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中上健次の情報 (なかがみけんじ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

中上健次の情報(なかがみけんじ) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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中上 健次さんについて調べます

■名前・氏名
中上 健次
(読み:なかがみ けんじ)
■職業
作家
■中上健次の誕生日・生年月日
1946年8月2日 (年齢77歳)
戌年(いぬ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
和歌山出身

(昭和21年)1946年生まれの人の年齢早見表

中上健次と同じ1946年生まれの有名人・芸能人

中上健次と同じ8月2日生まれの有名人・芸能人

中上健次と同じ出身地和歌山県生まれの有名人・芸能人


中上健次と関係のある人

角川春樹: 中上健次は『信長の首』について、従来の俳句の「四畳半的な、せまい世界」をぶち壊したと評し、散文家としてショックを受けたと語る。


柄谷行人: 野球をプレイするのも好きで、80年代、蓮實重彦、中上健次らと「カレキナダ」という草野球チームを作っていたことがある。


松浦理英子: 1988年、「ナチュラル・ウーマン」が中上健次の特別推薦で三島由紀夫賞の候補に。


川村湊: 1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表。


柄谷行人: 1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、中上健次、津島佑子、田中康夫、高瀬幸途らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。


島田雅彦: 1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。


柳町光男: この第1作を戦後生まれで初の芥川賞作家である中上健次が評価したことがきっかけとなり、『十九歳の地図』(中上健次の第69回芥川賞候補作)を映画化し、1979年に劇映画デビューすることになる。


リービ英雄: 小説を書き始めたのは、中上健次の示唆がきっかけだった。


紀和鏡: ^ 新宮市観光協会 - 中上健次と熊野大学


紀和鏡: 中上健次


高橋源一郎: 1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らと共に『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。


長谷川和彦: 1975年、長谷川の噂を聞きつけたATGの多賀祥介に話を持ちかけられ、中上健次原作『蛇淫』を脚色した『青春の殺人者』により翌1976年監督デビュー。


坂元裕二: 高校時代、映画では相米慎二監督作品、小説では中上健次作品を軸に色々な監督や作家の作品を見たり読んだりしていた。


松浦理英子: 1987年、レズビアンを描いた『ナチュラル・ウーマン』が中上健次の絶賛を受け注目される。


原田芳雄: 中上健次『日輪の翼』を、原田芳雄監督で映画化する計画があった。1992年の中上健次の死で頓挫を余儀なくされたものの、その後も原田芳雄は映画化を諦めず、2008年当時のインタビューでは「今は迂回しながら怠け心に鞭打っているところです。


阿部和重: 見解や嗜好性から行動原理にいたるまで、相違点は多々あったものの、創作上の志向面でおおきくかさなる部分があり、新人時代よりたがいを意識せざるをえなかった気がする――少なくとも、わたし自身はそうだった」 「「中上健次以後」をいかに実践するかというまことに重大な課題だ」「青山さんの北九州三部作とわたしの神町三部作は、その課題への回答として世に送りだされている」と語った。


上原善広: 中上健次に倣って被差別部落を「路地」と呼んでいる。


小浜清志: 中上健次と知り合い、師事。


佐木隆三: 1971年(昭和46年)、のちに野坂昭如、中上健次らが足しげく通った新宿ゴールデン街の文壇バー「花の木」の名物ママとなる広田和子と離婚、沖縄へ引っ越して2度目の結婚。


津島佑子: 1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、中上健次、田中康夫らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。


ガブリエル=ガルシア=マルケス: 特に『百年の孤独』は、大江健三郎や筒井康隆、池澤夏樹、寺山修司、中上健次など多くの作家に影響を与えた。


いとうせいこう: いとうは、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』の発起人に名を連ね、『ビッグコミックスピリッツ』で読者参加型の緊急連載『戦争と平和』を立ち上げ、さらに「自宅闘争」と銘打ったファックスによる反戦活動も始めた。


柄谷行人: また中上健次とは、デビュー前から友人であり、その作品の終生における同伴者となる。中上の死の時には弔辞も読んでおり、追悼文で「「天才」という言葉を、私は中上健次にだけは使いたい」と述べている。


鈴木邦男: かつてテレビ番組で中上健次に「この人はいつも評論家みたいに言う」と批判もされている。


宇多喜代子: さらに『夏月集』では作家中上健次および熊野との出会いから句風に転換が起こった。


中上紀: 中上健次


友川かずき: また、小説家の中上健次は友人であり、友川の絵画を高く評価していた。


加橋かつみ: 1979年8月にはにっかつ映画『十八歳、海へ』(監督・藤田敏八、原作・中上健次)の主題歌、翌1980年にはNHKアニメ『ニルスのふしぎな旅』(原作・セルマ・ラーゲルリョーブ)の主題歌のシングルを発表。


岳真也: 1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。


柳町光男: 以降、『さらば愛しき大地』(1982年、根津甚八・秋吉久美子主演)、『火まつり』(1985年、脚本 中上健次)などで各方面から高い評価を受ける。


中上健次の情報まとめ

もしもしロボ

中上 健次(なかがみ けんじ)さんの誕生日は1946年8月2日です。和歌山出身の作家のようです。

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人物・エピソード、略年譜などについてまとめました。卒業、結婚、事件、現在、映画、家族に関する情報もありますね。去年の情報もありました。中上健次の現在の年齢は77歳のようです。

中上健次のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

中上 健次(なかがみ けんじ、1946年〈昭和21年〉8月2日 - 1992年〈平成4年〉8月12日)は、日本の小説家。妻は作家の紀和鏡、長女は作家の中上紀。

和歌山県新宮市生まれ。和歌山県立新宮高等学校卒業。新宿でのフーテン生活の後、羽田空港などで肉体労働に従事しながら作家修行をする。1976年『岬』で第74回芥川賞を受賞、戦後生まれで初めての芥川賞作家となった。

紀伊半島(紀伊)を舞台にした数々の小説を描き、ひとつの血族と「路地」(中上は被差別部落の出身で、自らの生まれた部落を「路地」と名付けた)のなかの共同体を中心にした「紀州熊野サーガ」とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。

主要作品に『枯木灘』(毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞)『千年の愉楽』『地の果て 至上の時』『奇蹟』などがある。

1992年、腎臓癌の悪化により46歳の若さで死去した。

和歌山県新宮市で父、鈴木留造(とめぞう)と母、木下ちさと(千里)との間に私生児として生まれた。ちさとは、健次を妊娠中に、ある女性から、留造には他に女が二人いてそのうちの一人は妊娠しているという事実を知らされる。ちさとは留造と別れて一人で健次を産んだ。留造はこの女性と結婚し、この女性は健次の異母弟を産む。留造はこの女性との間にさらに二児をもうけた。

ちさとには死別した前夫の木下勝太郎との間に既に四人の子供がおり、留造と別れたあとは女手一つで行商をしながら子供たちを育てる。1953年、ちさとは、後に健次の義兄となる男児と二人で暮らす中上(なかうえ)七郎と出会い、まだ7歳と幼かった末子の健次だけを連れて同居、四人での生活をはじめた。七郎はこの頃は日雇いの土木作業員であったが、のちに土建請負業者になる。

1953年、新宮市立千穂小学校に入学する。1959年、小学六年生の終わり頃、12歳年上の異父兄・木下行平(いくへい)が24歳で、アルコール中毒の果てに縊死するという事件が起こる。行平は、ちさとと健次が中上七郎と暮らすために引っ越した後、もとの家に一人残され、鶏を飼いながら孤独に暮らしていた。見捨てられたと感じていた行平は、酒に酔っては斧を手にして、健次たちの家に何度もどなり込んできたという。行平の自殺は健次の大きなトラウマとなった。

1962年、中学校卒業の直前、ちさとと健次は、七郎のもとに入籍する。同年、和歌山県立新宮高等学校に入学する。マルキ・ド・サド、ルイ=フェルディナン・セリーヌ、ジャン・ジュネなどを読む。また、当時新進作家だった大江健三郎や石原慎太郎などの日本人作家の作品も読んでいる。

1965年、早稲田大学受験の名目で同級生とともに上京するが、実際に大学受験をしたかどうかは定かではない。その後入学した早稲田予備校には三ヶ月も通っておらず、仕送りを受けながら、仕事もせずに、新宿あたりをうろつくといった生活をしていた。当時盛んだったフリージャズを中心とするモダンジャズにのめりこみ、ジャズ喫茶のジャズビレッジ やビレッジバンガードに入り浸った。

1965年の秋、原稿を投稿するために月会費を払い込んで同人誌『文藝首都』の会員となる。翌年、投稿した『俺十八歳』が掲載される。その後、同誌の同人となりエッセイ、創作を同誌に発表していく。この頃は、盛んに詩作をしており『文藝首都』『詩学』『文學界』などへ詩を発表している。また『文藝首都』を通じて、後に妻となる山口かすみ や津島佑子と知り合っている。

1967年頃には新左翼運動に関わっている。偽学生として早稲田大学でブント系の組織と接触して羽田闘争に参加している。1968年、『三田文学』誌を通じて柄谷行人 と知り合い 、柄谷からウィリアム・フォークナー 、エリック・ホッファーなどを勧められて大きな影響を受けた。1970年、交際していたかすみの妊娠を機に結婚する。入籍時、名字の読み方をそれまでの「なかうえ」から「なかがみ」に変更する。結婚をきっかけにして、中上は肉体労働を始め、その夏から羽田空港で貨物の積み下ろし業務に従事する。

1973年『十九歳の地図』が芥川賞候補となる。これを受けて1974年から文芸誌への作品掲載が増え始める 。羽田での仕事を辞めて、その後二年間、築地魚河岸や運送会社などでフォークリフトの運転手をして生計をたてながら執筆を続ける。1975年『鳩どもの家』『浄徳寺ツアー』が続けて芥川賞候補となる。1976年、熊野の「路地」を舞台に、家業の土方仕事に従事する青年を中心とした複雑な血族の物語を描いた『岬』で第74回芥川賞を受賞する。戦後生まれで初めての受賞者であった。

1976年『岬』の続編として、自身初の長編小説で代表作となる『枯木灘』を上梓する。本作は『岬』の土着的世界に、父と子の対決という構図を前面に出してオイディプス的な神話的相貌を与え、また雑賀孫一伝説を取り入れ歴史的な重層性を持たせることで、格段にスケールを大きくした作品で、高い評価を獲得した。同作品で毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞を受賞する。1977年、紀伊半島全域を旅して巡るドキュメント『紀州 木の国 ・根の国物語』を『朝日ジャーナル』に連載する。この旅行は作家にとって自らの文学の背景である紀州熊野というトポスを再発見する機会であった。同年、ニューヨーク、ハーレム地区に滞在する。1978年、郷里の文化振興のため、吉本隆明 らを招いた連続公開講座を開催する。

1979年、一家でロサンゼルスへ移住する。1980年、実母をモデルにした小説で『岬』の前日譚にあたる『鳳仙花』を発表する。1981年、ソウル汝矣島に滞在し金芝河ら韓国の文学者と交流する。1982年、「淫蕩な歌舞音曲好きの澱んだ血」筋により愉楽に満ちた生を送り、一方で引き換えに早死にも宿命づけられた、高貴な血を引く若者たちの短い生涯を描いた短編連作『千年の愉楽』 を発表する。代表作の一つとされる。同年、アイオワ大学インターナショナル・ライターズ・プログラム客員研究員としてアイオワに滞在してプログラムに招聘された世界の文学者と対話する。

1983年、『岬』『枯木灘』の続編にあたる書き下ろしの大作『地の果て 至上の時』を発表する。本作と連作短編集『熊野集』(1984年)では,自身の文学的トポスである「路地」の経済開発による消滅が主題とされた。続く1984年発表の長編『日輪の翼』では「路地」の消滅後に、故郷を捨てて流浪する若者の姿が描かれた。1986年、コロンビア大学の客員研究員としてニューヨークに滞在している。1988年、三島由紀夫賞が創設され 選考委員となる。1989年、『千年の愉楽』の続編となる長編『奇蹟』を発表する。同年、地元文化交流の組織である「熊野大学」の開設 をする。

1990年、『日輪の翼』の続編となる『讃歌』を発表する。1990年に永山則夫が日本文藝家協会から死刑囚であることを理由に入会を断られた際、この決定に抗議して柄谷行人、筒井康隆とともに協会を脱会している。 1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、津島佑子、田中康夫らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。

作家として多忙をきわめ、それまでの「路地」を主題とした作風からの転換を示す『軽蔑』を上梓した矢先の1992年夏、腎臓癌のため和歌山県東牟婁郡那智勝浦町内の日比病院で死去した。連載または休載中だった『異族』『鰐の聖域』『熱風』『大洪水』 『宇津保物語』などが未完となり、『異族』『鰐の聖域』が没後刊行された(それ以外の未完作品は全集にのみ収録されている)。

没後、1995年〜1996年に集英社から柄谷行人、浅田彰、四方田犬彦、渡部直己を編者として全集(15巻)が刊行された。その後、1998年〜2000年に小学館より文庫選集(12巻)が刊行された。2012年〜18年、インスクリプトより選集(10巻)が刊行されている。2016年〜17年、小学館より電子書籍として中上健次電子全集(21巻)が刊行されている。

2023年、岩波文庫より『中上健次短編集』が刊行された。

現在も「熊野大学」主催による「熊野大学夏季セミナー」が毎夏に新宮市で開催されている。講師には、柄谷行人、浅田彰などが参加している。受講生にはモブ・ノリオなどがいた。

人物・エピソード

自身の境遇について、作家としての素材を豊富に持つと自負していた。実際、多くの作品において言及される異父兄の自死、『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』に描かれる複雑きわまる血縁関係、『蝸牛』『岬』で取り上げられた姻戚の間で生じた殺人事件、『千年の愉楽』『奇蹟』において狂言まわしとなる産婆オリュウノオバや『奇蹟』において非業の死を遂げる主人公のヤクザ者タイチの存在等は事実をもとにしている。

自身の親族に関すること以外で、中上の創作のインスピレーションの源となったものとして大きなものは、現実に起きた三面記事に記載されるような犯罪事件である。小説『蛇淫』の主人公の青年による親殺し、『地の果て至上の時』の新興宗教の儀式により親族内で生じた死体遺棄、『火まつり』で描かれる猟銃による一家全員殺害は現実の事件を参考にしている。

無名時代は肉体労働のかたわら、作家としての成功後も喫茶店などを書斎代わりにして、執筆をおこなった中上が、原稿用紙のかわりに、持ち運びの容易な集計用紙をもちいて執筆をおこなっていたことはよく知られている。中上によると集計用紙一枚が、原稿用紙五枚から七枚の分量に相当するという。升目の無い集計用紙に、改行や空白も設けず、独特の字体の文字がびっしりと埋めつくされた原稿の見た目は異様な迫力を有している。死後すぐに編纂された集英社版全集の見返しの装丁(菊地信義による)に使われた。

中上は酒豪として名を馳せた。酒乱の気味もあったようで酔って暴れることもあったという。酒乱のエピソードはエッセイで自嘲的に綴られたり、私小説的な作品(『火宅』『楽土』など)に題材として取り入れられた。西新宿に仕事場を構え、ゴールデン街や新宿二丁目の文壇バーなどに足繁く通った。夜の新宿の盛り場は、後期の作品『讃歌』『軽蔑』の舞台になっている。

人的な交流は幅広く、作家や批評家以外にも、文化人(例:坂本龍一 、唐十郎など)、芸能人(例:都はるみ、ビートたけし、宇崎竜童など)、学者(例:阿部謹也、中村雄二郎、上野千鶴子など)らと時代や世相、思潮、文化、歴史など多岐のジャンルにわたる対談、座談を数多く行った。それらのほとんどはのちに発言集、対談集に編纂されている。

中上は単なる純文学の作家であることにとどまらず、文化的な寵児であった。次のように、多様なやり方で作品を発表している。映画『火まつり』(1985年) においては、自作脚本を映画化するとともに、インタビュー本(『火の文学』)、原作小説(『火まつり』)を出版するというようなメディアミックスの試みをおこなっている。小説『物語ソウル』、エッセイ『輪舞する、ソウル。』では、それぞれ、写真家の荒木経惟、篠山紀信とのコラボレーションをおこなっている。野外劇のための台本『かなかぬち ちちのみの 父はいまさず』を外波山文明のために書き下ろした。本作は1979年浅草稲村劇場での初演以降、場所を変えて何度も上演された。1986年には故郷の熊野本宮大社での上演が行われている。また、文芸誌にとどまらず若者向けの週刊誌や情報誌への連載を旺盛におこなっている(1978年『週刊プレイボーイ』誌 『RUSH』 、1984〜85年『BRUTUS』誌『野性の火炎樹』、1984〜85年『平凡パンチ』誌『Heat Up』、1986年『Hot-Dog PRESS』誌 『KENJI' S MAGICAL TOUR IN U.S.A.』 、1990〜92年『週刊SPA』誌『大洪水』)。中上は海外渡航や滞在も多かったが、その見聞は多数のエッセイ(『America, America』『輪舞する、ソウル。』『スパニッシュ・キャラバンを捜して』 など)、創作(『町よ』 『物語ソウル』『野生の火炎樹』『火ねずみの恋』 など)の素材ともなった。

中上の文学を高く評価した批評家である柄谷行人、蓮實重彦と交流 があったこともあり、1980年代に流行した思潮であるニューアカデミズムに大きな関心を示し、言及も頻繁におこなっている。ニューアカデミズムに属するとされる思想家(山口昌男 、栗本慎一郎 、四方田犬彦 など)との活動や対話もおこなった。1986年にはパリ、ポンピドゥ・センターで開かれた「前衛の日本 」展に柄谷行人 、蓮實重彦、浅田彰と参加し、ポスト構造主義の思想家ジャック・デリダと公開対談をおこなっている。

中上と音楽との繋がりは深い。最初に音楽に出会ったのは中学生の頃、コーラス部に所属したことである。クラシック音楽に目覚め、その道に進みたいという希望もあったが、両親の理解が無く断念している。高校を卒業して上京すると高校の先輩が経営しているジャズ喫茶でジャズに開眼し、シャズ喫茶に入り浸るようになった。マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、アルバート・アイラー等を愛好した。中上はジャズに関するエッセイを多く物しており、それらは現在では『路上のジャズ』に纏められている。『紀州 木の国 ・根の国物語』取材の頃ボブ・マーリーの「エクソダス」のプロモーションテープを送られたことでレゲエを知り熱中する。1980年にはボブ・マーリーにインタビューを行い、「週刊プレイボーイ」に掲載された。エッセイ集『バッファロー・ソルジャー』のタイトルはボブ・マーリーの同名曲から取られている。中上は夜の酒場では主に演歌を歌った。歌手都はるみとはファンが高じて、雑誌『月刊カドカワ』の取材で対談し、その後も親交を持った。都はるみについての本を二冊(『天の歌 小説都はるみ』『都はるみに捧げる』)執筆し、コンサート(1991年 都はるみ in熊野神社)のプロデュースも行なった。1980年代に韓国に取材したおりに、音楽集団サムルノリを知り、その音楽性の高さに衝撃を受けた。多数のエッセイで熱心に紹介している。1986年六本木ピットイン公演をはじめとしたサムルノリの日本でのコンサートにはエグゼクティブ・プロデューサーとして参画している。

日本の古典、国文学にも大きな関心を寄せた。中古の古典のなかで強い関心を寄せたのは宇津保物語である。同名の翻案小説を連載したが、この試みは頓挫し未完成作品として残っている。さらに狭く宇津保物語に限らず「うつほ」という概念がいかに文学に、または自分の小説創造において重要であるかの文学論を述べた講演がある。他に中上にとって重要な古典作家は、怪異小説集『雨月物語』で知られる江戸中期の国学者上田秋成である。中上はこの怪異物語、悪漢物語の作者を論争の相手である本居宣長と対置したうえで称揚している。中上の作品『蛇淫』のタイトルは『雨月物語』の「蛇性の婬」から取られている。故郷の俳人、松根久雄との親交もあり中上は俳句にも関心を寄せた。俳句に造詣が深い文芸評論家山本健吉や、彼から紹介された角川書店社長にして俳人角川春樹とは毎年、花見の吉野詣をするほどの親交があった。角川とは『俳句の時代』という対談集をだしている。また設立した「熊野大学」において山本の著作『いのちとかたち』の購読会を行っている。

中上は世界を股にかけて活動したが、韓国への思いはとりわけ強い。1978年、パンソリ、仮面劇などの民俗芸能の取材旅行を行い、文化や風土に魅せられた。その後も韓国への旅行や滞在を重ね、ソウルを舞台にした小説(『物語ソウル』)、韓国の文化や風土を論ずるエッセイ(『輪舞する、ソウル。』)を著した。また金芝河ら尹興吉らの韓国の文学者と交流をはかり、『韓国現代短編小説』(1985年 新潮社)を編纂するなど韓国文学の日本への紹介にも努めた。

谷崎は中上が最も畏敬した作家の一人である 。長編評論『物語の系譜』(『風景の向こうへ・物語の系譜』所収)においては、一章をさいて谷崎を論じて、谷崎を「物語のブタ」と呼び、愛憎半ばする感情を吐露した。また連作短編集『重力の都』では谷崎作品のパスティーシュを行い、「あとがき」において同作を「大谷崎の佳作への、心からの和讃」とし、執筆にあたり「物語という重力の愉楽をぞんぶんに味わった」と述べた。対談において、谷崎作品のベスト3として、『吉野葛 』『春琴抄』『少将滋幹の母 』を挙げたことがある。受賞に執念をみせた谷崎潤一郎賞には6回(『枯木灘』 『鳳仙花』『地の果て 至上の時』『日輪の翼』『奇蹟』 『讃歌』)候補となったが、受賞を逸した。中上健次の抗議をきっかけに、谷崎賞は候補作の発表をやめて、受賞作だけが発表されることになった。

1980年代半ば、フランス、ファイヤール(Fayard)社と契約し、1988年の『千年の愉楽』を皮切りにして順次フランス語訳が出版されている。ファイヤール社はガブリエル・ガルシア=マルケスをノーベル賞に押し上げた出版社で、中上はノーベル文学賞に手が掛かったと考えていたとされる。文学的盟友であった柄谷行人は、中上がノーベル賞を意識することからその言動が変わり、晩年の湾岸戦争反対などの運動もノーベル賞を意識したものであったとしている。だが日本人二人目のノーベル文学賞は中上の死の二年後、中上が影響を受け、また愛憎なかばする思いを抱き続けた 大江健三郎に授与された。

略年譜

西暦 年齢 出来事 出版
1946 和歌山県新宮市に生まれる。
1953 7 新宮市立千穂小学校に入学する。母ちさと(千里)が義父となる中上七郎と同棲を始める。
1959 13 異父兄、木下行平が自殺する。新宮市立緑丘中学校に入学、中上姓を名乗る。合唱部に所属し歌唱の才能をしめす。
1962 16 和歌山県立新宮高校に入学する。高校では文芸部に入部する。
1965 19 和歌山県立新宮高校を卒業して大学受験を名目に上京する。以後、高田馬場、代々木、沼袋、練馬と移り住む。新宿でのフーテン生活が始まる。同人誌「文藝首都」に入会する。
1966 20 処女作「俺十八歳」が「文藝首都」に掲載される。
1967 21 羽田闘争に参加するなど新左翼運動に関わる。
1968 22 「三田文学」を通じて柄谷行人と知り合う。
1969 23 「一番はじめの出来事」が「文藝」に掲載され商業誌デビューする。
1970 24 山口かすみ(紀和鏡)と結婚する。日野自動車羽村工場に期間工として勤務する。羽田空港で貨物専用航空会社で貨物の積み降ろし業務に従事する。東京都国分寺市西町に転居する。
1971 25 長女・紀が誕生する。
1973 27 「十九歳の地図」が芥川賞候補作となる。次女・菜穂が誕生する。東京都小平市小川町へ転居する。
1974 28 羽田での仕事を辞め、文筆のかたわら築地魚河岸の軽子などで生計をたてる。 創作「十九歳の地図」
1975 29 「鳩どもの家」、「浄徳寺ツアー」が続けて芥川賞候補作となる。 創作「鳩どもの家」
1976 30 「岬」で芥川賞を受賞する。「PLAYBOY」掲載小説の取材で初の海外渡航、香港、マカオを旅行する。映画「青春の殺人者」が公開される。 創作「岬」「蛇淫」エッセイ等「鳥のように獣のように」
1977 31 「枯木灘」で毎日出版文化賞を受賞する。「枯木灘」が谷崎賞候補となるも落選する。ドキュメント「紀州木の国・根の国物語」のため紀伊半島全域の取材旅行をおこなう。ニューヨーク、ハーレム地区近くのアパートメントに滞在する。 創作「枯木灘」「十八歳、海へ」エッセイ等「中上健次VS村上龍」
1978 32 「枯木灘」で芸術選奨新人賞を受賞する。韓国ソウルから全羅北道全州にかけて民俗芸能の取材旅行をおこなう。「部落青年文化会」を組織し「連続公開講座」を開催する。長男・涼が誕生する。この年、新宮の土地改良事業の工事が着手され「路地」の解体が始まる。 創作「化粧」エッセイ等「紀州木の国根の国物語」
1979 33 野外劇「かなかぬち」が初演される。映画「赫い髪の女」が公開される。映画「十八歳、海へ」が公開される。映画「十九歳の地図」が公開され、翌年カンヌ映画祭に出品される。家族でカリフォルニア州ロサンゼルスに移住する。 創作「水の女」エッセイ等「夢の力」「破壊せよ、とアイラーは言った」「小林秀雄をこえて」
1980 34 「鳳仙花」が谷崎賞候補となるも落選する。アメリカ生活をきりあげ三重県熊野市新鹿町に転居する。和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字勝浦にマンションを購入し仕事場を構える。 創作「鳳仙花」
1981 35 韓国のソウル特別市汝矣島のアパートで単身生活する。 東京都八王子市谷野町に転居する。 エッセイ等「東洋に位置する」
1982 36 インドからパキスタン、イラン、トルコ経由でロンドンまで「マジックバス」の旅行をおこないTV放映される。インターナショナル・ライターズ・プログラム客員研究員としてアイオワ大学に滞在する。 創作「千年の愉楽」
1983 37 「地の果て 至上の時」が谷崎賞候補となるも落選する。東京都新宿区西新宿のマンションに仕事場を構える。 創作「地の果て至上の時」エッセイ等「風景の向こうへ」
1984 38 「日輪の翼」で谷崎賞候補となるも落選する。「物語ソウル」「輪舞する、ソウル。」のためソウルへ取材旅行をおこなう。香港、マニラ、ペシャワール、ジャカルタ、バリ島などアジア各地に取材旅行にでている。 創作「日輪の翼」「物語ソウル」「熊野集」「紀伊物語」エッセイ等「君は弥生人か縄文人か」
1985 39 映画「火まつり」が公開されてカンヌ映画祭に出品される。フランス・ファイヤール社と翻訳出版契約の話し合いをもつ。ベルリン自由大学主催フェスティバル参加でドイツへ向かうも急性B型肝炎のため急遽帰国入院する。パリ、エコールノルマルで三島由紀夫について講演をおこなう。 エッセイ等「都はるみに捧げる」「アメリカ・アメリカ」「火の文学」「輪舞する、ソウル。」「俳句の時代」
1986 40 映画「火まつり」で毎日新聞映画コンクール脚本賞を受賞する。野外劇「かなかぬち」が熊野本宮大社で上演される。コロンビア大学客員研究員としてニューヨークに滞在する。サムルノリ日本公演のプロデュースに携わる。パリ、ポンピドゥ・センター「前衛の日本」展でジャック・デリダと公開対談をおこなう。 創作「野生の火炎樹」「十九歳のジェイコブ」エッセイ等「スパニッシュ・キャラバンを探して」「オン・ザ・ボーダー」
1987 41 フィンランド、ラハティで国際作家会議に参加し、講演をおこなう。品川ウォーターフロントでイベント「吉本隆明25時──24時間講演と討論」を吉本、三上治と主催する。 創作「火まつり」「天の歌」エッセイ等「アメリカと合衆国の間」
1988 42 三島由紀夫賞が創設され選考委員となる。BBC 他、英仏西共同制作のTVドキュメンタリー「ライターズ・オン・ザ・ボーダー」の取材を受ける。東京都八王子市谷野町の自宅が火災で全焼、東京都府中市栄町に転居する。 創作「重力の都」エッセイ等「時代が終り、時代が始まる」「バッファロー・ソルジャー」
1989 43 「奇蹟」が谷崎賞候補作となるも落選する。新宮市で「熊野大学準備講座」を発足させる。 東京都・中野に単身生活のためのマンションを借りる。 創作「奇蹟」
1990 44 「讃歌」が谷崎賞候補作となるも落選する。永山則夫の日本文藝家協会入会拒否に抗議して同会を脱会する。フランクフルト日本ブックフェアのシンポジウムに大江健三郎らと参加、講演をおこなう。 創作「讃歌」エッセイ等「20時間完全討論 解体される場所」
1991 45 「湾岸戦争に反対する文学者声明」を柄谷行人らと発表する。奉納コンサート「都はるみin 熊野神社」をプロデュースする。フランス、ブロワ市の日仏文化サミット参加後、ドイツへ渡り、ハイデルベルク大学で戯曲「ふたかみ」を演出する。
1992 46 血尿をみて年初より入院し、8月12日、腎臓癌により死去する。 創作「軽蔑」

2024/06/14 14:09更新

nakagami kenji


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