末松安晴の情報(すえまつやすはる) 電子工学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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末松安晴と関係のある人
伊賀健一: 大学4年次に末松安晴研究室で光・量子エレクトロニクスの研究に入門。 |
末松安晴の情報まとめ
末松 安晴(すえまつ やすはる)さんの誕生日は1932年9月22日です。岐阜出身の電子工学者のようです。
青少年期、大容量長距離光ファイバ通信用の半導体レーザの発明などについてまとめました。現在、兄弟、家族、母親に関する情報もありますね。
末松安晴のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)末松 安晴(すえまつ やすはる、Yasuharu Suematsu、1932年9月22日 - )は、光通信工学の研究者・教育者。光通信用半導体レーザの先駆的研究により大容量長距離光ファイバ通信の実現と発展に貢献した。岐阜県中津川市坂下出身。 1963年6月26日には、東京工業大学で世界初の光ファイバ通信実験を行って公開した。その後、本格的な光ファイバ通信の実現を目指して研究した末松は1981年に動的単一モードレーザ(その一つの位相シフト分布反射器レーザ)を発明し、この分野の学術基盤を開拓した。位相シフト分布反射器レーザは、現在大容量長距離光ファイバ通信用の標準レーザとして広く世界で用いられている。これ以外にも量子井戸レーザの高性能化にも取り組んだ。末松はさらに波長可変レーザを発明したほか、集積レーザを実現して能動光集積回路の理論を提唱し、これを後にPICsと名付けて現在に至る発展を図った。 末松は他方、母校・東京工業大学の教授・学長として理工系人材の育成に励み、後には高知工科大学学長・国立情報学研究所所長にも就任した。文部科学省科学技術・学術審議会会長などを務め、科学技術・学術の振興に努めた。また、末松は青少年の科学技術教育にも励んでおり、「岐阜サマー・サイエンス・スクール in なかつがわ」(1995年創設;中津川市教育委員会)の実行委員長を務めているほか、世界の発明や発見のデータベースを集積して子供から大人までがウェブ上で広く閲覧できる、通称「発明と発見のディジタル博物館」(2010年より、日本学術振興会・国立情報学研究所・各学協会財団)の推進を行っている。 青少年期少年期末松は1932年9月22日に恵那郡坂下町(現:中津川市)で父佑一、母まつゑ夫妻の長男として生まれた。末松の幼少期は第2次世界大戦前後の激動期で、末松は5人兄弟の一員として父母、祖父母、そして坂下へ疎開してきた、出征した叔父の家族4名という大家族の中で育った。家は米穀、木材、石油などを扱う自営業で、祖父母からは「東京へ出て洋館に住む人」と可愛がられた。父は、折に触れて農作業や魚釣りなどへ連れ出し、木曽川の対岸に咲く白い花を教材に、「敷島の大和心を人とわば 朝日に匂う山桜花かな」(本居宣長の短歌)などと教えたりした。母は社会規範に悖ることをすると厳しく諭した。本を読むのは好きで、子ども向けの『プールターク英雄伝』や「アンデルセン童話」など、また雑誌「子どもの科学」、後には「自然」なども購読した。小学校5、6年次には、加藤宗平の指導で県の模型飛行機恵那郡大会に参加し、2年連続優勝した。 岐阜県立恵那中学校(旧制中学、現:岐阜県立恵那高等学校)1年次に第2次世界大戦が終わり、新設されたサッカー部に属した。この頃、ジャンク屋で入手して真空管ラジオを作ったという。新教育制度となり小学区制が施行された上に旧制中学は新制高校となったことから、末松は母親が学んだ高等女学校が前身の岐阜県立中津高等学校に転入した。数学が好きで、また、エディントン著の『膨張する宇宙』や『考古学入門』なども読んだ。安晴が作った鉱石ラジオが聞こえないのを見かねた叔父の末松玄六(戦後名古屋大学教授となっていた)の計らいで、理学部の上田良二教授に会わせてもらったり、除隊後に名古屋大学工学部教授に就任した親戚の市川眞人からピタゴラスの定理の成り立ちを教わったりして、学術的刺激の少ない地域に居ながらも啓発された。 大学・大学院時代末松は1951年4月に叔父の勧めで東京工業大学に入学し、1年半の教養課程の後に電気工学弱電コースに進んだ。教室よりは、自分で本を読んで納得がゆくまで考えるのが性に合っていたという。教養は河合栄治郎著の『百冊の本』から選んで手当たり次第に読んだ。アーノルド・J・トインビーが書いた "An Historian’s Approach to Religion"(1956年、日本では深瀬基寛訳で『一歴史家の宗教観』として出版)で、「自己中心性を去れ」と書いてあったことから社会貢献に目覚め、宗教が合理を越えた高い理念だったことを学んだ。また、ジェームズ・クラーク・マクスウェルの "A Treatise on Electricity and Magnetism"(1873年、『電気磁気論』)からは新分野を築いた叡智に触発され、リヒャルト・クーラントとダフィット・ヒルベルトの "Methoden der Mathematischen Physik" (en) (1924年)で、数学は物理現象を記述するものと理解した。末松も大学で専門の基礎を深め、社会で生きる意義を取得したという。大学院の指導教官だった森田清教授からは「論文書きに熱中するより本格的な仕事をせよ」と諭された。東工大教授の末武国弘が開いた、研究室を越えて集まりとことん議論する輪講会、マイクロ波輪講会や、東京大学の岡村総吾・斎藤成文両教授が主催した大学の枠を越えた懇談会、電子ビーム懇談会、などで研究者への道が拓かれたという。 大容量長距離光ファイバ通信用の半導体レーザの発明温度同調の動的単一モード・レーザ ~位相シフト分布反射器レーザ~末松は1960年に大学院を修了して東京工業大学に採用され、光通信の実現に向けて、光源と光伝送路の両方の可能性を探る研究を始めた。1963年に、光ファイバ通信実験を世界で初めて行い公開した(図1)。この実験は世界最初期に行なわれたものとして、国立科学博物館館の未来技術遺産として重要科学技術史資料に登録されることになった。吸湿性でデシケータに保存されているこの時に利用したADP結晶と共に、2008年7月に復元されたレプリカが、東京工業大学百周年記念館内の博物館で保存・展示されている。研究費が乏しかった初期には理論を主体にした研究を行った。1965年に光ビーム導波路の理論を、1967年に半導体レーザの直接変調の上限周波数を明らかにし、1970年には半導体レーザの動作理論などを構築した。 1967年から1年間、末松は文部省の在外研究員として米国のオハイオ州立大学に滞在して、MITやベル研究所などを訪ねて交友を広めた。1969年に末松に転機が訪れた。川上正光工学部長の紹介で東京電気化学(株)の山崎貞一社長から新しい研究の後押しをしたいと、見返りを求められないで多額の研究費の寄付を受けた。これを契機に、末松は研究の指針を「この世にないものを創る」「その原理を明らかにする」として、大容量の情報を長距離にわたって世界中に隈なく伝送できるところに光ファイバ通信の本質があると見定め、長波長帯単一モード光通信を提唱し、大容量長距離光通信実現に不可欠な、波長が安定した光を発する通信用半導体レーザの実現に向けた本格的な研究に取りかかった。 そして、その通信用半導体レーザとして、1972-1974年に動的単一モード・レーザ(DSMレーザ;Dynamic Single Mode Laser)を示唆した (図2)。この動的単一モード・レーザは次の3機能を併せ持つ半導体レーザである:1)長距離伝送のために、光ファイバの損失が最低になる波長1.5μm帯(この波長帯は研究を進める途中で明確になった)の光を出し、2)単一モード光ファイバ内の伝搬速度が波長により異なる伝搬定数分散に由来する伝送容量制限を乗り越えるために、単一波長で安定に動作し、さらに、3)多波長の通信に対応するために、波長が同調により可変できることである。 まず、Donald A Keckらの予測を参考にして、光ファイバの最低損失波長帯レーザの研究を進め、1979年に、波長1.5μm帯のGaInAsP/InPレーザを荒井滋久や板屋義夫らの協力で開拓した。この研究発表に対して2016年にSSDM実行委員会は35年遡ってSSDM2016 Awardを与えている。この年にNTTの宮哲夫らにより最低損失波長帯は1.5μmになることが明らかにされた。この研究では、当初、高価なInP基板の調達の問題があったが、国際電信電話株式会社の中込雪男所長の協力が得られて切り抜けられた。 1981-1983年に、多くの学生や同僚の協力の下に、まず、宇高勝之らと温度同調の動的単一モード・レーザを実現した。この実現の研究に関して、1983年のValdemar Poulsen Gold Medalが与えられている。この間の事情が“Light Unseen” に記載されている。 そして1983年に、古屋一仁らと位相シフト分布反射器レーザを実現した (図3)。この実現に対して、1985年のElectronics Letters Premium Award が与えられている。 このレーザは、温度同調の動的単一モード・レーザの代表例である。この位相シフト分布反射器レーザは、基盤の温度により波長を変える動的単一モード・レーザで、生産性が高く、大容量長距離光ファイバ通信の標準レーザとして広く用いられている。位相シフト分布反射器レーザ、あるいは位相シフトDFBレーザ、さらには単にDFBレーザと呼ばれることもある。中心波長が異なる1ダースほどの動的単一モード・レーザをアレー状に並べて広波長域の通信用レーザとしても用いられている。図4は商用化されたアレー・動的単一モード・レーザを示す。生産性が高いので、データ・センターや家庭向け回線にまで用途が広がっている。 この間の1975年7-8月の夏休みの期間中に、末松は小口文一日本電信電話公社研究本部長の招きで、日本電信電話公社通信研究所の客員研究員として週1-2回出向し、新関暢一統括を始め優れた研究者達と有意義な意見交換をした。1977年8月には、柳井久義教授を中心にした「光集積回路光通信国際会議(IOOC)」の発足に末松は参画した。 電気同調の動的単一モード・レーザ ~波長可変レーザ~電気により波長を同調する動的単一モード・レーザは、図1(c)に示す構造が基本で、二つの分布反射器で挟まれた中に、レーザ増幅部と位相可変領域とを設けるものである(図5)。分布反射器と移相領域とには別々の電流を加えて屈折率を変え、波長を変える。1980年に末松らが発明し、1983年に、東盛裕一らの協力で電気的に波長が可変できる動的単一モードレーザの動作を実証した。電気的に波長が変えられるので、波長可変レーザとも呼ばれる。これらの研究を含んで、1986年のIEEEデビッド・サーノフ賞(IEEE、米国)が与えられ、1998年にドイツで出版された”Tunable Laser Diode”(初版)には、末松の序文が求められて執筆している。この波長可変レーザは、その後、1993年にNTTの東盛裕一・吉国裕三らや、カリフォルニア大学のLarry Coldrenが、複数の周期構造を混在させた分布反射器を用いて共振状態を櫛の刃状にし、共振の波長を飛び飛びに変える技術を導入して、波長可変範囲を大幅に拡大することに成功した。多値変調のような狭スペクトルレーザの要求には、金子俊光らのように、プラズマ効果に代わってマイクロヒータを用いる局部的な温度変化の方法が適用されている。2004年に、まず米国で高密度の波長領域多重(D-WDM; Dense Wavelength Division Multiplexing)通信用に商用化され、その後に世界で広く使われている。このレーザは電気的に独立して波長制御が出来るので、次に述べる能動光集積回路と一体化した光源に利用できる優れた特徴がある。 能動光集積回路PICs末松は研究の初期から能動光集積回路が光通信に必要と考えていた。1963年に平面レーザの解析、1968年には海外研修先のオハイオ州立大(米)で平面導波路型の半導体光パラメトリック発振器を発明した。1969年にStewart Miller(米)はベル・システム・技術誌(BSTJ) で光集積回路を具体的に提唱した。1974年に末松は協力者達と光集積回路の中心となる集積レーザ、集積二重導波路ITG集積レーザを実現し、その後1981年に作成の容易なBJB集積レーザを開拓し、波長可変レーザの開拓につなげた。このITG集積レーザの研究に対して1979年の業績賞が与えられている。1975年に中村道治らは0.85μm帯のGaAlAs DFBレーザの室温連続発振に達した。1977年に末松は集積レーザを中心とした能動光集積回路を提案、1978年には岸野克巳らと半導体レーザと半導体光増幅器(現在はSOA:Semiconductor Optical Amplifierと呼ばれている)や光検出器との一体集積を達成し、この様なレーザ中心の平面型の光集積回路を1987年にPICs(Photonic Integrated Circuits)と名付けた。この名称は現在、広く用いられている。Larry ColdrenとDaniel Blumenthal(米)らは、ルータ用に大量なPICsを開拓した。2011年のRadha Nagarajan(米)らは超高速Tb/sのコヒーレント受光PICsを開拓した。大規模集積化は一層進み、2014年には、Summers(米)らは40X57Gb/s(2.25Tb/s)のコヒーレント送信PICsを開拓した。光集積回路では複雑な導波路で光が弱くなるので、光強度の増大のために発振前の半導体レーザによる光増器(SOA)が随所で用いられている。2000年に東工大の水本哲也らは導波路型アイソレータを実現した。2012年にNTTの松尾らはホトニック結晶レーザの室温連続動作を達成した。1990年にSi基板上に構成されたシリカ光受動回路の集積光回路がNTTの河内正夫により提案され、Si-PICsに発展している。Si-PICsでは光を出すレーザが無く、その欠陥を埋めるためにSi基板やSiやシリカ導波路に、レーザやInP材料を貼り付けるInP-Si-ハイブリッド-PICsが開拓されている。 光デバイス動作の理解末松は研究の指針を、先述のように「この世にないものを創る」「その原理を明らかにする」として、前者に関しては動的単一モードレーザなどの新しいデバイスを創ったが、他方では、好奇心が旺盛な大学の教育者として、後続の若者達に効率よく伝えるために創り上げてきたデバイスの原理を多くの協力者の叡智により明らかにして系統化した。 高速変調が一つの特徴である半導体レーザの直接変調特性の上限周波数を池上徹彦徹彦と明らかにし(1968)、直接変調の高調波ひずみ量をTchang-hee Hongらと共に与え、その上限周波数で起こる非線形現象をキャリアの拡散長と活性層の横方向の幅を等しくすれば削減できることを古屋一仁と示し、直接変調による波長の動的揺らぎを発見して光ファイバの伝送特性と分散制御の関係を小山二三夫と明らかにし、動的揺らぎを岸野克巳と共に定式化した。他方では、 発振状態の半導体レーザにおける他モードへの利得抑圧効果を、キャリアの緩和現象を基に定式化を進め、西村吉雄、山田実、浅田雅洋らと共に順次、理論の内容を深め(1970)、また、量子箱レーザの利得を明らかにして量子箱の優れた点を浅田雅洋や宮本恭幸と明らかにし、始めて量子箱レーザの発振に平山秀樹らと共に成功した。そして、 キャリアの自然放出光が発振モードに加わる自然放出係数を古屋一仁と共に定式化し、動的単一モード・レーザの単一モード性能を自然放出係数を用いて小山二三夫や小森和弘らと明らかにし(1989)、レーザのスペクトル幅を自然放出係数を用いて定式化した。 収束性光導波路のマトリックス理論解析を吹抜洋司と行い(1968)、ケーブル化による不規則曲がり損失を理論的に明らかにし、損失が許容される単一モード光ファイバのコア径が、1.5μm帯の単一モード光ファイバでは8-10μm程度で実用的な寸法に出来ることを古屋一仁と一緒に示した。 2024/06/18 03:37更新
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suematsu yasuharu
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