もしもし情報局 > 1952年 > 1月17日 > ミュージシャン、作曲家

坂本龍一の情報 (さかもとりゅういち)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

坂本龍一の情報(さかもとりゅういち) ミュージシャン、作曲家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

坂本 龍一さんについて調べます

■名前・氏名
坂本 龍一
(読み:さかもと りゅういち)
■職業
ミュージシャン、作曲家
■坂本龍一の誕生日・生年月日
1952年1月17日 (年齢71歳没)
辰年(たつ年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
東京出身

(昭和27年)1952年生まれの人の年齢早見表

坂本龍一と同じ1952年生まれの有名人・芸能人

坂本龍一と同じ1月17日生まれの有名人・芸能人

坂本龍一と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


坂本龍一と関係のある人

渡辺香津美: 1979年には坂本龍一、矢野顕子、村上秀一らと「KYLYN BAND(キリンバンド)」を結成。この模様はYMOの3枚目のアルバム『パブリック・プレッシャー(公的抑圧)』で発表されるが、渡辺のギター・チャンネルは、当時彼が所属していた日本コロムビアの意向でカットされることとなり、代わりに坂本龍一のシンセサイザーが追加録音された(渡辺のギターは後年リリースの『フェイカー・ホリック』などに収録された)。


山崎春美: 坂本龍一(作曲、ピアノ、シンセサイザー)


浜口茂外也: 『サマー・ナーヴス』(1979年、坂本龍一&カクトウギセッション名義)


鈴木慶一: 作詞:鈴木慶一、作曲・編曲:坂本龍一


村上龍: 『モニカ-音楽家の夢・小説家の物語』(1996年、新潮社)坂本龍一との共著 のち文庫 


新井大樹: 2003年 ヤマハ運営「プレイヤーズ王国」のxmasコンテスト2003リミックス部門で坂本龍一の「Merry Christmas, Mr. Lawrence」をリミックスし優秀賞を受賞。


山崎春美: 1983年、坂本龍一、遠藤ミチロウ、町田町蔵、工藤冬里、上野耕路、宮沢正一、NON、川島バナナなど多彩なミュージシャンと山崎の歌詞とのコラボレーションによる1st.アルバム『タコ』 を発表。


小野誠彦: 東京都美術館にて「Silence Spins」を坂本龍一、高谷史郎との共作で出展。


安井かずみ: 坂本龍一&カクトウギセッション


筑紫哲也: 「きっと、筑紫さんにとって僕は、坂本龍一というよりは、「坂本一亀の息子」だったんでしょう。ある意味で、僕にとって父親のような存在でした」(坂本龍一


佐野元春: 2001年3月、坂本龍一の呼びかけの元、地雷廃絶を訴えるキャンペーンに参加し、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。


上野耕路: その他、映画『ウンタマギルー』のサウンドトラック、『子猫物語』『王立宇宙軍 オネアミスの翼』『ラストエンペラー』などの坂本龍一の映画音楽プロジェクトへの参加、TVアニメ『ファンタジックチルドレン』の音楽も担当。


大貫妙子: Everlasting Love(作詞(作曲・編曲:坂本龍一))


野中直子: 東京都立新宿高等学校出身で、同級生には作曲家の坂本龍一、元衆議院議員(自民党所属、元厚生労働大臣・元官房長官)の塩崎恭久、ニッポン放送アナウンサーの那須恵理子、写真家の馬場憲治がいる。


大貫妙子: ピーターラビットとわたし(作詞・作曲:大貫妙子、編曲:坂本龍一)『ピーターラビットとなかまたち』主題歌


浦山一悟: アルバム収録楽曲「風追い人」にゲストミュージシャンとして坂本龍一が参加。


富岡多恵子: 1976年(昭和51年)、坂本龍一作曲によりアルバム「物語のようにふるさとは遠い」を発表している。


大島渚: 訃報を受けて坂本龍一や岩井俊二、松尾貴史などが自らのTwitterで大島への追悼の辞を発した。


岡田有希子: 坂本龍一「Ballet Mécanique」 - 作詞:矢野顕子、翻訳:ピーター・バラカン。


カール北川: 坂本龍一


小野誠彦: 坂本龍一 「Esperanto」(1985年作品、2015年版のリマスタリングを担当)


藤原真理: その活動はクラシック音楽にとどまらず多岐にわたって国内外で演奏を行い、久石譲作品への参加、親交の厚い坂本龍一とたびたび共演をしている。


かの香織: ベルカントを用いイタリアオペラと現代ポップスを融合させた斬新な音楽性で、当時イタリアの未来派などに傾倒していた坂本龍一をはじめ業界内で絶賛されるが1986年に発展的に活動を休止する。


ク=ヘソン: 2009年「タンゴ」:坂本龍一のアルバム『スムーチー』収録の楽曲「タンゴ」を聴いてインスピレーションを受けて執筆した。


金原まさ子: 後年、映画『戦場のメリークリスマス』で坂本龍一のファンになり影響を受けるとともに、男性同士の耽美的世界にめざめる。


小林武史: 2001年に桜井和寿、田原健一とACID TESTとして活動したことがきっかけとなり、2003年に櫻井、坂本龍一らと共に環境プロジェクトへの非営利融資機関「ap bank」を設立。


坂本美雨: 父である坂本龍一にとっては初孫。


見岳章: 坂本龍一


窪田晴男: 並行して、S-KEN&ホットボンボンズで活動する他、坂本龍一、EPO、矢野顕子らのレコーディング、ライブツアーに参加。


村上龍: モニカ(2011年、G2010) 坂本龍一との共著


坂本龍一の情報まとめ

もしもしロボ

坂本 龍一(さかもと りゅういち)さんの誕生日は1952年1月17日です。東京出身のミュージシャン、作曲家のようです。

もしもしロボ

生涯、人物などについてまとめました。映画、テレビ、兄弟、卒業、趣味、結婚、解散、離婚、事故、現在、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。71歳で亡くなられているようです。

坂本龍一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

坂本 龍一 (さかもと りゅういち、英語: Ryūichi Sakamoto、1952年〈昭和27年〉1月17日 - 2023年〈令和5年〉3月28日)は、日本の作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽プロデューサー。東京都出身。

音楽性は幅広く、クラシック音楽が根幹にあり、民俗音楽、ポピュラー音楽(特にテクノポップ)にも造詣が深かった。1987年には日本人で唯一アカデミー作曲賞を受賞しており、映画音楽でも世界的に評価されている。愛称は「教授」。晩年は環境や憲法に関する運動にも積極的に参加していた。1990年代中盤にはインターネットの普及に先んじて逸早くライブや作品に取り入れるなど、新技術にも興味を示していた。

幼いころから母方叔父の持っているレコードを聴いて音楽への興味を募らせつつ成長した。田園風景の濃厚に残る世田谷区で小中学生時代を過ごし、当時学力上位校の一つであった東京都立新宿高等学校に進学する。新宿は当時の日本のサブカルチャーの中心地であり、映画と音楽を中心に様々な店に出入りしては文化的素養を吸収していった。東京芸術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始した。1970年代後半よりソロやKYLYNバンドのメンバーとして活動する一方、メンバーとして参加した音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」が国内外で商業的成功を収め、人気ミュージシャンとなった。同時に山下達郎や大貫妙子などの同世代の音楽家とも知り合い、共同作業を行った。

YMO時代にテクノポップやニュー・ウェイヴの分野で活動したことは広く知られているが、その後は一つのところに留まらず、現代音楽の手法を使った作品の発表、ロックとテクノの融合、ワールドミュージック、ヒップホップやR&Bなどのブラックミュージックを織り交ぜたポップス、オペラの作曲およびプロデュース、クラシックやボサノヴァのユニットを結成してのワールドツアー、晩年はアンビエントやエレクトロニカの作品を発表するなど、ジャンルを横断して多彩な作品を発表した。前衛的で先進的なイメージを残しながら、大衆に理解され得る親しみ易さを持った作品として仕上げる手腕に卓越したものを持っていた。

自身の音楽活動のほか、プロデューサーやアレンジャーとしても活動し、他のアーティストへの楽曲提供も数多く行っている。俳優として出演した大島渚の監督映画『戦場のメリークリスマス』で映画音楽も手掛け、日本人初の英国アカデミー賞 作曲賞を受賞した。1987年公開の『ラストエンペラー』では日本人初のアカデミー作曲賞を受賞し、同曲でゴールデングローブ賞 作曲賞、1989年第31回グラミー賞最優秀オリジナル映画音楽アルバム賞など世界的な音楽賞を総なめした。1990年、映画『シェルタリング・スカイ』のサウンドトラックを担当しロサンゼルス映画批評家協会賞の作曲賞、1991年にゴールデングローブ賞 作曲賞を受賞した。以降、国内外の映画音楽を手掛け、映画音楽家としての地位を築いた。

1990年代前半は打ち込み系ポップスの作品を多数リリースし、1995年11月30日には『三菱電機 スーパーセレクション 坂本龍一 TOUR '95 D&L with Daizaburo Harada』というライブを開催し、日本初のインターネット配信も行った。インターネット配信自体は既に1994年11月にローリング・ストーンズが行っていたが、インターネットの商業利用化が1995年に完了した直後という時代に、世界でも数例しか行われていない中での極めて先進的な試みであった。同時に、原田大三郎によるステージ上での映像のリアルタイムコントロールも、後のVJの先駆けであった。

1990年代後半はアコースティック作品を中心に制作し、その中でも1999年に三共『リゲインEB錠』のCM曲であった『energy flow』が癒し系楽曲として絶大な人気を得て、同曲を収録した『ウラBTTB』がミリオンセラーを達成した。以降のスタジオ作品は2000年代を通して、アコースティック感のある脱構築的な作風に移行して行った(2009年の『Out of Noise』など)。同時に、スタジオ・アルバムのリリースは大きく減少した。

音楽家としての活動のほかに、いくつかの映画や映像作品には俳優としての出演歴がある。テレビCMにも多く出演しており、ときには、ダウンタウンなどとお笑い番組やバラエティ番組に出演することもあった。

近年は各メディアで環境問題や憲法をはじめとした諸問題に関する運動に積極的に参加・言及しており、2000年代半ばに話題になったPSE問題においても、坂本が中心人物として反対運動を行った。「エコ」や「ロハス」といったキーワードを口にすることが多く、マクロビオティックの実践者でもある。2008年6月5日の「世界環境デー」には、CD製造時の二酸化炭素排出への対策としてcommmonsレーベルから新たに発売する全てのCDをカーボンオフセット対応とすることも発表した(最新作まで継続中)。長年喫煙者であったが、針治療を通じて禁煙に成功した。一時期はベジタリアンでもあったが、これは「人としての闘争本能がなくなりそうだから」という理由で後に中止している。2008年の9月には作家村上龍との対談で、現代の「夢があるということは素晴らしい、だから君も夢を持て」という風潮に疑問を抱いている発言をしている。

無類の猫好きである。一人っ子だった坂本が生まれたときから15歳の時まで一緒に住んでいた猫と兄弟のように生活していたことが影響している。若い頃は自分の見た目に無頓着で、アルバム「千のナイフ」のジャケット写真を見た当時の音楽仲間が「あの汚い坂本が」と驚愕したほどだった。このような坂本がファッションセンスを得るに至ったのは、高橋幸宏の指導によるものである。

坂本は手塚治虫の漫画が好きだと公言しており、特にお気に入りの作品は『火の鳥』と『ブッダ』だという。手塚漫画の女性や動物は滑らかな曲線で描かれており、そこに音楽性と美しさを感じると度々語っている。坂本は手塚るみ子プロデュースの「手塚治虫 その愛した音楽」というCD(内容は手塚が漫画の執筆中に聴いていた音楽を収録したもの)の仕事もしている。手塚プロダクションの「さよならティラノ」というアニメの音楽も担当している。

スピーカーの付帯音を極限まで抑えて原音をそのまま再生するムジーク(musikelectronic geithain)のモニタースピーカーを愛用していた。

愛称は「教授」「世界のサカモト」。

生涯

生い立ち

1952年、東京都中野区に生まれた。父は河出書房の編集者で、三島由紀夫や野間宏、中上健次、高橋和巳などを担当した坂本一亀。母・敬子は実業家・下村彌一の娘にあたり、帽子デザイナーで銀座の宝石商に勤務。

通っていた幼稚園が「全員ピアノを習う」所であったため、3歳からピアノを習い始める。自由学園幼児生活団に準じた世田谷幼児生活団において作った「うさぎのうた」が最初の作曲。

6歳ごろまで住んでいた中野の家には、ピアノやレコードプレーヤーがなかった。近所に住む祖父の家には、当時まだ学生だった叔父のピアノがあり、その上にレコードプレイヤーがあった。ピアノによじ上ってレコードを聴いたのが、坂本の最初の音楽の記憶である。

10歳で東京芸術大学教授の松本民之助に師事し作曲を学び始める。なお、作曲を勉強し始めて最初に興味を持った作曲家はストラヴィンスキーであった。この頃は特にピアノが好きではなく、むしろ苦痛だったという。14歳の頃、ドビュッシーの音楽と出会い、そこから多大な影響を受けた。自分はドビュッシーの生まれ変わりに違いないと半分信じて、サインの練習まで始めた。人生で最も影響を受けた音楽家は、ドビュッシーとバッハである。

小学2年の時に、東京都世田谷区給田(千歳烏山)に転居。世田谷区立祖師谷小学校から世田谷区立千歳中学校を経て、1970年に東京都立新宿高等学校を卒業。同級生には塩崎恭久、馬場憲治、那須恵理子、野中直子がいる。千歳中学校ではバスケットボール部に所属した。新宿高校時代には読書が趣味で、常に学校図書館の貸出ランキング10位以内に入っていた。風月堂などにたむろするフーテンたちに影響を受け、ジャズを聞くようになり、自分でも演奏するようになった。ロックも好きであったが、フォークは大嫌いであった。学生運動にものめり込み、塩崎や馬場はこの時の闘争仲間でもある。

1970年東京芸術大学入学。大学在学中、民族音楽学研究の泰斗小泉文夫の講義を受け、その内容の深さに坂本はそれまで培ってきた音楽観の根底を揺さぶられるような大きな衝撃を受けたという。さまざまに変遷してきたと見られる坂本の作風であるが、そのベースには、小泉から学び得た民族音楽学の知識や思想が確かにあるようである。ただし小泉自身は作曲をしなかったので、坂本に作曲技法上の影響を与えたというわけではなかった。坂本は、大学在学中、一年ほど作曲家三善晃にも学んでいる(ただし一度直接指導を受けただけ、と坂本は発言している。しかも、三善から「理論的すぎる」の如き指摘を受けたとも)。さらには、渋谷で開かれていた高橋悠治の勉強会にも高校・大学を通して顔を出していた。坂本が電子音楽に出会ったのは大学学部在学中のことである。

学生時代には教職課程も履修しており、母校へ音楽教員になるための教育実習に行ったこともあったが、生来の気質から学校組織の一員として務めることには向いていないと早々に諦めている。

1974年東京芸術大学の音楽学部作曲科を卒業し、同大学院音楽研究科修士課程に進む。1977年修了。修士論文は「坂本龍一 Year Book 1971-1979」のDISC 2にも収録されている管弦楽作品「反復と旋」。

デビュー

1975年、大学院在学中に新宿ゴールデン街で意気投合したという友部正人の『誰もぼくの絵を描けないだろう』にピアノで参加。スタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。翌1976年、竹田賢一と「学習団」を組織し、竹田のプロデュースの下、はじめてのアルバム『ディスアポイントメント-ハテルマ』(土取利行とのコラボレーション)を発表。以降、りりィのバックバンド(バイバイセッションバンド)に所属した後、当時のりりィのマネージャー(現:株式会社365代表)が細野晴臣のマネージャーに坂本を紹介、YMO結成の足がかりとなる。初期の山下達郎の楽曲(「2000トンの雨」「パレード」など)、大瀧詠一、山下達郎、伊藤銀次のアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』などにキーボードとして参加。大貫妙子のLP『SUNSHOWER』『MIGNONNE』『ROMANTIQUE』などにアレンジャー、プロデューサーとして参加。

1978年2月、細野晴臣のアルバム『はらいそ』に参加。細野の誘いにより、高橋幸宏とともに「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO) を結成、活動を開始する。10月、坂本初のソロアルバム『千のナイフ』をリリースし、ソロ・デビューも果たす。11月、YMO名義の『イエロー・マジック・オーケストラ』を発売、続く『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』で爆発的人気を博す。この年、風の旅団の前身となるテント劇団「曲馬館」の音楽にも参加した。翌1979年にはYMOと並行する形で渡辺香津美、矢野顕子、小原礼、村上秀一、本多俊之らとセッションユニットKYLYNや、ほぼ同じメンバーで、各パート二人ずつで演奏技術を競わせるというコンセプトのカクトウギセッションでの活動を行う。一部の楽曲で第二ピアノを演奏した高橋悠治のLP『新ウィーン楽派ピアノ音楽集成』が発表された(後に『新ウィーン楽派ピアノ作品集』としてCD化。参加楽曲シェーンベルク「四手のための六つの小品」は坂本のアルバム『フェイヴァリット・ヴィジョンズ』にも収録されている)。同年から1980年にかけて、YMOは2度にわたるワールドツアーを実施。

1979年12月、アレンジを手掛けたサーカスのシングル「アメリカン・フィーリング」で、日本レコード大賞編曲賞を受賞する。

YMOのライブを期待していた観客から野次られると「うるさいぞ、この野郎!」と怒鳴り返した等のエピソードもある。この頃、立花ハジメ、沢村満、鈴木さえ子らと「B-2UNITS」という名前のユニットを結成、ライブ活動を散発的に行っている。1982年には、RCサクセションの忌野清志郎と組んでシングル『い・け・な・いルージュマジック』をリリース。資生堂'82春のキャンペーンソングとしてヒットする。TVでは、どぎつい化粧をした男同士でキスをするなど、過激なパフォーマンスを展開した。この年、矢野顕子と結婚

YMOとしての活動の傍ら、1981年よりNHK-FMにて「サウンドストリート」のパーソナリティを務める。担当していた火曜日ではアマチュアミュージシャンから送られるテープを番組内で放送する「デモテープ特集」が不定期に行われていた。パンクバンドTACO(タコ)のオムニバスにはな・い・し・ょのエンペラーマジックで参加。同曲をサウンドストリートで放送したが、放送禁止用語が含まれていたためにすぐにオンエア中止になった。メジャーシーンの活動と並行して、TACO以外にもアンダーグラウンドロックシーンとは交流があり、自主レーベルである、パス・レコードでフリクション、Phewのプロデュースを行っている。

1983年公開の映画『戦場のメリークリスマス』には、大島渚監督の依頼により、ヨノイ大尉役で出演し、デヴィッド・ボウイ、ビートたけしと共演。出演の条件として音楽を担当した。同作は第36回カンヌ国際映画祭に出品され、結果は無冠だったものの、坂本の音楽は高く評価され、英国アカデミー賞 作曲賞を日本人として初めて受賞した。同作品のサウンドトラックからシングルカットされたデヴィッド・シルヴィアンとのシングル「Forbidden Colours(禁じられた色彩)」は、全英チャート(Music Week)16位を記録した。同年、YMOは「散開」(解散)する。

YMO解散

1984年、矢野顕子らと「MIDIレコード」を設立し、同レコード内にレーベル「school」を立ち上げる。1986年には初のソロ・コンサート「メディア・バーン」を全国24カ所(28公演)で行う。ツアー終了後、YMO以来所属していた「ヨロシタ・ミュージック」から独立し個人事務所「トラフィコ」を設立。

翌1987年、映画『ラストエンペラー』公開。坂本は甘粕正彦満映理事長役で俳優として出演し、音楽をデイヴィッド・バーン、蘇聡とともに担当。これによりグラミー賞 映画テレビサウンドトラック部門、ゴールデングローブ賞 作曲賞、アカデミー作曲賞等を日本人として初めて受賞し、以後、映画音楽作家としての地位を確立する。溥儀役のジョン・ローンとは、敵役同士という間柄の役作りのために、撮影中は一言も口を利かなかったという。

1989年、都民文化栄誉章を受章。海外戦略のためヴァージン・レコードに移籍するが、セールス的な成功を収めることはなかった。後にEMIのヴァージン・レコード買収により契約を主導したヴァージン・アメリカの社長の辞任に伴って契約を解消。

1990年4月からは、音楽の拠点をニューヨークに移す。別の女性と暮らし始め、男児をもうける。これが原因で、矢野顕子と翌年に別居したと報じられた。

1992年にはバルセロナオリンピック開会式のマスゲームの音楽を作曲(坂本のスケッチに基づく管弦楽編曲は作曲家の鈴木行一が担当)、自らも会場でオーケストラを指揮した。この依頼の当初「ナショナリズムを高揚させるスポーツイベントは嫌い」と一度は断ったが、プロデューサーPepo Solなど制作側から熱心なオファーがあり最終的には引き受けることになる。契約金は他の出演者とともに1ドルであった。このときの楽曲は後に「El Mar Mediterrani」として発表された。

1993年、YMO「再生」(再結成)。アルバム『テクノドン』を発表し、6月には東京ドームにて2日間のライブを行う。

1994年には契約地域を分割し、日本ではフォーライフ・レコードに移籍し、レーベル「güt(グート)」を設立。日本国内での活動を活発にした。日本以外の海外地域ではエレクトラと契約。個人レーベル「グート」の第一弾作品・アルバム『スウィート・リヴェンジ』を6月に発売する。

1995年、ダウンタウンの変名音楽ユニット「GEISHA GIRLS」に富家哲、テイ・トウワらと参加。以降、彼らとの親交を深め「ダウンタウンのごっつええ感じ」ではコント「アホアホマン」に出演、大便のシミを付けたパンツで登場するなどアホアホブラザー役でエキセントリックな一面を見せた。

ワーナーへの移籍

1998年、エレクトラとの契約を解消し海外地域ではSONY CLASSICALと契約、日本ではワーナーミュージック・ジャパンに移籍。

1999年、製薬会社三共(現:第一三共ヘルスケア)リゲインのCMに用いられたピアノソロ曲「エナジー・フロー」を収録したマキシシングル「ウラBTTB」がミリオンセラーとなり、インストゥルメンタルとしては初のオリコンチャート1位を記録した。自身初となるオペラ『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』(以下、LIFE)を公演。この頃には矢野顕子との夫婦仲は実質的に破綻していたとされ、テレビ番組「おしゃれカンケイ」において愛人(ニューヨークで行動を共にしているマネージャー)とその女性との間にいる子供(次男)の存在を認め、長男(矢野の連れ子)と坂本美雨に「お父さんにはお母さん(矢野顕子)以外に好きな人がいる」と告げたというエピソードも披露している。「子供は4人」と語り、矢野顕子との結婚前に学生結婚していた女性との間にも子供(長女)がいることも明かしている。さらに同番組では、「外国人が持つ日本コンプレックスをくすぐる、嫌いなアーティスト」として喜多郎とCHAGE and ASKAを名前を伏せた形で挙げた。

2001年、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。同番組の企画において、親交のある国内外のアーティスト達を起用し、地雷除去のためのチャリティーソング「ZERO LANDMINE」を作曲、リリースした。同年にはボサノヴァトリオ「Morelenbaum2/Sakamoto」を結成し、アルバム『Casa』を発表。このトリオとしての活動、および坂本がこれまで自身の音楽にボサノヴァを取り入れてきたことなどが評価され、翌2002年、日本とブラジルの友好に寄与したとして、ブラジル政府よりリオ・ブランコ国家勲章(英語版)「カヴァレイロ位」を授与される。

2003年には、この年4月にオープンした六本木ヒルズのテーマソング「the land song-music for Artelligent City」を発表。小林武史、桜井和寿らと非営利組織「ap bank」を設立。

2006年11月6日、エイベックスと新レーベル「commmons」を共同設立。この年、矢野顕子と離婚

2007年3月10日-5月28日、高谷史郎と共に、オペラ「LIFE」をベースにしたインスタレーション作品「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」を山口情報芸術センターにて展示。3月10日にはオープニング・コンサートを行った。9月15日-11月4日、東京のNTTインターコミュニケーション・センターでも展示。9月15日には、浅田彰、中沢新一を交えてのアーティスト・トークに加え、オープニング・コンサートを行った。この年は細野晴臣と高橋幸宏との活動が活発になる。2月にキリンラガービールのCMにYMOとして出演。同時に「RYDEEN 79/07」をリリース。5月19日には「ヒューマン・オーディオ・スポンジ」(HAS)としてチャリティーライブを行う。さらに7月7日には「ライブ・アース」にYMOとして出演。8月22日には「HASYMO(ハシモ)」名義で新曲「RESCUE」をリリース。

2009年7月16日、芸術家として文化の多様性を豊かにしたことなどが評価され、フランス政府から芸術文化勲章「オフィシエ」を授与された。

2010年3月12日、芸術分野での優れた業績を評価され、文化庁より芸術選奨「大衆芸能部門」の文部科学大臣賞を授与された。

2012年、東日本大震災における原発事故の後の脱原発に向けたデモ活動に対してニューヨークから駆け付けて参加する中で、「たかが電気のために命を危険に晒してはいけない」と発言して物議を醸す。この発言の全文は、原発に頼らない電力供給を呼びかけたものだった。その後、自身も呼びかけ人を務める「『さようなら原発』一千万人署名市民の会」から「音楽のイベントができないか」という相談を受けたため、脱原発をテーマにしたロック・フェスティバルである「NO NUKES」を企画してシリーズ化し、2019年までほぼ毎年開催した。

2012年11月23日、アジア太平洋映画賞国際映画製作者連盟賞を受賞。

2013年2月8日、米カリフォルニア大バークレー校日本研究センターから「バークレー日本賞」を授与された。オリエンタリズムを感じさせる作風と初期の作品に見られた現代音楽の手法を用いた斬新さ、独特の風貌と知的な発言が固有の存在感を生み、多くのファンを獲得。これまでに映画やCMにも多数出演している。同年、「第70回ヴェネツィア国際映画祭」のコンペティションの審査員を務める。

2014年、札幌国際芸術祭のゲストディレクターに就任。

闘病

2014年7月10日、所属事務所エイベックス・ミュージック・クリエイティヴから中咽頭癌であること、療養に専念するためにコンサート活動などを中止する旨が発表された。かつてはインタビューなどで度々自身の健康状態や体力に自信を表しており、コンサート等公演スケジュールを自身の健康に起因する理由でキャンセルしたことがなかった。

2015年8月2日、映画『母と暮せば』(監督・山田洋次、主演・吉永小百合、2015年12月12日公開)の音楽で仕事復帰。本作で第70回毎日映画コンクール・音楽賞を受賞。

2016年、第25回モンブラン国際文化賞を受賞。

2017年11月4日、自身のドキュメンタリー映画、『Ryuichi Sakamoto: CODA』が公開される。スティーブン・ノムラ・シブル監督によるもので、第74回ヴェネツィア国際映画祭アウト・オブ・コンペティション部門正式出品作品になった。

2018年、1月27日自身のライヴの様子を収録した映画「坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK: async」を公開。2月15日開催の「第68回ベルリン国際映画祭」で、コンペティション部門の審査員6名に選ばれる。

2021年1月21日、2020年6月にニューヨークにてがんの診断を受け、直腸がんおよび転移巣の手術を受けたことを公式サイトで発表した。手術は20時間にも及び、発表後も転移した肺の摘出手術など6度に渡る手術が行われた。音楽活動再開に向けて入院治療に専念しつつ、『新潮』2022年7月号より「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」の連載を開始した。

2022年3月26日、東京・サントリーホールで行われた東北復興支援プロジェクト『東北ユースオーケストラ演奏会2022』に登場。『東北ユースオーケストラ』は、東日本大震災を体験した小学生から大学生までの若者で構成され2016年から2019年までに公演を定期的に行っていたが、2020年以降はコロナ禍のためコンサートは中止になっていたため、坂本とともに3年ぶりの公演であり、最後の公の場での生演奏であった。坂本は新曲『いま時間が傾いて』を初演。坂本がピアノ演奏を行う中で吉永小百合による詩の朗読も行われた。

2022年6月、がんの「ステージ4」であり、両肺に転移したがん摘出手術を前年10、12月に受けたことなどを明かした。同年12月11日に配信されたピアノのソロコンサートが、最後の公の場になった。同年9月中旬に事前収録したもので、体力面を考慮し1日数曲ずつ演奏し、数日かけてコンサートに仕立てたものであった。

死去

2023年3月28日、東京都内の病院で死去した。71歳没。訃報は同年4月1日午前、共同通信の配信記事で明らかになった。また、4月2日夜、本人の公式Twitterおよび所属事務所によるリリースで公表された。所属事務所によれば「がんの治療を受けながらも、体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動をつづけ、最期まで音楽と共にある日々でした」としており、既に葬儀は近親者で執り行われている。所属事務所のコメントは、坂本が好んだ一節「Ars longa, vita brevis 芸術は長く、人生は短し」で締められた。公式Instagramアカウントでは、生没年月日と朽ちて壊れたピアノと暗闇が繰り返しフェードインする動画がトップに固定されて投稿された。

苦しい闘病の中でも、亡くなる2日前の3月26日には自身が代表・監督を務める「東北ユースオーケストラ」の演奏会をオンラインで視聴し、終演後に出演者に向けて「Superb! Bravissimo(拍手×5)素晴らしかった!! よかったです。みんなありがとう(拍手×3)お疲れ様でした♪」とのメッセージを送っていた。同年3月29日に配信された共同通信の書面インタビューでは「音楽制作も難しいほど気力・体力ともに減衰しています。残念ながら手紙を送る以上の発信や行動は難しい」と現状を明かしていたが、この記事が配信された時点で既に死去していた。

「世界のサカモト」と呼ばれた坂本の訃報は、イギリス・BBC、アメリカ・CNN、フランス・AFP通信、韓国・聯合ニュース、中国のネットメディアなどで速報で伝えられた。また、世界中の著名人のWebサイトやSNSアカウントで追悼文が公開された。

2023年4月2日、活動限界を迎える直前までコンピューターで制作し続けた「神山まるごと高等専門学校」の校歌が、未完成ながらも入学者や出席者に対して披露された。生前、坂本自身も未完成の作品の発表をためらっていたが「新入生を祝福するため」として了承していた。この校歌が生前最後の作曲となった。その後、坂本の生前の意思に基づき、網守将平が編曲を担当。同年8月10日に、完成した校歌「KAMIYAMA」が同校公式Webサイトで公開された。

2023年4月3日1時29分、たった2ヵ月の間にYMOで唯一の存命者となった細野晴臣は、高橋幸宏が亡くなった時に坂本龍一が行った追悼の方法と同じく、SNSで無地の灰色の画像を投稿して追悼した。

2023年4月14日、新宿ミラノ座の跡地に坂本龍一監修の109シネマズプレミアム新宿が開業した。館内BGMは3曲が坂本龍一作曲で、全シアターには坂本が認めた最高の音響設備のみを採用した「SAION -SR EDITION-」が導入され、一部シアターには坂本の希望で稀少な35mmフィルム映写機も導入されている。坂本にとって新宿は思い出深い地であり、1960年代後半の東京都立新宿高等学校在学中に好んで新宿中の映画館で上映作品の傾向を調べて映画を鑑賞するほどの映画マニアで、他にも「事前に調べた新宿のジャズ喫茶約30軒を1ヶ月かけて全部廻る」などして後の活動の基盤となる文化的素養を得ていたが、新宿の文化的発展を願い自身が監修した映画館に行くことは出来なかった。

同年5月17日、音楽(新曲2曲、既成曲5曲)を担当した日本映画『怪物』が第76回カンヌ国際映画祭で上映される。同作品は脚本賞とクィア・パルム賞を受賞した。

同年、第65回日本レコード大賞特別功労賞を受賞した。

2024年1月、第47回日本アカデミー賞会長特別賞と優秀音楽賞を贈賞された。

同年3月、第96回アカデミー賞の逝去した映画関係者を讃えるイン・メモリアム(In memoriam)のコーナーで追悼された。

同年4月17日、NexTone Award 2024で特別功労賞を受賞。

人物

音楽活動

坂本のピアノ曲集『Avec Piano』に寄せられた解説文の中で音楽評論家の秋山邦晴は「なかなかピアノも巧い」と評している。デビュー作『千のナイフ』では現代音楽家の高橋悠治との連弾を行っている。加藤登紀子が坂本のピアノの演奏技術に感嘆し、それを本人に伝えた際に坂本は「18歳の頃の僕はもっとすごかった」と答えたという。フランツ・リストの難曲ラ・カンパネラを藝大入学以前に、初見で弾きこなしたとも坂本本人は発言している。

音楽を担当した映画『ラストエンペラー』においてアカデミー作曲賞を受賞した際には、写真週刊誌フライデーにおいて「この賞を受賞したことよりもこれから仕事を選べるという点のみで今回の受賞は悦ばしい」と発言。活動の拠点をアメリカに移したのも「日本という小さなマーケットでCDを100万枚売るよりも、世界の10カ国からそれぞれ10万枚ずつCDを売るほうが作品のクオリティーを落とさないで済む」と雑誌『GOETHE』(幻冬舎)で述べている。

現代音楽への進出は、原田力男の推薦にもかかわらず成功しなかった。現代音楽界を狭い世界と捉え、その中で活動することを嫌ったとの本人コメントがある。社会的成功を確実にした後、神奈川県内のクラシック音楽専用のホールで個展を行い、芸大在学中に作曲した曲を中心に数作品が高橋アキ等によって演奏された。YMO散開後の1984年、『題名のない音楽会』(テレビ朝日)においてオーケストラ曲「反復と旋」が一部割愛ながらも世界初演される。この作品は芸大大学院の修士論文として提出された作品で、未発表のまま芸大に保管されていた。

学生時代にヤニス・クセナキスの作曲法を取り入れようとしたが、数学が苦手なために挫折した。太田出版から出された『坂本龍一・音楽史』に、その試行の膨大なメモが掲載されている。

坂本は国内のアンダーグラウンドシーンにも接近した。ニューヨーク帰りの東京のパンクバンドフリクションのファーストアルバムをプロデュース、関西の女性パンクボーカリストPhewのソロデビューシングルでのコラボレーション、山崎春美の音楽プロジェクトTACOへの参加などが挙げられる。しかし、TACOでの過激な楽曲提供はともかく、フリクションのアルバムはメンバー・ファン共に「ライブでの緊張感・硬質感が再現されていない」と不評を買い、Phewも「(坂本は)仕事は速いがセンスは悪い」と評判は芳しくない。

国外ではNO NEW YORKで一際存在感を放っていたアート・リンゼイとの親交が有名である。DNAの頃のアートと初めて出会ったときは一方的に敵意を向けられて満足に言葉を交わすことができなかったが、その後坂本が自身のソロアルバムへの参加をオファーした際に快諾し、以後現在まで坂本の活動に欠かせない人物となった。

J-WAVEで2004年に放送された番組『ゆく都市くる都市・新春放談』では、細野晴臣、高橋幸宏との対談で、リズム隊出身の両者に対し、坂本自身はリズムトラックの構成にコンプレックスがあると告白した。対して細野は「教授の作品を聴いて特にリズムが弱いと思ったことは無かった」と語り、少々意外な発言だったようである。

コンサートではほとんど年齢制限を設けたことがなく「0歳児でも入場可」をポリシーとしている。しかし2007年5月12日「坂本龍一プロデュース公演/ロハスクラシック・コンサート2007」の会場となったbunkamuraオーチャードホールでは、子供の泣き声が数か所から上がり、第二部開演前に坂本から「0歳児でもOKというのをポリシーにしていますが、純粋に音楽を楽しみに来ている方もおられるでしょうから、常識的なところで、例えばロビーへ行ってあやすなど臨機応変に対応をしてください」と照れながらのアナウンスがあった。

過去にアニメ監督の高畑勲監督から音楽を頼まれたことがあったが、作った音楽があまりにも暗すぎ、解雇されてしまった。

歌はうまくないと自認している。『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ)に出演した際、「君に、胸キュン。」を歌ったら浜田雅功にツッコまれてしまったほどである。坂本自身がボーカルを執った楽曲は極めて少ないが『左うでの夢』『ビューティ』『SMOOCHY』のように、あえて坂本のボーカルを前面に押し出して製作されたアルバムもある。「歌はうまさじゃなく声色、ヘタでも自己表現としては音楽の中で最高のもの」という自身の発言がある。

幅広い音楽ジャンルを分析し、自身の作品に反映しているが、カントリー・ミュージックとハワイアンだけはなじめないと発言していたが、近年どちらも聴けるようになりハワイアンに関しては「現地に行った際に大好きになった」とのこと。

「今夜はブギー・バック」リリース当時「ハマった」と言ってミュージシャン小沢健二と対談もしている。ZERO-LANDMINE企画時には日本のビジュアル系と称されるアーティストたちとも共演したり、YMOチルドレンのLUNA SEAのSUGIZOのソロ・アルバムにピアノで参加したこともある。クラシックからダウンタウンのプロデュースに至るまで、いずれもジャンルの垣根を越え音楽を聴き、解析し、プロデュースすることのできる自身の才能について「自分は音楽の鉄人だと思う。(発表されている作品には)いろいろなスタイルの音楽がありますが、全部僕のものですから、安心して下さい」と発言している。

若い頃は古典芸能や工芸などの日本の古典的文化を「戦前のナショナリズムの象徴」として否定的に考えていたが、海外移住や年齢を重ねたこともあって、近年はそれらに対しての関心が強くなり、そうした日本の古典的文化を積極的に学ぶようになったという。

思想・社会活動

東京藝術大学の1年生の頃の1970年11月25日、三島由紀夫が割腹自殺を遂げたことを知った坂本は、遺体が移された市谷近くの牛込警察署に押し掛けた。坂本によると「作家としての三島をとても尊敬していた。彼は右翼、僕は過激な左翼でしたが、右も左も過激になると似て来るところがあるのでしょうか。」という。

小室哲哉とは「クリエイティブな少数派に向けた作風」を追求する坂本と「メジャーでスターになるための方法論」を追求する小室、インターネットでのファンに対するアプローチの方針の違いからして、小室曰く「お互い中和しない関係」と称しつつも、「何をどうするかが絶対に違うけど、無いものねだりながらもお互いに無いものを求めている」「誤解されるのを承知で言えばホモセクシャルな感覚を持っていて会うと安心できる」と話している。反面小室は「芸術家であり、その方面では未だに何一つ彼との差は縮まっていない」と賛美と嫉妬を込めた発言をしていて、坂本もいち早くダウンタウンを音楽への道に引き入れる小室の発想力とバイタリティに「横取りしやがって…」と反発心を覚えていた。

1997年ごろから日本における音楽著作権の取り扱いについて、JASRACが独占して管理すること、および権利の信託が包括的にしか行えないことに対してこれを改めるようJASRACおよび文化庁に対して働きかけを行った。MAA(メディア・アーティスト・アソシエイション)設立。1999年制作のオペラ『LIFE』あたりから環境・平和問題に言及することも多くなり、地雷除去活動を支援するためのチャリティーソングとしてGLAY、Mr.Children、DREAMS COME TRUE、DJ KRUSHらを迎えて制作した『ZERO LANDMINE』やアメリカ同時多発テロ事件をきっかけとした論考集『非戦』を発表している。

2004年には音楽評論家高橋健太郎やピーター・バラカンらの呼び掛けに応じて共同声明「私たち音楽関係者は、著作権法改定による輸入CD規制に反対します」に名を連ね、国会で審議されていた音楽レコードの還流防止措置(レコード輸入権)に反対を表明した。

2006年2月には、PSE問題に絡み、松武秀樹、椎名和夫とともに2006年4月に本格的に施行される電気用品安全法(PSE法)に反対する署名を募集。経済産業省がマークなしの販売を条件付きながら認めるなど、一定の成果を得た。同年5月にはShing02、クリスチャン・フェネスらとともに青森県六ヶ所村の核再処理施設に反対し、この問題をアート作品の共有と拡散という手法を使って内外に周知するプロジェクトSTOP ROKKASHOをスタートし、河野太郎、保坂展人らの政治家、小室哲哉らのミュージシャンからも賛同を得ている。

2007年7月16日に起きた新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原子力発電所が被害を受けたことに応じて「おやすみなさい、柏崎刈羽原発」という運動を始めた。東日本大震災後も原発を批判する旨の意見を度々述べている。

2012年1月11日には、自身が代表を務める森林保全団体 more trees による被災地支援プロジェクト「LIFE311」と、サイバーエージェントのソーシャルゲームピグライフと連携する連動企画『LIFE311×ピグライフ』を期間限定(3月31日まで)で立ち上げた。なお、ピグライフに設置された特設エリアには坂本も登場している。

憲法9条の改正に強く反対しており、選択的夫婦別姓制度導入にも賛同する。

数多くのチャリティーコンサートを実施、無償での被災地の幼稚園・小・中・高校に対し、楽器関連の復興支援を行うための『こどもの音楽再生基金』、被災地支援参加型プロジェクト『kizunaworld.org』、先述の被災地支援プロジェクト『LIFE311』など、様々な側面から復興支援に尽力した。2012年5月1日、日本財団により、伊勢谷友介、EXILE、加藤登紀子、小林幸子、コロッケ、サンドウィッチマン、杉良太郎、伍代夏子、中村雅俊、はるな愛らと共に「被災地で活動した芸能人ベストサポート」に選出され、表彰されている。

2015年には、安倍晋三内閣総理大臣の進める集団自衛権や改憲について、デモにも参加するなど批判している。

2016年、沖縄における米軍属に対する「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾!被害者を追悼し海兵隊の撤退を求める県民大会」に向けて「沖縄だけに痛み、苦痛と侮辱を何十年もおしつけておくべきではない。もうたくさんだ。基地、米軍、武力が必要なら日本人の全てが等しく背負うべきだ」とのメッセージを寄せた。

自身の政治的な言動が批判されることについては「音楽家だけど、余計な口を出してしまうから。音楽家は音楽だけやっていろ、とインターネットで言われているらしいということも知っています。これは言わないと、というときだけ選んでいるつもりですけれど、発言するから偉いとも思ってません。でも音楽だけやればいいとも思わない。普通の人が口出すのが民主主義でしょ。職業に関係なく誰もが声を出せる社会じゃないとダメだと思うんです」といった考えを述べている。

最晩年となった2023年3月上旬には明治神宮外苑地区の再開発の見直しを求める手紙を、小池百合子東京都知事、永岡桂子文部科学大臣、都倉俊一文化庁長官、吉住健一新宿区長、武井雅昭港区長の5名に送り、「100年かけて守り育ててきた樹々を犠牲にすべきではない」「樹々は差別なく万人に恩恵をもたらすが、開発は一部の既得権者と富裕層だけに恩恵をもたらす」などと訴えたが、認可を出した小池百合子東京都知事から「事業者の明治神宮にも手紙を送られた方がいいじゃないでしょうか」と一蹴されている。

人柄

若い頃について坂本は「YMOで大ブレイクして、30歳代半ばまではまさに人生の絶頂期で、遅刻やすっぽかしもしょっちゅうだった。運転手が気に入らないとすぐに殴ったり蹴ったりした。今思えばとんでもないことであり、私の理不尽な暴行に耐え切れず辞めていった運転手の人たちには申し訳ないと思っている。子供の頃、体格がよかったこともあって、力ずくで意思を通すことをあまりためらわない性格に育っていた。」などと述べている。

YMO結成当初の紙面上のインタビューで、同時期に活動を開始していたP-MODELに関して坂本が吐いた発言により、当時のP-MODELファンの間で「YMO不買運動」が起こるなどの因縁が生まれた。

糸井重里との対談で坂本は「自分の生活を露出させる人は、他人に対して無遠慮だ」と非難し、「ジャージをはいてる人が嫌い。ジャージはその人の生活を完全に感じさせるものだからそんな格好して、外に出てくるな」、「学生の時に、学生食堂で一人でご飯をきちんと食べてる男の人を見ると、すごく不愉快だった」などと述べている。

2024/06/10 10:50更新

sakamoto ryuuichi


坂本龍一と同じ誕生日1月17日生まれ、同じ東京出身の人

糸居 五郎(いとい ごろう)
1921年1月17日生まれの有名人 東京出身

糸居 五郎(いとい ごろう、1921年〈大正10年〉1月17日 - 1984年〈昭和59年〉12月28日)は、日本のアナウンサー、ラジオ・ディスクジョッキー(DJ)。 日本のラジオDJの草分け的存…

琳 紗織(りん さおり)
1985年1月17日生まれの有名人 東京出身

琳 紗織(りん さおり、本名:林 紗織、1985年1月17日 - )は、ヒラタオフィス所属のタレント。身長160cm、B82 W56 H80。東京都東大和市出身。青山学院大学国際政治学部卒業。 台…

伊藤芽衣(いとう めい)
1982年1月17日生まれの有名人 東京出身

伊藤芽衣(いとう めい、Ito Mei、1982年1月17日 - )は、東京都出身の女性タレント、元グラビアアイドル。 リポーターの仕事や地域活動の公務などで活躍後、独特な声と個性豊かな世界観を生…

石黒 都記子(いしぐろ つきこ)
1972年1月17日生まれの有名人 東京出身

石黒 都記子(いしぐろ つきこ、1972年1月17日 - )は、日本の元レースクイーン、元タレント。東京都出身。 チーム「ジョンソン ニスモ」レースクイーン(1995年) トヨタチーム「トムス」レ…

三浦 光子(みうら みつこ)
1917年1月17日生まれの有名人 東京出身

三浦 光子(みうら みつこ、1917年1月17日 - 1969年6月14日)は、日本の女優。 東京市牛込出身。 牛込余丁町小学校を卒業後に三崎英語学校を経て、大妻高等女学校(現・大妻中学校・高等…

露原 千草(つゆはら ちぐさ)
1918年1月17日生まれの有名人 東京出身

露原 千草(つゆはら ちぐさ、1918年〈大正7年〉1月17日 - 2004年〈平成16年〉3月9日)は、日本の女優。東京府荏原郡大崎町(現東京都品川区大崎)出身。頌栄女子学院高等学校卒業。本名は服部…

谷 よしの(たに よしの)
1917年1月17日生まれの有名人 東京出身

谷 よしの(たに よしの、1917年1月17日 - (2006-02-04) 2006年2月4日(89歳没))は、日本の女優。数多くの映画で脇役を演じる。登場シーンは短いながら庶民的な味わいのある演…

小林 千香子(こばやし ちかこ)
1975年1月17日生まれの有名人 東京出身

小林 千香子(こばやし ちかこ、1975年1月17日 - )は、日本の元女優。身長160cm、血液型はO型。東京都台東区出身。慶應義塾大学文学部国文学専攻卒業。高校時代はチアリーディング部に在籍してい…

工藤 夕貴(くどう ゆうき)
1971年1月17日生まれの有名人 東京出身

工藤 夕貴(くどう ゆうき、1971年1月17日 - )は、日本の女優、歌手。ヒラタオフィス所属。血液型B型。堀越高等学校卒業。父は歌手の井沢八郎、実弟は元俳優で、実業家の工藤正貴。 継父はヒラタオフ…

北川 めぐみ(きたがわ めぐみ)
1946年1月17日生まれの有名人 東京出身

北川 めぐみ(きたがわ めぐみ、1946年1月17日 - )は、日本の女優。本名は北川 恵美。東京都目黒区出身。特技はバレエ、日舞、三味線、ゴルフ。 武蔵野女子学院高校卒業。 1963年に俳優座…

金子 哲也(かねこ てつや)
1970年1月17日生まれの有名人 東京出身

金子 哲也(かねこ てつや、1970年1月17日 - )は、NHKのチーフアナウンサー。 東京都出身。麻布高等学校を経て慶應義塾大学経済学部卒業後、1994年に入局。 祖父に元蕨市長金子吉衛、叔…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


坂本龍一と近い名前の人

坂本 太郎_(テレビドラマ監督)(さかもと たろう)
1939年9月20日生まれの有名人 岡山出身

坂本 太郎(さかもと たろう、1939年9月20日 - )は、特撮テレビドラマ作品の元監督・演出家である。岡山県出身。日本大学藝術学部卒業。 1964年、東映テレビプロで『廃虚の唇』より助監督とし…

坂本 太郎_(歴史学者)(さかもと たろう)
1901年10月7日生まれの有名人 静岡出身

坂本 太郎(さかもと たろう、1901年(明治34年)10月7日 - 1987年(昭和62年)2月16日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授、國學院大學名誉教授。学位は、文学博士(東京帝国大学・19…

阪本 時彦(さかもと ときひこ)
1942年9月22日生まれの有名人 東京出身

阪本 時彦(さかもと ときひこ、1942年〈昭和17年〉9月22日 - 2020年〈令和2年〉)は、元毎日放送アナウンサー・フリーアナウンサー。愛称は「時さん」。 東京都台東区出身。1965年に日…

坂本 朝一(さかもと ともかず)
1917年3月28日生まれの有名人 東京出身

坂本 朝一(さかもと ともかず、1917年3月28日 - 2003年12月31日)は、日本の放送人。第12代日本放送協会(NHK)会長。「朝の連続テレビ小説」の生みの親として知られる。 東京都千代…

坂本 結菜(さかもと ゆな)
2004年4月8日生まれの有名人 神奈川出身

坂本 結菜(さかもと ゆな、2004年4月8日 - )は慶應義塾大学に在学する日本の女子大生タレント。 母親に勧められてフジコーズ2期生募集オーディションに締切1時間前で応募。見事合格し、2023…

坂本 コウルド(さかもと こうるど)
1985年7月1日生まれの有名人 東京出身

坂本 コウルド(さかもと コウルド、1985年7月1日 - )は、日本の俳優、モデルである。占い師としても活動。東京都出身。血液型はA型。かつては麗タレントプロモーションに所属していたが現在はフリーで…

阪本 一樹(さかもと いつき)
1998年5月6日生まれの有名人 兵庫出身

阪本 一樹(さかもと いつき、1998年5月6日 - )は、日本の元俳優。2020年までホリプロに所属していた。 小田学が監督する初長編作品『サイモン&タダタカシ』(2018年)で、須賀健太と共に主…

阪本 麻美(さかもと まみ)
1983年9月6日生まれの有名人 兵庫出身

阪本 麻美(さかもと まみ、1983年9月6日 - )は、日本のタレント、元グラビアアイドル。元所属事務所はJMO。 兵庫県出身。 中学生の時は3年間、バスケットボールをしていた。 芸映に所属。 …

坂本 スミ子(さかもと すみこ)
1936年11月25日生まれの有名人 大阪出身

坂本 スミ子(さかもと スミこ、本名:石井 寿美子、旧姓:坂本、1936年〈昭和11年〉11月25日 - 2021年〈令和3年〉1月23日)は、ラテン・歌謡曲の歌手、俳優。愛称は「おスミ(さん)」。異…

坂本 將貴(さかもと まさたか)
1978年2月24日生まれの有名人 埼玉出身

坂本 將貴(さかもと まさたか、1978年2月24日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市緑区)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 名前は「将貴」…

坂本 紘司(さかもと こうじ)
1978年12月3日生まれの有名人 滋賀出身

坂本 紘司(さかもと こうじ、1978年12月3日 - )は日本の元プロサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー、フォワード。湘南ベルマーレ代表取締役GM。 静岡学園高校三年生の秋、高校選手権…

坂本 咲子(さかもと さきこ)
1963年11月12日生まれの有名人 東京出身

坂本 咲子(さかもと さきこ、1963年11月12日 - )は、女性フリーアナウンサー。東京都武蔵野市出身。 1986年 共立女子大学文芸学部卒業後、札幌テレビ放送入社。 1995年 札幌テレビ放…

坂本 三佳(さかもと みか)
1980年9月13日生まれの有名人 神奈川出身

坂本 三佳(さかもと みか、1980年9月13日 - )は、日本の女優、タレント。所属事務所は青柳肇事務所→オフィスコバック。神奈川県出身。玉川学園高等部卒業。 1980年09月13日、誕生。 …

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
坂本龍一
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手) 石山順征

グループ

私立恵比寿中学 Rev.from DVL CheekyParade DA PUMP 夢みるアドレセンス KAT-TUN 純烈 AeLL. アリス十番 AKB48G 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「坂本龍一」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました