかな抵抗や交渉を試みるも父の威力を覆すことは敵わず、1947年(昭和22年)に東北帝国大学から改称したばかりの東北大学(1949年に新制大学に移行)へ進学した。当時は精神科医では食べて行けないと思われていたため、父からは外科医になることを望まれていたが、霰粒腫の手術を見て気を失いかけ、外科に進むのを断念した。概ね戦後占領期に当たる1948年(昭和23年)から1953年(昭和28年)までの5年間を進駐軍のキャンプが集中し、GIたちが跋扈する仙台市で過ごしたが、市内の支倉町(明治期に島崎藤村が詩作を始めた地)で下宿をしていたと自身の随筆に記している。『トニオ・クレーゲル』の影響で大学時代に小説を書き始めた。大学生活を始めた頃、本屋の店頭で同人雑誌『文藝首都』を見つけ、早速投稿し、不採用となった。なんというダメな雑誌だと思ったが、次の掌篇「百蛾譜」の投稿が1950年(昭和25年)4月号に活字になったので、すぐ会員になり、続いて原稿を送っていたところ、やがて本欄に掲載するという通知をもらい、「パンドラの匣」、「牧神の午後」の発表が叶って同人となる。また、さまざまな雑誌の懸賞に応募したが、片端から落選し、一度だけ1人(横尾秋夫 1896-1981、医学博士)だけで発行している会社(千駄ヶ谷にあったクラブ社)のカストリ雑誌「動く小説と実話」に代作者(加藤武夫の名前による「手紙」という短編)として採用され1枚30円の稿料を貰ったのが職業作家としての第一歩だったが、本屋で探しても売っておらず、上野駅の地下道で露店販売されているのを1回見つけたのみであった。その後すぐにクラブ社自体が無くなった。 大学卒業後は東京に戻り、慶應義塾大学病院のインターンとなった。無給であったため、すでに所帯を構えていた兄の斎藤茂太の自宅に居候せざるを得なかった。精神科医として勤める傍ら、雑誌『文藝首都』の同人活動は継続し、川上宗薫、佐藤愛子、田畑麦彦、なだいなだ(なだは、慶應義塾大学病院での後輩でもある)、日沼倫太郎、および雑誌主宰の保高徳蔵の知己を得る。1954年(昭和29年)、『文藝首都』に連載した『幽霊』を、田畑の『祭壇』とともに同装丁で文芸首都社から自費出版する。1955年(昭和30年)8月トーマス・マン死去。同年『文藝首都』10月号に、辻邦生との「トーマス・マンに就ての対話」を掲載。同年12月には山梨県甲府市里吉町の県立玉諸病院(現在は韮崎市旭町上條南割に移転した山梨県立北病院)に一年間勤務する。甲府時代の様子は『どくとるマンボウ医局記』や辻邦生との往復書簡によって知られる。 1958年(昭和33年)11月から翌年4月にかけて、水産庁の漁業調査船照洋丸に船医として乗船し、インド洋から欧州にかけて航海した。ドイツ訪問が乗船の動機だった。この体験に基づく旅行記的エッセイ『どくとるマンボウ航海記』が同年に刊行されると、従来の日本文学にない陽性でナンセンスなユーモアにより評判となり、ベストセラーとなる。その後ナチス・ドイツの「夜と霧作戦」をモチーフにした『夜と霧の隅で』で、1960年(昭和35年)に第43回芥川龍之介賞を受賞する。以降、小説、エッセイとも、特に若い読者から熱狂的に支持される人気作家となった。 大学時代の登山経験から、1965年(昭和40年)、カラコルム・ディラン峰への遠征隊に医師として参加。この体験を基に『白きたおやかな峰』が書かれた。 1969年(昭和44年)7月下旬フランスのパリに滞在中の辻邦生を訪ね、8月連れ立ってスイスのチューリッヒ州のキルヒベルクでトーマス・マンの墓参りをする。 1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)にかけて、新潮社より全集を刊行。斎藤茂吉も生前の全集刊行で、親子で生前に全集を完成させた最初の例となった(死後刊行では幸田露伴・文親娘がいる)。 1981年(昭和56年)1月1日から、自宅を領土とするミニ独立国「マンボウ・マブゼ共和国」主席を名乗る。同国は真の共産主義国家であると称し、実在の共産主義国家は偽者として批判した。特に訪問経験のあるソビエト連邦には辛口である。もっとも、原則として政治的発言はしない作家であり、マンボウ・マブゼ共和国についてもシャレ以上の意味を持たせる意図はないし、この時の北は極端な躁状態だった。 ムツゴロウこと畑正憲と対談した際、北がムツゴロウ動物王国とマンボウ国で日本から分離独立し、同盟を結ぶ提案をしたことがある。 日本のブラジル移民について描いた『輝ける碧き空の下で』を新潮に連載、1982年(昭和57年)に第一部を、1986年(昭和61年)に第二部をそれぞれ刊行した。同年、この第二部によって日本文学大賞を受賞。 壮年期より躁うつ病(双極I型障害)を発症した。自らの病状をエッセイなどでユーモラスに記し、世間の躁うつ病に対するマイナスイメージを和らげるのに一役買うこととなった。1976年には躁状態で「チャップリンのような大喜劇映画を作りたい」と夢想し、映画の製作資金を作るために株の売買に入れ上げて巨額の損失を蒙り、穴埋めのために東京都世田谷区の自宅を抵当に入れて新潮社や銀行の他、佐藤愛子個人からも1000万円を借金し、自己破産と準禁治産宣告に追い込まれた。「3億円も使って、全然儲からなかった人なんていませんよ」と担当編集者に呆れられた。この頃山口瞳に電話をしてサントリーのCMへの出演を斡旋してもらおうとしたが断られた。吉行淳之介に800万円の借金を申し込んだこともある。当時の負債は1億円以上、1976年11月の税金の滞納額は1000万円以上に上った。この経験が戯曲風小説『悪魔のくる家』の執筆のヒントになったとされる。当時、生活費を稼ぐ手段として女性週刊誌で芸能人を相手にたびたび対談を行った。そして、毎朝妻宛の手紙をキッチンに残したという。内容と文はいつも一緒で、「今日からおとなしくなります。」であった。 本人もエッセイなどで述べているように、実父である茂吉の激し易い性情を受け継いでいる。そのため、家族は長年にわたり大変な心労と大迷惑を受けた。この時の体験から娘の斎藤由香は作家などと違う「安定している」サラリーマンを目指したと記している。 1996年(平成8年)には日本芸術院会員となった。 2006年(平成18年)、新聞に自伝、『私の履歴書』(日本経済新聞)を連載。2008年(平成20年)にはテレビのトーク番組『徹子の部屋』(テレビ朝日)に28年ぶりに出演し、長女の斎藤由香も同席した。2008年からの4年間は、マンボウ昆虫展の全国巡回も開催された。また、2010年(平成22年)には「週刊文春」連載の「新・家の履歴書」に登場し、斎藤茂吉家を回想した。 2011年(平成23年)10月24日朝、東京都目黒区の国立病院機構東京医療センターで死去。10月21日にインフルエンザの予防接種を受け、翌日から体調を崩し念のため入院した結果である。84歳没。死去後に日本政府より従四位に追叙され、旭日中綬章が追贈された。 死因については当初、腸閉塞と診断され報道もされたが、のちに嘔吐物を気道に詰まらせ窒息死した可能性も報じられている。娘の斎藤由香は遺作『マンボウ最後の家族旅行』のあとがきで、解剖を避ける方向へ誘導したことを含め、病院の対応に強い不信を表明している。 正確な時期は分からないが、純文学(エッセー)の同人誌である、随筆春秋の指導者を務めた。一般社団法人随筆春秋が運営するウェブページには、以下のような記述がある。 1995年 - これ以降、佐藤愛子、金田一春彦、早坂暁らの協力を得て発展。のちに北杜夫、布勢博一、竹山洋らが加わる。 ペンネームは文学活動を開始するにあたり、“親の七光り”と陰口を叩かれることを嫌い、茂吉の息子であることを隠す意図で用い始めた。旧制松本高校時代は斎藤憂行と名乗っていた。杜夫の由来は仙台(杜の都)在住時、心酔するトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』に因んで、漢字で「杜仁夫」とつけようとした。本人の談では、まず北の都に住んだので「北」とつけ、「杜仁夫」ではあまりに日本人離れしているので、「杜夫」にしたということである。その後順次「東」「南」「西」とペンネームを変更するつもりだったが「北杜夫」で原稿が売れ始め、ペンネームを変更すると、出版社との契約等で支障があると判明し、そのままになった。 作風は多様で、 『夜と霧の隅で』や、『楡家の人びと』(奇人変人が多かった齋藤家の歴史を描いた大河小説)など純文学と位置づけられるもの 『奇病連盟』『高みの見物』などのユーモア中間小説、『怪盗ジバコ』『父っちゃんは大変人』『さびしい王様』などファンタジーと分類されるもの 『船乗りクプクプの冒険』のような児童文学や童話 などが挙げられる。 祖父の斎藤紀一は「大ぼらふき」の傾向がある奇人であったが、純文学作品とされるものにも祖父のようなユニークな「ほら吹き」の人物を登場させることがある。 小説以外では、エッセーは『(どくとる)マンボウ』ものなどが小説以上に広く読み継がれている。後年の作として父斎藤茂吉の評伝4部作がある。 初期のSFの愛好者・擁護者で、「うつろのなか」などのSF作品を執筆しており、SF作品をまとめたアンソロジー『人工の星』もある。北によれば、ショートショート専門であった星新一に対抗して「長い本格物」を書くつもりでいたところ、小松左京が登場し、「科学的知識も大長篇をかく筆力もぜんぜんかなわない」ため断念したという。1968年・1969年には月計画さなかのNASAを訪問・取材。ただし、その取材を基に執筆した著書『月と10セント』は月計画の狂騒的な騒ぎを批判した書であった。 漫画の愛好家であったことから、小学館漫画賞・文藝春秋漫画賞の選考委員を務めていた。 自他共に認める熱狂的阪神ファンで、阪神の成績に一喜一憂し続ける日常を描いた多数のエッセイを残している。1972年の『ヨガ式・阪神を優勝させる法』をはじめ、阪神の応援だけで埋め尽くした『マンボウ阪神狂時代』もある。また1985年の阪神タイガース優勝時には、彼の興奮ぶりがテレビ朝日系列にてドキュメンタリー番組として放送された。かんべむさしの「決戦・日本シリーズ」にも「ドクトルロカンボこと喜多北杜夫」として登場する。 長野県軽井沢町に別荘を所有していた。この別荘は英国人宣教師が1930年頃に建て、その後作家の小島政二郎が所有した。2021年現在、老朽化により解体(建て替え)の危機に瀕しているが、有志によって移築保存も検討されている。 95年NHKの取材旅行で35年ぶりにオランダを訪問するが、カジノで大負けし、持参の衣類を売るが到底金策にならず、道で物乞いをする。 幼少時から始めた昆虫採集は東京大空襲でコレクションのほとんどを失ってからほとんど行わなくなったが、コガネムシ類にだけは高齢になっても執着心を持ち続けてきたことを証言している。また、幼少期からの自然史趣味は、旧制松本高等学校の同級生で後に著名な植物学者となった西田誠(『青春記』では「雄ライオン・雌ライオン」の項で登場している)を、その該博な植物学の知識で驚嘆させた。昆虫採集に関しては『どくとるマンボウ昆虫記』が詳しい。その後の著作でも『南太平洋ひるね旅』『母の影』などでしばしば昆虫採集に言及している。 2008年「どくとるマンボウ昆虫展」が開催された。これは虫好きの北杜夫ファンが、全国の虫屋に呼びかけ『どくとるマンボウ昆虫記』に登場する全昆虫の実物標本を集め開催したものである。内約50種は、実際に北氏が採集した個体が使用された。さらに、『航海記』の記述にある「帽子で捕まえたチョウ」の正体や、『青春記』で「茂吉の傍らで観察した狩猟蜂」が何であったのかを、その時の正にそのものの実物標本を使用し展覧した。この昆虫展は宮城県仙台市、山形県上山市、栃木県日光市、山梨県北杜市、長野県松本市、広島県福山市、群馬県高崎市、北海道北見市、中川町、枝幸町、釧路市等全国45都市で開催され、2009年8月、軽井沢高原文庫において天覧となった。 2011年9月、長野県安曇野市の昆虫収集家、平沢伴明がコガネムシの仲間「ビロウドコガネ」の新種を発見し、北杜夫と昆虫採集を通じて交流があることから、これの学名をラテン語で「ユーマラデラ・キタモリオイ Eumaladera(Maladera) kitamorioi」、和名は「マンボウビロウドコガネ」と命名した。北杜夫は献名されたことに対し「とても照れくさいけれど光栄。大好きなコガネムシなのでうれしい」と喜んだ。 2011年9月17日 - 19日に信州大学松本キャンパスで行われた第71回日本昆虫学会において「どくとるマンボウ昆虫展」が開催された際、“「虫や」のみなさまへ”と題するメッセージを寄せ、その返礼として大会実行委員会長から感謝状を贈られた。10月1日、公での最後の席となった軽井沢高原文庫でのトークショーにて、新種コガネムシの献名式と感謝状の授与式が行われた。 青南小学校卒業。 麻布中学校4年修了。 東京帝国大学臨時附属医学専門部入学。 麻布中復帰。 松本高等学校理科乙類(新制信州大学文理学部の前身)卒業(『どくとるマンボウ青春記』の前半の舞台)。 東北大学医学部卒業(『どくとるマンボウ青春記』の後半の舞台)。 博士論文「精神分裂病における微細精神運動の一考察」により医学博士(慶應義塾大学、1960年)。 慶應義塾大学病院神経科助手 (1952 - 1961)(この時期を描いたのが『どくとるマンボウ医局記』) 山梨県立精神病院出向 (1956 - 1957) 水産庁の漁業調査船照洋丸の船医 (1958.11 - 1959.4)(このときの経験を基に書いたのが『どくとるマンボウ航海記』) 兄、斎藤茂太の斎藤神経科医院非常勤 (1961 - 1965)。この頃患者の一人に小林信彦がいた。 芥川賞『夜と霧の隅で』 毎日出版文化賞『楡家の人びと』 日本文学大賞『輝ける碧き空の下で』 大佛次郎賞『青年茂吉』『壮年茂吉』『茂吉彷徨』『茂吉晩年』の茂吉評伝4部作。 『幽霊-或る幼年と青春の物語』文藝首都社1954 中央公論社 1960、新潮文庫 1965 角川文庫1968 限定版 中央公論社1980 『夜と霧の隅で』新潮社 1960、新潮文庫1963 『羽蟻のいる丘』文芸春秋新社 1960、ファラオ企画 1991 『遥かな国遠い国』新潮社 1961、新潮文庫1971 『船乗りクプクプの冒険』集英社 1962 角川文庫1969 新潮文庫1971 集英社文庫1977 『みつばち ぴい』(童話)フレーベル館 1964 『楡家の人びと』新潮社 1964、新潮文庫1971 『牧神の午後』冬樹社 1965、中公文庫1982、限定版署名入 成瀬書房1977 『高みの見物』新潮社 1965、新潮小説文庫1968 新潮文庫1972 『天井裏の子供たち』新潮社 1966 新潮文庫1975 『白きたおやかな峰』新潮社1966 新潮文庫1980 河出文庫2012 『怪盗ジバコ』文藝春秋 1967 文春文庫1974 新潮文庫1987 『奇病連盟』朝日新聞社 1967 新潮文庫1974 『黄色い船』新潮社 1968、改題「黄いろい船」新潮文庫 『黄色い船』新潮社1968 新潮文庫1978 『さびしい王様』新潮社 1969 新潮文庫1981 限定版 新潮社1974 『星のない街路』中央公論社 1969 新潮文庫1973 『少年』中央公論社 1970 中公文庫1975 限定版 中央公論社1971 『羽蟻のゐる丘・蝦蟇』限定版 青蛾書房1971 『ぼくのおじさん』旺文社 1972、新潮文庫1981 『酔いどれ船』新潮社 1972 新潮文庫1982 『さびしい乞食』新潮社 1974、新潮文庫1983 限定版 新潮社1974 『岩尾根にて』限定版 青娥書房 1975 『木精』新潮社 1975、新潮文庫1979 『狂詩初稿』限定版署名入 中央公論社 1975 『さびしい姫君』(童話)新潮社 1977、文庫 『むすめよ… どくとるマンボウのおくりもの』(童話)小学館 1977 『悪魔のくる家』(童話)新潮社 1978、文庫 『よわむしなおばけ』(絵本)旺文社 1978 『まっくらけのけ』(童話)新潮社 1979、文庫 『ローノとやしがに どくとるマンボウのとんちばなし』(童話)小学館 1979 『歌集 寂光』中央公論社 1981 『人工の星』潮出版社 1981、集英社文庫 『父っちゃんは大変人』文藝春秋 1981、文春文庫、新潮文庫 『輝ける碧き空の下で』新潮社(全2巻)1982-1986、文庫(全4巻) 『地球さいごのオバケ』(童話)河出書房新社 1985 『優しい女房は殺人鬼』新潮社 1986、文庫 『大日本帝国スーパーマン』新潮社 1987、文庫 『大結婚詐欺師』角川書店 1987、文庫 『夢一夜・火星人記録』新潮社 1989、文庫 『怪盗ジバコの復活』新潮社 1989、文庫 『日米ワールド・シリーズ』実業之日本社 1991、新編「私はなぜにしてカンヅメに大失敗したか」文庫 2012 『神々の消えた土地』新潮社 1992、文庫 『うすあおい岩かげ』(詩集)中央公論社 1993 『母の影』新潮社 1994、文庫 『消えさりゆく物語』新潮社 2000、文庫 『マンボウ最後の名推理』青春出版社 2003、実業之日本社文庫 2013 『巴里茫々』新潮社 2011、文庫 著書には、随筆と短編小説が一冊の著書の中に混在した作品がある。 『あくびノオト』新潮社 1961。文庫 1975。改題『マンボウあくびノオト』中公文庫 1997。「第三惑星ホラ株式会社」「少年と狼」「活動写真」所収。 『へそのない本』新潮社 1963。文庫 1976 『マンボウおもちゃ箱』新潮社 1967。文庫 1977 『マンボウぼうえんきょう』新潮社 1973。文庫 1979 『マンボウ博士と怪人マブゼ』新潮社 1978。文庫 1984 『マンボウVSブッシュマン』新潮社 1987。文庫 1991 題名に「どくとるマンボウ」を冠するエッセイは、一定のテーマに基づいて書かれており、他の「マンボウ」を冠するエッセイ集とは区別されている。また、最初の『航海記』を出版した中央公論社への恩義から、『航海記』から『医局記』までは、すべて最初の単行本は中央公論社で刊行されている(「私の履歴書」の単行本化である『回想記』は日本経済新聞出版社から刊行。また、没後刊行の書籍ではこの原則に沿っていないものもある)。 『どくとるマンボウ航海記』中央公論社 1960、新潮文庫 1965、中公文庫、角川文庫 『どくとるマンボウ昆虫記』中央公論社 1961、新潮文庫、角川文庫 『どくとるマンボウ小辞典』中央公論社 1963、文庫 『どくとるマンボウ途中下車』中央公論社 1966、文庫・新版 『どくとるマンボウ青春記』中央公論社 1968、中公文庫、新潮文庫 『どくとるマンボウ追想記』中央公論社 1976、文庫、小学館 2015 『どくとるマンボウ医局記』中央公論社 1993、文庫・新版 『どくとるマンボウ回想記』日本経済新聞出版社 2007、日経文芸文庫 2013。「私の履歴書」掲載 『南太平洋ひるね旅』新潮社 1962、文庫 『月と10セント マンボウ赤毛布米国旅行記』朝日新聞社 1971、新潮文庫 『人間とマンボウ』中央公論社 1972、文庫・新版 『マンボウ周遊券』新潮社 1976、文庫 『マンボウ夢遊郷 中南米を行く』文藝春秋 1978、文庫 『マンボウ響躁曲 地中海・南太平洋の旅』文藝春秋 1979、文庫 『マンボウ宝島 若者のためのエッセイ集』創隆社 1981、加筆・改題「マンボウ的人生論」同 1991 『マンボウ雑学記』岩波新書黄版 1981 『親不孝旅日記』角川書店 1981、文庫 『マンボウ人間博物館』文藝春秋 1982、文庫、新潮文庫 『マンボウ・マブゼ共和国建国由来記』集英社 1982、文庫 『マンボウ交遊録』読売新聞社 1982、新潮文庫 『北杜夫による北杜夫-試みの自画像』青銅社 1982 『マンボウの乗馬読本』集英社 1983、改題「マンボウ素人乗馬読本」新潮文庫 『マンボウ万華鏡 物語の中の物語』PHP研究所 1983 『マンボウ百一夜』新潮社 1984、文庫 『マンボウの朝とマブゼの夜』朝日新聞社 1986。自選集 『或る青春の日記』中央公論社 1988、文庫 『マンボウ酔族館』(1-6) 実業之日本社 1988-1999、新潮文庫(1・2のみ) 『マンボウ氏の暴言とたわごと』新潮社 1991、文庫 『孫ニモ負ケズ』新潮社 1997、文庫 『マンボウ哀愁のヨーロッパ再訪記』青春出版社 2000 『マンボウ愛妻記』講談社 2001、改題「マンボウ恐妻記」新潮文庫 『マンボウ遺言状』新潮社 2001、文庫 『マンボウ夢草紙』実業之日本社 2001、改題「マンボウ夢のまた夢」新潮文庫 『マンボウ阪神狂時代』新潮社 2004、文庫 『マンボウ最後の大バクチ』新潮社 2009、文庫 『マンボウ家の思い出旅行』実業之日本社 2010 『マンボウ最後の家族旅行』実業之日本社 2012、文庫 『見知らぬ国へ』新潮社 2012、文庫。エッセイ集・遺著 『憂行日記』新潮社 2021。斎藤国夫編 『マンボウ家族航海記』実業之日本社文庫 2011 『マンボウ思い出の昆虫記 虫と山と信州と』信濃毎日新聞社 2013 『人生のずる休み』河出書房新社 2013。新書判 『なまけもの礼讃』同上 2014 『世の中どうにかなるもんだ』同上 2014 『世を捨てれば楽になる』同上 2015 『どくとるマンボウ人生ノオト』同上 2015 『どくとるマンボウ青春の山』山と溪谷社・ヤマケイ文庫 2019 『青年茂吉―「赤光」「あらたま」時代』岩波書店 1991年6月、岩波現代文庫 2001年1月 『壮年茂吉―「つゆじも」「ともしび」時代』同 1993年7月、同文庫 2001年2月 『茂吉彷徨―「たかはら」「小園」時代』同 1996年3月、同文庫 2001年3月 『茂吉晩年―「白き山」「つきかげ」時代』同 1998年3月、同文庫 2001年4月 『若き日と文学と』(辻邦生との対談)中央公論社 1970、文庫 新版2019 『狐狸庵vs.マンボウ』遠藤周作との対談、講談社 1974、文庫 『狐狸庵vs.マンボウPARTⅡ』講談社1975 講談社文庫1978 『この父にして』斎藤茂太対談 毎日新聞社 1976、講談社文庫 『快妻オバサマvs.躁児マンボウ』(1・2、母・輝子との対談)文藝春秋 1977、文庫 『乗物万歳』阿川弘之対談 中央公論社 1977、文庫 『美女とマンボウ(対談集)人類とマンボウ1』講談社 1977 『怪人とマンボウ(対談集)人類とマンボウ2』講談社 1977 『スターとマンボウ(対談集)人類とマンボウ3』講談社 1977 『マンボウ談話室(対談集)』講談社 1977 『マンボウぱじゃま対談 美女かいぼう編』集英社 1978、文庫 『マンボウぱじゃま対談 男性かいぼう編』集英社 1978、文庫 『この母にして』斎藤輝子対談 文藝春秋 1980 『さびしい文学者の時代「妄想病」対「躁鬱病」対談』埴谷雄高対談 中央公論社 1982、文庫 『難解人間vs躁鬱人間』埴谷雄高対談 中央公論社 1990、文庫 『竹取物語 少年少女古典文学館2』講談社 1991、新版2009。他は俵万智「伊勢物語」 『酔生夢死か、起死回生か。』阿川弘之共著 新潮社 2002、文庫 『パパは楽しい躁うつ病』斎藤由香対談 朝日新聞社、2009、新潮文庫 『若き日の友情 辻邦生・北杜夫往復書簡』新潮社 2010、文庫 『北杜夫全集』全15巻、新潮社 1976-1977 『北杜夫自選短編集』読売新聞社 1981、「静謐」中公文庫 『現代漫画』全27巻 鶴見俊輔、佐藤忠男と共編、筑摩書房 1970-1971 『ミッキー英語コミック文庫』全13巻、講談社 1976-1977 『乗らない・乗る・乗れば』(楽しみと冒険7)新潮社 1979 『山 日本の名随筆10』作品社 1983 『斎藤茂吉随筆集』阿川弘之共編、岩波文庫 1986 千夜一夜物語 - 女奴隷市の野次馬(声優) すばらしき仲間(中部日本放送制作・TBS系列、遠藤周作と佐藤愛子と共演) すばらしき仲間(中部日本放送制作・TBS系列・1984年、奥本大三郎、鳩山邦夫、真野あずさと共演) サザエさん パート1(フジテレビ・1981年) 週刊ブックレビュー(NHK制作・2010年・辻邦生との往復書簡集「若き日の友情」を紹介) ネスカフェゴールドブレンド(1974年) どくとるマンボウ&怪盗ジバコ 宇宙より愛をこめて(日生ファミリースペシャル、1983年)-『どくとるマンボウ』と『怪盗ジバコ』のクロスオーバー作品。 コミック版どくとるマンボウ昆虫記(小学館+手塚プロダクション 2013) ぼくのおじさん(東映、2016年秋公開。監督:山下敦弘、主演:松田龍平、大西利空) クレージーの怪盗ジバコ(東宝、1967年秋公開。監督:田波靖男・市川喜一、主演:植木等)-『怪盗ジバコ』が原作だが話はほぼ別物。 奥野健男『北杜夫の文学世界』中央公論社 1978、のち中公文庫 河出書房新社編『総特集 北杜夫 どくとるマンボウ文学館』KAWADE夢ムック 2012、増補新版2016 別冊宝島編集部編『北杜夫マンボウ文学読本』宝島社 2016 どくとるマンボウ ユーモア闘病記 〜作家・北杜夫とその家族〜(NHK・テレビマンユニオン制作・BSプレミアムドラマ・2013年・北杜夫役:佐野史郎・脚本・演出:坂田能成) 遠藤周作
阿川弘之
星新一
宮脇俊三
辻邦生
佐藤愛子
なだいなだ
三島由紀夫
奥野健男
埴谷雄高
谷内六郎
^ 『少年倶楽部』『千夜一夜物語』の子ども版の他に、姉が読書家だった影響を受け、岩波文庫版『グリム童話集』などを読む。奥野健男『北杜夫の文学世界』中央公論社 1978、p.21 ^ 中学に入ってから、江戸川乱歩作品や『新青年』などを読む。奥野健男『北杜夫の文学世界』中央公論社 1978、p.22 ^ 1945年(昭和20年)5月25日、生家が焼失した。6月に松本高校の思誠寮に転入。北杜夫・辻邦生『若き日と文学と』中公文庫 1974、p.10 ^ 「珍しい高山の昆虫が多いという理由で」志望した。奥野健男『北杜夫の文学世界』中央公論社 1978、p.14 ^ 旧制高校に「インターハイ」は無いとの見解もあるが、北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』(全集13巻、pp.46-47)にはこのように記載されている。 ^ この作品は、「クラブ社」発行の『動く小説と実話』1949年1月号に「加藤武夫」名義で掲載されたユーモア小説「手紙」である。編集者の斎藤国夫がプランゲ文庫の調査で発見し、『文藝別冊 北杜夫〈増補新版〉 どくとるマンボウ文学館』(河出書房新社〈KAWADE夢ムック〉、2016年)に全文が再録された。 ^ 1970年(昭和45年)1月の終刊まで参加した。北杜夫『人間とマンボウ』中公文庫 1975、pp.28-45 ^ ドイツ・ハンブルクでは後に妻となる喜美子と出会っている。(“家族が語る北杜夫さんの思い出”. 2022年5月9日閲覧。)この件に関して、船長が退職後に、ドイツの恋人に会いに行くのが目的だったとNHKインタビューで語っている。 ^ 『人工の星』潮出版社 1981(のち潮文庫 1983。集英社文庫 1984、ISBN 4-08-750762-9)。収録作は「第三惑星ホラ株式会社」「空地」「贅沢」「意地悪爺さん」「うつろの中」「童女」「買物」「推奨株」「陸魚」「月世界征服」「活動写真」「朝の光」「人工の星」。収録作以外のSF作品に「不倫」「火星人記録」「大日本帝国スーパーマン」「新大陸発見」など。 ^ 「白き」は文語で、「たおやなか」は口語なので矛盾している。小谷野敦は『頭の悪い日本語』(新潮新書)で、北が「徹子の部屋」に出演した時に「白きたおやかなる峰」か「白いたおやかな峰」でなければおかしい、と自分で語っていたという。三島由紀夫からも同じ指摘を受けたが直さなかったため激昂した三島と一時的に絶縁していたことがある。北によれば、三島由紀夫から電話で直接「白いたおやかな峰か、或いは白きたおやかなる峰か、白きたおやかの峰、とすべきだろう」と指摘されたという。北は、「考えてみればその通りである。しかし、語感の点から、また短歌などで文語、口語をごっちゃにする例もあるので、私はそのままにした」と記している。 ^ 宮脇俊三は、「書籍編集の常識では考えにくい」が、「生ま生ましいまでに「北杜夫そのもの」」「マンボウ亭のヴァイキング料理」と評している。 ^ 純文学系では、阿川弘之や遠藤周作など「第三の新人」の面々と交友が深い。 ^ 北杜夫『どくとるマンボウ昆虫記』 ^ 奥野健男『北杜夫の文学世界』中央公論社 1978、p.29 ^ 北杜夫『どくとるマンボウ追想記』p.96 ^ 北杜夫『どくとるマンボウ追想記』p.135 ^ 北杜夫『どくとるマンボウ追想記』pp.153-154 ^ 『若き日の友情――辻邦生・北杜夫往復書簡』新潮社 2010年7月 ^ 北杜夫『どくとるマンボウ青春記』 ^ 北杜夫『怪人とマンボウ』講談社 1977、p.141 ^ 北杜夫『怪人とマンボウ』講談社 1977、p.89 ^ 宮城)仙台で過ごした医学生時代 仙台文学館で北杜夫展(朝日新聞 2015年5月27日) ^ 北杜夫『人間とマンボウ』中公文庫 1975、p.28 ^ 北杜夫『マンボウ談話室』講談社 1977、p.109 ^ 北杜夫『どくとるマンボウ医局記』中央公論社 1993 ^ 『幽霊―或る幼年と青春の物語』新潮文庫 1965 初出版元付記 ^ 『幽霊―或る幼年と青春の物語』新潮文庫 1965、奥野健男 解説 ^ 北杜夫・辻邦生『若き日と文学と』中公文庫 1974、pp.57-62 ^ 北杜夫『マンボウマブゼ共和国建国由来記』集英社 1982年5月 ^ 北杜夫『マンボウ酔族館』pp.190-194 ^ 佐野眞一『人を覗にいく』p.42 ^ 北杜夫『マンボウ酔族館』p.220 ^ 北杜夫『マンボウ最後の家族旅行』実業之日本社 2012、p.173 ^ 北杜夫『美女とマンボウ』講談社 1977、pp.78-79 ^ 『窓際OL 会社はいつもてんやわんや』斎藤由香 新潮社 2005年12月 ^ 2008年(平成20年)5月12日放送(黒柳徹子のTV出演情報 83ページ目 | ORICON STYLE、「ワイド!スクランブル」 2011年11月9日(水)放送内容) ^ 『週刊文春』2010年8月26日号 ^ “「どくとるマンボウ」北杜夫さん死去”. 読売新聞(web). (2011年10月2日). オリジナルの2011年10月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111027222323/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20111026-OYT1T00081.htm 2011年10月26日閲覧。 ^ 故北杜夫氏に従四位 日本経済新聞夕刊 2012年11月22日 ^ “作家の北杜夫さん死去 「どくとるマンボウ」シリーズ”. 朝日新聞デジタル. (2011年10月26日). オリジナルの2011年10月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111028175808/http://www.asahi.com/obituaries/update/1026/TKY201110260123.html ^ “北杜夫さんは窒息死? 医師の説明不適切、解剖行われず”. 朝日新聞デジタル(朝日新聞同日東京本社版社会面掲載). (2012年9月9日). オリジナルの2012年9月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120909052629/http://www.asahi.com/national/update/0909/TKY201209080607.html ^ amazon『筑摩現代文学大系 87 北杜夫・辻邦生集』作者紹介 2018年7月23日閲覧 ^ 『S-Fマガジン』1963年2月号。 ^ 原田実 著「SF作家、推理作家――北杜夫、再発見。」、別冊宝島編集部 編『北杜夫 マンボウ文学読本』宝島社、2016年11月18日、151頁。ISBN 978-4-8002-6253-0。 ^ 北杜夫『見知らぬ国へ』新潮社、2012年10月20日、192頁。ISBN 978-4-10-306238-7。 初出は『北杜夫全集』第9巻月報(1976年)。 ^ 作家 北杜夫さんの別荘 保存のため移築を検討中 軽井沢ウェブ(2021年8月10日) ^ 西田誠『たねの生いたち (岩波科学の本〈3〉)』(初版)岩波書店(原著1972年5月)。ASIN B000JBTBM8。 ^ “新種コガネムシ:北杜夫さんにちなみ和名「マンボウ」”. 毎日新聞web. (2011年9月16日). オリジナルの2011年10月29日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20111029111653/http://mainichi.jp/select/today/archive/news/2011/09/16/20110916k0000e040066000c.html ^ 北杜夫「表面的な思い出など――三島由紀夫氏」『人間とマンボウ』中央公論社〈中公文庫〉、1975年11月10日、21頁。ISBN 4-12-200278-8。 初出『新潮』1972年11月号。 ^ 宮脇俊三「解説―隣人マンボウ氏・その2―」『マンボウ博士と怪人マブゼ』新潮社〈新潮文庫〉、1984年7月25日、275頁。ISBN 4-10-113129-5。 ^ 北杜夫『どくとるマンボウ医局記』中央公論社、1993年1月25日、289頁。ISBN 4-12-002184-X。 ^ 北杜夫『見知らぬ国へ』2012年10月20日、214頁。ISBN 978-4-10-306238-7。 ^ プレミアムドラマ どくとるマンボウ ユーモア闘病記 ~作家・北杜夫とその家族 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス ^ 番組エピソード 事実は小説より奇なり【実話ドラマ特集】-NHKアーカイブス ^ なだいなだ (2011年10月31日). “マンボウ 日本人を解放 北杜夫さんを悼む”. 朝日新聞東京本社版: p. 30 ^ 北杜夫『人間とマンボウ』中公文庫 1975、p.65 第三の新人 北杜夫 - NHK人物録 表 話 編 歴 第1回 石川達三「蒼氓」 第2回 該当作品なし 第3回 小田嶽夫「城外」/ 鶴田知也「コシャマイン記」 第4回 石川淳「普賢」/ 冨澤有爲男「地中海」 第5回 尾崎一雄「暢気眼鏡」他 第6回 火野葦平「糞尿譚」 第7回 中山義秀「厚物咲」 第8回 中里恒子「乗合馬車」他 第9回 半田義之「鶏騒動」/ 長谷健「あさくさの子供」 第10回 寒川光太郎「密獵者」 第11回 高木卓「歌と門の盾」 第12回 櫻田常久「平賀源内」 第13回 多田裕計「長江デルタ」 第14回 芝木好子「青果の市」 第15回 該当作品なし 第16回 倉光俊夫「連絡員」 第17回 石塚喜久三「纏足の頃」 第18回 東野邊薫「和紙」 第19回 八木義徳「劉廣福」/ 小尾十三「登攀」 第20回 清水基吉「雁立」 第21回 由起しげ子「本の話」/ 小谷剛「確証」 第22回 井上靖「闘牛」「猟銃」 第23回 辻亮一「異邦人」 第24回 該当作品なし 第25回 安部公房「壁 S・カルマ氏の犯罪」/ 石川利光「春の草」他 第26回 堀田善衛「広場の孤独」「漢奸」他 第27回 該当作品なし 第28回 五味康祐「喪神」/ 松本清張「或る『小倉日記』伝」 第29回 安岡章太郎「悪い仲間・陰気な愉しみ」 第30回 該当作品なし 第31回 吉行淳之介「驟雨」他 第32回 小島信夫「アメリカン・スクール」、庄野潤三「プールサイド小景」 第33回 遠藤周作「白い人」 第34回 石原慎太郎「太陽の季節」 第35回 近藤啓太郎「海人舟」 第36回 該当作品なし 第37回 菊村到「硫黄島」 第38回 開高健「裸の王様」 第39回 大江健三郎「飼育」 第40回 該当作品なし 第41回 斯波四郎「山塔」 第42回 該当作品なし 第43回 北杜夫「夜と霧の隅で」 第44回 三浦哲郎「忍ぶ川」 第45回 該当作品なし 第46回 宇能鴻一郎「鯨神」 第47回 川村晃「美談の出発」 第48回 該当作品なし 第49回 後藤紀一「少年の橋」/ 河野多惠子「蟹」 第50回 田辺聖子「感傷旅行 センチメンタル・ジャーニィ」 第51回 柴田翔「されどわれらが日々──」 第52回 該当作品なし 第53回 津村節子「玩具」 第54回 高井有一「北の河」 第55回 該当作品なし 第56回 丸山健二「夏の流れ」 第57回 大城立裕「カクテル・パーティー」 第58回 柏原兵三「徳山道助の帰郷」 第59回 丸谷才一「年の残り」/ 大庭みな子「三匹の蟹」 第60回 該当作品なし 第61回 庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」/ 田久保英夫「深い河」 第62回 清岡卓行「アカシヤの大連」 第63回 吉田知子「無明長夜」/ 古山高麗雄「プレオー8の夜明け」 第64回 古井由吉「杳子」 第65回 該当作品なし 第66回 李恢成「砧をうつ女」/ 東峰夫「オキナワの少年」 第67回 畑山博「いつか汽笛を鳴らして」/ 宮原昭夫「誰かが触った」 第68回 山本道子 「ベティさんの庭」/ 郷静子「れくいえむ」 第69回 三木卓「鶸」 第70回 野呂邦暢「草のつるぎ」/ 森敦「月山」 第71回 該当作品なし 第72回 日野啓三「あの夕陽」/ 阪田寛夫「土の器」 第73回 林京子「祭りの場」 第74回 中上健次「岬」/ 岡松和夫「志賀島」 第75回 村上龍「限りなく透明に近いブルー」 第76回 該当作品なし 第77回 三田誠広「僕って何」/ 池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」 第78回 宮本輝「螢川」/ 高城修三 「榧の木祭り」 第79回 高橋揆一郎「伸予」/ 高橋三千綱「九月の空」 第80回 該当作品なし 第81回 重兼芳子「やまあいの煙」/ 青野聰「愚者の夜」 第82回 森禮子「モッキングバードのいる町」 第83回 該当作品なし 第84回 尾辻克彦「父が消えた」 第85回 吉行理恵「小さな貴婦人」 第86回 該当作品なし 第87回 該当作品なし 第88回 加藤幸子 「夢の壁」/ 唐十郎「佐川君からの手紙」 第89回 該当作品なし 第90回 笠原淳「杢二の世界」、高樹のぶ子「光抱く友よ」 第91回 該当作品なし 第92回 木崎さと子「青桐」 第93回 該当作品なし 第94回 米谷ふみ子「過越しの祭」 第95回 該当作品なし 第96回 該当作品なし 第97回 村田喜代子「鍋の中」 第98回 池澤夏樹「スティル・ライフ」/ 三浦清宏「長男の出家」 第99回 新井満 「尋ね人の時間」 第100回 南木佳士「ダイヤモンドダスト」/ 李良枝「由煕」 第101回 該当作品なし 第102回 大岡玲「表層生活」/瀧澤美恵子「ネコババのいる町で」 第103回 辻原登「村の名前」 第104回 小川洋子「妊娠カレンダー」 第105回 辺見庸「自動起床装置」/ 荻野アンナ「背負い水」 第106回 松村栄子「至高聖所アバトーン」 第107回 藤原智美「運転士」 第108回 多和田葉子「犬婿入り」 第109回 吉目木晴彦「寂寥郊野」 第110回 奥泉光「石の来歴」 第111回 室井光広「おどるでく」/笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」 第112回 該当作品なし 第113回 保坂和志「この人の閾」 第114回 又吉栄喜「豚の報い」 第115回 川上弘美「蛇を踏む」 第116回 辻仁成「海峡の光」/ 柳美里「家族シネマ」 第117回 目取真俊「水滴」 第118回 該当作品なし 第119回 花村萬月「ゲルマニウムの夜」/ 藤沢周「ブエノスアイレス午前零時」 第120回 平野啓一郎「日蝕」 第121回 該当作品なし 第122回 玄月「蔭の棲みか」/ 藤野千夜「夏の約束」 第123回 町田康「きれぎれ」/ 松浦寿輝「花腐し」 第124回 青来有一「聖水」/ 堀江敏幸「熊の敷石」 第125回 玄侑宗久「中陰の花」 第126回 長嶋有「猛スピードで母は」 第127回 吉田修一「パーク・ライフ」 第128回 大道珠貴「しょっぱいドライブ」 第129回 吉村萬壱「ハリガネムシ」 第130回 金原ひとみ「蛇にピアス」/ 綿矢りさ「蹴りたい背中」 第131回 モブ・ノリオ「介護入門」 第132回 阿部和重「グランド・フィナーレ」 第133回 中村文則「土の中の子供」 第134回 絲山秋子「沖で待つ」 第135回 伊藤たかみ「八月の路上に捨てる」 第136回 青山七恵「ひとり日和」 第137回 諏訪哲史「アサッテの人」 第138回 川上未映子「乳と卵」 第139回 楊逸「時が滲む朝」 第140回 津村記久子「ポトスライムの舟」 第141回 磯﨑憲一郎「終の住処」 第142回 該当作品なし 第143回 赤染晶子「乙女の密告」 第144回 朝吹真理子「きことわ」/ 西村賢太「苦役列車」 第145回 該当作品なし 第146回 円城塔「道化師の蝶」/ 田中慎弥「共喰い」 第147回 鹿島田真希「冥土めぐり」 第148回 黒田夏子「abさんご」 第149回 藤野可織「爪と目」 第150回 小山田浩子「穴」 第151回 柴崎友香「春の庭」 第152回 小野正嗣「九年前の祈り」 第153回 羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」/ 又吉直樹「火花」 第154回 滝口悠生「死んでいない者」/ 本谷有希子「異類婚姻譚」 第155回 村田沙耶香「コンビニ人間」 第156回 山下澄人「しんせかい」 第157回 沼田真佑「影裏」 第158回 石井遊佳「百年泥」/ 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」 第159回 高橋弘希「送り火」 第160回 上田岳弘「ニムロッド」/ 町屋良平「1R 1分34秒」 第161回 今村夏子「むらさきのスカートの女」 第162回 古川真人「背高泡立草」 第163回 高山羽根子「首里の馬」/ 遠野遥「破局」 第164回 宇佐見りん「推し、燃ゆ」 第165回 石沢麻依「貝に続く場所にて」/ 李琴峰「彼岸花が咲く島」 第166回 砂川文次「ブラックボックス」 第167回 高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」 第168回 井戸川射子「この世の喜びよ」/ 佐藤厚志「荒地の家族」 第169回 市川沙央「ハンチバック」 第170回 九段理江「東京都同情塔」 第171回 朝比奈秋「サンショウウオの四十九日」/ 松永K三蔵「バリ山行」 FAST ISNI
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ドイツ イスラエル アメリカ 日本 チェコ 韓国 ポーランド CiNii Books CiNii Research IdRef 北杜夫 20世紀日本の小説家 21世紀日本の小説家 20世紀日本の随筆家 21世紀日本の随筆家 芥川賞受賞者 日本藝術院会員 20世紀日本の精神科医 21世紀日本の精神科医 日本のコレクター 日本の紀行作家 アポロ計画 日本の闘病記著者 斎藤家 旭日中綬章受章者 従四位受位者 私の履歴書の登場人物 東北大学出身の人物 旧制松本高等学校出身の人物 麻布中学校・高等学校出身の人物 東京都区部出身の人物 1927年生 2011年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ Titlestyleにbackgroundとtext-alignを両方指定しているcollapsible list使用ページ 2024/11/13 05:26更新
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kita morio
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