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森 鴎外さんについて調べます
■名前・氏名 |
森鴎外と関係のある人
窪寺昭: 2018年9月 - 10月 「文豪ストレイドッグス 黒の時代」 - 森鴎外 役 伊藤佐喜雄: 『森鴎外 明治文化の先駆』(偕成社、偉人物語文庫) 1951 小金井喜美子: 新編『泡沫(みなわ)の歌 森鴎外と星新一をつなぐひと』星マリナ編、新潮社図書編集室(自費出版)、2018年 車谷長吉: 先天性蓄膿症のため鼻だけで呼吸できないことに悩み、1962年に60日間以上入院して5時間以上の手術を二度受けたが治癒せず、悩んでいた時期に森鴎外や夏目漱石の作品を読んで救われ 小説家志望になった。 赤羽秀之: 「高瀬船」作:森鴎外、劇作・主演:赤羽秀之(仲代劇堂小さな演劇祭2008 Vol.4、2008年10月) 田山花袋: 3月23日、東京を出発し、3月29日、広島市大手町の宿に同軍軍医部長の森鴎外を訪ねており(初対面)、8月15日に発熱し9月16日に宇品に着き、9月20日に帰郷するまでの間(1905年1月『第二軍従征日記』として刊)、鴎外と頻繁に会っていた。 斎藤茂吉: 1909年(明治42年):森鴎外の観潮楼歌会に初めて出席、与謝野鉄幹、北原白秋、石川啄木、上田敏、佐佐木信綱などの歌人を知る。 嘉納治五郎: また嘉納と同期卒業生には森鴎外(医学部)もおり、その小説『雁』(1911年9月–1913年連載、1915年刊行)は鴎外の卒業間際の明治13年、14年頃をモチーフに執筆したとされ、登場人物「石原」のモデルは嘉納という説もある。 山室静: 文学研究者としての刊行本も、『島崎藤村読本』『評伝森鴎外』『世界文学小史』『世界神話』『アンデルセン童話玉選』など多数に及ぶ。 中澤まさとも: 森鴎外「阿部一族」(阿部弥五兵衛) 与謝野晶子: 洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった。 山下大輝: 牛鍋(森鴎外著)(2020年) 内田魯庵: 1890年(明治23年)の春頃、森林太郎(森鴎外)の家を訪ねたが、駆出しの書生だった魯庵は夫人に謝絶され、「何の用事もありませんが、そんなら立派な人の紹介状でも貰って上りましょう、」と啖呵を切った。 中村裕介: 2003年 横浜開港50周年を記念して作られた森鴎外作詞による横浜市歌にブルースメロディを付け「横浜市歌ブルースバージョン」として発表。 浪川大輔: 明治東亰恋伽(森鴎外) 浪川大輔: 劇場版 明治東亰恋伽 〜弦月の小夜曲〜(森鴎外) 須賀敦子: Bompiani, 1965(『近代日本小説家』- 短編集)- 夏目漱石『こゝろ』・森鴎外『高瀬舟』・樋口一葉『十三夜』・泉鏡花『高野聖』・国木田独歩『忘れえぬ人々』・田山花袋『一兵卒の銃殺』・志賀直哉『范の犯罪』・菊池寛『忠直卿行状記』・谷崎潤一郎『刺青』・谷崎潤一郎『夢の浮橋』・芥川龍之介『地獄変』・井伏鱒二『山椒魚』・横光利一『春は馬車に乗って』・川端康成『ほくろの手紙』・坪田譲治『お化けの世界』・太宰治『ヴィヨンの妻』・林芙美子『下町』・丹羽文雄『憎悪』・井上靖『闘牛』・大岡昇平『俘虜記』・三島由紀夫『夏子の冒険』・深沢七郎『楢山節考』・石川淳『紫苑物語』・庄野潤三『道』・中島敦『名人伝』ほか 根本正勝: 舞台『文豪ストレイドッグス 共喰い』(6月9日 - 11日、COOL JAPAN PARK OSAKA WWホール / 6月22日 - 7月2日、日本青年館ホール) - 森鴎外 役 中里和人: 2018年 -「目覚める海、眠る岩 日本臨海夜景」ドイツ•ベルリン フンボルト大学森鴎外記念ギャラリー 宮本充: 文豪ストレイドッグス わん!(森鴎外) 平塚らいてう: なお同年9月、金子筑水が日本ではじめてエレン・ケイを紹介しており(「現実教」『太陽』)、そのケイに関心を持ったらいてうが訪ねてきた河井酔茗に話したところ、酔茗から「今森鴎外さんの処でも其話が出た」と言われたという。 山崎正和: また森鴎外やウィリアム・シェイクスピアなどの作品を読んでいた。 根本正勝: 舞台『文豪ストレイドッグス 太宰・中也・十五歳』(10月5日 - 12日、よみうり大手町ホール / 16日 - 17日、COOL JAPAN PARK OSAKA WWホール / 21日 - 24日、シアター1010) - 森鴎外 役 宮本充: 文豪ストレイドッグス(2016年 - 2023年、森鴎外) - 5シリーズ 中村不折: 書家としては、森鴎外の墓碑銘を揮毫したほか、個人の墓石の文字を中心に全国に15基ほどの石碑を確認できる。 濱健人: 茜さすセカイでキミと詠う(森鴎外) 中澤まさとも: 森鴎外「高瀬舟」(喜助) 与謝野晶子: 双子の長女八峰、二女七瀬は作家の森鴎外。 今井白楊: ^ 世界名著物語 第8編 失樂園物語 (森鴎外・島村抱月監修、実業之日本社刊、1914年11月出版) 明治天皇: 他に天皇の同年の活動で特筆されるものとしては、6月25日に上野・高崎間の鉄道が開通した際に試乗を行ったことや、7月28日にドイツ留学から帰国した軍医の森林太郎(森鴎外)に謁を賜ったこと、同日に陸軍士官学校生徒卒業証書授与式に臨御し、優等生に賞品を賜ったこと、8月30日には世界周航の途中に来日したスウェーデン王オスカル2世の第二王子ゴトランド公爵オスカー・カール・アウグスト(スウェーデン語版)が参内し、皇后とともに謁見所で王子を歓迎したこと(これまでの国賓接遇と同じように9月1日に返礼として天皇が王子が滞在中の延遼館を行幸し、3日に閲兵式を催して王子を招き、大勲位菊花大綬章を王子に授け、離日に際しては御会食所で午餐を共にした)などがある。 |
森鴎外の情報まとめ
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森 鴎外(もり おうがい)さんの誕生日は1862年2月17日です。島根出身の作家のようです。
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人物評、年譜などについてまとめました。現在、卒業、家族、趣味、結婚、離婚、再婚、事件、病気に関する情報もありますね。60歳で亡くなられているようです。
森鴎外のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月17日〉- 大正11年〈1922年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)出身。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。東京大学医学部卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。 帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより創作活動から一時期遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」なども執筆した。 陸軍を退いた後は宮内省に転じ、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や図書頭を死去まで務めたほか、帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任した。 1862年2月17日(文久2年1月19日)、鷗外こと森林太郎は石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県鹿足郡津和野町町田)で生まれた。代々津和野藩の典医を務める森家(禄高は50石)では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。 藩医家の嫡男として、幼い頃から『論語』『孟子』といった漢学書とオランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新期に家族と周囲から将来を期待されることになった。 1872年(明治5年)、廃藩置県などをきっかけに10歳の鷗外は父と上京する。現在の墨田区東向島に住む。 東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備えてドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。その際に通学の便から、鷗外は政府高官の親族である西周の邸宅に一時期寄宿した。 翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れ、父が経営する医院のある千住に移り住む。 1873年(明治6年)11月、鷗外は入校試問を受け、第一大学区医学校・東京医学校医学本科予科(定員約60人、修業年限3年)に実年齢より2歳多く偽り、満11歳10ヶ月で入学した。 当時は、大学制度確立までの過渡期であり、校名が頻繁に変更されるほどで、入学年齢制限は14 - 17歳であった。 入学は9月であったが、定員約60名の最大定員100名に達しなかったため、学生募集が続けられており、実年齢を偽った鷗外のほか、上限年齢を超えた18歳と19歳の応募者も入学し、新入生は71名だった。しかし、そのうち本科に進めるのは30名に過ぎず、さらに上級の落第者と編入生も加わり、予科生は厳しい競争にさらされた。鷗外の属したドイツ語中位のクラスで落第せず卒業したのは24名のうち11名、下位クラスでは41名のうち2名であった。 鷗外は、同校医学本科(定員約30人、修業年限5年)に進学し、ドイツ人教官たちの講義を受けた。一方で、医学館教授の佐藤元長に漢文・漢詩、漢方医書を学んだ。漢文は依田學海と伊藤松渓(孫一)からも学び、佐藤応挙から漢詩と和歌を学びながら、漢詩・和歌を作っていった。 西洋語にも堪能な鷗外は、「寄宿舎では、その日の講義のうちにあった術語だけを、希臘(ギリシア)拉甸(ラテン)の語原を調べて、赤インキでペエジの縁に注して置く。教場の外での為事は殆どそれ切である。人が術語が覚えにくくて困るというと、僕は可笑しくてたまらない。何故語原を調べずに、器械的に覚えようとするのだと云いたくなる。」と自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」で自身の学習法を記している。 妹の回想には、下宿に同居して鷗外の世話をしていた祖母が、卒業試験前に文学書を読みふける鷗外を心配するくだりがあり、卒業試験の最中に下宿が火事になって講義ノート類を焼失したり、鷗外のノートに漢文の書き込みを見つけた外科学のシュルツ教授から反感を買ったりしたこともあったが、1881年(明治14年)7月4日、満19歳5ヶ月、東京医学校本科を席次8番で卒業した。首席で卒業した同級生の三浦守治(のち東京帝国大学教授)は と門下生に語っており、卒業席次上位10名の中で他者より5 - 7歳年下の鷗外は優秀であった。 しかし、卒業後の鷗外は、医者や役人また教育者、ましてや軍人になることは考えず、なにか物書きを夢見ており、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。その進路未定の状況を見かねた同期生の小池正直(のちの陸軍省医務長)は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に鷗外を採用するよう長文の熱い推薦状を出しており、また親友の賀古鶴所(かこ・つると(のち日本耳鼻咽喉科学の父といわれる陸軍軍医)は、鷗外に陸軍省入りを勧めていた。結局のところ鷗外は、同年12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した。 妹・小金井喜美子の回想によれば、若き日の鷗外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたり(喜美子と一緒に出かけたとき、ある落語家の長唄を聴いて中座)していたという。 入省して半年後の1882年(明治15年)5月、鷗外は東京大学医学部卒業の同期8名の中で最初の軍医本部付となり、プロイセン王国の陸軍衛生制度に関する文献調査に従事した。早くも翌年3月には『医政全書稿本』全12巻を役所に納めた。1884年(明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。7月28日、明治天皇に拝謁し、賢所に参拝。8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し、10月7日にフランス南部マルセイユ港に到着。同月11日にドイツ帝国首都ベルリンに入った。鷗外は横浜からマルセイユに至る航海中のことを「航西日記(こうせいにっき)」に記している。 最初の1年を過ごしたライプツィヒ(1884年11月22日–翌年10月11日)で、生活に慣れていない鷗外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人たちであった。 また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しく付き合い、ライプツィヒ大学ではホフマンなどよき師と同僚に恵まれた。軍事演習を見るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館のアルテ・マイスター絵画館にも行き、ラファエロ『システィーナの聖母』を鑑賞した。 次の滞在地ドレスデン(1885年10月11日–翌年3月7日)では、主として軍医学講習会に参加するため、5か月ほど生活した。王室関係者や軍人との交際が多く、王宮の舞踏会や貴族の夜会、宮廷劇場などに出入りした。その間、2人の大切な友人を得た。1人は鷗外の指導者でザクセン王国軍医監のウィルヘルム・ロート(ドイツ語版)で、もう1人は外国語が堪能な同僚軍医のヴィルケ(鷗外は「ヰルケ」と表記)である。鷗外はドレスデンを離れる前日、ナウマンの講演に反論し、のちにミュンヘンの一流紙『Allgemeine Zeitung』上で論争となった(鷗外・ナウマン論争)。 ミュンヘン(1886年3月8日–翌年4月15日)では、鷗外はミュンヘン大学のペッテンコーファーに師事した。研究のかたわら、邦人の少なかったドレスデンと異なり、同世代の原田直次郎や近衛篤麿など名士の子息と交際し、よく観劇していた。 次のベルリン(1887年4月16日–翌年7月5日)でも早速、北里柴三郎とともにコッホに会いに行っており、細菌学の入門講座を経てコッホの衛生試験所に入った。当時の居室は現在もなお、当時の状況をとどめ森鷗外記念館として公開されている。 9月下旬、カールスルーエで開催される第4回赤十字国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳に随行し、通訳官として同会議に出席。9月26・27日に発言し、とりわけ最終日の27日は「ブラボー」と叫ぶ人が出るなど大きな反響があった。 会議を終えた一行は、9月28日にオーストリア=ハンガリー帝国首都ウイーンに移動し、万国衛生会に日本政府代表として参加した。11日間の滞在中、鷗外は恩師や知人と再会した。1888年(明治21年)1月、大和会の新年会でドイツ語の講演をして公使の西園寺公望に激賞されており、18日から田村怡与造大尉の求めに応じてクラウゼヴィッツ『戦争論』を講じた。留学が一年延長された代わりに、地味な隊付勤務(プロイセン近衛歩兵第2連隊の医務)を経験しており、そうしたベルリンでの生活は、ミュンヘンなどに比べ、より「公」的なものであった。ただし、後述するドイツ人女性と出会った都市でもあった。 同年7月5日、鷗外は石黒とともにベルリンを発ち、帰国の途についた。英国首都ロンドン(保安条例によって東京からの退去処分を受けた尾崎行雄に会い、詩を4首贈った)やフランス首都パリに立ち寄りながら、7月29日にマルセイユ港を後にした。 9月8日に横浜港へ着き、午後帰京。同日付で陸軍軍医学舎の教官に補され、11月には陸軍大学校教官の兼補を命じられた。帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月(1888年9月12日 - 10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることはなかったとされる。鷗外はドイツ留学中のことを「獨逸日記」に記している。 1889年(明治22年)1月3日、『読売新聞』の付録に「小説論」を発表し、さらに同日の『読売新聞』から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆を務める民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」(署名は「S・S・S」(新声社の略記))を発表した。その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また「於母影」の原稿料50円を元手に、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊した(1889年10月-1894年8月。日清戦争の勃発により59号で廃刊)。 このように、外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」などが有名)熱心に評論的啓蒙活動を続けた。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした「舞姫」を蘇峰の依頼により『国民之友』1890年1月に発表した。続いて「うたかたの記」(『しがらみ草紙』1890年8月)、1891年1月28日「文づかひ」(「新著百種」12号)を相次いで発表したが、とりわけ日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせたとされる。そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草紙』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げた。 1889年(明治22年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)の美術解剖学講師を、1890年9月から約2年間東京専門学校の科外講師を、1892年(明治25年)9月に慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱された(いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱)。 1894年(明治27年)夏、日清戦争の勃発により、8月29日に東京を離れ、9月2日に広島の宇品港を発った。翌年の下関条約の調印後、5月に近衛師団付き従軍記者の正岡子規が帰国の挨拶のため、第2軍兵站部軍医部長の鷗外を訪ねた。 清との戦争が終わったものの、鷗外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており(朝鮮勤務の小池正直とのバランスをとった人事とされる)、5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督の樺山資紀らとともに台湾に向かった。4か月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。 翌1896年(明治29年)1月、『しがらみ草紙』の後を受けて幸田露伴や斎藤緑雨と共に『卍』を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)。 その頃より、評論的啓蒙活動が戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった。1898年(明治31年)7月9日付『万朝報』の連載「弊風一斑 蓄妾の実例」の中で、児玉せきとの交情をあばかれた。 1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進し、東京(東部)、大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)の第12師団軍医部長に「左遷」された(1899年6月19日-1902年3月26日)。19世紀末から新世紀の初頭を過ごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた。 またドイツ留学中、田村怡与造に講じていた難解なクラウゼヴィッツ『戦争論』について、師団の将校たちに講義をするとともに、師団長井上光などの依頼で翻訳を始めた。その内部資料は、他の部隊も求めたという。 小倉時代に「圭角がとれ、胆が練れて来た」と末弟の森潤三郎が記述したように、その頃の鷗外は、社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和、慈しみの眼差しを獲得していた。 私生活でも、徴兵検査の視察などで各地の歴史的な文物、文化、事蹟と出会ったことを通し、特に後年の史伝につながる掃苔(探墓)の趣味を得た。 新たな趣味を得ただけではなく、1900年(明治33年)1月に先妻(1889年に結婚して翌年離婚)であった赤松登志子が結核により再婚先で死亡したのち、母の勧めるまま1902年(明治35年)1月、18歳年下の荒木志げと見合い結婚をした(41歳と23歳の再婚同士)。さらに、随筆『二人の友』に登場する友人も得た。1人は仏教曹洞宗の僧侶玉水俊虠(通称「安国寺」)で、もう1人は同郷の俊才福間博である。2人は鷗外の東京転勤とともに上京し、鷗外の自宅近くに住み、交際を続けた。 1902年(明治35年)3月、鷗外は第1師団軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任した。6月、廃刊になっていた『めざまし草』と上田敏の主宰する『芸苑』とを合併し、『芸文』を創刊(その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月に後身の『万年艸』を創刊)。当時は、12月に初めて戯曲を執筆するなど、戯曲に関わる活動が目立っていた。 1904年(明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで、鷗外は日露戦争に第2軍軍医部長(最初発令の時は乙軍といわれた)として出征。奥保鞏大将の幕下に属す。 1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権を持つ軍医のトップ)に就任した。 同年9月、美術審査員に任じられ、第1回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任を務めた。 1909年(明治42年)に『スバル』が創刊されると、同誌に毎号寄稿して創作活動を再開した(木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「青年」などを同誌に載せ、「仮面」「静」などの戯曲を発表。『スバル』創刊年の7月、鷗外は、東京帝国大学から文学博士の学位を授与された。しかし、直後に「ヰタ・セクスアリス」(同誌7月号)が発売禁止処分を受けた。しかも、内務省の警保局長が陸軍省を訪れた8月、鷗外は陸軍次官・石本新六から戒飭(かいちょく)された。同年12月、「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに自らの立場を明らかにした。 1910年(明治43年)、慶應義塾大学の文学科顧問に就任(教授職に永井荷風を推薦)し、慶應義塾大学幹事の石田新太郎の主導により、上田敏を顧問に、永井荷風を主幹にして、「三田文學」を創刊した。またその年には、5月に大逆事件の検挙が始まり、9月に『東京朝日新聞』が連載「危険なる洋書」を開始して6回目に鷗外と妻の名が掲載され、また国内では南北朝教科書問題が大きくなりつつあった。そうした閉塞感が漂う年に「ファスチェス」で発禁問題、「沈黙の塔」「食堂」では社会主義や無政府主義に触れるなど政治色のある作品を発表した。 1911年(明治44年)にも「カズイスチカ」「妄想」を発表し、「青年」の完結後、「雁」と「灰燼」の2長編の同時連載を開始。同年4月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、冒頭「芸術に主義というものは本来ないと思う。」としたうえで、 と結んだ。 また陸軍軍医として、懸案とされてきた軍医の人事権をめぐり、陸軍次官の石本新六と激しく対立した。ついに医務局長の鷗外が石本に辞意を告げる事態になった。結局のところ陸軍では、医学優先の人事が継続された。階級社会の軍隊で、それも一段低い扱いを受ける衛生部の鷗外の主張が通った背景の一つに、山縣有朋の存在があったと考えられている。 1912年(明治45年)から翌年にかけて、五条秀麿を主人公にした「かのやうに」「吃逆」「藤棚」「鎚一下」の連作を、また司令官を揶揄するなど戦場体験も描かれた「鼠坂」などを発表した。当時は、身辺に題材をとった作品や思想色の濃い作品や教養小説や戯曲などを執筆した。もっとも公務のかたわら、『ファウスト』などゲーテの3作品をはじめ、外国文学の翻訳・紹介・解説も続けていた。 1912年(大正元年)8月、「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、鷗外独自の小説作品の最初のもの」である「羽鳥千尋」を発表。翌9月13日、乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に「興津弥五右衛門の遺書」(初稿)を書き終えた。 これを機に歴史小説に進み、歴史其儘の「阿部一族」、歴史離れの「山椒大夫」「高瀬舟」などのあと、史伝「渋江抽斎」(『大阪毎日』『東京日日』1916年1月13日-5月20日)に結実した。ただし、1915年(大正4年)頃まで、現代小説も並行して執筆していた。1916年(大正5年)には、後世の鷗外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)を、1918年(大正7年)1月には随筆「礼儀小言」を著した。 1916年(大正5年)4月、鷗外は任官時の年齢が低いこともあり、トップの陸軍省医務局長を8年半勤めて退き、予備役に編入された。翌1918年(大正7年)12月、帝室博物館(現:東京国立博物館)総長兼図書頭として宮内省に入り、翌年1月に帝室制度審議会御用掛に就任した。 さらに1918年(大正7年)9月、帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長に就任した。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の諡と元号の考証・編纂に着手した。しかし『帝諡考』は刊行したものの、病状の悪化により、自ら見い出した吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が未完の『元号考』の刊行に尽力し、元号案「昭和」を提出した。 1922年(大正11年)7月9日午前7時すぎ、鷗外は親族と親友の賀古鶴所らが付き添うなか、腎萎縮、肺結核のために死去。最期に死の床で「馬鹿馬鹿しい」とうわごとを言ったとされる。満60歳没。 で始まる最後の遺言(7月6日付)が有名であり、その遺言により墓には「鷗外」の号はもとより、生前の階級、位階、勲等などを一切を排して「森林太郎ノ墓」とのみ刻された。 上京した際に住んだ鷗外ゆかりの地である東京市本所区の弘福寺に埋葬され、遺言により中村不折が墓碑銘を筆した。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。なお、関東大震災の後、北多摩郡三鷹村(現・東京都三鷹市)の禅林寺と出生地の津和野町の永明寺に改葬された。 人物評評論的啓蒙活動鷗外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老をはじめ専門医は誰も相手にしなかったが、鷗外は新聞記者などを相手にして6年ほど論争を続けた。 鷗外の論争癖を発端として論争が起きたこともある。逍遥が『早稲田文学』にシェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草紙』に載せたことから論争が始まった。このような形で鷗外が関わってきた論争は「戦闘的啓蒙主義」などと好意的に評されることもあるが、啓蒙家の名に値するといえるのか疑問視する見方もある。30歳代になると、日清戦争後に『めさまし草』を創刊して「合評」をするなど、評論的活動は、穏健なものに変わっていったことから、小倉時代に「圭角が取れた」という家族の指摘もある。 幅の広い文芸活動と交際肩書きの多いことに現れているように、鷗外は文芸活動の幅も広かった。たとえば、訳者としては、上記の訳詩集「於母影」(共訳)と、1892年(明治25年)–1901年(明治34年)に断続的に発表された「即興詩人」とが初期の代表的な仕事である。「於母影」は明治詩壇に多大な影響を与えており、「即興詩人」は、流麗な雅文で明治期の文人を魅了し、その本を片手にイタリア各地を周る文学青年(正宗白鳥など)が続出した。 戯曲の翻訳も多く(弟の竹二が責任編集を務める雑誌『歌舞伎』に掲載されたものは少なくない)、歌劇(オペラ)の翻訳まで手がけていた。 ちなみに、訳語(和製漢語)の「交響楽、交響曲」を作っており、6年間の欧米留学を終えた演奏家、幸田延(露伴の妹)と洋楽談義をした(「西楽と幸田氏と」)。そうした外国作品の翻訳だけでなく、帰国後から演劇への啓蒙的な評論も少なくない。 翻訳は、文学作品を超え、ハルトマン『審美学綱領』のような審美学(美学の旧称)も対象になった。単なる訳者にとどまらない鷗外の審美学は、坪内逍遥との没理想論争にも現れており、田山花袋にも影響を与えた。その鷗外は、上記の通り東京美術学校(現東京芸術大学)の嘱託教員(美術解剖学・審美学・西洋美術史)をはじめ、慶應義塾大学の審美学講師、「初期文展」西洋画部門などの審査員、帝室博物館総長や帝国美術院初代院長などを務めた。 交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。しかし、弟子を取ったり文壇で党派を作ったりすることはなかった。ドイツに4年留学した鷗外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。 文学者・文人に限っても、訳詩集「於母影」は5人による共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、鷗外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人を招いて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月まで続いた。伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斎藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)。 また、当時としては女性蔑視が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。晶子(出産した双子の名付け親が鷗外)やらいてうや純芸術雑誌『番紅花』(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した。その鷗外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(「安井夫人」、戯曲「静」、「花子」、翻訳戯曲「ノラ」(イプセン作「人形の家」))。 晩年、『東京日日新聞』に連載した「渋江抽斎」などの史伝作品は読者および編集者からの評判が悪く、その評価は必ずしも芳しいものではなかった。没後、新潮社と他二社とが全集18巻の刊行を引き受けたので、かろうじて面目が立った。1936年(昭和11年)、木下杢太郎ら鷗外を敬愛する文学者らの尽力によって岩波書店から『鷗外全集』が『漱石全集』と並んで刊行され、権威があると思われるようになった。 小林勇によると晩年の幸田露伴は鷗外について、「森という男は恐ろしく出世したい根性の人だった」「森という男は蓄財の好きなやつさ。心は冷い男だ。なにもかも承知していて表に出さぬ」と語ったという。 軍医として鷗外は陸軍軍医であったが、軍医として一番深くかかわったのは、兵食問題と脚気問題である。ここでは、この2つの問題との関わりについて扱う。また、軍医としては本名の森林太郎で活動しているが、便宜上、鷗外と表記する。 鷗外は軍医として医学先進国のドイツに4年間留学した。留学中に執筆した兵食に関する二本の論文『日本兵食論』および『日本兵食論大意』は、師のホフマンらの研究論文と1882年(明治15年)頃の日本国内論文を種本にして書かれたもので、どちらもその論旨は日本食は悪くないであった。留学中、脚気についての見解を上官の石黒忠悳から催促されていたが、石黒へ送った論文『日本兵食論大意』において「米食と脚気の関係有無は余敢て説かず」と書き、脚気に関わることを拒否している。 1888年(明治21年)9月に帰国した鷗外は、同年11月の大日本私立衛生会において『非日本食論は将にその根拠を失わんとす』と題して演説を行った。日本食にはタンパク質が足りないとの批判があるが新しい研究によれば日本食でも不足はないと主張した。そのなかで「ローストビーフに飽くことを知らないイギリス流の偏屈学者のあとについて非日本食を唱えて…ある権力家の説をただちに認めて教義となし、この偽造の通則から根拠のない細則を作り…」と述べ、明言はせずとも海軍軍医の高木兼寛を指して、脚気の原因はタンパク質の不足であり西洋食にしなければならないという高木の意見を非難した。 1901年(明治34年)8月2日、『軍医学会雑誌』に「脚気予防トシテ軍隊ニ麦飯ヲ給シタル起源ニ就テ」が掲載された。そこには、大阪鎮台病院の堀内利国が麦飯給与を試行し、脚気が減ったこと、全国の師団でも麦飯給与が行われ陸軍の脚気が消滅したことが書かれていた。 1901年(明治34年)8月31日、鷗外は『脚気減少は果して麦を以て米に変へたるに因する乎』と題する論文を発表。麦飯にした年と脚気激減の年の符合に因果関係はなく、関係あるとするのは前後即因果の誤謬であると主張した。しかし、その主張の根拠となる事実は何も示してはいない。この論文について山下政三は、好意的に読み返しても医学を論じた文にはみえず支離滅裂な内容であり感情が爆発して論理が整わないまま発表したのだろうと述べている。 鷗外は、1916年(大正5年)4月に陸軍省医務局長を辞任して予備役となるまで臨時脚気病調査会会長をつとめた。5月からは臨時委員に任命され、没年の1922年(大正11)年7月までつとめた。最後に出席した1921年(大正10年)10月28日の第25回総会は、大部分がビタミンBに関する研究報告であった。『医海時報』は、「内容の充実したもので、脚気調査は即ち一新紀元を画すべく期待さるるに至った」と報じている。 臨時脚気病調査会は「脚気ビタミン欠乏説」をほぼ確定し、1924年(大正13年)に廃止されたが、その後の脚気病研究会の母体となった。鷗外が創設に動いた臨時脚気病調査会は、脚気研究の土台を作り、ビタミン研究の基礎を築いた。反面、「その十六年間の活動は、脚気栄養障害説=ビタミンB欠乏症(白米原因)説に柵をかけ、その承認を遅らせるためだけにあったようなものであった」と否定的にとらえる見方もある。 鷗外と小池正直の共著で発行した『衛生新編』において、鷗外は1914年(大正3年)9月に改訂増補第5版を発行し、第4版までなかった「脚気」を初めて追加している。ただ、当時脚気の原因をめぐって医学界が混乱していたこともあり、様々な権威者たちの見解を列記しただけで、鷗外自らの見解を記述してはいない。 陸軍兵食規則の主食は、鷗外が陸軍医務局長の時代に精米から米麦に変更されている。陸軍給与令は『勅令第四十三号』(大正2年3月29日)により、陸軍戦時給与規則細則は『陸達二十号』(大正3年8月17日)により変更された。 陸軍の脚気惨害における鷗外の責任について対立する見解が存在する。 鷗外が脚気惨害を助長したとする非難の多くは筋違いであるとして、以下の見解がある。 陸軍の脚気惨害の責任について。戦時下で陸軍の衛生に関する総責任を負うのは大本営陸軍部の野戦衛生長官(当時の陸軍省医務局長が就任し、日清戦争では石黒忠悳、日露戦争では小池正直)である。鷗外には陸軍の兵食を決定する権限はなかった。鷗外が陸軍省医務局長に就任し権限を得たのは、脚気惨害が起きていた日露戦争が終わったあとである。 鷗外が白米飯を擁護したことが陸軍の脚気惨害を助長したという批判について。日露戦争当時、麦飯派の寺内正毅が陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として、軍の輸送能力に問題があり、また脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあった。その別のものとは、白米飯は当時の庶民が憧れるご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情である。 鷗外の「陸軍兵食試験」が脚気発生を助長したとの批判について。兵食試験は、当時の栄養学に基づく試験であり、脚気とは関係がない。その試験結果を上官の石黒忠悳が歪めて用い、あたかも脚気の試験であったかのように誤用したためである。 鷗外への非難の主なものを以下に記す。ただし、その非難の内容が適切かを問わずに記載する。 白米食を麦飯食に代えると脚気が激減する現象が見られたにもかかわらず戦時中は白米食を強要した。 海軍の兵食改良を徹底して非難した。鷗外は留学先からわざわざ高木を非難する論文まで送っており、これは日本国内における脚気栄養説への攻撃にも利用された。コッホが細菌を発見するまで人類は病気のメカニズムすら把握していなかった。海軍や高木が行い、陸軍でも日露戦争開戦前に取り入れて成果の挙がっていた「原因は(当時は)わからないが結果として脚気が治る」という現在で言う疫学であるイギリス流の医学に基づく対症療法を認めなかった。 論理にこだわり過ぎて、学術的権威に依拠し過ぎた。原因が判明しないまま全軍に取り入れることはできないというのは一面で正しいものの見方であるが、経験が蓄積され、あるいは研究が進展してからもなお細菌説に固執した。軍医、しかも高官にまで出世する立場にあるならば、ビタミンなどの微小栄養素が発見前であることから原因の説明ができない高木の栄養説を攻撃する前に、徴兵主体の兵士の健康を確保するべきであったが、鷗外にとってそれは重要ではなかった。コッホの助言によって東南アジアでの同種の栄養素欠乏症であるベリベリの調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試験」という手法が日本にも導入された。この結果、細菌説の支持者だった臨時脚気病調査会の委員が栄養説へ転向したが、会長の鷗外はこれを罷免した。また麦飯派の寺内が求めた麦飯の効能の調査については、栄養の問題そのものを調査会の活動方針から排除した。 日清戦争時に上官の石黒に同調した。石黒は日清戦争当時に土岐頼徳からの麦飯支給の稟議を握りつぶし、日清戦争後の台湾の平定(乙未戦争)でも白米の支給を変えてはならないと通達した。石黒自身は、脚気を根絶可能とし、実際に患者を減らした海軍と異なり「脚気根絶は甚だ困難」という談話さえ発表している。土岐が台湾で独断の麦飯支給で脚気の流行を鎮めると、軍規違反を問うて即刻帰京させ、5年後に予備役に追い込んだが軍法会議は開かなかった。軍法会議を開いた場合、軍規違反を起こした士官の上官としての統率責任と、そもそもなぜ軍規違反に至ったかの経緯が公になるためである。しかし石黒が隠そうとした「麦飯で脚気が減った」経緯を知る元台湾鎮台司令官の高島鞆之助は陸軍大臣になると石黒を辞任させた。鷗外が同調した上官とはこのような人物であり、同じ陸軍の軍医が麦飯で脚気を減らしてもなお高木の栄養説の欠陥を批判するのみで、脚気患者を減らすことを目的とした対策は採らず、日露戦争での膨大な戦病死を惹起した。 年譜※日付は1872年までは旧暦 1862年(文久02年)1月19日 - 石見国津和野藩(現・島根県鹿足郡津和野町)に、藩医・森静泰(後に静男と改名)、峰子の長男として生まれる。養子が多かったため、久々の跡継ぎ誕生となる。 1867年(慶応3年)11月 - 村田久兵衛に論語を学ぶ。 1868年(明治元年)3月 - 米原綱善に孟子を学ぶ。 1869年(明治02年) - 養老館で、四書を一から読み直す。 1870年(明治03年) - 五経、オランダ語を学ぶ。 1871年(明治04年) - 藩医の室良悦にオランダ語を学ぶ。 1872年(明治05年)
10月 - ドイツ語習得のため、本郷の進文学社(私塾)に入学。 1873年(明治06年)
11月、第一大学区医学校予科(後に東京医学校へ改称。現:東京大学医学部)に入学。 1877年(明治10年) - 東京医学校が東京開成学校と合併して東京大学医学部に改組され、その本科生になる。 1880年(明治13年) - 本郷龍岡町の下宿屋「上条」に移る。翌年3月、下宿先で火災に遭い、講義ノートなどを失う。 1881年(明治14年)
07月 - 東京大学医学部を卒業。父・静男の経営する南足立郡千住町の橘井堂医院に転居(現在でも北千住には森鷗外ゆかりの碑が建てられている)。戸籍も東京に移す。 09月 - 『読売新聞』に寄稿した「河津金線君に質す」が採用される。これが鷗外の初めて公にされた文章であろう。 12月 - 東京陸軍病院課僚を命じられて、陸軍軍医副の任務に就く。 1882年(明治15年)
05月 - 陸軍軍医本部課僚になり、プロシア陸軍衛生制度の調査に駆り出される。 1884年(明治17年)
10月 - ドイツに到着。ライプツィヒ大学でホフマン教授などに学ぶ。 1885年(明治18年)
02月 - ドイツ語で「日本兵食論」「日本家屋論」を執筆。 05月 - 陸軍一等軍医(大尉相当)に昇進。 10月 - ドレスデンに移る。 12月 - ライプツィヒの酒場アウアーバッハスケラーを哲学者の井上哲次郎と訪れ、この時に井上の勧めもあって、『ファウスト』の翻訳を決心する。 1886年(明治19年)3月 - ミュンヘンに移る。大学衛生部に入学し、ペッテンコーフェルに衛生学を学ぶ。 1887年(明治20年)
05月 -北里柴三郎と共にコッホを訪ね、衛生試験所に入る。 1888年(明治21年)
09月 - 日本に帰国。 10月 - 陸軍大学校教官に就任。 12月、『非日本食論将失其根拠』を自費出版。 1889年(明治22年)
03月 - 写真婚で、海軍中将赤松則良の長女・登志子と婚約。 05月 - 東京美術学校専修科の美術解剖学講師に就任。 08月 - 『国民之友』に訳詩編「於母影」を発表。 10月 - 軍医学校陸軍二等軍医正(中佐相当官)教官心得になる。 1890年(明治23年)
08月 - 『しからみ草紙』に「うたかたの記」を発表。この作品は、石橋忍月との論争の火種になる。 09月 - 長男・於菟誕生。しかし、まもなく妻の登志子と離婚。 10月 - 本郷駒込千駄木町57に居住を移す。鷗外は、そこを「千朶山房」と呼ぶ。 1891年(明治24年)
08月 - 医学博士の学位を授与される。 09月 - 『しからみ草紙』に「山房論文」を発表。早稲田文学で坪内逍遙と没理想論争を交わす。 1892年(明治25年)
08月 - 医学と文学の論争から離れて休息を取るため、自宅(観潮楼)を建設。 11月 - 『しからみ草紙』にアンデルセンの「即興詩人」を連載。 1893年(明治26年)11月 - 陸軍一等軍医正(大佐相当)に昇進し、軍医学校長になる。 1894年(明治27年)
08月 - 東京から広島市に向かう。 11月 - 大連に上陸。 1895年(明治28年)
05月 - 日清講和条約調印後、帰国(帰京することなく広島市にとどまる)。 08月 - 台湾総督府陸軍局軍医部長になり、台湾に赴任。 09月 - 帰国の途につく。 1896年(明治29年)
03月 - 幸田露伴、斎藤緑雨らと共に『めさまし草』に「三人冗語」を連載。 04月 - 父・静男死去。 1897年(明治30年)
1898年(明治31年)
10月 - 近衛師団軍医部長兼軍医学校長に就任。 1899年(明治32年)
06月 - 『二六新報』にて箴言集「心頭語」連載開始。 1902年(明治35年)
03月 - 東京に転勤。 1903年(明治36年)
03月 - 『新小説』にて箴言集「慧語」(スペイン人作家バルタサル・グラシアン著、ショーペンハウエル訳『Handorakel und Kunst der Weltklugheit (原題Oráculo manual y arte de prudencia)』の抄訳・翻案)連載開始。 1904年(明治37年)
04月 - 第2軍軍医部長として、広島市の宇品港を立つ。『うた日記』を書く。 1905年(明治38年) - 奉天会戦勝利後、残留していたロシア赤十字社員の護送に尽力。 1906年(明治39年)
06月 - 賀古鶴所らと歌会「常磐会」を設立(後に山縣有朋などが参加)。 1907年(明治40年)
06月 - 西園寺公望が主催した歌会「雨声会」に出席。 08月 - 次男・不律誕生。 10月 - 陸軍軍医総監・陸軍省医務局長となる。 1908年(明治41年)
02月 - 次男・不律死去。 05月 - 文部省の臨時仮名遣調査委員会委員になる。 1909年(明治42年)
05月 - 次女・杏奴誕生。 07月 - 文学博士の学位を授与され、また「ヰタ・セクスアリス」掲載の『スバル』が発売禁止に処される。 1910年(明治43年)
1911年(明治44年)
05月 - 文芸委員会委員になる。 09月 - 『スバル』に「雁」を連載。 1912年(明治45年)
10月 - 初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を『中央公論』に発表。 1913年(大正02年)
02月 - 臨時宮内省御用掛に就任。 1914年(大正03年)
02月 - 『新小説』に「堺事件」を発表。 1915年(大正04年)
10月 - 『中央公論』に「最後の一句」を発表。 11月、大島健一陸軍次官に辞意を表明。同年、渋江抽斎の調査研究を始める。 1916年(大正05年)
03月、母峰子死去。 04月13日、陸軍省医務局長を退き予備役に編入。 1917年(大正06年)
1918年(大正07年)
1919年(大正08年)
1920年(大正09年)
1921年(大正10年)
1922年(大正11年)
06月29日 - 萎縮腎と診断される。また、肺結核の兆候も見られた。 07月06日 - 友人の賀古鶴所に遺言の代筆を頼む。 07月09日 - 午前7時死去。弘福寺(東京・向島)に埋葬される。 1927年(昭和02年) - 墓が禅林寺(東京・三鷹市)に移される。分骨され、津和野町の永明寺にも墓がある。 2024/06/14 06:11更新
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mori ougai
森鴎外と同じ誕生日2月17日生まれ、同じ島根出身の人
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