栗原健太の情報(くりはらけんた) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
栗原 健太さんについて調べます
■名前・氏名 |
栗原健太と関係のある人
小窪哲也: 2010年、遊撃のポジションこそ梵に明け渡したが、ジャスティン・ヒューバーの不振から栗原健太が三塁から一塁に戻ったことで空いた三塁のレギュラーを任された。 山崎勝己: 5月9日の広島東洋カープ戦では、栗原健太の打ったファウルチップを顔面に受けた衝撃で、3本の前歯が折れた。 大隣憲司: 初奪三振:同上、1回裏に栗原健太から空振り三振 藤井秀悟: 藤井は2回から2番手で登板したが栗原健太に2ラン本塁打、石原慶幸にソロ本塁打を打たれ5回3失点で降板した。 嶋重宣: 打席数が少ないものの四球40は栗原健太の42に続くチーム2位で、出塁率.394は規定未満ながらもリーグ5位相当の数字である。 松岡健一: 初奪三振:同上、2回表に栗原健太から空振り三振 岩本貴裕: 2010年シーズンは開幕を二軍で迎え、打率も2割4分前後と平凡であったが、6月にT-岡田を意識したノーステップ打法を取り入れてからは驚異的な打撃成績を叩き出し、栗原健太の故障離脱に伴い、一軍へ昇格。 スコット=シーボル: この年に挙げた勝利打点は、チーム内では栗原健太に次ぐ12である。 黒田博樹: 7月は4勝0敗、防御率0.84、WHIP0.78の活躍で月間MVPをチームメイトの栗原健太とともに受賞。 吉村裕基: 4月26日の対広島戦では初回に一死一塁からアレックス・オチョアのライトフライで飛び出した東出輝裕を刺して補殺、7回には無死満塁でスコット・シーボルが吉村のいる右翼へ長打性の打球を放つと、二塁走者の栗原健太がアウトになると判断して二塁に戻ったが慌てて進塁、一塁走者の前田智徳は二塁から進めなくなり、打者走者のシーボルは吉村の返球で一・二塁間で挟殺(補殺2つ目)、栗原が本塁を狙おうと三塁を大きく回った所でそれを制止しようとした三塁ベースコーチの高信二と接触、これが肉体的援助となり栗原はアウトが宣告され二死二塁から試合再開となった。 エクトル=ルナ: 年俸1億円(推定)に出来高の条件を加えた契約で、背番号は栗原健太がこの年までに着けていた5。 大下剛史: 特にカープ時代、主砲であった栗原健太に対しては手厳しい批判を加えていたが、これは主力選手の流出などで苦境に立たされる当時のカープの主砲としての自覚を促す愛情表現であると取れていた。 アレックス=オチョア: 最終的に打率.306、174安打(リーグ5位)、15本塁打、76打点と主要打撃部門で栗原健太に次ぐチーム2位の成績を挙げ、中軸として活躍した。 山内壮馬: 2015年11月12日から栗原健太(前・広島)、川本良平(前・千葉ロッテマリーンズ)、金無英(前・福岡ソフトバンクホークス)と共に、入団テストを兼ねて東北楽天ゴールデンイーグルスの秋季キャンプに参加。 川井貴志: なお、球団では川井の引退表明を受けて、11月23日のファン感謝祭で栗原健太・牧田明久・長谷部康平との合同引退セレモニーの開催を計画した。 鞘師智也: 2007年5月9日の中日ドラゴンズ戦(広島)で青木勇人の代打として登場、中前安打を放ち、栗原健太の満塁本塁打で生還。 立石充男: 「楽天がコーチ入れ替え 栗原健太コーチらが1軍へ」日刊スポーツ、2018年4月30日。 長内孝: 前年1993年シーズン終盤に広島球団本部長の上土井勝利と横浜で会い、来年広島に戻ってコーチに就任するよう要請されてこれを承諾、引退翌年の1994年に打撃コーチとして約束通り広島に復帰し、新井貴浩や栗原健太らを育て、2005年に退団。 グレッグ=ラロッカ: 広島時代には、遠征で栗原健太の実家の焼肉屋で山形牛を食べて、「美味い!」と絶賛した。 高須洋介: 楽天では2018年の4月終了時点でチーム成績もチーム打率も低迷していたため、4月30日の試合終了後から、栗原健太と入れ替わる格好で二軍打撃コーチへ異動。 山本芳彦: 2010年は前半戦は一軍の機会がなかったものの、オールスター戦前に栗原健太の故障を機に一軍に昇格し、8月5日の対横浜戦ではプロ入り初の適時打を放った。 鈴木誠也: 2か月連続の受賞は球団では2011年の栗原健太以来であった。 美間優槻: 目標とする選手は、栗原健太。 廣瀬純: 故障欠場していた栗原健太の代替選手として、オールスターゲームへの初出場を果たす。 川本良平: 2015年11月12日から、栗原健太(前・広島東洋カープ)・山内壮馬(前・中日ドラゴンズ)・金無英(前・福岡ソフトバンクホークス)と共に、入団テストを兼ねて東北楽天ゴールデンイーグルスの秋季キャンプに参加。 鈴木駿也: 天童市立第二中学校では栗原健太の後輩にあたる。 山本浩二: 監督時代の第1期では前田智徳や緒方孝市、江藤智など、第2期には新井貴浩や嶋重宣、栗原健太を打線の主力として育成した。 スコット=マクレーン: 栗原健太につぐチーム2位の18本塁打を記録したものの好不調の波が激しく、同年限りで退団となった。 廣瀬純: 2006年はシーズン中盤に一塁のレギュラーである栗原健太、外野手の嶋重宣の戦線離脱もあり、主に一塁での先発出場が多くなった。 武山真吾: 1試合2度の打撃妨害:2009年8月28日、対広島東洋カープ18回戦(横浜スタジアム)、5回表・7回表にいずれも栗原健太の打席で記録 |
栗原健太の情報まとめ
栗原 健太(くりはら けんた)さんの誕生日は1982年1月8日です。山形出身の野球選手のようです。
家族、引退、兄弟、結婚に関する情報もありますね。去年の情報もありました。栗原健太の現在の年齢は42歳のようです。
栗原健太のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 栗原 健太(くりはら けんた、1982年1月8日 - )は、山形県天童市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 天童市内で焼肉店を営む家庭に生まれ、小学3年生から野球を始めエースで4番を務める。中学時代のポジションは投手だった。陸上でも3種競技(走り高跳び、100m走、砲丸投げ)で市大会を制覇している。当時の日大山形高校の渋谷良弥監督は栗原の身体能力の高さを見て大型投手としての構想を描きスカウティングした。しかし、日大山形高校入学後に打撃をやらせてみるとバットコントロール、スイングスピード共に図抜けており、フェンスオーバーを連発。内野手に転向となった。1年夏にチームの5番打者となり、秋には早くも4番打者を任せられた。2年春の東北大会では打率7割・2本塁打を記録。2年夏に甲子園に出場したが、4打数1安打1打点で1回戦敗退。3年春には11球団のスカウトから高評価されていたという。高校通算39本塁打。 1999年のドラフト会議では、広島東洋カープから3位指名を受け、契約金4500万円、年俸500万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は50。会議の前には、ヤクルトスワローズも上位指名での獲得を検討していたという。 プロ入団時から並外れた筋力で、当時のチームの主力だった金本知憲や浅井樹らに匹敵する数値で周囲を驚かせた。高校3年時には背筋力280kg、スクワット330kg、ベンチプレス120kgだった。また50mを6.0秒、100m11秒7で走るなどパワーだけでなく走れる選手としてスカウトから評価された。入団時は「江藤2世」と呼ばれ、右の長距離砲として期待された。 2000年と2001年は、怪我の影響などで二軍で過ごした。2001年には、ウエスタン・リーグ公式戦で規定打席に到達しなかったが、打率.306を記録した。 2002年は、開幕から二軍の4番に座り、フレッシュオールスターゲームに出場。阪神タイガース二軍監督の岡田彰布が目玉選手に栗原の名前を挙げ、先発4番に据えるなど期待の高さを伺わせた。試合では無安打と結果は出なかった。8月30日に一軍初昇格。9月5日の阪神戦(広島市民球場)で先発出場2試合目に藤川球児からプロ入り初安打となる本塁打を打つ。この年のウエスタン成績は打率.305・6本塁打・50打点・6盗塁で打点王を獲得し、リーグ打撃3位だった。10月に行われた第14回アジア競技大会野球日本代表では、広島からは栗原が派遣された。初の国際試合ながら6番一塁で出場し、中国戦では本塁打を打つなど活躍した。なおこの大会ではプロ各球団1名ずつ選手を出したが、後にチームメイトともなる喜田剛も派遣されていた。 2003年は、春季キャンプを訪れた長嶋茂雄から「将来球界を代表する打者になれる」と指導を受けた。しかしシーズンでは一軍と二軍を行ったり来たりであった。ウエスタン・リーグでは打率.315、13本塁打、53打点で、本塁打と打点の2冠に輝き、打率はリーグ2位だった。また三振も24と非常に少なく、3年連続で打率3割超えも果たした。 2004年は、オープン戦で読売ジャイアンツと対戦した際に、栗原が幼い頃からファンだった清原和博と対面。清原からバットを贈られ、「バッティングは気合だ」という教えを受けた。この清原との対面後から栗原は自身のバッティンググローブに「気合」の文字を刺繍していた。この年は嶋重宣と共に初めて開幕先発に名を連ねた。序盤は打撃不振だったが、巨人戦で本塁打を連発。レギュラーの座に近づく年となった。最終的には90試合に出場し、11本の本塁打を打ち、同じ内野で右の大砲候補だった新井貴浩より先発出場することも多かった。レギュラーの座を掴むかにも見えたが、10月2日の対阪神戦、同点の9回裏二死二・三塁の場面で空振り三振の球を捕手が後ろへ逸らし、三塁走者であった嶋がホームインするも、栗原が走っておらず一塁でアウトとなり、これで広島は勝機を逸し試合は引き分けに終わった。翌日登録を抹消された。残り試合は若手主体の打線で戦ったにもかかわらず、試合に出られなかった。同年には初めて地元山形県野球場での対横浜ベイスターズ戦(横浜主催試合)で2試合とも先発出場するも、活躍できずに終わった。しかし2008年7月1日のYZ.タカスタにおける対横浜戦で本塁打を打って、チームも勝利した。 2005年は、怪我で出遅れたこともあり、調整の意味で二軍の試合に数試合出場した。その年主に一塁を守っていた野村謙二郎の2000本安打達成後に一軍昇格。7月末までの本塁打は1本であったが8月2日の対巨人戦以降、同月だけで10本の本塁打を打った。新井が本塁打王争いをするまでに活躍していたこともあり、主に野村と併用され、77試合に出場した。なお、シーズン終盤は三塁手の新井が打球を右肩に受けた影響もあってか、互いの守備位置を交換していた。 2006年は、背番号を「50」から清原と同じ「5」に変更。1月、単身自費でアメリカ合衆国に渡り、メジャーリーガーと共にトレーニングを行った。この年から毎年キャンプ前にはアメリカ合衆国でトレーニングを行っている。体脂肪率は10%から9%に減らしながら、体重を100kgにまで増やした。シーズンでは初めて数試合4番打者を務めた他、7月の月間MVPを受賞した。しかし、8月に腰に違和感が生じ、検査したところ椎間板ヘルニアと診断された。8月23日に手術を受け、残りシーズンを棒に振った。途中離脱はしたものの、勝利打点はチームでは嶋重宣に次ぎ、また本塁打で2ラン以上の割合がリーグ1位と、勝負強い打撃で活躍した。怪我による離脱を除けば、ほぼ不動のレギュラーを手中にしている。 2007年は、目標をシーズン通しての出場、50本塁打とした。前年に続きアメリカアリゾナ州で始動。嶋、吉田圭と共に自主トレを行った。怪我の間に13%に上がっていた体脂肪率を9%に戻し、また1日6食療法で今回は92kgに減量した。後半戦は骨棘による肘の痛みなどもありながら全試合出場を果たし、リーグ打撃5位と好成績を収めた。シーズンで長打率.500を超えた右打者で三振が2桁台の打者はセ・リーグでは栗原だけだった。勝利打点11は前田智徳、新井の8を抜きチーム1位と、勝利に貢献した。また左右どちらの投手相手でも打率3割を超えた。オフには「FAとかポスティングとかは分からないが、メジャーに行きたいという願望はある」と、将来的なメジャー挑戦志向があることを明かした。 2008年は、新井のFA移籍により、開幕から4番を任された。シーズン序盤こそヒットを打っても打点に繋げられず苦しむ時期があったが、交流戦前後から一気に調子を上げ、7月には月間打率.408を記録、勝負強い打撃でチームのクライマックスシリーズ進出争いに貢献し、最終的には100打点越えを果たした。打率(リーグ3位)、安打数(リーグ2位)、打点(リーグ4位)で自己最高を更新しチームを代表する打者となった。特に安打数は内川聖一と僅差で惜しくもタイトル獲得を逃した。故障や不調もあったものの全試合で4番に座り、2年連続のフル出場を達成。打席数616はリーグ3位を記録した。また、三振数も68と規定打席に到達したシーズンの中で最も少なくなった。これは100打点以上を上げた12球団の選手の中で最も少ない三振数である。10月29日に新井と共に、自身初となるゴールデングラブ賞(一塁手部門)を受賞した(受賞者が2人なのは1993年投手部門の今中慎二と桑田真澄以来、15年ぶり)。オフには4年契約を結んだ他、前年からの懸念だった肘のクリーニング手術を行い、最大1.5センチの遊離軟骨を4つ除去した。 2009年は開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表の最終候補に選出。手術明けの肘の状態を考慮されたため、当初は予備登録選手として扱われた。しかし、3月20日(日本時間)の韓国戦で村田修一が右足を負傷したことから、村田の代替選手として急遽代表に招集。準決勝の前日から代表チームに合流した。日本代表監督の原辰徳は栗原を呼び、「今回は外れることになったが、お前は将来日本の4番を打つ人間だ」と激励した。他の落選選手が、落選通達後すぐに代表キャンプを離れる中、栗原は最後まで残って特打ちを行っていた。この練習に対する姿勢を見ていたため、村田の負傷後即座に原は栗原の追加招集を決めた。慌しい日程の中、試合では3打数で2三振1併殺と結果を残せなかったが、優勝メンバーの一員となった。シーズンではWBC優勝の勢いを買ってレギュラーシーズンに突入し、東京ドームで行われた開幕戦では2本塁打と活躍した。その後も好調を維持したものの腰痛に苦しみ、3年ぶりの先発落ちも経験。最終的に本塁打以外全ての数字を前年より下げ、特に打率は.257と落とした。打撃妨害をシーズンで4回(歴代3位タイ)を記録した。オフに新しく監督に就任した野村謙二郎の意向で秋季キャンプ初日に三塁手の守備練習を開始し、再び三塁へコンバートされることとなった。 2010年は、開幕して暫くは三塁で先発出場するも自身のコンバートによって空いた一塁に座った新加入のジャスティン・ヒューバーの働きが低調で4月半ばから再び一塁で先発出場するようになった。しかし6月10日の千葉ロッテマリーンズ戦で大嶺祐太から右手首に死球を受けて骨折、約2か月戦線を離脱しオールスターもファン投票で選出されたが辞退した。復帰後は若い岩本貴裕が好調だったことで再び三塁で先発出場する機会が増えたが、結果として三塁での出場は46試合にとどまり、失策10、守備率.906と低調な出来に終わった。打撃面では打率や出塁率は前年より改善されたが、15本塁打と5年ぶりに20本に届かなかった。 2011年は、この年から導入された統一球の影響などで、シーズン序盤に低迷。しかしオールスター明けから調子を上げ、後半戦は打率.309、15本塁打、50打点を記録し、8月と9月度の月間MVPを受賞(連続受賞は広島の野手としては初)。最終的に打率.293、17本塁打、83打点、OPS.793の成績を残し、一塁手としてゴールデングラブ賞と自身初のベストナインに選出された。この年には国内FA権を取得したが行使せず、1年契約を結び残留。年俸は自身の生涯にとって最高の1億6000万円となった。翌年以降に取得する見込みとなった海外FA権を行使してのメジャー移籍については「行きたいなというのは今でもあるが、行って出られるのか。家族もいるので、自分の夢だけではどうなのか」と話した。 2012年は、3月10日に行われた東日本大震災復興支援ベースボールマッチに日本代表として5番一塁手として先発出場し、2打席目に本塁打を打ち、日本代表の勝利に貢献した。この年はシーズン序盤に、かねてから故障が相次いでいた右肘に痛みを再発したため、4月26日に抹消された。その後、「変形性肘関節症」と診断され、5月上旬に手術を行ったため、残りのシーズンを棒に振ることとなった。オフには故障者特例措置制度により海外FA権を取得するが、行使せず2000万円減の年俸1億4000万円で1年契約を結び残留した。 2013年は、前年の右肘手術からの完全復活を目標に臨んだ2月の春季キャンプを、腰の張りを訴えて途中で離脱。3月にも、鼻骨骨折や右大腿部の故障で、オープン戦を一時離脱した。開幕を一軍で迎え、開幕戦で今村猛の代打として出場し、安打を打った。その後は岩本や松山竜平などの台頭で5月6日に出場選手登録を抹消。そのまま二軍でシーズンを終えた。シーズン終了後の契約交渉では、NPBの野球協約における減額制限(40%)の適用を球団から提示された末に、年俸8400万円で契約を更改した。 2014年は、慢性的な右肘痛の影響で年間を通じて調子が上向かず、2001年以来の一軍出場なしに終わった。11月14日には肘の不安解消へ向けて自身3度目となる右肘の手術を受けた。 2015年も、前述した右肘手術や、若手選手の育成に主眼を置くチーム方針などの影響で二軍生活に終始。ウエスタン・リーグの公式戦では、30試合の出場で打率.132、1本塁打、2打点という成績にとどまった。シーズン終盤の9月27日には、「栗原が球団の翌年の戦力構想から外れている」との一部報道を、公式ブログを通じて否定。しかし球団は、その後の栗原との交渉で、翌年の契約条件として前述の減額制限を超える比率の減俸を栗原に提示した。この提示に同意しなかった栗原が、他球団での現役続行を視野に自由契約を申し出たため、球団は10月9日に栗原の退団を発表した。 2015年11月12日から、入団テストを兼ねて、地元球団の東北楽天ゴールデンイーグルスの秋季キャンプに参加した。このキャンプには川本良平(前・千葉ロッテマリーンズ)・山内壮馬(前・中日ドラゴンズ)・金無英(前・福岡ソフトバンクホークス)も参加していたが、翌11月13日に視察した球団副会長の星野仙一は、「(栗原は)想像以上に良かった。(入団テストは)合格だよ」と明言。11月15日の紅白戦終了後に、一軍監督の梨田昌孝が、約4200人の観衆の前で栗原を含む4人全員の合格を発表した。背番号は0。ちなみに楽天では、星野が一軍監督を務めていた2011年のシーズン終了後にも、国内FA権を取得したばかりの栗原の獲得を検討していたという。 2016年は、イースタン・リーグ公式戦47試合に出場。地元にある天童市スポーツセンター野球場での公式戦出場も果たしたが、通算成績は打率.188、4本塁打、15打点で、一軍公式戦への出場機会はなかった。若手野手の台頭などで翌年の戦力構想に入らなかったことや、「楽天では1年勝負」と決めていながら思い通りの打撃を披露できなかったことから、9月下旬に同年限りでの現役引退を決意。一軍のレギュラーシーズン中だった9月29日に、球団を通じて引退を表明した。10月1日に一軍本拠地・楽天koboスタジアム宮城で臨んだ引退記者会見では、「楽天では一軍に上がれなかったけれど、皆さんのおかげで良い経験を積めた」と述べつつも、「プロ野球生活で唯一悔いが残るのは、リーグ優勝を経験できず、(このシーズンで25年ぶりに実現した)広島のセントラル・リーグ優勝の中にもいられなかったこと。広島の優勝は、ファンが待ち望んでいたことなので、自分にとっても嬉しかった」という真情も吐露した。 楽天球団からの要請を受けて、2017年から二軍打撃コーチに就任する。11月25日から台湾で開催される2017アジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBイースタン選抜の打撃コーチを務める。 2018年も引き続き二軍打撃コーチを務めていたが、一軍のチーム打率が12球団最下位の.216と低迷していたため、4月30日の試合終了後から高須洋介と入れ替えになる形で一軍打撃コーチに配置転換された。2019年限りで退団。 2020年からは、中日ドラゴンズ一軍打撃コーチに就任することが発表された。背番号は73。 2021年、10月29日に同年限りで退団することが発表された。 2022年は、楽天のスカウト部プロスカウトグループに勤めた。オフの12月10日に退団した。翌11日、2023年から千葉ロッテマリーンズのニ軍打撃コーチを務めることが発表された。背番号は77。 レギュラーとして活躍した2006年から2011年の6シーズンのうち、「打率.290以上」を5回、「20本塁打以上」を4回記録しており、全盛期は打率を残せる右の長距離打者として活躍していた。しかし度重なる故障に苦しみ、それが選手生命を縮める大きな要因になった(特に右肘は、2008年、2012年、2014年と、3回もの手術を余儀なくされた)。死球が多い打者でもあり、2008年はリーグ1位の12死球を受けている。 「プロ野球選手たるもの、全試合出場を果たすことが最大の使命」を自身の信念としている。「自分が試合に出なかったときに、代わりの誰かが活躍したら、自分の居場所がなくなるから」が理由であるという。自身のキャリアを通して、2007年、2008年、2011年の3シーズンで全試合出場を達成したことを最大の自負としている。そのため、「1年間を通して試合に出続けられる体力をつけること。そのために充分な練習量を積むこと」「1シーズンのみの活躍だけにとどまらず、少なくとも3シーズン続けて全試合出場できてこそ、一人前の野球選手である」を指導者としての基本方針としているという。 「努力の人」であり、楽天時代の春季キャンプでは、チームで最も早く球場入りして、球場を後にするのはチームで最後であったというエピソードがある。楽天時代のチームメイトである岡島豪郎は「誰に対しても温かくて親身なんです。野球人として、人として、本当に素晴らしい人なんです」と述べている。「常に『感謝の気持ち』『向上心』を持ち続けること」が、野球人として長くプレーできる原動力であったという。 野人のようなワイルドな風貌と名前をもじり、スポーツ新聞では以前、「クリ原人」と書かれていたが、2006年にニックネームを募集し、「コング(栗原)」に決まった。2005年のホームランキング新井貴浩とあわせてキングコング砲と呼ばれていた。阪神から移籍した喜田剛とは顔が似ており、ファーム時代も重なるため、野球ファンから栗原本人、もしくは兄弟かと間違われると喜田が語っていた。 2008年には旧本拠地の旧広島市民球場で最後の本塁打、2009年には新本拠地のマツダスタジアムでチーム初本塁打、その後この年新設された広島県三次市のみよし運動公園野球場と、新潟県新潟市のHARD OFF ECOスタジアム新潟でそれぞれ球場プロ第1号本塁打を打つなどしている。 2004年12月にカープのホームランガールと結婚した。2005年7月に女児が誕生し、同年12月に女児を伴い披露宴を挙げた。 妻はネイルサロンを経営している。妻は一般人ながらもオフィシャルブログを持ち、カープ専門のラジオ番組に出演することもある。 各年度の太字はリーグ最高 上記には表れない打撃妨害を通算8回記録 各年度の太字はリーグ最高 太字年はゴールデングラブ賞受賞 ベストナイン:1回(一塁手部門:2011年) ゴールデングラブ賞:3回(一塁手部門:2008年、2009年、2011年) 月間MVP:3回(2006年7月、2011年8月、9月) 優秀JCB・MEP賞:1回(2007年) ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」(2009年) 初出場:2002年8月31日、対中日ドラゴンズ23回戦(ナゴヤドーム)、9回表に玉木重雄の代打で出場 初打席:同上、9回表に山井大介から遊撃ゴロ 初先発出場:2002年9月4日、対阪神タイガース23回戦(広島市民球場)、7番・三塁手として先発出場 初安打・初本塁打・初打点:2002年9月5日、対阪神タイガース24回戦(広島市民球場)、2回裏に藤川球児から中越ソロ 初盗塁:2003年4月16日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、7回表に二盗(投手:高橋尚成、捕手:阿部慎之助) 100本塁打:2009年4月7日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、5回表に久保康友から左越2ラン ※史上253人目 1000安打:2011年8月26日、対読売ジャイアンツ16回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、1回裏に澤村拓一から左前適時打 ※史上266人目 150本塁打:2011年9月10日、対読売ジャイアンツ19回戦(東京ドーム)、3回表に藤井秀悟から左越2ラン ※史上156人目 1000試合出場:2012年4月21日、対中日ドラゴンズ5回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、4番・一塁手として先発出場 ※史上449人目 通算被打撃妨害:8回(歴代10位タイ) シーズン被打撃妨害:4回(2009年、歴代3位タイ) 1試合で2度の被打撃妨害:2009年8月28日、対横浜ベイスターズ18回戦(横浜スタジアム)、5回表・7回表に記録(捕手:武山真吾) オールスターゲーム出場:3回(2007年、2009年、2011年)※2010年は出場辞退 50(2000年 - 2005年) 5(2006年 - 2015年) 0(2016年) 85(2017年 - 2019年) 73(2020年 - 2021年) 77(2023年 - ) 2002年アジア競技大会野球日本代表 2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、204ページ ^ ホームラン1999年6+7月号より要約して抜粋 ^ 1999年11月当時の『週刊ベースボール』より ^ 週刊ベースボール 2005年12/19号 88頁 「保存版・記録の手帳 公式戦出場全選手個人成績 2005年プロ野球ペナントレース統括 6位 広島東洋カープ」より ^ “えっ栗原もメジャー!?「願望ある」”. 日刊スポーツ (2007年12月16日). 2008年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月4日閲覧。 ^ “アクシデント?奥の手? 野球を知り尽くした打者になぜか多い「打撃妨害」”. spaia.jp. グラッドキューブ (2022年2月6日). 2022年11月5日閲覧。 ^ “広島の栗原が骨折で球宴辞退 同僚の広瀬が初出場”. 日本経済新聞 (2010年7月16日). 2022年11月5日閲覧。 ^ “広島・栗原、1億6000万円で更改 1年契約”. 日本経済新聞 (2011年11月30日). 2022年11月5日閲覧。 ^ “栗原 FA権行使せず、メジャーは「家族もいる。自分の夢だけではどうなのか…」”. スポーツニッポン (2011年11月21日). 2011年11月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月4日閲覧。 ^ “山形出身・栗原、会心の代表1号弾”. デイリースポーツ. (2012年3月11日). オリジナルの2012年3月11日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120311141643/https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2012/03/11/0004874894.shtml 2012年3月11日閲覧。 ^ “今季絶望…右肘痛再発し5月上旬にも再手術へ”. スポニチアネックス. (2012年4月30日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/30/kiji/K20120430003151490.html 2021年7月4日閲覧。 ^ “栗原 右肘手術 トレーナー「復帰まで大体6カ月」”. スポニチアネックス. (2012年5月11日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/11/kiji/K20120511003225070.html 2021年7月4日閲覧。 ^ “栗原、腰の張りで離脱…06年手術の古傷”. デイリースポーツ. (2013年2月15日). https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2013/02/15/0005741802.shtml 2015年11月10日閲覧。 ^ “広島栗原が開幕ピンチ…右股関節に痛み”. 日刊スポーツ. (2013年3月18日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130318-1099247.html 2015年11月10日閲覧。 ^ “2013年3月29日【公式戦】試合結果(読売vs広島東洋)”. 日本野球機構. 2022年8月13日閲覧。 ^ “広島栗原40%減も完全復活を確信”. 日刊スポーツ. (2013年12月6日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20131206-1227680.html 2015年11月10日閲覧。 ^ “栗原「自分に期待している」3度の右肘手術から復活に手応え”. スポーツニッポン. (2014年12月5日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/12/05/kiji/K20141205009403840.html 2014年12月10日閲覧。 ^ “広島・栗原が構想外…昨オフ右肘手術で今季1軍出場なし 現役続行希望”. スポーツニッポン. (2015年9月27日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/09/27/kiji/K20150927011213810.html 2015年10月9日閲覧。 ^ “驚かせました。”. 栗原健太オフィシャルブログ「“KONG”栗健 #5」. (2015年9月27日). https://ameblo.jp/kenta-kurihara/entry-12077863541.html 2015年10月9日閲覧。 ^ “広島栗原退団 減額制限超提示同意せず自由契約選ぶ”. 日刊スポーツ. (2015年10月9日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1550342.html 2015年10月9日閲覧。 ^ “前広島栗原、楽天秋季キャンプ合流即柵越え4本”. 日刊スポーツ. (2015年11月13日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1565545.html 2015年11月13日閲覧。 ^ “楽天星野副会長が見解、前広島栗原らテスト入団へ”. 日刊スポーツ. (2015年11月14日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1565900.html 2015年11月16日閲覧。 ^ “前広島栗原ら楽天入団、梨田監督がファンの前で発表”. 日刊スポーツ. (2015年11月15日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1566608.html 2015年11月16日閲覧。 ^ “新加入選手(栗原健太選手・川本良平選手・山内壮馬選手・金無英選手)の入団会見について”. 東北楽天ゴールデンイーグルス・オフィシャルサイト (2015年12月7日). 2021年9月4日閲覧。 ^ “楽天 栗原獲り!山崎に代わる右の主砲として期待”. スポーツニッポン. (2011年10月22日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/22/kiji/K20111022001867280.html 2015年11月16日閲覧。 ^ “【楽天】栗原、2軍戦で地元の山形・天童に凱旋も4タコ3三振”. スポーツ報知. (2016年6月11日). オリジナルの2016年6月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160613000615/https://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160611-OHT1T50145.html 2016年9月29日閲覧。 ^ “楽天栗原「全ていい思い出」引退会見で涙あふれる”. 日刊スポーツ. (2016年10月1日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1718289.html 2016年10月2日閲覧。 ^ “【栗原健太選手】現役引退に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス. (2016年9月29日). https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/6817.html 2016年9月30日閲覧。 ^ “楽天・栗原、引退会見で真情吐露 広島Vに「自分がいられなかったのが残念」”. 日刊スポーツ. (2016年10月1日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/10/01/kiji/K20161001013456820.html 2016年10月2日閲覧。 ^ “【楽天】現役引退・栗原に二軍打撃コーチ打診へ”. スポーツ報知. (2016年9月29日). オリジナルの2016年10月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161002015135/https://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160929-OHT1T50086.html 2016年9月30日閲覧。 ^ “2017コーチングスタッフに関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス. (2016年10月17日). https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/6867.html 2016年10月17日閲覧。 ^ “2017アジアウインターベースボールリーグ(AWB)NPBメンバー一覧”. 日本野球機構 (2017年11月17日). 2017年11月21日閲覧。 ^ “コーチ人事に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス. (2018年5月1日). https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/00001170.html 2018年5月1日閲覧。 ^ “コーチ契約に関して|東北楽天ゴールデンイーグルス”. 楽天イーグルス オフィシャルサイト (2019年10月29日). 2020年12月16日閲覧。 ^ “中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト - ドラゴンズニュース ★打撃コーチに栗原健太氏が就任”. dragons.jp (2019年11月2日). 2020年12月16日閲覧。 ^ “中日・パウエル新コーチの背番号は「93」栗原コーチは「73」仁村2軍監督は「72」 2020年のコーチングスタッフ発表”. 中日スポーツ. (2019年11月23日). https://web.archive.org/web/20191123091817/https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/201911/CK2019112302100029.html 2019年11月23日閲覧。 ^ “【中日】パウエル打撃コーチ、中村武志バッテリーコーチらの退団発表”. 中日スポーツ (2021年10月29日). 2021年11月11日閲覧。 ^ “スタッフ契約に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト (2021年11月21日). 2021年11月21日閲覧。 ^ “スタッフ契約に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト (December 10, 2022). December 19, 2022閲覧。 ^ “コーチ就任のお知らせ”. 千葉ロッテマリーンズ (2022年12月11日). 2022年12月12日閲覧。 ^ “ロッテ、来季のコーチングスタッフを発表”. ベースボールキング (2022年12月14日). 2022年12月14日閲覧。 ^ “ケガに泣いた野球人生 栗原健太が現役引退”. BASEBALL KING (2016年9月30日). 2018年4月29日閲覧。 ^ “【楽天好き】「後悔はない」。引退の栗原健太の奮闘と遺したもの”. J SPORTS (2016年10月2日). 2016年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月29日閲覧。 ^ “【野球】楽天・栗原コーチ“鉄人魂”仙台で継承 「全試合出場」こそ選手の使命”. デイリースポーツ (2018年4月29日). 2018年4月29日閲覧。 ^ “【球界ここだけの話(693)】楽天・栗原が引退…実直なスラッガーの第2の野球人生を応援したい”. サンケイスポーツ (2016年10月13日). 2018年4月29日閲覧。 山形県出身の人物一覧 広島東洋カープの選手一覧 東北楽天ゴールデンイーグルスの選手一覧 個人年度別成績 栗原健太 - NPB.jp 日本野球機構 栗原健太オフィシャルブログ「“KONG”栗健 #0」 - Ameba Blog 表 話 編 歴 21 吉井理人 70 福浦和也(ヘッド兼打撃) 84 黒木知宏(投手) 82 小野晋吾(投手) 71 村田修一(打撃) 73 金澤岳(バッテリー) 88 金子誠(戦略) 87 根元俊一(内野守備兼走塁) 80 大塚明(外野守備兼走塁) 90 光山英和(一軍・二軍統括兼統括コーディネーター) 86 サブロー(監督) 85 大谷智久(チーフ投手) 78 大隣憲司(投手) 75 堀幸一(打撃) 77 栗原健太(打撃) 76 江村直也(バッテリー) 72 三木亮(内野守備兼走塁) 83 諸積兼司(外野守備) 81 伊志嶺翔大(外野守備兼走塁) 79 松永昂大(育成投手兼二軍投手) 11 澤村拓一 12 石川歩 14 小島和哉 15 美馬学 16 種市篤暉 17 佐々木朗希 18 二木康太 19 唐川侑己 20 東條大樹 24 東妻勇輔 28 菊地吏玖 29 西野勇士 30 廣畑敦也 31 大谷輝龍 33 八木彬 34 高野脩汰 35 田中晴也 36 坂本光士郎 37 小野郁 40 西村天裕 41 カイケル 42 メルセデス 43 秋山正雲 46 岩下大輝 47 鈴木昭汰 48 中村稔弥 49 本前郁也 52 益田直也 53 木村優人 56 中森俊介 58 河村説人 59 早坂響 60 横山陸人 62 森遼大朗 66 澤田圭佑 69 コルデロ 91 二保旭 92 国吉佑樹 93 吉田凌 2 松川虎生 27 田村龍弘 32 佐藤都志也 45 植田将太 55 柿沼友哉 65 寺地隆成 00 池田来翔 4 友杉篤輝 5 安田尚憲 7 藤岡裕大 8 中村奨吾 10 上田希由翔 13 平沢大河 39 大下誠一郎 44 井上晴哉 57 小川龍成 67 茶谷健太 68 金田優太 99 ソト 0 荻野貴司 1 藤原恭大 3 角中勝也 22 ポランコ 23 石川慎吾 25 岡大海 38 髙部瑛斗 50 愛斗 51 山口航輝 61 山本大斗 63 和田康士朗 64 菅野剛士 120 田中楓基 121 土肥星也 124 古谷拓郎 125 永島田輝斗 127 吉川悠斗 128 白濱快起 133 武内涼太 126 村山亮介 137 富山紘之進 129 勝又琉偉 130 黒川凱星 134 松石信八 135 髙野光海 136 藤田和樹 138 マーティン 表 話 編 歴 1950 西沢道夫 1951 川上哲治 1952 西沢道夫 1953 川上哲治 1954 西沢道夫 1955 川上哲治 1956 川上哲治 1957 川上哲治 1958 川上哲治 1959 藤本勝巳 1960 近藤和彦 1961 藤本勝巳 1962 王貞治 1963 王貞治 1964 王貞治 1965 王貞治 1966 王貞治 1967 王貞治 1968 王貞治 1969 王貞治 1970 王貞治 1971 王貞治 1972 王貞治 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 王貞治 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 王貞治 1979 王貞治 1980 谷沢健一 1981 藤田平 1982 谷沢健一 1983 谷沢健一 1984 谷沢健一 1985 R.バース 1986 R.バース 1987 R.バース 1988 落合博満 1989 L.パリッシュ 1990 落合博満 1991 落合博満 1992 J.パチョレック 1993 広沢克己 1994 大豊泰昭 1995 T.オマリー 1996 L.ロペス 1997 L.ロペス 1998 駒田徳広 1999 R.ペタジーニ 2000 R.ペタジーニ 2001 R.ペタジーニ 2002 R.ペタジーニ 2003 G.アリアス 2004 T.ウッズ 2005 新井貴浩 2006 T.ウッズ 2007 T.ウッズ 2008 内川聖一 2009 T.ブランコ 2010 C.ブラゼル 2011 栗原健太 2012 T.ブランコ 2013 T.ブランコ 2014 M.ゴメス 2015 畠山和洋 2016 新井貴浩 2017 J.ロペス 2018 D.ビシエド 2019 D.ビシエド 2020 村上宗隆 2021 J.マルテ 2022 J.オスナ 2023 大山悠輔 表 話 編 歴 投 吉見一起 捕 阿部慎之助 一 栗原健太 二 平野恵一 三 宮本慎也 遊 鳥谷敬 外 青木宣親 / M.マートン / 長野久義 表 話 編 歴 1972 王貞治 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 王貞治 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 王貞治 1979 王貞治 1980 王貞治 1981 藤田平 1982 中畑清 1983 中畑清 1984 中畑清 1985 中畑清 1986 中畑清 1987 中畑清 1988 中畑清 1989 駒田徳広 1990 駒田徳広 1991 駒田徳広 1992 J.パチョレック 1993 駒田徳広 1994 駒田徳広 1995 駒田徳広 1996 駒田徳広 1997 駒田徳広 1998 駒田徳広 1999 駒田徳広 2000 R.ペタジーニ 2001 R.ペタジーニ 2002 R.ペタジーニ 2003 G.アリアス 2004 渡邉博幸 2005 A.シーツ 2006 A.シーツ 2007 A.シーツ 2008 新井貴浩, 栗原健太 2009 栗原健太 2010 (該当者なし) 2011 栗原健太 2012 畠山和洋 2013 J.ロペス 2014 森野将彦 2015 畠山和洋 2016 J.ロペス 2017 J.ロペス 2018 J.ロペス 2019 J.ロペス 2020 D.ビシエド 2021 D.ビシエド 2022 中田翔 2023 大山悠輔 表 話 編 歴 投 石川雅規 捕 阿部慎之助 一 新井貴浩 / 栗原健太 二 荒木雅博 三 中村紀洋 遊 井端弘和 外 青木宣親 / 赤星憲広 / 鈴木尚広 表 話 編 歴 投 D.ゴンザレス 捕 谷繁元信 一 栗原健太 二 荒木雅博 三 宮本慎也 遊 井端弘和 外 青木宣親 / 松本哲也 / 亀井義行 表 話 編 歴 投 浅尾拓也 捕 谷繁元信 一 栗原健太 二 平野恵一 三 宮本慎也 遊 鳥谷敬 外 青木宣親 / 大島洋平 / 長野久義 表 話 編 歴 30 後藤寿彦 31 山下大輔 32 荒木大輔 33 田尾安志 1 森大輔 11 後藤隆之 16 谷浩弥 17 銭場一浩 18 大沼幸二 19 山本浩司 21 有銘兼久 7 鶴岡一成 22 安田真範 5 四之宮洋介 6 栗原健太 9 平野恵一 10 小山豪 23 北川利之 25 前田新悟 33 畠山和洋 3 喜田剛 8 久保田智 29 吉浦貴志 51 荒金久雄 61 寺本四郎 66 西浦克拓 表 話 編 歴 83 原辰徳 72 伊東勤(総合) 71 山田久志(投手) 92 与田剛(投手) 81 篠塚和典(打撃) 63 高代延博(内野守備走塁) 73 緒方耕一(外野守備走塁) 11 ダルビッシュ有 14 馬原孝浩 15 田中将大 16 涌井秀章 18 松坂大輔 19 岩田稔 20 岩隈久志 22 藤川球児 26 内海哲也 28 小松聖 31 渡辺俊介 39 山口鉄也 47 杉内俊哉 2 城島健司 10 阿部慎之助 29 石原慶幸 5 栗原健太(追加招集) 6 中島裕之 7 片岡易之 8 岩村明憲 9 小笠原道大 25 村田修一(途中離脱) 52 川﨑宗則 1 福留孝介 23 青木宣親 24 内川聖一 35 亀井義行 41 稲葉篤紀 51 イチロー 表 話 編 歴 1位:河内貴哉 2位:木村一喜(逆指名) 3位:栗原健太 4位:末永真史 5位:佐竹健太 6位:苫米地鉄人 7位:松本奉文 8位:長崎元 日本の野球選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 東北楽天ゴールデンイーグルスの選手 NPBオールスターゲーム選出選手 野球日本代表選手 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表選手 2009 ワールド・ベースボール・クラシック選手 ワールド・ベースボール・クラシック優勝選手 アジア競技大会野球日本代表選手 日本のアジア競技大会銅メダリスト 日本の野球指導者 中日ドラゴンズ関連人物 千葉ロッテマリーンズ関連人物 日本大学山形高等学校出身の野球選手 山形県出身のスポーツ選手 1982年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 2024/11/06 21:26更新
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kurihara kenta
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