もしもし情報局 > 1935年 > 10月29日 > アニメ映画監督

高畑勲の情報 (たかはたいさお)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

高畑勲の情報(たかはたいさお) アニメ映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

高畑 勲さんについて調べます

■名前・氏名
高畑 勲
(読み:たかはた いさお)
■職業
アニメ映画監督
■高畑勲の誕生日・生年月日
1935年10月29日 (年齢82歳没)
亥年(いのしし年)、蠍座(さそり座)
■出身地・都道府県
三重出身

(昭和10年)1935年生まれの人の年齢早見表

高畑勲と同じ1935年生まれの有名人・芸能人

高畑勲と同じ10月29日生まれの有名人・芸能人

高畑勲と同じ出身地三重県生まれの有名人・芸能人


高畑勲と関係のある人

宮崎駿: 毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナルスケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の絵コンテ、レイアウトを描いた上、スタッフの作った脚本・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした。


ミヤコ蝶々: 声のみ)※高畑勲監督。


久村栄子: レイアウトなどを担当していた宮崎駿は、特に強く島本を支持したが、演出の高畑勲は「破天荒で空想がちなアンを演じるには、少しイメージを崩したほうが良い」と考え、あえて山田を起用。


椋尾篁: 1976年放映の『母をたずねて三千里』の現地ロケ(イタリア・アルゼンチン)に高畑勲・宮崎駿らと同行し、光と影を背景美術に織り込む。


三野輪有紀: おもひでぽろぽろ(1991年監督・脚本は高畑勲:スタジオジブリ) - ヤエ子


加賀美幸子: 1987年には、ドキュメンタリー映画『柳川堀割物語』(高畑勲監督・制作二馬力)のナレーションを同僚の国井雅比古と共に務めた(NHK在籍中でこのようなことは異例である)。


ジョン=ラセター: 最初に会ったのは映画『リトル・ニモ』の企画時で、当時は互いに印象はなかったが、高畑勲らが持っていった映画『ルパン三世 カリオストロの城』のビデオを見て、その作画に驚いて繰り返し鑑賞。


小田部羊一: これは『長くつ下のピッピ』のテレビアニメ化企画の要員として先にAプロダクションに勧誘された高畑勲が、宮崎と小田部を「不可欠な人材」として指名したためである。


近藤喜文: 高畑勲、宮崎駿両監督作品を1970年代から晩年までアニメーターとして支え続けた。


望月智充: ジブリとしては、初の宮崎駿・高畑勲以外の監督作品だった。


吉川惣司: 宝島社の『別冊宝島737号完全保存版ルパン三世PERFECT BOOK』のインタビューで大塚康生は日本のアニメ界を代表するメンバーとして宮崎駿、高畑勲、出崎統、吉川惣司を挙げている。


鈴木伸一: アニメの世界(おかだえみこ、宮崎駿、高畑勲との共著、1988年3月、新潮社)ISBN 4106019566


大塚康生: 続いて大塚は高畑勲が監督する映画『じゃりン子チエ』に参加、小田部羊一とともに作画監督を務めた。


宮崎駿: 1971年 - 高畑勲、小田部羊一と共にAプロダクション(現・シンエイ動画)に移籍。


出﨑統: 『ルパン三世』(テレビ第1作)第13話「タイムマシンに気をつけろ!」と17話「罠にかかったルパン」では、当時Aプロダクションに所属していた宮崎駿と高畑勲による改変を受けた。


宮崎駿: 2018年5月15日、4月に死去した高畑勲のお別れ会に出席し、開会の辞を読み上げた。


山田栄子: レイアウトなどを担当していた宮崎駿は、特に強く島本を支持したが、演出の高畑勲は「破天荒で空想がちなアンを演じるには、少しイメージを崩したほうが良い」と考え、あえて山田を起用。


椋尾篁: 巻頭言にりんたろう・高畑勲・窪田忠雄がメッセージを寄せている。


近藤喜文: 『未来少年コナン』(監督:宮崎駿)、『赤毛のアン』(監督:高畑勲)などに参加した。


国井雅比古: 柳川堀割物語(ナレーション、1987年、高畑勲監督・制作二馬力のドキュメンタリー映画、加賀美幸子と共に担当)


坂口理子: 『おシャシャのシャン!』を見た高畑勲監督からのオファーにより、2013年、映画『かぐや姫の物語』の共同脚本を担当。


宮崎駿: テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『リトル・ニモ』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、アメリカとの間を行き来したが、企画への疑問から降板。1981年4月に公開された『じゃりン子チエ』を監督予定だったが原作をそのまま使わない意向を示して高畑勲が監督することになった。


大塚康生: 途中で演出の大隅正秋(現・おおすみ正秋)が降ろされ、大塚の依頼により高畑勲と宮崎駿が替わって演出を務めた。


宮﨑駿: 高畑勲・森康二・大塚康生らと共に3年がかりの大作、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1965年 - 1968年)を作り上げた。


宮崎駿: 1971年、高畑勲、小田部羊一と共に東映動画を退社し、新企画『長くつ下のピッピ』を制作するためにAプロダクションに移籍したが、原作者の許諾を得られず立ち消えになってしまう。


大塚康生: 高畑勲や宮崎駿というアニメ界の2大巨頭を作画面で支えてきた人物で、後輩として東映動画に入ってきた2人の才能を見出して引き上げた師匠的存在だった。『太陽の王子 ホルスの大冒険』で当時まだ実績のなかった高畑勲と宮崎駿を抜擢し、その後の2人のコンビ結成を後押しする役割を担った。大塚は宮崎駿のテレビや映画の初監督作品で作画監督を務め、高畑勲を他社で制作する作品企画に誘って移籍のきっかけを作ったのも彼だった。


小田部羊一: 高畑勲・宮崎駿と共著『幻の「長くつ下のピッピ」』(岩波書店、2014年10月)


大隅正秋: その後の演出は作画監督・大塚康生の東映動画時代の知己でもある高畑勲と宮崎駿のコンビ(「Aプロダクション演出グループ」名義)に引き継がれた。


太田光: スタジオジブリ作品に関しては、『未来少年コナン』以外の宮崎駿作品は「説教臭い」として嫌う一方、宮崎とともにジブリを設立した高畑勲の作品を好むことを公言しており、2014年には高畑の『かぐや姫の物語』の映像ソフト化に際して、スタジオジブリプロデューサーの鈴木敏夫から新しいキャッチコピーを創出する「特命コピーライター」に任命された。


ジャン=ジオノ: 『木を植えた男を読む』フレデリック・バック画 高畑勲訳著 徳間書店 1990


高畑勲の情報まとめ

もしもしロボ

高畑 勲(たかはた いさお)さんの誕生日は1935年10月29日です。三重出身のアニメ映画監督のようです。

もしもしロボ

宮崎駿との関係、演出・仕事などについてまとめました。映画、テレビ、家族、卒業、現在、退社、解散、事件、ドラマに関する情報もありますね。82歳で亡くなられているようです。

高畑勲のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

アニメーション映画

『太陽の王子 ホルスの大冒険』(演出)

『パンダコパンダ』(演出)

『パンダコパンダ雨降りサーカスの巻』(演出)

『じゃりン子チエ』(脚本・監督)

『セロ弾きのゴーシュ』(脚本・監督)

『火垂るの墓』(脚本・監督)

『おもひでぽろぽろ』(脚本・監督)

『平成狸合戦ぽんぽこ』(原作・脚本・監督)

『ホーホケキョ となりの山田くん』(脚本・監督)

『かぐや姫の物語』(原案・脚本・監督)

実写映画

『柳川堀割物語』(脚本・監督)

テレビアニメ

『狼少年ケン』(演出)

『ルパン三世』(演出)

『アルプスの少女ハイジ』(演出)

『母をたずねて三千里』(演出)

『赤毛のアン』(脚本・演出)

『じゃりン子チエ』(チーフディレクター)

会長特別賞

2019年

特別賞

1989年『火垂るの墓』

厚生省児童福祉文化賞毎日映画コンクール教育文化映画賞日本カトリック映画大賞文化庁優秀映画国際児童青少年映画センター賞シカゴ国際児童映画祭最優秀アニメーション映画賞シカゴ国際児童映画祭子供の権利部門第1位モスクワ児童青少年国際映画祭グランプリロカルノ国際映画祭名誉豹賞毎日映画コンクールアニメーション映画賞アヌシー国際アニメーション映画祭長編部門グランプリ文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞

高畑 勲(たかはた いさお、1935年〈昭和10年〉10月29日 - 2018年〈平成30年〉4月5日)は、日本のアニメ監督、映画監督。畑事務所代表、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事。日本大学芸術学部講師、学習院大学大学院人文科学研究科主任研究員、多摩美術大学客員教授などを歴任、紫綬褒章受章。映画プロデューサーや、フランス文学(ジャック・プレヴェール)の翻訳も手がけている。

1959年に東映動画に入社。『太陽の王子 ホルスの大冒険』で長編をはじめて演出した後、1971年からAプロダクションに移る。以後『アルプスの少女ハイジ』や『母をたずねて三千里』などのテレビアニメを経て、宮崎駿とともに設立したスタジオジブリで監督作を手がけた。アニメーション研究家からは、類型化されないキャラクターの演技や感情表現を持ち込んだこと、丹念な日常描写で生活感を与えたことや、背景とキャラクターの一体化といった革新的な表現に挑み続けた点を、アニメーションに対する功績として評価される。

1935年(昭和10年)、三重県宇治山田市(現・伊勢市)で、高畑浅次郎の三男として生まれる。父の浅次郎は当時中学校の校長であり、戦後は岡山県の教育長となり、後に同県初の名誉県民にまでなった人物であった。1943年(昭和18年)に浅次郎が岡山一中校長となり、岡山市へ転居した。またこの時に、岡山県立師範学校男子部附属国民学校(現・岡山大学教育学部附属小学校)に転校した。9歳のときに岡山市で空襲に遭った。これが高畑の人生における一番強烈な体験だった。高畑はすぐ上の姉とともに家族とはぐれ、火の雨と猛火のなかを逃げまどい、川のほとりで明け方に冷たい黒い雨に打たれていた。1951年(昭和26年)に岡山大学附属中学校卒業後、岡山県立朝日高校に入学。1954年(昭和29年)に同校を卒業し、東大に入った二人の兄に続いて自らも東京大学教養学部文科二類(東大文二、現在の東京大学文科三類)に入学し上京する。

上京した大学生時代に、1955年に公開されたポール・グリモーの映画『やぶにらみの暴君』(のちに改作され『王と鳥』となる)が日本公開され、これに衝撃を受けて映画館に通うようになる。髙畑にとっては、これが、フランスの詩人・脚本家であるジャック・プレヴェールの作品との出会いであった。高畑はこれに影響を受け、後に彼の名詩集《Paroles》(邦訳題名『ことばたち』)の日本初完訳(2004年)という仕事を行う。また、フランスの長編アニメーション映画でプレヴェールが脚本を執筆した『王と鳥』の字幕翻訳も手がけた。『紅の豚』の劇場用パンフレットではさくらんぼの実る頃(原題: Le Temps des cerises)の訳詞を載せている。東京大学文学部仏文科卒業

長編漫画映画『やぶにらみの暴君』(『王と鳥』の原型)に感銘を受けて、アニメーション映画を作る事を決意。1959年(昭和34年)、大学卒業後に東映動画に入社。東映動画による演出助手公募の第一期生で、同期に池田宏がいる。

入社後間もない1960年前後に、内田吐夢監督による『竹取物語』の漫画映画化企画が立ち上がった。この時、東映動画社内で脚本プロットの募集がおこなわれたが、高畑は応募しなかった。しかしながら高畑はこのとき「ぼくたちのかぐや姫」というメモや、「『竹取物語』をいかに構成するか」というノートを残している。

高畑は、その後、映画『安寿と厨子王丸』『わんぱく王子の大蛇退治』で演出助手になり、テレビアニメ『狼少年ケン』で演出デビュー。その仕事ぶりを認められ、大塚康生の推薦により、長編漫画映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』の演出(監督)に抜擢される。この作品はのちに高い評価を得た。しかし、予算やスケジュールの大幅な超過から当時高畑をはじめとするメインスタッフはその責任を負う形で他と待遇に差を付けられ、興行面でもターゲットと宣伝の不一致から不振だった。

『太陽の王子 ホルスの大冒険』の制作遅延や組合活動によって、高畑は東映動画で長編劇場作品の演出や「やりたい企画」のテレビアニメを任される可能性はほぼないと考えていた。そんな折に、Aプロダクションに移っていた楠部大吉郎と大塚康生から、『長くつ下のピッピ』のアニメ化(企画は東京ムービー)のために移籍を勧誘される。大塚が手がけていた『ムーミン』にテレビアニメの可能性を感じていた高畑は、東映動画のテレビアニメにはないチーフディレクターによって作品全般を統括できる点にも魅力を感じて誘いに応じるも、宮崎駿・小田部羊一の2人が不可欠と、両者に移籍を説得した。高畑は「将来のある2人を巻き添えにする」ことに悩んだが、宮崎はすぐに決断し、小田部は悩んだものの妻の奥山玲子が残ることで周囲から容認された。

『長くつ下のピッピ』では、原作者(アストリッド・リンドグレーン)との交渉に向かう藤岡豊(東京ムービー社長)に同行する形で宮崎がスウェーデンにロケハンに赴き、その経験を生かして大量のイメージボードを描く一方、高畑は「覚え書き」や「字コンテ」を作って作品の方向性を固めようとしたが、原作者の許可が下りず、企画は頓挫した。移籍の理由が消失した高畑らはAプロダクションの様々なテレビアニメの企画や制作への参加を余儀なくされ、高畑は東映動画の(残った)仲間に申し訳ないという思いを抱いたという。『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』後半パートの演出を宮崎と共に担当したのも、そうした状況で受けた仕事の一つだった。「のちのルパンシリーズの原型を作り上げた」とされるが、高畑自身は「それなりに面白くできた話もありますけど、正直なところ投げ出すしかなくて、責任を取りたくない回もあります」と述べている。

1972年に映画『パンダコパンダ』、翌1973年に『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』の演出を務める。この映画の制作に際しては『長くつ下のピッピ』で作りかけた世界観や設定(少女の一人暮らし、三つ編みでそばかすのある主人公、オーブンのある台所など)が活用された。脚本の宮崎駿のアイデアが存分に盛り込まれ『となりのトトロ』のルーツとされる。

ズイヨー映像(のちに日本アニメーションに改組)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』の演出・監督を担当、海外ロケハンや徹底的に調べ上げた資料を元に生活芝居を中心としたリアリズムあふれるアニメを構築した。場面設計だった宮崎駿、絵コンテを担当していた富野喜幸に与えた影響は大きい(詳細は後述)。『未来少年コナン』では数話のコンテ・演出を担当し、初監督で苦しむ宮崎駿をアシストした。

1977年、Aプロダクション時代に面識のあった楠部三吉郎がシンエイ動画での『ドラえもん』の再アニメ化を原作者の藤本弘(藤子・F・不二雄)に持ち込み、藤本から「どうやって『ドラえもん』を見せるのか、教えてもらえませんか」と問われた際に、楠部は高畑の自宅を訪れ『ドラえもん』の単行本を読ませた上で、企画書の執筆を依頼した。高畑は目にした『ドラえもん』を「子供の心をぐいっとつかまえる力がある」と絶賛した上で企画書を書き、数日後に楠部と二人で藤本を訪れると、企画書を読んだ藤本はアニメ化を承諾したという。楠部は高畑を『ドラえもん』の「恩人のひとり」と記している。

1980年、『赤毛のアン』が終わりのんびりしていた高畑のもとに、漫画『じゃりン子チエ』の映画化の企画が持ち込まれた。高畑は原作を熟読した上で「やってみたい」と返事し、その後、大阪の下町へのロケハンも敢行した。1981年に公開された映画は、非常に制約の多い中で制作されたにもかかわらず、興行的にも成功した。

その後、TV版が制作されることになり、再び高畑の元へと依頼が来る。この時、高畑は引き受ける条件として、映画版で主役・竹本チエを務めた中山千夏、準主役・竹本テツを務めた西川のりおを起用すること、それ以外の声優に関しても、ナチュラルな大阪弁が話せる声優を起用すること、という条件を出したが、制作側がその条件を呑み、チーフディレクターを務めることとなった。高畑自身、この作品を非常に気に入っており、別名を使ってコンテを切ったり演出をしている。その時に使っていた別名は、本作で西川のりおが演じた竹本テツをもじった「武元哲」である。『チエ』が公開された1981年にテレコム・アニメーションフィルムへ移籍した。

同じ時期に、オープロダクションが自主制作で手がけた『セロ弾きのゴーシュ』の監督も担当し、5年を費やして1981年に完成(劇場公開は1982年)した作品は毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞した。

『じゃりン子チエ』に前後して、当時テレコム・アニメーションフィルム(および親会社である東京ムービー)が社運をかけて取り組んでいた日米合作の劇場大作『NEMO/ニモ』に参加する。いったんは日本側の監督にノミネートされたが、制作体制の問題から1983年に降板し、テレコム・アニメーションフィルムを退社する(宮崎駿は一足先に退社していた)。『NEMO/ニモ』製作のための渡米時にフレデリック・バックの作品『クラック!』に出合い感銘を受けている。

その後、宮崎が監督する『風の谷のナウシカ』に参加しプロデューサーを務める。この『風の谷のナウシカ』が成功を収めたことから、宮崎はこの映画で得た資金を有意義に使いたいと考え、今度は高畑が監督する映画を製作しようと提案した。その結果、水の都福岡県柳川市の風情をとらえた映画『柳川堀割物語』を撮影することになり、高畑が脚本・監督を務め、宮崎の個人事務所「二馬力」が製作を担当した。

しかし、高畑があまりにも巨額な製作費を費やしたため、宮崎が用意した資金を全て使い果たした挙句、宮崎の自宅を抵当に入れざるを得ない事態となった。困惑した宮崎は徳間書店の鈴木敏夫に相談し、『柳川堀割物語』の製作費を回収するには、新作アニメーション映画を製作しその収入で賄うしかないとの結論に至る。その後、宮崎と鈴木は新作映画『天空の城ラピュタ』の製作を目指し奔走することになる。

『風の谷のナウシカ』を制作したトップクラフトは既に解散していた為、宮崎駿と鈴木敏夫は『天空の城ラピュタ』を制作してくれるアニメーションスタジオを探していた。その時、高畑が「なら、いっその事、スタジオを作ってしまいませんか」と宮崎、鈴木等に提案した。これを受け、1985年、徳間書店が宮崎等の映画製作の為、スタジオジブリを設立した。高畑も宮崎に請われてスタジオジブリに参加したが、高畑は「作り手は経営の責任を背負うべきではない」と主張し、役員への就任を辞退した。亡くなるまでスタジオジブリに所属していたものの、経営に関わる役職には就かなかった。また、ジブリとは別に高畑個人の様々な窓口的事務を行う、畑事務所を持っていた。

1988年『火垂るの墓』の監督を務める。公開時点で清太が野菜泥棒をして捕まる場面等、未完成のシーンが残ったままとなり、僅かながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、一旦アニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて1991年に『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰している。

『おもひでぽろぽろ』を作る前に、しかたしん原作の『国境』を元に、満州国と朝鮮半島における人々の日常生活を淡々と描く中で、日本人の現地人差別の実態を詳らかにする企画を進めていたが、1989年に起きた天安門事件の影響で企画が流れた。

1994年には自ら原作を手がけた『平成狸合戦ぽんぽこ』を公開、配給収入で26億円を得て邦画ではトップとなる。これは高畑の監督作品でも最高の成績となった。また、スタジオジブリ時代の監督作では唯一のオリジナル作品である。

1999年に『ホーホケキョ となりの山田くん』を公開した後は、公開作品が10年以上途切れた。

2000年代初頭、高畑の次回作と目されたのは『平家物語』のアニメ化であったが、メインアニメーターが同意しなかった事などにより断念。鈴木敏夫の発案により、日本の古典『竹取物語』を原作としたアニメ映画が次の企画となるも、進捗の不調から山本周五郎の『柳橋物語』や赤坂憲雄の『子守り唄の誕生』を原作やベースとした企画に変更される曲折を経る。鈴木敏夫は2007年6月のTV番組において、なるべく早く高畑勲に映画を撮らせたいと語った。ただ、高畑の場合、自分で絵を描く事が出来ないので、彼のイメージを具現化出来るアニメーターが必要になるので、その点が難しいが何とかすると述べた。鈴木は実際に脚本段階まで進んでいる企画が複数あると明かした。2008年に高畑が新作長編を製作していることがアナウンスされた。この年に企画が最終的に『竹取物語』に戻った事が後に明らかになっている.

2009年10月、高畑の新作が『竹取物語』を原作に、『鳥獣戯画』の様なタッチで描いた作品である事が報じられた。2010年1月には、高畑のコメントも含んだ形で『週刊文春』で紹介される。この中で高畑は「ストーリーは変えずに印象が全く違う作品にしたいと思っています。なかなか進まなくて、大分先になっちゃうかもしれませんが」と語った。高畑が述べたように制作には時間を要し、約3年が経過した2012年12月になって、スタジオジブリは『かぐや姫の物語』のタイトルで2013年夏に公開予定である事を正式に発表した。しかし2013年2月になり、制作の遅れから公開予定が2013年秋に延期される事が発表され、同年11月23日に公開された。

アニメーション以外にも、人形劇の演出も行なっていた。晩年には、フランスのミッシェル・オスロ監督の長編アニメーション映画『キリクと魔女』等の一連の作品の日本語版の字幕翻訳・演出や、原作本の翻訳も手がけた。

2015年6月、アメリカの映画芸術科学アカデミー会員候補に選ばれた。

最晩年に、西村義明と共に年来の夢であった『平家物語』の短編映画の制作に取りかかったが、病状悪化の為、死の3ヶ月前に断念した。2018年4月5日1時19分、肺がんの為、入院先である帝京大学医学部附属病院で死去した。満82歳没(享年84)。監督としては2013年公開の『かぐや姫の物語』が遺作となった。高畑の死去は海外メディアでも報道された。

死去から1ヶ月余りが過ぎた5月15日に、三鷹の森ジブリ美術館で「お別れの会」が営まれ、宮崎駿・大塚康生・小田部羊一・久石譲がコメントを読み上げた。大塚は『太陽の王子 ホルスの大冒険』でのエピソード等を語り、死去を「悔しくて悔しくてしようがないよ」と述べ、小田部は2017年の闘病中に高畑から「大丈夫、治るから」と励ましを受けた事を踏まえて「納得出来ません。これはあべこべです」と悲しみを吐露した。久石は『風の谷のナウシカ』で起用してくれた事への感謝と「君をのせて」の制作に高畑が関わった事を紹介し、「お別れは言いません。心からご冥福をお祈りしますが、またいつか、どこかでお会いしましょう」と結んだ。(宮崎のコメントについては次節で紹介)

また、子息が最晩年の高畑についてコメントし、2017年4月に手術を受けてからは体調不良(発熱、せき、味覚障害)に苦しめられながらも2018年2月までは講演等もこなしていた事、3月10日には共に公園を散歩したが、月末に入院した時には呼吸困難から会話も出来なくなっていた事などを紹介すると共に、「純粋な好奇心と、日頃の勉強から得た発見や着想を、実験的なやり方を交えて、各分野の才能豊かな仲間達と表現し続ける事が出来た。父は本当に幸せな人間だったと思います」と述べた。

2019年に開催された第91回アカデミー賞において、逝去した映画人を悼む“In Memoriam”(イン・メモリアム)のコーナーで追悼された。

2019年7月2日より10月6日まで東京国立近代美術館において、2020年8月1日から9月27日まで岡山県立美術館にて、2021年4月29日から7月18日まで福岡市美術館にて、また、2021年9月18日から11月14日まで新潟県立近代美術館にて、遺品の資料展示を含む「高畑勲展―日本のアニメーションに遺したもの」が開催される。展覧会自体は高畑の生前から企画されており、当初の企画では高畑の好む作品(美術品・映画)と高畑の作品を並べて展示する趣向であったが、高畑が没したことで回顧展になったと説明されている。

宮崎駿との関係

アニメーション作家・映画監督の宮崎駿は東映動画時代の後輩である。また、『太陽の王子 ホルスの大冒険』から『おもひでぽろぽろ』に至るまで、長年にわたって共に作品を作ってきた盟友でもある。東映動画時代、組合活動を通じて宮崎に与えた思想的影響は少なくない。東映動画を離れて以降も共に作品を作り続け、演出面でも宮崎に影響を与えた。但し、晩年は二人三脚で作品を作る事はなくなっていた。

高畑は宮崎の事を『「彼自身の猛烈な労働と惜しみない才能の提供」と「おそるべき緊張感と迫力」によって、わたしの怠け心を叱咤し、うしろめたさをかき立て、仕事に追い込み、乏しい能力以上のなにかを絞り出させたのは、宮﨑駿という存在だった。』、「特に若い頃の彼の献身的で無私の仕事ぶりに日々接する事がなかったならば、わたしはもっと中途半端で妥協的な仕事しかしなかったに違いない。」と述べている。

高畑は『となりのトトロ』について、「子供達は森にトトロがいる可能性を感じられるようになった」と評価している。また、宮崎が基本設計した「三鷹の森ジブリ美術館」を激賞し、その建築的意義を称えている。また、宮崎は、その三鷹の森ジブリ美術館で開催された「アルプスの少女ハイジ展」で、高畑の演出を評価しながら詳細な解説を行なったり、『千と千尋の神隠し』の制作の際には、視点がずっと千尋を追う事に対し「パクさん(高畑)に怒られるな」とぼやいていたという。これは演出に際し、そういう事だけは絶対にやるなと高畑に教わった為である。鈴木敏夫によると、宮崎が一番自分の作品を見せたい相手は高畑で、宮崎が見る夢には、いつも高畑しか出てこないと話した事があるという。宮崎・高畑の両名と仕事をした事のある富野由悠季は、「世情的には、『ラピュタ』以後の二人が袂を分かったという声も聞きますが、全くそんな事はありません」と述べ、高畑の方法論と対峙した結果として、宮崎の作品が生み出されたとして、「高畑さんがいなければ、宮崎さんはアカデミー賞を取れなかったと断言出来ます」と指摘している。

宮崎駿の映画は久石譲が『風の谷のナウシカ』以来、音楽を担当しているが、高畑が、まだ新進気鋭の作曲家に過ぎなかった久石を、この時抜擢したのが最初の出会いとなった。この起用に関して、当時無名同然の久石を起用する事にレコード会社と製作会社が難色を示し、公開前年の夏から年末にかけて難航する事態となったが、高畑が防波堤となり、反対意見を退けたという。

同じスタジオジブリで映画を制作していた関係だが、興行成績では高畑は宮崎の監督作品に遠く及ばない。ジブリでの監督作品では最も高いのが『平成狸合戦ぽんぽこ』が配給収入26.5億円であり、宮崎の『千と千尋の神隠し』の興行収入308億円とは桁違いの差を付けられている。『ホーホケキョとなりの山田くん』は、当時ジブリの親会社だった徳間書店社長の徳間康快が東宝と「ケンカ」してしまった為、東宝よりも配給力で劣っていた松竹で配給せざるを得なくなった。これが原因となって製作費に20億円以上かけながら、興行収入16億円弱・配給収入8億円弱という失敗(松竹は60億円の興行収入を見込んでいた)に終わり、反って赤字が膨らむ事になった。以後、高畑は次の新作まで14年を要する事となった。

2018年5月15日の高畑の「お別れの会」で宮崎は東映動画時代を出会いから振り返り「教養は圧倒的だった。僕は得難い人に出会えたのだと嬉しかった」と述べ、自身も参加した『ホルス』で納期や予算を超過する「苦闘」の末に出来上がった初号試写で見たヒロイン・ヒルダが「迷いの森」をさまようシーンの表現に驚愕した体験から「僕等は精一杯、あの時を生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕等のものだったんだ。」と、往時を偲んだ。

演出・仕事

緻密な構成力を有し、アニメーションでありながら、リアルで自然な説得力のある世界観を追求している。

高畑作品の絵コンテは自身がまずラフコンテを描き起こし、それを元に優秀なアニメーターが清書するという共同作業で完成される。各場面のキャラクターの演技をどうするか、その心理を深く考え抜き、アニメーターにも深く考える事を求めた。自分の考えを押しつけはせず、民主的にアイデアを募り、有機的にまとめており、その中で頭角を現したのが宮﨑だった。宮﨑と組んだ時には、どんな物語にするか・プロット・一つ一つの情景を綿密に打ち合わせて、共通のイメージが出来上がった時点で絵にしていくという事を繰り返した。物語を作る際に宮崎は、膨大な量のイメージボードを描いている。

高畑は自分で絵を描かない事で「自分で描く狭さから脱出」出来、『絵描きではないにしても、絵への感覚を研ぎ澄ませて「絵がわかる」という状態を持っていれば……「様々な才能と組む事が出来る」』と述べている。

アニメは「誇張」や「省略」の手法を用いて描く事が主流だった中で、徹底した生活描写や舞台設定を行ない、作品に「リアリズム」を持ち込んだ。「アルプスの少女ハイジ」では当時のアニメ界では珍しい、海外へのロケーション・ハンティングを行なった。

アニメーションの本流への復帰を目指し、現実の日常生活の自然主義的な描写に留まっていてはアニメーションではないと考え、子供達の想像力を膨らませ、遊びの開放感と発見の喜びを味わわせる方向へと表現を高める事を要求した。

表現が記号やパターンでしか表現されないのでは実在感を感ずる事が出来ないと考え、生き生きとしたキャラクターは生き生きと、美しいものは観客にとっても美しく、楽しい事は楽しそうに、おいしそうなものはおいしそうに実質として表現した。

演出の特色は原作を深く読み込み、ドラマとキャラクターに距離をおいて、客観的に描き切る所にある。人物に対しては過度な理想を抱かず、ペシミズムに陥るわけでもなく、リアリズムを基調にしている。シビアな題材を扱った場合には冷徹ですらあり、コメディタッチの題材であっても、生真面目な視点で物語る。

高畑は原作への態度について、「原作が面白いと思ったら、その面白さをどう活かすか、どう発展させるかということに集中します」「原作に感心するから作るのであって、そうじゃなければ断りますよ。『原作には感心しないけど、換骨奪胎してこう作れば面白くなる』というのは原作者に対して失礼だと思うから。」と述べており、『かぐや姫の物語』だけがその例外だったとしている。『母をたずねて三千里』の次に『ペリーヌ物語』の監督が予定されていたが原作の内容に否定的な立場を表明して拒否したという、『ペリーヌ物語』スタッフによる証言がある。

キャラクターには平板な印象ではなく、靴を脱いだり履いたりといった日常の極めてささいな動作、立ち振る舞い家事等の表現を重視した。行動の過程をしっかり書く事で行動自体が楽しさや面白さが呼び起こすようにし、また、アニメーションの世界を現実のものとして感ずるようになる演出とショットの構成を求めた。

『ハイジ』はスポ根もの・ロボット系・魔法少女が人気だった当時のアニメ界で、地味な生活や質素な衣食住を丁寧に描いていこうと作られ、平均視聴率20%超えの大成功を収めた。

『となりの山田くん』『かぐや姫の物語』では日本の絵画の描線で、スケッチ風の淡彩の画面でやりたいという意志があった。アニメーターが描いたラフな線が持つ生命力を、そのまま画面に出す事を可能にした。

音楽に対しても非常にこだわりを持っていた。主題歌や挿入歌の作詞や訳詞も行なっている。『母をたずねて三千里』で、エンディングテーマ「かあさんおはよう」の作詞、『おもひでぽろぽろ』ではベット・ミドラーの「The Rose」を翻訳し、「愛は花、君はその種子」とタイトルを付けて都はるみに歌わせた。宮崎駿監督作『紅の豚』では、シャンソンの名曲「さくらんぼの実る頃」の訳詞も手がけ、こちらは加藤登紀子が歌って話題になった。そして、『ホーホケキョ となりの山田くん』では、ドリス・デイがヒッチコック映画で歌った「ケ・セラ・セラ」の訳詞も行なった。宮崎の監督作『魔女の宅急便』では高畑は「音楽演出」の担当者としてクレジットされている。また、作曲も手がけており、『じゃりン子チエ』の挿入歌である「バケツのおひさんつかまえた」を惣領泰則と共作。『かぐや姫の物語』では劇中歌の「わらべ唄」と「天女の歌」を高畑が作詞作曲を手がけた(作詞は坂口理子との共作)。この際、ボーカロイドの初音ミクに歌わせてデモ作りを行ない、久石譲に曲のイメージを伝えた。久石譲や矢野顕子・上々颱風等、多数のミュージシャンを指名し起用した。高畑の没後に坂本龍一も依頼を受けたことがあったと明かしている。坂本によると音楽が「シリアス過ぎて」起用は見合せになったという。坂本は作品名は答えていないが、2012年に坂本が鈴木敏夫と公開対談した際に鈴木から高畑作品への協力を要請されたことがあった。

制作のスピードに関しては、宮崎が「パクさんはナマケモノの子孫です」と喩える程スローである。『太陽の王子 ホルスの大冒険』では、製作の遅れの責任を取って、プロデューサーが何度も交代する程であった。鈴木敏夫は高畑没後のインタビューで、(ジブリ時代に)高畑が「公開日に間に合わせて映画を作った事が、遂に一度もなかった」と述べている。『火垂るの墓』では一部カットの彩色が間に合わず、未完成版を公開した。『おもひでぽろぽろ』の時には遅延が明らかになって、宮崎がメインスタッフに「(間に合わせるには)今までのやり方を全部変えてくれ」と説明した後も、高畑は「今まで通りでいい」と主なアニメーターに話したが、彼等はそれに恐怖感を抱いて作業を早めた為、「何とか間に合った」という。『平成狸合戦ぽんぽこ』では、鈴木はあらかじめ遅延を見越し、高畑には「3月公開」と伝えた上で本来の公開予定である7月に間に合わせる計略を仕掛けたものの、それでも間に合わなくなりそうになった為、10分削る事を約1ヶ月、高畑と交渉して間に合わせた。『ホーホケキョとなりの山田くん』では「製作は順調に遅れています」という異色の予告編が作られた。『かぐや姫の物語』が一旦『風立ちぬ』と同日公開とされたのは、制作作業の遅れ(絵コンテの進捗が1ヶ月で2分相当で、企画から5年経過の時点で30分しか完成しなかった)に業を煮やしたプロデューサーの西村義明が鈴木敏夫と相談の末、高畑を奮起させて進捗を回復させる為に打った「大博打」だったという。

予算管理については甘いと指摘されている。特に、『柳川堀割物語』を監督した際には、高畑が巨額の製作費を注ぎ込んだ為、宮崎駿が調達した資金だけでは足りず、結果的に宮崎が自宅を抵当に入れざるを得なくなるという騒動が起きている。この『柳川堀割物語』騒動について、鈴木敏夫は「高畑さんはプロデューサーとしては予算管理が出来ても、自分が監督となると際限なくお金を使ってしまう」と指摘している。また、製作費50億円という日本映画としては破格の予算を注ぎ込んだ『かぐや姫の物語』の完成報告会見では、自ら「お金も時間もたくさんかけてやっと完成した。お金の事は考えずに作っちゃうのですが、出来てしまうと、後はどう回収するか。問題はそればかり」と述べた。『かぐや姫の物語』にこれだけの製作費を投入出来たのは、高畑の監督作品、とりわけ『ホーホケキョ となりの山田くん』を気に入った日本テレビ会長(当時)の氏家齊一郎が、「高畑さんの新作を見たい。大きな赤字を生んでも構わない。金はすべて俺が出す。俺の死に土産だ」という意向で製作を要請し、氏家の逝去後も、そのパトロンとしての遺志が尊重された事が要因であると鈴木敏夫は述べている。

2024/06/10 13:48更新

takahata isao


高畑勲と同じ誕生日10月29日生まれ、同じ三重出身の人

北園 克衛(きたぞの かつえ)
1902年10月29日生まれの有名人 三重出身

北園 克衛(きたぞの かつえ、1902年(明治35年)10月29日 - 1978年(昭和53年)6月6日)は、三重県出身の詩人、写真家、デザイナー。中央大学経済学部卒。本名は橋本健吉(はしもと けんき…

桑原 謙太朗(くわはら けんたろう)
1985年10月29日生まれの有名人 三重出身

桑原 謙太朗(くわはら けんたろう、1985年10月29日 - )は、三重県名張市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 名張市立名張小学校の4年時に、地元の名張少年野球団で軟式野球を始めた。 …


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


高畑勲と近い名前の人

高畑 百合子(たかはた ゆりこ)
1980年8月19日生まれの有名人 東京出身

高畑 百合子(たかはた ゆりこ、1980年8月19日 - )は、TBSアナウンサー。 東京都出身。身長160cm、血液型はA型。東京都立駒場高等学校、明治大学法学部卒業。大学在学中はチアリーディン…

高畑 充希(たかはた みつき)
1991年12月14日生まれの有名人 大阪出身

高畑 充希(たかはた みつき、1991年〈平成3年〉12月14日 - )は、日本の女優、歌手、タレント。歌手活動は一部の参加作品を除き、みつきまたは「高畑充希」名義。 大阪府東大阪市出身。所属事務所…

高畑 こと美(たかはた ことみ)
1986年11月22日生まれの有名人 東京出身

高畑 こと美(たかはた ことみ、1986年11月22日 - )は、日本の女優。東京都出身。身長164cm。血液型はAB型。元エンパシィ所属。母親は劇団青年座の女優・高畑淳子。異父弟は俳優の高畑裕太。遠…

高畑 淳子(たかはた あつこ)
1954年10月11日生まれの有名人 香川出身

高畑 淳子(たかはた あつこ、1954年〈昭和29年〉10月11日 - )は、日本の女優、声優、タレント。劇団青年座所属。香川県善通寺市出身。特技は英語と水泳。 高畑の祖父と北川景子の母方の曾祖父が…

高畑 誠一(たかはた せいいち)
1887年3月21日生まれの有名人 愛媛出身

高畑 誠一(たかはた せいいち、1887年(明治20年)3月21日 - 1978年(昭和53年)9月19日)は、日本の実業家。日商株式会社(後の日商岩井、現・双日)の元会長。 愛媛県喜多郡内子町出…

高畑 進(たかはた すすむ)
1926年6月24日生まれの有名人 秋田出身

6月24日生まれwiki情報なし(2024/06/12 02:45時点)

高畑 裕太(たかはた ゆうた)
1993年9月13日生まれの有名人 東京出身

高畑 裕太(たかはた ゆうた、1993年9月13日 - )は、日本の俳優、ダンサー、元タレント。東京都出身。桐朋学園芸術短期大学卒業。劇団「ハイワイヤ」主宰。女優・高畑淳子と俳優・大谷亮介の長男で、姉…

高畑空良(たかはた そら)
3月18日生まれの有名人 福島出身

高畑 空良(たかはた そら、3月18日 - )は、日本の男性声優。福島県出身。元ビーボ所属。特技はサッカー。 枕男子(雉子波瑛治) やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続(海浜高校生徒) 血液…

タカハタ秀太(たかはた ひでた)
1962年12月13日生まれの有名人 富山出身

タカハタ秀太(たかはた ひでた、1962年12月13日)は、日本の映像ディレクター、脚本家、映画監督。富山県立福野高等学校卒業、青山学院大学法学部中退。妻は藤原理恵。 学生時代、テレビ番組制作会社…

高畠 勉(たかはた つとむ)
1968年6月16日生まれの有名人 大阪出身

高畠 勉(たかはた つとむ、1968年6月16日 - )は、大阪府高槻市出身の元サッカー選手。サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。現在は中国サッカー・スーパーリーグ・武漢三鎮の監…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
高畑勲
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

FLAME 放課後プリンセス Travis Japan BABYMETAL HEADS GALETTe Da-iCE WEST. A.B.C-Z さんみゅ~ 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「高畑勲」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました