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大塚康生の情報 (おおつかやすお)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

大塚康生の情報(おおつかやすお) アニメーター、キャラクターデザイナー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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大塚 康生さんについて調べます

■名前・氏名
大塚 康生
(読み:おおつか やすお)
■職業
アニメーター、キャラクターデザイナー
■大塚康生の誕生日・生年月日
1931年7月11日 (年齢89歳没)
未年(ひつじ年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
島根出身

(昭和6年)1931年生まれの人の年齢早見表

大塚康生と同じ1931年生まれの有名人・芸能人

大塚康生と同じ7月11日生まれの有名人・芸能人

大塚康生と同じ出身地島根県生まれの有名人・芸能人


大塚康生と関係のある人

横山智佐: エッセイ集のタイトルは『ルパンに会いたくて』としており、大塚康生、モンキーパンチのイラストが表紙を飾っており、同作品のヒロイン・クラリスのように窓から忍び込んでプロポーズされたい、とも書いている。


近藤勝也: 最初、安彦良和を好きになり、続いて宮崎駿や大塚康生のファンになって2人が在籍したテレコム・アニメーションフィルムに入ろうとした。


小路啓之: 1997年、ちばてつや賞にて「殺しのライセンス」が準大賞を受賞しデビュー(大塚康生名義)。


杉井ギサブロー: 養成期間の後、東映動画の長編第1作である『白蛇伝』の動画スタッフとして、大塚康生の班に配属される。大塚康生によると、『白蛇伝』の制作体制は、森康二と大工原章の2名が原画で、その下に動画と原画の中間の「セカンド」として大塚ら6人が、動画担当を従えた「班」を構成していた。


森康二: アニメーション制作に対する真摯な姿勢と誠実な人柄により、大塚康生、高畑勲、小田部羊一、宮崎駿ら、数多くの後進に影響を与えてきた。


中村英一: 中村は一人残り、楠部大吉郎や大塚康生、小林治ら東映動画出身の先輩アニメーターから技術を吸収して、多数のアニメで原画を担当した。


宮崎駿: 大塚康生は「あ、これはぼくより沢山絵を描いている」と感じたという。


片渕須直: その制作において、高畑勲監督版の演出助手、近藤喜文・友永和秀共同監督版の演出補佐、大塚康生監督版の共同監督(ストーリーとレイアウトを担当予定だった)を務めた。


宮崎駿: テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『リトル・ニモ』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、アメリカとの間を行き来したが、企画への疑問から降板。同時期には『花王名人劇場』の枠で1981年8月に放送されたテレコム制作の『東海道四谷怪談』も最初は宮崎が監督をすることになっていたが、宮崎が推薦した大塚康生に変更になった。


月岡貞夫: 入社してからも引き続き担当した『西遊記』では動画のクレジットながら、実際には原画も任され、大塚康生によると牛魔王が三蔵法師たちを捕らえて宴を繰り広げるシーンの一部が長編作品での初原画だったという。


貞本義行: 『ふしぎの海のナディア』の当時、3段影まで付いた線の多いキャラクターデザインが主流だったが、動かしやすいシンプルなデザインを好む大塚康生や宮崎駿が所属していたテレコム出身の貞本はそれを嫌がり、極力線を減らした異端のデザインを行なっていた。


出﨑統: もっとも同作の作画監督を務めた大塚康生によると、宮崎と高畑は基本的に「出﨑の絵コンテのままで面白いので、手をつけずにおこう」とのスタンスだったらしく、絵コンテ自体はあまり変えずに作画段階でニュアンスを変更した部分が大きかったとのことである。


宮崎駿: 高畑勲・森康二・大塚康生らと共に3年がかりの大作、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1965年 - 1968年)を作り上げた。


小田部羊一: パンダコパンダ(1972年) - 作画監督(大塚康生と共同)・原画


貞本義行: テレコム・アニメーションフィルム時代の上司である大塚康生にはアニメの技術的な事だけでなく、考え方や趣味など色々な影響を受けたという。大塚康生も自分より上手いと脱帽し、新人時点の上手さでは宮崎駿、月岡貞夫と並ぶ存在だったという評価をしている。


近藤喜文: 同年4月、新橋の東京デザインカレッジ・アニメーション科に入学、熊川正雄、大塚康生らの講義を受ける。


佐藤順一: 若い頃に刺激を受けたクリエイターは、アニメーション的には大塚康生と宮崎駿、物語や演出では高畑勲と宮崎駿。


宮崎駿: なお、初代書記長は大塚康生


宮﨑駿: 高畑勲・森康二・大塚康生らと共に3年がかりの大作、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1965年 - 1968年)を作り上げた。


楠部大吉郎: さらに東映動画から虫プロへの移籍が相次いだため、それを抑えるために大塚康生らとともに正社員の10倍の報酬を得る契約社員5人のうちの1人にまで登りつめた。


吉川惣司: 宝島社の『別冊宝島737号完全保存版ルパン三世PERFECT BOOK』のインタビューで大塚康生は日本のアニメ界を代表するメンバーとして宮崎駿、高畑勲、出崎統、吉川惣司を挙げている。


楠部大吉郎: また、台湾にもアニメ制作会社「影人電影公司」を設け、大塚康生と共に台湾でアニメーターを育て上げている。


月岡貞夫: 月岡がテレコムを離れた後に養成を担当した大塚康生によると、月岡は養成期間中に「君たちは"長編アニメーター"である、テレビアニメなどやるべきではない」と指導し、大塚が着任したときには、新人たちは技術がないのにプライドだけは高く、テレビアニメ関係者を見下すような態度を見せていたという。


宮﨑駿: 大塚康生は「あ、これはぼくより沢山絵を描いている」と感じたという。


こだま兼嗣: 「巨人の星」「ルパン三世 (TV第1シリーズ)」の動画を手掛けた後、大塚康生・楠部大吉郎による原画スタッフ昇格試験をパスして、「新オバケのQ太郎」などの作画を担当した。


友永和秀: 大塚康生は、動きのセンスとメカに強いこと、アクション技術を高く評価している。


高畑勲: 死去から1ヶ月余りが過ぎた5月15日に、三鷹の森ジブリ美術館で「お別れの会」が営まれ、宮崎駿・大塚康生・小田部羊一・久石譲がコメントを読み上げた。


貞本義行: 大塚康生に師事し、アニメ制作のノウハウを学ぶ。


川島明: 日本のアニメーション草創期を描いた2019年放送のテレビドラマ『なつぞら』(NHK「連続テレビ小説」第100作)においては、東映動画(現東映アニメーション)・Aプロダクション(現シンエイ動画)などで長年アニメーター・キャラクターデザイナーを務めた大塚康生がモデルの警察官出身アニメーター・下山克己役を演じた。


長浜忠夫: 『侍ジャイアンツ』では、作画監督の大塚康生との演出論の食い違いが、大塚の実質的な降板に繋がっている。


大塚康生の情報まとめ

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大塚 康生(おおつか やすお)さんの誕生日は1931年7月11日です。島根出身のアニメーター、キャラクターデザイナーのようです。

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人物[ソースを編集]、略年譜[ソースを編集]などについてまとめました。卒業、映画、退社、テレビ、趣味、結婚に関する情報もありますね。89歳で亡くなられているようです。

大塚康生のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

大塚 康生(おおつか やすお、1931年7月11日 - 2021年3月15日)は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー。島根県生まれ、山口県育ち。演出を担当する際には、鈴木一というペンネームを用いることがある。晩年は日本アニメーター・演出協会(JAniCA)会員、テレコム・アニメーションフィルム顧問であった。

1931年、島根県に生まれる。小学2年生のときに山口県山口市に転居した。戦前から終戦直後にかけての少年時代に機関車や米軍の軍用車両などのスケッチに熱中し、やがて絵で生計を立てたいと思うようになる。

旧制中学を卒業後、1951年に山口県庁に就職するも、翌年には漫画家を目指して上京を決意。厚生省の採用試験を受けて合格し、関東甲信越地区麻薬取締官事務所に配属される。

アニメーションに興味を持ち、関連書を読むなどして独学していたところ、東映がアニメーション映画の制作を始めるという新聞記事を目にする。そこで東映と合併することが決まっていた日動映画社の入社テストを受けて合格し、同社が東映に吸収合併されたことで、1956年に東映動画に第1期生として入社を果たす。そして日本初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』(1958年公開)で第2原画を担当する。長編第2作の『少年猿飛佐助』で原画に昇格してからは多くの作品で怪物やアクションを手がけ、そのジャンルのエキスパートという評価を得ていく。

1965年、東映動画10作目の長編となる『太陽の王子』で初めて長編映画の作画監督に任命されると、演出として当時まだ無名の新人だった高畑勲の起用を申し出て、反対する上司に認めさせる。さらに新人動画に過ぎなかった宮崎駿をメインスタッフ(場面設計・原画)に昇格させた。異例の人事であったが、大塚の人柄とリーダーシップにより、奥山玲子、小田部羊一ら他のスタッフもこれを受け入れた。しかし、『太陽の王子』の制作は労使紛争もからんで遅れに遅れた。1968年に『太陽の王子 ホルスの大冒険』と改題してようやく公開されるが、興行成績は振るわず、多くのスタッフが降格処分となった。

1968年暮れ、『ルパン三世』に参加するために、東映動画を退社した元同僚の楠部大吉郎が設立したAプロダクション(現・シンエイ動画)に移籍する。楠部に大塚を推薦されたAプロの親会社・東京ムービーの藤岡豊のスカウトによるものだった。

1971年、Aプロでテレビアニメ『長くつ下のピッピ』の企画が持ち上がると、スタッフとして東映動画の後輩である高畑・宮崎・小田部を誘って移籍させる。この企画は頓挫したが、4人は代わりに中編映画『パンダコパンダ』を制作した。同年、『ルパン三世』第1シリーズがスタートするが、視聴率が低迷。途中で演出の大隅正秋(現・おおすみ正秋)が降ろされ、大塚の依頼により高畑勲と宮崎駿が替わって演出を務めた。

1973年、『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』の作画監督を小田部羊一と共同で務める。次作『侍ジャイアンツ』まで半年以上時間が空いたので、MAX模型に請われて一時Aプロを退社して同社企画部長に就任(1974年倒産)。

その後、高畑・宮崎・小田部の3人はテレビシリーズ『アルプスの少女ハイジ』(1974年)を制作するためにズイヨー映像へ移籍したが、高畑に『ハイジ』の企画を打診した大塚自身はシンエイ動画に改組されるAプロに残留した。

1977年、テレビシリーズ『未来少年コナン』(78年放送)を初演出することになった宮崎駿の要望で、当時シンエイ動画の役員を務めていた大塚は社内の反対を押し切って日本アニメーションに出向し、全26話の作画監督を務め上げた。『コナン』を終えるとシンエイには戻らず、1979年からは藤岡豊が新たに設立したテレコム・アニメーションフィルムへ移籍。そしてテレコムが『ルパン三世』の劇場版を作ることになった時に今度は大塚の方から声をかけ、宮崎にとって長編映画初監督作となる『ルパン三世 カリオストロの城』が生まれた。この作品でも大塚は作画監督を担った。続いて大塚は高畑勲が監督する映画『じゃりン子チエ』に参加、小田部羊一とともに作画監督を務めた。

その後、藤岡肝煎りの日米合作の超大作『リトル・ニモ』の企画実現に尽力するが、演出予定だった宮崎・高畑・近藤喜文が相次いで退社し、大塚自身も途中で現場をリタイアする。結局この作品は、『ニモ』として1989年に完成し、国内では不入りだったものの、アメリカではビデオが200万本のセールスを記録した。

1990年代以降はスタジオジブリや東映アニメーション研究所で新人指導に尽力し、代々木アニメーション学院のアニメーター科講師を務めるなど、後進の指導・育成が主な活動となった。

2002年、長年の功績を讃えて文化庁長官表彰が贈られる。このとき、「アニメーション作家として表彰する」との選考理由に、「作家とは演出家のことで、私は一技術者に過ぎない」と一旦は辞退したが、次に「練達のアニメーターとして表彰したい」と連絡をもらうと、態度を改めた。「それなら今後いい仕事をしたアニメーターも、城の石を積んだ職人として世間に認知されるでしょうし、その第一号となったのはとりあえず喜ばしいことだと思い直しました。森康二さんやお亡くなりになった諸先輩の代理のつもりで、お受けすることにしました」というのがその理由だった。

2012年、宮崎駿からの依頼を受けて、映画『風立ちぬ』に登場する蒸気機関車の作画について助言するためにスタジオジブリを訪れた。

2019年、アニメ界と映画界での功績に対して、第42回日本アカデミー賞協会特別賞が授与された。

2021年3月15日朝、心筋梗塞のため死去。89歳没。同年6月28日、杉並公会堂で「大塚康生さんを偲ぶ会」が開催された。有志による実行委員会(委員長は小田部羊一)が主催し、約700人が訪れた。

人物[ソースを編集]

日本のアニメーション草創期から第一線で活躍したアニメーター。高畑勲や宮崎駿というアニメ界の2大巨頭を作画面で支えてきた人物で、後輩として東映動画に入ってきた2人の才能を見出して引き上げた師匠的存在だった。『太陽の王子 ホルスの大冒険』で当時まだ実績のなかった高畑勲と宮崎駿を抜擢し、その後の2人のコンビ結成を後押しする役割を担った。大塚は宮崎駿のテレビ映画の初監督作品で作画監督を務め、高畑勲を他社で制作する作品企画に誘って移籍のきっかけを作ったのも彼だった。大塚について、宮崎は「アニメーションの入口を教えてくれた人」、高畑は「常に一緒に歩むわけでは決してなかったのに、私の転機には必ず大塚さんが現れて、私を別の方向に誘うのです。私がいちばんお世話になった人」と語っている。

代表作は、高畑や宮崎と組んで作画監督やキャラクターデザインを担当した『太陽の王子 ホルスの大冒険』『ルパン三世』『パンダコパンダ』『未来少年コナン』『じゃりン子チエ』のほか、『侍ジャイアンツ』『ガンバの冒険』など。特に作画監督とキャラクターデザインを手がけた『ルパン三世』のテレビ第1シリーズや劇場版『ルパン三世 カリオストロの城』での仕事への評価が高く、後に続く同シリーズの礎を作ったとされる。

元麻薬取締官事務所勤務という異色の経歴を持つ。

東映動画のアニメーター第一期生で、後から入社した新人時代の宮崎駿の指導を担当したことでも知られる。それ以外にも、大塚は技術を論理的、分析的かつ平明に説いて多くの才能ある後進を育て上げた。指導を受けたという人物は枚挙にいとまがない。

大塚はつねづね「アニメーターは演技者である」と公言しており、コミカルで躍動感に満ちた描写で高い評価を獲得している。大塚の作画の魅力は、アニメーションの持ち味ともいえるダイナミックな動きにある。人物やメカがどのように動くかという"作動原理"を重視しており、例えば人の動きを描く場合、腕だけではなく腰や足の動きも描き、それに少々の少々のデフォルメを加えることでダイナミックな動きとなる。人物だけでなく、メカの動きにもこだわりを持ち、例えば『ルパン三世』第1シリーズでは、当時のアニメーションでは前例のないリアルな自動車・銃器・時計などのディテールに徹底的にこだわり、ガンアクションでは、弾が発射されると銃身が後退して発射のショックを和らげるという細かい描写をしている。しかし、ロボットアニメについては、「あんなものをどうやって動かすのか考え込んでしまう」と言ってほとんど参加していない。また、西崎義展からSFアニメ『宇宙戦艦ヤマト』に誘われた時も、即座に断っている。

『ルパン三世』に参加したのは、Aプロの親会社・東京ムービー(現・トムス・エンタテインメント)の制作部長(のち社長)だった藤岡豊が、自らの立てた『ルパン三世』アニメ化企画のために、クルマや銃に詳しい人物として楠部大吉郎から推薦された大塚を作画監督としてスカウトしたことによるものだった。演出の大隅正秋から、画面にリアリティと重みを持たせるべく、実在する自動車や銃や時計などを登場させるよう指示された大塚は、麻薬Gメン時代に押収品の拳銃のスケッチや分解掃除もしたという経験を活かし、主人公のルパンにはワルサーP38、凄腕のガンマン・次元大介には破壊力抜群のコンバットマグナム、女性の峰不二子には小型で突起が少なく取り出しやすいブローニングM1910というように、各キャラクターに見合った拳銃を持たせた。自動車も、一般的なアニメにありがちな、どのメーカーが作ったのかわからないものではなく、メルセデス・ベンツSSKからダットサン・ブルーバードまで、すべて実在する自動車となっている。その後、視聴率が低迷して途中で大隅が降板させられると、大塚は高畑勲と宮崎駿に演出を依頼した。演出の交代により、それぞれの演出意図に合わせてルパンの愛車もシリーズ前半と後半で替わっている。ルパンを原作者のモンキー・パンチの設定通りの「生まれながらの金持ち」とした大隅が選んだのは高級スポーツカーのベンツSSKだったのに対し、「ルパンは泥棒だけど、結局なにも盗らない。だからカネがないはずだ」と主張した宮崎は、当時の大塚の愛車でもあったイタリアの大衆車フィアット500を選んだ。大塚はいずれの演出意図にも応じて、クルマとルパンを一体化しているように描いた。その後、フィアット500は再び宮崎駿と組んだ映画『ルパン三世 カリオストロの城』にも登場し、以後ルパン三世の代名詞となる。

趣味な人物で、その興味は蒸気機関車から自動車、軍用車両まで多岐に渡る。

子供のころから蒸気機関車の大ファンであり、中学生時代(戦中)は山口県小郡町(現山口市)の機関庫に通った。カメラを持っていなかった大塚は蒸気機関車の動きを自分の目に焼き付け、精密なスケッチ画を大量に描き続けた。その時に機関士と交流し、運転作業から駆動系のシステムまで徹底的に観察した経験が「作動原理に基づいて絵を描く」というアニメーターの素養を無意識に鍛えることになった。終戦後、興味は蒸気機関車から米軍のジープやトラックに移行していった。

日本有数の軍用車両研究家でもある。軍用車両への熱意は並々ならず、1989年から2000年にかけて自費で軍用自動車研究誌『MVJ』(Military Vehicle Journal)を13冊出版したほど。田宮模型(現タミヤ)の商品企画やデザインのアドバイザーを務めたこともあり、一時はアニメーター廃業を決意して模型会社MAX模型に勤務したこともあった。1970年に創刊した模型雑誌「ホビージャパン」ではトラック模型に関する連載を持ち、この連載の後も、軍用車両やジープに関する連載を複数担当した。

ジープマニアとして有名で、同時に7台乗っていた事もある。戦後、進駐軍のジープに一目惚れしてどんどんのめり込み、ジープに詳しい人とひとりひとり勝負するために世界中を旅して回ったという。知りたいジープのことを調べるためだけに、紹介状のひとつも持たずにアメリカのペンタゴンに直接出かけ、それでしかるべき資料に行きあたってしまうようなこともあった。鈴木敏夫によれば、世界中のジープマニアのなかでは「オオツカ」と言えば有名だとのこと。愛車のひとつホンダ・モトラもジープカラーに塗り直して使っていた。

大の自動車好きとしても知られ、国産のスバル360が30万円台だった時代に62万円で新車を購入したフィアット ヌオーバ500に乗っていたことが知られている。『ルパン三世』第1シリーズ後期や映画『カリオストロの城』では、その自身の愛車を主人公ルパンの愛車として生き生きと描き、そのメカニック知識を活かした名場面を生み出してきた。

宮崎駿の『紅の豚』の原案を載せた「宮崎駿の雑想ノート」や漫画『風の谷のナウシカ』の連載は、大塚が勧めたものだった。1984年、模型雑誌「モデルグラフィックス」創刊時に「大塚康生のおもちゃ箱」の連載を打診された大塚が「趣味の世界を思う存分描いて欲しい」と宮崎を誘ったことで「雑想ノート」の連載が実現した。また、『風の谷のナウシカ』は、アニメ雑誌「アニメージュ」に半生の回顧録「作画汗まみれ」を連載していた大塚の勧めで同誌での連載が始まった。

アニメーション界の中にあっては、非常に外向的な人物。英語や中国語にも堪能で、若い頃から世界中を歩き回っていた。

鉄道写真家の南正時は、Aプロダクションのスタッフだった頃に大塚と知り合い、蒸気機関車の写真とスケッチを見せ合ったことで交流が始まった。そして大塚の助言もあり、写真家へと転向した。

高畑勲がAプロダクションから日本アニメーションに移籍する際には、高畑の給与や待遇などの交渉を行なった。大塚も「日本アニメーションに対し、最高の待遇を出してくれるならという条件で高畑に移籍を説得すると言った」と後に語っている。

宮崎駿は、『未来少年コナン』第1話で大塚が担当したヒロイン・ラナの顔が自身の求めた「美少女」にはなっていないことに不満を持ち、以後、ラナについては自らが担当した。

近藤喜文は、アルバイトで講師をやっていた専門学校の生徒だった。アニメーターになる伝手を求めて学校に来ていた近藤は大塚に頼んでAプロに入社させてもらうことになった。

日動映画で出会ったアニメーターの森康二と大工原章、日動社長の山本善次郎、演出担当の藪下泰司はその後、東映動画の礎を築くことになった。大塚は特に指導を受けた森と大工原に、その後の自分のアニメーターとしての考え方や人に接する上での姿勢について強い影響を受けたという。

NHK連続テレビ小説『なつぞら』の登場人物の一人である警察官出身のアニメーター・下山克己は、大塚をモデルにしていると言われている。

略年譜[ソースを編集]

1931年 - 島根県鹿足郡津和野町で生まれる。

1939年 - 山口県山口市に転居。

1946年 - 山口県立山口工業学校土木科に入学。

1951年 - 山口県庁総務部統計課に就職。

1952年 - 厚生省採用試験に合格、上京。関東信越地区厚生局麻薬取締官事務所(当時)に配属される。

1956年 - 日本動画社のテストを受け合格、練習生になる。8月に同社が東映に吸収されたため、新たに発足した東映動画に臨時採用として入社。

1961年 - 同僚だった橋本文枝と結婚

1962年 - 東映動画労働組合の書記長に就任。

1968年 - Aプロダクション(現:シンエイ動画)に移籍。1976年にシンエイ動画に改組した後も役員待遇で在籍を続けるが、1977年に退社

1979年 - 東京ムービー(現:トムス・エンタテインメント)新社の子会社テレコム・アニメーションフィルムに移籍。

1991年 - 代々木アニメーション学院アニメーター科講師を兼任。

1998年 - 第3回アニメーション神戸特別賞を受賞。

2002年 - 文化庁長官表彰。

2008年 - 東京国際アニメフェア2008 第4回功労賞表彰受賞。

2019年 - 第42回日本アカデミー賞協会特別賞受賞。

2021年 - 死去。

2024/06/17 08:20更新

ootsuka yasuo



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