国枝利通の情報(くにえだとしみち) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
国枝 利通さんについて調べます
■名前・氏名 |
国枝利通と関係のある人
高木守道: 卒業後は早稲田大学へ進学することが決まっていたが、中日は球団と県岐阜商のOBである国枝利通を通じて高木を翻意させ、入団を実現させた。 |
国枝利通の情報まとめ
国枝 利通(くにえだ としみち)さんの誕生日は1920年6月23日です。岐阜出身の野球選手のようです。
卒業、引退、テレビに関する情報もありますね。2011年に亡くなられているようです。
国枝利通のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 国枝 利通(くにえだ としみち、1920年6月23日 - 2011年3月8日)は、岐阜県岐阜市出身のプロ野球選手(内野手)、野球解説者、実業家。 岐阜商業学校で、1938年春の第15回選抜中等学校野球大会と同年夏の第24回全国中等学校優勝野球大会に出場。春は東邦商業学校に準決勝で敗れ、夏は決勝で平安中学校にサヨナラ負けし準優勝に終わったが、1940年春の第17回選抜中等学校野球大会では5番打者・中堅手として優勝に貢献。チームメイトにはエース投手の大島信雄がいた。 卒業後は明治大学へ進み、大学卒業後は地元の社会人野球チームの大日本土木に所属。1946年と1947年にエースの中原宏らと共に都市対抗野球大会を2年連続で優勝した。 1948年、中日ドラゴンズ(1951年 - 1953年は名古屋ドラゴンズ)へ入団しプロ入り。1年目に自慢の俊足で34盗塁を記録した。3年目は二塁のレギュラーを獲得し、133試合に出場して自己最多の39盗塁をマークした。1952年は116試合に出場し、打率.303と初の打率3割を打ち、リーグ8位の記録だった。1954年は井上登の活躍もあって試合出場も減り、またプロ入りして間もない頃に頭部に受けた死球の後遺症などもあって初のリーグ・シリーズを優勝したこの年に引退した。 引退後は1959年より東海テレビ専属第1号の解説者へ就任。その後、中日の球団職員を経て、株式会社ナゴヤ球場→株式会社ナゴヤドーム(1997年より)の取締役を歴任した。 2011年3月8日、肺炎のため岐阜市の病院で死去。90歳没。 各年度の太字はリーグ最高 中日(中日ドラゴンズ)は、1951年に名古屋(名古屋ドラゴンズ)に、1954年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更 3 (1948年 - 1954年) ※いずれも、国枝が専属していた頃(1959年 - 1960年代頃)の東海テレビが組んでいたキー局・ネットワークにおけるプロ野球中継の現行統一タイトル。 SAMURAI BASEBALL - 1959年のみ組んでいた、TBS系列のプロ野球中継における2016年以降の統一タイトル 次の瞬間、熱くなれ。THE BASEBALL - 1962年3月まで組んでいた、日本テレビ系列のプロ野球中継における2015年以降の統一タイトル 野球道 〜新時代〜 - フジテレビ系列のプロ野球中継における2016年以降の統一タイトル ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、197ページ ^ “国枝利通氏死去 元プロ野球中日選手”. 47NEWS (2011年3月9日). 2011年3月17日閲覧。 ^ “元中日の国枝利通氏死去”. スポニチ Sponichi Annex 野球 (2011年3月9日). 2011年9月9日閲覧。 岐阜県出身の人物一覧 明治大学の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 個人年度別成績 国枝利通 - NPB.jp 日本野球機構 日本の野球選手 岐阜県立岐阜商業高等学校出身の野球選手 明治大学野球部の選手 大日本土木硬式野球部の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 野球解説者 東海テレビの人物 日本の実業家 岐阜県出身の人物 1920年生 2011年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/20 13:50更新
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kunieda toshimichi
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