近藤喜文の情報(こんどうよしふみ) アニメーター 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
近藤 喜文さんについて調べます
■名前・氏名 |
近藤喜文と関係のある人
片渕須直: その制作において、高畑勲監督版の演出助手、近藤喜文・友永和秀共同監督版の演出補佐、大塚康生監督版の共同監督(ストーリーとレイアウトを担当予定だった)を務めた。 今石洋之: ほかに影響を受けたアニメーターとして、山下将仁、ピーター・チョン、芝山努、小林治、近藤喜文、百瀬義行、森本晃司、田村英樹、上妻晋作、板野一郎、摩砂雪、庵野秀明、井上俊之、北久保弘之、大張正己、磯光雄、沖浦啓之などの名前を挙げている。 佐藤好春: アニメーター森康二、近藤喜文らに学び、『世界名作劇場シリーズ』のメイン・アニメーターとして永く活躍した。 佐藤好春: その後、スタジオジブリに移籍するが、そのきっかけになったのは、1988年公開の高畑勲監督の火垂るの墓の作画監督に決まった近藤喜文の推薦により、宮崎駿監督のとなりのトトロの作画監督に抜擢されたことによる。 大塚康生: その後、藤岡肝煎りの日米合作の超大作『リトル・ニモ』の企画実現に尽力するが、演出予定だった宮崎・高畑・近藤喜文が相次いで退社し、大塚自身も途中で現場をリタイアする。 大塚康生: 近藤喜文は、アルバイトで講師をやっていた専門学校の生徒だった。 野見祐二: 1995年、『耳をすませば』(近藤喜文監督、宮崎駿脚本・絵コンテ、スタジオジブリ制作)の音楽を担当。 友永和秀: テレビアニメ『名探偵ホームズ』では近藤喜文とともにテレコムの一員として企画立ち上げ時点から関わり、宮崎監督の下でアニメーターとして初期6話分の作業に携わった。 本多敏行: 先輩に宮崎駿・芝山努・大塚康生・近藤喜文等が、1年後輩には青木悠三などがいた。 友永和秀: 近藤喜文と共同制作した『NEMO/ニモ』の3分半のパイロット版はアメリカのアニメ業界で評判を呼んだ。 |
近藤喜文の情報まとめ
近藤 喜文(こんどう よしふみ)さんの誕生日は1950年3月31日です。新潟出身のアニメーターのようです。
経歴、宮崎駿・高畑勲との関係などについてまとめました。映画、卒業、結婚、退社に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
近藤喜文のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)近藤 喜文(こんどう よしふみ、1950年3月31日 - 1998年1月21日)は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー、アニメ演出家・監督。スタジオジブリ所属。新潟県五泉市出身。妻はアニメーション色彩設計者の近藤浩子(旧名:山浦浩子)。1子あり。 高畑勲、宮崎駿両監督作品を1970年代から晩年までアニメーターとして支え続けた。 1995年の映画『耳をすませば』で初めて劇場用長編アニメーションの監督を務め、次代の日本のアニメーション、またスタジオジブリを担う作家として、演出面でも将来を嘱望されていたが、47歳で急死した。 メリハリのあるアクションから細やかな生活芝居まで手がける高い技術と、仕事に妥協を許さない姿勢、人々を見つめる温かな眼差しは、今なお後進のアニメーターに影響を与え続けている。 経歴1950年3月31日、新潟県五泉市に生まれる。 1965年4月、新潟県立村松高等学校に入学、美術部に所属する。先輩には漫画家の柳沢きみおがいた。 1968年3月、高校を卒業。同年4月、新橋の東京デザインカレッジ・アニメーション科に入学、熊川正雄、大塚康生らの講義を受ける。東映長編に憧れ東映動画志望だったが入れてもらえず、Aプロダクション(現:シンエイ動画)を紹介され、同年10月1日に入社(半期下は本多敏行、青木雄三)、『巨人の星』、『ルパン三世』、『ど根性ガエル』などに参加した。 1974年12月、Aプロダクションの同僚である山浦浩子と結婚。 1976年9月9日、Aプロダクションがシンエイ動画へと改組、引き続き同社に所属する。同年、日本共産党に入党。居住地の住民運動に尽力する。 1977年7月、長男が生まれる。 1978年6月20日、シンエイ動画を退社。同年、日本アニメーションに契約入社。『未来少年コナン』(監督:宮崎駿)、『赤毛のアン』(監督:高畑勲)などに参加した。同年、新人養成テキストブック「アニメーションの本―動く絵を描く基礎知識と作画の実際」を共著で出版。 1980年、日本アニメーションを退社。同年12月16日、テレコム・アニメーションフィルムへ移籍。『名探偵ホームズ』などを担当した。 1984年9月より、日米合作劇場用アニメーション『NEMO/ニモ』のパイロット・フィルムを友永和秀と共同で監督にあたり、12月に完成させる。 1985年3月16日、テレコム・アニメーションフィルムを退社してフリーに。同年6月から8月まで自然気胸で入院した。 1986年1月頃、日本アニメーションに契約入社。 1987年1月、日本アニメーションを退社。同年2月1日、『火垂るの墓』準備のため、スタジオジブリに入る。引き続き宮崎や高畑の監督作品で作画スタッフとして活動する。 1989年9月11日、スタジオジブリに入社。 1995年、『耳をすませば』で監督デビュー。結果的に生涯唯一の監督作となった。 1997年、作画監督を務めた『もののけ姫』が最後の参加作品となった。暮れに解離性大動脈瘤で倒れ入院。 1998年1月21日午前4時25分、死去。享年47。葬儀の出棺の際には『耳をすませば』の主題歌である「カントリー・ロード」が流された。次回作には灰谷健次郎の小説『天の瞳』のような作品を構想していたという。 2014年7月4日 - 8月31日、新潟県立万代島美術館にて、「新潟が生んだジブリの動画家 近藤喜文展」が開催される。その後も副題を変えて各地で開催されている。 宮崎駿・高畑勲との関係前記のように、近藤は1970年代以降の宮崎駿や高畑勲の作品を作画面で支えた。 近藤は両名から高く評価されており、高畑が『火垂るの墓』、宮崎が『となりのトトロ』をそれぞれ同時に制作した時期に、両者の間で近藤の争奪戦が起こった。高畑は「他は何もいらないから近ちゃんだけ欲しい」、宮崎は「近ちゃんが入ってくれないなら僕も降板する」と言ったという逸話が残っている(結局、仲裁に入った鈴木敏夫の「宮崎は自分で絵が描けるから」という助言で、近藤は『火垂るの墓』の制作に携わった)。高畑は後年の回想の中で、「近ちゃんを獲得することが私の最優先、いや絶対的な課題だった」と述べ、それ以外のスタッフについては積極的勧誘をしなかったと記している。米を茶碗に盛り付ける際、手首に付着した米粒を舐め食べる動作など、高畑アニメが追求するリアルな描写の実現は、近藤の強く鋭い感受性あって初めて可能なものだった。その後、再び高畑の元で『おもひでぽろぽろ』のキャラクターデザインと作画監督を担当する。 それ以前から近藤が演出をするという宮崎との約束があったため、宮崎が企画を持ってきた『耳をすませば』の監督を任される。同作の製作中、近藤と宮崎の間では何度も衝突があり、時には宮崎が演出の変更を求めたり脅すようなこともあったという。近藤の没後、このことについて宮崎は「自分が終わりを渡してしまったようなもの」と語っている。 一方、鈴木敏夫は2018年のインタビューで、生前の近藤から「高畑さんは僕を殺そうとした。高畑さんのことを考えると、いまだに体が震える」という言葉を涙とともに聞いたと述べている。また、鈴木によると近藤の葬儀の際、火葬場で関係者が待つ間、あるベテランアニメーターが「近ちゃんを殺したのは、パクさん(高畑の愛称)よね」というつぶやきを漏らすと、間を置いて高畑は無言でうなずいたという。 2024/06/08 10:17更新
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kondou yoshifumi
近藤喜文と同じ誕生日3月31日生まれ、同じ新潟出身の人
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