峯本達雄の情報(みねもとたつお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
峯本 達雄さんについて調べます
■名前・氏名 |
峯本達雄と関係のある人
庄司智久: 高校同期に峯本達雄がいる。 |
峯本達雄の情報まとめ
峯本 達雄(みねもと たつお)さんの誕生日は1953年6月12日です。和歌山出身の野球選手のようです。
卒業、引退に関する情報もありますね。峯本達雄の現在の年齢は71歳のようです。
峯本達雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 峯本 達雄(みねもと たつお、1953年6月12日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。右投右打。 新宮高では、左翼手として1971年夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、市和歌山商に敗退。高校時代のチームメイトに庄司智久がいた。 高校卒業後は、社会人野球の新日本製鐵堺に入団。1976年の都市対抗野球では、試合前の本塁打競争に優勝。河合楽器との1回戦でも本塁打を放ち注目される。社会人時代のチームメートに中出謙二や尾西和夫などがいた。 1976年のドラフト会議で、阪神タイガースから4位指名を受けて入団した。 1977年には、ウエスタン・リーグ公式戦42試合に出場。打率.269、4本塁打、27打点という成績を残した。しかし、足の骨折で出遅れたため、一軍公式戦への出場機会がなかった。 1978年には、一軍公式戦17試合に出場。主に代打として起用された。7月5日の対中日ドラゴンズ戦(阪神甲子園球場)では、代打で一軍初本塁打を放っている。 1979年には、ウエスタン・リーグ公式戦62試合に出場。55打点で打点王のタイトルを獲得したほか、打率.309、10本塁打という好成績を挙げた。しかし、一軍公式戦への出場機会はなかった。 1980年には、登録を内野手に変更。一軍公式戦へ2年振りに出場したが、1試合にとどまった。68試合に出場したウエスタン・リーグ公式戦では、打率.272、46打点を記録。さらに、8月24日の対広島東洋カープ戦で3打席連続本塁打を放つなど、自己最多の16本塁打(いずれも球団のファーム公式戦シーズン最多記録)を達成した。 1981年には、一軍・二軍とも、公式戦への出場機会がなかった。結局、一軍公式戦で守備に就くことがないまま、この年限りで現役を引退した。 1982年から2015年まで、阪神球団に職員として在籍。用具係・スコアラー・管理部査定担当・編成部査定調査担当・管理部次長・管理部長を経て、球団本部長を最後に退職した。 ウエスタン・リーグ打点王:1回(1979年) 初出場:1978年6月29日、対ヤクルトスワローズ11回戦(明治神宮野球場)、8回表に安仁屋宗八の代打で出場 初安打・初本塁打・初打点:1978年7月5日、対中日ドラゴンズ15回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に伊藤弘利の代打で出場、フレッド・クハウルアからソロ 35(1977年 - 1981年) ^ 【阪神】四藤球団社長がオーナー代行を兼任(『スポーツ報知』2015年12月29日付記事) 和歌山県出身の人物一覧 阪神タイガースの選手一覧 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1位:益山性旭 2位:続木敏之 3位:川辺邦好(入団拒否) 4位:峯本達雄 5位:渡辺純志 6位:山田和英(入団拒否) 日本の野球選手 和歌山県立新宮高等学校出身の野球選手 新日本製鐵堺硬式野球部の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 和歌山県出身の人物 1953年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目
2024/11/22 22:41更新
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minemoto tatsuo
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