角富士夫の情報(すみふじお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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■名前・氏名 |
角富士夫と関係のある人
八重樫幸雄: 1992年には14年ぶりのリーグ優勝を果たしたが、この時に在籍していた角富士夫、杉浦享らと共に、14年前の優勝経験メンバーとして注目された。 渋井敬一: 1986年は水谷新太郎、角富士夫らとの併用ながら73試合に先発を果たす。 渡真利克則: 10月16日、セントラルリーグ優勝決定の試合(対ヤクルトスワローズ24回戦/明治神宮野球場)ではランディ・バースの代走から一塁手として途中出場、10回裏2死の場面で角富士夫の投手ゴロを処理した中西清起からの送球を受けて試合が終了した(5-5の引き分け)ため、優勝ボールを掴んだ選手として阪神の球団史に名を刻んだ。 水谷新太郎: 6月から二塁手に回り、角富士夫らと併用された。 広岡達朗: 開幕当初はつまずいたが、ヒルトンと角富士夫で1・2番コンビを組ませた作戦が当たり、若松勉、マニエル、大杉勝男の中軸の調子が上がると強力打線が力を発揮し、5月からペナントレース争いに加わり、前半戦終了時に首位で折り返した。 中西清起: チームが勝つか引き分けるかで21年振りのセントラル・リーグ優勝が決まるという状況で、ヤクルト打線相手に2イニングを完璧に抑え、最後の打者・角富士夫をピッチャーゴロでアウトに仕留めて「胴上げ投手」になった。 三枝規悦: 第2戦では4回に長池徳二の代走に入り、そのまま今井雄太郎をリリーフ、日本シリーズで初登板を果たすがヤクルトの角富士夫に本塁打を打たれる。 山部太: 編成部次長の角富士夫と球団内部の改革に取り組んだ。 内藤尚行: 若松はやや振り遅れて打球はショートへの平凡なゴロに終わり、二死後はレオン・リーで1-1からの3球目に外角低めのストレートを投じるが、強引に引っ張ったレオンの打球は、角富士夫への正面のゴロに終わる。 |
角富士夫の情報まとめ
角 富士夫(すみ ふじお)さんの誕生日は1956年5月31日です。福岡出身の野球選手のようです。
引退に関する情報もありますね。角富士夫の現在の年齢は68歳のようです。
角富士夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 角 富士夫(すみ ふじお、1956年5月31日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。 福岡第一高等学校から1975年にヤクルトスワローズへ入団。1994年に現役を引退してからも、同球団でコーチや編成部門の管理職を務めた。1996年からは「角 冨士夫」という名義で活動していた。2018年10月31日付で退団した後に、2019年2月7日付で東京国際大学硬式野球部の監督へ就任。 中学時代に野球を始め、福岡第一高等学校では1年の時からレギュラーとなり3年の時は投手で4番打者として活躍。 1973年秋季九州大会県予選南部準決勝に進むが三池工に敗れる。 1974年に夏の甲子園に出場。3回戦に進むが、この大会準優勝の防府商に敗退した。2回戦では長岡商から大会2号本塁打を放つ。この年のNPBドラフト会議でヤクルトスワローズから2位で指名され内野手として入団。入団当初の背番号は41。 1976年から一軍公式戦へ出場すると、徐々に頭角を表した。 1978年には、船田和英・水谷新太郎との併用ながら、主に三塁手として一軍公式戦87試合に出場。現役生活で唯一のオールスターゲーム出場も果たした。一時は首位打者争いにも加わるほど好調で、8月に故障欠場しセントラル・リーグの最終規定打席に届かなかったものの、打率.273を記録。前身球団を通じても初めてのリーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献した。阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、ホームゲームとして後楽園球場で催された第2戦で特大の本塁打を放つと、第3戦ではスタメンに起用。しかし、後に故障したため、日本一決定後の胴上げには加われなかった。 1979年は開幕から二塁手として起用されるがすぐに故障で離脱。しかし7月には復帰し三塁手の定位置を獲得する。 1980年は初めて規定打席(18位、打率.281)に到達した。以降も、パンチ力を備えた打撃と堅実な守備を武器に、正三塁手として長らく活躍。 1984年には、現役生活で唯一の一軍公式戦全130試合出場を果たした。 1985年にも規定打席に到達したが、打率は到達者の中で最も低かった(35位、打率.245)。阪神タイガースが21年振りのリーグ優勝を決めた10月16日の対阪神戦(明治神宮野球場)では、延長10回裏2死で打席が回り、中西清起の前に投手ゴロに倒れ最後の打者となる。 1987年には、前年まで三塁手としてMLBで活躍していたボブ・ホーナーが入団した影響で、正三塁手の座をホーナーに譲った。 1988年はホーナーが1年でMLBに戻ったため正三塁手に返り咲くが、同年より長嶋一茂が入団。長嶋育成の方針で併用の形が取られた為にフル出場には至らなかった。 1990年には打率.301(リーグ10位)と、現役生活で唯一の打率3割超えを記録した。 1991年には、セ・リーグの三塁手部門でゴールデングラブ賞を獲得するなど、守備面でチームのAクラス入りに貢献。しかし、前年から打撃成績が低下したため、シーズンの終了後には球団からの減俸提示を受け入れる格好で契約を更改した。 1992年・1993年にはジャック・ハウエルに正三塁手の座を明け渡すが、1992年には、チームのリーグ優勝決定前日(10月9日)の対広島東洋カープ戦で佐々岡真司から代打決勝3点本塁打を記録。西武ライオンズと対戦した翌年の日本シリーズでも、自身およびチーム15年振りの日本一達成の瞬間を、三塁手としてグラウンド上で迎えた。 1994年に現役を引退。 1995年に二軍内野守備・走塁コーチへ就任したことを皮切りに、2018年まで44年にわたってヤクルトに在籍。在籍中には、一軍打撃コーチ(1996年)、二軍打撃コーチ(1997年 - 2001年, 2006年)、二軍守備・走塁コーチ(2002年 - 2005年, 2007年 - 2009年)を歴任した。 2010年からフロント(編成部門)へ異動したが、編成グループ次長だった2018年10月31日に、任期満了でヤクルトを退団した。 学生野球資格の回復に向けて講習会を受講した後に、2019年2月5日付で日本学生野球協会から資格の回復を認定された。この認定によって、同協会に加盟する大学・高校の硬式野球部での指導が可能になったため、2月7日付で東京国際大学硬式野球部の監督に就任した。同大学には、ヤクルト時代のチームメイトで、コーチ時代に捕手兼任で一軍監督を務めた古田敦也が特命教授として在籍。同部の監督に招聘された元・プロ野球選手は、先々代の古葉竹識、先代の山中潔(いずれも角と同じ経緯で招聘)に続いて3人目である。 2021年退任。その後、社会人野球のIMF BANDITS富山で監督を務める。 二塁手での起用が多かった1986年を除いて三塁手での起用が多く、三塁手での通算守備率は0.975であった。 打順は若い頃は2番が多く、晩年は6番7番が多くなった。長打率、OPSは平均的であったが20歳代後半には5年連続で2桁本塁打を記録している。 各年度の太字はリーグ最高 ゴールデングラブ賞:1回 (三塁手部門:1991年) 初出場:1976年7月23日、対広島東洋カープ12回戦(明治神宮野球場)、8回表に船田和英に代わり三塁手として出場 初打席・初安打:1976年8月4日、対読売ジャイアンツ14回戦(明治神宮野球場)、7回裏に松岡弘の代打として出場、クライド・ライトから左前安打 初打点:同上、8回裏に加藤初から適時二塁打 初本塁打:1976年8月10日、対中日ドラゴンズ16回戦(ナゴヤ球場)、6回表に竹田和史からソロ 100本塁打:1987年4月26日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場)、10回表に長冨浩志から決勝2ラン ※史上148人目 1000試合出場:1987年9月11日、対読売ジャイアンツ23回戦(明治神宮野球場)、8回表にボブ・ホーナーに代わり三塁手として出場 ※史上274人目 1000安打:1989年8月30日、対広島東洋カープ23回戦(広島市民球場)、6回表に金石昭人から右前適時打 ※史上158人目 200犠打:1991年6月16日、対横浜大洋ホエールズ13回戦(横浜スタジアム)、9回表に岡本透から ※史上10人目 1500試合出場:1992年9月16日、対横浜大洋ホエールズ26回戦(明治神宮野球場)、7回裏に伊東昭光の代打として出場 ※史上104人目 オールスターゲーム出場:1回 (1978年) 41 (1975年 - 1978年) 5 (1979年 - 1994年) 82 (1995年) 76 (1996年 - 2009年) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、301ページ ^ 東京国際大野球部監督に元ヤクルトの角富士夫氏 悲願の大学日本一へ特命教授・古田敦也氏もバックアップ(『日刊スポーツ』2019年2月7日付記事) ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」 朝日新聞社編 1989年 ^ 週刊ベースボール2014年3月24日号 P21 ^ ヤクルトの角冨士夫氏と酒井圭一氏が任期満了で退団(『日刊スポーツ』2018年10月31日付記事) ^ 学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者日本学生野球協会 ^ 山中の監督在任中は名誉監督。角の監督就任を機に野球部を離れるものの、特命教授として大学に引き続き籍を置く。 ^ 中日新聞Web 東京国際大の元ヤクルト・角冨士夫監督が退任 ^ “ヤクルト17年目で初のゴールデングラブ。角富士夫はどれだけ新外国人が加入しても腐らなかった|プロ野球|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva”. 集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva. 2021年7月19日閲覧。 福岡県出身の人物一覧 東京ヤクルトスワローズの選手一覧 個人年度別成績 角富士夫 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1972 長嶋茂雄 1973 長嶋茂雄, C.ボイヤー 1974 C.ボイヤー 1975 島谷金二 1976 高田繁 1977 高田繁 1978 掛布雅之 1979 掛布雅之 1980 衣笠祥雄 1981 掛布雅之 1982 掛布雅之 1983 掛布雅之 1984 衣笠祥雄 1985 掛布雅之 1986 衣笠祥雄 1987 原辰徳 1988 原辰徳 1989 W.ロードン 1990 岡崎郁 1991 角富士夫 1992 T.オマリー 1993 石井琢朗 1994 石井琢朗 1995 石井琢朗 1996 江藤智 1997 進藤達哉 1998 進藤達哉 1999 進藤達哉 2000 岩村明憲 2001 岩村明憲 2002 岩村明憲 2003 立浪和義 2004 岩村明憲 2005 岩村明憲 2006 岩村明憲 2007 中村紀洋 2008 中村紀洋 2009 宮本慎也 2010 宮本慎也 2011 宮本慎也 2012 宮本慎也 2013 村田修一 2014 村田修一 2015 川端慎吾 2016 村田修一 2017 鳥谷敬 2018 宮﨑敏郎 2019 高橋周平 2020 高橋周平 2021 岡本和真 2022 岡本和真 2023 宮﨑敏郎 2024 坂本勇人 表 話 編 歴 1位:永川英植 2位:角富士夫 3位:浜師勝彦(入団拒否) 4位:上野貴士(入団拒否) 5位:青木実 6位:三村雅彦 日本の野球選手 福岡第一高等学校出身の野球選手 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 福岡県出身のスポーツ選手 1956年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/21 12:42更新
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sumi fujio
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