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ジョン=トールキンの情報 (JohnRonaldReuelTolkien)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

ジョン=トールキンの情報(JohnRonaldReuelTolkien) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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ジョン=トールキンさんについて調べます

■名前・氏名
ジョン=トールキン
(読み:John Ronald Reuel Tolkien)
■職業
作家
■ジョン=トールキンの誕生日・生年月日
1892年1月3日
辰年(たつ年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
不明

ジョン=トールキンと同じ1892年生まれの有名人・芸能人

ジョン=トールキンと同じ1月3日生まれの有名人・芸能人

ジョン=トールキンと同じ出身地の人


ジョン=トールキンの情報まとめ

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ジョン=トールキン(John Ronald Reuel Tolkien)さんの誕生日は1892年1月3日です。

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生涯、著作などについてまとめました。現在、家族、結婚、卒業、病気、引退に関する情報もありますね。

ジョン=トールキンのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

ジョン・ロナルド・ルーエル・トールキン(John Ronald Reuel Tolkien, CBE, FRSL、1892年1月3日 - 1973年9月2日)は、イギリスの文献学者、作家、詩人、イギリス陸軍軍人。『ホビットの冒険』や『指輪物語』の著者として知られる。

オックスフォード大学で学び、同大学ローリンソン・ボズワース記念アングロ・サクソン語教授(1925年 - 1945年)、同大学マートン学寮英語英文学教授(1945年 - 1959年)を歴任。文学討論グループ「インクリングズ」のメンバーで、同会所属の英文学者C・S・ルイスや詩人チャールズ・ウィリアムズ(英語版)と親交が深かった。カトリックの敬虔な信者であった。1972年3月28日エリザベス2世からCBE(大英帝国勲章コマンダー勲爵士)を受勲した。

没後、息子のクリストファは彼の残した膨大な覚え書きや未発表の草稿をまとめ、『シルマリルの物語』、『終わらざりし物語』、『中つ国の歴史(英語版)』などを出版した。これらは、生前に出版された作品とあわせ、「アルダ」や「中つ国」と呼ばれる架空の世界に関する物語、詩、歴史、言語、文学論の体系を形作っている。1951年から1955年にかけ、トールキンはこのような書き物の総体を legendarium (伝説空間、伝説体系)と呼んでいた。

小惑星(2675) Tolkienはトールキンの名前にちなんで命名された。

生涯

家系

父方の先祖のほとんどは職人であった。故地は現在のドイツのザクセン州にあたる。イギリスに渡ったのは18世紀ごろで、「迅速かつ熱心に、イギリス的に」なったという。苗字のTolkienは、ドイツ語のTollkiehn(注:tollkühnは「無鉄砲」の意)を英語化したものである。強いて語源に沿って英訳するならば、dull-keen(注:日本語では「鈍い・鋭い」)となるような語であり、あえて矛盾した語を重ねる撞着語法(oxymoron、こちらは古代ギリシア語由来で「鋭い・鈍い」の意味)の言葉である。

母方の先祖としてジョン・サフィールドおよびエディス・ジェーン・サフィールドの夫妻がおり、バーミンガムに住んでいて、市の中心に店を持ち、1812年以来はラム・ハウスと呼ばれるビルで商売をしていた。ウィリアム・サフィールドが書店と文房具屋を経営していたのである。曽祖父も前述の祖先と同じ名のジョン・サフィールドという名で、1826年から服地と靴下を商っていた。

子供時代

オレンジ自由国(現在は南アフリカ共和国の一部)のブルームフォンテーンで、イギリスの銀行支店長アーサー・ルーエル・トールキン(1857–1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド)(1870–1904)の間に生まれた。1894年2月17日生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる。

アフリカに住んでいたとき、庭でタランチュラに噛み付かれた。これは、彼の物語で後に類似したことが起こる出来事である。3歳の時母と共にイングランドに行った。当初はちょっとした親族訪問のつもりだったが、父アーサーは家族と合流する前に脳溢血で倒れてしまい、南アフリカでリューマチ熱により亡くなってしまった。家族の収入が無くなってしまったので、母は彼女の両親としばらく住むためにバーミンガムに行き、1896年には(現在はホール・グリーンにある)セアホール(英語版)に移った。ここは当時ウースターシャーの村で、現在はバーミンガムの一部である。トールキンはセアホールの水車小屋やMoseley BogやLickey Hillsの探索を楽しんだようで、この地での経験も、BromsgroveやAlcesterやAlvechurchといったウースターシャーの町や村や、おばの袋小路屋敷(英語版)(Bag End)と同様、その後の作品に影響を与えたと思われる。

母は二人の息子たちの教育に熱心で、トールキンが熱心な生徒であったことは、家族の中で知られていた。植物学に多くの時間を割き、息子に植物を見たり感じる楽しみを目覚めさせた。若きトールキンは風景と木を描くのを好んだが、好きな科目は言語関係で、母は早いうちからラテン語の基本を教えた。その結果ラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。バーミンガムのキング・エドワード校(英語版)に入学して、バッキンガム宮殿の門に掲示されたジョージ5世の戴冠式のパレードの「道順を決める」のに協力したり、学資不足のためセント・フィリップス校(英語版)に一時籍を移したりもした。

1900年、母はバプテストであった親戚の猛烈な反対を押し切ってローマ・カトリックに改宗したため、全ての財政援助は中断された。その母は1904年に糖尿病で亡くなり、トールキンは母が信仰の殉教者であったと思うようになった。この出来事はカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、信仰がいかに敬虔で深かったかということは、C・S・ルイスをキリスト教に改宗させた際にもよく現れている。しかしルイスが英国国教会を選び大いに失望することになった。

孤児となったトールキンを育てたのは、バーミンガムのエッジバーストン地区(英語版)にある、バーミンガムオラトリオ会(英語版)のフランシス・シャヴィエル・モーガン(英語版)司祭であった。トールキンはPerrott's Follyとエッジバーストン水道施設(英語版)のビクトリア風の塔の影に住むことになる。この頃の住環境は、作品に登場する様々な暗い塔のイメージの源泉となったようである。別に強い影響を与えたのは、エドワード・バーン=ジョーンズとラファエル前派のロマン主義の絵画だった。バーミンガム美術館には、大きくて世界的に有名なコレクションがあり、それを1908年頃から無料で公開していた。

青年時代

16歳のときに3歳年上のエディス・メアリ・ブラットと出会い、恋に落ちた。だがフランシス神父は、会うことも話すことも文通することも21歳になるまで禁じ、この禁止に忠実に従った。

1911年、キング・エドワード校に在学中の3人の友人のロブ・キルター・ギルソン、ジェフリー・バッチ・スミス、クリストファ・ワイズマンと共に、半ば公然の「秘密結社」である「T.C.B.S.」を結成した。これは、学校の近くのバロウズの店(英語版)や学校図書館で不法にお茶を飲むことを好むことを示す「ティー・クラブとバロヴィアン・ソサエティ」の頭文字を取った名である。学校を去った後もメンバーは連絡を保ち続け、1914年12月にロンドンのワイズマンの家で「協議会」を開いた。トールキンは、この出会いから詩を作りたいと強く思うようになる。

1911年夏、友人たちとスイスに遊びに行ったが、1968年の手紙にその生き生きとした記録が残されている。彼ら12人がインターラーケンからラウターブルンネンまでを縦走し、ミュレンの先の氷堆石まで野営しに冒険したことが、(「石と一緒に松林まで滑ることを含めて」)霧ふり山脈を越えるビルボの旅のもとになっていることを指摘している。57年後まで、ユングフラウとシルバーホルン(英語版)(「私の夢の銀枝山Silvertine(ケレブディル)」)の万年雪を見て、そこから去るときの後悔を覚えていた。彼等はクライネ・シャイデックを越えグリンデルワルトへ向かい、グレッセ・シャイデック(英語版)を過ぎてマイリンゲン(英語版)に、さらにグリムゼル峠を越え、アッパーヴァレーを通りブリーク、そして、アレッチ氷河とツェルマットに着いた。

21回目の誕生日の晩、エディスに愛を告白した手紙を書いて、自分と結婚するように彼女に頼んだが、返信には「自分を忘れてしまったと思ったので、婚約した」とあった。ふたりは鉄道陸橋の下で出会い、愛を新たにする。エディスは指輪を返し、トールキンと結婚する道を選んだ。1913年1月にバーミンガムで婚約後、エディスはトールキンの主張に従いカトリックに改宗した、1916年3月22日にイングランドのウォリックで結婚した。

1915年に優秀な成績で英語の学位を取り(エクセター学寮で学んでいた)オックスフォード大学を卒業後、第一次世界大戦時にイギリス陸軍に入隊し、少尉としてランカシャー・フュージリアーズの第11大隊に所属した。部隊は1916年にフランスに転戦し、トールキンもソンムの戦いのあいだ、同年10月27日に塹壕熱を患うまで通信士官を務め、11月8日にイギリスへと帰国した。多くの親友同然だった人々も含めて、自軍兵士たちが激戦で次々と命を落した。スタッフォードシャー、グレート・ヘイウッドで療養していた間に、「ゴンドリンの陥落」に始まる、後に『失われた物語の書』と呼ばれる作品群についての着想が芽生え始めたとされる。1917年から1918年にかけて病気が再発したが、各地の基地での本国任務が行なえるほど回復し、やがて中尉に昇進した。 ある日キングストン・アポン・ハルに配属されたとき、夫婦でルース(英語版)の近くの森に出掛け、そして、エディスは彼のためにヘムロックの花の咲いた開けた野原で踊り始めた。「私たちはヘムロックの白い花の海の中を歩いた」。この出来事から、トールキンはベレンとルーシエンの出会いの話の着想を得、彼がしばしばエディスを彼のルーシエンと呼んだ。

キャリア

第一次大戦後、退役してからの最初の仕事は、オックスフォード英語辞典の編纂作業であった。トールキンはWで始まるゲルマン系の単語の語誌や語源をおもに担当した。1920年、リーズ大学で英語学の講師の地位を得、1924年に教授となったが、1925年秋から、ペンブローク学寮(英語版)に籍を置くローリンソン・ボズワース記念アングロ・サクソン語教授(英語版)として、オックスフォードに戻った。

ペンブロークにいる間に『ホビットの冒険』と『指輪物語』の『旅の仲間』と『二つの塔』を書く。また1928年、モーティマー・ウィーラー(英語版)がグロスターシャー、Lydney Parkのアスクレペイオン(古代ローマの診療所)の発掘を行うのを助けた。学術刊行物の中では特に1936年に講演され、翌年に出版された“Beowulf: the Monsters and the Critics”は『ベーオウルフ』研究において、また広く古英語文学研究において、時代を画するほどの大きな影響を与えた。Lewis E. Nicholsonは、トールキンの『ベーオウルフ』に関する論文は「『ベーオウルフ』批評の大きな転機として広く認識された」と述べ、純粋に歴史学的要素より詩学的な本質に迫る要素を評価したことを認めている。。しかしまた、いわゆる言語学的な要素のみならず、広い意味での文献学的な研究への道を切り拓いたとも言える。事実、彼は書簡の中で『ベーオウルフ』を「『ベーオウルフ』は私の最も評価する源泉の一つである」と高く評価した。 実際に『指輪物語』には、『ベーオウルフ』からの多くの影響が見出される。これを書いた頃は、『ベーオウルフ』の中で描かれる歴史的な部族間の戦争の記録は重視する一方、子供っぽい空想に見られるような怪物との戦いの場面を軽視するのが、研究者たちの一致した見方だった。トールキンは、特定の部族の政治を超越した人間の運命を『ベーオウルフ』の作者は書こうとしたのであって、それ故に怪物の存在は詩に不可欠だったと主張した(逆に、フィンネスブルグの戦いの挿話および古英詩断片のように、『ベーオウルフ』やその他の古英詩中で部族間の特定の戦いを描くところでは、空想的な要素を読みこむことに異論を唱えた)。1940年代前半には、トールキンは『ベーオウルフ』の原型となった民話の試作『セリーチ・スペル』を執筆していたようである。

1945年にはオックスフォードのマートン学寮に籍を置くマートン記念英語英文学教授(英語版)となり、1959年に引退するまでその職位にいた。1948年に『指輪物語』を完成、最初の構想からおよそ10年間後のことであった。1950年代にはストーク=オン=トレントにある息子のジョンの家で、学寮の長い休日の多くを過ごした。イギリスの田園をむしばむと考えた、工業化の副作用を激しく嫌悪していたのである。成人後の人生の大部分のあいだ、自動車を忌み嫌い、自転車に乗るのを好んだ。この態度は『指輪物語』における、ホビット庄の無理矢理な工業化など、作品のいくつかの部分からも見て取ることができる。

妻エディスとの間には4人の子供を儲けた。神父になったジョン・フランシス・ロウエル(1917年11月16日 - 2003年1月22日)、教師になったマイケル・ヒラリー・ロウエル(1920年10月22日 - 1984年2月27日)、父の後を継いだクリストファ・ジョン・ロウエル(1924年11月21日 - 2020年1月16日)、そして長女のプリシラ・アン・ロウエル(1929年6月18日 - 2022年2月28日)である。

W・H・オーデンは『指輪物語』に熱狂し手紙を書いたことをきっかけに、しばしば文通する長年の友人となった。オーデンは、出版当初から作品を称賛した評論家の中で最も高名なひとりだった。トールキンは1971年の手紙で、

と書いた。

引退と晩年

1969年度のノーベル文学賞の候補者103人の一人にリストアップされていたことが、2020年に公開された選考資料により明らかになっている。

オックスフォードのWolvercote墓地には夫妻の墓があり、中つ国の最も有名な恋物語の一つから、「ベレン」そして「ルーシエン」の名が刻まれている。

著作

最初の文学的野心は詩人になることだったが、若い頃の第一の創作欲は架空言語の創造だった。それらは後でクウェンヤとシンダール語に発展するエルフ語の初期の形態を含んでいた。 言語がそれを話す民族を指し示し、民族が言語の様式と視点を反映する物語を明らかにすると信じて、(この名前が紛らわしいと考えるようになったのでいくらか後悔することになるが)後にエルフと呼ぶようになった伝説の妖精についての神話と物語を書き始めた(英語で書いたが、かれの創造した言語の多くの名前や用語を含んでいた)。 第一次世界大戦の間、療養中に書きはじめた『失われた物語の書』にはベレンとルーシエンの恋物語が含まれ、これらは後に長い物語詩The Lays of Beleriandとしてまとめられ、自身が完成できなかった『シルマリルの物語』にも発展して含まれることになる。トールキンが繰り返し構想を変えていったことについては、死後に刊行された『中つ国の歴史』に収められた数々の原稿に示されている。

トールキンの作品はいくつかのヨーロッパの神話伝承から多くの影響を受けている。『ベーオウルフ』に代表されるアングロサクソンの古伝承、『エッダ』、『ヴォルスンガ・サガ』をはじめとする北ゲルマン人の神話体系(北欧神話)、アイルランドやウェールズなどのケルトの神話やフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』などである。

このまじめな大人向けの作品に加えて、トールキンは自分の子供たちを喜ばせるために話を作ることを楽しみにしていた。毎年毎年、「サンタクロースからのクリスマスレター」をしたため、一続きのお話を添えた。これらの小話はのちに一冊の本にまとめられ、『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』として出版された。

だがトールキンは、自分の空想物語が一般に受け入れられるとは夢想だにしなかった。かつての教え子だった編集者のとりなしで1937年に『ホビットの冒険(The Hobbit)』と題された本を出版すると、子供向けを意図したにもかかわらず大人にも読まれ、アレン・アンド・アンウィン社が続編の執筆を要請するほどの人気を呼んだ。これがトールキンを刺激することになり、1954年から1955年にかけて、最も有名な作品となる叙事詩的小説『指輪物語(The Lord of The Rings)』が上梓された。『指輪物語』はしばしば「三部作」と表現されるが、本来は一編の物語である。現在、三部作として扱われることがあるのは、最初の出版時に編集上の都合で分冊されたのが定着したからである。このサガを書き上げるまでにほぼ10年かかったが、その間インクリングズの仲間たち、中でも『ナルニア国ものがたり』の作者で親友のC・S・ルイスは絶えず支援を続けた。『ホビットの冒険』も『指輪物語』も、『シルマリルの物語』の神話に続く物語であり、トールキンがはっきり述べていたように、ずっと後の物語である(どちらも、現在からは遥か昔のこととして書かれている)。

1960年代、『指輪物語』はアメリカの多くの学生たちの間で好評を博し、ちょっとした社会現象となった。現在でも世界中で高い人気を保っている『指輪物語』は、売上の点からも読者の評価という点からも、20世紀における最も人気の高い小説の一つとなった。英国のBBCとWaterstone's bookstore chainが行った読者の世論調査で『指輪物語』は20世紀の最も偉大な本と認められた。amazon.comの1999年の顧客の投票では、『指輪物語』は千年紀で最も偉大な本となった。2002年には、BBCの行った「最も偉大な英国人」の投票で92位に、2004年に南アフリカで行われた投票では「最も偉大な南アフリカ人」の35位になった。英国人および南アフリカ人のトップ100の両方に現われるのはトールキンだけである。その人気は英語圏だけにとどまらず、2004年には100万人を超えるドイツの人々が、『指輪物語(ドイツ題:Der Herr Der Ringe)』が広範囲の文学のうち最も好きな作品として投票した。

トールキンは当初、『指輪物語』を『ホビットの冒険』のような児童書にしようと考えていたが、書き進めるにつれ次第に難解で重々しい物語となっていった。『ホビットの冒険』と直に繋がる物語であるにもかかわらず、より充分に成熟した読者を対象とするようになり、また後に『シルマリルの物語』やその他の死後出版された書籍に見られるような膨大な中つ国の歴史を構築し、それを背景にして書き上げた。この手法と出来上がった作品群の緻密で壮大な世界観は、『指輪物語』の成功に続いて出来上がったファンタジー文学というジャンルに多大な影響を残した。

文献学のエキスパートであり、研究した言語や神話学は彼の創作にはっきりと影響を残している。『ホビットの冒険』のドワーフの名前は『エッダ』の『巫女の予言』から取られた。また例えば「龍の蓄えからカップを盗む泥棒」などという一節は『ベーオウルフ』から取られている。トールキンはベーオウルフについて誰もが認める権威で、詩についていくつかの重要な作品を出版した。かつては出版されなかったトールキンの『ベーオウルフ』の翻訳は、Michael Droutが編集した。

中つ国の物語は死の直前まで書き続けられていた。その後、息子のクリストファは、ファンタジー作家ガイ・ゲイブリエル・ケイの助力を得て、素材の幾つかを一冊の本にまとめ、1977年に『シルマリルの物語(The Silmarillion)』として出版した。クリストファはその後も中つ国創造の背景資料の刊行を意欲的に続けた(ただしその多くは未邦訳)。『中つ国の歴史』シリーズや『終わらざりし物語』のような死後に発表された作品には、トールキンが数十年もの間、神話を考察し続け、絶えず書き直し、再編集し、そうして物語を拡張し続けていた結果、未完成だったり、放棄されたり、どちらかを選ばなければならない内容や、明らかに矛盾する内容の草稿が含まれている。『シルマリルの物語』に至っては『指輪物語』との一貫性を維持するべく、クリストファは編集にかなりの労力を費やした。しかしクリストファ自身も『シルマリルの物語』には多くの矛盾が残っていると認めている。1951年の第二版で一つの章が抜本的に改訂された『ホビットの冒険』でさえ、『指輪物語』と完全に辻褄があっているわけではない。

アメリカのウィスコンシン州ミルウォーキーにあるマーケット大学(英語版)の図書館は、トールキンの手書き原稿や覚書き、及び手紙の多くを保存している。また、オックスフォードのボドリアン図書館には、『シルマリルの物語』関係の書類と学術的な資料などが残されている。その他、『指輪物語』と『ホビットの冒険』の手書き原稿および校正刷り、『農夫ジャイルズの冒険』といった多くの「マイナーな」作品の手書き原稿、ファンの作った編集作品といったものまでが、貴重な資料として巷に出回っている。

2024/06/26 16:34更新

John Ronald Reuel Tolkien


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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「ジョン=トールキン」を素材として二次利用しています。

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