もしもし情報局 > 1943年 > 8月2日 > 政治活動家

鈴木邦男の情報 (すずきくにお)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

鈴木邦男の情報(すずきくにお) 政治活動家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

鈴木 邦男さんについて調べます

■名前・氏名
鈴木 邦男
(読み:すずき くにお)
■職業
政治活動家
■鈴木邦男の誕生日・生年月日
1943年8月2日 (年齢79歳没)
未年(ひつじ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
福島出身

(昭和18年)1943年生まれの人の年齢早見表

鈴木邦男と同じ1943年生まれの有名人・芸能人

鈴木邦男と同じ8月2日生まれの有名人・芸能人

鈴木邦男と同じ出身地福島県生まれの有名人・芸能人


鈴木邦男と関係のある人

北原みのり: 石井ポンペ・宇都宮健児・河野義行・佐高信・鈴木邦男・田中宏・田中優子・知花一昌・西田一美・村山富市・和田春樹・松岡徹・若森資朗・上野千鶴子・辛淑玉・北原みのり・前田朗・中沢けい 著、のりこえねっと:編 編『ヘイトスピーチってなに? レイシズムってどんなこと?』七つ森書館、2014年4月23日。


筑紫哲也: お世話になったな、と、いろんなことを思い出した」「勇気のある人だった」(鈴木邦男


景山民夫: 『僕の憲法草案』橋爪大三郎、呉智英、鈴木邦男、伊藤成彦と共著、ポット出版


斎藤貴男: 『超日本国憲法』(2007年、講談社)共著:潮匡人、鈴木邦男、林信吾


上田哲: 民族派政治団体一水会の鈴木邦男が立川談志、片岡鶴太郎らと共に選挙の応援に駆けつけたこともある。思想的には護憲であったが、鈴木のような保守派、談志やミッキー安川らと交流があり、上田の死後に刊行された追悼本では田原総一朗、立川談志、十勝花子、鈴木邦男、木村三浩らが追悼文を執筆している。


富坂聡: 『内心、「日本は戦争をしたらいい」と思っているあなたへ』保阪正康,東郷和彦,宇野常寛,江田憲司,鈴木邦男,金平茂紀,松元剛共著 角川oneテーマ21 2013


田中卓: 一水会の顧問である鈴木邦男は、学生時代に右派学生運動をする際、理論武装のために田中の著作を読んだと自らの著作に記している(鈴木邦男『愛国者は信用できるか』講談社現代新書、2006)。


重村智計: 鈴木邦男、井上周八 共著『日本国民のための北朝鮮原論』デジタルハリウッド出版局、2000年6月。


斎藤貴男: 『言論統制列島――誰もいわなかった右翼と左翼』(2005年、講談社)共著:鈴木邦男・森達也


竹田恒泰: イラク戦争前の2003年(平成15年)1月、一水会代表の木村三浩らとともに「ブッシュ政権のイラク攻撃を止めさせる緊急アピール」発起人となり、一水会のイラク訪問団(団長は木村三浩)に鈴木邦男、塩見孝也、平野悠、PANTA、沢口友美、雨宮処凛、大川豊らとともに参加した。


筆坂秀世: 2007年には新右翼系団体一水会最高顧問(当時)の鈴木邦男と共に『私たち、日本共産党の味方です。


田代まさし: 鈴木邦男によれば、田代に薬を打たれたとされる交際女性は「いやだったけど、でも嫌われたくなくて」と涙ながらに証言したという。


関島秀樹: 1985年、KBS京都「鈴木邦男の家内安全」(テレビとラシオの同時放送)で日本初のシンガーソングレポーターを務める。


雨宮処凛: たまたま読んだ『ゴーマニズム宣言』第3巻の鈴木邦男にイベントの打上げで会ったのがきっかけ。


三浦和義: ISBN 978-4821142248(鈴木邦男、北芝健ほか対談協力)


筆坂秀世: 』(鈴木邦男との共著)情報センター出版局、2007年5月、ISBN 4795847126


見沢知廉: 鈴木邦男によると、見沢は「馬鹿な共犯者がいたから捕まった。


長嶋りかこ: 坂本龍一×鈴木邦男共著『愛国者の憂鬱』装丁


牧野剛: 新右翼「一水会」の鈴木邦男は講師仲間で、「左右討論」などの塾内企画を共同で行うほどの仲であり、選挙では応援演説も受けるなど柔軟な姿勢も見せていた。


鈴木邦男の情報まとめ

もしもしロボ

鈴木 邦男(すずき くにお)さんの誕生日は1943年8月2日です。福島出身の政治活動家のようです。

もしもしロボ

思想遍歴・転向、人物などについてまとめました。父親、母親、病気、事件、テレビ、卒業、現在、映画、家族に関する情報もありますね。去年の情報もありました。79歳で亡くなられているようです。

鈴木邦男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

鈴木 邦男(すずき くにお、1943年〈昭和18年〉8月2日 - 2023年〈令和5年〉1月11日)は、日本の政治活動家、「一水会」名誉顧問、思想家、文筆家、プロレス評論家、河合塾講師。

ほか、「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」(のりこえねっと)共同代表。コリア国際学園後援会発起人。

1943年、福島県郡山市に生まれる。税務署勤務だった父親の都合で、秋田県、宮城県と、高校生の頃まで東北地方を転々とする。横手に住んでいたときは、ジャーナリストのむのたけじがよく家に来ていた。

生長の家との関わりは、母親病気になったとき、伊藤邦典(のちに全国学協と楯の会)の父親である生長の家の地方講師の祈祷によって、治癒したことがきっかけで、以降、鈴木家では母親が熱心な信者となった。

1960年、山口二矢が起こした浅沼稲次郎暗殺事件テレビで目撃し、同じ17歳の少年が社会のことを考え、あまつさえ人の命を奪い、自決もするということに、ただならぬ衝撃を受ける。

1961年、春休みに浅草の大日本愛国党を訪ね、総裁の赤尾敏と対面する。

宮城県仙台市の東北学院高等学校榴ケ岡校舎(現:東北学院榴ケ岡高等学校)の卒業間際、聖書の時間に赤尾好夫の英単語帳を隠れて見ていたのを教師に見つかり、英単語帳をストーブで燃やされてしまう。職員室に乗り込んで教師を殴り、その場で退学。姉の懇願により、半年間、教会に通って懺悔の生活を送ることを条件に、卒業が許される。

1962年、9月、一人だけ半年遅れで、東北学院高等学校榴ケ岡校舎(現:東北学院榴ケ岡高等学校)を卒業

1963年、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学。

生長の家学生道場に入る。当時の生長の家は、左翼運動が強い時代において右翼思想・愛国主義を強める活動に熱心であり、鈴木は信仰の日々とともに、生長の家学生会全国総連合(生学連)で書記長を務め、左翼学生との殴り合いを含む学内の闘争に奔走する。

1967年、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。学生運動を続けるために早稲田大学大学院に進学。

1969年、全国学生自治体連絡協議会(全国学協)が結成。初代委員長に就任する。しかし、全国学協の書記長だった長崎大学の安東巌らと対立し、わずか1ヶ月で退任させられる。このとき鈴木と対立した陣営(安東の他に椛島有三など)が、のちに日本会議を結成している。

この事件により、鈴木は失意の中で、別の大学に入学して学生運動をやり直すことを考えたりと、大きなダメージを受けるが、生長の家の創設者である谷口雅春が右派系の新聞「やまと新聞」に、「鈴木君は将来、国士になるでしょう」と書き、鈴木の将来を鼓舞する。

1970年、早稲田大学大学院政治学専攻修士課程を中退。左翼運動の退潮とともに自らの運動も敵を失ったこともあり、仙台の実家に帰った。地元の書店の店員として働く。

1970年4月、縁あって、産業経済新聞社に入社し、再上京。アパートを探しに渋谷を歩いていたところ、偶然、阿部勉と出会い、居候することになる。阿部の六畳2間のアパートは、楯の会の会員が集まる場所でもあった。産経新聞では、記者ではなく、販売局や広告局に在籍した。

政治活動から離れはしたが、周囲の知性のなさに辟易し、このときから大量の読書を自らに課す。月に30冊は必ず本を読むというノルマは現在に至るまで続いており、月のノルマが達成しないことがあっても年に400冊から500冊以上を読破している。

同年11月25日、三島事件がおこる。三島由紀夫の行動にも衝撃を受けたが、友人だった森田必勝の自決が、鈴木の胸をえぐった。運動をやめて一般の仕事をしていた自分と、三島由紀夫とともに自らの命を投げ出すまでの活動を続けていた森田との対比の中で苦悩し、再び鈴木は政治運動に駆り立てられていく。

1972年、森田必勝と三島由紀夫の意思を受け継ごうと、一水会を設立する。創設メンバーは、自身の他に阿部、犬塚博英、四宮正貴といった面々であった。鈴木は阿部を尊敬していたが、年長者のため、鈴木が代表となった。当初はマスコミに就職した会員が多かったため、「マスコミ研究会」という名称もあった。

一水会の主催で、森田必勝の追悼である野分祭を毎年、行う。

1973年、防衛庁(当時は赤坂檜町にあった。市ヶ谷に移転し「防衛省」となった後の跡地は東京ミッドタウン)が催事でストリッパーを呼んだことに怒り、抗議した末に乱入する事件を起こして逮捕される。このことにより、産経新聞を懲戒解雇となる。そして鈴木は、一水会の専従活動家となり、産経新聞に勤めていた経歴が記者だったと誤解され、週刊誌や月刊誌の原稿を書く仕事をコネでもらい、日銭を稼ぐ。

1975年、右派系の新聞「やまと新聞」に連載していた、東アジア反日武装戦線についての文章が、左翼系の出版社である三一書房社長の竹村一の目に留まり、「腹腹時計と〈狼〉」として刊行される。連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線は、1972年に結成し、1975年にメンバーが逮捕された。この本は、右翼が左翼の本を書いたとして、左右接近だと話題となり、竹中労や太田竜と知り合うきっかけとなった。右翼陣営からは概ね不評だったが、野村秋介からは高評価を得、また猪野健治が野村や鈴木らを新右翼と呼ぶきっかけのひとつにもなっている。

同年、12月、「乱世’75 を撃つ大演説会」が渋谷公会堂で開催。竹中労、沼正三、羽仁五郎らと会う。

同年、一水会が月刊レコンキスタを創刊。現在に至るまで発行されている。

1977年には、戦前に活躍した右翼活動家を訪ね歩き、「証言・昭和維新運動」を著す。末松太平や小沼正といった先輩の言葉は、60年安保以降の右翼である鈴木に深い影響を及ぼす。

1979年の4月6日、東郷健の芝居「悲しき人類」が竹中労のプロデュースで上演。天皇を揶揄した不敬なシーンで、鈴木と四宮正貴が客席から舞台上に乱入。

1981年、12月22日、ソ連大使館に抗議、乱入。暴力行為の容疑で警視庁大崎署から家宅捜索を受けるが、その際に捜査令状を破ったとして公文書毀棄と公務執行妨害の現行犯で逮捕。23日間の留置生活を送るが、嫌疑不十分で不起訴処分となる。のちに鈴木は「令状の要点をメモしようとしたら警察官に令状をひったくられ、そのせいで破れた」「“日本民族独立義勇軍”と一水会の関係を疑われたための別件逮捕」と語る。

同年、一水会と連携する組織として、統一戦線義勇軍が設立。初代議長は現在、一水会の代表である木村三浩で、初代書記長は清水浩司(のちの見沢知廉)だった。なお、統一戦線義勇軍の現議長である針谷大輔は現在、鈴木邦男および一水会とは考えが違うことを明言している。

1982年、9月12日、スパイ粛清事件が起こる。見沢らが新しい右翼団体を設立しようとする中で、一人のメンバーを公安のスパイと疑い、見沢ら4名が1名をバールで殴打し、青木ヶ原の樹海に埋める。鈴木は相談を受ける。見沢らは木村三浩の協力のもと、遺体を青木が原樹海から静岡の朝霧高原に埋め直した。9月18日に3名が逮捕。9月23日に見沢も逮捕され、釈放後の1995年に小説家デビューする。この事件で、鈴木は任意同行を何度も求められたが、辛うじて逮捕を免れた。

1984年、「新雑誌X」に天皇を揶揄したイラストを掲載した東郷健と再び敵対する。一水会の構成員が東郷を襲撃し、逮捕。

同年、筑紫哲也の連載「若者たちの神々」に登場、対談する。テレビ番組「君は今、燃えているか!? カゲキ世代が激突討論」に出演。

1990年、一水会と中核派の五十二日間戦争がおこる。

1992年、野村秋介の「風の会」からの立候補を勧められるが、結局、出馬せず。

1993年10月20日、野村秋介が朝日新聞東京本社で拳銃自決。

1995年、新宿にロフトプラスワンが開店。鈴木は、言論の場を持たなかった多種多様な人々が出演するライブハウスに興味を示し、開店直後から常連となり、まもなくして出演者となる。以降、90年代サブカルシーンの登場人物の一人となり、かつては敵側だった赤軍派元議長の塩見孝也や、あるいは宅八郎、佐川一政、奥崎謙三らとも交流する。政治活動家という側面だけでは語れない鈴木邦男のプロフィールが形成されていく。

同年、「夕刻のコペルニクス」が話題になる。

1996年、雨宮処凛と出会う。タイで投獄された田中義三を激励。

1999年、一水会代表を辞任し、顧問となる。

代表在任中より河合塾現代文・小論文講師、日本ジャーナリスト専門学校講師等も務めた。河合塾では同じく現代文講師で左翼思想家の牧野剛と「左右討論」などの企画も行う。

2000年、一水会が一水会フォーラムを開始する。

2003年、アメリカによるイラク戦争に抗議し、イラクへ渡航。イラク訪問団のメンバーは、木村三浩、塩見孝也、雨宮処凛、大川豊、PANTA、竹田恒泰ほか。

同年、何者かによって、鈴木が住む「みやま荘」に火をつけられ、あわや惨事となる。この年は、鈴木が容疑者の一人として目をつけられ、真犯人を知っているのではないかとされていた赤報隊事件の時効成立の年であった。

2005年、見沢知廉が自殺。

2006年、「愛国者は信用できるか」を上梓。

2007年、映画「靖国 YASUKUNI」の上映反対運動が起こり、鈴木は「観てから反論するべきだ」と反論。日本中の右翼団体を招待し、ロフトプラスワンで「靖国 YASUKUNI」の上映会と討論会を開く。

同年、かつて日本共産党をパージされた筆坂秀世と対談し、「私たち、日本共産党の味方です。」を上梓。

2008年、ハワイの刑務所で不審死を遂げた三浦和義の跡を継ぎ、和歌山カレー毒物事件の犯人とされ、収監されている林眞須美の冤罪の可能性について解明する「林眞須美さんを支援する会」の代表を務める。

2009年、「右翼は言論の敵か」を上梓。

同年、週刊AERAの「現代の肖像」で特集される。

2010年、日本のイルカ漁を取材したドキュメンタリー映画「ザ・コーブ」の上映反対運動が起こり、「靖国 YASUKUNI」のときと同様に、鈴木は上映すべきと反論。反対派は住宅街で街宣活動をしたり、映画館経営者の家族のところに嫌がらせをした。鈴木はニューテアトル横浜や渋谷イメージフォーラムの前で、西村修平率いる主権回復を目指す会に議論を申し込むが、相手は鈴木に罵声を浴びせるだけで応じず。渋谷では反対派に殴られてしまう。警察が上映反対派に協力的だったこともあり、鈴木は無抵抗を貫いた。

同年、ロフトプラスワンで「右翼VSウヨク」を開催。かつての右翼とは違う、排外主義的な思想を持つ世代と対決。

2011年、二度にわたり、北朝鮮へ渡航。元赤軍派よど号グループと交流する。

2012年、一水会が四十周年記念大会を開催。

2013年、辛淑玉の依頼により、ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク(のりこえねっと)の共同代表に就任。

右翼活動初期はテロルを是とし、憲法改正を論じていた鈴木邦男だが、時代の変遷とともに、差別と戦争に反対し、平和憲法の貴重さを語るようになっていった。

同年、ニカラグア ライト・レフトのライト師匠として漫才の舞台を踏む。

2014年、三島由紀夫の追悼である憂国忌の実行委員から、一水会が離脱。

同年、一水会創設メンバーで、のちに離脱した犬塚博英が、鈴木に対し、絶縁宣言をする。

また、同じく一水会の創設メンバーである四宮正貴も2012年に、世代の違う弟子である統一戦線義勇軍の針谷大輔も2010年に、鈴木への敬意を表しつつ、発言を批判している。

同年、国会前デモで知り合った坂本龍一と対談し、「愛国者の憂鬱」を上梓。

2015年、一水会の顧問も辞任し、元最高顧問、もしくは元顧問、元代表になったとみられる。この頃、犬塚博英からの公開討論の申し出を断わっている。同年、韓国のソウル大学で「私はなぜヘイトスピーチを嫌うのか 日本の右翼がみる日本のネット右翼」という演題で講演。

福島瑞穂と対談し、「戦争を通すな!」を上梓。

右翼団体民族革新会議および盛道烈士會の盛義一らが、高田馬場の一水会事務所近くで街宣し、「鳩山由紀夫と木村三浩のクリミア訪問についての抗議」「一水会創設メンバーである犬塚博英の名を汚していることへの抗議」「一水会および木村三浩は右翼と名乗るなという要求」をした。これに対して一水会代表の木村三浩は、「右翼人のやることとは思えない」と声明を発表。近所迷惑であることや、彼らの活動が内向きであることを嘆いた。以降、一水会は右翼ならびに新右翼を名乗っていない。

清瀬市議会議員選挙に立候補した塩見孝也の応援演説をする。塩見は落選した。

2016年、菅野完が「日本会議の研究」を著したこともあり、左派リベラルの中で、安倍政権を支える日本会議に対する関心が強くなり、かつて全国学協で対立した鈴木が日本会議の成り立ちについてメディアで語ることが増えていく。

2017年、立憲民主党の応援演説に、鈴木や小林よしのりが登場したことが話題となる。

47年間、ノルマを課した読書を続けてきたが、2017年に年間読書冊数が529冊となる。

2020年2月1日、自身を撮影したドキュメンタリー映画が公開となる。

2023年1月11日11時25分、誤嚥性肺炎のため、療養先の東京都内の病院で死去。79歳没。訃報は同月27日に一水会より公表された。

思想遍歴・転向

一水会結成当初の鈴木は、井上ひさし宅に脅迫電話を入れたところ、逆に“君は愛国者だというが、ならば天皇全員の名(諡)を言えるか、私は出来るぞ”と全125代を暗誦されるなどして「返り討ち」に遭い、謝罪したところ許しを得ることができたという(1940年代までの生まれなら普通に受けた教育)。

一方、構成員が自決をも辞さぬ態度を示した東アジア反日武装戦線に「戦前の血盟団のようだ。先を越された」と衝撃を受け、右翼系の『やまと新聞』に『〈狼〉たちと右翼武闘派』という連載を始める。それが左翼系の三一書房社長の目にとまり、『腹腹時計と<狼>-<狼>恐怖を利用する権力』として出版され、「右翼武闘派が新左翼を評価した」と注目された。また、「左右を弁別せざる」として竹中労、牧田吉明、塩見孝也ら左翼、アナキストとも交流し、たとえ反対陣営に対しても、学べること、共闘できることを模索した(これは戦前の右翼運動の老壮会や猷存社に学んだというが、かなり形態は異なっている)。

また、1985年前後には『朝日ジャーナル』(部数減少で1992年廃刊)に真面目な政治論文を度々執筆し、これに刺激されて多くの人々が一水会の運動へ参画した。

平成になる頃から、かつてテロを公然と肯定していた鈴木は、テロ否定論者に変わり、「極右や極左に言論活動の場を与えればテロはなくなる」と主張した。

冷戦終結後は、竹中労の影響もあり、「宿敵・左翼の崩壊を危惧する」、「左右の超越を訴える」など既成右翼とは違った主張を展開している。現在では、ほかの右翼活動家や保守活動家からは「似非右翼」「右翼の皮を被った左翼」などと批判されることが多い(一水会代表辞任の一因でもある)。鈴木自身も2008年、ユーモラスに、今の自分は「右翼度30%、左翼度70%」で「四捨五入したら完全な左翼」であるのに、いつまでも右翼と言われると述べている。このことを、2015年に出演したロフトラジオで平野悠に訊かれると、「証言・昭和維新運動」を執筆する際に取材した、血盟団に参加した小沼正の「日本精神は左翼である」という言葉を引用している。

選択的夫婦別姓制度に関しては、「左右関係ない問題として議論するべき」と述べる。

2015年4月に執行された東京都清瀬市議会議員選挙では、立候補した元赤軍派議長で当時駐車場の管理員であった塩見孝也の応援演説をした。平野悠、雨宮処凛、西東京市議会議員の森てるおなどが駆けつけたが、落選。

人物

右翼、左翼、アナーキストに限らず、多くの活動家は、自決または病死したり、あるいは事件の犯人として収監されている。その中で、不器用ながらバランス感覚に長け、要領のいい性格でもある鈴木邦男は長生きをし、自由な活動を続けてきた。鈴木はそのことに関して自責の念が強くあり、次のように語っている。「年末、1人でいると、いろんなことを考える。オレは1人だ。淋しい。孤独だ、と思う。でも、運動に突っ走って、死んだ人も多い。獄中にいる人もいる。その人たちのことを考えると、申し訳ないと思う。真面目で、思いつめたから死んだんだ。獄中にいるんだ。それなのに俺は勇気がないから、卑怯だから、そこまでやれなかっただけだ。そして、外の世界で、自由に生きている。俺の方が「犯罪者」だと思う。年の瀬は、そんなことを痛切に感じるんですよ。(中略)幸い、全ての事件は時効を迎えた。そして、他人のことをあれこれと無責任に書いている。亡くなった人、獄中にいる人には本当に申し訳ないと思っている。本当に悪いのは私です。」

生長の家道場で修行しながら早稲田大学で学生運動をしており、生長の家の創設者である谷口雅春からは熱烈な期待を寄せられていた。全国学協から追放された際も、谷口雅春は、やまと新聞に「鈴木君は国士になるでしょう」と書き、鼓舞している。鈴木は大学中退後、産経新聞社を経て一水会の専従活動家となったが、生長の家に所属したまま宗教家になっていたかもしれないとも語っている。なお、生長の家は現在、かつてほどの右派思想はなく、日本会議については明確に批判する立場をとっている。

安倍政権を支持する日本会議の中枢メンバーも、安倍政権に警鐘を鳴らしている鈴木も、同様に生長の家ならびに全国学協の出身者であり、日本会議幹部は表舞台にはあまり登場しないことから、鈴木が日本会議についてメディアで語ることが多い。

アムネスティ・インターナショナル日本のサイトにおいて死刑廃止を主張する。死刑廃止が日本文化であり日本精神であるとしている。

さまざまな事件の犯人として収監されている人々に面会に行くことも多い。右翼や左翼の活動家のみならず、殺人事件などの犯人に対しても温情を傾け、冤罪の可能性がある事件については積極的に事実解明に協力している。和歌山毒物カレー事件の犯人とされている林眞須美については、三浦和義の跡を継ぎ、林眞須美さんを支援する会の代表を務めている。また、三浦和義の死因についても疑問視している。

外国人参政権を支持するため、李英和が主催する在日党の集会に参加し、「納税など住民としての義務を果たしている定住外国人にとって、参政権は当然の権利。それを認めることが、日本人の民族意識を希薄にするとは思わない」と主張した。一水会内部からも批判の声があったが、「必要なのは右翼や左翼という看板ではなく、個人の判断。組織は勉強する場として残ればいい」と言っている。

よど号乗っ取り犯で偽米ドル札事件で逮捕された田中義三を激励するため、1996年9月2日にタイのチョンブリ刑務所を木村三浩と一緒に訪問している。田中は「共に闘っていけると感じました」と答え、鈴木は「四十歳を過ぎれば右翼も左翼もないですよ。意気投合しました」と言っている。

赤報隊事件との関係を疑われ、当局から家宅捜索も受けた(#来歴)。直接関与は否定しながらも、真犯人の情報を握る旨を匂わせ、沈黙を守り続けている(事件に絡み、2002年3月、放火被害に遭った経験もある)。

辻元清美応援団の一人で、2015年12月9日には憲政記念館において、辻元清美議員の「政治活動20年へ、感謝と飛躍の集い in 東京」という政治資金規正法に基づく資金集めのパーティに参加している。

2010年に日本で公開された映画『ザ・コーヴ』の公式ホームページ上に「勇気のある映画だ。この映画を見て、イルカ漁のことを初めて知った。 日本人の多くが全く知らないのに、「日本の伝統・文化だ」と言われても困る。」との意見を寄せている。渋谷イメージフォーラムやニューテアトル横浜の前で上映抗議運動をする団体に鈴木邦男は討論を挑んだが罵倒され、渋谷では殴られてしまった。

2013年、「2013年反韓デモ」を厳しく批判。自身のブログでもデモ隊に抗議する市民に混じって声を上げる姿が確認されている。3月14日に排外・人種侮蔑デモに抗議する国会集会に参加した際には「映像を見て非常に悲しくなりました。(彼らに掲げられている)日の丸の旗が可哀想だと思いました。日の丸は日本の優しさ、大和の国の寛容さを表すもの。それが排外主義的なものに使われている。日の丸が泣いていました。血の涙を流していました」と語った。

村井秀夫刺殺事件は徐裕行が単独で引き起こしたものだと主張している。事件直後、鈴木は動機について「純粋に国を憂う人間が、国民に変わって”やってやる”と思い、こんなことをやってしまったのでは?徐容疑者はある意味でオウム=サリンとテレビにマインドコントロールされていたのでは。オウム、村井氏は非常にかわいそうだ」「組織な背景はないと思う」 と持論を展開したが、徐が羽根組若頭の指示で刺殺したと供述し、小林よしのりから批判されている。しかし2011年に出所した徐が週刊誌で単独犯であると主張を変えると、鈴木も「僕も徐さんの個人的な怒りや興奮が基になって事件を起こしたんだろうと思います」と再び背後関係を否定するようになった。なお、村井刺殺の指示役とされている若頭K・Kは過去に九州雷鳴社という組織に所属していたが、同団体の命名者は鈴木の恩師、野村秋介だったとサンデー毎日(1995年8月13日) が報道している。また徐は羽根組の準構成員だったが、羽根組長を主役のモデルにした映画「獅子王たちの夏」を監修したのは野村である。

鈴木邦男の文章や語りは基本的に、ブラックユーモアをも含むフィクショナルな表現と、実際の歴史的事実とが混合していることが多く、そういった点からも批判を受けることが多い。かつてテレビ番組で中上健次に「この人はいつも評論家みたいに言う」と批判もされている。統一戦線義勇軍の針谷大輔は、鈴木が元オウム真理教幹部とのトークイベントで発した「オウムは国の宝ですね」という発言に関し、師である鈴木への敬意は表しつつ、批判している。

ともに一水会を創設し、のちに離脱した犬塚博英からは、絶縁宣言をされている。

右翼の重鎮でありながら、90年代サブカルシーンの一人でもあり、ロフトプラスワンの開店直後から常連であり出演者であった。

2024/06/16 13:09更新

suzuki kunio


鈴木邦男と同じ誕生日8月2日生まれ、同じ福島出身の人

髙萩 洋次郎(たかはぎ ようじろう)
1986年8月2日生まれの有名人 福島出身

髙萩 洋次郎(たかはぎ ようじろう、1986年8月2日 - )は、福島県いわき市出身のプロサッカー選手。アルビレックス新潟シンガポール所属。ポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。クラーク…

丸山 夏鈴(まるやま かりん)
1993年8月2日生まれの有名人 福島出身

丸山 夏鈴(まるやま かりん、1993年(平成5年)8月2日 - 2015年(平成27年)5月22日)は、日本の歌手、タレント。福島県郡山市出身。尚志高校卒。血液型はA型。愛称は「りんちゃん」。株式会…

高萩 洋次郎(たかはぎ ようじろう)
1986年8月2日生まれの有名人 福島出身

髙萩 洋次郎(たかはぎ ようじろう、1986年8月2日 - )は、福島県いわき市出身のプロサッカー選手。アルビレックス新潟シンガポール所属。ポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。クラーク…

遊佐 克美(ゆさ かつみ)
1988年8月2日生まれの有名人 福島出身

遊佐 克美(ゆさ かつみ、1988年8月2日 - )は、福島県福島市出身のサッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。ポジションはMF、DF。 兄弟の影響でサッカーを始める。小さいころはトップ下…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


鈴木邦男と近い名前の人

鈴木 國之(すずき くにゆき)
1936年2月14日生まれの有名人 東京出身

2月14日生まれwiki情報なし(2024/06/13 11:32時点)

鈴木 邦雄(すずき くにお)
1939年8月27日生まれの有名人 東京出身

鈴木 邦雄(すずき くにお、1948年 - )は、日本の生態学者。第14代横浜国立大学学長。国立大学法人横浜国立大学名誉教授。理学博士。専門は環境マネジメント、生態学。 宮城県出身。1970年、東北…

鈴木 来海(すずき くるみ)
1997年12月28日生まれの有名人 東京出身

鈴木 来海(すずき くるみ、1997年12月28日 - )は、日本の元女性ファッションモデル。元サンズエンタテインメント所属。 1997年、東京都に父でデザイナーの鈴木一泰、母・圭子の間に生まれる…

鈴木 達也_(俳優)(すずき たつや)
1995年5月21日生まれの有名人 東京出身

鈴木 達也(すずき たつや、1995年5月21日 - )は日本の俳優である。舞夢プロ所属。 テニス・ピアノ・ギターが趣味、特技。 短所は人見知り。 長所は明朗。 アニメやゲームも趣味。 風の残響…

鈴木 達也_(1982年生のサッカー選手)(すずき たつや)
1982年8月1日生まれの有名人 神奈川出身

鈴木 達也(すずき たつや、1982年8月1日 - )は、神奈川県横須賀市出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード(FW)、ミッドフィールダー(MF)。 小学生の頃より横浜マリノスの下部組織に…

鈴木 道雄_(建設事務次官)(すずき みちお)
1933年11月4日生まれの有名人 群馬出身

鈴木 道雄(すずき みちお、1933年(昭和8年)11月4日 - )は、日本の土木工学者、建設事務次官。 1956年(昭和31年)東京大学工学部土木工学科を卒業し、建設省に入省。1988年(昭和6…

鈴木 貞一_(政治家)(すずき ていいち)
1909年7月10日生まれの有名人 千葉出身

7月10日生まれwiki情報なし(2024/06/12 08:15時点)

マック 鈴木(まっくすずき)
1975年5月31日生まれの有名人 兵庫出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート マック鈴木(マック すずき、本名:鈴木 誠(すずき まこと)、1975年5月31日 - )は、日本出身の元野球選手(投手)、元監督、野…

鈴木 誠_(競輪選手)(すずき まこと)
1965年4月3日生まれの有名人 千葉出身

鈴木 誠(すずき まこと、1965年4月3日 - )は日本の元競輪選手。千葉県市原市出身。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第55期卒業。選手登録番号11132。日本競輪選手会千葉支部所属。師匠は吉…

鈴木 茂_(経営者)(すずき しげる)
1917年4月17日生まれの有名人 北海道出身

鈴木 茂(すずき しげる、1917年4月17日 - 2014年10月29日)は日本の実業家。北海道拓殖銀行代表取締役頭取・会長、JR北海道代表取締役会長、札幌商工会議所会頭等を務めた。 北海道後志…

鈴木 茂_(ギタリスト)(すずき しげる)
1951年12月20日生まれの有名人 東京出身

鈴木 茂(すずき しげる、1951年12月20日 - )は、日本のギタリスト・作曲家・編曲家。 はっぴいえんど、ティン・パン・アレーなどのメンバーとしてギターを担当した。 世田谷区の自動車修理工…

鈴木 章夫_(外科学者)(すずき あきお)
1929年11月7日生まれの有名人 東京出身

鈴木 章夫(すずき あきお、1929年11月7日 - 2010年10月28日)は、日本の医学者、医師。専門は心臓外科学。 冠動脈外科医であり、心臓のバイパス手術の権威。1995年から2008年まで東…

鈴木 章夫_(オートレース選手)(すずき あきお)
1946年8月23日生まれの有名人 静岡出身

鈴木 章夫(すずき あきお、1946年8月23日 - )は、日本のオートレース選手。 プロフィール(2023年1月現在) 静岡県出身 2期 浜松オートレース場所属 1964年9月15日選手登録 身…

鈴木 省吾_(政治家)(すずき せいご)
1911年8月7日生まれの有名人 福島出身

鈴木 省吾(すずき せいご、1911年8月7日 - 1999年10月4日)は、日本の政治家、法務大臣(第44代)、参議院議員(5期)。位階は正三位。 福島県岩瀬郡鏡石町出身。旧制白河中学、1933…

鈴木 清一_(洋画家)(すずき せいいち)
1895年7月23日生まれの有名人 茨城出身

7月23日生まれwiki情報なし(2024/06/10 22:16時点)

鈴木 清一_(実業家)(すずき せいいち)
1911年12月21日生まれの有名人 愛知出身

鈴木 清一(すずき せいいち、1911年(明治44年) - 1980年(昭和55年)8月22日)は、日本の実業家。ダスキンの創業者。金光教、一燈園の熱心な信者としても知られた。愛知県碧海郡大浜町(現在…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
鈴木邦男
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

さんみゅ~ FLAME Da-iCE BABYMETAL まなみのりさ WEST. HEADS A.B.C-Z 放課後プリンセス Travis Japan 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「鈴木邦男」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました