菱田春草の情報(ひしだしゅんそう) 日本画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
菱田 春草さんについて調べます
■名前・氏名 |
菱田春草と関係のある人
下村観山: 卒業後は同校で教えていたが、1898年に岡倉覚三(天心)が野に下ったときに行動を共にし横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加した。 中村不折: 担任生徒に後の菱田春草、樋口龍峡がいた。 橋本雅邦: 東京美術学校では雅邦四天王と呼ばれた下村観山、横山大観、菱田春草、西郷孤月の他、川合玉堂、橋本静水らを指導しており、その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい。 横山大観: 東京美術学校の同期生である菱田春草とは無二の親友で常に行動を共にし、『春の朝・秋の夕』『帰路、入船』などを合作している。菱田春草追悼展の開催を主導し、自らも『五柳先生』(東京国立博物館蔵)を出品した。 恒松あゆみ: 特別展『菱田春草展』(2014年9月23日 - 11月3日、東京国立近代美術館) - 解説ナレーション 橋本祥平: 歌劇『明治東亰恋伽〜月虹の婚約者〜』(8月18日 - 19日、森ノ宮ピロティホール / 8月25日 - 9月2日、シアター1010) - 菱田春草 役 横山大観: 同期生には下村観山、西郷孤月、第2期生には菱田春草などがいる。 近藤啓太郎: 『菱田春草』(講談社、1984年) 安田靫彦: 1897年、帝室博物館で法隆寺金堂壁画等の模写を見、日本絵画協会絵画共進会にて横山大観、菱田春草、小堀鞆音らの作品に感動し、画業を決意した。 橋本祥平: 歌劇『明治東亰恋伽〜朧月の黒き猫〜』(6月2日 - 12日、博品館劇場) - 主演・菱田春草 役 岡倉天心: 同校での美術教育が特に有名で、福田眉仙、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てたことで知られる。 |
菱田春草の情報まとめ
菱田 春草(ひしだ しゅんそう)さんの誕生日は1874年9月21日です。長野出身の日本画家のようです。
卒業、家族に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1911年に亡くなられているようです。
菱田春草のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月21日 - 1911年(明治44年)9月16日)は、明治期の日本画家。横山大観、下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。 1874年(明治7年)、長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。飯田学校(現追手町小学校)で学んだ後に上京し、狩野派の結城正明の画塾で学ぶ。1890年(明治23年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。春草は美校では大観、観山の1学年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。春草は大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。初期の美校では基礎知識として、フェノロサによる美学、岡倉天心による「日本美術史」、フェロノサと岡倉天心の師である黒川真頼による有職故実、和文、金工、漆工史等の講義があった。 1895年(明治28年)21歳で卒業すると、同年の秋から翌年にかけて帝国博物館の委嘱を受けて、大規模な古画模写事業に参加、京都や奈良をめぐった。 過激な日本画改革論者であった岡倉天心には反対者も多く、1898年(明治31年)、岡倉は反対派に追われるように東京美術学校校長を辞任した(反対派のまいた怪文書が原因だったとされる)。これに伴って、当時、美校の教師をしていた春草や大観、観山も学校を去り、在野の美術団体である日本美術院の創設に参加した。 その後、春草は1903年(明治36年)には大観とともにインドへ渡航。1904年(明治37年)には岡倉、大観とともにアメリカへ渡り、ヨーロッパを経て翌年帰国した。1906年(明治39年)には日本美術院の五浦(いづら、茨城県北茨城市)移転とともに同地へ移り住み、大観、観山らとともに制作に励んだ。 しかし、春草は腎臓病による眼病(網膜炎)治療のため、1908年(明治41年)には東京へ戻り、代々木に住んだ。代表作『落葉』は、当時はまだ郊外だった代々木近辺の雑木林がモチーフになっている。1911年(明治44年)、満37歳の誕生日を目前にして腎臓疾患(腎臓炎)のため死去した。 妻の千代は、長州藩士で陸軍少尉(輜重兵で位階は正八位、勲等は勲七等)の野上宗直の娘として生まれたが、父が1889年9月28日に若くして没したため、母の実家である飯田藩の石田新内の家に引き取られていた。その関係で春草と知り合っている。 兄の菱田為吉は東京物理学校教授(東京理科大学近代科学資料館・物理学校記念コーナーに為吉が作成した多面体模型が所蔵されている)、弟の菱田唯蔵は九州帝国大学、東京帝国大学教授。 長男の菱田春夫は美術鑑定家。 春草、大観らは、1900年(明治33年)前後から、従来の日本画に欠かせなかった輪郭線を廃した無線描法を試みた。この実験的画法は世間の非難を呼び、「朦朧体」(もうろうたい)と揶揄された。『菊慈童』『秋景(渓山紅葉)』などが「朦朧体」の典型的作品である。1905年(明治38年)の帰国後は、琳派風の手法を取り入れるようになる。1907年(明治40年)には「官」の展覧会である文展(文部省美術展覧会)の第1回展が開催され、『賢首菩薩』を出品し、好評価を得た。それ以降、文展を主な舞台として活躍する。晩年の『落葉』は、伝統的な屏風形式を用いながら、空気遠近法(色彩の濃淡や描写の疎密で、遠くの事物と近くの事物を描き分ける)を用いて、日本画の世界に合理的な空間表現を実現した名作である。 春草は、伝統的な日本画の世界に様々な種類の斬新な技法を導入し、近代日本画の発展に尽くした画家であり、天心も大観も彼の早すぎた死を嘆き悲しんだ。大観は晩年に至るまで、自身が日本画の大家と褒められるたびに「春草こそ本当の天才だ。もしもあいつ(春草)が生きていたら、俺なんかよりずっと上手い」と語っていたという。 また、春草の落款・印章は画風の変化と時期が一致しており、春草の透徹冷静な人柄と性格を反映したものと評される。
寡婦と孤児 1895年
水鏡 1897年
賢首菩薩 1907年(重要文化財)
飯田市仲ノ町の生誕地は公園として整備され、2015年(平成27年)3月29日に「菱田春草生誕地公園」として開園した。園内には生家の縁側を再現した屋根付きのベンチのほか、好んで描いた草花が植栽された庭園などが整備されている。住民組織の「春草公園を愛する会」により、維持管理が行われている。 近藤啓太郎 『菱田春草』 講談社、1984年 菱田春夫編 『菱田春草』 大日本絵画 1986年 児島孝 『近代日本画、産声のとき 岡倉天心と横山大観、菱田春草』 思文閣出版、2004年 『菱田春草素描集』 全3集 大日本絵画 1989年 『菱田春草』 朝日新聞出版<別冊アサヒグラフ日本美術特集編51>、1987年ほか 小池賢博編集『菱田春草 こころの秋』 学研<巨匠の日本画4> 2004年ほか 飯田市美術博物館編集・発行 『菱田春草没後百年記念特別展 春草晩年の探求 ー日本美術院と装飾美ー』 2011年9月 渡辺美保(長野県信濃美術館)編集 『没後100年 菱田春草展 ー新たなる日本画への挑戦ー』 長野県信濃美術館 信濃毎日新聞社、2011年9月10日 鶴見香織 三輪健仁[東京国立近代美術館]編集 『菱田春草展』 日本経済新聞社 NHK NHKプロモーション、2014年 飯田市美術博物館編集・発行 『菱田春草生誕一四〇年記念・菱田春草生誕地公園完成記念特別展 創造の源泉 ー菱田春草のスケッチー』 2015年3月 飯田市美術博物館編集・発行 『没後一一〇年特別展 菱田春草 故郷につどう珠玉の名画』 2021年10月 ^ “郷土が生んだ偉人 菱田春草 - 飯田市ホームページ”. www.city.iida.lg.jp. 2024年5月6日閲覧。 ^ 『近代日本美術全集』第5巻,2 東京美術學校の創設と岡倉天心/p10,東都文化交易,1954 ^ “菱田春草について | 飯田市美術博物館” (2014年7月30日). 2021年11月29日閲覧。 ^ 飯田市美術博物館に春草が父鉛治、兄為吉など家族宛てに送った書簡が所蔵されている - 菱田春草書簡 菱田家宛 - 飯田市 ^ 菱田 唯蔵 - コトバンク ^ 資料紹介 菱田唯蔵関連の菱田春草書簡 - CiNii Research ^ 菱田春夫 - コトバンク ^ 菱田春夫 - 東京文化財研究所 ^ “名画「黒き猫」が里帰り、近代日本画家・菱田春草の故郷で特別展:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2021年11月29日閲覧。 ^ 小島惠藏『菱田春草の落款・印章』飯田市美術博物館、1999年。doi:10.20807/icmrb.9.0_5。https://doi.org/10.20807/icmrb.9.0_5。2021年11月29日閲覧。 ^ 奈良県立美術館編集・発行 『特別展「奈良礼賛~岡倉天心、フェノロサが愛した近代美術と奈良の美~」』 2015年4月11日、第13図。 ^ 菱田春草「菊慈童」 ^ 菱田春草「霊昭女」 ^ 雪後の月 _ 滋賀県立近代美術館 ^ 菱田春草「鹿」 ^ 菱田春草「夜桜」 ^ 菱田春草「夕の森」 ^ 菱田春草「帰樵」 ^ 小林忠監修 岡田美術館編集・発行 『開館一周年記念展 大観・春草・御舟と日本美術院の画家たち』 2014年10月3日、pp.29-43。 ^ 落葉 _ 滋賀県立近代美術館 ^ 姫路市立美術館データベース ^ 吉野石膏株式会社編集・発行 印象社制作 『吉野石膏コレクション 日本編』 2018年8月31日、pp.34-35。 ^ 『創造の源泉 ー菱田春草のスケッチー』pp.14,48-49。 ^ 『創造の源泉 ー菱田春草のスケッチー』pp.50-51に画像が掲載(個人蔵、飯田市美術博物館寄託)。 ^ 「長野県百科事典」 p.676 ^ 菱田春草「春秋」 ^ 西川正志(2015年3月27日). “春草生誕地公園が完成 飯田で29日オープン”. 中日新聞 (中日新聞社) 『長野県百科事典』 信濃毎日新聞社、1974年 宝月圭吾編 『長野県風土記』 旺文社、1986年 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年 朦朧体 横山大観 飯田市美術博物館 - 菱田春草の常設展示室がある 菱田 春草:作家別作品リスト - 青空文庫 菱田春草について | 飯田市美術博物館 菱田春草 | 足立美術館 田邉咲智、「菱田春草の初期作品について : 東京美術学校期を中心に」『文化交渉:東アジア文化研究科院生論集』 2018年 8巻 p.51-71, 関西大学大学院東アジア文化研究科 小島惠藏、「菱田春草の落款・印章」『飯田市美術博物館 研究紀要』 1999年 9巻 p.5-46, doi:10.20807/icmrb.9.0_5, 飯田市美術博物館 FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ イスラエル アメリカ 日本 オランダ CiNii Books CiNii Research オルセー美術館 ULAN IdRef 日本画家 ネコの美術家 東京芸術大学出身の人物 東京芸術大学の教員 長野県出身の人物 1874年生 1911年没 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 Musée d'Orsay識別子が指定されている記事 ULAN識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/17 04:33更新
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hishida syunsou
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