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森鴎外の情報 (もりおうがい)
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【4月3日】今日誕生日の芸能人・有名人

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森 鴎外さんについて調べます

■名前・氏名
森 鴎外
(読み:もり おうがい)
■職業
作家
■森鴎外の誕生日・生年月日
1862年2月17日 (年齢1922年没)
戌年(いぬ年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
島根出身

森鴎外と同じ1862年生まれの有名人・芸能人

森鴎外と同じ2月17日生まれの有名人・芸能人

森鴎外と同じ出身地島根県生まれの有名人・芸能人


森鴎外と関係のある人

石田えり: 玉と砕けず・ある森鴎外伝 (1987年、NHK)


上山草人: 森鴎外の長男、森於菟の随筆『砂に書かれた記録 28』(『父親としての森鴎外』所収)に、観潮楼に当時見出した記念物が12項目列記され、その内の1つの説明に上山草人の名がある。


与謝野晶子: 双子の長女八峰、二女七瀬は作家の森鴎外


山下大輝: 牛鍋(森鴎外著)(2020年)


中澤まさとも: 森鴎外「ヰタセクスアリス」(僕〈金井湛〉)


三島由紀夫: そして三島は森鷗外についての意見を求めるが、太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。


浪川大輔: 明治東亰恋伽 Full Moon(森鴎外


北里柴三郎: 森林太郎(森鴎外)からは「識ヲ重ンセントスル余リニ果テハ情ヲ忘レシノミ」と評され、北里は「情を忘れたるものに非ず。


窪寺昭: 2018年9月 - 10月 「文豪ストレイドッグス 黒の時代」 - 森鴎外


浪川大輔: 劇場版 明治東亰恋伽 〜弦月の小夜曲〜(森鴎外


車谷長吉: 先天性蓄膿症のため鼻だけで呼吸できないことに悩み、1962年に60日間以上入院して5時間以上の手術を二度受けたが治癒せず、悩んでいた時期に森鴎外や夏目漱石の作品を読んで救われ 小説家志望になった。


与謝野晶子: 洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった。


明治天皇: 他に天皇の同年の活動で特筆されるものとしては、6月25日に上野・高崎間の鉄道が開通した際に試乗を行ったことや、7月28日にドイツ留学から帰国した軍医の森林太郎(森鴎外)に謁を賜ったこと、同日に陸軍士官学校生徒卒業証書授与式に臨御し、優等生に賞品を賜ったこと、8月30日には世界周航の途中に来日したスウェーデン王オスカル2世の第二王子ゴトランド公爵オスカー・カール・アウグスト(スウェーデン語版)が参内し、皇后とともに謁見所で王子を歓迎したこと(これまでの国賓接遇と同じように9月1日に返礼として天皇が王子が滞在中の延遼館を行幸し、3日に閲兵式を催して王子を招き、大勲位菊花大綬章を王子に授け、離日に際しては御会食所で午餐を共にした)などがある。


窪寺昭: 2019年6月 - 7月 「文豪ストレイドッグス 三社鼎立」 - 森鴎外


斎藤茂吉: 1909年(明治42年):森鴎外の観潮楼歌会に初めて出席、与謝野鉄幹、北原白秋、石川啄木、上田敏、佐佐木信綱などの歌人を知る。


宮本充: 文豪ストレイドッグス わん!(森鴎外


真継伸彦: 『夏目漱石・森鴎外』日本の名著第2巻 編著、中央公論社 1974


内田魯庵: 1890年(明治23年)の春頃、森林太郎(森鴎外)の家を訪ねたが、駆出しの書生だった魯庵は夫人に謝絶され、「何の用事もありませんが、そんなら立派な人の紹介状でも貰って上りましょう、」と啖呵を切った。


宮本充: 文豪ストレイドッグス(2016年 - 2023年、森鴎外) - 5シリーズ


小堀杏奴: そのドイツ女性の候補としてアンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト(Anna Berta Luise Wiegert、1872年12月16日-1951年)がいるが、森鴎外の子供には杏奴(アンヌ)と類(ルイ)がいて関連が疑われている。


伊藤佐喜雄: 『森鴎外 明治文化の先駆』(偕成社、偉人物語文庫) 1951


平塚らいてう: なお同年9月、金子筑水が日本ではじめてエレン・ケイを紹介しており(「現実教」『太陽』)、そのケイに関心を持ったらいてうが訪ねてきた河井酔茗に話したところ、酔茗から「今森鴎外さんの処でも其話が出た」と言われたという。


久生十蘭: 「無月物語」(1950)頃からは文体に「沈鬱でいながら明るい、重厚でありながら爽やかな響きが加わってきた」「森鴎外やメリメと相かよう、乾ききった、それでいて対象を一刀のもとに抉りださずにいない鋭さを持つ」(中井英夫) と言われるようになり、1952年「鈴木主水」直木賞受賞時の選後評では、大佛次郎「この浮気者(十蘭を指す)を抑へつけ、異例に属するゆたかな才能を軌道に落ち着かせる役を直木賞がするのだったら、意義のあることだと思った」、井伏鱒二「なるほど努力家であることは、表現に細心の注意を払はれていることによっても頷かれる」と述べられた。


赤羽秀之: 「高瀬船」作:森鴎外、劇作・主演:赤羽秀之(仲代劇堂小さな演劇祭2008 Vol.4、2008年10月)


濱健人: 茜さすセカイでキミと詠う(森鴎外


原田直次郎: またミュンヘンでは、陸軍省派遣留学生の森鴎外や画学生ユリウス・エクステルと交友を結ぶ。


中里和人: 2018年 -「目覚める海、眠る岩 日本臨海夜景」ドイツ•ベルリン フンボルト大学森鴎外記念ギャラリー


佐藤慶: 玉と砕けず ある森鴎外伝(1987年、NHK)


小金井喜美子: 新編『泡沫(みなわ)の歌 森鴎外と星新一をつなぐひと』星マリナ編、新潮社図書編集室(自費出版)、2018年


中村裕介: 2003年 横浜開港50周年を記念して作られた森鴎外作詞による横浜市歌にブルースメロディを付け「横浜市歌ブルースバージョン」として発表。


森鴎外の情報まとめ

もしもしロボ

森 鴎外(もり おうがい)さんの誕生日は1862年2月17日です。島根出身の作家のようです。

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現在、卒業、家族、病気、離婚、再婚、事件、兄弟、趣味、結婚、母親、父親、ドラマ、テレビに関する情報もありますね。1922年に亡くなられているようです。

森鴎外のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月17日〉- 大正11年〈1922年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。

石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)出身。東京大学医学部卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。

帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより創作活動から一時期遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」なども執筆した。

陸軍を退いた後は宮内省に転じ、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や図書頭を死去まで務めたほか、帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任した。

1862年2月17日(文久2年1月19日)、鷗外こと森林太郎は石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県鹿足郡津和野町町田)で生まれた。代々津和野藩の典医を務める森家(禄高は50石)では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。

藩医家の嫡男として、幼い頃から『論語』『孟子』といった漢学書とオランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新期に家族と周囲から将来を期待されることになった。

1872年(明治5年)、廃藩置県などをきっかけに10歳の鷗外は父と上京する。現在の墨田区東向島に住む。

東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備えてドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。その際に通学の便から、鷗外は政府高官の親族である西周の邸宅に一時期寄宿した。

翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れ、父が経営する医院のある千住に移り住む。

1873年(明治6年)11月、鷗外は入校試問を受け、第一大学区医学校・東京医学校医学本科予科(定員約60人、修業年限3年)に実年齢より2歳多く偽り、満11歳10か月で入学した。

当時は、大学制度確立までの過渡期であり、校名が頻繁に変更されるほどで、入学年齢制限は14 - 17歳であった。

入学は9月であったが、定員約60名の最大定員100名に達しなかったため、学生募集が続けられており、実年齢を偽った鷗外のほか、上限年齢を超えた18歳と19歳の応募者も入学し、新入生は71名だった。しかし、そのうち本科に進めるのは30名に過ぎず、さらに上級の落第者と編入生も加わり、予科生は厳しい競争にさらされた。鷗外の属したドイツ語中位のクラスで落第せず卒業したのは24名のうち11名、下位クラスでは41名のうち2名であった。

鷗外は、同校医学本科(定員約30人、修業年限5年)に進学し、ドイツ人教官たちの講義を受けた。一方で、医学館教授の佐藤元長に漢文・漢詩、漢方医書を学んだ。漢文は依田學海と伊藤松渓(孫一)からも学び、佐藤応挙から漢詩と和歌を学びながら、漢詩・和歌を作っていった。

西洋語にも堪能な鷗外は、「寄宿舎では、その日の講義のうちにあった術語だけを、希臘(ギリシア)拉甸(ラテン)の語原を調べて、赤インキでペエジの縁に注して置く。教場の外での為事は殆どそれ切である。人が術語が覚えにくくて困るというと、僕は可笑しくてたまらない。何故語原を調べずに、器械的に覚えようとするのだと云いたくなる。」と自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」で自身の学習法を記している。

妹の回想には、下宿に同居して鷗外の世話をしていた祖母が、卒業試験前に文学書を読みふける鷗外を心配するくだりがあり、卒業試験の最中に下宿が火事になって講義ノート類を焼失したり、鷗外のノートに漢文の書き込みを見つけた外科学のシュルツ教授から反感を買ったりしたこともあったが、1881年(明治14年)7月4日、満19歳5か月、東京医学校本科を席次8番で卒業した。首席で卒業した同級生の三浦守治(のち東京帝国大学教授)は

と門下生に語っており、卒業席次上位10名の中で他者より5 - 7歳年下の鷗外は優秀であった。

しかし、卒業後の鷗外は、医者や役人また教育者、ましてや軍人になることは考えず、なにか物書きを夢見ており、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。その進路未定の状況を見かねた同期生の小池正直(のちの陸軍省医務長)は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に鷗外を採用するよう長文の熱い推薦状を出しており、また親友の賀古鶴所(かこ・つると(のち日本耳鼻咽喉科学の父といわれる陸軍軍医)は、鷗外に陸軍省入りを勧めていた。結局のところ鷗外は、同年12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した。

妹・小金井喜美子の回想によれば、若き日の鷗外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたり(喜美子と一緒に出かけたとき、ある落語家の長唄を聴いて中座)していたという。

入省して半年後の1882年(明治15年)5月、鷗外は東京大学医学部卒業の同期8名の中で最初の軍医本部付となり、プロイセン王国の陸軍衛生制度に関する文献調査に従事した。早くも翌年3月には『医政全書稿本』全12巻を役所に納めた。1884年(明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。7月28日、明治天皇に拝謁し、賢所に参拝。8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し、10月7日にフランス南部マルセイユ港に到着。同月11日にドイツ帝国首都ベルリンに入った。鷗外は横浜からマルセイユに至る航海中のことを「航西日記(こうせいにっき)」に記している。

鷗外が白米飯を擁護したことが陸軍の脚気惨害を助長したという批判について。日露戦争当時、麦飯派の寺内正毅が陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として、軍の輸送能力に問題があり、また脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあった。その別のものとは、白米飯は当時の庶民が憧れるご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情である。

鷗外の「陸軍兵食試験」が脚気発生を助長したとの批判について。兵食試験は、当時の栄養学に基づく試験であり、脚気とは関係がない。その試験結果を上官の石黒忠悳が歪めて用い、あたかも脚気の試験であったかのように誤用したためである。

鷗外への非難の主なものを以下に記す。ただし、その非難の内容が適切かを問わずに記載する。

白米食を麦飯食に代えると脚気が激減する現象が見られたにもかかわらず戦時中は白米食を強要した。

海軍の兵食改良を徹底して非難した。鷗外は留学先からわざわざ高木を非難する論文まで送っており、これは日本国内における脚気栄養説への攻撃にも利用された。コッホが細菌を発見するまで人類は病気のメカニズムすら把握していなかった。海軍や高木が行い、陸軍でも日露戦争開戦前に取り入れて成果の挙がっていた「原因は(当時は)わからないが結果として脚気が治る」という現在で言う疫学であるイギリス流の医学に基づく対症療法を認めなかった。

論理にこだわり過ぎて、学術的権威に依拠し過ぎた。原因が判明しないまま全軍に取り入れることはできないというのは一面で正しいものの見方であるが、経験が蓄積され、あるいは研究が進展してからもなお細菌説に固執した。軍医、しかも高官にまで出世する立場にあるならば、ビタミンなどの微小栄養素が発見前であることから原因の説明ができない高木の栄養説を攻撃する前に、徴兵主体の兵士の健康を確保するべきであったが、鷗外にとってそれは重要ではなかった。コッホの助言によって東南アジアでの同種の栄養素欠乏症であるベリベリの調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試験」という手法が日本にも導入された。この結果、細菌説の支持者だった臨時脚気病調査会の委員が栄養説へ転向したが、会長の鷗外はこれを罷免した。また麦飯派の寺内が求めた麦飯の効能の調査については、栄養の問題そのものを調査会の活動方針から排除した。

日清戦争時に上官の石黒に同調した。石黒は日清戦争当時に土岐頼徳からの麦飯支給の稟議を握りつぶし、日清戦争後の台湾の平定(乙未戦争)でも白米の支給を変えてはならないと通達した。石黒自身は、脚気を根絶可能とし、実際に患者を減らした海軍と異なり「脚気根絶は甚だ困難」という談話さえ発表している。土岐が台湾で独断の麦飯支給で脚気の流行を鎮めると、軍規違反を問うて即刻帰京させ、5年後に予備役に追い込んだが軍法会議は開かなかった。軍法会議を開いた場合、軍規違反を起こした士官の上官としての統率責任と、そもそもなぜ軍規違反に至ったかの経緯が公になるためである。しかし石黒が隠そうとした「麦飯で脚気が減った」経緯を知る元台湾鎮台司令官の高島鞆之助は陸軍大臣になると石黒を辞任させた。鷗外が同調した上官とはこのような人物であり、同じ陸軍の軍医が麦飯で脚気を減らしてもなお高木の栄養説の欠陥を批判するのみで、脚気患者を減らすことを目的とした対策は採らず、日露戦争での膨大な戦病死を惹起した。

※日付は1872年までは旧暦

1862年(文久02年)1月19日 - 石見国津和野藩(現・島根県鹿足郡津和野町)に、藩医・森静泰(後に静男と改名)、峰子の長男として生まれる。養子が多かったため、久々の跡継ぎ誕生となる。

1867年(慶応3年)11月 - 村田久兵衛に論語を学ぶ。

1868年(明治元年)3月 - 米原綱善に孟子を学ぶ。

1869年(明治02年) - 養老館で、四書を一から読み直す。

1870年(明治03年) - 五経、オランダ語を学ぶ。

1871年(明治04年) - 藩医の室良悦にオランダ語を学ぶ。

1872年(明治05年)

    06月 - 父とともに津和野を発ち、8月に東京入り(向島小梅村)。その後、向島曳舟通りに転居。

    10月 - ドイツ語習得のため、本郷の進文学社(私塾)に入学。

    1873年(明治06年)

      06月 - 津和野町の家を売却し、祖母、母なども上京。

      11月、第一大学区医学校予科(後に東京医学校へ改称。現:東京大学医学部)に入学。

      1877年(明治10年) - 東京医学校が東京開成学校と合併して東京大学医学部に改組され、その本科生になる。

      1880年(明治13年) - 本郷龍岡町の下宿屋「上条」に移る。翌年3月、下宿先で火災に遭い、講義ノートなどを失う。

      1881年(明治14年)

        春 - 肋膜炎に罹る。

        07月 - 東京大学医学部を卒業。父・静男の経営する南足立郡千住町の橘井堂医院に転居(現在でも北千住には森鷗外ゆかりの碑が建てられている)。戸籍も東京に移す。

        09月 - 『読売新聞』に寄稿した「河津金線君に質す」が採用される。これが鷗外の初めて公にされた文章であろう。

        12月 - 東京陸軍病院課僚を命じられて、陸軍軍医副の任務に就く。

        1882年(明治15年)

          02月 - 第一軍管区徴兵副医官(中尉相当)になり、従七位の位階を授かる。

          05月 - 陸軍軍医本部課僚になり、プロシア陸軍衛生制度の調査に駆り出される。

          1884年(明治17年)

            06月 - 陸軍衛生制度、衛生学研究の目的で、ドイツ留学を命じられる。

            10月 - ドイツに到着。ライプツィヒ大学でホフマン教授などに学ぶ。

            1885年(明治18年)

              01月 - ヴィルヘルム・ハウフの童話を翻訳した「盗侠行」を発表。

              02月 - ドイツ語で「日本兵食論」「日本家屋論」を執筆。

              05月 - 陸軍一等軍医(大尉相当)に昇進。

              10月 - ドレスデンに移る。

              12月 - ライプツィヒの酒場アウアーバッハスケラーを哲学者の井上哲次郎と訪れ、この時に井上の勧めもあって、『ファウスト』の翻訳を決心する。

              1886年(明治19年)3月 - ミュンヘンに移る。大学衛生部に入学し、ペッテンコーフェルに衛生学を学ぶ。

              1887年(明治20年)

                04月 - ベルリンに移る。

                05月 -北里柴三郎と共にコッホを訪ね、衛生試験所に入る。

                1888年(明治21年)

                  03月 - プロシア近衛歩兵第2連隊の軍隊任務に就く。

                  09月 - 日本に帰国。

                  10月 - 陸軍大学校教官に就任。

                  12月、『非日本食論将失其根拠』を自費出版。

                  1889年(明治22年)

                    01月 - 『東京医事新誌』の主筆となる。その後、『読売新聞』に「医学の説より出でたる小説論」を発表し、本格的な文筆活動が始まる。

                    03月 - 写真婚で、海軍中将赤松則良の長女・登志子と婚約。

                    05月 - 東京美術学校専修科の美術解剖学講師に就任。

                    08月 - 『国民之友』に訳詩編「於母影」を発表。

                    10月 - 軍医学校陸軍二等軍医正(中佐相当官)教官心得になる。

                    1890年(明治23年)

                      01月 - 『医事新論』を創刊。『国民之友』に「舞姫」を発表。

                      08月 - 『しからみ草紙』に「うたかたの記」を発表。この作品は、石橋忍月との論争の火種になる。

                      09月 - 長男・於菟誕生。しかし、まもなく妻の登志子と離婚

                      10月 - 本郷駒込千駄木町57に居住を移す。鷗外は、そこを「千朶山房」と呼ぶ。

                      1891年(明治24年)

                        1月 - 『文づかひ』を刊行。

                        08月 - 医学博士の学位を授与される。

                        09月 - 『しからみ草紙』に「山房論文」を発表。早稲田文学で坪内逍遙と没理想論争を交わす。

                        1892年(明治25年)

                          07月 - 翻訳小説集『美奈和集』(春陽堂)を刊行。

                          08月 - 医学と文学の論争から離れて休息を取るため、自宅(観潮楼)を建設。

                          11月 - 『しからみ草紙』にアンデルセンの「即興詩人」を連載。

                          1893年(明治26年)11月 - 陸軍一等軍医正(大佐相当)に昇進し、軍医学校長になる。

                          1894年(明治27年)

                            07月 - 日清戦争が勃発。

                            08月 - 東京から広島市に向かう。

                            11月 - 大連に上陸。

                            1895年(明治28年)

                              04月21日 - 任 陸軍軍医監

                              05月 - 日清講和条約調印後、帰国(帰京することなく広島市にとどまる)。

                              08月 - 台湾総督府陸軍局軍医部長になり、台湾に赴任。

                              09月 - 帰国の途につく。

                              1896年(明治29年)

                                01月 - 『めさまし草』を創刊。

                                03月 - 幸田露伴、斎藤緑雨らと共に『めさまし草』に「三人冗語」を連載。

                                04月 - 父・静男死去。

                                1897年(明治30年)

                                  01月 - 中浜東一郎(中浜万次郎の長男)、青山胤通らと共に公衆医事会を設立、『公衆医事』を創刊。

                                  1898年(明治31年)

                                    08月 - 『時事新報』にて箴言集「智恵袋」(ドイツ人作家・Adolf Freiherr von Knigge著『Über den Umgang mit Menschen』の抄訳・翻案)連載開始。

                                    10月 - 近衛師団軍医部長兼軍医学校長に就任。

                                    1899年(明治32年)

                                      02月 - 軍医監(少将相当)に昇任し、第12師団軍医部長として福岡県の小倉に赴任。

                                      06月 - 『二六新報』にて箴言集「心頭語」連載開始。

                                      1902年(明治35年)

                                        01月 - 大審院判事荒木博臣長女の志げと再婚

                                        03月 - 東京に転勤。

                                        1903年(明治36年)

                                          01月 - 長女・茉莉誕生。

                                          03月 - 『新小説』にて箴言集「慧語」(スペイン人作家バルタサル・グラシアン著、ショーペンハウエル訳『Handorakel und Kunst der Weltklugheit (原題Oráculo manual y arte de prudencia)』の抄訳・翻案)連載開始。

                                          1904年(明治37年)

                                            02月 - 日露戦争が勃発。

                                            04月 - 第2軍軍医部長として、広島市の宇品港を立つ。『うた日記』を書く。

                                            1905年(明治38年) - 奉天会戦勝利後、残留していたロシア赤十字社員の護送に尽力。

                                            1906年(明治39年)

                                              01月 - 帰国。

                                              06月 - 賀古鶴所らと歌会「常磐会」を設立(後に山縣有朋などが参加)。

                                              1907年(明治40年)

                                                03月 - 与謝野鉄幹、伊藤左千夫、佐佐木信綱らと自宅で「観潮楼歌会」を開く。

                                                06月 - 西園寺公望が主催した歌会「雨声会」に出席。

                                                08月 - 次男・不律誕生。

                                                10月 - 陸軍軍医総監・陸軍省医務局長となる。

                                                1908年(明治41年)

                                                  01月 - 弟・三木竹二死去。

                                                  02月 - 次男・不律死去。

                                                  05月 - 文部省の臨時仮名遣調査委員会委員になる。

                                                  1909年(明治42年)

                                                    03月 - 『スバル』に口語体小説「半日」を寄稿。以後、頻繁に寄稿する。

                                                    05月 - 次女・杏奴誕生。

                                                    07月 - 文学博士の学位を授与され、また「ヰタ・セクスアリス」掲載の『スバル』が発売禁止に処される。

                                                    1910年(明治43年)

                                                      02月 - 慶應義塾大学部の文学科顧問に就任。『三田文学』編集委員。

                                                      1911年(明治44年)

                                                        02月 - 三男・類誕生。

                                                        05月 - 文芸委員会委員になる。

                                                        09月 - 『スバル』に「雁」を連載。

                                                        1912年(明治45年)

                                                          01月 - 文芸委員会に頼まれていた戯曲『ファウスト』の訳を完結させる。

                                                          10月 - 初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を『中央公論』に発表。

                                                          1913年(大正02年)

                                                            01月 - 『中央公論』に「阿部一族」を発表。

                                                            02月 - 臨時宮内省御用掛に就任。

                                                            1914年(大正03年)

                                                              01月 - 『中央公論』に「大塩平八郎」を発表。

                                                              02月 - 『新小説』に「堺事件」を発表。

                                                              1915年(大正04年)

                                                                01月 - 『中央公論』に「山椒大夫」を、『心の花』に「歴史其儘と歴史離れ」を発表。

                                                                10月 - 『中央公論』に「最後の一句」を発表。

                                                                11月、大島健一陸軍次官に辞意を表明。同年、渋江抽斎の調査研究を始める。

                                                                1916年(大正05年)

                                                                  01月、『中央公論』に「高瀬舟」を、『新小説』に「寒山拾得」を発表。東京日日新聞と大阪毎日新聞に「渋江抽斎」を連載。

                                                                  03月、母峰子死去。

                                                                  04月13日、陸軍省医務局長を退き予備役に編入。

                                                                  1917年(大正06年)

                                                                    12月 - 宮内省より帝室博物館総長兼図書頭に任ぜられ、高等官一等に叙せられる。

                                                                    1918年(大正07年)

                                                                      11月 - 正倉院御物開封に立ち会うため奈良に一時滞在。以後1921年(大正10年)まで毎秋、奈良を訪れた。

                                                                      1919年(大正08年)

                                                                        09月 - 帝国美術院の初代院長に就任。

                                                                        1920年(大正09年)

                                                                          09月 - 図書寮曝書室が失火により全焼。宮内大臣宛に進退伺を出すが不受理となる。

                                                                          1921年(大正10年)

                                                                            06月 - 臨時国語調査会長に就任。秋、足に浮腫が出来始めるなど、腎臓病の兆候が見られ始める。

                                                                            1922年(大正11年)

                                                                              04月 - イギリス皇太子の正倉院参観に合わせ、奈良へ5度目の出張。途中、いくどか病臥する。

                                                                              06月29日 - 萎縮腎と診断される。また、肺結核の兆候も見られた。

                                                                              07月06日 - 友人の賀古鶴所に遺言の代筆を頼む。

                                                                              07月09日 - 午前7時死去。弘福寺(東京・向島)に埋葬される。

                                                                              1927年(昭和02年) - 墓が禅林寺(東京・三鷹市)に移される。分骨され、津和野町の永明寺にも墓がある。

                                                                              1891年(明治24年)12月28日 - 従六位

                                                                              1893年(明治26年)12月16日 - 正六位

                                                                              1895年(明治28年)11月15日 - 従五位

                                                                              1899年(明治32年)7月10日 - 正五位

                                                                              1904年(明治37年)9月13日 - 従四位

                                                                              1909年(明治42年)10月20日 - 正四位

                                                                              1914年(大正3年)11月10日 - 従三位

                                                                              1916年(大正5年)5月10日 - 正三位

                                                                              1922年(大正11年)7月9日 - 従二位

                                                                              1894年(明治27年)11月24日 - 勲六等瑞宝章

                                                                              1895年(明治28年)

                                                                                9月20日 - 単光旭日章・功四級金鵄勲章

                                                                                11月18日 - 明治二十七八年従軍記章

                                                                                1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章

                                                                                1900年(明治33年)5月31日 - 勲四等瑞宝章

                                                                                1904年(明治37年)11月29日 - 勲三等瑞宝章

                                                                                1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章・勲二等旭日重光章・明治三十七八年従軍記章

                                                                                1915年(大正4年)

                                                                                  4月24日 - 勲一等瑞宝章

                                                                                  11月7日 - 旭日大綬章・大正三四年従軍記章

                                                                                  11月10日 - 大礼記念章(大正)

                                                                                  舞姫(『国民之友』1890年1月)

                                                                                  うたかたの記(『国民之友』1890年8月)

                                                                                  文づかひ(吉岡書店、1891年1月)

                                                                                  そめちがへ(『新小説』1897年8月)

                                                                                  朝寐(『心の花』1906年11月)

                                                                                  有楽門(『心の花』1907年1月)

                                                                                  半日(『スバル』1909年3月)

                                                                                  追儺(『東亜之光』1909年5月)

                                                                                  懇親会(『美術之日本』1909年5月)

                                                                                  魔睡(『スバル』1909年6月)

                                                                                  大発見(『心の花』1909年6月)

                                                                                  ヰタ・セクスアリス(『スバル』1909年7月)

                                                                                  鶏(『スバル』1909年8月)

                                                                                  金貨(『スバル』1909年9月)

                                                                                  金毘羅(『スバル』1909年10月)

                                                                                  杯(『中央公論』1910年1月)

                                                                                  独身(『スバル』1910年1月)

                                                                                  牛鍋(『心の花』1910年1月)

                                                                                  電車の窓(『東亜之光』1910年1月)

                                                                                  木精(『東京朝日新聞』1910年1月16日-17日)※「藁吾野人」名義で発表

                                                                                  里芋の芽と不動の目(『スバル』1910年2月)

                                                                                  青年(『スバル』1910年3月–11年8月)

                                                                                  桟橋(『三田文学』1910年5月)

                                                                                  普請中(『三田文学』1910年6月)

                                                                                  ル・パルナス・アンビュラン(『中央公論』1910年6月)

                                                                                  花子(『三田文学』1910年7月)

                                                                                  あそび(『三田文学』1910年8月)

                                                                                  沈黙の塔(『三田文学』1910年11月)

                                                                                  身上話(『新潮』1910年11月)

                                                                                  食堂(『三田文学』1910年12月)

                                                                                  蛇(『中央公論』1911年1月)

                                                                                  カズイスチカ(『三田文学』1911年2月)

                                                                                  妄想(『三田文学』1911年4月)

                                                                                  藤鞆絵(『三田文学』1911年5月 - 6月)

                                                                                  流行(『三越』1911年7月)

                                                                                  心中(『中央公論』1911年8月)

                                                                                  雁(『スバル』1911年9月–1913年5月)

                                                                                  灰燼(『三田文学』1911年10月–1912年12月中絶)

                                                                                  百物語(『中央公論』1911年10月)

                                                                                  かのように(『中央公論』1912年1月)

                                                                                  不思議な鏡(『文章世界』1912年1月)

                                                                                  鼠坂(『中央公論』1912年4月)

                                                                                  吃逆(『中央公論』1912年5月)

                                                                                  藤棚(『太陽』1912年6月)

                                                                                  羽鳥千尋(『中央公論』1912年8月)

                                                                                  田楽豆腐(『三越』1912年9月)

                                                                                  興津弥五右衛門の遺書(『中央公論』1912年10月)

                                                                                  ながし(『太陽』1913年1月)

                                                                                  阿部一族(『中央公論』1913年1月)

                                                                                  佐橋甚五郎(『中央公論』1913年4月)

                                                                                  槌一下(『中央公論』1913年7月)

                                                                                  護寺院原の敵討(『ホトトギス』1913年10月)

                                                                                  大塩平八郎(『中央公論』1914年1月)

                                                                                  事件(『新小説』1914年2月)

                                                                                  安井夫人(『太陽』1914年4月)

                                                                                  山椒大夫(『中央公論』1915年1月)

                                                                                  天寵(『アルス』1915年4月)

                                                                                  二人の友(『アルス』1915年6月)

                                                                                  魚玄機(『中央公論』1915年7月)

                                                                                  余興(『アルス』1915年8月)

                                                                                  じいさんばあさん(『新小説』1915年9月)

                                                                                  最後の一句(『中央公論』1915年10月)

                                                                                  高瀬舟(『中央公論』1916年1月)

                                                                                  寒山拾得(『新小説』1916年1月)

                                                                                  女歌舞伎操一舞(『読売新聞』1889年11月)※三木竹二と共作

                                                                                  玉篋両浦嶼(『歌舞伎』1902年12月号外)

                                                                                  日蓮上人辻説法(『歌舞伎』1904年臨時号)

                                                                                  仮面(『スバル』1909年4月)

                                                                                  静(『スバル』1909年11月)

                                                                                  生田川(『中央公論』1910年4月)

                                                                                  女がた(『三越』1913年10月)

                                                                                  曾我兄弟(『新小説』1914年3月)

                                                                                  栗山大膳(『太陽』1914年9月)

                                                                                  津下四郎左衛門(『中央公論』1915年4月)

                                                                                  椙原品(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1916年1月)

                                                                                  渋江抽齋(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1916年1月-5月)

                                                                                  寿阿弥の手紙(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1916年5月 - 6月)

                                                                                  伊澤蘭軒(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1916年6月-1917年9月)

                                                                                  都甲太兵衛(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1917年1月)

                                                                                  鈴木藤吉郎(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1917年9月)

                                                                                  細木香以(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1917年9月-10月)

                                                                                  小嶋宝素(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1917年10月)

                                                                                  北條霞亭(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1917年10月-12月、『帝国文学』1918年2月-9月)

                                                                                  霞亭生涯の末一年(『アララギ』1920年10月-1921年11月)

                                                                                  緑葉歎(ドーデ、『読売新聞』1889年2月)※三木竹二と共訳

                                                                                  玉を懐いて罪あり(ホフマン、『読売新聞』1889年3月-7月)※三木竹二と共訳

                                                                                  戦僧(ドーデ、『少年園』1889年3月)

                                                                                  新世界の浦島(アーヴィング、『少年園』1889年5月-7月)

                                                                                  洪水(ハート(英語版)、『しがらみ草紙』1889年10月-1890年3月)

                                                                                  瑞西館に歌を聞く(レフ・トルストイ、『読売新聞』1889年11月)

                                                                                  ふた夜(ハックレンデル(ドイツ語版)、『読売新聞』1890年1月-2月)

                                                                                  馬鹿な男(ツルゲーネフ、『日本之文華』1890年1月)

                                                                                  地震(クライスト、『国民新聞』1890年3月)

                                                                                  悪因縁(クライスト、『国民之友』1890年4月-7月)

                                                                                  埋木(シュビン(ドイツ語版)、『しがらみ草紙』1890年4月-1891年4月)

                                                                                  羅馬(ツルゲーネフ、『東京中新聞』1890年6月)

                                                                                  うきよの波(シュテルン(ドイツ語版)、『国民之友』1890年8月-11月)

                                                                                  黄綬章(ハックレンデル、『東京日日新聞』1891年3月)

                                                                                  懺悔記(ルソー、『立憲自由新聞』1891年3月-5月)※未完

                                                                                  みくづ(ドーデ、『しがらみ草紙』1891年6月)

                                                                                  女丈夫(フレンツェル(ドイツ語版)、『国民之友』1891年8月)

                                                                                  ぬけうり(レールモントフ、『学習院輔仁会雑誌』1892年10月)

                                                                                  即興詩人(アンデルセン、『しがらみ草紙』1892年11月-『めさまし草』1901年2月)

                                                                                  はげあたま(コピッシュ(ドイツ語版)、『新小説』1897年1月)

                                                                                  山彦(ヒッペル(ドイツ語版)、『藝文』1902年6月)

                                                                                  宿命論者(レールモントフ、『明星』1907年1月)

                                                                                  ソクラテエスの死(クレーゲル(ドイツ語版)、『心の花』1908年1月)

                                                                                  アンドレアス・タアマイエルが遺書(シュニッツラー、『明星』1908年1月)

                                                                                  父(シェーファー(ドイツ語版)、『明星』1908年2月)

                                                                                  いつの日か君帰ります(ルスト(ドイツ語版)、『明星』1908年4月)

                                                                                  黄金杯(ヴァッサーマン、『明星』1908年5月)

                                                                                  牧師(ラーゲルレーヴ、『心の花』1908年10月)

                                                                                  わかれ(ホルツ(ドイツ語版),シュラフ(ドイツ語版)、『明星』1908年11月)

                                                                                  顔(デーメル、『心の花』1909年1月)

                                                                                  午後十一時(ヴィード(デンマーク語版)、『太陽』1910年1月)

                                                                                  白(リルケ、『趣味』1910年1月)

                                                                                  釣(アルテンベルク、『女子文壇』1910年1月)

                                                                                  犬(アンドレーエフ、初出不明 1910年1月)

                                                                                  鴉(シュミットボン(ドイツ語版)、『帝国文学』1910年3月)

                                                                                  歯痛(アンドレーエフ、『趣味』1910年3月)

                                                                                  聖ジュリアン(フローベール、『太陽』1910年5月-7月)

                                                                                  罪人(アルツィバーシェフ、『東亜之光』1910年5月)

                                                                                  うづしほ(エドガー・アラン・ポー、『文藝倶楽部』1910年8月)

                                                                                  死(アルツィバーシェフ、『学生文藝』1910年9月)

                                                                                  笑(アルツィバーシェフ、『東亜之光』1910年9月)

                                                                                  二髑髏(ミョリスヒョッフェル(ドイツ語版)、『東亜之光』1911年1月)

                                                                                  襟(ディモフ(ロシア語版)、『三田文学』1911年1月)

                                                                                  一疋の犬が二疋になる話(ベルジェ(英語版)、『心の花』1911年1月)

                                                                                  塔の上の鶏(オイレンベルク、『東亜之光』1911年6月)

                                                                                  世界漫遊(ダビット(ドイツ語版)、『帝国文学』1911年6月)

                                                                                  クサンチス(サマン(フランス語版)、『新小説』1911年7月)

                                                                                  薔薇(ヴィード、『女子文壇』1911年7月)

                                                                                  板ばさみ(チリコフ(ロシア語版)、『三田文学』1911年7月)

                                                                                  みれん(シュニッツラー、『東京日日新聞』1912年1月-3月)

                                                                                  樺太脱獄記(コロレンコ、『文藝倶楽部』1912年1月)

                                                                                  女の決闘(オイレンベルク、初出不明)

                                                                                  己の葬(エーヴァース(ドイツ語版)、『昴』1912年1月)

                                                                                  冬の王(ランド(ドイツ語版)、『帝国文学』1912年1月)

                                                                                  老曹長(リーリエンクローン、『東亜之光』1912年1月)

                                                                                  汽車火事(キーゼル(ドイツ語版)、『三田文学』1912年1月)

                                                                                  祭日(リルケ、『心の花』1912年1月)

                                                                                  駆落(リルケ、『女子文壇』1912年1月)

                                                                                  父と妹(シェーファー、『女子文壇』1912年4月)

                                                                                  不可説(レニエ(フランス語版)、『昴』1912年5月)

                                                                                  鰐(ドストエフスキー、『新日本』1912年5月 - 6月)

                                                                                  正体(フォルメラー(ドイツ語版)、『三田文学』1912年6月)

                                                                                  破落戸の昇天(モルナール、『昴』1912年8月)

                                                                                  十三時(エドガー・アラン・ポー、『趣味』1912年10月)

                                                                                  田舎(プレヴォー(フランス語版)、『昴』1912年10月)

                                                                                  老人(リルケ、『帝国文学』1913年1月)

                                                                                  請願(エーヴァース、『心の花』1913年1月)

                                                                                  一人者の死(シュニッツラー、『東亜之光』1913年1月)

                                                                                  馬丁(アレクセイ・トルストイ、『昴』1913年1月-7月)

                                                                                  復讐(レニエ、『三田文学』1913年1月 - 4月)

                                                                                  猿(クラルティ(フランス語版)、『新日本』1913年3月)

                                                                                  最終の午後(モルナール、『三田文学』1913年5月)

                                                                                  労働(シェーンヘル(ドイツ語版)、初出不明)

                                                                                  病院横町の殺人犯(エドガー・アラン・ポー、『新小説』1913年6月)

                                                                                  辻馬車(モルナール、『三田文学』1913年6月)

                                                                                  フロルスと賊と(クズミン(ロシア語版)、『三田文学』1913年7月)

                                                                                  センツアマニ(ゴーリキー、『三田文学』1913年8月)

                                                                                  刺絡(シュトローブル(ドイツ語版)、『昴』1913年8月)

                                                                                  パアテル・セルギウス(レフ・トルストイ、『文藝倶楽部』1913年9月)

                                                                                  橋の下(ブウテ(フランス語版)、『三田文学』1913年10月)

                                                                                  聖ニコラウスの夜(ルモニエ(フランス語版)、『三田文学』1913年11月-12月)

                                                                                  防火栓(ヒルシュフェルト(ドイツ語版)、『昴』1913年12月)

                                                                                  尼(ヴィード、『我等』1914年1月)

                                                                                  舞踏(アナトール・フランス、『新思潮』1914年3月)

                                                                                  毫光(レンジェル、『番紅花』1914年3月)

                                                                                  蛙(ミストラル、『我等』1914年7月)

                                                                                  父の讐(マーゼリング(ドイツ語版)、『我等』1914年8月)

                                                                                  鑑定人(ブールジェ、『新小説』1915年1月)

                                                                                  調高矣洋絃一曲(カルデロン、『読売新聞』1889年1月-2月)※三木竹二と共訳

                                                                                  折薔薇(レッシング、『しがらみ草紙』1889年10月-1890年6月)

                                                                                  伝奇トオニイ(ケルナー(ドイツ語版)、『読売新聞』1889年11月-12月)※三木竹二と共訳、未完

                                                                                  俘(レッシング、『しがらみ草紙』1892年9月-1893年7月)

                                                                                  牧師(イブセン、『萬年草』1903年6月-9月)※未完

                                                                                  我君(ショルツ(ドイツ語版)、『歌舞伎』1907年10月)

                                                                                  短剣を持ちたる女(シュニッツラー、『歌舞伎』1907年11月-12月)

                                                                                  出発前半時間(ヴェーデキント、『歌舞伎』1908年1月)

                                                                                  奥底(バール、『歌舞伎』1908年7月-8月)

                                                                                  花束(ズーダーマン、『歌舞伎』1908年9月-10月)

                                                                                  猛者(シュニッツラー、『歌舞伎』1908年11月)

                                                                                  痴人と死と(ホーフマンスタール、『歌舞伎』1908年12月)

                                                                                  僧房夢(ハウプトマン、『歌舞伎』1909年1月-3月)

                                                                                  耶蘇降誕祭の買入(シュニッツラー、『新天地』1909年1月)

                                                                                  奇蹟(メーテルリンク、『歌舞伎』1909年1月)

                                                                                  ねんねえ旅篭(ヴィード(デンマーク語版)、『心の花』1909年4月-5月)

                                                                                  債鬼(ストリンドベリ、『歌舞伎』1909年4月)

                                                                                  ジヨン・ガブリエル・ボルクマン(イブセン、『国民新聞』1909年6月-8月)

                                                                                  サロメ(ワイルド、『歌舞伎』1909年7月-9月)

                                                                                  家常茶飯(リルケ、『太陽』1909年9月-10月)

                                                                                  秋夕夢(ダンヌンツィオ、『歌舞伎』1909年10月)

                                                                                  負けたる人(ショルツ、『新小説』1909年11月-12月)

                                                                                  人の一生(アンドレーエフ、『歌舞伎』1910年1月-5月)

                                                                                  街の子(シュミットボン(ドイツ語版)、『歌舞伎』1910年5月-10月)

                                                                                  飛行機(シュトゥッケン(ドイツ語版)、『歌舞伎』1910年6月-8月)

                                                                                  馬盗坊(バーナード・ショー、『歌舞伎』1910年10月-12月)

                                                                                  一人舞台(ストリンドベリ、『女子文壇』1911年1月)

                                                                                  パリアス(ストリンドベリ、『新小説』1911年1月)

                                                                                  人力以上(ビョルンソン、『歌舞伎』1911年1月-5月)

                                                                                  寂しき人々(ハウプトマン、『読売新聞』1911年2月-4月)

                                                                                  手袋(ビョルンソン、『歌舞伎』1911年11月-1912年3月)

                                                                                  幽霊(イブセン、金葉堂、1911年12月刊)

                                                                                  僧院(ヴェルハーレン、『歌舞伎』1912年1月- 914年9月)

                                                                                  ヂオゲネスの誘惑(シュミットボン、『演芸倶楽部』1912年4月)

                                                                                  恋愛三昧(シュニッツラー、『歌舞伎』1912年4月 - 1913年9月)

                                                                                  ギヨッツ(ゲーテ、『歌舞伎』1912年10月-1914年3月)

                                                                                  ファウスト(ゲーテ、冨山房、第一部:1913年1月刊、第二部:1913年3月刊)

                                                                                  夜の二場(ステーンホフ(スウェーデン語版)、『大正演芸』1913年2月)

                                                                                  マクベス(シェイクスピア、警醒社、1913年7月刊)

                                                                                  ノラ(イブセン、警醒社、1913年11月刊)

                                                                                  稲妻(ストリンドベリ、『歌舞伎』1914年1月-5月)

                                                                                  謎(ホーフマンスタール、現代社、1914年5月刊)

                                                                                  忘れて来たシルクハット(ダンセイニ、『番紅花』1914年7月)

                                                                                  白衣の夫人(リルケ、『演芸画報』1916年1月)

                                                                                  ペリカン(ストリンドベリ、『白樺』1920年1月)

                                                                                  於母影(『国民之友』1889年夏期付録)※「新声社」名義の共訳詩集

                                                                                  我百首(1907年5月)

                                                                                  うた日記(春陽堂、1907年9月刊)

                                                                                  横浜市歌(1909年)

                                                                                  沙羅の木(阿蘭陀書房、1915年9月刊)

                                                                                  横浜市立横浜商業高等学校校歌(1916年)

                                                                                  浜松市歌(初代。1921年発表、2005年廃止)

                                                                                  柵草紙の山房論文(『しがらみ草紙』1891年9月-1892年6月)

                                                                                  三人冗語(『めさまし草』1896年3月-7月)

                                                                                  雲中語(『めさまし草』1896年9月-1897年9月)

                                                                                  ファウスト考(冨山房、1913年11月刊)

                                                                                  ギヨッツ考(『三田文学』1914年2月-8月)

                                                                                  審美論(『めさまし草』1896年-1897年)※エドゥアルト・フォン・ハルトマン「美の哲学」の抄訳

                                                                                  洋画手引草(画報社、1898年刊)※久米桂一郎・大村西崖らと共著

                                                                                  審美綱領(春陽堂、1899年刊)※大村西崖と共編、「美の哲学」の梗概。

                                                                                  審美新説(春陽堂、1900年刊)

                                                                                  審美極致論(『めさまし草』1901年2月-10月、新カント派哲学者オットー・リーブマンの翻訳)

                                                                                  芸用解剖学(画報社、1903年刊)※久米桂一郎と共撰

                                                                                  西周伝(1898年11月刊)

                                                                                  ゲルハルト・ハウプトマン(1906年10月刊)

                                                                                  ギョオテ伝(冨山房、1913年11月刊)

                                                                                  非日本食論将失其根拠(橘井堂、1888年刊)

                                                                                  衛生新篇(南江堂、1897年刊、1914年改版増補)※小池正直との共著

                                                                                  性欲雑説(『公衆医事』1902年11月-1903年11月)

                                                                                  衛生学大意(博文館、1907年刊)

                                                                                  我をして九州の富人たらしめば(『福岡日日新聞』1899年9月)

                                                                                  鷗外漁史とは誰ぞ(『福岡日日新聞』1900年1月)

                                                                                  原田直次郎(『東京日日新聞』1900年1月)

                                                                                  潦休録(『歌舞伎』1900年7月)

                                                                                  当流比較言語学(『東亜之光』1909年7月)

                                                                                  長谷川辰之助(易風社『二葉亭四迷』1909年8月刊収録)

                                                                                  予が立場(Resignationの説、『新潮』1909年12月)

                                                                                  鼎軒先生(『東京経済雑誌』1911年4月)

                                                                                  文芸の主義(『東洋』1911年4月)

                                                                                  サフラン(『番紅花』1914年3月)

                                                                                  歴史其儘と歴史離れ(『心の花』1915年1月)

                                                                                  空車(むなぐるま)(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1916年5月)

                                                                                  なかじきり(『斯論』1917年9月)

                                                                                  礼儀小言(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1918年1月)

                                                                                  古い手帳から(『明星』1921年11月-1922年7月)※未完・絶筆作

                                                                                  みちの記(『東京新報』1890年8月-9月)

                                                                                  北遊記(『心の花』1914年8月-9月)

                                                                                  智恵袋(『時事新報』1898年8月-10月、アドルフ・クニッゲ「人間交際術」翻案)

                                                                                  心頭語(『二六新報』1900年2月-1901年2月、同上)

                                                                                  慧語(『新小説』1903年3月-1904年2月、バルタサール・グラシアン「処世神託」翻案)

                                                                                  海外消息(椋鳥通信補遺、『スバル』1909年1月-2月)

                                                                                  椋鳥通信(『スバル』1909年3月-1913年10月)

                                                                                  水のあなたより(『我等』1913年11月-1914年7月)

                                                                                  北游日乘(1883年2月-3月、同年9月-1884年2月)

                                                                                  航西日記(1884年8月-10月)

                                                                                  獨逸日記(1889年10月-1893年5月)

                                                                                  隊務日記(1888年3月-7月)

                                                                                  還東日乘(1888年7月-9月)

                                                                                  觀潮樓日記(1892年8月-10月)

                                                                                  徂征日記(1894年8月-1895年10月)

                                                                                  小倉日記(1899年6月-1902年3月)

                                                                                  委蛇錄(1918年1月-1922年7月)

                                                                                  人種哲学梗概(春陽堂、1903年10月刊)

                                                                                  大戦学理(軍事委員会、1903年11月刊)※カール・フォン・クラウゼヴィッツ「戦争論」翻訳収録

                                                                                  黄禍論梗概(春陽堂、1904年5月刊)

                                                                                  仮名遣意見(1908年6月私費印刷)

                                                                                  阿育王事蹟(春陽堂、1909年1月刊)※大村西崖との共著

                                                                                  東京方眼図(春陽堂、1909年8月刊)

                                                                                  帝諡考(宮内省図書寮、1921年3月関係者限定配布)※鷗外没後1926年に吉田増蔵により補訂

                                                                                  元号考 ※鷗外生前は未完、没後1926年に吉田増蔵により補訂

                                                                                  典医としての森家(森氏)は、1650年前後(慶安年間)から1869年(明治2年)の版籍奉還に及ぶ。

                                                                                  玄佐━玄篤━玄叔━周菴━玄佐━玄碩━玄叔━周菴━秀菴━立本━秀菴━白仙━静泰━┳林太郎                                        ┣篤次郎                                        ┣喜美子                                        ┗潤三郎 父に藩医の森静泰(静男)、母に峰子。父は後に北千住で橘井堂医院を開業。鷗外も4年間住んでおり、北千住に森鷗外の碑が建立されている。父静男は明治10年より東京府南足立郡千住の東京府区医出張所で郡医を務め、医師としての名望高く学殖豊かであったが、内務省の定める免状医ではなかったために、東京府が明治18年(1885)に「郡区医職務心得」を廃止し、新たに「東京府郡区医職務章程」を定めた際に郡医を辞職した。

                                                                                  先妻 登志子(1871-1900。海軍中将赤松則良娘):1889年に西周の媒酌で結婚したが1年半後で破綻。鷗外と別れた後、1900年に再婚先で結核で死亡。

                                                                                    長男 於菟(おと、医学者、台北帝国大学医学部教授などを歴任)

                                                                                    後妻 志げ(1880-1936。大審院判事荒木博臣の娘):1902年結婚。鷗外の前に、渡辺勝太郎(銀行家・渡辺治右衛門の息子)と短い結婚をしており、再婚。小説「波瀾」を著しており(『樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集』現代日本文学大系5、筑摩書房、1972年)、義妹の小金井喜美子とともに雑誌『青鞜』の賛助員になった。

                                                                                      長女 茉莉(まり、随筆家・小説家)

                                                                                      次女 杏奴(あんぬ、随筆家)

                                                                                      次男 不律(ふりつ、夭折)

                                                                                      三男 類(るい、随筆家)

                                                                                      4人の子供はいずれも鷗外について著作を残しており、とりわけ茉莉(国語教科書に載った『父の帽子』)と杏奴(『晩年の父』)が有名である。母親の違う於菟は、他の子供たちとはまた違った父親像を綴っている。全員が当時としては異色の名前だったが、これは本人の名前「林太郎」が外国人には発音しづらかったことから来ているもので、世界に通用する名前にしようとしたため。ちなみに孫・𣝣(じゃく、茉莉の子)も鷗外の命名による。

                                                                                      外妾 児玉せき:18、19歳頃より妾として寵愛され、その母親とともに森家の近所である千駄木林町11に暮らした。

                                                                                      弟 篤次郎(三木竹二):明治期を代表する劇評家で、内科医。演劇雑誌『歌舞伎』を主宰し、歌舞伎批評に客観的な基準を確立した(三木竹二『観劇偶評』、渡辺保編、岩波文庫、2004年)。

                                                                                      弟 潤三郎(森潤三郎):書誌学者。朝鮮の歴史にも詳しく1904年に『朝鮮年表』を出版。鷗外の伝記も執筆刊行した(『鷗外森林太郎傳』1934年、改版『鷗外森林太郎』1942年)。

                                                                                      妹 喜美子:明治期に若松賤子と並び称された翻訳家で、また随筆家・歌人でもあった(『鷗外の思い出』岩波文庫、1999年。『森鷗外の系族』岩波文庫、2001年)。

                                                                                      義弟 小金井良精:喜美子の夫。初期の文部省派遣留学生(鷗外の前年にドイツ留学)。24歳で帰国し、27歳の時に高給のドイツ人教官に代わって東京帝国大学医学部教授に就任。後年、帝国大学医科大学学長(現東京大学大学院医学系研究科研究科長・医学部長)等を務めた。小金井夫妻の孫の1人が小説家の星新一。

                                                                                      西周:鷗外の曽祖父の次男、森覚馬が西家を継いで生まれた子。幕末・「明治維新期の西洋法学者・啓蒙家で、貴族院議員や元老院議官などの要職を歴任。上京後の一時期、鷗外少年は、西周邸から進文学社に通学した。

                                                                                      森鷗外旧宅・森鷗外記念館(島根県津和野町)。津和野で古くから漢方薬を売る髙津屋伊藤博石堂が建物・敷地を引き取ったが、後に七代目伊藤利兵衛が鷗外の33回忌に津和野町に寄贈した。なお、五代目伊藤利兵衛は鷗外が日露戦争に出征した際に丸薬「一等丸」を贈り喜ばれている。

                                                                                      森鷗外旧居、鷗外橋(福岡県北九州市小倉北区)

                                                                                      森鷗外旧邸(旧旅館「水月ホテル鷗外荘」)

                                                                                        この建物は鷗外が最初の妻の赤松登志子と1889年5月から住んでいた邸宅で、1890年11月の離婚の直前の文京区への転居まで居住していた。2021年(令和3年)に閉館した旅館「水月ホテル鷗外荘」(台東区池之端)にあった建物で、根津神社(文京区)に移築されることになった。

                                                                                        築130年以上の木造平屋。延べ床面積は約120平方メートル。1946年(昭和21年)に旅館の創業者が隣接する旧邸を買い取った後、座敷は「舞姫の間」として70年以上にわたって使用されていた。2020年には新型コロナウイルスによる影響で予約が激減して閉館を検討、約1年間の休業の後いったん営業再開したが最終的に2021年10月15日限りで閉館。閉館後に根津神社(文京区)が移築を引き受けることになり、総代会の全会一致で移築が決定した。

                                                                                        千朶山房(せんださんぼう)

                                                                                          鷗外が文京区に引っ越して最初に暮らした邸宅で、博物館明治村内に移築されている。

                                                                                          1890年から約1年居住した住宅(元は千駄木に所在)で、のちに夏目漱石も居住した。愛知県犬山市の博物館明治村内に移築され「森鷗外・夏目漱石住宅」として展示されている。

                                                                                          観潮楼(かんちょうろう)

                                                                                            文京区で鷗外が後半生を暮らした邸宅。現存せず跡地には文京区立森鷗外記念館が立地する。

                                                                                            1892年(明治25年)に東京府東京市本郷区の千駄木(現・東京都文京区)に建設された。鷗外の死後、観潮楼には家族が暮らし、その後は借家となっていた。しかし、1937年(昭和12年)の借家人の失火で母屋の大部分を焼失し、1945年(昭和20年)には戦災で胸像などを除きすべて焼失した。観潮楼の跡地は1950年(昭和25年)に記念公園(児童遊園地)となり、東京都の史跡の指定を受けた。その後、1962年(昭和37年)に文京区立鷗外記念本郷図書館が開設され鷗外記念室が併設された。休室となった後、2012年に文京区立森鷗外記念館として開館した。

                                                                                            文京区立森鷗外記念館(東京都文京区)

                                                                                            森鷗外記念館 (ベルリン)(ドイツ語版) ドイツ連邦共和国ベルリン市ミッテ区にあるかつての滞在先。

                                                                                            常日頃、文人の自分と軍医である自分のそれを厳格に分けて考えていた。ある時、文壇の親しい友人が軍服姿で停車場に立っていた森を目にして、何気なく話しかけたら、その友人を怒鳴りつけたことがある。

                                                                                            軍医でなおかつ軍の一人でもあることを意識しており、自分の子である杏奴と散歩をしていると「わー中将が歩いているぞ」と子供たちがバラバラと駆け寄ってきた。軍の人間は日露戦争の影響で人気があったからだが、鷗外を見つめていた子供たちの1人が襟の深緑色を見て「おい、なんだ、軍医だよ」と声を上げ、子供たちが散るように去ってしまったことにかなり落胆してしまったそうである。

                                                                                            子供たちは鷗外を「パッパ」と呼び、茂子のことを「お母ちゃん」と呼んでいた。

                                                                                            細菌学、衛生学を究めて以来、パスツール同様潔癖症になってしまい、果物などの食べ物も加熱しないと食べられなくなってしまった。煮て砂糖をかけた果物が好きで、食卓には水蜜桃、杏、梅などがのった。

                                                                                            風呂を湯の無駄あるいは細菌の温床と見做して嫌い、金盥を前に一日2回手拭で身を清めるのが日課であった。於菟は『父親としての森鷗外』冒頭にて「父はこのため水の不足な戦地でも困らなかった」と述懐している。

                                                                                            酒は飲めず、大の甘党だった。あんぱんや「消毒してあって、滋養に富んでいる」焼き芋が好物であった。「饅頭の茶漬け」なる独自の料理を好んでおり、ご飯の上に四等分にした饅頭を乗せ、お茶をかけて混ぜ合わせて溶いて作られたそれは、「渋く粋な甘味」と形容されている。あんこが好きで、汁粉も飲んだ。木村屋のあんぱんも好物だった。宮中のデザートで出されたキャラメルやチョコレートなどをそっと軍服に隠し入れて、子供たちへの土産にすることもあった。ナスも好物で、味噌汁や煮物、焼物、漬物といったナス尽くしの献立に満足していたという。

                                                                                            たった一種類料理ができて、「玉子をどろどろに柔らかく煮る」ことで弁当のおかずによく作ったが、お酒を入れすぎてお酒臭い時もあった(杏奴「晩年の父」)。「技巧のない料理」が好きだった。

                                                                                            木下杢太郎は鷗外を「テエベス百門の大都」と評し、「文学と自然科学と、和漢の古典と泰西の新思潮と芸術家的感興と純吏的の実直とが孰れも複雑な調帯の両極を成している」(『芸林間歩』所収「森鷗外」)と述べている。

                                                                                            井上通泰 - 『於母影』の共訳者で、歌会常磐会の創設メンバーの1人。

                                                                                            上田敏 - 一緒に雑誌『芸文』『万年艸』を創刊する等、親交を深めた。

                                                                                            木下杢太郎 - 医学生時代、鷗外に進路を相談。後年、鷗外の心境を深く理解した。

                                                                                            黒田清輝 - 東京美術学校の後輩教員。鷗外の依頼を受け、故原田直次郎展の発起人を務めた。

                                                                                            佐佐木信綱 - 『めさまし草』に歌を発表し、長年にわたって親交を深めた。

                                                                                            太宰治 - 希望した通り、鷗外の墓のはす向かいに埋葬された(禅林寺)。

                                                                                            田山花袋 - とくに鷗外の審美学(美学の旧称)が好きで、その影響を受けたと書いた。

                                                                                            永井荷風 - 鷗外の推薦で慶應義塾教授に就任。生涯その恩を忘れなかった。

                                                                                            中村不折 - 鷗外の自宅から別荘の表札、墓碑銘まで書いた。

                                                                                            萩原三圭 - ともにドイツのライプツィヒ大学に留学した。

                                                                                            原田直次郎 - ドイツ留学時代からの友人。

                                                                                            吉田増蔵 - 晩年の鷗外に乞われ上京し、元号や勅語や皇族名などに関わり、鷗外の遺著『元号考』を補い完成させた。

                                                                                            夏目漱石 - 著書の贈答を続けるなど親交が少なからずあり、1910年に慶應義塾教授就任を打診した(漱石が辞退)。漱石の葬儀にも参列した。

                                                                                            北里柴三郎 - 東京大学の学生時代から交流が続いた(北里は2年下)。ドイツに留学した鷗外は、すでにベルリンでコッホに師事していた北里を介することでコッホの下での修学を認められた。

                                                                                            秋の舞姫 - 『「坊っちゃん」の時代』の第二部。『舞姫』の執筆に関わるドイツ人女性との恋愛が描かれる。

                                                                                            文豪ストレイドッグス - 同姓同名で、鷗外のエピソードや作品にちなんだ設定の人物が活躍する。

                                                                                            ^ カシオ計算機・「KE!SAN-和暦から西暦変換(年月日)」で、太陰太陽暦の文久2年1月19日を西暦の年月日に変換すると、1862年2月17日と計算される(2020年3月10日に計算)。

                                                                                            ^ 入学時、第一大学区医学校・東京医学校医学本科予科

                                                                                            ^ 祖母も養子であり、祖父母の代で森家の血筋が絶えていた。このため鷗外は、親戚の西周と血が繋がっていない。

                                                                                            ^ 鷗外誕生の前年、祖父の白仙が東海道の土山宿で病死したため、特に祖母は鷗外を白仙の生まれ変わりといって喜び、後年、鷗外が留学と出征から無事帰国する度に、はらはらと涙を落としたという(小金井 (1999))。

                                                                                            ^ ドイツ人教員がいて生徒の1割強が華族の身分。当時の父親の収入を踏まえると、西周が学費も世話をしたという説がある。

                                                                                            ^ 数え年12歳。この時に数え年の12歳に2歳多く偽り14歳であり、数え年を含まない場合は、13歳である。

                                                                                            ^ 数え年19歳。予科の入学試験の時に、年齢を偽っている為。東京大学医学部を11歳で入学して18歳で卒業した唯一の人物。

                                                                                            ^ 鷗外の陸軍省入りには、当時軍医総監だった林紀と昵懇の間柄である西周の助力も働いていたようで、1882年(明治15年)5月には同期の中で初の「軍医本部付」となった。山﨑(2007)、41–42頁。

                                                                                            ^ 『医政全書稿本』全十二巻の前部は、陸軍衛生制度のほか、軍隊での儀礼や法制、経理、給与、設営などが取り上げられた。また、その後部は、軍陣衛生の各論で構成された。二十歳の鷗外は、そうした膨大な内容の稿本を十か月ほどで編集したのである。山﨑(2007)、45頁。

                                                                                            ^ 明治17年留学生のメンバーは森林太郎、片山国嘉、丹波敬三、長與稱吉、田中正平、宮崎道三郎、隈川宗雄、萩原三圭、穂積八束、飯盛挺造の10名、鷗外がこの10名を「日東十客ノ歌」を書いている。『鷗外留学始末』5頁。

                                                                                            ^ 鷗外は、ドレスデンに移った年のクリスマス休暇で、ライプツィヒに出かけた。予定を延ばして滞在したものの、12月30日さらに滞在を勧める人たちに別れを告げた。金子 (1992)、15–18頁。

                                                                                            ^ キルケの名は、ドレスデン滞在時の日記に17回登場し、鷗外がドレスデンを離れた後も、つき合いが続いていた(金子 (1992)、42頁)。

                                                                                            ^ 近代細菌学の開祖とされるコッホは、ミュンヘン大学の恩師ペッテンコーファーと対立していたが、北里柴三郎の勧めもあり、鷗外はコッホにも師事した。

                                                                                            ^ 9月26日は、オランダ代表の「欧州外の戦争で傷病者を救助すべきか否か」という問題提起に、「眼中唯〃欧州人の植民地あるを見て発したる倉卒の問いなり」と発言。翌27日の最終日は、石黒忠悳の許可を得て「アジア外の諸邦に戦いあるときは、日本諸社は救助に力を尽くすこと必然ならんと思考す」と演説し、喝采を博した。ちなみに、その演説主旨は、4月18日に同期の谷口謙と共に乃木希典、川上操六の両少将を訪問した時、どちらかの少将の発言内容とほぼ同じである。もっとも当時、あまり知られていない極東の小国(モンゴロイドで非キリスト教徒の国)の通訳官が、国際会議で発言すること自体、相当勇気が必要であろう。山﨑(2007)、66–67, 70–73頁。

                                                                                            ^ 現在、来日したドイツ人女性について3人の名が挙がっている。植木(2001)は、年上の既婚者エリーゼ・ヴァイゲルト(Elise Weigert。ヴィーゲルトWiegertの可能性も指摘された)説を否定し、遺産を得ていた仕立物師の娘アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト (Anna Berta Luise Wiegert)(1872年12月16日- 1951年)説を新たに唱え、AnnaとLuiseが鷗外の子供達の名(杏奴、類)と一致することなども指摘した。森鷗外と「エリス」―ドイツ・ベルリン。しかし、その後に刊行された林(2005)と小平(2006)は、植木説ではなく、従来の主流である年上の既婚者説をとった。2010年11月19日、植木説に基づくTV番組NHKハイビジョン特集「鷗外の恋人~百二十年後の真実~」(90分)が放送された。放送直後、今野(2010)が刊行され、当時15歳のドイツ人女性が単身来日でき、また偽名でも日独間を行き来できる可能性があったこと等を明らかにした。2011年3月、六草いちかがエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト説を発表した。その根拠として、名前、出生地、帰国後の職業、鷗外帰国時の年齢(21歳)、鷗外の娘の名前:茉莉と杏奴(エリーゼのミドルネームと妹がアンナ)などを挙げた。六草(2011)鷗外「舞姫」のモデルは彼女? 洗礼記録発見、経歴一致鷗外「舞姫」モデルの晩年明らかに=ベルリン在住のライターが調査

                                                                                            ^ 日本で最初に、ゾラの文学的傾向の実体を紹介するものとなった。ちなみに、日本でゾラの自然主義の影響が出始めたのは、明治30年代である。山﨑(2007)、100頁。

                                                                                            ^ 新声社の同人は、落合直文、市村瓚次郎、井上通泰、三木竹二(鷗外の実弟)、小金井喜美子(実妹で既婚)、鷗外本人の計6名。ただし竹二は、「於母影」の共訳に参加していない。山﨑(2007)、103頁。

                                                                                            ^ 『しがらみ草紙』は、3号に坪内逍遥と幸田露伴の、4号に山田美妙と石橋忍月の文が掲載され、その地位が高まった。最盛期に2,000部が売られた。

                                                                                            ^ 鷗外の「翻訳」(広義)ぶりの現代的意味は、長島(2005)が参考になる。ちなみに、『鷗外全集』53巻(岩波書店、1951-1956年)の内訳は、著作編33巻、翻訳編18(戯曲10、小説6、戦論・医事2)巻、別巻2である。

                                                                                            ^ 日清戦争後、東京美術学校に復職した後、審美学と西洋美術史を講じた(新関(2008)、180頁)。

                                                                                            ^ (山﨑(2007)、202頁)は、「遅れた社会に科学を育てるには条件が必要。それは「標準」である。「芸術」の「標準」として鷗外は乾いた日本の土壌に「審美学」を植え付けようとした」と指摘した。

                                                                                            ^ 当時、遼東半島にいた鷗外などとの交際は、遼東五友の交わりといわれた。その五友とは、新聞『日本』の正岡子規と中村不折、『読売新聞』の河東銓(かわひがし せん。俳人河東碧梧桐の兄)、久松定謨、鷗外の5人である(佐谷(2009)、54頁)。子規との交際は小倉に転勤するまでつづき、不折とは生涯続いた。

                                                                                            ^ 1月に創刊された『めさまし草』は、3月から「三人冗語」が掲載され、9月以降これに依田学海、饗庭篁村(あえば こうそん)、森田思軒、尾崎紅葉らが加わり、「雲中語」として評判になった。紅葉、川上眉山、正岡子規、高浜虚子、落合直文などが文を寄せた。また「於母影」の共訳者であった井上通泰の実弟、柳田國男も松岡国男の名で歌評を書いており、夏目漱石の俳句も掲載された(3号)。

                                                                                            ^ 「児玉せき(32)なる女を十八、九の頃より妾として非常に寵愛し、かつて児まで挙けたる細君を離別してせきを本妻に直さんとせしも母の故障によりて果たす能わず」とある。現代教養文庫、1992年、14頁。児玉に関しては、森まゆみが「無縁坂の女」として章を立て、いきさつ等を記した。森まゆみ (2000)、297-343頁。

                                                                                            ^ この人事は、鷗外本人の受け止め方を別にして当時の状況を踏まえれば、左遷といえるのか疑問視する声もある(松本 (1997)、108-111頁)。その小倉転勤は、前任者の江口襄(作家江口渙の父。渙の『わが文学半生記』(青木文庫、1953年)には父の友人として鷗外の名が何度か登場)が着任後わずか8か月で辞職(軍医の開業禁止を受け、病院での診療に専念)したために行われた穴埋め人事である。このため、後任の鷗外は、ほかの新設5師団の軍医部長5名と同じように1902年(明治35年)3月まで在任した。

                                                                                            ^ 末弟の森潤三郎は、『戦争論』の翻訳について「この事は軍人社会に兄の声望を重からしめ、山県元帥に名を知られる因となった。」と書いた(森潤三郎 (1942))

                                                                                            ^ 後年、小倉時代を素材にした短編小説『鶏』で表れたように、田中美代子は、小倉での生活によって「それまで一途に中央志向に凝り固まっていた鷗外は、だが次第に、日本の懐深く息づいている土着の魂というべきものに目覚めていったのではなかろうか。」と指摘した(森鷗外 (1996)、「解説」)。また、「上京して以来、(中略)ドイツでの留学生活を除いて、鷗外の生活の場であり続けた東京と比べると、人々の生活・行動規範が緩やかで、ある意味で自由奔放な北九州のローカル都市・小倉と、そこで生活する人々の生活風俗は、鷗外にとって異質で、新鮮な世界を意味していた」(末延 (2008)、112、114頁)。

                                                                                            ^ 貝原益軒(博多)の墓を皮切りに、加藤清正(熊本市)、高山彦九郎(福岡県久留米市)、広瀬淡窓(大分県日田市)など、文人と武人の墓を探して参り、墓碑を筆記した。また東京に出張する途中、客死した祖父、森白仙(1861年、東海道の土山宿で没)の墓も参った。末延 (2008)、117頁。

                                                                                            ^ 西周等らとともに江戸幕府派遣留学生であった赤松則良海軍中将の長女、登志子との結婚生活は、1年半ほどで破綻した。 1888年(明治21年)9月8日に鷗外が帰国した直後、9月12日にドイツ人女性が来日して10月17日に離日した出来事をきっかけに、留学中より西周から話のあった縁談が急に進み(9月18日に祖母が、10月17日に母と弟の竹二が西邸を訪問)、翌年2月24日に鷗外と登志子は結婚した(森まゆみ (2000)、148頁)。鷗外の弟2人、登志子の妹2人、女中が同居し、また新居には同人などが数多く出入りした。後年、幸田露伴は、鷗外宅に行くと夜12時になっても1時になっても引き留められたと回想し、内田魯庵も、夜が更けたので帰ろうとすると「マダ早いよ、僕の処は夜が昼だからね。眠くなったらソコの押入から夜具を引きずり出してゴロ寝をするさ。賀古なぞは12時が打たんけりや来ないよ」といわれ、実際に賀古鶴所が12時すぎに来たのに数回出会ったと回想した。1890年(明治23年)1月に小説「舞姫」が発表されると、9月13日に長男於菟が生まれたものの、10月4日に鷗外は同居する弟2人を連れて赤松家所有の家を出て行った(仲人の西周が激怒し、鷗外は西邸の出入りを禁じられた)。 離婚の理由は、登志子の容姿や嫁姑問題(平川ら 1997a、177–178頁)など、いくつか推測されてきたものの、分かっていない。森於菟によれば、父鷗外は母に結核を移されたと祖母が語ったという。その真相は不明であるが、少なくとも鷗外は、1909年に戯曲「仮面」(離婚して2年後に結核が発症したことを示唆)を作り、また没する10年ほど前から結核が発症していた。森まゆみ (2000)、137-183頁。山﨑 (2007)、98-99頁。

                                                                                            ^ 1875年(明治8年)5月に島根県安濃郡で生まれ、37歳で没。鷗外は随筆「二人の友」を発表しており、後に芥川龍之介も第一高等学校でドイツ語を習った福間を回想して随筆「二人の友」を発表した。

                                                                                            ^ ただし僧侶の玉水は、敬愛する鷗外の後を追うように上京したものの、嫁姑問題にかかわったため、森家に出入りできなくなり、失意のうちに東京を離れた。小倉の新婚時代には、家主の10歳くらいの娘で、鷗外にかわいがられた盲目の八重も「お祖母さんがそんなに毎日伺ってはお邪魔じゃろうと申しますが、また伺いました」といって鷗外宅によく来ていた。ときには「お祖母さんが怒ると私の事を穀盗人と申します。そう言う時は森さんがそれはそれは御親切に慰めて下さいます」と、目に涙をたたえて鷗外の新妻に訴えることもあった。小堀 (1981)、150頁。

                                                                                            ^ 凱旋した1906年(明治39年)1月12日には、親族のほか、佐佐木信綱や上田敏、小山内薫など一同で祝宴が催された。

                                                                                            ^ 慣例として前任者(小倉「左遷」人事をした小池正直)の推薦が必要であった。その小池は、7歳年上であったが、鷗外とは東京大学医学部の同期生であり、かつて鷗外を採用してもらえるように陸軍軍医監の石黒忠悳に熱い推薦状を提出した。学生時代の2人を知る緒方収二郎は、鷗外を「強記は実に天才」、小池を「沈黙謹厳」と評した(山﨑 (2007)、41、310–311頁)。また小池は、7か月間の外遊から帰国後、トップの医務局長に就任するまでの半年間、鷗外と毎月1 - 2度会っていた。老朽軍医の淘汰を断行した小池の初回人事では、その淘汰で空いたポスト二つのうち第二師団(仙台)ではなく、近衛師団(東京)の軍医部長に鷗外をつけた。鷗外が小倉にいた1900年(明治33年)5月末、小池医務局長の推薦に基づく軍医の叙勲が行われ、鷗外は小池と同等に勲四等に叙せられた。 日露戦争後、第一軍 – 第四軍の軍医部長経験者5名のうち中央に残されたのは鷗外だけであり、会議などでも鷗外がナンバー2の地位にあることが明確にされた。以上のように、鷗外に関する小池の人事では、小倉「左遷」だけが特異であった。その理由として山下(2008)は、小池には鷗外への悪意がなく、「左遷」には別の理由があったとした。また「左遷」人事の背景として、日清戦争後の台湾平定での脚気大流行とその隠蔽、陸軍大臣の高島鞆之助とその後任桂太郎など台湾での出来事を知る将官による責任追及とその反動(山県有朋元帥や大山巌元帥や児玉源太郎などと懇意である石黒忠悳(衛生の総責任者)の保身運動)という複雑なものを挙げた。

                                                                                            ^ 鷗外は、1910年(明治43年)12月10日、被告26人が出廷した大審院特別法廷(非公開)の高等官傍聴席にいたとの説がある。なお同年12月14日、与謝野鉄幹と大逆事件弁護人の平出修とを供応した。その平出は、鷗外から1週間にわたって無政府主義・社会主義に関する講義を受けたと伝えられている。平川ら (1997b)、303–306頁。

                                                                                            ^ 陸軍に絶大な影響力をもつ山縣有朋とは、親友の賀古鶴所を通して関係があった。1906年(明治39年)6月10日、鷗外と賀古が佐佐木信綱と井上通泰ら4名を酒楼「常盤」に招いて歌会を起こすことを勧め、その後、賀古が山縣に話のついでに告げたところ、山縣も力を添えることになった(山﨑 (2007)、285頁)。その歌会常盤会は、山縣が他界するまで15年間続いた。もっとも5か月後、前年から体調を崩していた鷗外も他界した。鷗外が山縣の誕生祝の宴に初めて招かれたのは、陸軍省医務局長を退く前年の1915年である。

                                                                                            ^ 末延は、小説「鼠坂」についての見出しに「「剣」に屈服した新聞記者」と副題をつけた(末延(2008)、246–281頁)。

                                                                                            ^ 乃木希典の殉死と「興津弥五右衛門の遺書」に関する通説・定説には、批判もある(池内(2001)、147–157頁)。

                                                                                            ^ 鷗外の歴史小説は「阿部一族」「大塩平八郎」「堺事件」、戯曲「曾我兄弟」(1914年3月)まで「権力と民衆」への視点を基本構図としながらも、殺伐とした物語が多かった。 「安井夫人」(1914年4月)以来、「山椒大夫」「じいさんばあさん」「最後の一句」「高瀬舟」など家族の情を主体としたものが多くなっていく。山﨑 (2007)、655頁

                                                                                            ^ 「空車」に対し、これまで様々な解釈がなされている。近年も注目すべき解釈が提示された。池内 (2001)、198–207頁。

                                                                                            ^ 唐木順三に従えば、「礼儀小言」は大正期の日本人の暮らしと思想のあまりの大変動に恐怖を感じた明治人、鷗外の大正的なるものに対する深刻な憂いの表明である(片山 (2007)、106頁)。

                                                                                            ^ 帝室博物館では月・水・金曜日(8時から16時まで)に、図書寮では火・木・土曜日(8時から13時まで)に勤務した。 博物館総長として毎秋、鷗外は正倉院の虫干しに立ち会わなければならず、奈良や京都に1か月ほど滞在していた。また、総長就任の4年間で博物館の歳出が大幅に増え、就任4年目で就任直前の2倍強になった。館内の構造物について「分類陳列」方法が改まり、「時代別陳列」に変更された。また、正倉院の参観資格が緩和され、帝室技芸員や古社寺保存会委員や美術審査員などのほか、「学術技芸ニ関シ相当ノ経験アリト認メタル者」にも参観の道が開かれた。山﨑 (2007)、705-707、785頁。

                                                                                            ^ すでに臨時「宮内省御用係として1913年(大正2年)2月から、勅語や令旨など、特別な文章の起草、執筆に関わっていた。 1915年(大正4年)5月には、大典前の大正天皇から漢詩を所望され、「応制の詩」を作った。御用係は総長・図書頭就任時に免じられたものの、特別な文章への関わりは1921年(大正10年)頃まで続いた。山﨑 (2007)、625、702–703頁。

                                                                                            ^ 一連の経緯は、猪瀬 (2002)が詳しい。

                                                                                            ^ ただし、遺言を残した翌7月7日に大正天皇と貞明皇后から葡萄酒が下賜され、8日に摂政宮(後の昭和天皇)から御見舞品が下賜され、従二位に叙せられた。鷗外本人は、遺言を残した6日夜半から容体が悪化し、7日夕刻から昏睡状態に入っており、没した翌10日の『東京朝日新聞』が最期の様子を次のように報じた。

                                                                                            8日午後の注射以来少しく容体を持直し、午後10時頃には何事か看護の人に言はうと試みていたが聞きとれなかった。それから不安のうちに夜が明けて9日午前4時にわかに容体が変わったので…… — 山﨑 (2007)、811-813、843頁[一部を平仮名にし、句読点を入れた]
                                                                                            もっとも、死去する前日の8日に従二位に叙せられたことで、大谷 (1983) (2000)は鷗外最後の遺言を疑問視し、鷗外の叙爵への執着を指摘した。志田 (2009)は鷗外が石黒忠悳によって貴族院議員に推挙された際に喜んでお受けしたい旨の返書を送ったという日記(大正5年1月6日)の記述を挙げ、鷗外が臨終の際に袴を履いていたのは叙爵の使者を迎えるためだったと指摘した。

                                                                                            ^ 「立ち依(よ)らば、大樹の陰、その名は鷗外、森林太郎」と書いた太宰治は、希望した通り、鷗外の墓の前(はす向かい)に埋葬された(猪瀬 (2002)、9頁)。

                                                                                            ^ たとえば、日本初の西洋風演出による新劇運動として、その後の演劇界に多大な影響を与えた自由劇場の第一回旗揚げで上演されたのは、イプセン作・鷗外訳「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」(小山内薫の演出)であった(1909年11月)。 当時の鷗外は、「草創期の新劇にとって非常に大きな力」となり、「ある時期、鷗外が西洋の近代戯曲への窓口だったといっていい」とまで評価されている。(平川ら (1997c)、176–177頁)。

                                                                                            ^ 国民歌劇協会が作曲家グルック生誕200年を祝って1914年(大正3年)7月2日に上演を予定し、鷗外に訳を委嘱した。ただし、第1稿は留学先のドイツから持ち帰った台本を底本としたため、協会の楽譜に合わなかった。その後、第2稿は完成したものの、第一次世界大戦の勃発など諸般の事情によって上演されなかった。 しかし、91年後の2005年(平成17年)9月18・19日、その幻のオペラは、関係者の尽力により、鷗外が希望したフルオーケストラで初演された(上野・東京藝術大学奏楽堂)。DVD:森鷗外訳オペラ『オルフエウス』紀伊国屋書店、KKCS-65。

                                                                                            ^ たとえば、1889年(明治22年)8月、発足したばかりの日本演芸協会の文芸委員になっており、同年10月刊行の『しがらみ草紙』創刊号で「演劇改良論者の偏見に驚く」を発表。

                                                                                            ^ 田山花袋は、

                                                                                            私は殊に鷗外さんが好きで、『柵草紙』などに出る同氏の審美学上の議論などは非常に愛読した。鷗外さんを愛読した結果は私もその影響を受けた。 — 「私の偽らざる告白」『文章世界』1908年9月
                                                                                            と書いた。 日露戦争中、第二軍写真班の取材記者として5か月ほど従軍した花袋は、宇品港のある広島市本町の宿に同軍軍医部長の鷗外を訪ねており(初対面)、2人は文学談義を交わすなど頻繁に会っていた(平川ら (1997a)、388、403–405頁)。

                                                                                            ^ 鷗外が日本の近代美術史に残した足跡の一つに、実質的編集者として展覧会カタログ『原田先生記念帖』を発行したことが挙げられる。その展覧会とは、1909年(明治42年)11月28日(日曜日)、[[東京美術学校 (旧制)|]]校庭の校友会倶楽部で開催された「原田直次郎没後十周年記念遺作展」である。 故人は、東京美術学校と関係がなかったものの、かつて同校で教鞭を執っていた鷗外が発起人に黒田清輝を巻き込み、校友会倶楽部での展覧会開催が実現した。その展覧会カタログは、全出品作23点の写真と、黒田清輝や松岡寿、長沼守敬など同時代人による回想とが掲載されており、明治美術史の貴重な資料となっている。また、日本にまだ美術館学芸員が存在しなかった当時、公務(医務局長等)と執筆活動で多忙を極めていた鷗外がやり遂げたことは、今日の美術館学芸員の先駆的仕事でもあった。新関 (2008)、138–140頁。

                                                                                            ^ 弟子の有無に限らず、松本清張による鷗外と漱石の比較が興味深い(松本 (1997)、93–97頁)。鷗外と漱石の対比は、生前の鷗外を知る平塚らいてうもしており、(金子 (1992)、314-315頁)で読むことができる。

                                                                                            ^ そうした鷗外の女性観については、森鷗外 (2006)が参考になる。同書には、一葉や晶子、らいてうの評なども集められている。 また、金子 (1992)には、鷗外と女性解放運動に関する記述があり、らいてうの回想文を引用(322頁)し、鷗外が日本初の女性団体新婦人協会の設立にどう関わったのか等を紹介している。ちなみに、若き日の鷗外は、1885年(明治18年)9月28・29日にライプツィヒでドイツ初の女性団体「独逸婦人会」(1865年設立)の第13回総集会を傍聴していた。

                                                                                            ^ 明治41年の臨時脚気病調査会の発会式において、寺内は「吾軍隊に麦食を給したりしに、当時石黒男は何故に麦を支給するのか、麦飯が果して脚気に効果あるかなどと詰問され遂に麦の供給を中止したる経歴もあり」と語り、さらに鷗外についても「石黒説の賛成者にして、余を詰問せられし一人なりし」と述べた。(山下 (2008)、120-121頁)

                                                                                            ^ (山下 (2008)、288-289頁)は、師団軍医部長は師団衛生の全管轄権を持っているのだから好きにすればよいとの暗黙の容認の含みがあったと推測している。(坂内 (2001)、178頁)は、「無言の拒否、拒否以上の拒否」とみなしている。

                                                                                            ^ 山下は続けて「脚気根絶への道を拓いた森林太郎の功績は、ひときわ高く顕彰しなければならない。(中略)論理主義の森と実践主義の高木兼寛とは見解と手法に相違があり、それが一見対立的な姿に見えた。しかし「脚気の撲滅」という究極の目的は同じであった。(中略)/明治の脚気紛争のなかに出現したこの森林太郎と高木兼寛の脚気業績は、医学史上不滅の業績である。末永く顕彰記念しなければならないのである。」と記述した(山下 (2008)、461頁)。

                                                                                            ^ (坂内 (2001)、211–231頁)は、鷗外が最後まで細菌説に固執したという見解のもと、1908年(明治41年)7月4日の調査会(第1回会合)で寺内正毅陸軍大臣が麦飯の効用を強く示唆したにもかかわらず、次の会合で示された活動方針から麦飯を含む栄養の問題が排除され、また調査会発足時の委員である都築甚之助が細菌説から栄養説に転じた直後に委員を罷免された等の見解を示し、調査会の活動を否定的にとらえた。確かに調査方針では、微生物学など「学」の付いた研究分野までしか明記されておらず、その第二条に列記された研究分野は、微生物学、医化学、病理学・病理解剖学、臨床医学、流行病学であり、栄養学がない(山下 (2008)、362頁)。もっとも、医化学を修めた佐伯矩によって日本で栄養学が芽生えたのは、調査会が設立されてから6年後の1914年(大正3年)であった。初期の調査会では、1910年(明治43年)3月–10月と1911年(明治44年)6月–1912年(大正元年)10月の2回にわたり、食餌試験が行われた。また、坂内 (2001)は都築が「罷免」されたと理解したのに対し、(山下 (2008)、375頁)は「辞任」とする。その都築は、1910年(明治43年)3月の調査会で「脚気ノ動物試験第一回報告」をしており、同年12月9日に委員を辞めた。翌春、東京医学会総会で未知栄養障害説を発表(脚気ノ動物試験第二回報告)しており、のちに森委員長の配慮によって調査会でも発表した。その後も、製糠剤アンチベリベリンの開発とその効否試験など、精力的に研究を続けた。

                                                                                            ^ 鷗外が岡崎桂一郎著『日本米食史 - 附食米と脚気病との史的関係考』(1912年)に寄せた序文で「私は臨時の脚気病調査会長になって(中略)米の精粗と脚気に因果関係があるのを知った」と自ら記述している事実から、鷗外は脚気病栄養障害説が正しいことを知りながら、あえてそれを排除し、細菌原因説に固執して、調査会の結論を遅らせていたとの見解もある。志田 (2009)、145–153頁。

                                                                                            ^ 山下 (2008)、471–472、448頁。山下は、ビタミンの存在を知っている後世から、その存在を知らなかった前世に対して安易に批判すべきではないとした。また、鷗外の医学面について書かれたものには錯誤が多く、基礎栄養学、ビタミン学、脚気医学の専門知識なしには問題の内容を正確に把握できず正しい論評はできないと述べている。

                                                                                            ^ 後年、寺内は脚気病臨時調査会の第1回会合のあいさつで、自ら長年脚気を患い麦飯で治癒した経験があること、陸軍への麦飯導入を石黒に激しく反対されたことを披瀝(ひれき)し、

                                                                                            〔日清戦争〕当時は此席に居らるゝ森局長の如きも亦石黒説賛成者にして余を詰問せられし一人なりし
                                                                                            と発言した。

                                                                                            ^ 松田(1990)は鷗外を中心とする陸軍関係者の態度を、東京大学の「不遜としか言いようのない思い上がり」と指摘している(106-107頁)

                                                                                            ^ この見解については、保身や党派性を、医師としての公衆に対する義務より優先させたとの批判がある。志田 (2009)、179頁

                                                                                            ^ この見方とは逆に、土岐頼徳からの「言葉巧みな側近の者にたぶらかされているのではないか」との上申(吉村、1994, 下巻 P.211)、「森の主張をコピーしたような批判を繰り返していた」(松田、1990, P.103)など、石黒の側が森に同調していたとの指摘は当時から現在まで存在する

                                                                                            ^ アルトゥル・ショーペンハウアーによる独語版からの翻案。

                                                                                            ^ 講談社学術文庫版(2019年)の題は『元号通覧』。

                                                                                            ^ 「気性合わず、文筆活動の妨げ」 鷗外妻との関係文書 : 静岡(2012年9月14日 読売新聞))明治23年(1890年)10月6日付で、当時、佐世保鎮守府司令長官であった父親の赤松則良に対して、長男の赤松範一が鷗外と妹登志子夫婦の生活の実情を報告するために書いた手紙の下書きが見つかっている。鷗外が「私の気性として、日頃夫婦で遊歩することもなく、談話も好まない。文筆活動の妨げになるので、登志子とよく相談した」という趣旨の発言し、於菟については「別段牛乳にても無害」と言い、引き取った旨が記されていた。

                                                                                            ^ NHK BSプレミアム(2014年7月23日放送)の『孫のナマエ〜鷗外パッパの命名騒動7日間』という、孫の命名に関するエピソードがドラマになった。ここで鷗外は「伯爵」などの「爵」ではなく、「雀」の「𣝣」から採ったとしている。この番組では鷗外を「キラキラネーム」の元祖としていた。

                                                                                            ^ 秦 2005, p. 159, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-森林太郎(鷗外)

                                                                                            ^ 「森鴎外」『朝日日本歴史人物事典』。https://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E9%B4%8E%E5%A4%96#E6.9C.9D.E6.97.A5.E6.97.A5.E6.9C.AC.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E4.BA.BA.E7.89.A9.E4.BA.8B.E5.85.B8。コトバンクより2023年8月2日閲覧。 

                                                                                            ^ “作家 森鴎外(もりおうがい)(島根県津和野町生まれ)”. 山陰中央新報デジタル. (2015年2月11日). オリジナルの2020年8月11日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200811213501/https://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1493244667215/index.html 2018年7月11日閲覧。 

                                                                                            ^ 平川ら (1997a)、15頁。同書は、学生、作家、軍医、家庭人の側面から、鷗外の実像に迫った。

                                                                                            ^ 『出典』 東京大学総合研究博物館 哺乳類学者 神谷敏郎 東京生まれ。 1930年3月2日- 2004年7月13日 教育学士 医学博士 青山学院大学文学部教育学科卒業 東京大学医学部卒業 東京大学大学院医学系研究科修了 1956年東京大学医学部助手 1971年東京大学医学部解剖学講師 1980年筑波大学医療技術短期大学部教授(解剖学) 1993年筑波大学名誉教授 幕末から明治初期における医学教育 東京大学医学部の源流 【参考文献】 細川宏「わが教室史—東京大学医学部解剖学教室」、『医学のあゆみ』第50巻1号、1964年、11—14頁。 石黒忠悳『懐旧九十年』、博文館、1963年。 石橋長英・小川鼎三『お雇い外国人(9)—医学』、鹿島研究所出版全、1969年。 神谷敏郎「鴎外の大学時代のノート」、『UP』、1996年、1—5頁。 小金井良精「東京帝国大学医科大学解剖学教室略誌」、『東京医学会創立二五年祝賀論文集』、1913年、7—27頁。 壬生町立歴史民俗資料館編『ジェンナー種痘発明二百年記念—種痘医斎藤玄昌』、栃木県壬生町立歴史民俗資料館、1996年。 森鷗外『ウィタ・セクスアリス』(岩波文庫)、岩波書店、1995年。 森於菟『父親としての森鷗外』(筑摩叢書159)、筑摩書房、1969年。 大沢謙二『燈影晶語』、永井潜編集私家版、1928年。 小川鼎三『医学の歴史』(中公新書)、中央公論社、1964年。 小川鼎三・酒井シズ校注『松本順自伝・長与専斎自伝』(東洋文庫386)、平凡社、1980年。 司馬遼太郎『胡蝶の夢』、新潮社、1979年。 津山直一「鷗外の整形外科学習(I)(II)」、『整形外科』第39巻1号、115—116頁、2号、277頁、1988年。 津山直一「鷗外の整形外科学習(III)」、『整形外科』第41巻、1990年、139—140頁。 東京大学医学部創立百年記念会『東京大学医学部百年史』、東京大学出版会、1967年。 東京帝国大学編『東京帝国大学五十年史』、東京帝国大学、1932年。 東京大学総合図書館『東京大学総合図書館古医学書目録』、日本古医学資料センター、1978年 [1]

                                                                                            ^ 旧制高等学校に相当。本科を含めて現在の東京大学医学部の前身。

                                                                                            ^ 明治7年度は15歳以下の入学が見合わされており、明治8年度は入学年齢制限が16 - 20歳に引き上げられた。平川ら (1997a)、129–134頁

                                                                                            ^ 平川ら (1997a)、129–134頁

                                                                                            ^ 平川ら (1997a)、112-118、142頁。

                                                                                            ^ 山﨑(2007)、38頁。

                                                                                            ^ 小金井 (1999)、35–37, 39頁。

                                                                                            ^ 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』(博文館、1936年)241頁※ページ番号記載なし

                                                                                            ^ 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』(博文館、1936年)242頁※ページ番号記載なし

                                                                                            ^ 小堀 (1981)、195-196頁。

                                                                                            ^ 『早稲田大学百年史』第3編P1040

                                                                                            ^ 池内(2001)、67頁

                                                                                            ^ 「鷗外漁史とは誰ぞ」(文壇時評)、「原田直次郎」(日本の近代西洋絵画)、「潦休録」(近代芸術)、「我をして九州の富人たらしめば」(社会問題)、「北清事件の一面の観察」(講演録)、「新社会合評」(矢野竜渓『新社会』の評論で社会主義などを記述)(池内 (2001)、73-92頁)。

                                                                                            ^ 山﨑 (2007)、837頁。新関 (2008)、180頁。

                                                                                            ^ 森鷗外 (2000)、「文芸の主義」138–140頁。初出1911年4月。

                                                                                            ^ 池内(2001)、137頁。

                                                                                            ^ 「森鷗外――家長の苦悩が文学の源泉に」(白川 1985, pp. 12–19)

                                                                                            ^ “「日本医学会」についての論争”. 近代文学研究会. 2019年2月22日閲覧。

                                                                                            ^ 唐木順三『鷗外の精神』

                                                                                            ^ 谷沢永一『文豪たちの大喧嘩』、34-35頁

                                                                                            ^ 山﨑 (2007)、299頁。

                                                                                            ^ 谷沢 (2012) 343頁

                                                                                            ^ 小林勇『蝸牛庵訪問記』 岩波書店、1956年/筑摩書房「著作集」、1983年/講談社文芸文庫、1991年

                                                                                            ^ 山下 (2008)、67-68、i頁

                                                                                            ^ 山下 (1988)、413-415頁

                                                                                            ^ 中井 (2010)、152–153頁。

                                                                                            ^ 山下 (2008)、77-83頁

                                                                                            ^ 山下(2008)、88-91頁。

                                                                                            ^ 山下 (2008)、120-121頁

                                                                                            ^ 山下(2008)、231頁。

                                                                                            ^ 山下(2008)、231-237頁。

                                                                                            ^ 山下 (2008)、304-307頁

                                                                                            ^ 山下 (2008)、288頁

                                                                                            ^ 山下 (1988)、328-331頁

                                                                                            ^ 山下 (2008)、414頁

                                                                                            ^ 山下 (2008)、417、424-425頁

                                                                                            ^ 山下 (2008)、419–423頁。

                                                                                            ^ 「勅令」『官報』第198号、大正2年3月31日

                                                                                            ^ 「達」『官報』第614号、大正3年8月17日

                                                                                            ^ 山下 (2008)、447-454頁。

                                                                                            ^ 山下 2008、289頁

                                                                                            ^ 山下 (2008)、448–449頁

                                                                                            ^ 志田 (2009)、16–18頁。

                                                                                            ^ 『官報』第3587号「叙任及辞令」1895年6月15日。

                                                                                            ^ 『官報』第1108号、大正5年4月14日。

                                                                                            ^ 沼倉延幸「図書頭森林太郎(鷗外)に関する基礎的研究」、宮内庁書陵部『書陵部紀要』第68号、2017年。

                                                                                            ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。

                                                                                            ^ 『官報』第3142号「叙任及辞令」1893年12月18日。

                                                                                            ^ 『官報』第3717号「叙任及辞令」1895年11月16日。

                                                                                            ^ 『官報』第4807号「叙任及辞令」1899年7月11日。

                                                                                            ^ 『官報』第6367号「叙任及辞令」1904年9月17日。

                                                                                            ^ 『官報』第7899号「叙任及辞令」1909年10月21日。

                                                                                            ^ 『官報』第684号「叙任及辞令」1914年11月11日。

                                                                                            ^ 『官報』第1131号「叙任及辞令」1916年5月11日。

                                                                                            ^ 『官報』第2982号「叙任及辞令」1922年7月11日。

                                                                                            ^ 『官報』第3430号「叙任及辞令」1894年12月3日。

                                                                                            ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。

                                                                                            ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。

                                                                                            ^ 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。

                                                                                            ^ 『官報』第5072号「叙任及辞令」1900年6月1日。

                                                                                            ^ 『官報』第6426号「敍任及辞令」1904年11月30日。

                                                                                            ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。

                                                                                            ^ 『官報』第817号「叙任及辞令」1915年4月26日。

                                                                                            ^ 『官報』第1194号「叙任及辞令」1916年7月24日。

                                                                                            ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。

                                                                                            ^ 審美綱領 : 2巻 上巻

                                                                                            ^ 明治18年に東京府が実施した郡区医採用試験について樋口輝雄、日本医史学雑誌 第59巻第2号(2013)

                                                                                            ^ 森鷗外、別居「気性合わず」 元妻の親族が記した文書発見、静岡新聞2012/09/13

                                                                                            ^ 「森しげ」『朝日日本歴史人物事典』。https://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E3%81%97%E3%81%92。コトバンクより2023年8月2日閲覧。 

                                                                                            ^ 新編に、森茉莉『父の帽子』講談社文芸文庫、1991年。『父と私 恋愛のようなもの』ちくま文庫、2018年。がある

                                                                                            ^ 岩波文庫、1981年。他に小堀杏奴『不遇の人 鷗外』求龍堂、1982年。がある

                                                                                            ^ 『弊風一班 畜妾の実例』黒岩涙香、現代教養文庫、社会思想社、1992年、p14

                                                                                            ^ “歴代医学部長”. 東京大学大学院 医学系研究科・医学部. 2022年6月2日閲覧。

                                                                                            ^ 森鷗外旧宅・森鷗外記念館 - 津和野町(2022年2月23日閲覧)

                                                                                            ^ 森鷗外・松本清張北九州市小倉北区(2018年9月12日閲覧)。

                                                                                            ^ “森鷗外が「舞姫」を執筆した旧邸、ゆかりの根津神社に移築へ 旅館として稼働もコロナ禍で閉館”. 東京新聞 (2022年10月10日). 2022年10月12日閲覧。

                                                                                            ^ 森鷗外と鷗外荘(2018年9月12日閲覧)。

                                                                                            ^ “森鷗外ゆかりの上野の老舗旅館、閉館へ 新型コロナでキャンセル相次ぐ”. 東京新聞. (2020年3月28日). https://www.tokyo-np.co.jp/article/17393 2022年2月23日閲覧。 

                                                                                            ^ “台東の旅館 「鷗外荘」あす再び閉館 「舞姫」執筆 旧邸は移築を検討 5月に営業再開も…コロナ禍で客足戻らず”. 東京新聞. (2021年10月14日). https://www.tokyo-np.co.jp/article/136681 2022年2月23日閲覧。 

                                                                                            ^ 浜崎陽介「鷗外の旧邸 なんとか存続」中日新聞 2022年10月13日、夕刊、8面。

                                                                                            ^ 森鷗外・夏目漱石住宅 - 博物館明治村(2022年2月23日閲覧)

                                                                                            ^ “記念館について”. 文京区立森鷗外記念館. 2022年10月12日閲覧。

                                                                                            ^ 嵐山 2000

                                                                                            ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 5』講談社、2004年。 

                                                                                            ^ 野村麻里 編『作家の手料理』平凡社、2021年2月25日、100‐101頁。

                                                                                            ^ 大本泉『作家のごちそう帖』(平凡社新書 2014年pp.14-23)。

                                                                                            嵐山光三郎『文人悪食』新潮社〈新潮文庫〉、2000年9月。ISBN 4-10-141905-1。 

                                                                                            池内健次『森鷗外と近代日本』ミネルヴァ書房〈Minerva21世紀ライブラリー 67〉、2001年12月。ISBN 4-623-03559-X。 

                                                                                            猪瀬直樹「元号に賭ける」、『天皇の影法師』小学館〈日本の近代猪瀬直樹著作集 10〉、2002年9月。ISBN 4-09-394240-4。 

                                                                                            植木哲『新説 鷗外の恋人エリス』新潮社〈新潮選書〉、2000年4月。ISBN 4-10-600587-5。 

                                                                                            大谷晃一『鷗外、屈辱に死す』編集工房ノア〈ノアコレクション 3〉、2000年9月(原著1983年4月)。 

                                                                                            片山杜秀『近代日本の右翼思想』講談社〈講談社選書メチエ 396〉、2007年9月。ISBN 978-4-06-258396-1。 

                                                                                            金子幸代『鷗外と〈女性〉 森鷗外論究』大東出版社、1992年11月。ISBN 4-500-00588-9。 

                                                                                            唐木順三『鷗外の精神』筑摩書房、1943年9月。 

                                                                                            小金井喜美子『鷗外の思い出』岩波書店〈岩波文庫〉、1999年11月。ISBN 4-00-311611-9。 

                                                                                            小平克『森鷗外「我百首」と「舞姫事件」』同時代社、2006年6月。ISBN 4-88683-577-5。 

                                                                                            小堀杏奴『晩年の父』岩波書店〈岩波文庫〉、1981年9月。ISBN 4-00-310981-3。 

                                                                                            小堀杏奴『朽葉色のショール』(新版)講談社〈講談社文芸文庫〉、2003年1月。ISBN 4-06-198319-9。 

                                                                                            小堀桂一郎『森鷗外 批評と研究』岩波書店、1998年11月。ISBN 4-00-025283-6。 

                                                                                            今野勉『鷗外の恋人 百二十年後の真実』日本放送出版協会、2010年11月。ISBN 978-4-14-081442-0。 

                                                                                            坂内正『鷗外最大の悲劇』新潮社〈新潮選書〉、2001年5月。ISBN 4-10-603500-6。 

                                                                                            佐谷眞木人『日清戦争 「国民」の誕生』講談社〈講談社現代新書 1986〉、2009年3月。ISBN 978-4-06-287986-6。 

                                                                                            志田信男『鷗外は何故袴をはいて死んだのか 「非医」鷗外・森林太郎と脚気論争』公人の友社、2009年1月。ISBN 978-4-87555-540-7。 

                                                                                            白川正芳『超時間文学論――鷗外から大江まで27人の作家たち』洋泉社、1985年5月。ISBN 978-4896910025。 

                                                                                            末延芳晴『森鷗外と日清・日露戦争』平凡社、2008年8月。ISBN 978-4-582-83407-9。 

                                                                                            谷沢永一『文豪たちの大喧嘩 鷗外・逍遙・樗牛』筑摩書房〈ちくま文庫〉、2012年8月。ISBN 978-4480429766。 

                                                                                            長島要一『森鷗外 文化の翻訳者』岩波書店〈岩波新書〉、2005年10月。ISBN 4-00-430976-X。 

                                                                                            新関公子『森鷗外と原田直次郎 ミュンヘンに芽生えた友情の行方』東京藝術大学出版会、2008年2月。ISBN 978-4-904049-03-7。 

                                                                                            中井義幸『岩波人文書セレクション 鷗外留学始末』岩波書店、2010年12月。ISBN 978-4-00-028434-9。 

                                                                                            秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。 

                                                                                            林尚孝『仮面の人・森鷗外 「エリーゼ来日」三日間の謎』同時代社、2005年4月。ISBN 4-88683-549-X。 

                                                                                            平川祐弘・平岡敏夫・竹盛天雄編 編『鷗外の人と周辺』新曜社〈講座 森鷗外 第1巻〉、1997年5月。ISBN 4-7885-0597-5。 

                                                                                            平川祐弘・平岡敏夫・竹盛天雄編 編『鷗外の作品』新曜社〈講座 森鷗外 第2巻〉、1997年5月。ISBN 4-7885-0598-3。 

                                                                                            平川祐弘・平岡敏夫・竹盛天雄編 編『鷗外の知的空間』新曜社〈講座 森鷗外 第3巻〉、1997年6月。ISBN 4-7885-0603-3。 

                                                                                            松本清張『両像・森鷗外』文藝春秋〈文春文庫〉、1997年11月。ISBN 4-16-710684-1。 

                                                                                            松本清張『鷗外の婢』新潮社〈新潮文庫〉、1974年。 

                                                                                            森鷗外『森鷗外全集 13 独逸日記・小倉日記』田中美代子解説、筑摩書房〈ちくま文庫〉、1996年7月。ISBN 4-480-03093-X。 

                                                                                            森鷗外 著、千葉俊二編 編『鷗外随筆集』岩波書店〈岩波文庫〉、2000年11月。ISBN 4-00-310068-9。 

                                                                                            森鷗外 著、金子幸代編・解説 編『鷗外女性論集』不二出版、2006年4月。ISBN 4-8350-3497-X。 

                                                                                            森潤三郎『鷗外森林太郎傳』昭和書房、1934年。 

                                                                                            森潤三郎『鷗外森林太郎』丸井書店、1942年。 

                                                                                            森まゆみ『鷗外の坂』新潮社〈新潮文庫〉、2000年7月。ISBN 4-10-139022-3。 

                                                                                            山﨑國紀『評伝 森鷗外』大修館書店、2007年7月。ISBN 978-4-469-22189-3。 

                                                                                            山下政三『明治期における脚気の歴史』東京大学出版会、1988年9月。ISBN 4-13-066102-7。 

                                                                                            山下政三『鷗外森林太郎と脚気紛争』日本評論社、2008年11月。ISBN 978-4-535-98302-1。 

                                                                                            六草いちか『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』講談社、2011年3月。ISBN 978-4-06-216758-1。 

                                                                                            森千里『鷗外と脚気 曾祖父の足あとを訪ねて』NTT出版、2013年1月。ISBN 978-4-75-715086-7。 

                                                                                            大原敏行『明治長編詩歌 孝女白菊 -井上哲次郎・落合直文から ちりめん本 鷗 外、画の世界までー』(創英社、2015年)、ISBN 978-4-88142-935-8

                                                                                            廣木寧『江藤淳氏の批評とアメリカ』慧文社、2010年、ISBN 978-4-86330-040-8

                                                                                            廣木寧『天下なんぞ狂える―夏目漱石の『こころ』をめぐって』(下)(慧文社)2016年 ISBN 978-4-86330-171-9

                                                                                            中島国彦『森鷗外 学芸の散歩者』岩波書店〈岩波新書〉、2022年7月。ISBN 9784004319375。 

                                                                                            日本の小説家一覧

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                                                                                              森鷗外:作家別作品リスト - 青空文庫

                                                                                              鷗外文庫書入本画像データベース(東京大学総合図書館。鷗外の自筆草稿や書入本を見ることができる)

                                                                                              Mori Ōgaiに関連する著作物 - インターネットアーカイブ

                                                                                              森鷗外の著作 - LibriVox(パブリックドメインオーディオブック)

                                                                                              森氏蔵書 - 国文学研究資料館蔵書印データベース 2021年5月21日閲覧。(鷗外の蔵書印)

                                                                                              ニコニコ写真帳 第一集 軍服姿の森鷗外(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)

                                                                                              文京区立森鷗外記念館(文京区)

                                                                                              森鷗外記念館(津和野町)

                                                                                              森鷗外旧居(北九州市)

                                                                                              博物館明治村 森鷗外・夏目漱石住宅

                                                                                              森鷗外と千住(足立区)

                                                                                              台東区ゆかりの巨匠たち 森鷗外(台東区)

                                                                                              島根ゆかりの文学者 森鷗外

                                                                                              森鷗外記念館 ベルリン(ドイツ語)

                                                                                              安倍能成 1947-1948

                                                                                              事務取扱 柴沼直 1948-1949

                                                                                              上野直昭 1949

                                                                                              事務取扱 脇本十九郎 1949

                                                                                              館長/事務代理 高橋誠一郎 1949-1950/1950-1951

                                                                                              浅野長武 1951-1952

                                                                                              浅野長武 1952-1969

                                                                                              事務取扱 今日出海 1969

                                                                                              稲田清助 1969-1976

                                                                                              齋藤正 1976-1983

                                                                                              村山松雄 1983-1989

                                                                                              井内慶次郎 1989-1992

                                                                                              佐野文一郎 1993-1997

                                                                                              阿部充夫 1997-2000

                                                                                              坂元弘直 2000-2001

                                                                                              事務取扱 西岡康宏 2001

                                                                                              野﨑弘 2001-2007

                                                                                              佐藤禎一 2007-2009

                                                                                              銭谷眞美 2009-2022

                                                                                              藤原誠 2022-

                                                                                              第六局長/博物館長/博物局長 町田久成 1875-1876/1876/1876-1881

                                                                                              町田久成 1881-1882

                                                                                              田中芳男 1882-1883

                                                                                              野村靖 1883-1884

                                                                                              杉孫七郎 1884

                                                                                              野村素介 1884-1885

                                                                                              山高信離 1885-1886

                                                                                              心得/館長 山高信離 1886-1888/1888-1889

                                                                                              九鬼隆一 1889-1900

                                                                                              股野琢 1900

                                                                                              股野琢 1900-1917

                                                                                              森林太郎 1917-1922

                                                                                              心得 神谷初之助 1922

                                                                                              三宅米吉 1922-1923

                                                                                              大島義脩 1923-1932

                                                                                              杉栄三郎 1932-1939

                                                                                              渡部信 1939-1944

                                                                                              土岐政夫 1944-1946

                                                                                              安倍能成 1946-1947

                                                                                              カテゴリカテゴリ

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                                                                                              福原鐐二郎 1924-1931

                                                                                              正木直彦 1931-1935

                                                                                              清水澄 1935-1937

                                                                                              清水澄 1937-1947

                                                                                              高橋誠一郎 1948-1979

                                                                                              有光次郎 1979-1990

                                                                                              犬丸直 1990-2004

                                                                                              三浦朱門 2004-2014

                                                                                              黒井千次 2014-2020

                                                                                              高階秀爾 2020-

                                                                                              カテゴリカテゴリ

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                                                                                              生田川

                                                                                              うた日記 - 横浜市歌 - 浜松市歌 - 津和野町々歌

                                                                                              調高矣津弦一曲 - 於母影 - 即興詩人 - ファウスト - サロメ - みれん - 恋愛三昧

                                                                                              渋江抽斎 - 伊澤蘭軒 - 小嶋宝素 - 北条霞亭

                                                                                              サフラン - 空車 - 礼儀小言

                                                                                              帝諡考 - 元号考

                                                                                              森鷗外 - 小説

                                                                                              FAST

                                                                                              ISNI

                                                                                                2

                                                                                                VIAF

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                                                                                                スペイン

                                                                                                フランス

                                                                                                BnF data

                                                                                                カタルーニャ

                                                                                                ドイツ

                                                                                                イタリア

                                                                                                イスラエル

                                                                                                アメリカ

                                                                                                スウェーデン

                                                                                                ラトビア

                                                                                                日本

                                                                                                チェコ

                                                                                                ギリシャ

                                                                                                韓国

                                                                                                オランダ

                                                                                                ポーランド

                                                                                                CiNii Books

                                                                                                CiNii Research

                                                                                                MusicBrainz

                                                                                                ULAN

                                                                                                ドイッチェ・ビオグラフィー

                                                                                                Trove(オーストラリア)

                                                                                                  1

                                                                                                  IdRef

                                                                                                  森鷗外

                                                                                                  19世紀日本の小説家

                                                                                                  20世紀日本の小説家

                                                                                                  日本の文芸評論家

                                                                                                  19世紀日本の評論家

                                                                                                  20世紀日本の評論家

                                                                                                  19世紀日本の翻訳家

                                                                                                  20世紀日本の翻訳家

                                                                                                  19世紀日本の劇作家

                                                                                                  20世紀日本の劇作家

                                                                                                  日本の蔵書家

                                                                                                  日本の歴史小説家

                                                                                                  日本の衛生学者

                                                                                                  戦前日本の学者

                                                                                                  日本の宮内省関係者

                                                                                                  東京国立博物館の人物

                                                                                                  京都国立博物館の人物

                                                                                                  奈良国立博物館の人物

                                                                                                  日本の博物館職員

                                                                                                  博物館の館長

                                                                                                  日本の軍医総監

                                                                                                  大日本帝国陸軍中将

                                                                                                  陸軍省医務局長

                                                                                                  東京芸術大学の教員

                                                                                                  慶應義塾大学の教員

                                                                                                  日本藝術院会員

                                                                                                  従二位受位者

                                                                                                  勲一等旭日大綬章受章者

                                                                                                  勲一等瑞宝章受章者

                                                                                                  勲二等旭日重光章受章者

                                                                                                  勲三等瑞宝章受章者

                                                                                                  勲五等瑞宝章受章者

                                                                                                  勲六等瑞宝章受章者

                                                                                                  勲六等単光旭日章受章者

                                                                                                  功四級金鵄勲章受章者

                                                                                                  功三級金鵄勲章受章者

                                                                                                  在ドイツ日本人

                                                                                                  津和野藩医森家

                                                                                                  日露戦争の人物

                                                                                                  明治時代の時事新報社の人物

                                                                                                  東京大学出身の人物

                                                                                                  島根県出身の人物

                                                                                                  幕末津和野藩の人物

                                                                                                  1862年生

                                                                                                  1922年没

                                                                                                  Titlestyleにbackgroundとtext-alignを両方指定しているcollapsible list使用ページ

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