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ベネディクト16世の情報 (BenedicusXVI)
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ベネディクト16世さんについて調べます

■名前・氏名
ベネディクト16世
(Benedicus XVI)
■職業
ローマ教皇
■ベネディクト16世の誕生日・生年月日
1927年4月16日
卯年(うさぎ年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
不明

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ベネディクト16世と関係のある人

マイケル=スティール: またアメリカでは少数派であるカトリック教徒としての立場も有利に働き、ジョージ・W・ブッシュ大統領からローマ法王ベネディクト16世の即位式におけるアメリカ代表団の一員に任命されている。


クリスティーナ=キルチネル: 2013年3月19日にローマ教皇ベネディクト16世の退位に伴うコンクラーヴェ(教皇選挙)でブエノスアイレス大司教のホルヘ・マリオ・ベリゴリオ枢機卿が新教皇に選出されフランシスコとして着座することが決まると、バチカンを訪問して「新教皇に謁見した最初の国家元首」となった。


クリスティアン=ティーレマン: また、ティーレマンとミュンヘン・フィルは、2005年10月4日バチカンにて行われた新ローマ教皇ベネディクト16世を祝う御前演奏会や、2006年6月7日ドイツワールドカップの開会式が挙行されたミュンヘンでのガラ・コンサートなどにも出演し演奏を披露している。


アレクサンドル=ルカシェンコ: 制裁の解除により、2009年3月26日にはローマ教皇ベネディクト16世との会談が実現した。


長克巳: 2人のローマ教皇(ベネディクト16世〈アンソニー・ホプキンス〉)


スーザン=サランドン: 同年10月には、ローマ法王ベネディクト16世が少年時代にヒトラーユーゲントに加入していたことを理由に「法王はナチだ」と発言(なおバチカンによれば、当時ドイツの少年のユーゲント加入は強制だったという)。


レオ13世: 教皇離任時の年齢は1295年以降では歴代最高齢であり、2020年に退位後のベネディクト16世が上回るまでは、1295年以降で最も長生きした教皇経験者であった。


グスターボ=ドゥダメル: 2007年には、ローマ教皇ベネディクト16世の80歳を記念する公演でのドヴォルザークの『新世界より』が、全ヨーロッパにテレビで生中継され、2008年にはベルリン国立歌劇場に『ラ・ボエーム』でデビューした。


ベネディクト16世

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ベネディクト16世(Benedicus XVI)さんの誕生日は1927年4月16日です。

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教皇就任後、辞任などについてまとめました。引退、父親、家族、テレビ、事件に関する情報もありますね。

ベネディクト16世(ベネディクト16せい、ラテン語: Benedictus XVI、出生名: Joseph Aloisius Ratzinger、1927年4月16日 - 2022年12月31日)は、2005年4月19日から2013年2月28日に辞任するまで、カトリック教会最高位の教皇であり、バチカン市国の君主であった。2005年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の死去に伴う教皇コンクラーヴェで、ベネディクトが教皇に選出された。退任後は「名誉教皇」の称号で呼ばれた。

1951年、故郷のバイエルンで司祭に叙階されたヨーゼフ・ラッツィンガーは学問の道に進み、1950年代後半には神学者として高く評価されるようになった。1958年、31歳のときに正教授に任命された。その後、ドイツの複数の大学で神学教授を務めた後、ミュンヘンとフライジングの大司教に任命され、1977年には教皇パウロ6世によって、司牧経験の少ない人物としては異例の枢機卿に叙任された。1981年、ローマ教皇庁の最も重要な部局のひとつである教理研究所の所長に任命された。2002年から教皇に選出されるまで、首席枢機卿も務めた。教皇になる前は、ヨハネ・パウロ2世の最側近として「教会の優先順位や方向性を決める上で誰にも負けない影響力」を持ち、「四半世紀にわたって聖座の舞台で活躍した重要人物」であった。教理研究所長に就任した1981年から帰天する2022年までの41年間ローマに在住した。

彼の著作は概して伝統的なカトリックの教義、価値観、典礼を擁護するものであり、多作であった。もともとはリベラルな神学者だったが、1968年以降は保守的な見解を採用した。ベネディクト16世は在位中、欧米の多くの国で進む世俗化に対抗するため、キリスト教の基本的価値観への回帰を提唱した。相対主義による客観的真理の否定、特に道徳的真理の否定を21世紀の中心的問題とみなした。そして、カトリック教会と神の贖罪の愛に対する理解の重要性を説いた。ベネディクトはまた、トリエント・ミサを昇格させるなど、多くの伝統を復活させた。カトリック教会と芸術の関係を強化し、ラテン語の使用を促進し、伝統的な法衣を再導入したことから、「美学の法王」と呼ばれるようになった。1980年代半ばから「教会における知的主体」と評されるようになった。

2013年2月11日、ベネディクトは高齢による「心身の体力不足」を理由に辞任を表明した。教皇の辞任は1415年のグレゴリウス12世以来で、教皇の自発的な辞任は1294年のケレスティヌス5世 以来であった。2013年3月13日にフランシスコに継承され、引退後はバチカン市国にある新装されたマーテル・エクレシアエ修道院に入居した。

ベネディクトは母国語のドイツ語のほか、フランス語、イタリア語、英語、スペイン語にある程度の習熟度があった。また、ポルトガル語、ラテン語、聖書ヘブライ語、聖書ギリシャ語にも通じていた。また、フランス人文院など、社会科学系のアカデミーのメンバーでもあった。ピアノを弾き、モーツァルトとバッハを好んだ。

ヨーゼフ・ラッツィンガーは1927年4月16日の聖土曜日の午前8時30分、父ヨーゼフと母マリアの次男としてドイツのバイエルン州マルクトル・アム・インで生まれた。父親は警察官であり、母は食堂の手伝いをして生計を立てていた。父ヨーゼフは1937年に退職したが、勃興してきたナチスに対して激しい嫌悪感を抱いていた。兄ゲオルク(ドイツ語版)は、後にヨーゼフと共に司祭職を志して司祭となり、ヨーゼフが教皇になった後も時折会っていたが、2020年7月1日に96歳で亡くなった。姉マリアは生涯独身で自身の身の世話をしていたが、1991年に亡くなっている。

親族によれば、ヨーゼフは小さい頃から司祭になることを夢見ていたという。しかし1939年に第二次世界大戦が勃発し、ドイツが戦争一色になると14歳でヒトラーユーゲントへ加入する。当時のドイツでは、「ヒトラーユーゲント法」によって、10歳から18歳までの青少年はヒトラーユーゲントへ加入することが義務付けられていた。1943年には学友と共に対空防衛補助活動に動員され、1944年にいったん自宅へ戻ることができたが、戦況の悪化にともなって再び動員されて歩兵としての訓練を受けた。1945年4月にドイツ降伏後のわずかな期間ウルムの捕虜収容所に収容されていたが、まもなく解放された。

戦後に兄ゲオルクと共にトラウンシュタインの聖ミカエル神学校で哲学と神学を学んだ後にミュンヘン大学でも学んだ。その後、ヨーゼフは1951年6月29日に司祭に叙階され、1953年に『聖アウグスティヌスの教会論における神の民と神の家』という論文で神学博士号を取得。さらに1957年には聖ボナヴェントゥラについての論文を著して大学教授資格を得て、フライジング哲学神学大学(ドイツ語版)に迎えられた。ヨーゼフは1959年から1963年まではボン大学で教え、ついでミュンヘン大学、テュービンゲン大学で教鞭をとった。テュービンゲンでは著名な神学者ハンス・キュングと共に教えたが、当時の大学にあふれていた学生運動や学生たちのマルクス主義への傾倒には行き過ぎを感じていた。1969年から1977年まではレーゲンスブルク大学(ドイツ語版)に所属し、1976年から副学長を務めた。この時期の教え子の一人に、後に側近となったクリストフ・シェーンボルンがいる。

第2バチカン公会議ではケルン大司教ヨーゼフ・フリングス枢機卿の神学顧問として活躍。公会議文書『キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言』の作成において貢献した。後にラッツィンガーは教理省長官として再び他宗教・思想との関係を論じた『ドミヌス・イエスス』を世に問うことになる。

1972年、ラッツィンガーはハンス・ウルス・フォン・バルタザールやアンリ・ドゥ・リュバックらと共に神学ジャーナル『コムニオ』を発刊。『コムニオ』は今では17言語で発行されるほどカトリック神学の世界において重要なものとなっている。

1977年にミュンヘン・フライジングの大司教に任命された。このとき、彼が司教職のモットーとして選んだ言葉は「ヨハネの第三の手紙」からとった「コーペラトレス・ウェリターティス」(真理の協働者)であった。同年、パウロ6世によって枢機卿にあげられたが、2005年のコンクラーヴェにおいて、パウロ6世の任命した枢機卿のうちで生存しているものは14名、80歳以下でコンクラーヴェに参加できたものはラッツィンガーを含めてわずか3人だった。

1981年11月、教皇ヨハネ・パウロ2世は、ラッツィンガーを教理省(英語版)の長官に任命した。彼は教皇位を受けるまでその地位にあった。教理省はかつて検邪聖省といわれていたもので、古くは異端審問を担当した組織である。1982年にミュンヘン大司教区を離れ、1993年に司教枢機卿になり、1998年に枢機卿団の次席枢機卿、2002年11月30日に首席枢機卿に任命された。歴代の首席枢機卿はオスティアの名義司教であることが通例であるため、同時にオスティアの司教位も受けた。カトリック教会において是認されている教義に異を唱える神学者に対して厳しく対処するなど、保守派の代表格とみなされていた。

しかし、第2バチカン公会議に背を向けるマルセル・ルフェーブル大司教などの運動には批判的であり、大司教がバチカンの許可なく司祭を叙階しようとした際には、バチカンを代表して直接面談し、「司教があくまでも分裂(シスマ)の道を進むのであれば、教会を破門されるだろう」と「改めて具体的に警告」して、伝統派を牽制した。ルフェーブル大司教は、この警告を無視して司祭を叙階して、聖ピオ十世会と称する独自組織を創設した。

ヨハネ・パウロ2世の健康状態が悪化するにつれ、教皇の側近であり実質的に教皇庁をとりしきっていたラッツィンガーは後継教皇の最有力候補とみなされるようになった。教皇就任前の2005年4月初頭には『タイム』誌の「世界でもっとも影響力のある100人」の一人に選ばれている。

2005年4月19日、コンクラーヴェは2日目にしてラッツィンガーを新教皇に選出。コンクラーヴェの動向を見守りながらサン・ピエトロ大聖堂前に集まっていた人々の前にメディナ・エステヴェス枢機卿があらわれ、数言語で群集に呼びかけ、ラテン語で「新教皇としてラッツィンガー枢機卿が選ばれ、ベネディクト16世という教皇名を選んだ」ということを告げた。続いてバルコニーに姿を現した新教皇はイタリア語で群集に挨拶し、最初の祝福 (benedictio) を与えた。ベネディクト16世は教皇選出時78歳であったが、これは1730年のクレメンス12世以来の最高齢での選出である。またドイツ人教皇は11世紀のウィクトル2世以来950年ぶりである。

サン・ピエトロ広場の入り口あたりから、右前方、広場の外に建物が見えるが、その建物の最上階の右から2つ目と3つ目の部屋が教皇の部屋であり、週に一度、広場に向かって手を振る。

教皇就任後

ベネディクトの教皇名を名乗る教皇は、第一次世界大戦時に教皇位にあったベネディクト15世以来80年ぶりである。ベネディクト16世は2005年4月27日に行われた初の一般謁見において、この名を選んだ理由について、世界大戦という困難な時期にあって教会を指導し世界平和の希求を教会の第一の使命であると考えていたベネディクトゥス15世に対する敬意があったこと、次にベネディクト会の創立者ヌルシアのベネディクトゥスからとっていることを明らかにしている。ベネディクトゥスとベネディクト会は中世初期の混乱した時代において、キリスト教の知的遺産や古代文化を守り、次の時代へと継承する役割を担った。教皇は現代を混乱した時代と見、キリスト教2000年の遺産を次代に引き継ぐ責務を感じているといわれる。またベネディクトゥスがヨーロッパの守護聖人であることから、ヨーロッパのキリスト教を再びよみがえらせたいという意志の表れと見る向きもある。

ベネディクト16世の教皇紋章からは、伝統であった教皇の三重冠が消え、代わりに司教のしるしであるミトラが描かれている。教皇はより一般の人々と近づくため、パパモビル(謁見用教皇車)もオープンなものにしたいと考えているといわれている。

教皇の着座式のミサにおいては従来行われてきた全枢機卿の忠誠の誓いの式が廃止され、代わりに枢機卿、聖職者、修道者、信徒家族、最近洗礼を受けた人々の12人の代表による式が行われた。全枢機卿は教皇選挙の終わりにすでに忠誠の誓いをたてている。ベネディクト16世はそういった習慣を廃止する一方で、かつて行われていた赤い教皇靴をはく習慣や列福式の司式などの習慣を復活させた。

2005年に教皇に着座するとベネディクト16世は精力的に海外の訪問を行った。

2006年にポーランドを訪問。アウシュビッツ強制収容所を訪問した。ローマ教皇のアウシュビッツ強制収容所の訪問は1979年に同収容所を訪問したポーランド人教皇ヨハネ・パウロ2世に続き2人目である。これは当初の予定にはなかったがベネディクト16世が「私はドイツ人の息子だから」と強い希望で実現した。

2007年には就任後初めてイスラム諸国であるトルコを訪れた。前年の「ジハード批判」に反発するデモが発生するなど混乱が見られた。このトルコ訪問ではエルドアン首相、セゼル大統領と会談したほか、イスタンブールのスルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)を訪問。その後、正教会のコンスタンディヌーポリ総主教庁を訪問、総主教ヴァルソロメオス1世と会談した。

2008年4月にはアメリカ合衆国を訪問した。ホワイトハウスでジョージ・W・ブッシュ大統領と会談し、彼の誕生日を祝福した。またニューヨークでは国連総会で演説をした他、ヤンキースタジアムでミサを司式。さらに同時多発テロで破壊された世界貿易センタービル跡地(グラウンド・ゼロ)を訪問した。この時は、カトリック聖職者による少年への性的虐待がアメリカ合衆国で大きく報道されており、ベネディクト16世はこの件に関して謝罪したが「アメリカの物質的文化にも問題がある」と発言した。

2011年、教皇着座後3度目のドイツ訪問ではローマ教皇としては初めて連邦議会で演説をすることになった。しかし左派政党を中心に50人の議員が教皇との主義の違いから欠席した。またグレーを基調とした議場に立つ白のスータンに赤い靴の教皇の姿に違和感を覚えるドイツ人もいた。2011年9月23日にはマルティン・ルターが修行をしたエアフルトのアウグスティーナ修道院を訪問しドイツ福音主義教会 (EKD) の幹部と会談した。しかしベネディクト16世は「外交官のように交渉ができると思ったら大間違いだ」とカトリックとプロテスタントの融和にたいしては強硬な態度を示した。

ベネディクト16世は史上初めてテレビを通じて信徒などの質問に答えたローマ教皇になった。 2011年4月22日にイタリアのカトリック教会の番組に出演し、あらかじめ寄せられた質問のうち7つに応えた。そのうち日本の千葉県在住の少女から寄せられた東日本大震災に際しての質問「どうしてこんなに怖い思いをしなければいけないのか」には「私も同じように『なぜ』と自問しています。答えが見つからない」と言いつつも「我々は皆さんと共にある」と応えた。

またネットにおいては2012年12月にツイッターのアカウントを9言語で取得。ツイッターを「福音を世界に宣べ伝える新しい窓」と位置付け、ツイートを開始した。

ベネディクト16世は教皇位につくと教皇庁の人事を発表したが、それは前教皇時代の人々を再任命という形で留任させるというものであった。その中でも最も高位の人事は国務長官でイタリア人のアンジェロ・ソダーノ枢機卿とバチカン市国の知事でアメリカ人のエドモンド・スツカ枢機卿の2人である。

このときの唯一の新人事は教皇自身がついていたポストであり、空位になっていた教理省長官の任命で、事前の予想に反してサンフランシスコ大司教区のウィリアム・ジョゼフ・レヴァダ(英語版)大司教が指名された。レヴァダは新しいカテキズムの編纂者の一人であり、枢機卿団において最も保守的な傾向を持つ人物であるといわれている。教理省長官のポストは教皇庁の中でも影響力が大きく、教皇にとっても自身が長らく務めていたポストである。アメリカ合衆国は世界政治において圧倒的な影響力を持つため、従来教皇庁の有力ポストにアメリカ人がつくことは教会の中立性に影響を及ぼす恐れがあるといわれていた。そのレヴァダは翌2006年3月にベネディクト16世が初めて行った枢機卿任命で枢機卿に親任され、2012年6月に定年のため引退するまで務めた。後任の教理省の長官には、ドイツ人のゲルハルト・ルートヴィヒ・ミューラー(ドイツ語版)が任命された。

2006年6月22日には定年によるソダーノ枢機卿およびスツカ枢機卿の引退願いを受諾、同年9月15日に当時ジェノヴァ大司教のタルチジオ・ベルトーネ枢機卿が新たに教皇庁国務省長官に任命されている。

2005年5月13日に教皇として最初の列福調査開始を命じている。調査対象は前教皇であるヨハネ・パウロ2世である。通常は死後5年を待たないと列福調査は開始されないが、前教皇は生前から聖人の誉れが高かった上、自身が司式した葬儀時には群衆の間から「Santo Subito」(サント・スビト、イタリア語で「すぐに聖人に」)の大歓声が繰り返し上がったためであった。聖人になるためには長いプロセスをたどらねばならない。初期調査で聖徳を備えていたことが立証されると「神のしもべ」となる。つぎに「尊者」になり、ここで対象者のとりなしによる奇跡が認定されて初めて福者になる。福者になってはじめて記念ミサを行うことができるようになる。

翌5月14日、最初の列福式を執り行った。列福されたのはハワイのマザー・マリアンヌ・コープ(英語版)である。彼女はモロカイ島のダミアン神父の協力者であり、ハンセン病患者のために生涯をささげた。彼女の任意の記念日は1月23日と定められた。ダミアン神父とマザー・マリアンヌはともにHIV感染者の保護者となっている。列福・列聖式を精力的に執り行ったヨハネ・パウロ2世とは異なり、ベネディクト16世はこの在任最初の列福式の司式を列聖省長官ホセ・マルティンス枢機卿におこなわせた。これは列福式のような対外的な業務もさることながら、教会の内的な業務に力をいれたいという教皇の意思のあらわれであり、自らの年齢と健康状態への配慮と識者は見ている。その後ダミアン神父は2009年に、マリアンヌ・コープは2012年にそれぞれ列聖されている。

2005年10月23日にはベネディクト16世による最初の列聖式が行われ、ポーランド人でリバウの司教ヨシフ・ビルツェフスキなどが聖人にあげられた。

2011年1月にはヨハネ・パウロ2世の列福が決定、5月1日には列福式を自ら司式し、ヨハネ・パウロ2世は福者にあげられた。

「教理の番犬」とあだ名されるほどの保守派の神学者出身。一般に超保守派とみなされている。

カトリック教会は第2バチカン公会議において、教会がエキュメニズムや異文化理解を促進しなければならないと方向転換をおこなった。教皇はこの思想が行きすぎたものになり、結果として過度の相対主義にいきつくことで、カトリック教会の存在の意味そのものが失われかねないと危惧しているといわれる。第2バチカン公会議以来ミサはラテン語の他、各国語で行うことができるようになり、現地の言語によるミサが急速に広まった。こうした中、7月7日、第2バチカン公会議による典礼改革以前のラテン語による最後のミサ典書の使用を限定的ながら認める自発教令「スンモルム・ポンティフクム」を発表した。これは前教皇による第2バチカン公会議前の典礼に親しみを感じる信徒への配慮(1988年に自発教令の形で使徒的書簡「エクレジア・デイ」)に続くものであるが、ラテン語ミサには賛否両論がある。

2008年12月24日、バチカンで聖職者向けに行った年末の演説で、ジェンダー理論に触れ、男性と女性との区別をあいまいにするとして批判した。この批判には、同性愛者や性転換者の権利が拡大していることへの懸念がある。神が各人に与えた性や性交渉のあり方を歪曲することは、自然破壊と同様であり、結局は人間の「自己破壊」に繋がるという見解である。ジェンダー理論への批判は、同理論の、性が(神の生まれつき与えたものではなく)社会的に構成されるという主張に限られている。

避妊、人工妊娠中絶、同性愛など社会的問題に対してはいずれも断固反対という立場をとっている。 2009年3月にはHIVによる被害が深刻化しているアフリカ訪問中に、感染予防に用いられるコンドームの使用に反対すると述べた。この声明は世界保健機関およびアフリカ各国政府、カトリック教会の一部から強く批判されたため、教皇庁は釈明に追われた。12月24日、クリスマスミサ中に女性に飛びかかられ転倒する。

2007年1月24日にはアニメーションやコンピュータゲームを含む、エンターテインメント作品における過激な性表現や暴力を「卑俗で背徳的であり、不快」と非難する見解を表明している。しかし「人間の尊厳を広めるなど道徳的な内容での使用であればメディアは教育を支援できる」と発言した。

2006年にアウシュビッツ強制収容所を訪問した。また2007年のオーストリア訪問時にも同国の首席ラビとともに同国内の強制収容所跡を訪問した。 2011年にはイエス・キリストの生涯を書いた著書の中で「エルサレムの寺院の上層部とバラバの釈放を望んだ大衆だけがイエスを非難した」としるし、ユダヤ人全体が「キリスト殺し」に責任を負うものではないと結論付けた。マタイの福音書にあるイエスの処刑のくだりからユダヤ人は「キリスト殺し」の咎で迫害されてきており、1960年代にその論理は一旦否定されていたが、再燃を受けてベネディクト16世は改めてこれを否定した。

2006年9月12日、ドイツの大学で行った講義の中で、ベネディクト16世はイスラム教の教えの一つであるジハードを批判する発言を行いメディアから批判を受けた。パキスタン議会は、9月15日に彼に発言の撤回を求める非難決議を全会一致で採択した。なお、発言にはイスラムを邪悪で残酷と評した14世紀の東ローマ皇帝マヌエル2世の「ムハンマドは、剣によって信仰を広めよと命じるなど、世界に悪と非人間性をもたらした」という言葉を引用している。

2007年には就任後初めてイスラム諸国であるトルコを訪れた。前年の「ジハード批判」に反発するデモが発生するなど混乱が見られた。このトルコ訪問ではエルドアン首相、セゼル大統領と会談したほか、イスタンブールのスルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)を訪問。その後、正教会のコンスタンディヌーポリ総主教庁を訪問、総主教ヴァルソロメオス1世と会談した。

2007年7月10日、教皇庁は「ローマ・カトリック教会は唯一の正統な教会である」との記述内容を含む文書を公表した。これには教皇ベネディクト16世が承認を与えている。同文書はプロテスタント教会についても言及し、「使徒ペテロに始まる使徒的伝承をプロテスタント教会が壊し、叙階の秘跡を損なったために、『教会』と呼ぶことはできない」とした。正教会については、使徒的伝承を守っていると評価する一方、教皇に対する認識の面で「まったき教会としては欠点がある」とした。

2008年11月に行われたインタビューにおいて、ヨハネ・パウロ2世が無断人事のかどで破門した聖ピオ十世会の4人の司教に対して、カトリック教会への復帰を呼びかける、としてその(破門の)撤回を決定し、その中にはホロコーストにおける毒ガス使用否定の発言を行ったリチャード・ウィリアムソンも含まれていた。これには、ホロコースト否定が犯罪として明記されているドイツおよびユダヤ人団体などから大きな批判が起こり、教皇はホロコーストを否定しない立場を明確に表明するとの声明を発表した。超保守派聖ピオ十世会の4名の司祭の破門を解除した後に、その内の一人のリチャード・ウィリアムソンによるホロコーストに関する発言がユダヤ団体から反発を生んだことは、「ローマ法王『最大の失態』」などと報じられ禍根を残すことになった。

2007年10月22日にはイタリアのナポリで開催された異宗教間サミットに出席し、イスラム教・ユダヤ教・正教会をはじめとする様々な宗教指導者と会合した時には、2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件に言及しつつ、人類の和解を呼びかけ「私達の使命は、それぞれの宗教の相違点を尊重しつつ、世界平和と人類の和解のために尽力することだ」「争いによって引き裂かれ、神の名の下に暴力が正当化されることもあるこの世界において、宗教は憎しみの道具になり得ないと繰り返し表明することが重要だ」と述べ、異宗教の信者との誠実で公明正大な対話を重視する発言をした。

環境問題はヨハネ・パウロ2世が「神の被造物である環境を破壊してはならない」と発言するなど、バチカンの取り組むべき問題であった。ベネディクト16世は環境問題に対して積極的な行動をとっている。パウロ6世ホールに太陽光発電パネルを設置し、ハンガリーの植林事業に出資しCO2排出枠を買い取りバチカンをカーボンニュートラル国家にすることを試みた。また世界の経済的利益のための環境対策には批判的であり、環境問題は倫理的問題と考えていた。また環境が悪化すると、その国の貧困層など社会的弱者をいっそう困窮させる(環境難民)として弱者救済に関する問題としても環境問題をとらえていた。

2012年に教皇宛の告発文書がリークされる事件が起きた。漏洩した元執事の男にはバチカンの裁判所は窃盗罪で禁固18か月有罪の判決を下したが、教皇は恩赦を出している。リークした男は「教皇は操作されて」おり「不正をただすために」リークしたと動機を語っている。リークされた文書にはバチカンの行財政を取り仕切る宗教事業協会(バチカン銀行)の文書やマネーロンダリングなどバチカンの不正一掃を試みたカルロ・マリア・ビガーノ大司教が失脚の恐れがあるので教皇に助けを求める内容の文書もある。これらはバチカンの行政の長であるベルトーネ国務長官など教皇の側近に不利に働くものであった。そのためバチカンでは権力闘争が激化しているのではと考えられた。

またバチカンではマネーロンダリングが問題になっており、EUからも法の不備の指摘を受けてきた。2009年にJPモルガン・チェース銀行はミラノ支店のバチカン銀行の口座を閉鎖した。開設から短期間で口座から15億ドルものカネが他の口座に送金されており、それも毎日閉店時には残高がゼロになっていたことを疑問に思った同銀行がバチカンに回答を求めたところ返答がなかったためである。翌2010年9月にイタリア財務警察はバチカン銀行の3300万ドルの預金を凍結し、不正会計の疑いで捜査を始めた。その後2010年末にバチカンはマネーロンダリングを含む不透明なカネの流れをなくすための財務情報監視局を設置したが、2012年にはアメリカ合衆国の「国際麻薬統制戦略報告書」の「マネーロンダリングに利用される国々のリスト」にバチカンが載せられることになった。前述のカルロ・マリア・ビガーノ大司教がマネーロンダリングの根絶の陣頭指揮を執っていたが、駐米大使に異動、失脚した。イタリア銀行はマネーロンダリング排除の取り組みが足りないとの指摘し、ドイツ銀行のイタリア法人に対するバチカンでの監督業務の付与を停止した。このため同銀行のATMが使用できないなどのカード決済に不都合が生じており、「バチカンの最大の産業」である観光に悪影響が出ている。

辞任

2013年2月11日に開催された枢機卿会議において、約2週間後の2月28日20時(中央ヨーロッパ時間)をもって自らの意思で辞任(退位)することを表明した。教皇は「何度にもわたって神に対し良心に照らして考えた結果、高齢に達している我が身が教皇としての職務を達成することができないという確信を持った」とし、「素早い変化に見舞われ、信仰にとってとても大切な問題に揺れる今日の世界では、ローマ教皇には心身ともに活力が必要であるが、私にとってそうした活力がここ数か月弱ってきており、私に与えられた職務を遂行することができなくなった」とラテン語で述べた。

辞任の表明はバチカン関係者も予想していなかったとされている。枢機卿会議の取材に際してラテン語を解する記者がいたイタリアのANSA通信がスクープとしてまず報道した。インターネットのSNS上でも"pope"(ローマ教皇の意)の語がトレンドのランキングで急上昇した。のちの報道では辞任の予兆が存在したとの指摘もされている。教皇が2009年にラクイラ地震の被災地を訪問した際に、ラクイラ市内のサンタ・マリア・ディ・コレマッジオ聖堂にある、教皇辞任の規定を初めて教会法に取り入れてその最初の適用者ともなった中世のケレスティヌス5世の墓を訪問した。その際に自らが教皇就任以来使用してきたパリウムと呼ばれる法衣を墓にかぶせて奉献した。これは生前に自らの意思で辞任した(当時)唯一の教皇であるケレスティヌス5世を意識してとった行動であると推測する者もいる。辞任の表明は枢機卿会議の席上で「自身の力不足を理由に辞任する」という内容の文章をラテン語で朗読することで行われたが、これは719年前にケレスティヌス5世が辞任した際と同じである。

ベネディクト16世は辞任成立まで教皇としての聖務を継続した。2月14日には一般の拝謁をうけ信徒の「愛情と祈りに感謝の意」を表明している。

2013年2月28日の夕方にバチカン宮殿からカステル・ガンドルフォに移動し、城のバルコニーから集まった信徒に対し「私はもはや教皇ではなくなる。この世における巡礼の最後をたどり始めた一人の巡礼者だ」などと語り、現役最後の日を締めくくった。その後20時(中央ヨーロッパ時間)に辞任が成立し、使徒座空位となった。辞任成立の時刻をもってカメルレンゴ(教皇代理)を務めるタルチジオ・ベルトーネの指示で教皇の居室が封印され、古くからの伝統と新たに定められた規定に基づき、使徒座空位期間に入った。1996年に第264代教皇ヨハネ・パウロ2世が発令した「使徒憲章」(ウニヴェルシ・ドミニチ・グレジス = 主の全ての群れの牧者)では、教皇のいない使徒座空位期間中は枢機卿団によって教会統治がなされるが、通常、教皇の決裁を要する事項は代理できないことから、これらは新教皇着座後に持ち越されている(ただし、通常かつ延期できない事項はこの限りではない。実際、使徒座空位期間中の3月5日にベネズエラ大統領のウゴ・チャベスが亡くなり、通常は教皇名で発せられる弔電が枢機卿団名で出された)。通常、教皇帰天に伴う使徒座空位発生の場合は4-6日後に実施される葬儀の後に9日間の服喪期間が発生するが、ベネディクト16世の辞任は存命のまま行われているので服喪期間は発生していない。

ローマ教皇が自ら辞任を申し出るのは歴史上極めて異例であり、教会大分裂の解消のために1415年に辞任したグレゴリウス12世以来598年ぶりのことである。グレゴリウス12世の辞任は本人の同意が存在したとされているものの「教皇鼎立の解消」という政治的な事情が背景にある事実上の廃位であり、自身の意思で辞任するのは1294年のケレスティヌス5世の辞任以来719年ぶり、史上2人目となる。

教皇の辞任は教会法に規定があるものの、先例が数百年以上前になるために辞任後の教皇の称号や権限などの処遇は教会法で明確に規定されていなかった。このため退職した司教が「名誉司教」と呼ばれることにならい「名誉教皇 (Pope emeritus)」という称号が新設された。また「名誉教皇」も「教皇名」と「聖下」の尊称で呼ばれる。「名誉教皇聖下」と呼ばれた人物はこれまでになく、ベネディクト16世が最初の例となる。また服装も教皇と同様に純白のスータンとカロッタと呼ばれる帽子を着用する。しかしケープと飾り紐と「教皇の赤い靴」の着用はない。前例であるケレスティヌス5世は退任後すぐに幽閉され、10か月後に死亡している。

辞任後のベネディクト16世はバチカン内にあるマーテル・エクレジエ修道院に居住することとなった が、2013年2月時点では改装中であったため辞任までには間に合わず、暫定的にガンドルフォ城に滞在することとなった。辞任時点でバチカンから離れていたことで、結果的にコンクラーヴェから前教皇を隔離する意味も持つこととなった。

辞任した教皇はコンクラーヴェには参加しない。そもそもコンクラーヴェの参加資格は「使徒座空位発生日(今回は2013年2月28日)時点で80歳未満の枢機卿」であるため、ベネディクト16世はこの条件を満たしていない。辞任と同時に「使徒座空位」が宣言され、教会は枢機卿団の管理に入った。この間辞任した教皇はいかなる言動も取らない。カメルレンゴは2007年にベネディクト16世が任命したタルチジオ・ベルトーネ枢機卿が務めた。教皇が死去していないため、服喪のための9日間の祈りは行わず、3月4日から8日にかけて枢機卿会議が行われ、3月12日からコンクラーヴェが開始された。通常教皇選挙は使徒座空位発生日から15-20日目の間に開始されるが、ベネディクト16世が要請を受ける形で辞任直前に規定を改め、有権者が全員揃えば開始の前倒しを可能とし、実際に3日の前倒しが行われて12日からの開幕となった。コンクラーヴェは、使徒座空位発生時の2013年3月1日時点で80歳未満で同日までにローマに集合した枢機卿によって行われた。参加条件を満たした115名の枢機卿(ヨーロッパ62名、ラテンアメリカ19名、北米14名、アフリカ11名、アジア11名、オセアニア1名)により、3月13日にアルゼンチン出身のフランシスコが後継者に選ばれ、同日就任した。

2024/05/24 04:51更新

Benedicus XVI


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