本城聡章の情報(ほんじょうもとあき) ミュージシャン 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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本城聡章の情報まとめ
本城 聡章(ほんじょう もとあき)さんの誕生日は1964年9月10日です。東京出身のミュージシャンのようです。
メンバー、特徴などについてまとめました。解散、ドラマ、脱退、テレビに関する情報もありますね。本城聡章の現在の年齢は59歳のようです。
本城聡章のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)筋肉少女帯(きんにくしょうじょたい)は、日本のロックバンドである。1980年代後半から1990年代後半にかけて活躍し、2006年に活動を本格再開した。通称は「筋少」(きんしょう)で、アルファベットでは「King-Show」(初期は「KIN-SHOW」)と記す。 1979年に当時中学生だった大槻ケンヂと内田雄一郎が組んだバンド「ザ・ドテチンズ」(別名ドンズ。当時の大槻のあだ名より命名)が始まり。大槻は健康青竹踏みを打ち鳴らし、内田はエレクトーンを掻き鳴らした。 ドンズ解散後高校進学を経て、1982年2月に再びバンド「筋肉少年少女隊」を結成。大槻は「JAGATARA」のようなファンクバンドを志向していたものの、練習スタジオでファンクが上手く説明できず、結局「ディープ・パープル」の様な曲調になったそうである。このやりとりから代表曲のひとつである『釈迦』が生まれた。4月6日のライブハウス新宿JAM「伝染病解散ライブ」にてライブデビュー。 1984年、バンド名を「筋肉少女帯」に改め、ナゴムレコードよりインディーズデビュー。とはいえ、まだまだこの頃のライブでは大槻がうどん粉で顔面白塗りの上、裸体に包帯を幾重にも巻きつけて歌唱するなど、「当時は学園祭バンドみたいなノリで、完全にキワモノ」(大槻談)であった。 同じ頃、後に第22期筋肉少女帯メンバーとなる5人がそれぞれのバンド(大槻・内田は筋少、本城は筋少・有頂天・エッグレイヤー、太田はYTJ、橘高はSLEAZY LUSTER)でYAMAHAのコンテストに出場。たびたび顔を合わせる旧知の仲だった。筋少はパフォーマンス賞や審査員特別賞を受賞、橘高、太田はそれぞれベストギタリスト賞、ベストドラマー賞を取るなど、対照的な成績を残している。 1985年に三柴江戸蔵が参加。 1987年、ナゴムレコードより発売の自主制作シングル『高木ブー伝説』が話題を呼ぶ。冗談画報、11PMなどに出演。その際演奏した高木ブー伝説、ドリフターといった楽曲の歌詞が問題となったりもした。そのためドリフターズ所属の事務所を名乗る者から苦情の電話が寄せられ、『高木ブー伝説』は結局自主回収という形で販売中止となる。しかし、その電話は後に悪戯と発覚する。大槻によれば、この一件で筋肉少女帯は一時解散の危機に立たされたが、他ならぬ高木ブーの擁護によって事なきを得たという。 様々なメンバーが加入と脱退を繰り返す中で活動を続け、1988年6月、トイズファクトリーよりアルバム『仏陀L』・シングル『釈迦』でメジャーデビュー (第18期メンバー)。しかし、その後もメンバーが定着することはなく、半年後に発売された2ndアルバムは21期メンバーで録音された。 1989年2月の三柴脱退を受け、橘高文彦の加入・本城聡章の復帰が「大槻ケンヂのオールナイトニッポン」にて発表される (第22期)。筋少のオリジナル音源への参加に先駆け、「オールナイトニッポン」の企画から派生した「まんが道」(大槻と内田による変名ユニット) の『ボヨヨンロック』において非公式ながら初のレコーディング。その後、さらに同メンバーで録音された3rdアルバム以降ついにメンバーが定着し、以後10年間メンバー交代が行われることはなかった。 アルバム収録曲『日本印度化計画』が話題となり、続くシングル『元祖高木ブー伝説』(『高木ブー伝説』のリメイク) が一躍大ヒット。大槻がオールナイトニッポンのパーソナリティを務めたことも相まって、一躍有名バンドへとのし上がっていく。「筋肉少女帯の深夜改造計画」という看板TV番組まで持っていた。一方で、『ボヨヨンロック』、『日本印度化計画』、『元祖高木ブー伝説』と笑いの側面の強い曲が立て続けにヒットしたこともあり、はからずも世間にはコミックバンドという認知が俄かに定着しつつあった。大槻自身、この三作をまとめて「ボヨヨン・カレー・ブー」=「B・C・B」と呼び、度々自虐的に当時の状況をネタにしている。 1990年2月7日には単独では初となる武道館LIVE。以後1994年まで通算4度、単独での武道館LIVEを敢行する。 1992年発売のベストアルバム『筋少の大車輪』には、かつてのメンバーが一堂に集結。新録音曲「大釈迦」が収録された。 バンドブームが去った1992年9月、経営難となっていた所属事務所をやめ、翌1993年暮れにはトイズファクトリーに契約を打ち切られる。 バウワウなどを育てた上野義美氏の事務所と契約し新たに動き出す。 1994年に橘高が、翌1995年に大槻がソロデビューするなど、メンバー各自での活動も多くなっていった。 所属レコード会社は1994年にMCAビクター、さらに1996年にマーキュリーミュージックエンタテインメントへと移籍。 1997年、活動凍結前のラストアルバム『最後の聖戦』をリリース。このタイトルになった理由は、大槻が5人での活動に限界を感じたためである。追い打ちをかけるように翌1998年、当時の所属事務所の経営破綻、精神バランスを崩したこと、メンバーのモチベーション低下等が重なった結果、この頃より大槻はバンドとしての活動限界を感じるようになる。その一方で「メンバーのまとまりがなかった反面、ライブそのものはよかった」と、パフォーマンス的には円熟していた時期であるとも後年公言している。 バンドブーム衰退後も独自のスタンスを保ちメジャーシーンで活躍しつづけたが、同年8月の渋谷公会堂ライブを最後に太田が脱退。同時にバンドとしての活動休止が発表された。 9月、大槻は、内田および三柴らかつてのメンバーと期間限定で「80年代の筋肉少女帯」を結成。LIVEツアーも行う(後にインディーズよりビデオ発売)。 1999年5月には大槻がバンドのテコ入れを想定した「大槻と内田以外のメンバー一新による活動再開」を示唆し、後に橘高が脱退を表明。この事態が一部ファンに「大槻の独断による橘高外し」と受け取られ反発を招いた。大槻が公式サイト上で事態収拾を行うべく弁明の書き込みをするも逆に火に油を注ぐ形となり、大槻の人格攻撃に及ぶまでに至る。精神的に疲弊した大槻は翌6月に脱退を表明。内田雄一郎と本城聡章の2人のみとなった筋肉少女帯は事実上解散状態となる。しかし2人は筋肉少女帯の名を守りつづけることを決意。 7月、内田と本城は「解散」ではなくバンドとしての活動「凍結」を宣言した。 その後、大槻は文筆活動と併行して「特撮」を結成し、様々なコネクションを通じ対バン勝負を呼びかけて個人名義での活動も行う。橘高は脱退と前後する形で結成していた「X.Y.Z.→A」に専念。太田は相川七瀬らのサポートの傍らドラム教室を開催。内田と本城は他アーティストのサポートやプロデュース活動の他、「筋肉少女帯」(KING-SHOW)としてサントラ製作やライブアルバム監修、イベント主宰などを行っていった。 活動休止前後にはメンバー間で行き違いもあり、特に盟友関係と言っても良かった大槻と内田は、その後「特撮」内で対立して内田が脱退するなど一時絶縁に近い状態となってしまう。 しかし 大槻と橘高の所属バンド同士が競演する。 内田と本城の主催イベントに橘高が参加し、「一夜限りの復帰」と銘打ってセッションを実施。 大槻・内田双方と交友があった元アンジーの水戸華之介が大槻のイベントにゲスト出演した際に内田を登場させて仲直りの場を設けた(もともとは大槻が水戸に内田への出演交渉を依頼。水戸は辛うじて内田の電話での出演を取り付けた形にしておいて、当日電話しながら内田が登場するというサプライズを演出)。 など、徐々に関係を修復していった。共演の際に筋肉少女帯の曲が演奏されることもあり、大槻と内田に至っては「仲直り」自体をイベントのネタとして使用するまでになる。 2006年にはかつて大槻がケラ、内田と結成していたユニット空手バカボンが突如復活しライブを行った。さらに大槻と橘高が三柴らのサポートを受けて「大槻ケンヂと橘高文彦」と称するコンビを組み、筋少ファンを公言する滝本竜彦原作・大岩ケンヂ作画のテレビアニメ『N・H・Kにようこそ!』に楽曲を提供。大槻、橘高参加時の往年の「90年代の筋少」サウンドを髣髴とさせる楽曲となった(シングル盤には筋少時代の楽曲「踊るダメ人間」のセルフカヴァーも収録されている)。 同年4月から7月にかけて『週刊アスキー』誌上において大槻が『筋肉少女帯物語』第1部を連載。大槻本人が明記しているようにフィクションのキャラクターも登場する「小説」なのだが、当時のメンバーらの許可の元に、バンドブームに巻き込まれ、急激に人気バンドになってしまった彼らを取り巻いていた状況なども語られている。 そして小説第1部の最終回掲載直前の7月22日。恵比寿で行われた「大槻ケンヂと橘高文彦」のライブに、サプライズゲストとして内田と本城が登場。大槻と橘高の筋肉少女帯再加入と、4人で同年12月28日に筋肉少女帯のライブを行うことが発表され、凍結状態であったバンドは8年ぶりに復活を果たした(小説第1部のラストでも、大槻が復活を宣言)。 メジャーデビュー時と同じトイズファクトリーに所属することとなり、2007年3月にベストアルバム『筋肉少女帯 復活究極ベスト 大公式』が第一弾として発売された。 同年9月にはおよそ10年ぶりのオリジナルアルバムとなる『新人』を発売。 2008年9月21日に14年ぶり、単独では5度目となる武道館公演を行った。 2013年4月、徳間ジャパンコミュニケーションズへとレコード会社を移籍。同社のレーベル、ジャパンレコーズより作品をリリースする。 2018年6月20日、メジャーデビュー30周年を記念し、MCAビクター、マーキュリーミュージック在籍(どちらも現ユニバーサルミュージックジャパン)時代の4作品(『レティクル座妄想』~『最後の聖戦』)を、ボーナストラックを加えSHM-CD化・全曲リマスタリングを施し再発売。また、VHSでしかリリースされていなかった映像作品『science fiction double feature〜筋肉少女帯 Live & PV-clips〜』についても、DVD化し再発売した。 メンバー正規メンバーサポートメンバー過去在籍メンバー※過去在籍した正規メンバーは総勢17人にも達するため、主な者のみに留める。 過去の主なサポートメンバーメンバー変遷※印はサポートメンバー 参考文献「筋少新聞2号」、「筋肉少女帯 ナゴムコレクション」ブックレット 特徴メンバーのバラバラな趣向を反映したバラエティに富む音楽性 と、不条理とブラックユーモアが入り混じった物語性の高い詞世界、硬派な音楽性と相反するコミカル・プラクティカルな笑いの要素が共存しているのが特徴。 三柴在籍時のインディーズ後期からデビュー初期にかけてはパンク、ハードロック、ニュー・ウェイヴ、プログレなどが混在した音を聴かせ、主に三柴と内田が音楽的方向性の主導権を握っていた。 三柴脱退後、新たな方向性を模索していた筋少は、オーディションで洋楽受容者でヘヴィ・メタルのギタリストである橘高が加入すると、彼と本城のツインギターによりハードロック系の音楽性を前面に押し出していくこととなる(大槻は一般的にメジャーなこの時代の筋少を指して「'90年代筋少」と呼んでいる)。 受けた影響キッスやエアロスミスから影響を受けている。 与えた影響元LaputaのドラマーであるTomoiは、太田明のようなプレイスタイルを理想だと語っている。Mix Speaker's,Inc.のSeek、MoranのHitomi、えんそくのぶう、NoGoDの団長が大槻ケンヂからの影響を語っている。 2024/06/16 10:42更新
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honjou motoaki
本城聡章と同じ誕生日9月10日生まれ、同じ東京出身の人
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