もしもし情報局 > 2月10日 > 社会運動家

平塚らいてうの情報 (ひらつからいちょう)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

平塚らいてうの情報(ひらつからいちょう) 社会運動家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

平塚 らいてうさんについて調べます

■名前・氏名
平塚 らいてう
(読み:ひらつか らいちょう)
■職業
社会運動家
■平塚らいてうの誕生日・生年月日
1886年2月10日 (年齢85歳没)
戌年(いぬ年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
東京出身

平塚らいてうと同じ1886年生まれの有名人・芸能人

平塚らいてうと同じ2月10日生まれの有名人・芸能人

平塚らいてうと同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


平塚らいてうと関係のある人

田淵豊吉: 新婦人協会(平塚らいてう、市川房枝ら)の運動による女性の政治参加への道を開くべく治安警察法の改正案を無所属四名の連名にて提出し、田渕が提案理由演説を行う。


与謝野晶子: 反良妻賢母主義を危険思想だと見ていた文部省の取り締まり強化に対し、妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義は、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、平塚らいてう、山田わからを相手に母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。


山田洋次: 妻は「平塚らいてうの記録映画を上映する会」副会長を務めた山田よし恵(1932年5月23日 - 2008年11月8日)。


生田長江: 馬場孤蝶、与謝野晶子、赤司繁太郎らが講義し、大貫かの子、青山菊栄、平塚らいてうらが聴講したが、年内に閉講した。


米田佐代子: NPO平塚らいてうの会会長。


山川菊栄: 1918年(大正7年)ころから始まった母性保護論争に参加、社会主義の立場から平塚らいてう・与謝野晶子らの運動を批判。


岡田みはる: 自らが主宰した演劇パフォーマンスユニット「青の靴下と鳩と太陽☆PROJECTS」は、平塚らいてうが発行した雑誌青鞜の影響を受けて岡田が命名した。


森鴎外: また、当時としては女性蔑視が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。


真野響子: とと姉ちゃん(2016年) - 平塚らいてう


高尾まみ: 「円窓に惑うは蒼天へ」(主演:平塚らいてう)


高群逸枝: アナーキズムと出会って女性史研究を志し、平塚らいてうと共に女性運動を始める傍ら、女性史研究を進め、『母系制の研究』や『招婿婚の研究』などの業績を残し、女性史研究分野の発展に寄与した。


土方悠: 週刊マンガ日本史 第44号 平塚らいてう(2010年、朝日新聞出版)


米田佐代子: 『平塚らいてう―近代日本のデモクラシーとジェンダー』吉川弘文館 2002年


栃折久美子: 『元始、女性は太陽であった-平塚らいてう自伝』 大月書店 1971年


奥むめお: 平塚らいてう


喜多道枝: 平塚らいてうの生涯(ナレーション)


森田草平: この講座に聴講生として通っていた平塚明子(平塚らいてう)の初の小説を草平が褒めたことをきっかけに明子と草平は接近し、1908年(明治41年)2月1日に初めてのデート、さらにガブリエーレ・ダンヌンツィオの小説「死の勝利」に感化された二人は翌月の3月23日に栃木県塩原で心中未遂事件を起こす(塩原事件)。


みなもと太郎: 偶然知り合った平塚らいてうの孫の自宅に居候しながら、出版社との契約や写植など漫画家になるための方法を尋ねるため、各出版社や白土三平、一峰大二、貝塚ひろし、水野英子、石ノ森章太郎、あすなひろし、ちばてつや、藤子不二雄(藤本弘・安孫子素雄)、つのだじろう、赤塚不二夫、水木しげるなどの漫画家の自宅を1か月間訪問して回った。


大島優子: あさが来た (2016年3月26日、29日、30日) - 平塚明(のちの平塚らいてう) 役


水上勉: 『週刊女性』編集長だった丸元淑生の依頼でエッセイ「女ごころ風景」を1972年から連載、成城の自宅の庭に桜の木があり、旧平塚らいてう邸の裏庭に通じていたことを書いたところ、大岡昇平が訪れ、河口慧海の妹で歌人の竹野せいが毎年桜を見にくるようになり、また作家の小林美代子とも交流が生まれた。


松下奈緒: 風よ あらしよ 劇場版(2024年、太秦) - 平塚らいてう


市川房枝: 同年12月19日、平塚らいてう、上代たのらと「再軍備反対婦人委員会」を結成。


奥むめお: 1920年(大正9年)、政治的要求を綱領に掲げる初の婦人団体「新婦人協会」を平塚らいてう、市川房枝らと設立して共に理事に就任したが、国際共産主義運動から女性解放運動への転向を、赤瀾会の山川菊榮らから批判された。


米田佐代子: 『らいてうの家 四季ものがたり』平塚らいてうの会 2009


高群逸枝: 1930年 平塚らいてうらと無産婦人芸術連盟を結成、『婦人戦線』を創刊


長谷川時雨: 年齢順で、長谷川時雨、岡田八千代、田村俊子、柳原白蓮、平塚らいてう、長谷川かな女、深尾須磨子、岡本かの子、鷹野つぎ、高群逸枝、八木あき、坂西志保、板垣直子、中村汀女、大谷藤子、森茉莉、林芙美子、窪川稲子、平林たい子、円地文子、田中千代、大石千代子 /三上於菟吉、直木三十五、獅子文六、葉山嘉樹、大佛次郎など。


小金井喜美子: 1911年(明治44年)、平塚らいてうらが『青鞜』を創刊する際、請われて鷗外の妻しげ子とともに賛助員になった。


湯浅譲二: 平塚らいてうの生涯(2001年、羽田澄子監督)


夏目漱石: 1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走した(塩原事件)。


伊藤野枝: 平塚らいてうに手紙を書き、訪問し初対面


平塚らいてうの情報まとめ

もしもしロボ

平塚 らいてう(ひらつか らいちょう)さんの誕生日は1886年2月10日です。東京出身の社会運動家のようです。

もしもしロボ

生涯、エピソードなどについてまとめました。事件、姉妹、卒業、結婚、家族、離婚、解散に関する情報もありますね。85歳で亡くなられているようです。

平塚らいてうのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年(明治19年)2月10日 - 1971年(昭和46年)5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、女性解放運動家。本名:平塚 明(ひらつか はる)。

平塚は、特に、大正から昭和にかけ、婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られるが、結局、その実現は、第二次大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たなければならなかった。

しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌「青鞜」を創刊した際、その創刊を祝い、自らが寄せた文章の表題『元始、女性は太陽であった』は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった。

第二次世界大戦後は主に反戦・平和運動に参加した。日本女子大学校(現:日本女子大学)家政学部卒、2005年(平成17年)に同大学は平塚らいてう賞を創設した。

なお、氏名表記は漢字で、「平塚 雷鳥」としたり、「平塚 明子(らいてう)」として評論の俎上に上がることもある。また、1908年(明治41年)3月、平塚22歳の時、塩原で、森田草平と心中未遂事件(塩原事件)を起こし、自身の名が広く知られると、本名の「平塚 明」の名で活動するなど、時期によっても平塚の氏名表記は異なる。

生涯

出自

1886年(明治19年)2月10日、東京府東京市麹町区土手三番町(現:東京都千代田区五番町)に3人姉妹の末娘、平塚明(ひらつかはる)として、裕福な家庭に生まれる。生まれつき声帯が弱く、声の出にくい体質だった。父・平塚定二郎は明治政府の高級官吏(会計検査院に勤務)、のちに一高の講師も務めた。母・光沢(つや)の両親は徳川御三卿のひとつ田安家奥医師の飯島家の夫婦養子となった。両親は教育熱心であった。

学生時代

幼少時は、1887年(明治20年)から1年半欧米を視察巡遊した父の影響で、ハイカラで自由な欧米的な環境で育った。しかし、1892年(明治25年)に富士見尋常高等小学校(現:千代田区立富士見小学校)に入学してまもなく、父は従来の欧米的な家風を捨て去り、国粋主義的な家庭教育を施すようになった。

1894年(明治27年)、平塚家は本郷区駒込曙町(現:文京区本駒込一丁目、二丁目辺り)に引越し、明は本郷区公立誠之尋常小学校(現:文京区立誠之小学校)に転入。1898年(明治31年)に誠之小学校高等科を卒業し、父の意思で当時国粋主義教育のモデル校だった東京女子高等師範学校附属高等女学校(現:お茶の水女子大学附属高等学校)に入学させられ、良妻賢母主義の教育に不満を持ち、級友と「海賊組」を結成し、修身(道徳)の授業をボイコットしたこともあった。

1903年(明治36年)に「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に憧れて日本女子大学校(現:日本女子大学)家政学部に「女子には女学校以上の学問は必要ない」という父を説得して入学。しかし、翌年に日露戦争が勃発すると、徐々に国家主義的教育の度合いが強くなり、その中にお茶の水時代と同じ思想を見出すと大学生活にひどく幻滅した。この頃から、自分の葛藤の理由を求めるために宗教書や哲学書などの読書に没頭する。1905年(明治38年)には禅の存在を知り、日暮里にある禅の道場「両忘庵」(現:人間禅擇木道場)に通い始めるようになった。禅の公案修行で見性を許され、悟りを開いた証明として慧薫(えくん)禅子という道号を授かっている。1906年(明治39年)に日本女子大学校を卒業。両忘庵で禅の修行をしながら、二松学舎(現:二松學舍大学)、女子英学塾(現:津田塾大学)で漢文や英語を学び、1907年(明治40年)にはさらに成美高等英語女学校に通うようになった。

成美高等英語女学校でテキストとして使われたゲーテの『若きウェルテルの悩み』で初めて文学に触れ、文学に目覚める。東京帝大出の新任教師生田長江に師事し、生田と森田草平が主催する課外文学講座「閨秀文学会」に参加するようになった。生田の勧めで処女小説「愛の末日」を書き上げ、それを読んだ森田が才能を高く評価する手紙を明に送ったことがきっかけで、二人は恋仲になった。

22歳の時、1908年(明治41年)2月1日に森田と初めてのデートをするが、同年3月21日に塩原から日光に抜ける尾頭峠付近の山中で雪の中、心中未遂を警察から救助されるという塩原事件あるいは煤煙事件を起こし、一躍有名になる。「参加していた文学研究会の講師かつ夏目漱石の弟子だった森田草平と家出し、栃木・那須の雪山にいたところを警察に保護された」という事実はスキャンダルとし大きく報じられ、バッシングにさらされた。そのため、日本女子大学校の桜楓会の名簿から明の名を抹消している。その後、1992年(平成4年)に復活する(『日本女子大学学園事典』)。

らいてうの誕生

明は、塩原事件を機に生田長江の強いすすめで、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』の製作に入った。資金は母からの援助で「いつか来るであろう娘明の結婚資金」を切り崩したもの。その資金を元に青鞜社を立ち上げ、企画は明の同窓生や同年代の女性に拠り、明は主にプロデュースに回った。

表紙は長沼智恵が描き、与謝野晶子が「山の動く日来る」の一節で有名な「そぞろごと」という詩を寄せた。明は『元始女性は太陽であつた - 青鞜発刊に際して』という創刊の辞を書くことになり、その原稿を書き上げた際に、初めて「らいてう」という筆名を用いた。ペンネーム「らいてう」は塩原事件の後、傷心の時のために一時期過ごした長野県で心引かれた鳥の「雷鳥」から名付けている。

らいてうらによる青踏社の発起人会は6月1日、『青鞜』は1911年(明治44年)9月に創刊され、男女で両極端な反響を巻き起こした。女性の読者からは手紙が殺到し、時には平塚家に訪ねてくる読者もいたほどだったが、その一方、男性の読者あるいは新聞は冷たい視線で、青鞜社を揶揄する記事を書き、時には平塚家に石が投げ込まれるほどだった。なお同年9月、金子筑水が日本ではじめてエレン・ケイを紹介しており(「現実教」『太陽』)、そのケイに関心を持ったらいてうが訪ねてきた河井酔茗に話したところ、酔茗から「今森鴎外さんの処でも其話が出た」と言われたという。らいてうは「そののち、ケイの思想が、わたくしの、ものの考え方や生活の上にも変化をもたらした。」と、51年後に鴎外の回想文で書いた(「鴎外夫妻と青鞜」『文芸』1962年8月)。

奥村博史との出会いと扶養

『青鞜』創刊の翌1912年(明治45年)5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に与謝野晶子のパリ行きを取り上げた。翌6日には、晶子の出発の様子を「ソコへ足早に駆け付けたのは青鞜同人の平塚明子で(中略)列車の中へ入って叮嚀に挨拶を交換して居る。」などと報じた(総勢500余名が見送った)。翌6月の『中央公論』(与謝野晶子特集号)では、鴎外によって「樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。(中略)序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。(下略)」とまで評された。

もっとも、青鞜社に集まる女性が「五色の酒事件」や「吉原登楼事件」、「らいてうと紅吉の同性愛事件」などの事件を起こすと、平塚家には投石が相次いだ。しかし、らいてうはそれをさほど意に介せず、「ビールを一番沢山呑むだのはやはりらいてうだった」と編集後記に書いて社会を挑発するだけの余裕があった。そのうちに「新しい女」というレッテルを貼られるようになった。 すると、らいてうは『中央公論』の1913年(大正2年)1月号に「私は新しい女である」という文章を掲載すると同時に婦人論を系統立てて勉強し始め、同年の『青鞜』の全ての号には、付録として婦人問題の特集が組み込むようになった。しかし、『青鞜』の1913年2月号の付録で福田英子が「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁に処せられると、らいてうは父の怒りを買い、家を出て独立する準備を始めることになった。

青鞜社は『青鞜』の他にも1912年(大正元年)末に岡本かの子の詩集『かろきねたみ』を皮切りに、翌1913年3月に『青鞜小説集』などを出版している。『青踏』1912年5月-10月に評論「円窓」を発表、1913年5月にらいてうの処女評論集『円窓より』も出ているが、出版直後5月に「家族制度を破壊し、風俗を壊乱するもの」として発禁に処せられている。同書は1913年6月『※<外字。とざし>ある窓にて』と改題して刊行された。

また、時期を並行して、1912年夏の26歳の時に茅ヶ崎で画家志望で美術学校に通う5歳年下の青年奥村博史と出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動ののちに事実婚(夫婦別姓)で同居を始めている(息子が産まれた後に婚姻届を提出し、結婚)。らいてうはその顛末を『青鞜』の編集後記上で読者に報告し、同棲を始めた直後の1914年(大正3年)2月号では『独立するに就いて両親に』という私信を『青鞜』誌上で発表している。ここで、パートナーは画家の奥村博史で「共同生活」ということを公表した。結婚制度への反発から、入籍はせず、奥村と二児をもうけている。奥村は病弱かつ絵はあまり売れず、家計はらいてうの原稿収入頼みのヒモ状態であったため、経済的な苦労は多かった。これは、後述の出産・育児への国の支援の在り方について、与謝野晶子らと激しい「母性保護論争」を繰り広げることに繋がっている。

独立後、奥村との家庭生活と『青鞜』での活動の両立が困難になり始めると、1915年(大正4年)1月号から伊藤野枝に『青鞜』の編集権を譲った。『青鞜』は従来の文芸雑誌+αとは別の、強いて言えば「無政府主義者の論争誌」として活気付いたが、その1年後には、伊藤野枝と交際を始めた大杉栄が、以前より大杉と交際していた神近市子に刺される日蔭茶屋事件があり、休刊することになった。

奥村との間には2児(長男、長女)をもうけたが、らいてうは従来の結婚制度や「家」制度をよしとせず、平塚家から分家して戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れている。

らいてうは1917年に発表した原稿「避妊の可否を論ず」において優生学を肯定的に取り上げ、産児制限の重要性を説いた。

与謝野晶子との母性保護論争

『青鞜』の編集権譲渡後は奥村の看病や子育てなどに追われていたが、1918年(大正7年)、婦人公論3月号で与謝野晶子が『女子の徹底した独立』(国家に母性の保護を要求するのは依頼主義にすぎない)という論文を発表すると、これに噛み付き、同誌5月号で『母性保護の主張は依頼主義か』(恋愛の自由と母性の確立があってこそ女性の自由と独立が意味を持つ)という反論を発表した。すると、山川菊栄がこの論争に加わり、同誌9月号で『与謝野、平塚2氏の論争』(真の母性保護は社会主義国でのみ可能)という論文を発表。その後、山田わかなどが論争に加わると一躍社会的な現象になった。(母性保護論争)

この論争の中、1919年(大正8年)の同誌1月号で、らいてうは『現代家庭婦人の悩み』(家庭婦人にも労働の対価が払われてしかるべき、その権利はあるはず)を発表している。同年夏には愛知県の繊維工場を視察し、その際に女性労働者の現状に衝撃を受け、その帰途に新婦人協会設立の構想を固めている。

新婦人協会

新婦人協会は、1919年(大正8年)11月24日に、市川房枝、奥むめおらの協力のもと、らいてうにより協会設立が発表され、「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として設立された。協会の機関紙「女性同盟」では再びらいてうが創刊の辞を執筆。新婦人協会は「衆議院議員選挙法の改正」、「治安警察法第5条の修正」、「花柳病患者に対する結婚制限並に離婚請求」の請願書を提出。特に治安警察法第五条改正運動(女性の集会・結社の権利獲得)に力を入れた。

しかし、1921年(大正10年)に過労に加え、房枝との対立もあり協会運営から退く。また、伊藤野枝、堺真柄、山川菊栄などの社会主義者は赤瀾会を結成し、『新婦人協会と赤瀾会』(『太陽』大正10年7月号)を皮切りに新婦人協会およびらいてうを攻撃する。らいてうが去り、房枝も渡米した後、新婦人協会は坂本真琴と奥むめおらを中心に積極的な運動を継続し、1922年(大正11年)に治安警察法第5条2項の改正に成功。しかし、その後の活動は停滞し、翌1923年(大正12年)末に解散。らいてうは文筆生活に入った。

1930年代

世界恐慌時代になると消費組合運動等にも尽力、高群逸枝らの無政府系の雑誌『婦人戦線』へ参加する。

戦後

第二次世界大戦後は、日本共産党のシンパサイザーとして活動し、婦人運動と共に反戦・平和運動を推進した。1950年(昭和26年)6月、来日したアメリカのダレス特使へ、全面講和を求めた「日本女性の平和への要望書」を連名で提出。翌年12月には対日平和条約及び日米安全保障条約に反対して「再軍備反対婦人委員会」を結成。1953年(昭和28年)4月5日、日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任。同年12月、国際民主婦人連盟副会長就任。1955年(昭和30年)、世界平和アピール七人委員会の結成に参加、同会の委員となる。

1960年(昭和35年)、連名で「完全軍縮支持、安保条約廃棄を訴える声明」発表。

1962年(昭和37年)10月19日、平塚、いわさきちひろ、野上弥生子、羽仁説子、岸輝子、桑沢洋子、櫛田ふき、深尾須磨子、壺井栄ら32人の女性の呼びかけにより「新日本婦人の会」が結成された。

1964年(昭和45年)2月18日に、1941年に入籍した夫の奥村が東京都世田谷区関東中央病院で急性骨髄性白血病で死去。

1970年(昭和45年)6月にも市川らと共に日米安保廃棄のアピールを発表する。またベトナム戦争が勃発すると反戦運動を展開。1966年(昭和41年)「ベトナム話し合いの会」を結成、1970年(昭和45年)7月には「ベトナム母と子保健センター」を設立する。「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言する孤高の行動家として、らいてうは終生婦人運動および反戦・平和運動に献身した。

最晩年

自伝の作に取り掛かるも、1970年(昭和45年)に胆嚢・胆道癌を患い、東京都千駄ヶ谷の代々木病院に入院。らいてうは入院後も口述筆記で執筆を続けていたが、1971年(昭和46年)5月24日に入院先で逝去。享年86(満85歳没)。法名は明媼之命。命日の5月24日は筆名をそのままらいてう忌と呼ばれている。13歳まで同居していた孫によると、肉親から見た姿は、世間一般の「らいてう」像とはだいぶ異なり、「身長は約145センチで同世代と比べても小柄。声は小さく内向的で言葉少ない人だった」と内実を語っている。

エピソード

若い「つばめ」の由来

「相手の女性よりも年下の恋人」をつばめと呼ぶのは、奥村がらいてうと別れることを決意した際の手紙の一節、

を、らいてうが『青鞜』上で発表し、一種の流行語になったことに由来する。

菜食主義

1951年に、アーネスト・スウィフトが世界の菜食主義者の目録を作る際に、らいてうに問い合わせがあり目録に追加されたが、らいてうが36、37歳の頃、頭痛と嘔吐で生きた心地もせず、治せる医者も薬もなく困っていたところに、石塚左玄の食養や二木謙三の玄米食について読み、そして会って話を聞き、食生活の誤りを悟り、以来30年近く実践してきた。

2024/06/13 02:50更新

hiratsuka raichou


平塚らいてうと同じ誕生日2月10日生まれ、同じ東京出身の人

佐藤 博_(実業家)(さとう ひろし)
1929年2月10日生まれの有名人 東京出身

佐藤 博(さとう ひろし、1929年2月10日 - 2013年1月13日)は、日本の経営者。TDK社長、会長を務めた。 東京都出身。1952年に日本大学旧工学部を卒業し、同年に東京電気化学工業(の…

星野 由妃(ほしの ゆき)
1971年2月10日生まれの有名人 東京出身

星野 由妃(ほしの ゆき、本名:上野正希子(うえの まきこ)、1971年2月10日 - )は、東京都出身の元女優、元歌手。六本木オフィスに所属していた。 八王子実践高等学校卒業。 1987年、街…

市川 由衣(いちかわ ゆい)
1986年2月10日生まれの有名人 東京出身

市川 由衣(いちかわ ゆい、1986年2月10日 - )は、日本の女優、タレント、歌手。東京都中野区出身。研音所属。旧所属はエイジ(現在は存在せず)。東京都立代々木高等学校卒業。夫は俳優・タレント・演…

彩音 凛(あやね りん)
1981年2月10日生まれの有名人 東京出身

彩音 凛(あやね りん、1981年2月10日 - )は、東京都出身の女優、歌手。音楽活動においては、彩音凛、女優業においては、松波 凛(まつなみ りん)の名義にて活動している。現在の女優業における所属…

田中 ゆみ(たなか ゆみ)
1985年2月10日生まれの有名人 東京出身

田中 ゆみ(たなか ゆみ、1985年2月10日 - )は、レースクイーン・グラビアアイドル。2009年6月30日で所属していたエクセルヒューマンエイジェンシーとの契約を解除、現在はフリー。元所属事務所…

野崎 萌香(のざき もえか)
1990年2月10日生まれの有名人 東京出身

野崎 萌香(のざき もえか、1990年2月10日- )は、日本の女性ファッションモデル、タレント。 東京都出身。2024年4月よりエイベックス・クラン所属。 東洋英和幼稚園、東洋英和女学院小学校、…

名和 慶子(なわ けいこ)
1953年2月10日生まれの有名人 東京出身

名和 慶子(なわ けいこ、1953年2月10日 - )は、日本の元女優。本名、名和 啓子。 東京都出身。劇団櫂所属。 ススキダ演技研究所卒業。舞台劇団阿香舎を経て劇団櫂の創立に参加し、数々の舞台…

中島 ひろ子(なかじま ひろこ)
1971年2月10日生まれの有名人 東京出身

中島 ひろ子(なかじま ひろこ、1971年2月10日 - )は、日本の女優。 東京都出身で、小学生時代に神奈川県の大磯町に転居。エム・アール所属。 17歳の時に『オルゴール』(1989年公開)で…

仲川 遥香(なかがわ はるか)
【AKB48G】
1992年2月10日生まれの有名人 東京出身

仲川 遥香(なかがわ はるか、1992年〈平成4年〉2月10日 - )は、日本出身のタレントであり、インドネシアを拠点に活動している。JKT48およびAKB48、渡り廊下走り隊7の元メンバーである。東…

帆足 由美(ほあし ゆみ)
1964年2月10日生まれの有名人 東京出身

帆足 由美(ほあし ゆみ、1964年2月10日 - )は、東京都出身のフリーアナウンサー、ラジオパーソナリティである。オフィスキイワード所属。 東京都大田区出身。千葉県立薬園台高等学校、青山学院女…

根本 美緒(ねもと みお)
1979年2月10日生まれの有名人 東京出身

『ウォッチン!みやぎ』(TBC)『水曜ノンフィクション』(TBS)『えなりかずき!そらナビ』(CBC)『週刊!健康カレンダー カラダのキモチ』(CBC)『知りたがり!』(フジテレビ)『ゴゴスマ -GO…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


平塚らいてうと近い名前の人

平塚 奈菜(ひらつか なな)
1985年3月25日生まれの有名人 東京出身

平塚 奈菜(ひらつか なな、1985年3月25日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル。東京都出身。現在、フリーランスで活動中。 短大を経て四年制大学に編入学し卒業。短大、大学ではいずれも芸…

平塚 千瑛(ひらつか ちあき )
1986年8月6日生まれの有名人 山形出身

平塚 千瑛(ひらつか ちあき 1986年8月6日 - )は、山形県米沢市出身の日本のタレント・モデル、グラビアアイドルである。三枝プランニング所属。 2011年、「ミス・アース・ジャパン」ファイナ…

平塚 日菜(ひらつか ひな)
2000年8月14日生まれの有名人 静岡出身

平塚 日菜(ひらつか ひな、2000年8月14日 - )は、日本のモデル、女性アイドルグループ・原宿駅前パーティーズ「ふわふわ」、「パーティーズ」のメンバー。静岡県出身。ライジングプロダクション所属。…

平塚 由佳(ひらつか ゆか)
1991年6月25日生まれの有名人 北海道出身

平塚 由佳(ひらつか ゆか、1991年6月25日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル。北海道登別市出身。愛称は「ゆかちん」。元サンスポアイドルリポーター(SIR)のメンバーとして活動していた。…

平塚 奈々(ひらづか なな)
1966年3月15日生まれの有名人 東京出身

平塚 奈々(ひらづか なな、1966年3月15日 - )は、東京都出身の女優。 一時、芸名を 平塚なな美 で活動していた。 モントレーハイスクール卒業。 1980年代から2000年代前半にかけてテ…

平塚 真治郎(ひらつか しんじろう)
1919年1月2日生まれの有名人 宮城出身

1月2日生まれwiki情報なし(2024/06/13 02:11時点)

平塚 克洋(ひらつか かつひろ)
1966年1月29日生まれの有名人 埼玉出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 平塚 克洋(ひらつか かつひろ、1966年1月29日 - )は、東京都墨田区出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。 漫画『ど根性ガ…

平塚 勝一(ひらつか かついち)
1910年2月4日生まれの有名人 埼玉出身

平塚 勝一(ひらつか かついち、1910年(明治43年)2月4日 - 1983年(昭和53年)10月29日)は、昭和期の地方公務員、政治家。埼玉県所沢市長。 所沢市出身。1933年(昭和8年)海軍…

平塚 晶人(ひらつか あきひと)
1965年8月17日生まれの有名人 北海道出身

8月17日生まれwiki情報なし(2024/06/13 01:02時点)

平塚 八兵衛(ひらつか はちべえ)
1913年9月22日生まれの有名人 茨城出身

平塚 八兵衛(ひらつか はちべえ、1913年(大正2年)9月22日 - 1979年(昭和54年)10月30日)は、警視庁に在籍した刑事警察官。茨城県新治郡土浦町(現:土浦市)出身。警察功労章、警察功績…

平塚 明(ひらつか あきら)
1940年10月5日生まれの有名人 茨城出身

生涯 1886年(明治19年)2月10日、東京府東京市麹町区土手三番町(現在の東京都千代田区五番町)に3人姉妹の末娘、平塚明(ひらつかはる)として生まれる。生まれつき声帯が弱く、声の出にくい体質だった…

平塚紗依(ひらつか さえ)
2004年10月12日生まれの有名人 東京出身

平塚 紗依(ひらつか さえ、2004年10月12日 - )は、日本の女性声優。東京都出身。大沢事務所に所属している。 2022年にテレビアニメ『僕とロボコ』のメイコ役でデビュー。2024年に『ひみ…

平塚 裕子(ひらつか ゆうこ)
1972年6月10日生まれの有名人 宮城出身

平塚 裕子(ひらつか ゆうこ、1972年6月10日 - )は、宮城県を拠点に活動している日本のナレーター、フリーアナウンサー。 宮城県石巻市出身。宮城県石巻女子高等学校(現・宮城県石巻好文館高等学…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
平塚らいてう
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

predia KAT-TUN SixTONES 純烈 ベイビーレイズ アリス十番 AeLL. DA PUMP Timelesz 9nine 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「平塚らいてう」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました