大嶺祐太の情報(おおみねゆうた) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
大嶺 祐太さんについて調べます
■名前・氏名 |
大嶺祐太と関係のある人
徳島早苗: 2006年8月に八重山商工野球部の大嶺祐太・金城長靖の似顔絵を自らのブログにアップしているが、そのイラストが石垣島の八重山商工応援の際使用された。 黒滝将人: 2007年は2軍で先発ローテに入り、15試合で4勝7敗、防御率4.76と高卒1年目の選手としては好成績を残し、同期入団の大嶺祐太と共に次代のエース候補として期待された。 田中貴也: 京都・南丹市立園部中学校時代に甲子園での大嶺祐太らの活躍に触発され、伊志嶺吉盛監督の指導を受けるため沖縄県石垣市の八重山商工に進学。 栗原健太: しかし6月10日の千葉ロッテマリーンズ戦で大嶺祐太から右手首に死球を受けて骨折、約2か月戦線を離脱しオールスターもファン投票で選出されたが辞退した。 中田翔: 翌20日の千葉ロッテマリーンズ戦にも先発出場し、大嶺祐太からプロ入り初本塁打(公式戦91打席目)を打った。 三好匠: 6月21日の対千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)に「9番・三塁手」として先発出場すると、2回裏の打席に、大嶺祐太からの安打で一軍初打点を記録した。 北川利之: 2008年6月25日のイースタン・リーグでの対ロッテ戦で大嶺祐太との対戦時にファウルチップで右手有鈎骨を骨折、手術し1か月半戦線を離脱、一軍出場も入団以来初となるゼロに終わった。 伊志嶺吉盛: 主力であった大嶺祐太らを小学生時代から指導していた。 永野吉成: 2006年の高校生ドラフトで、ロッテは1位で八重山商工高の大嶺祐太を1位に強行指名したが、このときのロッテの担当スカウトは永野だった。 嘉弥真新也: 石垣島には高校が3校しか無い中、のちに大嶺祐太を擁して離島旋風を巻き起こした八重山商工高校があったものの、入試に落ちたくなかったこと、八重山商工に好選手が集まっていたこと、幼馴染みの好選手・長間翔悟が八重山農林への進学を決めたことを理由に、八重山農林高校へ進学した。 丸佳浩: 延長戦で敗れたが、相手エースの大嶺祐太から安打を記録している。 三好匠: 初打点:2015年6月21日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(QVCマリンフィールド)、2回表に大嶺祐太から左前適時打 平良海馬: 進学した八重山商工高校は、平良の在学中に伊志嶺吉盛監督が退任したり、石垣島内の他の高校の人気が上がっていたりしたため、2006年に大嶺祐太を擁して春夏連続で甲子園出場した頃の面影は全くなくなっていた。 立花龍司: 同年秋に退団後はロッテへ再度復帰しヘッドコンディショニングコーチなどを歴任し、大嶺祐太などを指導していた。 マイカ=ホフパワー: 4月17日の千葉ロッテマリーンズ戦では、1回裏に大嶺祐太から2試合連続となる逆転満塁本塁打を放ち、この日プロ初先発の斎藤佑樹の初勝利に貢献した。 福田秀平: 2006年9月25日のドラフト会議・高校生選択会議で大嶺祐太(八重山商工)の交渉権を獲得できなかったソフトバンクから1巡目指名を受け、同年10月19日に仮契約を結んだ。 屋宜照悟: 中部商業高校時代には甲子園球場の全国大会と無縁で、3年夏の選手権沖縄大会決勝では、大嶺祐太擁する八重山商工高校に3 - 7というスコアで敗れた。 高濱卓也: 1学年先輩の福田永将・佐藤賢治とのクリーンナップで、土井健大を擁する履正社高、大嶺祐太を擁する八重山商工高、斎藤佑樹を擁する早稲田実業高、尾藤竜一を擁する岐阜城北高などを破った末に優勝。 北川利之: 初本塁打・初打点:2009年6月8日、対千葉ロッテマリーンズ4回戦(横浜スタジアム)、5回裏に大嶺祐太から右越逆転決勝満塁本塁打 和田毅: オフには和田との自主トレを志願した藤岡好明、岩嵜翔、千葉ロッテマリーンズの大嶺祐太と一緒に合同自主トレを行った。 円谷英俊: 3月29日、千葉ロッテマリーンズ二軍とのイースタン・リーグ公式戦において大嶺祐太から、チームシーズン第1号となる初本塁打を放つ。 髙濱卓也: 1学年先輩の福田永将・佐藤賢治とのクリーンナップで、土井健大を擁する履正社高、大嶺祐太を擁する八重山商工高、斎藤佑樹を擁する早稲田実業高、尾藤竜一を擁する岐阜城北高などを破った末に優勝。 山田親太朗: ザ・決断!スペシャル 八重山商工野球部物語(2008年9月29日、テレビ東京) - 大嶺祐太 役 |
大嶺祐太の情報まとめ
大嶺 祐太(おおみね ゆうた)さんの誕生日は1988年6月16日です。沖縄出身の野球選手のようです。
テレビ、兄弟、引退、結婚に関する情報もありますね。今年の情報もありました。大嶺祐太の現在の年齢は36歳のようです。
大嶺祐太のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 大嶺 祐太(おおみね ゆうた、1988年6月16日 - )は、沖縄県石垣市出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。 愛称は「ゆうた」。2018年まで千葉ロッテマリーンズに所属していた大嶺翔太は実弟。 石垣島(沖縄県石垣市)生まれ。小学2年時に「八島マリンズ」で三塁手として野球を始める。中学生時代は硬式ポニーリーグの「八重山ポニーズ」で投手として活躍、3年時の2003年には世界大会3位になった。同じ沖縄出身の新垣渚を見て、プロを志したという。 小学生時代より指導を受けた伊志嶺吉盛の強い勧めで沖縄県立八重山商工高等学校に進学。2006年には春(第78回選抜高等学校野球大会)・夏(第88回全国高等学校野球選手権大会)の甲子園連続出場を果たし、八重山商工の快進撃の原動力となった。春夏2季連続出場は沖縄県の離島勢として初めて。特に春の大会では17奪三振を記録している。夏の甲子園では同大会最速となる球速151km/hを記録した。打線でもクリーンナップの5番打者におかれ、打撃面でも期待されていた。 高校入学当初は速球の速度が120km程度であったためプロ入りは頭に無かったが、九州遠征へ行った先の監督が「(反動を使ったら)一連の動作ですぐ投げろ」と指導したことで球速が1か月経つか経たないかで138km/hまで上がった。他に特別な練習はしていないのに打者が次々と空振りするようになったため「何でだろう?」と疑問に思ったといい、バックネット裏で出た球速の計測結果も最初本人は信じていなかった。その後球速は1年生で143km/hまで上がったが、まだプロは無理だと考えていた。石垣島で生まれ育ち、プロ野球が身近に存在しなかったのも、大嶺が当初プロを目指さなかった要因として大きい。そんな大嶺も春の甲子園で17奪三振を記録するとプロを意識するようになった。 ドラフト前の予想では相思相愛の福岡ソフトバンクホークスの単独1位指名が予想されていたが、当初福田秀平(多摩大聖ヶ丘高校)の1位指名を予定していた千葉ロッテマリーンズが直前になり、大嶺の1位指名に変更。ドラフトの10日前にボビー・バレンタイン監督が大嶺の映像を見て気に入り、方針転換したとされている。くじ引きの結果、ロッテが交渉権を獲得。その結果、大嶺本人も戸惑うこととなり、入団拒否が予想された。しかしロッテ側が、バレンタイン監督が石垣に来島し交渉、またキャンプ地を石垣島に移すことを決定するなど説得に努めたことで、周囲は入団を期待するムードに変わっていった。結局、2006年11月27日に石垣市内で契約を結んだ。大嶺本人が最初に下した決断は1年浪人であったため、入団決定までに長い時間がかかった。 背番号は1に決定。投手が1番を付けるのは、球団としては1981年の愛甲猛以来で、プロ野球全体では谷中真二(阪神タイガース)以来である。 2月26日、プロ初実戦の練習試合・東北楽天ゴールデンイーグルス戦で同学年の田中将大相手に投げ合い、2回4失点KOされた。 4月15日、一軍の試合終了後に開催された千葉マリンスタジアムでのイースタン・リーグ、対楽天戦で150km/hを記録した。 当初はファームでじっくり育成される予定だったが、先発ローテーションの一員である小野晋吾が脇腹を痛めたために、急遽4月30日の埼玉西武ライオンズ戦でプロ初先発。4回0/3を投げて7安打5失点で勝敗はつかなかったが、アレックス・カブレラに詰まった当たりながら本塁打されるなど、ほろ苦いデビュー戦となった。ただし、この試合はちょうどNHK総合テレビで全国放送されており、第1球にいきなり147km/hを記録、その後も最速151km/hを記録した。 セ・パ交流戦で中継ぎとして一軍登板、7月から先発ローテの一角を担う。好投しても打線の援護が得られなかったり、疲れが見えたところで打ち込まれるなど、勝ち星に恵まれない状態が続いていたが、7月24日の対北海道日本ハムファイターズ戦でダルビッシュ有と投げ合い、6回を投げ被安打4・四球2・失点2でプロ初勝利を挙げた。試合後のインタビューで「(出身地の)石垣島から(プロ野球の本拠地として)最も離れた札幌ドームで初勝利を挙げられて、とてもうれしい」と語った。 成人したこの年、オリオンビールの「リッチ」のCMに当時監督だったボビー・バレンタイン、ボクシングの具志堅用高と共に出演した。 この年のフェニックスリーグには、1歳年下の後輩唐川侑己と共に、高卒ルーキー2年目としては異例の参加免除となった。 自らソフトバンクの和田毅に頼んで和田と藤岡好明と岩嵜翔と共に一緒に自主トレを行った。 同年、沖縄県警察が広報に使う防犯ポスターに抜擢される。過去には沖縄出身の女優が起用されてきたが、男性の起用はこれで初めてとなる。 5月13日の対ソフトバンク戦では6安打に抑え、10日(楽天戦)の唐川侑己に続いてプロ初完封を果たす。試合後のヒーローインタビューでは「今日は監督(当時監督だったバレンタイン)の誕生日だったんでどうしても勝利という形で監督にプレゼントしたかったんで。それが完封という形でできて本当に良かったと思います。」と答え、ウィニングボールも監督へ贈った。シーズン全体では防御率5.78と打ち込まれるシーンも多かったが、先発の一員として5勝を挙げた。 10月のドラフト会議では実弟の翔太が3位でロッテから指名を受ける。 11月30日に背番号を1から11へ変更。 4月7日の対ソフトバンク戦で119球、被安打4、奪三振10、与四球2の内容で9回を抑え、2010年度初勝利を完封で果たした。 その後も先発で投げたが投球に安定感がなく、7月下旬に二軍降格となりその後レギュラーシーズンでの一軍登板はなかった。制球力向上のため、ワインドアップから引いた左足を上げる途中で一度止め、そこから膝を真上に上げてゆっくり踏み出す独特のフォームに改造するも次第に球威が落ち、かえって打ち込まれることが多くなってしまった。結局、7月の二軍降格後には走者がいない場面でもセットポジションから投げるようになりこの投球フォームで再び投げることはなかった。このフォームは前述の完封の際にホークス秋山幸二監督から「二段モーションどころか三段モーションではないか?」との抗議を受けていた。クライマックスシリーズでは第5戦に先発したが2回1失点で降板した(チームはその後逆転勝ちし、自身に勝ち負けはつかなかった)。 キャンプでフォームを改造、新たにスプリットフィンガード・ファストボールを習得し、オープン戦では好投球を見せ開幕ローテーション入りを掴み取ったが、4月17日に斎藤佑樹との同学年対決になった初登板で2回途中5失点でKOされ、即二軍へ降格。右肩を痛め、一軍登板はこの1試合に終わった。 ケガの影響が残り、プロ入り後初めて一軍登板なし。二軍でも24試合で防御率4.03とプロ入り後最低のシーズンとなった。 二軍公式戦で好調を維持し、約2年ぶりに一軍復帰を果たす。 5月5日のソフトバンク戦で1040日ぶりの白星を挙げ、5月19日の広島東洋カープ戦では1138日ぶりとなる完封を果たすなど復活の兆しを印象づけた年となった。 シーズン序盤は二軍で登板し、交流戦期間中の6月17日に一軍へ昇格。開幕から先発陣の一角を担っていた唐川侑己、古谷拓哉らの不調もあり、主にいわゆる「ローテーションの谷間」に先発として登板する。 7月に一度二軍へ落ちたが、8月12日に再び一軍へ昇格。8月14日の日本ハム戦において、弟の大嶺翔太が6回に代打で登場した後に一塁守備につき、自身も6回から3番手として救援登板したため、一軍では初となる兄弟での同時出場を果たした。 この年は結局、13試合に登板(うち先発9)して3勝4敗、防御率3.46。しかしながら、8月に再昇格してからの成績は9試合に登板し3勝2敗、防御率2.31と、終盤に巻き返してシーズンを終えた。 右肘痛の影響でキャンプ二軍スタートとなり開幕も二軍で迎えたが、4月19日に一軍へ昇格しリリーフで3回無失点に抑えると、そのままローテーション入りし、自己最多となる8勝を挙げた。5月10日の西武ライオンズ戦では、初めて弟の大嶺翔太と揃ってお立ち台に上がった。 前年の活躍もあり飛躍を期待されたが、開幕から先発ローテーションに入ったものの終始不調で5月頭には二軍落ち。7月後半にリリーフ要員として昇格し好投試合も多かったが突然崩れることも少なくなく、8月20日の西武戦で3失点すると二軍落ちしそのままシーズン昇格ならず僅か1勝に終わる。 契約更改では640万円ダウンの年俸3000万円でサインし、背番号を11から30へ変更。 プロ入り初の先発無しのシーズンとなったが開幕一軍ベンチ入りし登板2試合目には勝利投手にもなったが序盤以降はリリーフでも好不調波激しさは相変わらずで、交流戦の対読売ジャイアンツ戦では一死も取れず3失点で負け投手。この試合の後二軍落ちとなりその後一軍復帰はできずシーズンを終えた。 契約更改では375万円減の年俸2525万円でサインし、翌シーズンは先発一本で勝負することを球団及び首脳陣に直訴した。 先発復帰を目指していたが、春季キャンプ中に投げ込みの際に右肘の腱が切れる音がして、その後はノースロー調整となる。結局シーズンを通して状態が上がらず、プロ入り初の一軍登板無し、二軍でも僅か4試合の登板に終わり、オフに球団のメディカルチェックを受けた所右肘の断裂が発覚。契約更改では655万円ダウンの1970万円でサインした。 1月17日、右肘内側側副靱帯損傷により、靱帯再建術と鏡視下滑膜切除術を受け、全治12か月であることが公表された。 同年10月3日、球団から戦力外通告を受けた。11月26日、髙濱卓也と共に育成選手として再契約した。背番号は126。 8月23日、再び支配下選手へ昇格。背番号は64。9月1日の西武戦で3年2か月ぶりの一軍登板を果たした。オフに、270万円減となる推定年俸1200万円で契約を更改した。 リリーフ投手として5月に一軍昇格し、6月4日の横浜DeNAベイスターズ戦で約4年ぶりの白星を挙げた。シーズン通算で8試合に登板し、1勝1敗、防御率4.09を記録。 11月26日、2度目の戦力外通告を受けた。 2021年12月13日、中日ドラゴンズに育成選手として入団することが発表された。背番号は211で、推定年俸は800万円となった。 キャンプは一軍スタートだったものの支配下登録を結べず、二軍戦11試合の登板で1勝2敗1セーブ、防御率3.86の成績だった。 10月4日、球団から戦力外通告を受ける。その後の記者会見で「今後はわからないが、やりきったという思いが強い」と現役引退を示唆した。 27日、現役引退を表明し、16年のプロ生活に幕を閉じた。 2022年11月に、妻の琴菜に代わって株式会社OHの代表取締役に就任。同年12月30日に、八重山商工OBと浦添商業高校OBによる「引退試合」が石垣市中央運動公園野球場で催された。 その一方で、引退に際しては、「何らかの形で沖縄や地元に恩返ししたい」という意向を地元の関係者に表明。自宅がある東京都内で、飲食店の経営に乗り出すことも明らかにした。2022年12月1日には、共同経営による「焼き鳥職人 炭」を神田駅(東京都千代田区)の西口付近にオープン。ただし、自身は厨房での調理に携わらず、接客、経営、名古屋市に設けている系列店関連の業務を担っている。2023年7月13日には、このようなセカンドキャリアを背景に、「結婚前に妻の琴菜を通じて知り合った」という吉浦剛史(スポーツフィールド)からの招きで名桜大学(沖縄県)で特別就活講座の講師を務めた。 さらに、学生野球資格回復研修制度を通じて2023年2月3日付で資格を回復したことによって、日本学生野球協会に加盟する高校・大学の硬式野球部を指導できるようになった。実際には、同年から神奈川県横浜市で小・中学生向けに野球を指導。八重山商工在学中に取材を受けていた『熱闘甲子園』(朝日放送テレビとテレビ朝日の共同制作による全国高等学校野球選手権本大会のダイジェスト番組)が第106回大会(2024年)の開催に合わせてアニメーションのCMを制作した際には、本名の「大嶺祐太」名義で声を当てている。 同じ石垣市出身のバンドのBEGINとは、きゃんひとみに誘われて行った2007年のライブ以来の付き合い。2010年よりQVCマリンで登場曲として使用している「爬竜舟」(はりゅうせん)は、『ビギンの島唄 〜オモトタケオ3〜』に収録されている楽曲で、BEGINが大嶺のことを思い、作った曲である。 2016年2月12日、女優、DJとして活動する琴菜と10年越しの交際を経て入籍。 「中学時代のチームメイトや伊志嶺監督と一緒に野球したい」という思いで、八重山商工の入学試験を受けたが、受験に失敗してしまったため、1年生時は同高の定時制に在籍していた。その後2年生に進級するタイミングで、全日制に編入している。 引退後に出演した「プロ野球OBクラブチャンネル」の動画で、大嶺は入団に際してのゴタゴタは事実と認めている。本人によると高校1年生の秋に肩を怪我して半年ほどキャッチボールもできなくなったことで他球団がスカウトが離れたが、ソフトバンクのスカウトだけは離れず、それどころか肩の怪我の後に20mのキャッチボールの許可が下りた時わざわざソフトバンクのスカウトが様子を見に来てくれたため、自分はもしプロに行くのならソフトバンクしかないと確信した。それだけに、ロッテ側がドラフト10日前に指名を決めたと聞いた時は自分も伊志嶺も「ふざけんな!」と憤慨していた。因みに当時の所属高校にはテレビなどの映像機器が無かったため、学校もドラフト当日は普通に授業を受けるように指導し、大嶺本人はドラフトでロッテに指名された瞬間をテレビで目にしていなかった。自分はソフトバンク以外には絶対に行かないと決めていたが、「当時のロッテの二軍のスタッフやコーチ陣の多くが九州出身だからきっと手厚く面倒を見てくれるだろう」と、伊志嶺監督がロッテ側の説得に折れて、大嶺をロッテに送り出した。 大嶺は高校時代に肩を怪我した時に、所属高校と繋がりのある浦和学院高校への遠征のついでに現地の治療院に通うために、他の部員が帰郷してからもしばらく練習しながら現地に滞在した。浦和にあるロッテの二軍寮入寮後に治療院に挨拶することになったが、治療院が二軍寮の近所で、尚且つ初めて治療院に行った時に迷って降りた駅と二軍寮の最寄駅が武蔵浦和駅であったため、運命を感じたという。 各年度の太字はリーグ最高 初登板・初先発登板:2007年4月30日、対西武ライオンズ8回戦(グッドウィルドーム)、4回0/3を5失点で勝敗つかず 初奪三振:同上、3回裏にアレックス・カブレラから空振り三振 初勝利・初先発勝利:2008年7月24日、対北海道日本ハムファイターズ17回戦(札幌ドーム)、6回2失点 初完投・初完投勝利・初完封勝利:2009年5月13日、対福岡ソフトバンクホークス8回戦(北九州市民球場) 1(2007年 - 2009年) 11(2010年 - 2016年) 30(2017年 - 2019年) 126(2020年 - 同年8月23日) 64(2020年8月24日 - 2021年) 211(2022年) 「どこまでも!!」TRIPLE-P 「爬竜舟」BEGIN 「Shining Place〜輝ける場所〜」DJ Kotona 「Vitality~自分への挑戦状~」Kotona(2016年 - ) ^ 【真相】ソフトバンクのはずだった…大嶺祐太のドラフトの真相とは!? プロ野球OBクラブチャンネル 2022/11/23 (2022年11月30日閲覧) ^ 「FA宣言でモテモテ福田 本命視されるロッテとの深い“因縁”」『日刊ゲンダイ』2019年11月15日。2019年12月17日閲覧。 ^ 「運命を分けた「2006年(高)ドラフト」 FA市場の目玉になった男と、育成から再出発の男」『BASEBALL KING』2019年11月27日。2019年12月17日閲覧。 ^ 「【11月27日】2006年(平18) バレンタイン監督、大嶺に会いにはるばる石垣島へ(野球)」『スポーツニッポン』。2021年12月13日閲覧。 ^ 「大嶺 6回2失点でプロ初勝利」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン、2008年7月24日。2013年4月12日閲覧。 ^ 「大嶺が初完封!ボビーに誕生日プレゼン投」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン、2009年5月14日。2013年4月12日閲覧。 ^ 「大嶺10K完封!ロッテ10勝1番乗り」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン、2010年4月8日。2013年4月12日閲覧。 ^ 「ロッテ大嶺兄弟 1軍で初のそろい踏み」『スポニチ Sponichi Annex』2014年8月15日。2014年8月30日閲覧。 ^ 「ロッテ大嶺祐640万減「今年は何もしていない」」『日刊スポーツ』2016年11月28日。2022年11月26日閲覧。 ^ 「ロッテ大嶺祐、背番号11から30へ変更 「来年は絶対にやってやるという気持ち」」『サンスポ』2016年12月8日。2022年11月26日閲覧。 ^ 「ロッテ・大嶺祐、375万円減 来季は先発一本で」『スポニチ Sponichi Annex』2017年11月30日。2022年11月26日閲覧。 ^ 「【24日の主な契約更改】」『スポニチ Sponichi Annex』2018年11月24日。2022年11月26日閲覧。 ^ 「ロッテ大嶺が右肘手術 全治1年で今季復帰は絶望的」『日刊スポーツ』2018年1月17日。2018年1月17日閲覧。 ^ 「ロッテ、戦力外の大嶺、高浜と育成契約 松本球団本部長「慌てるなと」」『サンケイスポーツ』2019年11月26日。2021年12月13日閲覧。 ^ 「新規支配下選手登録 2020年度」『NPB.jp』日本野球機構、2020年8月24日。2020年8月24日閲覧。 ^ 「大嶺祐太投手 支配下選手登録について」『球団公式サイト』千葉ロッテマリーンズ、2020年8月23日。2020年8月24日閲覧。 ^ 「ロッテ大嶺復活勝利お預け「感謝」忘れず真っ向勝負」『日刊スポーツ』2020年9月1日。2021年12月13日閲覧。 ^ 「ロッテ大嶺270万円減「感謝しか」復活に手ごたえ」『日刊スポーツ』2020年12月4日。2021年12月13日閲覧。 ^ 「ロッテ大嶺祐太が戦力外、06年高校生1巡目 今季6月には4年ぶり白星も」『日刊スポーツ』2021年11月26日。2021年12月13日閲覧。 ^ 「トミー・ジョン手術した人の希望に ロッテ大嶺祐太4年ぶり勝利」『日刊スポーツ』2021年6月5日。2021年12月13日閲覧。 ^ 「【中日】ロッテ戦力外の大嶺祐太が育成で入団「機会を与えてくれた球団の方に感謝」」『スポーツ報知』2021年12月13日。2021年12月13日閲覧。 ^ 「育成契約の大嶺祐太投手「自分信じる」 ロッテから中日へ加入 体幹鍛え再起誓う」『沖縄タイムス+プラス』2022年2月18日。2022年10月4日閲覧。 ^ 「2022年度 中日ドラゴンズ 個人投手成績(ウエスタン・リーグ)」『NPB.jp 日本野球機構』。2022年10月4日閲覧。 ^ 「来季の契約について」『中日ドラゴンズ』2022年10月4日。2022年11月17日閲覧。 ^ 「【中日】浜田達郎ら10選手を戦力外 大谷、藤浪らとともに「高校ビッグ3」とうたわれた左腕」『日刊スポーツ』2022年10月4日。2022年10月4日閲覧。 ^ 「ロッテ、中日で活躍した大嶺祐太が現役引退を決断 石垣島出身、八重山商工でも甲子園で活躍」『日刊スポーツ』2022年10月27日。2022年10月27日閲覧。 ^ 「Company | 株式会社OH」。2022年12月12日閲覧。 ^ 「大嶺さん 石垣で「引退試合」 来月30日」『八重山毎日新聞社』2022年11月11日。2022年12月12日閲覧。 ^ 「ロッテ大嶺投手、地元・石垣島で引退試合 来月30日 八重山商工高出身、沖縄離島勢初の甲子園出場も」『琉球新報デジタル』2022年11月11日。2022年12月12日閲覧。 ^ 「「恩返しをしたい」大嶺祐太投手が出身地石垣で市長に引退報告|NHK 沖縄県のニュース」『NHK NEWS WEB』2022年11月21日。2022年12月12日閲覧。 ^ 「「起業しました」プロ野球引退の大嶺祐太さんが明かす第二の人生 地元・石垣島に感謝」『沖縄タイムス』2022年11月28日。2022年11月28日閲覧。 ^ 「元ロッテ大嶺祐太氏、第2の人生を本格的にスタートへ 東京・神田で焼き鳥店オープン」『日刊スポーツ』2022年11月30日。2022年12月7日閲覧。 ^ 「元千葉ロッテドラ1・大嶺祐太 引退後は焼き鳥店の店長に…「いつか沖縄県に野球塾を」転身で広がった夢の数々」『FLASH』2023年2月4日。2023年12月10日閲覧。 ^ 「プロ野球の元ロッテ・大嶺祐太さん、名桜大で講演 引退後、飲食店やアパレルを経営 「やりたいことの過程を大事に」」2023年7月21日。2023年7月13日閲覧。 ^ 「元ロッテ大嶺祐太氏が故郷・沖縄で特別就活講座に登壇「苦手だった打者は大谷翔平」」2023年7月14日。2023年12月10日閲覧。 ^ 「コーチが元プロ野球選手のアカデミーの受付を開始しました。」『tsuzuki BASE』2023年4月14日。2023年4月23日閲覧。 ^ 「【千葉魂】 大嶺を支えた登場曲 BEGINの「爬竜舟」」『千葉日報ウェブ』2013年5月28日。2013年6月5日閲覧。 ^ 「ロッテ・大嶺祐、練習後に婚姻届を提出「今年は頑張らないと」」『スポニチ』2016年2月12日。2016年2月12日閲覧。 ^ 「「離島のエース」から「サンデー祐太」へ ロッテ・大嶺祐の球歴とは?」『BASEBALL KING』2015年10月12日。2021年3月27日閲覧。 沖縄県出身の人物一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 兄弟スポーツ選手一覧 山田親太朗 - 2008年9月29日放送のテレビ東京系「ザ・決断!スペシャル〜八重山商工野球部物語〜」にて大嶺役を演じる。祖父役は大和田伸也。伊志嶺監督役はダンカン。 BEGIN - 大嶺と同じく、沖縄・石垣島出身のミュージシャン。応援歌を提供している。 ハンカチ世代 個人年度別成績 大嶺祐太 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE 大嶺祐太 (@yuta_ohmine_oh_inc) - Instagram 表 話 編 歴 3巡目:神戸拓光 4巡目:荻野忠寛 5巡目:江口亮輔 6巡目:中郷大樹 7巡目:角中勝也 8巡目:松本幸大 1巡目:大嶺祐太 2巡目:佐藤賢治 3巡目:黒滝将人 日本の野球選手 沖縄県立八重山商工高等学校出身の人物 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 千葉ロッテマリーンズの育成選手 中日ドラゴンズの育成選手 沖縄県出身のスポーツ選手 1988年生 存命人物 Pages using the JsonConfig extension 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 書きかけの節のある項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/11 14:20更新
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