柳田誠二郎の情報(やなぎだせいじろう) 経営者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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柳田誠二郎の情報まとめ
柳田 誠二郎(やなぎだ せいじろう)さんの誕生日は1893年9月2日です。栃木出身の経営者のようです。
卒業、結婚、解散、趣味、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1993年に亡くなられているようです。
柳田誠二郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)柳田 誠二郎(やなぎた せいじろう、1893年〈明治26年〉9月2日 - 1993年〈平成5年〉11月18日)は、日本の実業家。日本航空初代社長を務めた。 栃木県足利町(現足利市)に生糸商・柳田武一郎、さとの次男として生まれる。 高等科2年を終えた、数え年で13歳のとき、上京して諸井時三郎の養子となった。諸井時三郎の妻くらは母さとの妹である。 京華中学校、第一高等学校を経て1917年(大正6年)4月に東京帝国大学を卒業するとともに、日本銀行へ入行する。 1942年(昭和17年)5月に日銀理事となり、1945年(昭和20年)10月に日銀副総裁に就任。しかし、国の外資事業の責任者であったことから、1946年(昭和21年)6月に公職追放を受け、日銀を去る。 追放中に計理士の免許を取り、自宅に計理士事務所の看板を掲げる。最初にやってきた客は子爵加納久朗であった。 1951年(昭和26年)追放解除後、藤山愛一郎の推挽を受けて同年8月1日に日本航空社長に就任した。そのほか、日立精機、東洋端子の相談役や日本航空ホテル、公共建物、北辰電機製作所(現・横河電機)の監査役などを務めた。 1993年(平成5年}11月18日、老衰のため東京都渋谷区の自宅で死去(100歳没)。 《主な出典:》 1893年(明治26年) - 栃木県足利町(現足利市)に生まれる。 1905年(明治38年) - このころ、諸井家の養子となる。 1910年(明治43年) - 第一高等学校入学。 1913年(大正02年) - 東京帝国大学入学。 1917年(大正06年) - 東京帝国大学経済学部卒業。日本銀行へ入行。 1919年(大正08年) - 養父・諸井時三郎が死去。 1923年(大正12年) - ロンドン駐在勤務(ロンドン代理店監督役室書記)。 1926年(大正15年) - 帰国。このころ、柳田姓に復する。 1927年(昭和02年) - 朝鮮銀行理事・太田三郎の娘美代子と結婚。 1930年(昭和05年) - 営業局調査役。 1933年(昭和08年) - 京都支店長。 1935年(昭和10年) - 神戸支店長。 1936年(昭和11年) - ロンドン代理店監督役。国際決済銀行理事を兼任。 1939年(昭和14年) - 外国為替局長。のちに外事局長を兼任(1941年当時)。 1942年(昭和17年) - 日本銀行理事。 1945年(昭和20年) - 横浜正金銀行副頭取を兼任。その後10月に日本銀行副総裁に就任。 1946年(昭和21年) - 公職追放で辞職。 1950年(昭和25年) - 北辰電機製作所取締役会長。 1951年(昭和26年) - 追放解除。日本航空(初代法人。1953年解散)社長に就任。北辰電機製作所監査役を兼任。 1952年(昭和27年) - 日本航空整備設立に伴い、同社社長を兼任。 1953年(昭和28年) - 日本航空株式会社法により設立された(新)日本航空社長に就任。日本航空ビル取締役、日立精機相談役にも就任。 1955年(昭和30年) - 日本航空社長再任。日本航空整備監査役を兼任。 1961年(昭和36年) - 日本航空社長辞任。海外経済協力基金総裁に就任。日本航空相談役。藍綬褒章受章。 1966年(昭和41年) - 勲一等瑞宝章受章。 1969年(昭和44年) - 海外経済協力基金総裁を退任。 1973年(昭和48年) - 日本航空協会会長(1981年まで)。 1982年(昭和57年) - 航空亀齢賞受賞。 1993年(平成05年) - 死去(100歳没)。 宗教は禅宗。趣味はゴルフ、将棋、長唄。 大学時代は猛烈に勉強した。また、禅宗に打ち込んでしばしば家で座禅をしたという。亀井貫一郎にすすめられ岡田虎二郎を訪ねて以降、晩年まで岡田式静坐を続けた。柳田は「大学時代は夜寝るのも惜しんで猛勉(原文ママ)した。そのうえお寺にこそ行かなかったが依然禅宗に打ち込んで家で座禅を続けていた。そして先人にならってわが身を苦しめ、それに忍耐し克己努力することばかりやっていたので、いつか精神主義が勝ちすぎ、気ばかり強くなっていた」と回想している。 《一部出典:》 父・柳田武一郎 ‐ 足利の生糸卸商。生地商「柳田」初代社長。和洋紙染料薬種商で足利銀行の役員や足利梁田郡長なども務めた柳田市郎右衛門の養子。 妻・美代子(太田三郎の娘) - 日本婦人航空協会初代理事長などを務めた。 長男・柳田洋一郎 - 産婦人科医(東京マタニークリニック病院長) 二男・柳田誠 - 日本化学勤務 三男・柳田宏 ‐ 日本航空常務
従弟・諸井貫一(実業家)、諸井三郎(作曲家)
遠祖は柳田伊豆守という足利家の家臣であるという。12世紀ごろの平安末期に日向国の柳田郷から出て来て足利義国の従者となったが、足利3代将軍義満のとき戦功によって足利の庄の中里の地をもらって宝福寺を建てた。本家の柳田一郎右衛門は伊豆守から24代目にあたる。父・武一郎は柳田本家に養子に来て、分家独立し一家を構え生糸商を始めた。店は次第に大きくなり太平洋戦争の始まるころには両毛地方きっての大手筋になっていたという。 岡田虎二郎 - 静座の師。 町村敬貴 星野直樹 - 大蔵省に入省。 『エアガール』 - 2021年(令和3年)3月20日にテレビ朝日系列で放送されたスペシャルドラマ。 架空の航空会社「日本民間航空」社長の柳沢誠二(演:田中哲司)が登場する。 ^ 当時はまだ経済学部が独立していないため、名目上は「東京帝国大学法科大学経済学科」卒業である。 ^ 柳田誠二郎が回顧録の中で本人の年齢を挙げて述懐するとき、その年齢は満年齢でなく数え年の年齢であることに留意する必要がある。例えば、大学入学の年について「大正二年、二十二歳のとき東京帝国大学にはいった」(強調は引用者)と述べている。 ^ なお、養父・時三郎が死亡したのち、ロンドン駐在を終えて帰国したころに、柳田姓に戻っている。その後、正式に諸井家の戸籍を離れた。 ^ 外資金庫理事や横浜正金銀行副頭取を務めた。 ^ 11月にロンドンを発った後、実際に日本国内(神戸港)に到着したのは翌1927年1月のことであった。 ^ その後は、日本航空協会名誉会長。 ^ 『日本人事録』(東日本編 第4版改訂増版)株式会社中央探偵社、1960年2月、1225頁。NDLJP:3015892/648。 ^ 柳田誠二郎「私と趣味(第100回)――静坐は一生の仕事である」『月刊 Keidanren』第41巻第1号、社団法人経済団体連合会、1993年1月、44頁、NDLJP:2883448/23。 ^ 日本人名大辞典+Plus デジタル版. “柳田誠二郎とは”. コトバンク. 2021年12月9日閲覧。 ^ 「編集後記」『月刊 Keidanren』第41巻第12号、社団法人経済団体連合会、1993年12月、72頁、NDLJP:2883459/39。 ^ 私の履歴書(1964年), p. 285. ^ 私の履歴書(1964年), p. 299. ^ 私の履歴書(1964年), p. 289. ^ 私の履歴書(1964年), p. 306. ^ 私の履歴書(1964年), p. 303. ^ 私の履歴書(1964年), p. 338. ^ 私の履歴書(1964年), p. 341. ^ 私の履歴書(1964年), p. 343. ^ 私の履歴書(1964年), p. 346. ^ 「役員の変遷」『日本航空10年の歩み:1951-61』日本航空株式会社、1964年10月、130頁。NDLJP:2504570/134。 ^ 『日本信用紳士録』(全国篇 1968年版)株式会社東興秘密探偵社、1967年12月、1266頁。NDLJP:3025564/685。 ^ 『人事興信録』(第25版 下)株式会社人事興信所、1969年12月、や之部 72頁。NDLJP:3044854/1172。 ^ 「訃報」『月刊・交通公論』第150号、交通公論社、1993年11月30日、49頁、NDLJP:2824686/25。 ^ 柳田誠二郎「著者略歴」『中央銀行金融政策論』東洋経済新報社、1949年7月、219頁。NDLJP:1079200/117。 ^ 私の履歴書(1964年), pp. 289–290. ^ 私の履歴書(1964年), p. 295. ^ 私の履歴書(1964年), p. 305. ^ 私の履歴書(1964年), p. 311. ^ 私の履歴書(1964年), p. 325. ^ 私の履歴書(1964年), p. 319. ^ 私の履歴書(1964年), p. 324. ^ 私の履歴書(1964年), p. 321. ^ 私の履歴書(1964年), p. 337. ^ 私の履歴書(1964年), p. 340. ^ 『航空工業年鑑』(昭和29年版)日本航空工業会(編)、1955年1月、119頁。NDLJP:2479892/66。 ^ 「年表」『日本航空10年の歩み:1951-61』日本航空株式会社、1964年10月、135頁。NDLJP:2504570/139。 ^ 『航空工業年鑑』(昭和31年版)日本航空工業会、1956年5月、223頁。NDLJP:2479893/120。 ^ 「年表」『日本航空10年の歩み:1951-61』日本航空株式会社、1964年10月、150頁。NDLJP:2504570/154。 ^ 柳田誠二郎「海外経済協力基金の新発足にあたりて」『経団連月報』第9巻第3号、経済団体連合会、1961年3月、7-9頁、NDLJP:1393038/5。 ^ 『柳田 誠二郎(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」)』 - コトバンク ^ 私の履歴書(1964年), pp. 355–356. ^ 『勲章百年の歩み』行政通信社、1974年9月、115頁。NDLJP:11933017/61。 ^ 「第30回航空日祝賀会開催」『航空と文化』創刊第7号、日本航空協会、1982年10月、87頁、NDLJP:2848761/45。 ^ 私の履歴書(1964年), p. 301. ^ 『現代財界家系譜』(第2巻)現代名士家系譜刊行会、1969年4月、482-483頁。NDLJP:3026596/519。 ^ 会社概要柳田株式会社 ^ 私の履歴書(1964年), p. 286. ^ 私の履歴書(1964年), pp. 301–303. ^ 私の履歴書(1964年), pp. 307–309. ^ 私の履歴書(1964年), p. 292. 「柳田誠二郎」『私の履歴書』(第20集)日本経済新聞社、1964年2月、283-356頁。NDLJP:2972798/145。 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房 2001年 447-448頁 表 話 編 歴 柳田誠二郎1951年8月-1960年12月 松尾静磨1961年1月-1971年4月 朝田静夫1971年5月-1981年5月 高木養根1981年6月-1985年12月 山地進1985年12月-1990年5月 利光松男1990年6月-1995年5月 近藤晃1995年6月-1998年5月 兼子勲1998年6月-2004年5月 新町敏行2004年6月-2006年5月 西松遥2006年6月-2010年1月 大西賢2010年2月-2012年1月 植木義晴2012年2月-2018年3月 赤坂祐二2018年4月-2024年3月 鳥取三津子2024年4月- 藤山愛一郎1951年8月-1953年9月 原邦造1953年10月-1960年12月 植村甲午郎1963年5月-1969年4月 伍堂輝雄1969年5月-1971年4月 松尾静磨1971年5月-1973年4月 小林中1973年5月-1977年5月 植村甲午郎1977年6月-1979年5月 堀田庄三1979年6月-1981年5月 花村仁八郎1983年6月-1986年5月 伊藤淳二1986年6月-1988年5月 渡辺文夫1988年6月-1991年5月 山地進1991年6月-1998年5月 兼子勲2004年6月-2006年5月 新町敏行2006年6月-2008年3月 稲盛和夫2010年2月-2012年1月 大西賢2012年2月-2018年3月 植木義晴2018年4月-2024年3月 赤坂祐二2024年4月- VIAF 日本 CiNii Books CiNii Research
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2024/11/05 23:35更新
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yanagida seijirou
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