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カミッロ=カヴールの情報 (CamilloBenso,ContediCavour)
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【4月5日】今日誕生日の芸能人・有名人

カミッロ=カヴールの情報(CamilloBenso,ContediCavour) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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カミッロ=カヴールさんについて調べます

■名前・氏名
カミッロ=カヴール
(読み:Camillo Benso,Conte di Cavour)
■職業
政治家
■カミッロ=カヴールの誕生日・生年月日
1810年8月10日 (年齢1861年没)
午年(うま年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
不明

カミッロ=カヴールと同じ1810年生まれの有名人・芸能人

カミッロ=カヴールと同じ8月10日生まれの有名人・芸能人

カミッロ=カヴールと同じ出身地の人


カミッロ=カヴールの情報まとめ

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カミッロ=カヴール(Camillo Benso,Conte di Cavour)さんの誕生日は1810年8月10日です。

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卒業、事件、解散、家族、結婚、病気、兄弟、現在、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1861年に亡くなられているようです。

カミッロ=カヴールのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

カヴール・チェッラレンゴ・イゾラベッラ伯爵、カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ(通称カヴール伯爵)(イタリア語: Camillo Paolo Filippo Giulio Benso, conte di Cavour, di Cellarengo e di Isolabella, noto semplicemente come conte di Cavour o Cavour、1810年8月10日 - 1861年6月6日)は、19世紀イタリア(サルデーニャ王国)の政治家・実業家。カヴールは爵位名で、家名(姓)はベンソ(ベンソ家)である。 サルデーニャ王国首相、イタリア王国首相を歴任。

1810年8月10日に父ミケーレ・カヴール(イタリア語版)と母アデーレ・デ・セロンの第2子として、当時フランス帝国領だったピエモンテ地方のトリノで生まれた(→出生と出自)。ナポレオン1世の退位後にトリノはサルデーニャ王国の統治に戻った。カヴールはトリノ王立士官学校に入校し軍人の道を歩み始めた(→士官学校時代)。カヴールは士官学校を卒業し軍人になったが、元々軍人気質が肌に合わず、また自由主義思想を培ったことで軍隊内で危険人物として監視下に置かれたので1831年に軍を除隊した(→軍人として)。

軍の除隊後にカヴールは実業家に転身し農業ビジネスなどで成功を収めた。また新聞『イル=リソルジメント』創刊への協力などジャーナリズム事業にも関わった(→実業家として)。1848年革命の影響で国王カルロ・アルベルトがアルベルト憲章を発布し議会を設置すると、カヴールは下院議員に立候補し補欠選挙で当選した。これによってカヴールは実業家から政治家へ転身した(→カヴールの政治家への転身)。

サルデーニャ王国では1849年に新王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位し、マッシモ・ダゼーリョを首相に任命した。1850年にカヴールはダゼーリョ内閣の国務大臣に就任した(→カヴールの国務大臣就任)。民事婚法案を巡って1852年にダゼーリョは首相を辞任した。代わってカヴールが首相の座に就いた(→ダゼーリョの退陣とカヴールの首相就任)。カヴール政権前期で最大の政治的危機はカラビアーナ危機(イタリア語版)で、国内の修道院の特権廃止を巡るカトリック勢力との対立から生じたものだった。カヴールはこの難局を乗り切り、サルデーニャ王国での政教分離・世俗化が図られた(→カラビアーナ危機と第二次カヴール内閣の発足)。

1854年にクリミア戦争が勃発した。イギリス・フランスはサルデーニャ王国に参戦を要請したが、カヴールは英仏に恩を売っておくまたとない好機と捉え参戦を決定した(→クリミア戦争参戦)。

カヴールは北中部イタリアでサルデーニャ王国の版図を拡大することを目論んだ。しかしロンバルディア・ヴェネツィアは大国オーストリアの支配下にあったので、自力での版図拡大は困難だった。カヴールはフランスに接近し、自国への援助を引き出すことを目的として、1858年にフランス皇帝ナポレオン3世とプロンビエールの密約を交わした。サルデーニャ王国がオーストリアからロンバルディア・ヴェネツィアを奪取することにフランスが協力する代わりに、サルデーニャ王国領のサヴォワ・ニースをフランスに割譲することなどが定められた(→プロンビエールの密約)。

1859年にフランス・サルデーニャ連合軍はオーストリア軍と交戦した(第二次イタリア独立戦争)。しかしナポレオン3世は自軍(フランス軍)に多大な損害が出たことなどから、独断でオーストリアと和睦した(ヴィッラフランカの休戦)。サルデーニャ王国はロンバルディアを獲得したが、ヴェネツィアは獲得できなくなった。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、ナポレオン3世に従うほかなく和睦はやむを得ないと考えたが、カヴールは継戦を主張した。カヴールは和睦に抗議して首相を辞任した(→ヴィッラフランカの和約をめぐって)。しかしサルデーニャ王国で政局の混乱が発生し1860年にカヴールは首相に再登板した。この頃のカヴールの支持基盤は確たるものになっており、カヴール政権後期は「議会制独裁」と呼ばれるほどカヴール一強の様相になった(→1860年の首相再登板(第三次カヴール内閣の発足))。

もともとカヴールはイタリア全土を統一することを構想しておらず、イタリア地域で最も栄えていたロンバルディアの獲得など、北中部イタリアで勢力圏を拡大することを目的にしていた。両シチリア王国(南イタリア・シチリア)は経済的発展が立ち遅れており、併合することをカヴールは望んでいなかったが、ジュゼッペ・ガリバルディが指揮する千人隊が両シチリア王国への遠征を開始したので、やむを得ずイタリア全土の統一にカヴールは方針を転換した(→千人隊(赤シャツ隊)の遠征)。

1861年3月にイタリア王国が成立した。併合した地域出身の政治家を加えた新内閣を発足させるべくカヴールは内閣総辞職を申し出たが、カヴールと長年対立していた国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、この機会に目障りなカヴールを放逐すべく新首相にベッティーノ・リカーゾリ(イタリア語版)を任命した。しかしリカーゾリはこれを拝辞したため、国王は恥を忍んでカヴールを首相に任命した。これによりカヴールがイタリア王国初代首相になった。しかしカヴール本人の急死でその座にあったのはわずか76日だった(→イタリア王国の成立)。

晩年のカヴールは南部問題(イタリア語版)の対策とブリガンテ(イタリア語版)の取り締まりに腐心した(→南部問題の発生と対処、ブリガンテの取り締まり)。

1861年5月末にカヴールはマラリアと見られる症状を発症し、国内外の様々な問題を山積したまま、6月6日にカヴールはこの世を去った(→カヴールの死)。

1810年8月10日、父ミケーレ・カヴール(イタリア語版)と母アデーレ・デ・セロンの第2子として、当時フランス帝国領だったピエモンテ地方のトリノで生まれた。父ミケーレと親交のあったカミッロ・フィリッポ・ボルゲーゼが名付け親になり、自分の名前「カミッロ」をカヴールに与えた。ピエモンテの貴族は日常会話をフランス語で話し、フランス語が公用語に近いものだったので、カヴールはフランス語を習得し生涯母語とした。

1815年にナポレオン1世が退位して、欧州に新たな政治体制であるウィーン体制が出現した。イタリアは小さな国家が分立する状態になった。イタリア北部にサルデーニャ王国・ロンバルド=ヴェネト王国、中部にローマ教皇領・パルマ・エ・ピアチェンツァ公国・モデナ=レッジョ公国・トスカーナ大公国、南部に両シチリア王国が存在した。オーストリア宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒは、「イタリアという語は地理的名称に過ぎない」と語った。ロンバルド=ヴェネト王国はオーストリア皇帝が国王を兼ねていたので、オーストリア領であるのと同じことだった。

カヴールの生まれ故郷のトリノは、サルデーニャ王国の領土に戻った。サルデーニャ王国は、サルデーニャ島・ピエモンテ地方・リグーリア地方・サヴォア地方・ニース地方を領土とした。国名にサルデーニャを冠するが、政治・経済の中心はピエモンテで、王宮もピエモンテに置かれていた。カヴールの父ミケーレは国有化された修道院の払い下げで、レーリ(イタリア語版)の農地約900ヘクタールを獲得した。ナポレオン退位後はサヴォイア家に接近を図り、自家が落ちぶれるのを防いだ。

父ミケーレ・カヴール(イタリア語版)
父ミケーレ・カヴール(イタリア語版)

母アデーレ・デ・セロン。
母アデーレ・デ・セロン。

カヴールの生家であるカヴール宮殿(イタリア語版)
カヴールの生家であるカヴール宮殿(イタリア語版)

ピエモンテ貴族の次男・三男は軍人(将軍)か聖職者の道に進むのが普通だったが、カヴールは軍人になる道を選んだ。カヴールは1821年に10歳でトリノ王立士官学校(イタリア語版)に入校した。カヴールは1826年に士官学校の最終試験を受けたが、非常に優秀な成績だった。築城法・戦術戦略学・一般建築学・歴史学などの科目は満点だったという。

カヴールは士官学校時代に摂政カルロ・アルベルトの近習を務めるという光栄に浴した。しかしカヴールは近習の務めを果たさなければならないことに不満であり、士官学校を卒業するときに「これでやっと近習の制服を着ることから解放される」と不満を吐露した。カヴールが失言したことはカルロ・アルベルトの元にも伝わり、カルロ・アルベルトの怒りを買った。カヴールが近習を務めるのはカヴールの親族らも望んだことだったが、カヴールが40代のころ親族との集まりで「あなたたちは何故私にこんな近習の制服を着させようとしたんですか。とても恥ずかしくて仕方なかった。」と言っている(近習の制服は真っ赤で派手だった)。

カヴールは士官学校を卒業すると工兵になる道を選択し、1826年9月に工兵隊中尉に任官された。カヴールは城塞の建築や補修の任務にあたった。カヴールは任務の合間を、政治・経済・歴史に関する書物の読書の時間に充てた。カヴールはイギリスで発展を見せた経済学に強い関心を持つようになった。

ちなみにこの頃のイタリアには、革新勢力として自由主義者のグループと共和主義者(民主主義者)のグループが存在した。民衆の権利の拡充を主張するという点では共通していたが、共和主義者のグループの方がより急進的で人民主権や君主制の廃止などを主張し、自由主義者のグループは財産などを基準にした制限選挙によって完全な人民主権をなすべきでないと考えていた。共和主義者のグループの盟主はジュゼッペ・マッツィーニでマッツィーニ主義者とも呼ばれた。

自由主義思想を培ったカヴールは、危険思想の持ち主として軍隊内で監視されるようになった。カヴールは元々、組織行動や規律の順守といった軍人気質が肌に合わなかったこともあって、カヴールはこれ以上軍隊に留まり続けることを嫌い、軍を除隊する決意を固めた。カヴールは親族らにこのことを打ち明け、父には「私は監視され、仲間は疑いの目で私を見ています。私は軍隊に留まることはできません。私は農業に関わることができるでしょうし、管理能力もあると思います。」「無為な生活や思索だけの生活を送ることはありません」と現状の問題と今後の展望を書簡で述べた。カヴールは軍に除隊を申し出て1831年11月にサルデーニャ軍を除隊した。カヴールは当時21歳だった。カヴールを嫌っていたカルロ・アルベルト(1831年に国王に即位)はカヴールへの嫌がらせとして、今後、退役軍人として式典に出席する機会があったとしても工兵隊の軍服を着用して出席することを認めないとした。ちなみに除隊したときのカヴールの最終階級は中尉だった。

軍を除隊したカヴールは自力で生計を立てることが困難だったので親族らと同居した。兄グスターヴォ・カヴール(イタリア語版)の長男アウグスト(1828年生まれ)は無邪気にカヴールに絡んできたが、カヴールは幼児との接し方が分からず苛立っていた。

軍を除隊してからのカヴールは酷い抑うつ状態に陥っていた。当時のサルデーニャ王国を覆っていた保守反動的風潮も自由主義者カヴールの感性と精神状態に悪影響を与えたと言われる。一説によれば、カヴールはトリノのカプチーニの丘(イタリア語版)から投身自殺を試みようとしたがヴァレリアーノ修道士という人物によって引き留められたという。軍を除隊して落胆するカヴールを立ち直らせようと、父ミケーレ・カヴール(イタリア語版)は自分の政治力を使って、小さな村(グリンツァーネ)の村長の地位を息子に与えた。グリンツァーネにはカヴール家所有の城と農場があった。この小村でカヴールは農場経営に関わるようになった。カヴールは「王国の首相になったような気分だ」と語った。カヴールは村長の地位を1848年まで保持していた。

共和主義者ジュゼッペ・マッツィーニは、イタリアの統一と共和国樹立を目指して活動し、1833年にマッツィーニら青年イタリアのメンバーがイタリアの革命を試みて周辺国からサヴォア地方へ攻め込む事件が発生した。国王カルロ・アルベルトは容赦なく弾圧し、マッツィーニには欠席裁判で死刑判決が下った。ジュゼッペ・ガリバルディもこの企てに関与したとの嫌疑が掛けられて同じく死刑判決が下った。マッツィーニとガリバルディは外国へ逃れて死刑を免れた。ガリバルディは南米へ渡った。この時期カヴールは、ロンバルド=ヴェネト王国統治下のロンバルディアを訪れることを考えていたが、このような政情不安定の情勢だったのでカヴールの希望するロンバルディア訪問はオーストリア当局が許可しなかった。カヴールは祖国の軍隊のみならずオーストリア当局にも危険思想の持ち主としてマークされていた。

カヴールは1834年12月から5歳年上の友人ピエトロ・ディ・サンタローザ(イタリア語版)とイギリス・フランスへの遊学に出かけた。まずパリに2か月ほど滞在し、パリの視察や、ソルボンヌ大学での聴講、知識人や政治家との交流を行っている。

続いて1835年5月にロンドンを訪れた。ロンドンでも同じく街の各地を視察した。またカヴールは議会下院を傍聴した。カヴールはイギリスの議会政治を評価していたが、居眠りしている議員がいることや、私語をしている議員がいることには失望感を覚えた。

帰国後のカヴールは実業家として頭角を現した。後述の農業事業や鉄道事業のほか銀行の設立にも関与した。カヴールの多角的な事業はいずれも成功し「イタリア最初の成功した実業家」と考える識者もいる。

カヴールは農業関係の事業を開始し、自家の保有する約900ヘクタールのレーリ(イタリア語版)農場に資本主義的大規模農場経営を導入して成功を収めた。レーリ(イタリア語版)農場の小麦の収穫量はカヴールの経営で38%増加した。カヴールはレーリ農場でグアノを大量に使用して生産性を向上させたが、チリ産のそれの輸入・販売事業も手掛けこちらも成功した。また化学肥料工場や麦の製粉所も設置し機械化を進めた。カヴールは畜産分野にも興味をもちロバート・ベイクウェル(英語版) の成功に倣って、メリノ種の羊を品種改良して羊肉と羊毛を多く得ることのできる、体格の巨大な羊種を作り出そうと努力していた。灌漑の重要性を理解しカヴールは水路の開発も進めたが、水利権者から提訴され訴訟沙汰に発展している。

カヴールは自らレーリ(イタリア語版)農場を視察して回った。カヴールは「私は麦わら帽子をかぶって朝から晩まで農地を駆け回っていた」と書いている。カヴールはマラリアとみられる症状で死去したが、マラリアは実業家時代に農場で蚊に刺され罹患したと考えられている。

カヴールは鉄道を「文化と経済の進歩をもたらす偉大な道具」と評価した。イタリア地域の鉄道敷設は立ち遅れていたが、1844年にサルデーニャ王国は鉄道の敷設を決定しトリノとモンカリエーリを結ぶ約8キロの鉄道が開通した。カヴールは鉄道事業に関心を持ちフランスの鉄道会社に出資を行っていた。祖国でも民間主導での鉄道敷設をカヴールは期待していたが、サルデーニャ王国は鉄道建設を国家主導で行った。カヴールは、祖国では枕木やレールなどの鉄道建設資材の供給事業を手掛けた。

鉄道は軍事的用途にも使用され、のちの第二次イタリア独立戦争では、サルデーニャ軍とフランス軍は開通したばかりの鉄道路線を使ってロンバルディアに出陣した。

実業家として羽振りが良くなったカヴールは株取引やギャンブルにのめり込んだ。カヴールはトランプゲームを愛好し、サルデーニャ王国ホイスト協会(イタリア語版)を設立した。ホイスト協会はサルデーニャ王国の社交の場になった。しかしカヴールは賭け事に弱かったらしく財産を失い、資産管理を任されていた親族の財産にまで手を出す(勝手に使い込む)という散々な結果に終わった。

サルデーニャ王カルロ・アルベルトは貴族・ブルジョアらの要請を受けて、1847年に出版の自由を大幅に認めた。左右を問わず多くの政治勢力が新聞事業に参画した。カヴールは穏健自由主義者のチェザーレ・バルボに接触し新聞刊行に協力した。バルボは新聞『イル=リソルジメント』を創刊した。カヴールは新聞創刊の目的を「新聞を通して自由主義思想を広めるため」と語った。しかしこの新聞は大変高価なもので、一般大衆が気軽に購読できるような代物ではなかった。

1848年は、1848年革命と呼ばれる革命運動が欧州各国で発生した。カヴールは『イル=リソルジメント』紙上で「国王陛下は立憲制を確立するため憲法を発布すべき」と主張した

国王カルロ・アルベルトは王制の転覆を恐れ、1848年3月4日に欽定憲法であるアルベルト憲章(イタリア語版)を発布した。カルロ・アルベルトは「憲法」でなく「憲章」という語を使用したが、フランス革命で革命派が「憲法」を制定したことで「憲法」という語には反君主制という負のイメージが付きまとっていたことによる。アルベルト憲章で一番注目されるのは、議会が設置され代議制が確立したことである。議会は二院制で上院議員は国王が任命権を持つが、下院議員は公選制度によって選出されることになった。しかし納税額に基づいて選挙権が与えられる制限選挙で普通選挙ではなかった。選挙権が与えられたのはサルデーニャ王国の全人口480万人のうち約1.7%にあたる8万人に過ぎなかった。

オーストリアでは革命運動で宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒが退陣に追い込まれた。オーストリアの支配下にあったヴェネツィアとミラノにも波及し、ミラノではミラノの5日間と呼ばれる民衆反乱が発生し、ヴェネツィアでは自由主義者のダニエーレ・マニンを長とする臨時政府が樹立された。ミラノの自由主義者らはサルデーニャ国王のカルロ・アルベルトに介入を要請した。カルロ・アルベルトは自由主義者らを懐柔したいという思惑もあって、これに応える形で同年3月23日にオーストリアに宣戦布告を行った(第一次イタリア独立戦争(イタリア語版、フランス語版、英語版))。なお国王カルロ・アルベルトは、これまでの伝統的な王国の国策を踏襲したにすぎずイタリア全土を統一することは考えていなかった。オーストリアが支配するロンバルディア地方はイタリア有数の経済力のある地域だったので、サルデーニャ王国はロンバルディア地方へ版図拡大を図ることを国策にしていた。

サルデーニャ軍の戦局は不利に進み、難局を上手く乗り切ることができずサルデーニャの首相はコロコロと交代した。サルデーニャ軍はミラノを放棄したため、ヨーゼフ・ラデツキーが指揮するオーストリア軍は1848年8月6日にミラノに入城した。8月9日にサルデーニャ王国はオーストリアと休戦協定を結んだ。

サルデーニャ王国では共和主義者らが勢力を伸長した。国王カルロ・アルベルトは君主制維持のためには王国の威信を図る必要があると考え、先の休戦協定は国辱的であったとして再度オーストリアと戦うことを決断し、1849年3月20日に開戦した。しかしサルデーニャ軍は開戦からわずか3日後の3月23日にノヴァーラの戦いで惨敗し、権威を失墜したカルロ・アルベルトは同日に退位しポルトガルへ亡命した。ちなみにヴェネツィアのダニエーレ・マニンを長とする臨時政府も同年8月にオーストリア軍に滅ぼされている。ラデツキー行進曲は第一次イタリア独立戦争でのラデツキーの功績を称えて作曲された曲としてよく知られている。

カヴールは、開戦時には『イル=リソルジメント』紙上で「サルデーニャ王国の最高の時が鳴り響いた。唯一の道が民族に開かれた。」と好意的な姿勢を見せていたが、1848年5月30日に甥アウグスト(カヴールの兄の長男)がゴイートの戦い(イタリア語版)で20歳の若さで戦死するとカヴールは精神的衝撃を受けた。8月の休戦協定のときには無計画に継戦を主張する勢力など大衆に対する怒りをあらわにし「ピエモンテの貴族(甥アウグスト)が戦死しているのに、道端やカフェで貴族を誹謗中傷している」「我が国の軍事的・政治的敗北に唖然としている。もう一行も書く力が残っていない。我々はなんという誤りを犯したことか(友人宛ての書簡)」とカヴールは述べた。1849年3月の戦争再開はカヴールには狂気の沙汰としか思えなかった。

1848年の革命で教皇領にローマ共和国が成立した。ローマ教皇ピウス9世は両シチリア王国のガエータに亡命し、 首相ペッレグリーノ・ロッシは暗殺された。共和国議会はジュゼッペ・マッツィーニを招請し、マッツィーニもそれに応えてローマに駆け付けた。マッツィーニには独裁的な権限が与えられた。

フランス大統領ルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)は、国内のカトリック保守派の歓心を買うため、1849年4月にフランス軍をローマ共和国に差し向け、滅ぼそうとした。南米で優れた用兵術を身に付けたジュゼッペ・ガリバルディが指揮する軍勢は、1849年4月30日にローマ大学の戦い(イタリア語版)(ジャニコロ丘の戦い)でフランス軍を破り、敗走させた。ガリバルディはフランス軍の追撃を主張したが、マッツィーニはそれを認めなかった。フランス軍は体制を立て直し、再び攻撃を仕掛け、ローマ共和国を滅ぼした。マッツィーニやガリバルディらは外国に逃れた。

フランス軍によって秩序を回復したローマに教皇が帰還した。この一件からローマには教皇の守護のためフランス軍が駐屯するようになり、イタリア統一の足かせになった。

カルロ・アルベルトが統治していた1848年の4月に、サルデーニャ王国初の下院選挙が行われた。カヴールはこの選挙に立候補したが落選した。しかし2か月後に補欠選挙があり、そちらでは当選を果たし国政へ進出した。フランス語を母語としていたカヴールは、議会演説や行政文書の作成は全てフランス語で行った。

カルロ・アルベルトの子、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(今後注釈なき限り「国王」と記載)が新国王に即位した。国王はカヴールより10歳年下で、1849年の即位時に29歳だった。国王は軍人気質の人物で絶対王政を志向しアルベルト憲章(イタリア語版)を破棄したいと考えていた。歴史家のロザリオ・ロメーオ(イタリア語版)によれば、国王のパーソナリティーは「粗野でうぬぼれが強く、あまり教育を受けていないが、政治的直観と陰謀に長けている」人物だったという。

国王は自らオーストリアのヨーゼフ・ラデツキーと交渉して休戦協定に署名した。国王はラデツキーに、現状の問題は父王が共和主義者(民主主義者)らと安易に手を組んだ結果引き起こされたもので、「父王は愚か者だ」と語ったという。この休戦協定に不満を持つ共和主義者らは継戦を求める騒擾事件を起こしたが、ラ・マルモラが指揮する軍を差し向けこれを鎮圧した。

Camillo Benso,Conte di Cavour


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1842年2月26日生まれの有名人 出身

ニコラ・カミーユ・フラマリオン (Nicolas Camille Flammarion、フランマリオンとも。 1842年2月26日 - 1925年6月3日)は、フランスの天文学者・天文普及家・作家。フ…


高橋 みなみ(たかはし みなみ)
【AKB48】
1991年4月8日生まれの有名人 東京出身

高橋 みなみ(たかはし みなみ、1991年〈平成3年〉4月8日 - )は、日本の女性歌手、タレント。女性アイドルグループ・AKB48の元メンバーでチームAに所属し、初代のAKB48グループ総監督を務め…

三上 遥香(みかみ はるか)
1月27日生まれの有名人 神奈川出身

三上 遥香(みかみ はるか、1月27日 - )は、日本の女性声優、歌手。81プロデュース所属。神奈川県出身。 声優になろうと思ったきっかけは母が入院していた小学1年生の時に長編アニメーション映画『と…

カミヤ 春佳(かみや はるか)
5月1日生まれの有名人 愛知出身

カミヤ 春佳(かみや はるか、5月1日 - )は、日本の女性声優。愛知県出身。 1998年頃からコミュニティ放送局で活動し、自作ラジオドラマを200作品以上放送していた。所属はウイットプロモーション…

藤沢カミヤ(ふじさわ カミヤ)
1月5日生まれの有名人 兵庫出身

藤沢 カミヤ(ふじさわ カミヤ、1月5日 - )は、日本の漫画家。兵庫県在住。 2006年以前より、コミックアンソロジーなどを執筆。2013年2月3日にCOMITIA103の会場において、講談社の『…

カミムラ晋作(カミムラ しんさく)
1月6日生まれの有名人 愛知出身

カミムラ 晋作(カミムラ しんさく、1月6日 - )は、日本の漫画家。愛知県名古屋市出身。代表作は、『E★エブリスタプレミアム』で連載していた『マジャン 〜畏村奇聞〜』。 『週刊少年チャンピオン』に…


レイ・ハラカミ(れい はらかみ)
1970年12月10日生まれの有名人 広島出身

レイ・ハラカミ(本名:原神 玲(はらかみ れい)、1970年12月10日 - 2011年7月27日)は、日本のミュージシャン。広島県広島市出身。京都芸術短期大学卒業。 楽曲はテクノ、エレクトロニカが…

アラン=カミング(Alan Cumming)
1965年1月27日生まれの有名人 出身

アラン・カミング(Alan Cumming, 1965年1月27日 - )は、スコットランド出身の俳優である。 グラスゴーで演技を学んだ後、舞台・テレビで活躍。舞台俳優・映画俳優・映画監督・脚本家・…

カミーユ=デムーラン(Camille Desmoulins)
1760年3月2日生まれの有名人 出身

リュシー・サンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーラン(仏: Lucie Simplice Camille Benoît Desmoulins、1760年3月2日 - 1794年4月5日)は、フラ…

カミヤ サキ(かみやさき)
1991年9月27日生まれの有名人 東京出身

カミヤ サキ(1991年9月27日 - )は日本の振付師。女性アイドルグループ・GANG PARADE、BiSの元メンバー。元WACK所属。現在はフリーランス。 東京都出身。 2013年5月26日、…

ケン=カミニティ(Ken Caminiti)
1963年4月21日生まれの有名人 出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート ケネス・ジーン・カミニティ(Kenneth Gene Caminiti , 1963年4月21日 - 2004年10月10日)は、アメ…


カミーユ=ラクール(Camille Lacourt)
1985年4月22日生まれの有名人 出身

4月22日生まれwiki情報なし(2025/03/31 19:18時点)

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