清水川元吉の情報(しみずがわもときち) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
清水川 元吉さんについて調べます
■名前・氏名 |
清水川元吉と関係のある人
双葉山定次: 1936年1月場所は初日の新海幸蔵戦で敗れて黒星発進だったが、武藏山武から初金星を奪い、清水川元吉・男女ノ川登三の両大関も破るなど2日目から4連勝、6日目に全勝の玉錦と対戦する。 駒ノ里秀雄: 最終的に三役への昇進は果たせなかったが、自己最高位(前頭2枚目)となった1936年5月場所では清水川元吉を突き出しで破るなど、上位力士に対しても通用する力量を持っていた。 沖ツ海福雄: その後も好成績が続き、1932年10月場所には9勝2敗の好成績を上げるが、この場所は清水川元吉が同成績ながら番付上位で優勝。 三根山隆司: 1936年のある日に清水川元吉・磐石熊太郎の一行が近所へ巡業に来た時に見に行くと、先に巡業会場へ到着していた高島から熱心に勧誘されたことで高島部屋へ入門した。 |
清水川元吉の情報まとめ
清水川 元吉(しみずがわ もときち)さんの誕生日は1900年1月13日です。青森出身の相撲のようです。
父親、事件、脱退、引退、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1967年に亡くなられているようです。
清水川元吉のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)清水川 元吉(しみずがわ もときち、1900年1月13日 - 1967年7月5日)は、青森県北津軽郡三好村(現:青森県五所川原市)出身で二十山部屋に所属した大相撲力士。本名は長尾 米作(ながお よねさく)。最高位は東大関。 1900年1月13日に、青森県北津軽郡三好村(現:青森県五所川原市)で農家を営む家に長男として生まれる。隣家は江戸相撲の名大関だった柏戸利助の生家で、米作少年の父親も地方相撲の強豪だったことから、米作自身も宮相撲で活躍、1916年の夏に二十山の一行が巡業へやってきた際に父親に伴われて入門、1917年に上京して同年1月場所で初土俵を踏んだ。「清水川」の四股名は、故郷を流れる川と宮相撲で大関を務めていた時に名乗っていた名前から付けた。 幕下時代から、左を差して寄るか、宮相撲で鍛え上げた粘り強い足腰を生かして右上手を取ってから引き付けて吊り出す取り口だったが、1921年の巡業で小松山から「左が強いから右四つに組んで寄り、相手が堪える端に左上手から投げを打つように」との指導を受け、切れ味の鋭い上手投げを完成させた。この新たな取り口と、観客をも緊張させるほどの土俵度胸の良さを武器に、1923年1月場所において新入幕を果たした。一度は十両へ陥落したもののすぐに戻るなど、将来の花形力士と期待されたが、人気に溺れて遊興に現を抜かすようになった。さらにヤクザが絡む事件を起こして本場所を続けて放棄したため、大日本相撲協会も看過できず、師匠・二十山が破門を宣告した。更に1928年には番付からも名前が削除され、廃業となった。 しばらくの間、鹿児島県や兵庫県神戸市、さらに満州など各地を転々としていたが、翌年、白川義則陸軍大将の書を持参して大日本相撲協会へ復帰を要請した。当初は門前払いを受けたが、父親が「大関になってくれ」との遺書を残して自殺したことや、師匠・二十山と親しい荒汐に加えて、右翼幹部である頭山満・杉山茂丸などの有力者が清水川の角界復帰を後押しする動きを見せたことで、協会もようやく清水川の復帰の是非を問う評議会を開催した。当初、評議会出席者の大半は清水川の復帰に否定的だったが、出羽海の「身を殺して嘆願する例は将来にも有るのか」の発言によって大勢が変わり、1928年10月場所において幕下筆頭格で復帰を認めることが満場一致で承認された。復帰に際して下の名を本名の「米作」から父の名である「元吉」に改めた。 復帰後しばらく経った1932年に春秋園事件が勃発している。この事件では首謀者の天竜三郎らの主張に同調し、鏡岩善四郎や朝潮供三郎など多くの力士が相撲協会を脱退し、清水川自身も一時は革新力士団に同調したが、最終的には、4年前に自らの角界復帰を許してくれた相撲協会と師匠・二十山の恩に報いる形で、協会残留を選んだ。事件直後の1932年2月場所は8日間興行となったものの、清水川は関脇として8戦全勝で幕内最高優勝を果たした。この活躍により、同年3月場所終了後に大関昇進が決定した。かくして亡き父親の大関昇進の願いは叶えられた。 大関昇進後は、1932年10月場所に9勝2敗の好成績で2度目の幕内最高優勝を遂げた。この頃の清水川は、後に横綱へ昇進する玉錦三右エ門とほぼ互角に渡り合っており、この場所の優勝も玉錦に競り勝ってのものだった。1934年5月場所で3度目の幕内最高優勝を11戦全勝で飾り、清水川の横綱昇進も間近と大いに期待されたが、同年9月の島根での巡業中に右の大腿骨を脱臼する重傷を負った。本人は復帰は絶望と見て現役引退も考えたものの、人気の高さから相撲協会に懇願されて翻意した。ただ、脱臼の影響で上手投げが満足に打てなくなるなど以前のような取り口とは程遠く、寄り身を覚えて衰えを補おうとする試みも裏目に出て1936年1月場所では4勝7敗と皆勤負け越しを記録したことすらあった。結局、1937年5月場所を最後に現役を引退したが、前場所を10勝3敗と大きく勝ち越していたため、引退表明後に協会から「もう一場所勤務して欲しい」と再度慰留されて今度は固辞した。横綱昇進は果たせなかったものの、人気と実力を兼ね備えて相撲協会に多大な貢献をした清水川は名大関と称えられた。 現役引退後は年寄・追手風を襲名すると同時に、二十山部屋から分家・独立して追手風部屋を創立し清水川明於などを育成した。1964年11月場所を最後に部屋を閉鎖して立浪部屋(元横綱・羽黒山政司)に合流し、1965年1月12日をもって日本相撲協会を停年退職した。1967年7月5日に死去、67歳没。 放蕩によって一時期、破門・廃業となったが、復帰後は精進に努め、右四つの型から豪快な切れ味の上手投げを決める力士として人気を博した。独特の仕切りスタイルでも人気を集め、ラジオの実況中継では「清水川、鎌首をもたげました」と形容されて話題となった。 生来の親分肌に加えて古武士の風格を具え、人情味に溢れる人格者として慕われた。ある日、外出先で火事に遭遇した清水川は、持ち前の侠気を発揮して消火活動に尽力した。 「場所入りする間に信号で止まると負ける」と言って、国技館へ向かう際は信号で止まる可能性のある道を極力避けて通っていた。 四股名「清水川」は現在の追手風部屋でも部屋伝統の四股名として扱われており、所属力士である幕内・遠藤が三役昇進を果たした際に襲名する予定であるという報道も存在したが、師匠本人の口からは明言されておらず、実際に三役昇進を果たした際も襲名しなかった。 小説家の尾崎士郎は清水川の贔屓筋を務めていた。清水川が帰参する際の保証人も尾崎が務めた。 通算成績:272勝157敗1分8預48休 勝率.634 幕内成績:193勝130敗1分2預44休 勝率.598 大関成績:87勝47敗 勝率.649 通算在位:53場所 幕内在位:34場所 大関在位:12場所 三役在位:5場所(関脇2場所、小結3場所) 金星:1個(常ノ花1個) 優勝旗手:1回(1931年5月場所) 各段優勝
十両優勝:2回(1929年3月場所・5月場所) 清水川 米作(しみずがわ よねさく):1917年1月場所 - 1926年5月場所 清水川 清行( - きよゆき):1927年1月場所 - 1927年3月場所 清水川 米作(しみずがわ よねさく):1927年5月場所 - 1931年3月場所 清水川 元吉( - もときち):1931年5月場所 - 1937年5月場所 追手風 元吉(おいてかぜ もときち):1937年5月場所 - 1965年1月12日 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p262-263 ^ 清水川の四股名の由来については尾崎士郎が著した「相撲随筆」で紹介されている。 ^ 当時交際していた女性の兄がヤクザであり、その兄から脅迫を受けた。 ^ 2024年3月の大相撲春場所で、尊富士(旧金木町出身)が幕内最高優勝するまでは、唯一五所川原市出身力士の幕内優勝者だった。出典:『五所川原出身力士の優勝 清水川以来90年ぶり』 - 陸奥新報・2024年3月25日付朝刊2面記事より。 ^ 清水川の直弟子であり本人の停年後に立浪部屋の預かり弟子となり、引退後に立浪部屋付の年寄を務めた10代追手風の元幕内・追風山の娘婿である元幕内・大翔山が名跡交換の形で11代追手風を襲名して再興したものである。 ^ 遠藤、部屋伝統の「清水川」名乗るには 初の横綱戦完敗 朝日新聞DIGITAL 2014年3月10日21時58分 ^ 遠藤「負けは負け」3連敗 “武双山超え”最速金星ならず スポニチアネックス 2014年3月12日 ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P100 ^ 肺炎により全休 ^ 神経痛により全休 ^ 帰参を願って自死した父の名前「元吉」に由来。 大関一覧 表 話 編 歴 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 青森県出身の大相撲力士 二十山部屋 追手風部屋 1900年生 1967年没 青森県出身の人物 日本相撲協会の役員
2024/11/20 22:54更新
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shimizugawa motokichi
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