藤井松太郎の情報(ふじいまつたろう) 官僚 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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藤井松太郎の情報まとめ
藤井 松太郎(ふじい まつたろう)さんの誕生日は1903年10月5日です。北海道出身の官僚のようです。
現在、卒業、結婚に関する情報もありますね。1988年に亡くなられているようです。
藤井松太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)藤井 松太郎(ふじい まつたろう、1903年(明治36年)10月5日 - 1988年(昭和63年)2月4日)は、日本の鉄道技術者。第7代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1973年 - 1976年)。太っ腹の親分肌といわれ、トンネルや橋梁の技術に精通していたことから“トンネル松”と呼ばれていた。 北海道雨竜郡一已(いちゃん)村(現在の深川市)の農家藤井豊吉・チエの長男として生まれる。農家の次男であった父豊吉と母チエは1900年5月に香川県大川郡福栄村から、当時開拓が始まったばかりの一已村に親戚を頼って娘2人を連れて移住している。移住してしばらくは極貧の生活であったが、1914年から始まった第一次世界大戦による豆需要により生活が安定。1917年に当時の農家の子供としては珍しく尋常小学校から高等小学校へと進学した。さらに1919年に父の郷里に近い大川中学校(現在の香川県立三本松高等学校)に入学。中学校では成績トップであったため通常より1年早く4年で準卒業できる見通しとなり、1923年岡山市の第六高等学校 (旧制)に入学し、その後東京帝国大学工学部土木工学科へと進学した。 1929年東京帝国大学を卒業して鉄道省へ入省し、鉄道技手となる。1931年3月13日に9歳年下の山下玉子と結婚。1933年に鉄道技師へと昇格し、その後日本各地でトンネルや橋梁建設にたずさわり、中国大陸でも橋梁の修繕を行った。1947年に運輸省鉄道総局施設局線路課長となり、1949年に国鉄(現・東日本旅客鉄道)信濃川発電所の建設を担当した信濃川工事事務所の所長に就任。そこで魚沼線建設を国鉄に陳情していた田中角栄と知り合い、親交を深めることとなる。1952年に国鉄理事・技師長に任命されるが、1955年、新幹線建設を巡り当時総裁であった十河信二と対立し、技師長を島秀雄に譲り建設担当常務理事となる。1958年2月任期を満了したため国鉄を退職し、日本交通技術株式会社社長に就任する。しかし、1963年に国鉄総裁に就任した石田禮助からの強い要請により、国鉄に復職し再び技師長となった。1969年、石田が総裁を退任すると同時に国鉄を退職し、日本交通技術の社長に復職した。 1973年に当時内閣総理大臣であった田中角栄から要請されて第7代国鉄総裁に就任した。これは当時列島改造計画を推し進めた田中の思惑もあったといわれている。また、藤井は初代総裁下山定則以来の技術畑出身の総裁であった。在任中、当時の瀧山養技師長から新幹線の総点検を提案され1974年12月11日から7年間に渡り年7回午前中の列車を運休して行う総点検の実施を決断した。また、1975年6月には国鉄の運賃値上げに対する国民の理解を得るため全国紙などで3日にわたり「国鉄(わたくし)は話したい」と題した全面広告を掲載し大きな話題を呼んだ。 一方、当時争議権(スト権)をめぐり激化していた労使問題を巡っては、1974年の春闘時に政府と労働側で結ばれた「五項目合意」をもとに1975年秋に政府が何らかの見解を示すことが予測されており、内閣総理大臣の三木武夫は国鉄を含めた「三公社五現業」職員へのスト権付与を認めるのではないかとみられていた。これに呼応して国鉄の主要組合も所属する公共企業体等労働組合協議会(公労協)は、12月を目処にスト権を実力で奪還するための大規模なスト権ストの計画を1975年9月に明らかにした。こうした情勢を受け、予想された結論を先取りする形で藤井は1975年10月21日の衆議院予算委員会で、国鉄当局の見解として「条件付き付与」を発表する。 公労協側はその後予定を繰り上げてスト突入を11月26日とした。与党の自民党は藤井の見解に強く反発し、政府は11月25日までにスト権問題の結論は出せないとした。その結果、11月26日から一部ローカル線を除いた国鉄全線が8日間192時間に渡ってストップする事態となった。このストライキは自民党の意向を受けた政府声明により頓挫したが、自民党内からは総裁の「弱腰」批判が噴出。翌1976年2月18日に木村睦男運輸大臣に辞表を提出し、後任に高木文雄が決まった後の3月5日に国鉄を去った。 総裁辞任後、日本交通協会会長や日本鉄道施設協会会長を歴任。また、技師長時代から就任していた青函トンネル技術委員会の委員長として青函トンネル建設に尽力した。トンネル開通直前の1988年2月4日午前7時10分、肺癌により死去。享年84。 ^ 「新しい国鉄の顔 太っ腹の親分肌 国鉄技師長 藤井松太郎」『交通新聞』交通協力会、1963年6月6日、1面。 ^ 「国鉄首脳部の大異動発令 技師長に藤井松太郎氏」『交通新聞』交通協力会、1963年6月1日、1面。 ^ “第076国会衆議院予算委員会 昭和50年10月21日 第2号”. 国会会議録検索システム. 2013年8月18日閲覧。 ^ このとき専売公社や日本電信電話公社の総裁も「条件付き付与」を表明している。 ^ “高木文雄氏死去/元大蔵事務次官、元国鉄総裁”. 四国新聞社. (2006年2月14日). https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20060214000493 2020年2月4日閲覧。 田村喜子『剛毅木訥-鉄道技師・藤井松太郎の生涯-』毎日新聞社、1990年5月20日、ISBN 978-4-620-30739-8 鉄道ジャーナル1999年11月号別冊No.39『日本国有鉄道 大いなる旅路』(別冊No.18改定再版)、鉄道ジャーナル社、1999年11月1日、雑誌コード06552-11 NHKスペシャル『戦後50年そのとき日本は「第10回・国鉄労使紛争~スト権奪還ストの衝撃~」』NHK、1995年放送
表 話 編 歴 古市公威 沖野忠雄 野村龍太郎 石黒五十二 白石直治 廣井勇 仙石貢 原田貞介 古川阪次郎 中原貞三郎 中山秀三郎 中島鋭治 日下部辨二郎 吉村長策 市瀬恭次郎 岡野昇 田辺朔郎 中川吉造 那波光雄 名井九介 真田秀吉 久保田敬一 青山士 井上秀二 大河戸宗治 辰馬鎌藏 八田嘉明 中村謙一 谷口三郎 草間偉 黒河内四郎 鈴木雅次 田中豊 鹿島精一 岡田信次 岩沢忠恭 吉田徳次郎 三浦義男 大西英一 稲浦鹿蔵 平井喜久松 青木楠男 菊池明 平山復二郎 内海清温 米田正文 田中茂美 沼田政矩 永田年 藤井松太郎 山本三郎 福田武雄 岡部三郎 篠原武司 富樫凱一 石原藤次郎 柳沢米吉 大石重成 高野務 岡本舜三 飯田房太郎 瀧山養 尾之内由紀夫 最上武雄 水越達雄 仁杉巌 國分正胤 高橋国一郎 八十島義之助 野瀬正儀 高橋浩二 岡部保 菊池三男 久保慶三郎 石川六郎 内田隆滋 堀川清司 淺井新一郎 岩佐義朗 藤井敏夫 竹内良夫 中村英夫 小坂忠 松尾稔 宮崎明 岡田宏 岡村甫 鈴木道雄 丹保憲仁 岸清 御巫清泰 森地茂 三谷浩 濱田政則 石井弓夫 栢原英郎 近藤徹 阪田憲次 山本卓朗 小野武彦 橋本鋼太郎 磯部雅彦 廣瀬典昭 田代民治 大石久和 小林潔司 林康雄 家田仁 谷口博昭 上田多門 田中茂義 表 話 編 歴 下山定則1949年6月1日-1949年7月6日 加賀山之雄1949年9月24日-1951年8月24日 長崎惣之助1951年8月25日-1955年5月13日 十河信二1955年5月14日-1963年5月19日 石田禮助1963年5月20日-1969年5月26日 磯崎叡1969年5月27日-1973年9月21日 藤井松太郎1973年9月22日-1976年3月5日 高木文雄1976年3月6日-1983年12月1日 仁杉巌1983年12月2日-1985年6月24日 杉浦喬也1985年6月25日-1987年3月31日 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 日本の技術公務員 日本の鉄道官僚 日本の鉄道技術者 日本国有鉄道総裁 土木学会会長 東京大学出身の人物 旧制第六高等学校出身の人物 北海道出身の人物 1903年生 1988年没 肺癌で亡くなった人物 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/19 09:12更新
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fujii matsutarou
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