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ウェイン=グレツキーの情報 (WayneDouglasGretzky)
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【6月24日】今日誕生日の芸能人・有名人

ウェイン=グレツキーの情報(WayneDouglasGretzky) アイスホッケー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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ウェイン=グレツキーさんについて調べます

■名前・氏名
ウェイン=グレツキー
(読み:Wayne Douglas Gretzky)
■職業
アイスホッケー
■ウェイン=グレツキーの誕生日・生年月日
1961年1月26日 (年齢63歳)
丑年(うし年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和36年)1961年生まれの人の年齢早見表

ウェイン=グレツキーと同じ1961年生まれの有名人・芸能人

ウェイン=グレツキーと同じ1月26日生まれの有名人・芸能人

ウェイン=グレツキーと同じ出身地の人


ウェイン=グレツキーの情報まとめ

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ウェイン=グレツキー(Wayne Douglas Gretzky)さんの誕生日は1961年1月26日です。

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代表歴、詳細情報などについてまとめました。引退、父親、母親に関する情報もありますね。ウェイン=グレツキーの現在の年齢は63歳のようです。

ウェイン=グレツキーのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

ウェイン・グレツキー(Wayne Gretzky、1961年1月26日 - )は、カナダ連邦オンタリオ州ブラントフォード生れの元プロアイスホッケー選手。ポジションはセンター。ショットは左利き。オーダー・オブ・カナダ受賞者。現役引退後はNHLフェニックス・コヨーテズの共同経営者兼ヘッドコーチを務める。

多くのホッケーファンから、アイスホッケーの神様、史上最も優れたホッケー選手と称されている。愛称は"ザ・グレート・ワン"("The Great One")。

弟のブレント・グレツキーもNHLで13試合に出場した。また別の弟のキース・グレツキーはNHLでの出場はないもののバッファロー・セイバーズからドラフトで指名を受けている。

父親ウォルターの指導もあって幼少時からアイスホッケーにおける卓越した才能を開花させ、6歳の時にはもう10歳の選手に混じって活躍するほどであった。また10歳の時に、85試合378ゴールの記録を残しており、当時の『トロントテレグラム』紙(後の『トロント・サン』)にはグレツキーを紹介する記事が掲載された。14歳で、20歳の選手とともにプレーしたのち、キャリアアップのために故郷のブラントフォードを後にした。この頃初めて代理人との契約を行った。

16歳の1年間はジュニア選手を対象とするオンタリオホッケーリーグ所属のスーセントマリー・グレイハウンド(Sault Ste. Marie Greyhounds)で活躍した。この頃から、グレツキーは背番号99を着用し始めた(この背番号99は、後にNHL全チームの永久欠番となる)。ちなみに、この当時グレツキーは憧れのゴーディ・ハウにあやかって9番を望んだのだが、既にチームの同僚がつけていたのでコーチのムッツ・マクファーソンの勧めもあり99番に落ちついたとされる。

1978-1979シーズン、ワールド・ホッケー・アソシエーション(WHA)の数チームが当時17歳でNHLとの契約対象外だった(NHLは20歳以上)グレツキーの獲得を表明し、争奪戦の末インディアナポリス・レイサーズ (Indianapolis Racers)と契約しプロ生活をスタート。デビュー4戦目となる1978年10月20日の対エドモントン・オイラーズ戦で初ゴールを決め、出場8試合で3ゴールと順調なスタート切ったが、当時深刻な財政難に陥っていたレイサーズはグレツキーの放出を決意(その後レイサーズは12月12日に25試合を消化したところで存続を断念)。

1978年11月2日にグレツキー他2選手の契約はオイラーズのオーナー、 ピーター・ポクリントンが買い取った。オイラーズで72試合に出場、2チーム合計で46ゴール、64アシストと活躍し、WHAの最後の新人王となった。

1978-1979シーズン終了後にWHAは閉鎖、オイラーズを含む4チームがNHLに加入した(他はケベック・ノルディクス、ウィニペグ・ジェッツ及びハートフォード・ホエーラーズ)。

1979-1980シーズン、グレツキーは異例の18歳でNHLデビューを飾る。このシーズンでハート記念賞(リーグ最優秀選手賞)を受賞(以後8年連続)。加えて最多ポイント記録137をマーセル・ディオンと分かちあった。なお、アート・ロス記念賞(リーグ最多スコアラー賞)は、ゴール数の多かったディオンが受賞したが、グレツキーの出場試合数はディオンのそれよりも少なかった。グレツキーは、前年にプロ経験があったためカルダー記念賞(NHL最優秀新人賞)の受賞は逸した(なお、後にルール改正がされ、ティーム・セラニは前年にプロ経験があるにもかかわらず、年間76ゴールによりこの賞を受けることができた。)。

2年目には、当時のシーズン最多ポイント記録164を打ちたて、アート・ロス記念賞(レギュラーシーズン得点王、以後7年連続)を受賞、また、2年連続でハート記念賞に輝く。当時のオイラーズは、フォワードにマーク・メシエ、グレン・アンダーソン、ヤリ・クリ、ディフェンスにポール・コフィー、ゴーリー(キーパー)にグラント・フューアら若い有力選手を擁し、これらの選手をグレツキーがキャプテンとして統率していた。

1983年にはスタンレー・カップ決勝に進出したが、4回の優勝経験を持つニューヨーク・アイランダーズの前に惜敗した。スタジアムの構造上敗退したチームは勝利チームの控室の横を通って帰路につかなければならず、この際どんちゃん騒ぎしているであろうアイランダーズを目にするのであろうと思ってこの上ない屈辱を感じたという。しかし実際に目撃したのはボロボロになり静まり返っていたが、どこか満足そうなアイランダーズの面々であり、このことから勝利には大きな犠牲が伴うことを学び、翌シーズンで絶対にスタンレーカップを手にすることを誓ったという。

1984年に両チームは再び決勝で合いまみえたが、今度はオイラーズが勝利しその後4年間で3度の優勝の先鞭をつけた。

NHL所属2年目だけでも、ボビー・オアが持っていた年間最多アシスト記録、フィル・エスポジトの年間最多ポイント記録を突破した。1981年にはホッケーで最も重要視される50試合50ゴールの記録を更新した(従来は、"ロケット"・リシャール (1944-1945) とマイク・ボッシー(1980-1981)が達成している。)。この記録は、1981年12月30日にエドモントンのシーズン39戦目、対フィラデルフィア・フライヤーズ戦において達成された(グレツキーは同試合で5ゴールを上げ、試合は7対5でエドモントンの勝利)。

1982年2月24日には、対バッファロー・セイバーズでチームの勝利(6対3)に貢献する4ゴールを上げ、フィル・エスポジトの持つシーズン最多ゴール76の記録を更新。結局このシーズンにおいて80試合92ゴール、212ポイントの記録を残した。

さらに1985-1986シーズンには自己の持つ最多ポイント記録を215に塗り替えるとともに、年間最多アシスト163の新記録(以下「記録」ないし「新記録」はグレツキーの達成時点。)を打ち立てた。

1988年8月9日にチームメイトのマーティ・マクソーリー (Marty McSorley) 、マイク・クルシェルニスキ(Mike Krushelnyski)らとともに、ロサンゼルス・キングスに移籍した。移籍の見返りは、選手として ジミー・カーソン (Jimmy Carson) 、マルタン・ジェリナ (Martin Gelinas) 、金銭(1500万ドル)並びにキングスの1989、1991、1993三ヵ年のドラフトにおける第1順目の選択権であった。このトレードの情報が伝わると、カナダ国民の多くが憤慨したため、ある議員が政府に対しこれを止めさせるように働きかけを行ったり、オイラーズのオーナーであるポクリントン (Pocklington)の人形が公衆の面前で焼かれるなどの騒動があった。カナダ国内にはグレツキー自身を「裏切り者」とみなすものが増え、このトレード以降国内におけるグレツキー人気が凋落したとする見方もある。

カナダでの反応に対して、ロサンゼルスでは従来はアイスホッケーに関心を持たなかったファン層の掘り起こしにつながり、初年度の観客動員数を著しく増加させた。当時ロサンゼルス・キングスがホーム試合を開催したグレート・ウェスタン・フォーラムでは、プレーオフまでの各試合でチケットの売り切れが頻繁に起こった。かつてグレツキーが所属した強豪チームと比べるとキングスは弱小と目されたチームであったが、グレツキーは新生キングスをリンクの内外に渡って統率し、スタンレー・カップにおいて前年度覇者の古巣オイラーズに対し、1勝3敗の逆境から挽回して見事4勝3敗の優勝という衝撃的な大番狂わせを演じた。グレツキーの南カリフォルニアへの登場は「NHLの版図」を塗り替えたと評価する向きも多い。カリフォルニアには、3つのNHLチームが所在することとなった。

1993年のスタンリー・カップ決勝進出でピークを迎えた。シリーズ初戦に勝利した後は、モントリオール・カナディアンズに4連敗を喫した。チームは継続的に選手やコーチを入れ替えたが、1998年まで再びプレーオフ進出すら果せず、長期低迷が続いた。

1996年2月27日に、パトリス・ターディフ (Patrice Tardif) 、ロマン・ボパット (Roman Vopat) 、クレイグ・ジョンソン(Craig Johnson)の3選手及びドラフトの選択権とのトレードでセントルイス・ブルースへ移籍した。31試合(レギュラーシーズン及びプレイオフも含む)に出場し37得点を挙げ、地区の決勝において延長戦に突入した試合もあったが、大方の期待に反してチームや点取り屋のブレット・ハルとプレーの反りがあわなかった。

1996年7月21日にフリーエージェントとしてニューヨーク・レンジャースに移籍した。

レンジャースで3年間プレーし、1997年の地区決勝進出に貢献した後、現役生活を引退した。NHL公式戦における最終出場戦は、1999年4月16日にカナダで行われた。また、引退試合は同年4月18日対ピッツバーグ・ペンギンズ戦で、この試合は延長戦に突入したが2対1で負けに終わった。この試合で歌われたカナダ国歌はグレツキーの旅立ちを惜しんで、O Canada, we stand on guard for theeの箇所はWe're going to miss you Wayne Gretzky(ウェイン・グレツキーがいなくなると寂しくなるなあ)と替え歌された。また、アメリカ合衆国国歌もthe land of the freeの部分がthe land of Wayne Gretzkyと替え歌された。また、16日、18日の両試合における第1位から第3位までのスター選手賞すべてがグレツキーに与えられた(注)。

(注)プロホッケーの場合、試合終了後にその試合のベストプレーヤー3人を選出し賞が与えられることがある。

2003年、グレツキーはエドモントン・オイラーズのNHL加入25周年記念を祝うため、リンク上に姿を見せた。「ヘリテイジ・クラシック(Heritage Classic)」と名付けられたこの試合はNHL史上初の野外試合であるが、先立って行われたエキシビジョン試合(対モントリオール・カナディアンズ)において、グレツキーは他のオイラーズOBとともに出場した。後にこの試合の模様はDVD化されている。

代表歴

グレツキーは、日本の長野市で開催された1998年冬季オリンピックに出場している。カナダチームに対する期待は高かったものの、マリオ・ルミュー(1987年カナダ・カップにおいてグレツキーと絶妙のコンビを発揮)やその他有力選手の怪我による欠場があり、カナダはフィンランドに敗れて4位に終わった。この結果については、コーチの守備選手の選択ミスやシュート・アウトにおいてゴーリーのドミニク・ハシェックに対してグレツキーを登場させなかったことに帰着せしめようとする声もある。

ユタ州ソルトレイクシティで開催された2002年冬季オリンピックでは、グレツキーはカナダホッケーチームの総監督を務めた。2002年2月18日の記者会見では、報道陣の前でカナダ人の代表チームに対する反応や支援の少なさにいらいらして、これを激しく非難する発言を行った。これについては、彼は選手のプレッシャーを払いのけるために、単に前コーチのグレン・セイサー(Glen Sather)の書いた文書を借用しただけだとの観測もある。 この大会でカナダは、アメリカ合衆国を破って金メダルを獲得した。エドモントン・ウォータールー・マーキュリーズ以来実に50年ぶりの金メダル獲得であった。

なお、2005年の世界アイスホッケー選手権大会の監督を依頼されたが、母親が癌を患っており、母親の健康状態を理由に断っている。公式には監督ではないものの決定に対して諮問される立場にあった。この大会でカナダは、銀メダルを獲得した。

2010年バンクーバーオリンピックの開会式にて、聖火最終ランナーとして登場した。開会式を生中継していたNHKのアナウンサー武田真一は「グレート・ワン」の表現で紹介した。

詳細情報

通算成績

    レギュラー シーズン   プレイオフ
シーズン チーム リーグ GP G A Pts PIM GP G A Pts PIM
1976-77 ピーターボロ・ペッツ OHA 3 0 3 3 0 -- -- -- -- --
1977-78 スーセントマリー・グレイハウンズ OHA 64 70 112 182 14 -- -- -- -- --
1978-79 インディアナポリス・レイサーズ WHA 8 3 3 6 0 -- -- -- -- --
1978-79 エドモントン・オイラーズ WHA 72 43 61 104 19 13 10 10 20 2
1979-80 エドモントン・オイラーズ NHL 79 51 86 137 21 3 2 1 3 0
1980-81 エドモントン・オイラーズ NHL 80 55 109 164 28 9 7 14 21 4
1981-82 エドモントン・オイラーズ NHL 80 92 120 212 26 5 5 7 12 8
1982-83 エドモントン・オイラーズ NHL 80 71 125 196 59 16 12 26 38 4
1983-84 エドモントン・オイラーズ NHL 74 87 118 205 39 19 13 22 35 12
1984-85 エドモントン・オイラーズ NHL 80 73 135 208 52 18 17 30 47 4
1985-86 エドモントン・オイラーズ NHL 80 52 163 215 46 10 8 11 19 2
1986-87 エドモントン・オイラーズ NHL 79 62 121 183 28 21 5 29 34 6
1987-88 エドモントン・オイラーズ NHL 64 40 109 149 24 19 12 31 43 16
1988-89 ロサンゼルス・キングス NHL 78 54 114 168 26 11 5 17 22 0
1989-90 ロサンゼルス・キングス NHL 73 40 102 142 42 7 3 7 10 0
1990-91 ロサンゼルス・キングス NHL 78 41 122 163 16 12 4 11 15 2
1991-92 ロサンゼルス・キングス NHL 74 31 90 121 34 6 2 5 7 2
1992-93 ロサンゼルス・キングス NHL 45 16 49 65 6 24 15 25 40 4
1993-94 ロサンゼルス・キングス NHL 81 38 92 130 20 -- -- -- -- --
1994-95 ロサンゼルス・キングス NHL 48 11 37 48 6 -- -- -- -- --
1995-96 ロサンゼルス・キングス NHL 62 15 66 81 32 -- -- -- -- --
1995-96 セントルイス・ブルース NHL 18 8 13 21 2 13 2 14 16 0
1996-97 ニューヨーク・レンジャース NHL 82 25 72 97 28 15 10 10 20 2
1997-98 ニューヨーク・レンジャース NHL 82 23 67 90 28 -- -- -- -- --
1998-99 ニューヨーク・レンジャース NHL 70 9 53 62 14 -- -- -- -- --
20 Years 合計 NHL 1487 894 1963 2857 596 208 122 260 382 68

記録及び受賞歴等

グレツキーは、1999年4月18日の引退時点で61個のNHL記録を保持していた(内訳は、レギュラーシーズン40、プレーオフ15、オールスター戦6)。

一シーズンにおける記録としては、ゴール数 (92)、アシスト数 (163) 及びポイント数 (215)、点取り屋の試金石とされる50試合50ゴールの最短到達記録(39試合目)などを持つ。また、プレイオフ通算記録としては、ゴール数 (122)、アシスト数 (260) 及びポイント数 (382) も持つ。さらに、レギュラーシーズン通算では、ゴール数 (894)、アシスト数 (1963) 及びポイント数 (2857) を記録している。彼の生涯アシスト数だけをもってしても、NHLの最多獲得ポイント選手となることができたであろう。

ハート記念賞を9度(うち8度は1980年から1987年まで連続)受賞している。ちなみに、グレツキーは北米地区におけるプロスポーツ界で最優秀選手賞を最も多く受賞した選手である。また、アート・ロス記念賞(リーグ最多スコアラー)を10度(うち7度は1981年から1987年まで連続)、コーン・スマイス賞を2度、レスター・B・ピアソン賞(選手が選ぶ優秀選手賞)を5度、レディ・ビング記念賞(フェアプレー)を5度それぞれ受賞している。

また、オールスター戦における最優秀選手賞も3度獲得している(最多受賞タイ記録)。オールスター戦においては、ファーストチームのセンターを8度、セカンドチームのセンターを7度務める栄誉を与えられており、これらの合計回数及びオールスター出場回数 (18) は、ゴーディ・ハウ及びレイ・ボークに次ぐ。

1982年、グレツキーはホッケー選手、そしてカナダ人としては初めてAP社主催の年間最優秀男性運動選手 (Associated Press Male Athlete of the Year) に選出された。また、同年雑誌『スポーツ・イラストレーテッド』からは、スポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞。1990年には、AP社から10年間の最優秀男性運動選手 (Male Athlete of the Decade) に選ばれた。

1984年6月25日には、エドモントン・オイラーズ時代におけるアイスホッケーに対する顕著な貢献を称えられ、カナダ最高の勲章であるオーダー・オブ・カナダを受章した。ただし、授章式典はNHLのシーズン期間中に行われる慣例であるため、実際に受勲するのはこの13年7ヵ月後となった(この間カナダ総督は2人も交代していた)。

1999年11月22日に、3年間の待機期間を待たずして特例でホッケーの殿堂入りを果す。このときNHLは、この特例が適用される選手はおそらく今後は登場しないであろうとの声明を発表した。また、この殿堂入りの日に至るまでの彼の心情を綴った日誌はカナダ中の新聞に共同配信された。さらに彼のユニフォームの背番号99番を全NHLチームの永久欠番とすることも同時に発表された。

1999年には、ESPN が選出する「20世紀最高の運動選手」の第5位に名を連ねた。このとき、グレツキーの上位に選ばれたのは、マイケル・ジョーダン、ベーブ・ルース、モハメド・アリ、ジム・ブラウンであった。

驚異的な記録・事実

年間50ゴールを上げた最年少選手

マーセル・ディオンの現役時代の年間最多ポイントは137であるが、グレツキーはNHL参加初年度でこの記録に並び、その後10シーズンに渡ってこれを下回ることがなかった。(1991-1992シーズンには及ばず121)

当時はルーキーとはみなされなかったが、参加初年度で一試合8ポイント及び7アシストを上げたのは新記録。

ボビー・オアはNHL 史上最高のプレーヤーの一人に数えることができるが、グレツキーは2年目にボビーの持つ年間アシスト記録102を上回る109を樹立し、その後1991-1992シーズンに至るまで102を下回ることがなかった。

シーズン2年目にはスーパースターと称されたフィル・エスポジトの持つ年間最多ポイント152を破る164を記録。さらにNHLの近代化以降、一試合平均2ポイントを記録した史上初の選手である。

シーズン3年目には当時破るのが不可能と考えられていた記録の数々、すなわち39試合で50ゴール、エスポジトの持つ年間76ゴール、年間200ポイントの大台などをことごとく突破した。(このシーズンは、212ポイント、92ゴール、120アシストの成績)

212ポイントを上げた前年と比較して4年目の1982-1983シーズンは、196ポイントに終わったが、それでも125アシストの新記録を樹立した。

グレツキーは、唯一の年間200ポイントを達成した選手であるが、彼は、この記録を1981-1982シーズンから1985-1986シーズンの5年間に4度達成している。

5年目の1983-1984シーズンは、51試合連続ポイントを記録。この間、61ゴール、92アシスト、153ポイントを上げ、これは実に一試合平均すれば3ポイントに当たる。なおこの期間のほとんどを肩を脱臼した状態で出場していたことは驚嘆に値する。この記録が途絶えた後は、肩の治療のため6試合休場している。

50試合以下での50ゴール到達を現役時に3度記録。(なおブレット・ハル (Brett Hull) は2度達成)

シーズンを通じ一試合平均2アシストを達成したのは、1985-1986シーズンのグレツキーのみ。この期間80試合で163アシスト(一試合平均2以上のアシスト)を行いながら、かつ自ら52ゴールも上げた。

1989年は、ゴーディ・ハウのもつ現役最多ポイントの記録(26年間で1850ポイント)をわずか10年間で更新。グレツキーは10年間に渡って年間平均180ポイント以上を上げ続けた。この平均ポイントは、マリオ・ルミュー (Mario Lemieux) を除き他の選手の年間自己ベストを上回る。(ルミューの自己ベストは199ポイント)

仮にグレツキーの上げたすべてのゴールを除外したとしても、最多スコアラーとしてアート・ロス記念賞を4度も獲得できただろうし、現役最多ポイントをも獲得できたであろう。というのも、彼の1963アシスト記録は、ゴーディ・ハウの1850ポイントやマーク・メシエの1887ポイントをも上回るからである。

2024/06/23 01:53更新

Wayne Douglas Gretzky


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瀬口 かな(せぐち かな、1991年9月16日 - )は、日本の女性ライバー、元アイドル。本名 瀬口佳奈。福岡県出身。フリーランス。愛称はせぐうぇい。 出身校は福岡女学院中学校・高等学校。 中学…

上田 麗奈(うえだ れいな)
1月17日生まれの有名人 富山出身

上田 麗奈(うえだ れいな、1994年1月17日 - )は、日本の女性声優、歌手。富山県富山市出身。81プロデュース所属。 小学校時代に演劇クラブに入って以降、高校まで演劇を続ける。特に高校時代は…

マックスウェル・パワーズ(Maxwell Powers, )
1983年12月27日生まれの有名人 出身

マックスウェル・パワーズ(Maxwell Powers, 1983年12月27日 - )は日本で活動する声優・ナレーター・タレント・司会者・ラジオパーソナリティ。 東京2020パラリンピック閉会式の司…

フランク=ウェス(Frank Wess)
1922年1月4日生まれの有名人 出身

フランク・ウェス(Frank Wess、1922年1月4日 - 2013年10月30日)は、アメリカのジャズ・サクソフォーン奏者、フルート奏者。幅広いソロ活動に加えて、ウェスは1950年代初頭から19…

デイブ=ウェックル(Dave Weckl)
1960年1月8日生まれの有名人 出身

デイヴ・ウェックル(Dave Weckl、1960年1月8日 - )は、アメリカのフュージョン・ドラマー。 ミズーリ州セントルイスに生まれる。音楽好きの両親の影響で8歳よりドラムを始める。1980…

ジェリー=ウェクスラー(Gerald “Jerry” Wexler)
1917年1月10日生まれの有名人 出身

1月10日生まれwiki情報なし(2024/06/22 09:19時点)

マーカス=バグウェル(Marcus Alexander Bagwell)
1970年1月10日生まれの有名人 出身

バフ・バグウェル(Buff Bagwell)のリングネームで知られるマーカス・バグウェル(Marcus Alexander Bagwell、1970年1月10日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー…

デービッド=ウェクスラー(David Wechsler)
1896年1月12日生まれの有名人 出身

1月12日生まれwiki情報なし(2024/06/24 03:49時点)

ウェルザード()
1979年11月2日生まれの有名人 福井出身

ウェルザード(1979年11月2日 - )は、日本の小説家・漫画家。本名は非公表。福井県大飯郡高浜町出身。代表作は『カラダ探し』、『殺戮都市』、『食人姫』、『鏡怪潜』などがある。 福井県大飯郡高浜…

フェイ=ダナウェイ(Faye Dunaway)
1941年1月14日生まれの有名人 出身

フェイ・ダナウェイ(Faye Dunaway, 1941年1月14日 - )は、アメリカ合衆国の女優。1976年公開の『ネットワーク』で、アカデミー主演女優賞を受賞した。 フロリダ州バスコムで陸軍…

カール=ウェザース(Carl Weathers)
1948年1月14日生まれの有名人 出身

カール・ウェザース(Carl Weathers, 1948年1月14日 - 2024年2月1日)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズ出身の俳優である。俳優になる前はフットボールの選手であった…

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