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野沢那智の情報 (のざわなち)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

野沢那智の情報(のざわなち) 俳優、演出家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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野沢 那智さんについて調べます

■名前・氏名
野沢 那智
(読み:のざわ なち)
■職業
俳優、演出家
■野沢那智の誕生日・生年月日
1938年1月13日 (年齢72歳没)
寅年(とら年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
東京出身

(昭和13年)1938年生まれの人の年齢早見表

野沢那智と同じ1938年生まれの有名人・芸能人

野沢那智と同じ1月13日生まれの有名人・芸能人

野沢那智と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


野沢那智と関係のある人

津久井教生: 野沢那智主宰の劇団薔薇座出身。


若本規夫: デビュー当日に現場でマイクコードに転んでしまうなど、日本独特のマイクワークに戸惑う日々を送り、先輩の納谷悟朗や野沢那智、若山弦蔵などが、台本と画面を見ながら見事に合わせていく光景に、只々驚嘆していたという。


出﨑統: 他にも、美術監督の河野次郎、作曲家の羽田健太郎、音楽監督の鈴木清司、声優の野沢那智、菅谷政子、大塚明夫、水谷優子、武藤礼子、井上和彦、勝生真沙子らが多数の出﨑作品に参加している。


鈴置洋孝: 野沢那智は「あんな軟派でいい加減な男が絶対プロの役者になどなれるわけがないと思っていたのに、今や座長か…」と苦笑したという。


野沢直子: 卒業後、叔父で声優の野沢那智の紹介で吉本興業東京事務所(後の吉本興業東京本社)所長の木村政雄と出会った。


勝沼紀義: 野沢那智がきっかけで職業としての声優に興味を持つ。


高田由美: また、この時に野沢那智と白石冬美の目に留まったことで演劇界へ進出。


鉄炮塚葉子: 声優活動以外にも舞台女優として活動しており、野沢那智主宰の劇団薔薇座に長く在籍した。


神谷明: ただし薔薇座の座長であった野沢那智は当時神谷がアルバイトをしていたことは知らなかったという。


鈴置洋孝: 師にあたる野沢那智は「芝居は教えたが、命を失ってまで芝居を守れとは教えたくなかった。


中尾隆聖: その間、舞台出演が多くなり、野沢那智の劇団などへの客演の機会を数多く経験し、役者としての自信を取り戻していったという。


岸野幸正: かつては野沢那智が主宰した劇団薔薇座に在籍していた。


内田直哉: 2010年、『COBRA THE ANIMATION』のテレビシリーズでは、主役のコブラを野沢那智から引き継いだ。


志賀克也: 野沢那智主宰の劇団薔薇座出身。


千田光男: 名前の由来については野沢那智によると、「芸能界は千のうち三つしか実現できない」と言われていたことから命名されたとされている。


樋浦勉: また、後に本シリーズがテレビ朝日の『日曜洋画劇場』で放映される際にマクレーン役を務めることになる野沢那智も、樋浦の吹替を視聴した際には「俺にはこういう市井の労働者っぽい雰囲気は出せない」と樋浦の演技とその“はまり役”ぶりを高く評価していたと同時に、自身が吹き替えを務める際に参考にしたと息子の野沢聡が語っている。


有本欽隆: そこで野沢那智と知り合い、野沢が「劇団をつくる」と言ったので一緒になる。薔薇座では野沢那智の妻の成瀬麗子と共に劇団の看板役者だった。


大塚周夫: 吹き替えでは西部劇にも数多く声を当てており、納谷悟朗、山田康雄、小林清志、野沢那智らと共にテレビ洋画劇場のマカロニ・ウェスタン放映を支えた吹替役者の一人とされる。


森山周一郎: とり・みきによるインタビューの際、「若手で注目に値する人はいないですか」との質問に対し、「だからいつまで経っても野沢那智が新人なのよ。本人はベテランだと思ってるかもしれないけど、オレたちやもうちょっと年上の人たちに言わせれば野沢那智は新人」と回答したのが書籍にも採録されており、野沢以降に登場してきた俳優たちの声の仕事に感銘を受けたことはない、と苦言を呈している。


大川透: これは野沢那智が演出をする舞台に出演したことをきっかけに、その野沢から事務所を紹介してもらったことがきっかけである。


村野武範: この配役は当時番組のプロデューサーを務めていた山形淳二による「ベテラン声優や固定した配役は安心して観られるが、それでは進歩がない」「新しい刺激がほしかった」との理由から、テレビ朝日の「日曜洋画劇場」版で吹き替えを担当していた野沢那智に対抗する形で抜擢された。


秋本つばさ: パフォーミングアートセンター(代表:野沢那智)アクション講師


鈴木弘子: クイズダービー 野沢那智とペアを組んで出演、納谷悟朗とペアを組んで出演


安崎求: 野沢那智主催の劇団薔薇座に入団し頭角をあらわす。


野沢聡: 祖父は作家の陸直次郎、父は声優・演出家の野沢那智、母は女優の成瀬麗子。


高坂篤志: 特に『ダイ・ハード』でブルース・ウィリスの声を吹き替えた野沢那智の演技が強く印象に残ったという。


伊倉一恵: 当時は『0011ナポレオン・ソロ』のイリヤ・クリヤキンの野沢那智が好きで、「カッコイイなー」と思っていたという。


竹村拓: 野沢那智主宰の劇団薔薇座出身者の一人。


戸田恵子: ある番組で一緒になった野沢那智から声を掛けられた。


松橋登: 主な例としては野沢那智に次いでジュリアーノ・ジェンマを多く担当しており、他にもジョン・ローン、レオン・カーフェイ、カイル・マクラクランなどを持ち役としている。


野沢那智の情報まとめ

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野沢 那智(のざわ なち)さんの誕生日は1938年1月13日です。東京出身の俳優、演出家のようです。

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人物・特色、主な吹き替え担当俳優などについてまとめました。兄弟、母親、卒業、解散、テレビ、ドラマ、事件、現在、引退、映画、父親、子役に関する情報もありますね。72歳で亡くなられているようです。

野沢那智のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

野沢 那智(のざわ なち、1938年〈昭和13年〉1月13日 - 2010年〈平成22年〉10月30日)は、日本の舞台演出家、俳優、声優、ラジオパーソナリティ、実業家、馬主。

東京府東京市日本橋区(現:東京都中央区日本橋浜町)出身。オフィスPAC元代表。父は作家の陸直次郎、母は小唄の師匠の堀小代清、妻は女優の成瀬麗子、長男は俳優の野沢聡、姪はタレントの野沢直子、甥はクリエイティブ・ディレクターの野澤直龍、大姪(直子の娘)は格闘家の真珠・野沢オークレアー。

4人兄弟の末っ子として生まれる。幼稚園在園中は学童疎開で長野県の上林温泉で過ごす。1944年8月に父と死別した後は、母親が霞ヶ関官庁街で開業した弁当屋で配達の仕事などをこなしていた。

演劇との最初の出会いは中央区立浜町中学校(現:中央区立日本橋中学校)在学中の中学1年生の時、母に連れられて、近所にあった「明治座」に新国劇を見に行った時であり、その後は「明治座」へ毎日のように通うようになる。ただし、当時は役者ではなく舞台装置に興味をもち、将来は舞台美術家になりたいと思っていた。

1953年、東京都立白鷗高等学校に進学後は演劇部に所属し、演出から舞台装置、照明、役者まで経験した。当時、教師が朝礼の訓辞に、ユニークな活動ぶりを取り上げて絶賛していたほどだったが、教師に褒められたばかりに、調子に乗って学業を怠るようになってしまったという。午後の物理、数学の授業には出席せず、裁縫室にこもり、裁ち台を舞台にして、演劇の稽古に熱中し、木下順二の『彦市ばなし』などを上演していた。担任の教師もそれを半ば認めて、叱りもせず好きにさせてくれたという。期末試験で物理、生物、数学は白紙答案であり、問題そのものが何のことやらわからないのだったことから、答えられるはずもなく、好意的だった教師でさえ、呆れ果ててしまったという。3年生の学園祭でのこと、「クラスの出し物が決まらない」と騒いでいることから「クラスで何か派手なことをやろう」ということになって、発案で「浴衣姿で盆踊りをやろう」ということに衆議一決し、学園祭の前夜にやぐらを組んだという。当朝に出勤してきた校長と教頭は、真っ白に化粧して真っ赤な口紅を塗った女生徒達が、裾から赤い蹴出しをチラチラさせて、浴衣姿でウロウロしているのを見て腰が抜けるほど驚き、たちまちやぐらは崩され、生徒達は制服に着替えさせられてしまったという。以上のことから、一度は「活動的で個性豊かな学生」として称賛されたが、「白紙答案の劣等生」「伝統ある校風を乱す不埒者」として、放校に近い退学勧告を受けてしまったという。学校からの呼び出しに、母は驚きもせず、叱ることもなく、転校先を見つけてもらい、「もう、これ以上おふくろに心配をかけるのはやめにしよう。今度こそ、一生懸命勉強するぞ!」と、心に誓ったという。

3年生からは本郷高等学校に転校。しかし何をやってもいっさいお咎めなく、授業はサボるのが当たり前であり、クラスメイトに「エスケープしよう」と誘われて、断ったらブンなぐられ、誘われるままに授業をサボって盛り場などをウロつくようになって、補導されるようになったという。「こんなことをやっていたら、俺はダメになる。そうだ!どこかの劇団に飛び込んで、プロの演出家になる修行をしよう」と考え、劇団に入ることを主張。折しも受験期であり、父も兄達も早稲田大学出身だったことから、両親は早稲田大学への進学を執拗に勧めるようになってきたという。大学進学を拒み続けたが、親達は頑としてそれを認めようとはせず、部屋に閉じ込もり自問自答していたという。ある時、「母さん、ゴメンよ……」と呟くと、ボストンバッグひとつを抱えて家を飛び出し、東京都目黒区に借りた三畳一間のアパートで暮らしていた。一人暮らしののんきさに浸っていた時、東京都新宿区の街角で、バッタリ東京都立白鷗高等学校時代の友人に出会い、つい懐かしさのあまりアパートへ連れ帰り、暮らしぶりなどを自慢して聞かせたりしていたという。翌日、噂を聞きつけ駆けつけた2人の兄に、「二度と帰るまい」と誓った我が家に連れ戻されてしまったという。既に早稲田大学の入試は終わっていたため、「大学進学だけは免れるだろう」と思っていたが、兄が入試の終わっていなかった國學院大學の願書を取り寄せて提出できるようにしていた。大学は行く気がなかったが、兄に「大学に行ったって、演劇活動はできる」と説得され、渋々受験した。1956年、同高校卒業後、國學院大學に進学。

大学入学後は講義に出席したのは7、8回だけだったといい、その後はしばらくアルバイトなどをしてブラブラしていたという。また毎日演劇部に通っていたが、演劇部の先輩はその頃ほとんど劇団四季に行っており、その流れで野沢も劇団四季のジャン・アヌイやジャン・ジロドゥの芝居を見るようになったという。それまでが四畳半的な日本的情緒の世界一色だった反動であり、「目の前がパーっと開ける」という感じで西欧志向へとなだれ込んでいったという。大学の先輩に劇団四季の関係者がいたため、その研究生にという話がとんとん拍子に進んだという。大学3年生の頃から、劇団四季の金森馨のもとで大道具などの仕事を手伝うようになるが、金森から「発想は良いんだけど、絵は下手だなァ。辞めたほうがいいよ」とアドバイスを受けたことで舞台監督を目指すようになる。その当時、ほぼ内定という時に劇団四季の研究生達が上部に内証でしていた公演に誘われるまま知らずに参加していたところ、劇団に無断で行っていた公演だったため、内定取り消しの処分を受けてしまって出入り禁止になったという。その時知り合っていた演出家の駒形俊一と行き場を失ってしまったことで「よし!2人で劇団を作ろう!」ということになり、在学中に「劇団城」を結成し、ジャン・ラシーヌとジャン・コクトーの作品で旗揚げをすることになったという。1960年に大学を中退。しかし幕を開けてみたところ客席はガラガラ、客の数は出演者の数よりも少ないという有様で、その後も公演を何回か試みたが、いずれも客が入らず、劇団は解散。その後は3年くらい舞台監督をしていたという。その時、稽古場で演出家が偉そうに役者を指示を出したり理屈を言ったりしており、それを見て「カッコいいな〜。どうせなら俺も演出家になりたいな」と劇団七曜会に演出家研修生として入団。だが、主催の高城淳一に「とりあえず役者やれ」と言われたことで舞台に出ることになり、それから3年ほど、七曜会で舞台役者を続けることになった。

七曜会へ入団後、アルバイトとして高城が浦瀬キャップ役で出演していたNHKで放送する生放送のテレビドラマ事件記者』の仕事に呼ばれ参加するようになる。だが、いつも犯罪者少年などの役であり、3カ月ほど経過したころにNHK側もキャリアの浅い野沢の起用を問題視するなどしたことで、困惑した野沢が劇団に「ドラマだけは勘弁してくれませんか」と頼んだところ、吹き替えの仕事を紹介され、七曜会がユニット出演していた海外ドラマ『ハーバー・コマンド』に出演。これが声優デビューとなった。

劇団七曜会を退団後、役者仲間と「劇団城」を復活。初めて舞台演出を担当するが、難しい演目ばかり公演したことで客足は遠のき、たちまち運営に行き詰ったことで劇団は分裂。責任者の野沢は3年間で370万円(現在の2000万円ほど)もの借金を抱え、友人の家を転々としながら15円のコッペパンで「今日は食べたぞ!」と満足するほどの赤貧生活を送ることとなる。

借金返済の見通しも立たず困り果てたある日、銀座の街を歩いていると、先輩である八奈見乗児と偶然出くわした。そこで野沢は「何か仕事が無いですか?」と尋ねると、八奈見から「アテレコやればいいじゃないか」と東京俳優生活協同組合(俳協)を紹介され、俳協に所属することになる。野沢は最初、冗談だと思ってまともに取り合わなかったが、3か月もしないうちに八奈見にばったりと出くわし、「もう事務所に連絡入れたぞ」と言われて俳協に連れていかれた。そこは裏通りにある魚屋の2階で、階段も狭く「俳優の事務所っつったって汚ねぇんだな。何ていうプロダクションなんだろう」とよく見てみると俳協だったという。その後は野沢本人によると「アテレコで若い男の役といえば野沢那智」という感じで次々と仕事が回ってきたといい、1日3本こなすなど本格的に声の仕事を始めたという。

1963年、劇団薔薇座を設立。俳協所属から約1年半経過し借金が半分になったこともあり、演出家としての活動に専念しようと役者業の引退を考えた。その趣を俳協へ伝えると「最後にこのオーディションに行くだけ行ってきてよ。ほとんどキャストは決まっているので、落ちるから大丈夫」と言われて紹介されたのが『0011ナポレオン・ソロ』であった。気楽にオーディションを受けた野沢だったが、なぜか愛川欽也が内定していたイリヤ・クリヤキン(デヴィッド・マッカラム)役に決まってしまったといいい、そして『0011ナポレオン・ソロ』が視聴率40%ほどを取る大ヒット作となったため、役者をやめるわけにはいかなくなったとのこと。また、このような経緯で野沢自身も人気を獲得し、本人いわく「それから声の仕事を本気でやる気になりました」とのこと。アニメのデビュー作は1963年の『狼少年ケン』。

その後、数多の洋画吹き替え・アニメ作品で声の出演、またラジオDJ・ナレーションなどを手がける。劇団薔薇座などでは舞台プロデュース・舞台演出でも活躍した。

1988年、劇団薔薇座の第21回公演ミュージカル『スイート・チャリティ』で文化庁芸術祭賞を受賞。

2003年、オフィスPACを設立。付属養成所のパフォーミング・アート・センターにおいて声優や舞台俳優を目指す人材を育成。設立当初は代表取締役として在籍し、声優としては賢プロダクションに所属を続けていたが、2008年5月頃に賢プロダクションを退所し、事実上オフィスPACへ移籍した。一時は青二プロダクションにも所属していた。

2008年第2回声優アワード功労賞を受賞。

2009年後半、この頃から次第に体調を崩し始め、一時仕事を完全にストップして治療に専念すると宣言するなど、仕事のセーブに拍車がかかる。

2010年、7月頃までは指導にあたっていたが、夏に精密検査を受けた結果肺がんを患っていたことが判明し、8月から入院。抗がん剤などで治療生活を送るも、容態は一向に回復せず、10月26日に都内の別の病院へ転院。この頃には、もう会話することすらできなくなっていたという。妻や長男、親族、自身が代表を務める養成所の生徒たちに囲まれながら、10月30日午後3時36分、肺がんのため、死去した。72歳没。墓所は雑司ヶ谷霊園。

2011年2月14日にお別れの会が行われ、山寺宏一や羽佐間道夫をはじめとした580人が参列した。祭壇には野沢が愛用していた物や舞台演出した台本、息子の贈り物などが飾られた。弔辞を読んだのは野沢とラジオで長年コンビを組んだ白石冬美で「どこも痛くなくなった今、空の上から見守ってください」と別れを惜しんだ。

2011年3月5日に行われた、第五回声優アワードで特別功労賞が贈られた。声優アワードの生前、没後双方での受賞は初となる。

人物・特色

芸名の由来は、公私ともに本来の読みである「やすとも」と呼ばれたことがなく、結果的に音読みの「なち」がそのまま定着したことによる。

声種はバリトン。収録の際は、台本を持ちながら体をくねらせて発声する独特のスタイルを持っていた。その光景を間近で観察していた後輩の若本規夫は後に「細身でありながら深みのある声を出すために、横隔膜や骨盤底筋を使っていたのではないか」と推察している。

役柄としては主に青年役を担当しているが、時に中年・老人役も演じる。声質からアニメやゲーム作品においては、『キングダムハーツ Re:チェインオブメモリーズ』(ヴィクセン)や『ルパン三世 ルパン暗殺指令』(ジョン・クローズ)のような悪役を演じるイメージが強いが、『チキチキマシン猛レース』(ナレーター〈実況〉)のような熱血漢、洋画吹き替えではアラン・ドロンやジュリアーノ・ジェンマ、ロバート・レッドフォード、ジェームズ・ディーンなどの二枚目役、また雰囲気を変えた三枚目もこなす。本人によれば「狂人が得意分野」とのことで、「キレるのは易しい」と語ったこともある。『悟空の大冒険』で担当した三蔵法師がいわゆる「おかま」になったのはアドリブからである。

アル・パチーノやクリストファー・ウォーケン、ダスティン・ホフマン、デニス・ホッパー(『スピード』)といった狂気がかった役の吹き替えが多いが、本人はジェラール・フィリップとトム・ハンクス全出演作を吹替えるという夢を持っていた。前者はナレーションを担当した『星の王子さま(CD-ROM版)』で一部実現したが後者は一本も担当したことがなかった。笑いの要素が好きで演技にも感動させられると語っていた。

特技は歌舞伎の声色。

主な吹き替え担当俳優

アラン・ドロン

1969年頃、アラン・ドロンの吹き替えを初めて担当。数人いるドロン担当声優のひとりとなる。『日曜洋画劇場』で主にドロンを担当していた堀勝之祐などと比べ、ドロン担当として野沢は比較的後発の存在だったが、やがて1970年代後半頃から、ほぼ全局で野沢がドロンの吹替を担当するようになり、茶の間にも「アラン・ドロンの吹替といえば野沢那智」のイメージが浸透していった。野沢に先んじてドロンを多く吹き替えた堀も野沢が担当した作品を観た際には「僕は彼の演技にのれないことが多々あったが、野沢さんの場合はぴったり合っている」と評している。

ドロンを担当するようになった経緯ついて、野沢本人は後に「『太陽がいっぱい』で堀勝之祐がドロン、自身がモーリス・ロネを吹き替え放送したところ、しばらくして春日正伸の提案で配役を逆にして録り直し放送した。これで初めてドロンを吹き替え、その後多く吹き替えるようになった」と述べている。ただし、野沢がロネを吹き替えた音源はなく、とり・みきの調査では野沢が初めてドロンを担当したのが『黒いチューリップ』となっているため、真相は不明である。

野沢がドロン担当声優として有名なため、演劇・映画の関係者や評論家、役者たちのコラムや寄稿において「アラン・ドロンから連絡を貰った」「稽古場でアラン・ドロンがソバを食べていた」など、冗談でアラン・ドロン扱いされることも多い。東映制作の特撮テレビドラマ作品『仮面ライダークウガ』(2000年)の第37話では劇中で「アラン・ドロンの声をやっていた人物」として野沢の名前が登場する。また、野沢はドロンがダリダとデュエットし、ヒットしたシングル『あまい囁き(Parole Parole)』の日本語版にも参加している。過去には戸田奈津子の仲介でドロン本人と対面したことがあったものの「もう少し上手な人に吹き替えてもらいたい」と言われ、当初はお墨付きには至らなかったものの、80年代に執り行われたドロンと会食ができるフランス・パリの観光ツアーでは野沢がドロンと同行しており、その後の両者の関係は良好であったという。

アラン・ドロン自身の声は、野沢が演じるものより低い声である。ディレクターも交えて(冗談まじりに)ドロンに似せた低音で演じてみた時、その声で日本語を話すと重くなりすぎ、泥臭く聞こえてドロンの外見のイメージと合わないことがわかった。そこで「ドロンの顔つきや体つきからイメージされる、甘さのある柔らかい雰囲気で」との方向性で声のトーンを決めていったという。「アラン・ドロン自身のような低音でフランス語を話してると響きが良いんですけど、その声で日本語を話すと聞こえ方が違う」と、日本語とフランス語の聴感の違いも感じさせる回答を野沢は述べている。また、ドロンの顔と体のイメージから、演技としても大芝居を避けて「さらりと、さざ波のような感じで声を出そう」という演技方針を固めていったが、「さざ波って言ってもねえ…それが…難しいんですよ」と実感を込め、二枚目を吹き替える難しさを振り返っていた。

野沢は「二枚目という端正な魅力を生かすには、汚い日本語では絶対に成立しない。正確にいうと、アラン・ドロンを演じているわけじゃない。彼が映画の中で役を通して表現したかったことを、日本語で表現している」とインタビューで話している。

役作りについては「3日前からドロンになれてないと収録できない」と話しており、ドロンが演じた多くの役のような孤独で人間関係には器用でない役を吹き替える際は、当日できるだけ収録本番まで人に会わないように現場に入り、挨拶もほとんどしないという。いわば担当する人物の人間関係そのままに振る舞うという行動で「孤独な役をやるんなら、世間話してると物語に入れないんです」と話している。野沢によると、オードリー・ヘプバーンの吹替で知られる池田昌子も同様の役作りをしており、特に野沢と池田が会話の少ない役で共演する時は、本番以外ではほとんど会話しないという。

野沢にとっては、収録の際のマイクに対する立ち方も役作りのひとつになっており、ドロンの吹替の時は大抵左端のマイクを使い、隣の相手役にも敢えて向き合わずに収録するという。その位置は「人と関わらない立ち位置」だといい、「いわば壁を作ってる感じで…相手役の台詞は聞きますが、相手役は見ないし、体も寄せてません。見ながらやると関わってしまうので…」という状態で演技することが多い。作品映像を見ながら演技する吹替現場において孤独な役を吹き替える際には「その位置だと、映像がいちばん遠くなるので合理的じゃないです。でも、そういう他人と関わらない位置でやらないと、やり辛い」とし、ドロンを吹き替える上での野沢流の“作法”を明かしている。

ドロン若き日の代表作『太陽がいっぱい』について、野沢は作品自体、またドロンの演技も高く評価している。この作品はテレビ放映の機会も多く、テレビ放映のために現在まで少なくとも6種の吹替が製作され、そのうち野沢は3度ドロンを担当している。2008年にこの映画のスペシャル・エディションDVDが製作され、「野沢ドロン」の吹替収録が決定、野沢は収録の候補になった1972年放映版と1984年放映版を久々に見直した。1972年版について野沢は「出だしのころの台詞なんて、気恥ずかしい出来です」と当時30代だった自分の演技の未熟さを振り返ったが、「『一攫千金を狙う貧乏な青年』の雰囲気は、下手なりに出ていたのかなあ」と懸命でもあったと評し、72年版で共演のモーリス・ロネを担当した堀勝之祐の芝居の見事さや、「サスペンスの雰囲気も出ていて、作品全体としては72年版の方が出来が良い」と最終的に72年版のDVDへの収録に同意したという(見直してみて、野沢自身、自分の演技としては84年版での演技のほうが納得できる部分もあると振り返っており、野沢没後の2017年12月に発売となった4Kリストアブルーレイ・同DVD版には72年版と84年版の両吹替が収録されている)。

2007年、テレビ東京にて『太陽がいっぱい』を「野沢ドロン」で新規収録する企画が決まり、局側から打診を受けた野沢は「(オリジナルの製作当時20代だった)あの頃のドロンに見合った声と気持ちで演じるのはもう無理」と70歳を翌年に控えた自分の年齢などから断ったが、「今電話でお聞きしてる声なら大丈夫、気持ちもやってみたらきっといけます、また新しくこの作品を作りましょう」と局側から口説かれ、収録に応じたと2008年6月のインタビューで語った。インタビュー当時野沢は自身3度めの『太陽がいっぱい』の仕上がりをまだ見ておらず「見るのが怖い」と明かしていたが、映画は08年7月に放映されている。

幼い頃父を亡くしたという経験がドロンと野沢には共通しており、野沢が生い立ちに言及した際は「共通点があるから、彼の作品を理解しやすいのかもしれない」と振り返っていた。

ドロンが日本で本国フランス以上ともいえる人気を博した理由についても野沢なりの分析を述べている。「(ドロンの映画には)泣かせ方というのか、物語に日本的情緒があって、彼は“信義や友情を大事にする熱い男”という役をずっと演じていた」と、当時の日本人に訴えかける男性像だったことを人気の要因として挙げた。また「彼の顔立ちも、本当に外国人という感じじゃなくて、日本人にもいそうな顔立ちだった」ことも観客には親近感があったのでは、と述べている。加えて1980年代のインタビューでは、「最近はアラン・ドロンが映画を撮っても、日本の劇場ではやらないです。お客が入らないらしくてね、今のお客さんとちょっとズレちゃった」とドロンの人気の衰えについても言及し、長く担当してきたドロンへの愛着を感じさせる回答を残している。

以上のように苦労もありながらも、ドロンの作品に多く共感できることや、約35年にもわたって関わり続けてきたことなどから「どれだけの人数を吹き替えてきたかわからないけど、アラン・ドロンが一番やりやすいです」と野沢は答えていた。

担当したドロン作品の中では、冒険活劇としての面白さから『黒いチューリップ』、『アラン・ドロンのゾロ』の2作、また作品の出来栄えに感銘を受けたとして『地下室のメロディ』を挙げ、また「演じていて面白かった」と『ブーメランのように』を、更に『高校教師』も印象に残る作品として選んでいる。

ドロンでの実績もあり、ロバート・レッドフォードなど、他にも多くの二枚目俳優を担当したが、約30年担当したレッドフォードについても「顔がきれいで印象を壊しちゃいけないから、タッチの強い台詞が言えない。いちばん難しい」と語っていた。マイクの位置について、野沢はレッドフォードを吹き替える際「(マイクが4本あったら)一番右のマイクに行き、共演者の皆が見える所で演じると、フランクな気持ちになって、楽になってやりやすい」としており、レッドフォードの役柄に応じ、ドロンを担当する際とはまた異なった工夫をして臨んでいた。

アル・パチーノ

ドロンと並んで、アル・パチーノの吹替も日本人に一番馴染み深いフィックスとしてファンから高い支持を得ている野沢の持ち役の一つである。野沢は長年、各年代のパチーノの代表作をほぼすべて手がけた。パチーノの演技力について野沢は「僕が考える演技の枠を越えてます」と語って感嘆していた。

パチーノの出世作・代表作となった『ゴッドファーザーシリーズ』でのマイケル・コルレオーネ役は「段々とマフィアに染まっていくアル・パチーノの野沢の声の芝居が凄い」「インパクトが強く、後に字幕版で見た時よりも吹き替え版の方が良かったと思えるほどハイクオリティ」として高く評価されたことで、以降は3部作すべてを担当。3作目では長いブランクを経たことで、初回放送局が日本テレビ(『水曜ロードショー』)からフジテレビ(『ゴールデン洋画劇場』)へと変わっても野沢が続投した上、第3作のソフト版でも担当した 。

同シリーズにおいて、野沢は全作に渡ってパチーノを演じている唯一の人物であるが、1・2作目の市販ソフトに関してはそれまで山路和弘(DVD版)や森川智之(Blu-ray版)など野沢版とは異なるキャストによる新録版のみの収録に留まっており配役が統一されず、3作目を除くと野沢版のソフトでの鑑賞が不可能となっていた。本シリーズの野沢版はザ・シネマで現代にあわせてHD化・ワイド化(ノートリミングのビスタサイズ)が行われた上で放映されたのち、『ゴッドファーザー 吹替完全版 ブルーレイBOX [初回限定盤]』に当時の吹替台本を復刻・縮刷したものを付録として付属した上で全3作を収録したものを発売する予定であったが、中止となる。その後、2017年7月21日にNBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンより発売された『ゴッドファーザー45周年記念ブルーレイBOX TV吹替初収録特別版』で初めて1作目の野沢版がソフトに収録されることとなった。なお2作目は5年間、野沢版はソフト未収録のままだったが、2022年発売予定の『ゴッドファーザー トリロジー 50thアニバーサリー4KUltraHD+ブルーレイセット』に同梱のBlu-rayディスクに収録されることが決定し、同年3月25日に発売されて、市販ソフトで三部作全てを野沢の吹替で視聴可能となった。

『ゴッドファーザー』で担当した際、パチーノの緻密な表現に接したことを「彼のひとつひとつの演技すべてにはっきりした解釈を要求されて『お前に演れるか?』と挑まれた思いだった。俳優として、人間としての洞察力まで試された経験」と画面の中のパチーノとの真剣勝負を振り返り、パチーノの演技水準が高いこともあって「芝居が読み取れなくて本当に大変。難しいんだけど、あの芝居に触れられたのはすごい刺激」と語っており、当3部作を「映画の面白さ、演じることの楽しさを一番経験した仕事」として、キャリアの中で一際思い入れの深い仕事に挙げている。パチーノ演ずるマイケルの父親ヴィトー・コルレオーネ役のマーロン・ブランドの吹替を担当した鈴木瑞穂は本作における野沢の演技について「シャープでキレの良いセリフまわしには驚かされ、まさに役にふさわしいと思いました。改めて声優の第一人者だったと思い出されます」と振り返っている。

なお『ゴッドファーザーシリーズ』で「ごくごく平凡な青年の声だった野沢が、パート3で年季の入ったボスを演じると途端にドスが効いており、マイケルと野沢の成長がシンクロした。(中略)『ゴッドファーザー』にも別の物語が生まれた」などと形容されるように、アル・パチーノ本人と同様に当初はクセのない抑えた演技をしていた野沢が、後年になるに従いアクの強い芝居を得意とするようになり、野沢とパチーノの芝居の傾向の変化が一致したことも含めて高く評価されている。

パチーノの吹替を担当した当初は「どうだ、俺うまいだろう」と得意になって演じていたと振り返っているが、後に野沢はニューヨークのブロードウェイでアル・パチーノ本人の出演する『アメリカン・バッファロー』の舞台を鑑賞する。その際、野沢はパチーノの凄まじいマシンガントークと肺活量に脱帽し、「あんたどこで息吸うの?ってくらい。あれ観ちゃうといけないね。巨人ですよ、まさに天才、ほんとに。狂気の如き演技。」とパチーノの技術を高く評価したと同時に、完全に圧倒されたと述べた。その後「この人と同じ芝居なんかやれない、俺には。どうしたもんだろってすごく悩むようになっちゃった。」と葛藤していたものの、とにかく取り組むしかないと感じ「彼がやっている芝居を日本語でそのまま再現できたら、役者としても面白いし意味もあるんだろうなぁ」と語り、その頃から真面目に、一生懸命に芝居をやるようになり、それからは「一作一作が闘い」もしくは「その人の演技との真剣勝負」という意識でアフレコに挑んでいたとのこと。

男性的で先頭に立つ役柄も多いパチーノの吹替の際は堂々たる雰囲気を心がけ「真ん中のマイクの前に立って、周りを睥睨するぐらいの気持ちでやらないと、雰囲気が出ない」という。

同業者間でも誰もが「アル・パチーノといえば野沢那智」と認識しており、パチーノのファンでもある辻谷耕史は、高校時代に鑑賞したパチーノの映画で吹き替えていた野沢を知って「機関銃のように喋っていて、とにかく凄かった」と初めて声優を意識したと語っているほか、上述の通り『ゴッドファーザー』を2001年の新録で担当した山路和弘は「さぁ、どうしようかな。僕は野沢那智さんみたいにはできないから」と苦悩があったことを明かしており、『ゴッドファーザー テレビ完全版』(テレビ吹替版放送時は「ゴッドファーザー・サガ」の題名だった)で一度だけパチーノを吹替えた山寺宏一は「パチーノといえば野沢那智さんなのに…」と「プレッシャーに潰されそう」になりながら懸命につとめたと述懐している。また、山寺がパチーノを演じたことを野沢が耳にしたと聞き、後に野沢と共演した際、山寺は恐縮していたが「お前なら許す」と言われ、本当に涙が出るほど嬉しかったといい、「頑張れよ」などの激励された時の言葉を一生忘れられない言葉として回想し、「まだまだ全然追いつけませんが、少しでも那智さんに近づけるように僕もがんばっていきたいと思います」と野沢が亡くなった際にコメントを残している。。『フェイク』で野沢のパチーノと共演するジョニー・デップを吹替えた平田広明も、年老いたパチーノを吹替える野沢の芝居を見て「これはやはり一緒に録らないと、那智さんの『圧』が直接ないとできないだろう」と確信し、感銘を受けたと述べた。2000年代前後にテレビ東京の『木曜洋画劇場』で旧作を放映する「20世紀名作シネマ」枠での新録版『スケアクロウ』(本作では野沢がパチーノを吹き替えた版は存在しない)において平田はパチーノを吹替えており、その際には「アル・パチーノをやったというよりも那智さんをやらせてもらった、みたいなイメージでとても嬉しかった」と感激したといい、これらのエピソードを踏まえた上で、「まだ新人の頃から一人前の役者として扱っていただいてすごく嬉しかったです。すごい自信になりますよね。大御所に名前を呼び捨てにされるというのはとっても嬉しいですね。『平田、芝居やってんのか』って。まだまだ教えてもらいたいことが沢山あったんですけどね」と悔やみつつ、野沢を偲んだ。

吹替の創生期から数々の大作洋画の吹替演出を担当し、大御所とも評される音響監督・演出家の小林守夫は記憶に残っているベスト・フィックスとして野沢のパチーノを久米明のハンフリー・ボガートと共に挙げている。

2017年からオンデマンド配信されているNetflixのテレビドラマシリーズ『マインドハンター』の第1話では劇中においてパチーノの代表作である『狼たちの午後』が上映される場面が存在する。この日本語吹替版では野沢がパチーノを吹替えたフジテレビ版の吹替音声(1979年「ゴールデン洋画劇場」で初放映)が使用されている。

また、2022年からU-NEXTでオンデマンド配信されている『ゴッドファーザー』のパラマウント映画の製作について、マイケル・トルキンによって描かれたアメリカの伝記ドラマのミニシリーズである『ジ・オファー / ゴッドファーザーに賭けた男』にはアンソニー・イッポリート演ずる若き日のパチーノが登場しており、日本語吹替版では野沢の息子である野沢聡が演じた。

パチーノと同様に演技派俳優として名高いダスティン・ホフマンの吹替も数多く経験、ホフマンを吹替える時も「周りを見ながら演じられる位置」に立って収録すると野沢は語っている。また洋画劇場時代には上記2名と同様にオフ・ブロードウェイで初舞台を踏み、演技派として高い評価を受けているジェームズ・ウッズも持ち役にしており、ウッズの吹替に関しては「彼は普通のセリフの合間に変なブレスを入れて来るのでアテづらい」と難色を示していた。パチーノやホフマンなどの吹替の際は「疲れるけど、大声を出しても大丈夫」もしくは「声がどんなところから出ようが平気な感じがある」とも話して、彼らの芝居に寄り添うには思い切った表現も効果的だと考えており、ドロンなど正統派の二枚目を吹き替える場合との違いを明かしている。

ジュリアーノ・ジェンマ

キャリア初期にはマカロニ・ウェスタンで活躍したトップスターである二枚目俳優ジュリアーノ・ジェンマも吹替の持ち役にしており、同じく西部劇に数多く声を当てた納谷悟朗や山田康雄、小林清志、大塚周夫らと共に映画番組でのマカロニ・ウェスタンの放映を支えた吹替役者の一人となった。先述の通り晩年には「アラン・ドロンが一番やりやすい」としていた野沢だが、当初はドロンの熱狂的ファンからの「なんで日本語にしたんだ」といった理不尽なクレームの電話に悩まされ、逆にドロンはやりづらかったと言い、それと対照的に一番やりやすいと告白していた俳優がジェンマであった。

野沢はジェンマが“モンゴメリー・ウッド”の芸名で活動していた時代の『夕陽の用心棒』、それから芸名を本名のジュリアーノ・ジェンマへと変えた後の『荒野の1ドル銀貨』『南から来た用心棒』『星空の用心棒』『怒りの荒野』といったジェンマの出世作・代表作を立て続けに吹替えており、『特攻大戦線』『バスタード』『タイタンの逆襲』などの非ウェスタン作品も担当。ほとんどの主演作を吹替え、ジェンマのフィックスとして定着した。

野沢は1970年代にジェンマが『ゴールデン・ボーイ 危機また危機』(1973)のプロモーションを兼ねて来日した際にNETの企画で対面し、ジェンマ本人からの公認を得ている。翌年のインタビューでは「ジェンマは去年の来日の際、NETで会いましたが、彼こそカントリー・ボーイって感じで嬉しかったねえ。本当に楽しそうな人ですね。彼の吹替えが一番やりやすいなあ。このままの声でやれるし、芝居のタッチも強く、セリフのメリハリが効きますから」と証言している。

また玄田哲章は、野沢が吹替えるジェンマを観ていて大変勉強になったといい「言葉の大切さ、言葉を前に出すという事」の大切さを実感したと述べ、ドロンと共に心に残った芝居のひとつとして野沢のジェンマを挙げた。

なお、野沢が吹替えを担当したジェンマの出演作のほとんどはインディーズ系作品であり、権利元も独立系配給会社であったことから、その権利の移行の際に吹替原版が引き継がれずに消失したり、放送局毎に松橋登(野沢に次いでジェンマの声を多く担当、主に日本テレビ映画番組で起用されていた)や柴田侊彦(『星空の用心棒』TBS版で担当、現在権利元に保管されているバージョンである)など、野沢以外の俳優による吹替が新規に制作され、リピートにはそちらの新録版が使用されることが増えていったために複数のバージョンの中で比較的制作年の古い野沢が吹き替えたものは年々放送される機会が減りつつあった。近年ではマカロニ・ウェスタン作品のソフト化にあたって過去のテレビ版吹替を収録する際には、ファンの声に応えてジェンマ=野沢那智のバージョンの吹替版が捜索された上でセルソフトに収録される機会が多くなっている(主な例としては『荒野の1ドル銀貨』『続・荒野の1ドル銀貨』『さいはての用心棒』『怒りの荒野』『特攻大戦線』など)。

デヴィッド・マッカラム

デヴィッド・マッカラムは高めの声で演じ、吹替草創期における低音のイメージを覆した俳優である。

俳協に移籍後、演出をやろうと考えていたため63年に劇団薔薇座も設立したことを機に「アテレコはもう辞めよう」と思い切って事務所に相談した際に「いいよ。でも最後に一つだけ、これ愛川欽也さんに決まってるんだけど、一応このオーディションだけ行ってきて」と『0011ナポレオン・ソロ』でマッカラムの演じるイリヤ・クリヤキン役をオファーされた。スタジオに入るとミキサールームにいた音響監督の男性が30秒ほど野沢を見つめた後、「よし、お前でやろう! 決めた!」と言い放ち「えっ、僕は辞めようと…」と言いたかったものの、俳協の代表で来たため辞めるわけにはいかず「とりあえずしゃべってみろ」ということになる。

野沢は「アテレコの声をいかにつくるか。見合いをするようなもので、僕は直感に頼ります」と語り、当時アテレコで主流だった低音ではなく、高く、はずむようなテンポの声を選択したという。当時、外国人は低音が売りの役者が多かったために、本人曰く「低音ブーム」と呼ばれていたと語っている。しかし、そこで野沢はマッカラムの顔を見た瞬間、「この人は低音じゃできないよな。若くてひょろひょろしてるし」と思い、どうしたらこれを吹き替えられるか考えたところ、低音の役者と比較的高めの声でとっさに思いついた「あわわ〜」という頭のてっぺんから出るような声で台詞を発した。すると音響監督には「よし、それで行こう。それで決まり」とこの声が認められて決まったが、「おい、毎週この(高め)声でねぇよ俺」と漏らすほど苦労していたとのこと。結局、辞めるわけにもいかなくなり、ドラマは5年ほど続いたが、本作のマッカラムの吹替えは野沢のアテレコ(吹き替え)人生における最大の転機となり、その後、洋画、アニメの仕事が次々舞い込んだ。

ブルース・ウィリス

後年には、「日曜洋画劇場」で主に担当していたブルース・ウィリスを吹替がやりやすい俳優の一人として挙げていた。

ウィリスの代表作『ダイ・ハード』(「日曜洋画劇場」で1990年初放映)の吹替においては、オファーが来た際、「こんな太い首してる男を俺がどうやったらいいんだ」と困惑したものの、「野沢さんならこのブルース・ウィリスの気持ちがわかる」と説得され、参考としてアフレコ前に先に流通していた樋浦勉の吹替(ソフト版、もしくは機内上映版)を視聴し、研究してから収録に臨んだが、息子の野沢聡によると野沢は樋浦の演技を見て「俺にはこういう市井の労働者っぽいの出せない」と漏らしていたという。野沢の演技のほとんどがアドリブであり、細身ながらアクションを演じていたところ、酸欠を起こし、酸素ボンベ常用で演技したという。本作は野沢にとって印象的な仕事になり、野沢はいまだに台本を保存していると語った。この台本は、後に「吹替の帝王」レーベルで発売された『ダイ・ハード』に特典として縮小版が付録として付属した。本作でのウィリス演じる刑事ジョン・マクレーンは「人間臭くてユーモアを忘れないところが良い」と野沢のお気に入りのキャラクターのひとりで、野沢が亡くなるまでに製作されたシリーズ4作で吹き替えを担当。野沢に先んじてマクレーンを担当した樋浦も、野沢のバージョンについて「上手かった。それで流行って世の中に浸透した。那智さんが素っ頓狂にパッと行けたのは、彼の才能ですよね。だからこそ、お客さんが彼の吹替版のファンになっているというのもあるんでしょうね。」と高く評価している。

死去後2013年に公開された5作目では、マクレーンの息子役には実子である聡が起用され、マクレーン役は弟子に当たる中村秀利が野沢の後任として新たに担当した。その後は他作品でも中村がウィリスを複数回担当。また、中村も2014年に死去し、その後に行われた野沢のバージョンの追加録音などは岩崎ひろしが担当するようになっている。

クリント・イーストウッド(代役)

山田康雄の没後、山田が吹替を担当していたクリント・イーストウッドをいくつかの作品で引き継いでいる。

イーストウッド作品で最初に吹き替えたのは『ザ・シークレット・サービス』(1996年「日曜洋画劇場」で初放映)。この作品の依頼の際、山田に似せて演技してほしいとスタッフから促され引き受けたものの、自分の芝居ができないことに悩み、結局録音は、山田に似せた演技と、“野沢イーストウッド”がそれぞれ含まれる仕上がりになった模様で、野沢は「半端な出来」と仕上がりを評し、この作品に関してやや後悔も感じられる感想を述べた。また、「結局演出の希望通りにすると、ヤスベエ(山田)の芝居を姑息に真似する結果になっちゃうし、意識しないように心がけてもやはり当人の芸を見てきてしまっただけに苦しい。それにイーストウッドの芝居はその感覚がつかみ難い」と難色を示している。ただ、その後もイーストウッドの吹替には関わっていた。

2024/06/11 01:19更新

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