青山胤通の情報(あおやまたねみち) 医学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
青山 胤通さんについて調べます
■名前・氏名 |
青山胤通と関係のある人
北里柴三郎: 同じ頃、東大も青山胤通を派遣するが、青山は不運にもペストにかかってしまった。 樋口一葉: しかし一葉は治療法が当時なかった肺結核が進行しており、8月に斎藤緑雨の依頼を受けた(自らも医者である)森鷗外が、当代随一と言える樫村清徳、青山胤通らの医師を頼み往診に向かわせたが、恢復が絶望的との診断を受けた。 明治天皇: 侍医では対応できなくなり、20日青山胤通と三浦謹之助が診察し、尿毒症と診断した。 小林愛雄: 晩年の樋口一葉を診察した青山胤通は義兄にあたる。 北里柴三郎: しかも、その伝染病研究所は青山胤通(東京帝国大学医科大学校長)が所長を兼任することになるが、北里はこの決定に猛反発し、その時もまだ東大と反目していた為、すぐに所長を辞任した。 熊谷岱蔵: 一高、東京帝国大学医学部卒業後、青山胤通の内科学教室に入局。 三浦謹之助: 侍医では対応しきれなくなり、7月20日、東京大学の青山胤通と三浦謹之助が診察した。 稲田龍吉: 洋学校を経て上京し、共立学校などの予備校に在籍した後、第一高等中学校を経て1895年(明治28年)帝国大学医科大学(現 東京大学医学部)に入学、1900年(明治33年)に首席で卒業し、青山胤通教授の内科教室に入局。 三浦謹之助: 村井弦斎、長岡半太郎、田中館愛橘、鈴木万次郎、芳賀栄次郎、青山胤通、北里柴三郎、浜田玄達、三宅秀、エルヴィン・フォン・ベルツ、ユリウス・スクリバ、ルイ・パスツール ロベルト・コッホ、パウル・エールリヒ、ジャン=マルタン・シャルコー、カール・ゲルハルト、フェリックス・マルシャン、ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー、ルートヴィヒ・キュルツ、ウィルヘルム・エルブ、竹下勇中将、吉岡弥生、橋本綱常、藤浪鑑、石黒忠悳、長谷川泰、高木兼寛、後藤新平、福田得志、島薗順次郎、高橋忠雄、吉利和、緒方知三郎、勝沼精蔵、村地長考、植松七九郎、西野忠次郎、武谷広、加藤豊治郎、塩谷不二雄、福島東作、井村英二郎 森鴎外: 01月 - 中浜東一郎(中浜万次郎の長男)、青山胤通らと共に公衆医事会を設立、『公衆医事』を創刊。 |
青山胤通の情報まとめ
青山 胤通(あおやま たねみち)さんの誕生日は1859年6月15日です。東京出身の医学者のようです。
現在、卒業、病気、父親に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1917年に亡くなられているようです。
青山胤通のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)青山 胤通(あおやま たねみち、安政6年5月15日(1859年6月15日) - 大正6年(1917年)12月23日)は、日本の医学者。専門は内科学。医学博士。1906年、帝国学士院会員・勲三等瑞宝章、1916年、勲一等瑞宝章、1917年12月14日、男爵叙爵。 江戸の麻布広尾の苗木藩下屋敷で藩士・青山景通の三男として生まれ、美濃国恵那郡苗木(現在の岐阜県中津川市苗木)にて育つ。幼名は捨松、助松。 1869年、平田信胤(平田鐵胤の子)の養子となり胤道と改名するが、1871年に養父の信胤が亡くなったため青山家へ戻る。 1882年 東京大学医学部卒業後、東京大学医学部病理学教室助手に就任。1883年にドイツに留学し、ベルリン大学でルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウに師事する。1887年に帰国後、東京帝国大学医科大学内科学第一講座(青山内科として君臨)教授。1891年に医学博士。その後、東京帝国大学医科大学長、伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)所長等を歴任。明治天皇の侍医、宮内庁御用掛を務める。1894年、イギリス領香港にて発生していた伝染病の調査のために北里柴三郎らと共に現地へ派遣され、ペストであることを突き止めた。のち治療および調査研究に従事したが、青山自身もペストに罹り、生命の危機に陥っている。出立前に妻に、生きて帰れないかもしれない旨を伝えてあった。また、青山が感染したことを知った樋口一葉は「知らぬ人にもあらぬ仲なれば、殊に哀なり」と述べている。 1908年癌研究会を設立し、会頭を務める。 1917年(大正6年)12月23日、食道癌のため死去。同日に政府により特旨で一級を昇進され正三位に叙せられる。翌12月24日に東京帝国大学医科大学病理学教室にて解剖に附された。葬儀は青山斎場にて神道により行われ、台東区谷中の谷中霊園に葬られた。東京大学薬学部東側に新海竹太郎作の銅像がある。 森鷗外とも親交があり、鷗外の親友である原田直次郎の治療や、1896年(明治29年)には鷗外がその文才を高く評価した樋口一葉の診察も行っている。樋口の病気は当時は治療法が無かった肺結核であり、8月に青山は末期であるとの診断を下している。11月末に樋口一葉は死亡。 また、鷗外の日記に、「1916(大正5年)2月27日(日)陰。青山胤通来訪す。母上の病のためなり。」とあり、鷗外の母峰は、青山の往診一ヶ月後3月28日に絶息した。 脚気は感染症であるという説を生涯主張し、当時の日本医学界では主流の説となっていた。しかし、後に脚気はビタミンB1欠乏が原因と判明し否定された。 東京大学医科学研究所の前身である伝染病研究所を東京帝国大学医学部に統合させることを推進し、伝染病研究所の創設者である北里柴三郎と激しく対立した。 森於菟の『父親としての森鷗外』に、父(森鷗外)は「親友青山博士の自負心を大いに買っていた。博士の帝大教授在職二十五年の祝賀会(小石川の植物園)に、友人総代としての祝辞を軍医総監の制服で父が述べたのを私も医学大学生として聞いたが「青山という男は stolz である。これは傲慢というわけではない。 auf etwas stolz sein で自負という意味である。」といったのを学生が喜んで喝采し当の青山博士も破顔した。余談であるが青山博士のお孫さんがお祖父様を馬にしてのりまわすというのを聞いて父は「あいつを馬にするとはえらい奴だ。」と大笑した。」とあり、また「葉巻を常にふかしている人は私の知る範囲では青山博士と父とである。」と博士の人柄を彷彿させる文がある。 妻:孝子(こうこ、小林好愛長女) 養子:徹蔵(男爵、東京帝国大学医学部第一外科学教室教授、熊谷陸蔵 二男、熊谷岱蔵 弟) 長女:芳子(よしこ、徹蔵夫人) 次女:通子(みちこ) 1890年(明治23年)10月8日 - 正七位 1913年(大正2年)8月11日 – 従三位 1917年(大正6年)12月24日 - 正三位 1900年(明治33年)12月20日 - 勲三等瑞宝章 1895「千八百九十四年香港ニ流行セルペスト病ニ就イテ」中外医事新報 377,1428-1433, 1895「千八百九十四年香港ニ流行セルペスト病ニ就イテ」中外医事新報 375,1281-1288, 1894「香港ニ於ケルペスト調査ノ略報」大日本私立衛生会雑誌 138,941-959, 主な著作は以下の通り。 新薬説約 / 江馬賤男[他]、江馬賤男、1889.12 新纂診断学. 上巻 / 笠原光興、高田耕安[他]、松崎留吉、1891.4 薬物学 / 高阪駒三郎[他]、田中増蔵、1892.5 新薬説約 / 江馬賤男[他]、2版、江馬賤男、1892.10 治療全書. 巻1、2 / クンツヱ[他]、至誠堂、1893 ペストニ就テ / 胃腸病研究会、1899.12 青山博士臨牀講義. 第1、2輯 / 〔青山胤通[他]、実験医報社、1918-1922 日本内科全書 / 吐鳳堂、1913-1925 栄光なき天才たち(第4巻)- 北里柴三郎に対し、屈指の悪役として描かれている。 痛快TVスカッとジャパン ホントにあった歴史のスカッとする話SP - 北里の研究を妨害するイヤミな教授として登場する。演者は木下ほうか。 ^ 「青山 胤通」『20世紀日本人名事典』。https://kotobank.jp/word/%E9%9D%92%E5%B1%B1%20%E8%83%A4%E9%80%9A。コトバンクより2023年2月10日閲覧。 ^ 『官報』第1612号、大正6年12月15日。 ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 8頁。 ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)8頁 ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、12頁。 ^ 『官報』第2187号「叙任及辞令」1890年10月11日。 ^ 『官報』第311号「叙任及辞令」1913年8月12日。 ^ 『官報』第1620号「叙任及辞令」1917年12月25日。 ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。 ^ 国立国会図書館NDL-OPACによる検索結果より(2010年8月9日閲覧) 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。 『男爵青山胤通先生 : 略伝』苗木町銅像建立委員編 (故男爵青山博士銅像建立委員会, 1938) 『初めての日本人の若き臨床教授の誕生』東大病院だより No.49 平成17年4月25日 銅像除幕式『歴史写真. 大正10年2月號』(国立国会図書館デジタルコレクション) 『青山胤通』 - コトバンク この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 19世紀日本の医学者 20世紀日本の医学者 日本の内科医 帝国学士院会員 明治時代の人物 東京大学の教員 東京大学医科学研究所の人物 癌研究会の人物 日本の男爵 東京大学出身の人物 勲一等瑞宝章受章者 勲三等瑞宝章受章者 美濃国の人物 岐阜県出身の人物 1859年生 1917年没 中津川市の歴史 谷中霊園に埋葬されている人物 すべてのスタブ記事 科学者関連のスタブ項目 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/18 22:58更新
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