安保清種の情報(あぼきよかず) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
安保 清種さんについて調べます
■名前・氏名 |
安保清種と関係のある人
大角岑生: 昭和6年(1931年)12月、第2次若槻内閣が総辞職し、前任の安保清種が慣例に従って横須賀鎮守府長官の大角を犬養内閣の海軍大臣に指名した。 チャールズ=リンドバーグ: フォーブス(英語版)駐日米国大使、安保清種海軍大臣、杉山元陸軍次官、小泉又次郎逓信大臣ら日米の政府高官や海軍関係者など約1,000人が出迎え、国内外からの取材陣は200人を超えた。 佐藤允: 日本海大海戦(1969年) - 安保清種海軍少佐・三笠砲術長 |
安保清種の情報まとめ
安保 清種(あぼ きよかず)さんの誕生日は1870年11月8日です。佐賀出身の軍人のようです。
1948年に亡くなられているようです。
安保清種のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)安保 清種(あぼ きよかず、1870年11月8日(明治3年10月15日) - 1948年(昭和23年)6月8日)は、明治・大正・昭和期の日本の海軍軍人。海軍大将正三位勲一等功四級男爵。濱口内閣海軍大臣。佐賀県出身。 東京都新宿区にある道路「安保坂」は、安保の邸があったことに由来する。 海軍草創期の中堅幹部・沢野種鉄大佐の三男として生まれる。前名は康三郎。佐賀中学、攻玉社を経て、海軍兵学校18期生。同期生に加藤寛治がいる。在学中は父が兵学校次長であった。しかし在学中に父が病没する。規定局長林清康少将(のち海軍中将)が長女との縁談を進め、林家の養子となる。同時に養父から「清」、実父から「種」の字を頂き、林清種に改名。1897年に男爵に叙せられた清康中将が安保姓に改姓したため、この時点で世に知られる安保清種の姓名となる。1909年、養父の死去に伴い男爵を相続する。 日清戦争時は防護巡洋艦「厳島」分隊士として出征し、黄海海戦、威海衛攻撃に参加。日露戦争時、日本海海戦において、連合艦隊の旗艦である戦艦「三笠」の砲術長を務め、艦隊の射撃指揮に功績を挙げた。その際、ロシアの戦艦の名を覚える必要があったが、水兵達が慣れないロシア語をなかなか覚えられなかった為、似たような日本語を自身で考え、それで憶えさせたというエピソードがある(戦艦アリョールを「蟻寄る」、インペラートル・アレクサンドル3世を「呆れ三太」オスラービアを「押すとぴしゃ」、ドミトリー・ドンスコイを「ゴミ取り権助」、クニャージ・スヴォーロフを「國親父座ろう」、ボロディノは「襤褸出ろ」、シソイ・ウェリーキーは「薄いブリキ」、防護巡洋艦イズムルードは、「水漏るぞ」など)。 しかし戦後は海上勤務が極端に少なくなる。1911年度の第2艦隊参謀長と1915年度の戦艦「安芸」艦長のみで、以後は軍政・軍令の双方でキャリアを積む。海軍大臣に至るまでに、1923年度に艦政本部長、翌年から財部彪海相のもとで海軍次官を1年間務めている。一方の軍令部では、1916年から5年にわたって第1班長を務め、1920年には軍令部次長に補され、山下源太郎軍令部長を1年半にわたり補佐した。ワシントン軍縮条約発効後の混乱を軍政・軍令両面で収拾した影の功労者である。 海外勤務が多い。日露戦争後の1908-1911年にイギリス駐在。第一次世界大戦直前から序盤の1913年-1915年に大使館附武官。戦後の1922年から1年間は国際連盟日本海軍代表。ロンドン軍縮会議中は顧問としてみたび訪英している。 1927年には、海軍大将に昇進。1930年には濱口内閣で海軍大臣となった。統帥権干犯問題で山梨勝之進海軍次官と末次信正軍令部次長が更迭されただけではなく、財部彪海軍大臣と加藤寛治軍令部長までもが辞職する事態となり、安保は艦隊派・条約派の亀裂を埋める苦労を強いられた。そこで従来の財部体制を大幅に見直し、海軍省・軍令部の幹部大多数を入れ替えた。海軍省では小林躋造次官・堀悌吉軍務局長・阿武清人事部長・寺島健教育局長・藤田尚徳艦政本部長、軍令部では谷口尚真部長・百武源吾次長・及川古志郎第1班長・吉田善吾第2班長などが安保に招聘された。しかし主要幹部が丸ごと入れ替わった軍令部では混乱が生じ、谷口部長・百武次長の更迭運動が発生した。安保はやむなく谷口の更迭を決意するが、後任を模索している期間中に濱口首相が襲撃されて死亡する。谷口の後任を決められないまま、安保は海軍大臣を辞職せねばならなかった。最大の懸案事項として残った次期軍令部長の件は、後任に指名した大角岑生海軍大臣が伏見宮博恭王を選んで決着したが、これが条約派追放の遠因となる。 1934年に予備役、同年7月28日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、1935年に後備役に編入され、1940年に退役。1946年4月12日、貴族院議員を辞職。公職追放となり、追放中の1948年6月8日、胃がんのため杉並区成宗の自宅で死去。77歳。墓所は青山霊園(1イ4-25)。 1908年(明治41年)10月30日 - 正五位 1912年(大正2年)11月10日 - 従四位 1918年(大正7年)11月30日 - 正四位 1923年(大正12年)12月28日 - 従三位 1927年(昭和2年)5月2日 - 正三位 1904年(明治37年)11月29日 - 勲四等瑞宝章 1906年(明治39年)4月1日 - 功四級金鵄勲章 1915年(大正4年)11月7日 - 旭日中綬章・大正三四年従軍記章 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日重光章 1927年(昭和2年)5月25日 - 勲一等瑞宝章 1931年(昭和6年)4月11日 - 旭日大綬章 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 レジオンドヌール勲章オフィシエ:1912年2月6日 イタリア王冠勲章(英語版)コンメンダトーレ:上記同 安保清種、本多熊太郎『東郷元帥と日本海海戦 所謂一九三五-六年の危機』軍人会館事業部、1934年(昭和9年)6月21日。doi:10.11501/1099145。 安保清種『銃後独話』実業之日本社、1939年(昭和14年)1月24日。doi:10.11501/1462528。 安保清種『武将夜話 明日の海』東水社、1943年(昭和18年)3月28日。doi:10.11501/1450673。 ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 50頁。 ^ 安保 1939, pp. 140–141(オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション) ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、43頁。 ^ 『官報』第5795号、昭和21年5月13日。 ^ 公職追放の該当事項は「正規海軍将校内閣参議」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、4頁。NDLJP:1276156。 ) ^ 『朝日新聞』 1948年6月12日 ^ 『官報』第7606号「叙任及辞令」1908年10月31日。 ^ 『官報』第386号「叙任及辞令」1913年11月11日。 ^ 『官報』第1899号「叙任及辞令」1918年12月2日。 ^ 『官報』第3416号「叙任及辞令」1924年1月15日。 ^ 『官報』第135号「敍任及辞令」1927年6月13日。 ^ 『官報』第6426号「敍任及辞令」1904年11月30日。 ^ 中野文庫 - 旧・金鵄勲章受章者一覧 ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。 ^ 『官報』第2660号「叙任及辞令」1921年6月14日。 ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部) ^ 『官報』第1284号「叙任及辞令」1931年4月14日。 ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。 ^ 『官報』第8589号 明治45年2月6日 敍任及辭令 ウィキメディア・コモンズには、安保清種に関するカテゴリがあります。
表 話 編 歴 欠1872-1873 勝安芳1873-1875 欠1875-1878 川村純義1878-1880 榎本武揚1880-1881 川村純義1881-1885 西郷従道1885-1890 樺山資紀1890-1892 仁礼景範1892-1893 西郷従道1893-1898 山本権兵衛1898-1906 斎藤実1906-1914 八代六郎1914-1915 加藤友三郎1915-1923 財部彪1923-1924 村上格一1924 財部彪1924-1927 岡田啓介1927-1929 財部彪1929-1930 安保清種1930-1931 大角岑生1931-1932 岡田啓介1932-1933 大角岑生1933-1936 永野修身1936-1937 米内光政1937-1939 吉田善吾1939-1940 及川古志郎1940-1941 嶋田繁太郎1941-1944 野村直邦1944 米内光政1944-1945 表 話 編 歴 樺山資紀1886-1890 伊藤雋吉1890-1898 斎藤実1898-1900 斎藤実1900-1903 斎藤実1903-1906 加藤友三郎1906-1909 財部彪1909-1914 鈴木貫太郎1914-1917 栃内曽次郎1917-1920 井出謙治1920-1923 岡田啓介1923-1924 安保清種1924-1925 大角岑生1925-1928 山梨勝之進1928-1930 小林躋造1930-1931 左近司政三1931-1932 藤田尚徳1932-1934 長谷川清1934-1936 山本五十六1936-1939 住山徳太郎1939-1940 豊田貞次郎1940-1941 沢本頼雄1941-1944 沢本頼雄事務取扱 1944 岡敬純1944 井上成美1944-1945 多田武雄1945 三戸寿1945 表 話 編 歴 箕作麟祥 小畑美稲 近衛篤麿 二条基弘 箕作麟祥 大原重朝 箕作麟祥 小笠原忠忱 村田保 徳川達孝 富井政章 二条基弘 三好退蔵 廣澤金次郎 大原重朝 名村泰蔵 松平康荘 芳川顕正 京極高徳 波多野敬直 奥山政敬 岡部長職 吉井幸蔵 大原重朝 徳川頼倫 万里小路通房 寺島誠一郎 川村鉄太郎 廣澤金次郎 清棲家教 近衛文麿 吉井幸蔵 中山輔親 松平頼寿 吉井幸蔵 寺島誠一郎 伊東祐弘 土方寧 松平頼寿 柳原義光 溝口直亮 青木信光 柳原義光 浅野長之 織田萬 溝口直亮 青木信光 安保清種 秋元春朝 奥平昌恭 廃止 ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research 大日本帝国海軍大将 海軍次官 横須賀鎮守府司令長官 呉鎮守府司令長官 昭和時代戦前の閣僚 日本の海軍大臣 貴族院男爵議員 昭和時代の貴族院議員 日露戦争の人物 第一次世界大戦期の日本の軍人 公職追放者 海軍兵学校 (日本)出身の人物 攻玉社の塾生 佐賀県立佐賀西高等学校出身の人物 正三位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等瑞宝章受章者 勲四等瑞宝章受章者 功四級金鵄勲章受章者 レジオンドヌール勲章オフィシエ受章者 イタリア王冠勲章受章者 佐賀県出身の人物 肥前国の人物 胃癌で亡くなった人物 1870年生 1948年没 青山霊園に埋葬されている人物 2024/11/18 05:46更新
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