市川房枝の情報(いちかわふさえ) 婦人運動家、政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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市川房枝の情報まとめ
市川 房枝(いちかわ ふさえ)さんの誕生日は1893年5月15日です。愛知出身の婦人運動家、政治家のようです。
結婚、父親、卒業、病気、現在、映画、解散、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1981年に亡くなられているようです。
市川房枝のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年〈明治26年〉5月15日 - 1981年〈昭和56年〉2月11日)は、日本の婦人運動家、政治家。元参議院議員(5期)。 1924年に「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成。婦人参政権運動を主導した。終戦直後の1945年11月3日には「新日本婦人同盟」を結成。公職追放を受けるも、解除後の1950年に同団体を「日本婦人有権者同盟」に改称し、国会と女性を結び付ける運動を推し進めた。1953年に参議院議員に初当選。政界浄化、女性の地位や権利の向上に尽力した。 愛知県中島郡明地村字吉藤(現:一宮市明地)に生まれた。男2人、女4人の6人きょうだいで、市川は三女。誕生名は「ふさゑ」。家は代々農業を営み、市川が生まれた頃は7、8反の土地をもっていた。父の藤九郎は、1848年(嘉永元年)生まれで、一時商売をしていたが、基本的に農夫として一生を過ごし、暴力をふるう男だった。母のたつは、1859年(安政6年)生まれで藤九郎の隣村の農家に生まれた女性である。母は19歳の時に11歳年上の藤九郎と結婚した。父親は自分の生業の農業に否定的であった。教育熱心の父親は、長男の藤市を小学校の教師から東京の政治学校の学生、米国の大学の留学生に育てた。また長女は奈良県の女子師範学校生になった。房枝の妹は名古屋市の淑徳女学校に進学した後に渡米、アメリカの日系人と結婚した。 明地村立明地尋常小学校を出たのち、1903年(明治36年)4月に起町外三ヶ村学校組合立西北部高等小学校に入学した。4年の二学期が終わった頃に村に朝日尋常高等小学校ができたため転校した。卒業後、米国にいる兄の藤市がお金を工面し、市川は上京。三輪田高等女学校の3年の補欠試験を受けるが不合格。 1908年(明治41年)4月に女子学院に入学し、7月に郷里に戻った。帰郷すると間もなく萩原町立萩原尋常小学校(現・一宮市立萩原小学校)の代用教員の口がかかり、9月から出勤した。 1909年(明治42年)1月27日、尋常小学校準教員免許を取得。ほどなく、次姉が通っていた額田郡岡崎町(現・岡崎市六供町)の愛知県第二師範学校女子部に進むことを考えた。当時、師範学校は月謝もなく、寄宿舎の費用も無料であった。一年一着の袴と夏冬に着物一枚ずつが支給された。そして卒業後5年間、県内の小学校に勤務する権利と義務が与えられていた。独立の職業がもてるため少女たちの入学希望者が多く、第二師範学校の場合、応募者は定員約30人に対し毎年2、3倍あった。試験はむずかしいとされていたが、市川は本科1年の補欠試験に合格し、同年4月に入学。寄宿舎に入り、岡崎では3年学んだ。テニスに夢中になり、同じ六供にあった岡崎町立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)との対抗マッチでは優勝した。 1912年(明治45年)4月、西春日井郡金城村(現・名古屋市西区天神山町)に新設された愛知県女子師範学校に移る。同年7月、新校長の良妻賢母教育に反発。同級生28人と授業ストライキを実施し、28か条の要求書を提出した。 1913年(大正2年)、愛知県女子師範学校卒業。同校の第1回卒業生となる。同年4月、母校の朝日尋常高等小学校の訓導に任命される。1914年(大正3年)4月、名古屋市の第二高等小学校に転任。 1917年(大正7年)3月、病気のため退職。文化人グループで旧知の間柄だった小林橘川の紹介で、同年7月10日に名古屋新聞社(現在の中日新聞社)に入社、記者となった。十数人いた記者のうち、女性は市川だけだった。1918年(大正7年)8月、同社を退職し上京。 1919年(大正8年)に平塚らいてうらと日本初の婦人団体「新婦人協会」を設立した。女性の集会結社の自由を禁止していた治安警察法第五条の改正を求める運動を展開。 1921年(大正10年)7月、読売新聞特派員として渡米。シカゴやニューヨークで働きながら、アメリカ合衆国の婦人運動や労働運動を見学し、アリス・ポール(英語版)やキャリー・チャップマン・キャットとも面会する。 1924年(大正13年)1月、帰国。同年12月13日、「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成。男子普通選挙が成立した1925年(大正14年)には同盟会を「婦選獲得同盟」と改称し、政府・議会に婦人参政権を求める運動を続けた。1924年(大正13年)には国際労働機関(ILO)の職員となり、女性の深夜労働などの実態調査を行った(1927年(昭和2年)辞職)。 1930年(昭和5年)に「第1回婦選大会」を開催。同年に婦人参政権(公民権)付与の法案が衆議院で可決されるが、貴族院の反対で実現に至らなかった。他にも母子保護や、生活防衛などを目的とした様々な運動に関わった。東京婦人会館の評議員を務めるのは1937年(昭和12年)前後である。 市川は国策(戦争遂行)への協力姿勢をみせることで、婦人の政治的権利獲得を目指す方針をとり評論活動を行った。1940年(昭和15年)に婦選獲得同盟を解消し「婦人時局研究会」へ統合。1942年(昭和17年)に婦人団体が大日本婦人会へ統合。大政翼賛会を中心とした翼賛体制に組み込まれ、市川は大日本言論報国会理事に就任。 1943年(昭和18年)12月、東京都南多摩郡川口村(現・八王子市)で講演。 1944年(昭和19年)6月、市川は疎開に踏み切った。講演を通じて縁ができた川口村の村長に「大事な書籍や資料を疎開させたい」と打診したところ、お大尽と言われていた地元の出征軍人が二間の離れと蔵を貸してくれることとなった。真下ミサオとともに移り住み、休日の日曜日は、大家から借りた30坪ほどの土地を開墾して、野菜を育てた。土地は家から4キロほど離れていたうえに、もともとは林だった。女手だけで木を倒し、根っこを掘り起すところから始め、木や根っこは燃料にするため、縄につけて手で引っ張って運んだ。 1945年(昭和20年)8月15日、東京で焼け残った部屋を貸してもらう交渉をしていた長田幹彦の家で、市川は玉音放送を聞いた。同月18日まで東京に滞在。婦人解放の相談のため友人を訪ね歩いた。同年8月25日には久布白落実、山高しげり、赤松常子らと共に「戦後対策婦人委員会」を組織し、引き続き政府や各政党に婦人参政権を要求した。同年10月10日に、市川とも交流があった内務大臣の堀切善次郎が、幣原内閣の初閣議で婦人参政権の実現を提案し、同内閣は普通選挙法の改正を決定。 11月3日には戦後初の婦人団体「新日本婦人同盟」を結成し会長に就任。12月17日には衆議院議員選挙法改正で婦人参政権(男女普通選挙)が実現した。 1946年(昭和21年)4月10日に行われた第22回衆議院議員総選挙では39人の女性議員が誕生した。市川は自ら立候補せず、また有権者名簿の登録漏れのため投票もできなかったが、総選挙を機に、女性たちが主体的に政治に参画していくための啓発と教育が必要と考え、同年12月、渋谷区代々木に「婦選会館」を立ち上げた。 1947年(昭和22年)3月24日、戦時中に大日本報国言論会理事であったとの理由により公職追放を受ける。市川は公職追放になった最初の女性だった。 1950年(昭和25年)10月13日、公職追放解除。同年11月9日には新日本婦人同盟の臨時総会において、団体の名称が「日本婦人有権者同盟」と改称され、市川が会長に復帰。 1951年(昭和26年)11月2日、「公娼制度復活反対協議会」を結成し、売春禁止運動を起こす。 同年12月19日、平塚らいてう、上代たのらと「再軍備反対婦人委員会」を結成。 1953年(昭和28年)3月23日、日本婦人有権者同盟会長を辞任。同年4月24日に行われた第3回参議院議員通常選挙に東京都選挙区(改選数4)から無所属で立候補し初当選した。 組織に頼らず個人的な支援者が手弁当で選挙運動を行う選挙スタイルを生涯変えず、「理想選挙」とまで言われた。市川は自らの選挙手法を他の候補者にも広めようとしてさまざまな選挙浄化運動に参加した。国会内では政党に属さず、無所属議員の集合体である第二院クラブに所属して活動を行った。石原莞爾を「高潔な人格者」「立派な軍人だと思います」と高く評価したり、1963年(昭和38年)結成の「麻薬追放国土浄化同盟」に加入し、右翼の大物、田中清玄や暴力団・山口組組長の田岡一雄、オールド・ライトの小説家、山岡荘八に協力したりもした。 1954年(昭和29年)7月1日、婦人問題研究所から専門誌『婦人界展望』を発刊。 1962年(昭和37年)10月2日、渋谷区代々木につくった婦選会館は「財団法人婦選会館」となり、婦人問題研究所と統合した。『婦人界展望』も編集方針を一部変更し、1963年1月号から誌名を『婦人展望』に変えた。 1965年(昭和40年)7月、第7回参議院議員選挙で3期目の当選を果たす。 同年10月15日、「国民参政75周年・普通選挙40周年・婦人参政20周年記念式典」が日本武道館で開かれた。天皇皇后が出席し、約6千人が参加したこの式典で、10名に対し特別顕彰があった。婦人参政に功績があった者として、市川、久布白落実、奥むめおが表彰された(山川菊栄も選ばれていたが、山川は辞退した)。同日夕方、総理府賞勲局から市川に「勲章を授与したいが受けてくれるかどうか」と問い合わせがあった。市川は1963年(昭和38年)の閣議決定による勲章制度復活に反対の立場であり、「民主主義の今日、人間に等級をつけるなどとはとんでもないことだ」と考えていたため、即座に辞退すると答えた。その後、新聞記者を通じて、賞勲局が言っていた勲章は勲二等瑞宝章であったことが伝えられた。 1967年(昭和42年)2月25日、東京都知事選挙で社共統一候補の美濃部亮吉を応援するため、日本婦人有権者同盟会長の辞意を表明。2月28日付で辞職した。美濃部の選挙母体の「明るい革新都政をつくる会」の代表委員を務めた。 1968年(昭和43年)、「国際連合に日本人女性を送り出したい」と考え、当時、国際基督教大学講師を務めていた国際政治学者の緒方貞子に白羽の矢を立ててその年の国際連合総会日本代表団に加わるように緒方を説得して了承させた。これが契機となり緒方は国際連合の仕事に関わるようになった。 1971年(昭和46年)7月の第9回参議院議員選挙の東京都選挙区(改選数4)で、自民党は候補者を元警視総監の原文兵衛ひとりに絞った。民社党はニュースキャスターとして知名度の高かった木島則夫を擁立。その結果、市川は6番目の得票数で落選した。 1972年(昭和47年)の沖縄返還密約問題に対しては、「情を通じ」という発表のみを重視し、日本社会党の土井たか子、佐々木静子、田中寿美子らとともに「蓮見さん問題を考える会」を結成した。 1974年(昭和49年)2月、「理想選挙推進市民の会」が参院選・東京都選挙区に向けて擁立した紀平悌子の推薦会が結成された。市川は大渡順二とともに同推薦会の代表者に就任した。青年組織「草の根運動で理想選挙を闘うグループ」はならばと、3月9日、市川を全国区から立候補させるためのパーティーを開催した。3月16日には5グループの青年代表13名の署名による申入書が市川に提出された。3月末、市川は高齢(当時81歳)を理由に辞退し、青年らに紀平の運動への協力を要請した。あきらめきれない一部の者は夜だけ使用できる事務所を渋谷に設け、呼び掛けのはがきを各方面に送った。熱意にほだされた大渡は青年らの仲間に加わり、扇谷正造、丸岡秀子、秋山ちえ子らと「市川房枝さんを勝手に推せんする青年グループ」をつくり、5月25日から29日にかけて、全国区立候補に必要な供託金60万円を集めるための一口1000円を募る趣意書を約850通発送した。5月28日夜、市川はついに全国区立候補を受諾し、翌29日、記者会見を開き正式に出馬表明した。即日、参院選に向けた組織「市川房枝さんを推薦する会」が結成された。代表者には菅直人、田上等、朝倉剛一の3人が就いた。菅は選挙事務長も務めた。 同年7月7日、第10回参議院議員通常選挙が執行され、市川は通算4期目の当選を果たした。東京都選挙区から立候補した紀平は7番目の得票数で落選した。 同年、三宅一生は、自らデザインした服を市川に贈った。ベージュと茶、黒を織り込んだロング丈のニットジャケットと黒いシャツを着た市川の姿は『アサヒグラフ』10月11日号の表紙を飾り話題となった(撮影は篠山紀信)。 1975年(昭和50年)11月22日、日本の女性団体、計41団体が共立講堂に集まり、「国際婦人年日本大会」を開催。市川はその実行委員長を務めた。同年12月1日には「国際婦人年日本大会の決議を実現するための連絡会」(現・国際婦人年連絡会)が結成され、こちらも市川が委員長を務めた。 社会問題化していた旧統一教会への反対運動にも協力し、1978年(昭和53年)に発足した「原理運動を憂慮する会」の呼びかけ人に名を連ねた。 1978年(昭和53年)春の叙勲にあたり、勲二等宝冠章授与を打診されたが、辞退した。 1979年(昭和54年)、市川は雑誌『クロワッサン』の読者の好きな「女の顔」の1位に選ばれ、7月10日発売号の表紙を飾った(86歳の写真と大正時代の写真の2枚)。2位の山口百恵の倍以上の得票を得て1位となった市川は「化粧は一度もしたことがないですねえ。風呂上り、肌がパサパサするので、クリームをつけるぐらいが化粧と言えば化粧ですか」と語った。 1980年(昭和55年)6月の第12回参議院議員通常選挙(衆参同日選挙)で、87歳の高齢にもかかわらず全国区でトップ当選を果たした。 議員在職中の1981年(昭和56年)1月16日、胸の苦しみを訴えて、東京都渋谷区の日本赤十字社医療センターに入院し療養していたが、同年2月11日7時13分、心筋梗塞のため、死去した。87歳没。墓所は冨士霊園。死去の2日後の2月13日、参議院本会議では市川へ議長から弔詞と永年在職議員表彰が行われ、その後、哀悼演説が同年2月27日の参議院本会議で、石本茂により行われた。また、同年に出身地愛知県尾西市の名誉市民となった(尾西市が一宮市と合併後は、一宮市での名誉市民となっている)。 1981年(昭和56年)、ドキュメンタリー映画『八十七歳の青春 -市川房枝生涯を語る-』(監督・脚本:村山英治)が公開される。 1983年(昭和58年)11月15日、婦選会館の増改築竣工式が行われた。建物2階には「市川房枝記念展示室」が設置された。また同日、財団法人婦選会館は「財団法人市川房枝記念会」に改称した。 2000年(平成12年)に朝日新聞社が実施した、西暦1000年から1999年までの日本史の人物を対象にした「あなたが一番好きな政治リーダー」の読者投票において230票を獲得して9位にランクインされ、女性として唯一トップ10入りした。 2009年(平成21年)、「財団法人市川房枝記念会」は「財団法人市川房枝記念会女性と政治センター」に改称。2013年(平成25年)4月1日に「公益財団法人市川房枝記念会女性と政治センター」に移行した。 日本婦人有権者同盟の活動は、参議院議員となった紀平悌子に受け継がれたが、会員の高齢化や減少に伴い2016年4月に解散した。 現在、国立国会図書館には、市川が1978年(昭和53年)に語った「政治談話録音」が収録されている。7時間に及ぶ長いもので、30年後の2008年(平成20年)に公開されるはずであったが、市川房枝記念会等の要望により期限前に公開された。現在、国立国会図書館にて、テープの視聴、および、テープから文字起こしをした「談話速記録」の閲覧、複写が可能である。 菅直人 田上等 河西信美 紀平悌子 『戦時婦人読本』昭和書房、1943年。 NCID BN05932827。 婦人問題研究所 編『婦人界の動向』文松堂出版、1944年。 NCID BN05948463。
大日本教育會 編『婦人公民教育問題』4号、印刷局〈公民教養叢書〉、1946年。 NCID BA32697998。 『新しき政治と婦人の課題』1号、印刷局〈公民叢書 / 社會教育聯合會編纂〉、1946年。 NCID BA6468255X。 『婦選運動回顧』第1集、婦人問題研究所〈婦人問題研究所パンフレット〉、1955年。 NCID BA63983029。 『全日本婦人議員大会議事録 : 婦人参政十周年記念』婦人参政十周年記念行事実行委員会残務整理委員会、1956年。 NCID BA66087193。 『婦人参政十周年記念行事実行委員会記録 : 附婦人参政関係資料』婦人参政十周年記念行事実行委員会残務整理委員会、1959年。 NCID BA91171768。 理想選挙普及会 編『37・7・1の参議院議員選挙の費用と37年の政党等の政治資金と会社の政治献金 : 市川房枝調査』理想選挙普及会、1965年。 NCID BB22486213。 『私の婦人運動』秋元書房、1972年。 NCID BN00604332。 『私の政治小論』秋元書房、1972年。 NCID BN01208330。 『市川房枝自伝 戦前編(明治26年5月-昭和20年8月)』新宿書房、1974年。 NCID BN01741011。 再版1995年10月 『私の言いたいこと : 政治とくらしを考える』52号、ポプラ社〈ポプラ・ブックス〉、1976年。 NCID BN05865402。 『政治』 2巻、ドメス出版〈日本婦人問題資料集成〉、1977年。 NCID BN00620827。 『人権』 1巻、ドメス出版〈日本婦人問題資料集成〉、1978年。 NCID BN00873505。 『だいこんの花』1号、新宿書房〈市川房枝随想集〉、1979年。 NCID BN02226575。 『ストップ・ザ・汚職議員! : 市民運動の記録』新宿書房、1980年。 NCID BN04806725。 『野中の一本杉』2号、新宿書房〈市川房枝随想集〉、1981年。 NCID BN02226611。 『市川房枝の国会全発言集 : 参議院会議録より採録』市川房枝記念会出版部、1992年。 NCID BN08130479。 『私の國会報告』(復刻)市川房枝記念会出版部、1992年。 NCID BN08129946。 パンフレット「私の國会報告」 (昭和28年–昭和56年刊) の復刻版 『婦選 : 婦選獲得同盟機関誌』松尾尊兊; 兒玉勝子(解説)(復刻版)、不二出版、1992年。 NCID BN09295714。 『市川房枝 私の履歴書ほか』「人間の記録」日本図書センター、1999年2月。新装復刊
『市川房枝集』日本図書センター、1994年。 NCID BN11714161。 鈴木安蔵、家永三郎、暉峻衆三、飯田清悦郎、樋口恵子、冠地俊生、内山正熊、松浦総三 ほか『占領と再生』 1巻、汐文社〈昭和の戦後史〉、1976年。 NCID BN01703690。 児玉勝子『婦人参政権運動小史』ドメス出版、1981年。 NCID BN00472989。 HKW(制作・著作)『市川房枝と婦人参政権のあゆみ』大阪府男女共同参画推進財団〈Women pioneers 女性先駆者たち 3〉、2011年。 NCID BB06375754。
^ 明地村→朝日村→尾西市。 ^ 生家跡地は一宮市明地にある。 ^ 愛知県第二師範学校女子部の1年上級に、劇作家の永井愛の祖母の永井志津がいた。市川は志津に「自分はいつか、全国女教員の読む雑誌を出したい」と語った。永井愛は市川と祖母の交流や市川の授業ストライト事件などを題材にして1997年に戯曲『見よ、飛行機の高く飛べるを』を発表した。 ^ 大日本言論報国会は、1942年(昭和17年)に内閣情報局の指導により結成。日本文学報国会(同年に同じく内閣情報局の指導のもと設立)が数多くの文学者を網羅的に参加させたのに対し、この大日本言論報国会は戦争に協力的と見られる評論家ばかりを情報局職員立会いのもとで会員に選んだ。 ^ 真下ミサオは富山県出身の農家の娘で、16歳のときに村役場に勤める長兄のすすめで市川の家に住み込みで働くこととなった。1942年6月のことだった。1949年8月20日、市川の養女となり、姓が真下から市川に変わった。 ^ 市川に対する公職追放の是非については、GHQのネイピア(Jack Priestly Napier)は、「男女平等の世の中では義務も罰則も平等だ」と述べたという。 ^ 橋爪大三郎は「市川房枝と青島幸男は『金のかからない選挙が理想でそれは可能』という幻想をつくった」とし、「市川・青島に金のかからない選挙が可能だったのは二人が有名人だから」であり「二人は誰も真似の出来ないやり方が正しいと主張していたわけで、これは制度提案になっていない」と批判している。 ^ 参議院議員選挙は、第3回から第12回にわたり当選5回。それぞれ東京地方区で2位(第3回・第5回)、同4位(第7回)、全国区で2位(第10回)と1位(第12回)の票を得た。 ^ 当時の模様は、市川を支援した有吉佐和子の著書『複合汚染』に紹介されている。 ^ 原本の誌名『女性展望』、同出版者は婦選獲得同盟。第14巻からの標題は「婦選 : 婦選獲得同盟機関誌 : 原本誌名『女性展望』」。第1巻の付録は「婦選獲得同盟会報」第1号~第21号・ほか1 (大正14年4月~昭和9年12月・昭和15年8月)。 ^ 『婦選獲得同盟』 - コトバンク ^ “市川房枝 | 近代日本人の肖像”. 国立国会図書館. 2024年2月8日閲覧。 ^ 『日本婦人有権者同盟』 - コトバンク ^ “市川房枝の生家跡地”. ハロ~いちのみや (2013年7月23日). 2015年2月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月19日閲覧。 ^ 『市川房枝集 別巻』, p. 125. ^ 『私の履歴書 第13集』 1961, p. 39. ^ ポルトレ 2015, pp. 20. ^ ポルトレ 2015, pp. 21. ^ 『市川房枝集 別巻』, p. 110. ^ 『私の履歴書 第13集』 1961, pp. 42–45. ^ 『市川房枝自伝 戦前編』, p. 14. ^ 『市川房枝集 別巻』, pp. 111–112. ^ 『市川房枝自伝 戦前編』, pp. 15–21. ^ 伊藤康子. “愛知の草創期女性新聞記者 ―市川房枝を中心に―”. 愛知県史研究. 2024年2月10日閲覧。 ^ “見よ、飛行機の高く飛べるを”. 旭川市民劇場. 2024年2月12日閲覧。 ^ 『私の履歴書 第13集』 1961, pp. 46–47. ^ 『愛知教育大学史』愛知教育大学、1975年3月20日、849頁。 ^ “学校案内”. 愛知県立名古屋西高等学校. 2024年2月12日閲覧。 ^ 『岡崎・西尾の昭和』樹林舎、2011年12月7日、70頁。 ^ 『私の履歴書 第13集』 1961, p. 48. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、120頁。 ^ 『市川房枝集 別巻』, p. 113. ^ “市川房枝ってどんな人なの?”. 公益財団法人 市川房枝記念会 女性と政治センター. 2021年8月26日閲覧。 ^ 『私の履歴書 第13集』 1961, p. 87. ^ 松本郁子 2018, p. 3. ^ 林茂 1974, pp. 352–353. ^ 伊藤康子 2019, pp. 186–188. ^ 野村浩子 2023, pp. 179–180. ^ 野村浩子 2023, pp. 176–177. ^ 『市川房枝集 別巻』, p. 121. ^ 井上直子. “「オンライン版 市川房枝資料 1905-1946」解題”. オンライン版 市川房枝資料 1905-1946. ジャパン デジタル アーカイブズ センター. 2024年2月26日閲覧。 ^ 『私の履歴書 第13集』 1961, p. 112. ^ “執務提要”. 男女共同参画局. 2021年8月26日閲覧。 ^ 児玉勝子 1985, pp. 147–150. ^ “市川房枝記念会 女性と政治センター”. 静岡県男女共同参画センター あざれあ. 2024年2月8日閲覧。 ^ 『市川房枝集 別巻』, p. 119. ^ 増田弘 2001. ^ 進藤久美子 2011, pp. 41. ^ 進藤久美子 2012, pp. 1–45. ^ 橋爪大三郎, pp. 172–173. ^ 『市川房枝集 別巻』, p. 122. ^ 『月刊婦人展望』1963年1月号、財団法人婦選会館出版部、1頁。 ^ 公益財団法人市川房枝記念会女性と政治センター 定款(2017年6月29日改正)。 ^ “『女性展望』総目次データベース”. 公益財団法人市川房枝記念会女性と政治センター. 2024年5月29日閲覧。 ^ 「生存者叙勲の開始について」、1963年(昭和38年)7月12日閣議決定、国立国会図書館。 ^ 『覚書・戦後の市川房枝』, pp. 202–203. ^ 『日本婦人有権者同盟年表 参政権と歩んだ40年』 1985, p. 103. ^ 『日本婦人有権者同盟年表 参政権と歩んだ40年』 1985, pp. 108–112. ^ 大内要三 (2012年11月22日). “美濃部革新都政への道をふりかえる”. 2023年9月26日閲覧。 ^ 松田博. “統一戦線論の再構築が急務 清水慎三氏没後20年、胎動する新たな動き”. 現代の理論. 2023年9月26日閲覧。 ^ “第1回(1994年度)読売国際協力賞 緒方貞子 国連民高等弁務官”. 読売新聞 (1994年9月30日). 2014年5月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月19日閲覧。 ^ 『月刊婦人展望』1974年6月号、財団法人婦選会館、12-13頁。 ^ 市川房枝「七月の参院選挙に対する私の立場」 『月刊婦人展望』1977年6月号、財団法人婦選会館、15頁。 ^ “総理 菅直人氏の横顔”. 日本経済新聞 (2010年9月18日). 2024年5月14日閲覧。 ^ “婦人運動の先駆者・市川房枝”. ハロ~いちのみや (2013年7月21日). 2017年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月19日閲覧。 ^ 野村浩子 2023, pp. 5–8. ^ “掲載”. 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田辺哲夫 上田耕一郎 浜四津敏子 上田耕一郎 森田健作 小野清子 小川敏夫 浜四津敏子 井上美代 中村敦夫 中川雅治 小川敏夫 蓮舫 澤雄二 蓮舫 竹谷とし子 中川雅治 小川敏夫 松田公太 蓮舫 中川雅治 竹谷とし子 山添拓 朝日健太郎 小川敏夫 朝日健太郎 竹谷とし子 山添拓 蓮舫↓ 生稲晃子 山本太郎 黒川武雄 市川房枝 岡田宗司 石井桂 柏原ヤス 市川房枝 鮎川金次郎↓ 黒川武雄 野坂参三↑ 野坂参三 北条浩 木村禧八郎 市川房枝 原文兵衛 黒柳明 木島則夫 野坂参三 原文兵衛 黒柳明 木島則夫 柿澤弘治 野末陳平 原文兵衛 黒柳明 内藤功 田英夫 原文兵衛 野末陳平 黒柳明 魚住裕一郎 保坂三蔵 緒方靖夫 田英夫 保坂三蔵 山口那津男 鈴木寛 緒方靖夫 大河原雅子 山口那津男 鈴木寛 丸川珠代 川田龍平 丸川珠代 山口那津男 吉良佳子 山本太郎 武見敬三 丸川珠代↓ 山口那津男 吉良佳子 塩村文夏 音喜多駿↓ 武見敬三 表 話 編 歴 星一↓ 柳川宗左衛門† 早川慎一 松本治一郎† 高橋龍太郎 田中耕太郎↓ 梅原真隆 佐々木良作 山本勇造 尾崎行輝 堀越儀郎 柏木庫治 伊藤保平 西園寺公一 岡部常 膳桂之助† 西田天香 赤松常子 岩間正男 徳川宗敬 和田博雄↓ 鈴木清一 広瀬与兵衛 宮城タマヨ 大野幸一 楠見義男 東浦庄治↓ 奥むめお 原虎一 高瀬荘太郎 木下辰雄 金子洋文 青山正一 高良とみ 河崎なつ 岡田宗司 木内キヤウ 大隈信幸↓ 慶松勝左衛門† 稲垣平太郎 水橋藤作 高田寛 兼岩伝一 中村正雄 鈴木直人↓ 荒井八郎↓ 岡村文四郎 鬼丸義斎 井上なつゑ 小泉秀吉 岡本愛祐 川上嘉 中山寿彦 中川以良 丹羽五郎 羽仁五郎 寺尾豊 下条康麿 河野正夫 佐々弘雄↓ 重宗雄三 宿谷栄一 市来乙彦 安部定 大西十寸男↓ 藤井新一 水久保甚作 鎌田逸郎 中野重治 安達良助 堀真琴 松野喜内 木村禧八郎 寺尾博 穂積真六郎 矢野酉雄 藤井丙午 飯田精太郎 小川友三↓ 小野光洋 塚本重蔵 松井道夫 吉松喬† 星野芳樹 北條秀一 三島通陽 小林勝馬 中西功↓ 来馬琢道 新谷寅三郎 松嶋喜作 内村清次 大山安 浅岡信夫 江熊哲翁 松村真一郎 伊東隆治 細川嘉六 小杉イ子 仲子隆 国井淳一↑ 山川良一 高木正夫 加藤正人 杉山昌作 岩沢忠恭 加藤シヅエ 泉山三六 荒木正三郎 大谷瑩潤 長島銀蔵 菊川孝夫 三浦辰雄 常岡一郎 野田卯一↓ 高橋道男 瀧井治三郎 岡田信次 一松定吉 野溝勝 内村清次 平井太郎 藤原道子 栗山良夫 溝口三郎 石川清一 愛知揆一↓ 上条愛一 小笠原二三男 松原一彦 小酒井義男 片柳真吉 宮本邦彦 重宗雄三 堀木鎌三 高田なほ子 羽仁五郎 松本昇↓ 大矢半次郎 石川栄一 矢嶋三義 小野義夫 小林政夫 鈴木文四郎↓ 白波瀬米吉 小林孝平 田中一 須藤五郎 木村禧八郎 細川嘉六† 森八三一 中山寿彦 小川久義 鈴木恭一↓ 椿繁夫 山花秀雄↓ 寺尾豊 加藤シヅエ 加藤正人 高田なほ子 中村正雄 下条康麿 藤原道子 竹中恒夫 柴田栄 重宗雄三 天坊裕彦 鈴木強 占部秀男 野溝勝 北村暢 田中一 杉山昌作 迫水久常 栗山良夫↓ 松村秀逸 泉山三六 大谷藤之助 岩沢忠恭 辻武寿 小笠原二三男 手島栄 平林剛 小野義夫↓ 勝俣稔 阿部竹松 塩見俊二 一松定吉 小酒井義男 大谷瑩潤 荒木正三郎 本多市郎↓ 矢嶋三義 石黒忠篤↓ 常岡一郎 岩間正男 横川正市 谷口弥三郎 大竹平八郎 小林孝平↓ 北条雋八 江藤智 森八三一 堀木鎌三 光村甚助 稲浦鹿蔵 内村清次 柴谷要 小西英雄† 上条愛一↑ 中上川アキ↓ 加藤シヅエ 長谷川仁 迫水久常 源田実 浅井亨 山崎斉 丸茂重貞 北条雋八 鈴木一弘 山下春江 大谷藤之助 渋谷邦彦 二宮文造 小林武 岩間正男 鈴木市蔵 稲浦鹿蔵 森八三一 野知浩之 天坊裕彦 小西英雄↓ 林塩 田中一 重宗雄三 辻武寿 野々山一三 中村順造 藤原道子 鬼木勝利 北村暢 高山恒雄 鈴木強 占部秀男 江藤智 日高広為 横川正市 小酒井義男 野溝勝 豊田雅孝 竹中恒夫 向井長年 手島栄↓ 中村正雄 川野三暁 大竹平八郎 柴谷要 森田たま 光村甚助 松村秀逸↓ 阿部竹松↑ 山高しげり↑ 石原慎太郎↓ 青島幸男 上田哲 今春聴 重宗雄三 長谷川仁 大松博文 三木忠雄 小林国司 二宮文造 田渕哲也 鈴木一弘 上林繁次郎 小笠原貞子 塩出啓典 岩間正男 永野鎮雄 峯山昭範 森八三一 沢田実 加藤シヅエ 小林武 内田善利 向井長年 山田勇 松本英一 藤原房雄 渡辺武 中村正雄↓ 上田稔 若林正武 玉置猛夫 迫水久常 源田実 鈴木強 大竹平八郎 長田裕二 和田静夫 藤原道子 田口長治郎 大谷藤之助 江藤智 亀井善彰 長屋茂 山下春江 田中一 安永英雄 阿具根登 高山恒雄 横川正市 北村暢 宮田輝 市川房枝 青島幸男 鳩山威一郎 山東昭子 斎藤栄三郎 丸茂重貞 小林国司 目黒今朝次郎 田渕哲也 三木忠雄 秦豊 糸山英太郎 鈴木一弘 峯山昭範 片山甚市 佐藤信二↓ 和田静夫 二宮文造 内田善利 山中郁子 案納勝 岡田広 江藤智 迫水久常↓ 阿具根登 藤原房雄 太田淳夫 長田裕二 松本英一 坂野重信 野田哲 向井長年↓ 大谷藤之助 内藤功 福間知之 源田実 立木洋 塩出啓典 柄谷道一 粕谷照美 安永英雄 上林繁次郎 神谷信之助 和田春生↓ 大鷹淑子 神田博↓ 下村泰 渡辺武 小巻敏雄 森下泰 岩間正男 上田稔 近藤忠孝 市川房枝 青島幸男 鳩山威一郎 宮田輝 中山千夏 山東昭子 大鷹淑子 岡部三郎 美濃部亮吉↓ 大河原太一郎 田渕哲也 田沢智治 斎藤栄三郎 村上正邦 長田裕二 岡田広 井上孝 関口恵造 板垣正 源田実 山中郁子 福間知之 丸茂重貞↓ 梶原清 目黒今朝次郎 鈴木一弘 松浦功 田中正巳 峯山昭範 坂野重信 片山甚市 大川清幸 野田哲 江藤智↓ 鈴木和美 二宮文造 阿具根登 太田淳夫 塩出啓典 藤原房雄↓ 鶴岡洋 松本英一 近藤忠孝 中野鉄造 柄谷道一 伊藤郁男 立木洋 粕谷照美 和田静夫↓ 秦豊↑ 宇垣一成↓ 加賀山之雄 横川信夫↓ 鹿島守之助 上林忠次 三浦義男↓ 松本治一郎 木島虎蔵 白井勇 高良とみ 重政庸徳 津島壽一 鮎川義介 横山フク 梶原茂嘉 八木幸吉 永岡光治 鶴見祐輔 青木一男 吉田萬次↓ 早川慎一 西岡ハル 豊田雅孝 雨森常夫 久保等 森田義衛 小沢久太郎 赤松常子 前田久吉 山口重彦 岡三郎 奥むめお 藤田進 土田國太郎 高橋衛 阿具根登 野本品吉 林了↓ 岸良一 苫米地義三 大和与一 高野一夫 高瀬荘太郎 中山寿彦↓ 榊原亨 宮城タマヨ 青山正一 大倉精一†↑ 関根久蔵†↑ 大谷贇雄†↑ 八木秀次†↑ 柏木庫治†↑ 楠見義男† 平林剛↑ 米田正文 鹿島守之助 辻政信 前田久吉 石田次男 金丸冨夫 奥むめお 重政庸徳 天埜良吉 大倉精一 石谷憲男 赤松常子 加賀山之雄 中尾辰義 小平芳平 野上元 木村禧八郎 鮎川義介↓ 原島宏治↓ 下村定 北畠教真 松本治一郎 植垣弥一郎 梶原茂嘉 上林忠次 牛田寛↓ 山本伊三郎 岡三郎 青木一男 鹿島俊雄 鶴園哲夫 大谷贇雄 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2024/11/20 10:30更新
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