近田春夫の情報(ちかだはるお) ミュージシャン 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
近田 春夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
近田春夫と関係のある人
鈴木さえ子: シネマは鈴木慶一がプロデュースを担当し、大瀧詠一や近田春夫がアルバムに推薦文を寄せるなど将来が期待されたポップスバンドであった。 長戸大幸: 小諸鉄矢とCM NETWORK(吉江一男、近田春夫らとの制作ユニットの一員) 工藤順子: 近田春夫も作詞で参加。 林哲司: なくわ(作詞:近田春夫/編曲:米光亮)1993年 いかりや長介: ベーシストとしては、日本におけるチョッパー奏法の元祖と語られることがあり(実際はいかりやの特徴的な奏法を見て近田春夫が面白半分に広めたデマである)、2001年の自著『だめだこりゃ』でも「いかりや奏法」「いかりや弾き」「長介弾き」という呼称には躊躇いつつも、感謝を書き留めている。 平本淳也: 音楽家の近田春夫に「直木賞も狙えるよ」と言われ「作家」とも名乗るようになった。 姫乃たま: 近田春夫『超冗談だから』(2018年10月31日)※M2.「超冗談だから」にコーラスとして参加 高木英一: 2006年(平成18年)6月15日には、発掘されたライヴ音源を集めたCDアルバム『近田春夫&ハルヲフォンLIVE! 1975 - 77』がインディーズのCARAWAY RECORDSから発売。それに先立つ同年4月29日 - 30日、近田・恒田と3人で、近田春夫&ハルヲフォン・リローデッド名義で再結成、ライヴ活動を行った。 高木英一: 1979年発売予告 - 実現しなかった近田春夫&ハルヲフォン名義シングル 國府田マリ子: 近田春夫のライオンパッケージソング 窪田晴男: 1980年、人種熱が近田春夫のバックバンドとして取り込まれる形で近田春夫&ビブラトーンズ(以下ビブラと表記)を結成、プロデビュー。 高木英一: 近田春夫&ハルヲフォン名義 平山みき: 真夜中のエンジェル・ベイビー(近田春夫&ハルヲフォン、クレイジーケンバンド、キノコホテル、氣志團) 手塚眞: 在学中に近田春夫製作総指揮による長編劇場映画『星くず兄弟の伝説』を監督、卒業後25歳でプロの監督デビューとなる。 内海利勝: 近田春夫は「キャロルの登場でリーゼントが脚光を浴び、美容院に通っていた若者たちが理容院に行くようになった」と述べている。 高木英一: 近田春夫&ハルヲフォン名義 高木英一: 近田春夫&ハルヲフォンLIVE! 1975 - 77 儀間崇: 一方で、自分たちの音と歌に対する信用が自然な形で音楽に表れていて、シンプルな演奏であってもリスナーを退屈させない、と近田春夫は評している。 若草恵: 近田春夫 高木英一: 近田春夫&ハルヲフォン名義 高木英一: 近田春夫&ハルヲフォン名義 窪田晴男: ミッドナイト・ピアニスト - 近田春夫&ビブラトーンズ(1981年) 宇多丸: 近田春夫、いとうせいこうが日本語ラップを広めたのもこの頃であり、親しんだ洋楽と歌謡曲への興味がリンクしたのが日本語ラップだったとしている。 マーティ=フリードマン: ヘビメタやデスメタルがあまり好きではないタモリに、「なんでああ言う人たちはあんな歌い方なの?」と聞かれ「周りの楽器に負けないように」と語り、「フォークギターでメタルはやらないの?」と聞かれ「バンドが迷走した時にはやる」と答え、近田春夫に「メガデスはそういう曲ないの?」と聞かれたところ、「やりたかったけど、迷走しなかったから辞めさせられちゃった。 楳図かずお: 作詞家として、郷ひろみや近田春夫の楽曲の作詞を手がけたこともある。 青木美冴: 両曲とも 作詞:森雪之丞 作曲:近田春夫 編曲:近田春夫+人種熱 上江洌清作: 一方で、自分たちの音と歌に対する信用が自然な形で音楽に表れていて、シンプルな演奏であってもリスナーを退屈させない、と近田春夫は評している。 沖山優司: 近田春夫&BEEFのメンバーを経て、ジューシィ・フルーツのベーシストとしてデビュー、アミューズに所属した。 高木英一: バンド名はたまたまセッション・バンド、やがてイリアは近田から声をかけられ、同年8月、近田春夫&BEEFの結成に参加。 内田裕也: 【常連(古参)】白竜、シーナ&ザ・ロケッツ、THE NEWS、石橋勲BAND、頭脳警察(PANTA)、近田春夫/活躍中、氏神一番/カブキロックス、陣内孝則/ザ・ロッカーズ。 |
近田春夫の情報まとめ
近田 春夫(ちかだ はるお)さんの誕生日は1951年2月25日です。東京出身のミュージシャンのようです。
名義歴、人物・来歴などについてまとめました。卒業、ドラマ、結婚、解散、映画、テレビ、兄弟に関する情報もありますね。近田春夫の現在の年齢は73歳のようです。
近田春夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)近田 春夫(ちかだ はるお、1951年〈昭和26年〉2月25日 - )は、日本のミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー、音楽評論家、タレントである。京都精華大学ポピュラーカルチャー学部ポピュラーカルチャー学科音楽コース教授。別名は、近尾 春親(ちかお はるちか)、近田 ハルオ、塚田 みのる(つかだ みのる)、デューク 柏淵(デューク かしわぶち)、President BPM(プレジデント ビーピーエム)、作詞センター(さくしセンター)、作曲研究所(さっきょくけんきゅうじょ)、東京アレンジサービス (とうきょうアレンジサービス)、SCSI-TR(スカジーティーアール)、NO CHILL OUT(ノーチルアウト)、Rice(ライス)等多数。またCMソング作曲ユニット小諸鉄矢とCM NETWORKのメンバーの一人。 東京都出身、慶應義塾大学文学部中退。スタイリストの近田まりこ(1952年 - )は元妻。 1951年(昭和26年)2月25日、東京都に生まれる。実家は世田谷区等々力にあり、3歳からピアノのレッスンを受けて育った。 1957年(昭和32年)4月、慶應義塾幼稚舎に入学。この小学校の中では実家が貧しく、そのことで暗い気分になった。 1963年(昭和38年)4月、慶應義塾普通部に入学。 1966年(昭和41年)4月、慶應義塾高等学校に進学。高校在学中に音楽活動を開始し、留年を重ねる。 1970年(昭和45年)、GS(グループ・サウンズ)末期のバンドロック・パイロットに参加する。また同じころ、元ザ・ビーバーズの平井正之・成田賢らのエモーションに参加する。同年12月、有楽町で開かれた第1回「日劇ロック・カーニバル」に、カルメン・マキ&タイムマシーンのキーボード奏者として参加。アルバイトとして参加していた『an・an』(平凡出版(現マガジンハウス))の取材で知り合った立川直樹の紹介だった。 1971年(昭和46年)、2留して高校を卒業後、慶應義塾大学文学部に入学するもほとんど学校には顔を出さず、高校時代から関わっていた『an・an』(平凡出版(現マガジンハウス))の編集部で働く。クニ河内のバンド羅生門に参加、翌1972年1月、アルバム『インディアン、死よりも赤を選ぶ』を発表。 1972年(昭和47年)、元村八分の初代ドラマー恒田義見らとハルヲフォン(のちの近田春夫&ハルヲフォン)を結成する。同年、アラン・メリル、金沢ジュンとゴジラを結成、同年、内田裕也の1815ロックンロールバンドに参加。 1974年(昭和49年)、スタイリストの近田まりこと結婚。 1975年(昭和50年)、谷啓とザ・スーパーマーケット結成に近田ハルオ名義で参加。同年ハルヲフォンはメジャーデビューする。 1976年1月1日 - 7日、日本劇場で行われた「'76 小柳ルミ子★アグネス・チャン ハッピー ニュー イヤー ショー」に谷啓とザ・スーパーマーケットのメンバーとして出演。 1977年10月、『近田春夫のオールナイトニッポン』(ニッポン放送、火曜2部: 1977年10月 - 1979年3月、金曜1部: 1979年4月 - 同年9月)放送開始。 1978年(昭和53年)、雑誌『POPEYE』(平凡出版(現マガジンハウス))で連載コラム「THE 歌謡曲」を開始、1984年まで続いた。シングル『ロキシーの夜』でソロデビューする。同シングルのB面を最後にハルヲフォンは解散した。 1979年(昭和54年)、近田春夫&BEEFを結成。BEEFは翌1980年、ジューシィ・フルーツとして分離、デビューした。同年、「THE 歌謡曲」などのコラムやインタビュー、対談等をまとめた単行本『気分は歌謡曲』(雄山閣出版)発売。 1980年(昭和55年)、ザ・ベンチャーズのアルバム「カメレオン」に加藤和彦、坂本龍一、ヒカシュー等と共に参加、ツアーにもゲストで参加している。 1981年(昭和56年)、窪田晴男、福岡ユタカらのバンド人種熱をとりこみ、近田春夫&ビブラトーンズを結成する。 1983年(昭和58年)、元ハルヲフォンの高木英一、元ピンナップスの野元貴子らとゲートボールを結成。 1986年(昭和61年)、ヒップホップ専門レーベルBPMを設立、President BPM名義で12インチシングル『MASS COMMUNICATION BREAKDOWN』を発表。 1987年(昭和62年)、JAGATARAのOTOらと人力ラップビッグバンド、ビブラストーンを結成。 1995年(平成7年)、ビブラストーン解散、ソロでゴアトランスを手がけ始める。 1997年(平成9年)1月、『週刊文春』(株式会社文藝春秋)で『考えるヒット』の連載を開始。
同年3月21日、SCSI-TR名義でEP『SCUTTLE SHAKE』、同年5月21日、EP『HOT ROD 2001』を発表。 同年7月21日、NO CHILL OUT名義でゴアトランスEP『Black Light』、同年11月21日、EP『FUNKY-ZERO』を発表。 同年11月21日、CHAKAとのバンドDelicious Hipによるアルバム『Delicious Hip』を発表。 1998年(平成15年)、「THE 歌謡曲」全連載内容を含む『定本 気分は歌謡曲』を刊行。 2002年(平成14年)10月13日、Omb、UKIASHI、USCUSとトランス・バンドThe Lunatic Thunderを結成、川崎クラブチッタで初ライヴ。近田はテクノ・トランス・プロジェクトRice名義。 2003年(平成15年)2月26日、The Lunatic Thunderの初アルバム『KINGDOM COM』、同年9月26日、Rice名義で初アルバム『B.P.M.syndicate』をそれぞれ発表。 2006年(平成18年)4月29日 - 30日、近田春夫&ハルヲフォン・リローデッド名義でハルヲフォン再結成。 2008年(平成20年)8月、S字結腸のがんを開腹手術。 2010年(平成22年)12月2日、NHKラジオ第一放送にて、『ロックンローラー近田春夫の歌謡曲って何だ?』開始(1~2か月に1回の不定期放送)。翌年、新年度4月6日より毎週金曜日、週1回の放送開始。 2011年(平成23年)6月20日、The Lunatic Thunderのアルバム『Encounter』を発表。同年12月10日、The Lunatic Thunder名義で、ageHaで行われた『ageHa×Mother presents Mother 9th Anniversary Party「MUSIC IS CONNECTED TO UNIVERSE」』に出演。 2013年(平成25年)4月、京都精華大学にポピュラーカルチャー学部開設、教授に就任 2017年(平成29年)、元ハルヲフォンの恒田義見・高木英一と活躍中を結成。 2018年(平成30年)10月31日、近田春夫名義では38年ぶりのアルバム『超冗談だから』、12月19日には近田とOMBによるLUNASUNのアルバム『Organ Heaven』をリリース。 名義歴ロック・パイロット ⇒ エモーション ⇒ 羅生門(近尾春親) ⇒ ハルヲフォン ⇒ ゴジラ ⇒ 加藤ヒロシとそのグループ ⇒ 1815ロックンロールバンド ⇒ 谷啓とザ・スーパーマーケット(近田ハルオ) ⇒ 近田春夫&ハルヲフォン ⇒ 近田春夫 ⇒ 近田春夫&BEEF ⇒ 人種熱+近田春夫 ⇒ 近田春夫&ビブラトーンズ ⇒ ビブラトーンズ ⇒ ゲートボール ⇒ President BPM ⇒ 近田春夫&ビブラストーン ⇒ ビブラストーン ⇒ Afromix ⇒ SCSI-TR ⇒ NO CHILL OUT ⇒ Delicious Hip ⇒ Rice ⇒ The Lunatic Thunder ⇒ 近田春夫&ハルヲフォン・リローデッド⇒ The Lunatic Thunder ⇒ 活躍中 / LUNASUN 作詞センター / 作曲研究所 / 東京アレンジサービス / 小諸鉄矢とCM NETWORK(長戸大幸、吉江一男らとの作曲ユニット) 人物・来歴慶應義塾大学在学中から、内田裕也のバックバンドでキーボード奏者として活躍。また、創刊されたばかりの「anan」編集部にアルバイトとして出入りしていた。また、内田に付き従うなかで、渡辺プロダクションのマネージャーだった大里洋吉と親しくなり、大里に「ザ・ワイルドワンズ、ロック・パイロット、アラン・メリル、この3組のキーボードを全部やってくれたら、1組分のギャラを払うよ」と誘われ、理不尽な契約ながらも、日劇ウエスタンカーニバルステージに出られるとなると嬉しく、二つ返事で快諾したという。なお、この縁から、後に近田が設立した近田春夫事務所のデスクは、渡辺プロから独立して大里が設立したアミューズ内にあった。 1972年に「近田春夫&ハルヲフォン」を結成。1974年には、脚本家の荒井晴彦からの依頼で日活ロマンポルノ『濡れた賽ノ目』(監督若松孝二、製作若松プロダクション)の音楽を「塚田みのる」名義で手がけ、同年には同じく荒井の依頼で日本専売公社のPR映画(監督渡辺護、主演竹井みどり・寺田農)の劇伴を手がけた。 1970年代後期から1980年代初期にかけては、ラジオパーソナリティやテレビ番組のコメンテーター、テレビドラマ『ムー一族』、『家路〜ママ・ドント・クライ』出演、アニメ映画『フリテンくん』の主役声優担当など、メディアを跨いだ幅広い仕事をこなす。 また、「日本の歌謡曲が持つ音楽性」にもっとも早く気がつき、1978年から1984年にかけて、雑誌「POPEYE」に伝説的なコラム「THE 歌謡曲」を連載。また、「近田春夫&ハルヲフォン」のアルバム『電撃的東京』(1978年)でも、歌謡曲のカバーを行った。1979年にソロ・アルバム『天然の美』を発表。アレンジ・演奏に結成直後のイエロー・マジック・オーケストラを起用する。『エレクトリック・ラブ・ストーリー』、『ああ、レディハリケーン』等で漫画家の楳図かずおを作詞家として起用した。 結成したバックバンド「BEEF」は茂木由多加とNOGERAを除いたメンバーが、1980年にテクノ歌謡バンドジューシィ・フルーツとしてデビュー、自らプロデューサーを務めた。近田が作曲を担当したジューシィ・フルーツの曲『恋のベンチ・シート』をもじったタイトルの『恋のぼんちシート』を当時人気絶頂だった漫才コンビ「ザ・ぼんち」に提供。近田にとってはジューシィの『ジェニーはご機嫌ななめ』に続く大ヒット曲となったが、ラジオ番組「ビートたけしのオールナイト・ニッポン」でこの曲がダーツ『ダディクール』の盗作ではないかとする投稿があり、聞き比べによる検証が行われた。翌週のラジオ番組で、近田はあっさり「パクった」と認め、その言い訳をしない姿勢と元来猥雑であった近田のキャラクターから大きな問題にはならなかった。 1981年には人種熱のメンバーをそのままバックバンドとして取り込む形で、「近田春夫&ビブラトーンズ」を結成、アルバム1枚とミニアルバム1枚を発表する。同年、植田まさし原作4コマ漫画のアニメ映画「フリテンくん」で主役のフリテンくんに抜擢で出演。 1984年には、近田の原案・製作総指揮で、手塚眞監督によるミュージカル映画『星くず兄弟の伝説』を製作。音楽も自ら担当した。 また、1986年ごろの高木完、藤原ヒロシの紹介により1986年からはファンクやラップに注目、President BPM名義で活動。自身のレーベルBPMを率いて、タイニー・パンクスらと日本語ラップのパイオニアとも言える活動を行う。1987年には「バンド形式によるヒップホップ」というコンセプトでビブラストーンを結成。 2001年より自身のプロジェクト RICE等、サイケデリック・トランスの分野での活動を開始する。2006年には近田春夫&ハルヲフォン・リローデッドとしてイベントに出演。 CMソング仕事も大量に行っていたが、自伝によるとトランスやレイブの仕事を優先させるために、2007年ごろに終了させたとのこと。また週刊文春での連載『考えるヒット』において歌謡曲の楽曲的分析を行うなど、活動は盛んである。 2024/06/14 00:50更新
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chikada haruo
近田春夫と同じ誕生日2月25日生まれ、同じ東京出身の人
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