山川菊栄の情報(やまかわきくえ) 婦人運動家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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山川 菊栄さんについて調べます
■名前・氏名 |
山川菊栄と関係のある人
田中寿美子: 『山川菊栄集』(岩波書店) 1982 古垣鉄郎: その場で古垣は山川菊栄や小沢辰男らとともに司会を務めた。 大沢真理: 1993年度第13回山川菊栄賞受賞。 津田梅子: 女子英学塾の第10回卒業生であり、1910年(明治43年)前後に梅子の授業を受けた山川菊栄は、下記のように記している。 平塚明: また、伊藤野枝、堺真柄、山川菊栄などの社会主義者は赤瀾会を結成し、『新婦人協会と赤瀾会』(『太陽』大正10年7月号)を皮切りに新婦人協会およびらいてうを攻撃する。 江刺昭子: 女社会主義者の誕生、堺真柄・為子、高津多代子、橋浦はる子・りく、仲宗根貞代、山川菊栄、伊藤野枝、九津見房子、北川千代、山口小静・林てる、秋月静枝・中村しげ 平塚明: すると、山川菊栄がこの論争に加わり、同誌9月号で『与謝野、平塚2氏の論争』(真の母性保護は社会主義国でのみ可能)という論文を発表。 太田典礼: 『婦人問題』社會主義教育協會,山川菊栄,神近市子,西塚静子,新妻イト,山本杉共著 三元社 社會主義講座 1949 山川均: 1916年(大正5年)、青山菊栄(山川菊栄)と結婚。 伊藤野枝: 1921年(大正10年)の普通選挙を目前にして結成された社会主義の婦人団体「赤潤会」にも山川菊栄らと共に参加した。 堺利彦: 社会主義の婦人観 山川菊栄共著 上西書店 1926 平塚らいてう: すると、山川菊栄がこの論争に加わり、同誌9月号で『与謝野、平塚2氏の論争』(真の母性保護は社会主義国でのみ可能)という論文を発表。 山川均: 1916年(大正5年)、日本の婦人問題評論家・研究家である山川菊栄と結婚する。 田中寿美子: 同日、山川菊栄らと「婦人問題懇話会」(1984年に「日本婦人問題懇話会」に改称)を設立。 平塚らいてう: また、伊藤野枝、堺真柄、山川菊栄などの社会主義者は赤瀾会を結成し、『新婦人協会と赤瀾会』(『太陽』大正10年7月号)を皮切りに新婦人協会およびらいてうを攻撃する。 津田梅子: 同じく山川菊栄の回想(『山川菊栄集 8 このひとびと』〈岩波書店、1982〉) 奥むめお: 婦人参政に功績があった者として、奥、市川房枝、久布白落実が表彰された(山川菊栄も選ばれていたが、山川は辞退した)。 与謝野晶子: ここで論壇に登場した女性解放思想家・山川菊栄は、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、婦人運動の歴史的文脈を明らかにし、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場で整理した。 堺利彦: 女性中心説 レスター・ウオード 山川菊栄共訳 牧民社 1916 市川房枝: 婦人参政に功績があった者として、市川、久布白落実、奥むめおが表彰された(山川菊栄も選ばれていたが、山川は辞退した)。 |
山川菊栄の情報まとめ
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山川 菊栄(やまかわ きくえ)さんの誕生日は1890年11月3日です。東京出身の婦人運動家のようです。
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経歴、没後などについてまとめました。卒業、結婚、映画、姉妹に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
山川菊栄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)山川 菊栄(やまかわ きくえ、旧字体:山川 菊榮、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1980年〈昭和55年〉11月2日)は、日本の婦人問題評論家・研究家である。戦前、戦後を通じて女性運動の理論的指導者として活動し、労働省の初代婦人少年局長をつとめた。 東京府東京市麹町区四番町(現:千代田区九段北)生まれ。旧姓は森田、後に青山姓となる。夫は山川均。 1918年、論文「母性保護と経済的独立」を「婦人公論」に発表し、論壇での地位を確立した。雑誌「社会主義研究」「前衛」などを創刊した。 日本の婦人運動に初めて批評的、科学的視点を持ち込んだ。多くの評論集は、明晰な分析と鋭い批評眼を示し、日本における女性解放運動の思想的原点と評される。戦後は民主婦人協会を結成、その後婦人少年局長に就任した。 戦前から柳田國男の薫陶を受け、母や故老からの聞き書きや祖父の日誌をもとに、『武家の女性』『幕末の水戸藩』などの社会史を残した。 経歴父は松江藩士の森田龍之助、母は水戸藩士で弘道館教授頭取代理・彰考館権総裁を務めた儒学者・史学者の青山延寿の娘・千世で、祖父延寿の死去に伴い、青山家の戸主となり、1906年より青山姓を名乗る。弘道館の初代教授頭取を務めた儒学者・青山延于は母方の曾祖父にあたる。大叔父(大叔母の夫)に水戸藩士吉成勇太郎がいる。 東京府立第二高等女学校卒業。 1912年(明治45年)、女子英学塾(現:津田塾大学)卒業。 1915年(大正4年)、堺利彦・幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄らの平民講演会を通して社会主義を学ぶ。 1915年〜1916年『青鞜』誌上において伊藤野枝との間に「廃娼論争」を交わし、野枝の上中流階級の女性たちによる慈善的・恩恵活動を欺瞞的とする批判に賛意を表する一方、公娼制度容認を徹底的に批判した。 1916年(大正5年)、社会主義運動家山川均と結婚。 1918年(大正7年)ころから始まった母性保護論争に参加、社会主義の立場から平塚らいてう・与謝野晶子らの運動を批判。 1921年(大正10年)4月、日本で最初の社会主義婦人団体「赤瀾会」を結成、同年メーデーに初参加。 1947年(昭和22年)、日本社会党に入党。9月1日、片山内閣のもとで、新設の労働省の初代婦人少年局長に就任した。米国の労働婦人局統計調査資料を、太平洋戦争開戦までの約20年間寄贈を受けて読んでおり、日本でもこうした調査が必要と考えていたことから、「簡単に引き受けた」という。地方の出先機関である地方職員室の管理職、主任に女性を登用した。GHQの支持を取り付けつつ、自ら各地に出張して面接を繰り返した。「山川人事」と呼ばれた。。 内務省廃止でポストを失った男性を主任に就けるとの目的もあり、地方労働基準局長から男性ばかりが推薦されるのにあきれ、「地位収入を問題とせず、すて身でとびこんできてくださる優秀な方」を募集するとの「局長の檄文」を執筆した。人選は難航したが、1947年7月下旬に全都道府県で主任の人事が固まった。1951年まで務めた。 1962年(昭和37年)、田中寿美子らと「婦人問題懇話会」(1984年に「日本婦人問題懇話会」に改称)を設立した。 1974年(昭和49年)、『覚書 幕末の水戸藩』で大佛次郎賞受賞。 1980年(昭和55年)、死去。墓所は倉敷市長連寺山門北側。 没後1981年(昭和56年)、「山川菊栄記念会設立趣意書」によれば、山川菊栄の遺族から寄せられた基金で、女性問題の研究・調査を対象に「山川菊栄記念婦人問題研究奨励金」(山川菊栄賞)を贈呈することになり、その運営のために山川菊栄記念会が設立された。 1990年、生誕100年、没後10年を記念して、「山川菊栄生誕100年を記念する会」主催の連続講座やシンポジウムが開催された。連続講座は1989年12月から1990年5月にかけて4回開催され、中嶌邦、永畑道子、竹中恵美子、鈴木裕子が講師をつとめた。シンポジウムは1990年11月3日に津田塾大学千駄ヶ谷キャンパス内の津田ホールで開催され、「現代フェミニズムと山川菊栄」のテーマで李順愛、井上輝子、竹中恵美子が話し合い、コーディネーターは駒野陽子がつとめた。 2010年、生誕120年を記念してドキュメンタリー映画「姉妹よ、まずかく疑うことを習え 山川菊栄の思想と活動」の制作が企画された。 山川菊栄文庫1988年11月4日、江ノ島の神奈川県立婦人総合センターに山川菊栄文庫が開設された。菊栄の長男で東京大学名誉教授の山川振作が寄贈した図書、雑誌、写真、色紙、書簡、日記などと同センター婦人図書館の資料によって構成されている。同センターの移転・廃止にともない、山川文庫を含めた女性関連資料は2015年2月中旬、横浜市の神奈川県立図書館に移管された。 2024/06/16 06:26更新
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yamakawa kikue
山川菊栄と同じ誕生日11月3日生まれ、同じ東京出身の人
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