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ポール=エリュアールの情報まとめ

ポール=エリュアール(Paul Eluard)さんの誕生日は1895年12月14日です。

結婚、映画、病気、事件、家族に関する情報もありますね。1952年に亡くなられているようです。
ポール=エリュアールのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)ポール・エリュアール(フランス語: Paul Éluard, 1895年12月14日 - 1952年11月18日)は、フランスの詩人。ブルトン、アラゴン、スーポーらとともにダダイスム、シュルレアリスムを牽引。 ナチス・ドイツ占領下の1942年に「わたしは生まれてきた、きみを知るために、きみの名前を呼ぶために、自由と」と歌った詩「自由(フランス語版)」を発表。英国空軍機からフランス全土にばら撒かれ、絶望に陥っていたフランス国民の心に希望を蘇らせた。1943年にはレジスタンスの詩人22人のアンソロジー『詩人たちの名誉(フランス語版)』を編纂し、深夜叢書から刊行。ゲルニカ爆撃に抗議するピカソの「ゲルニカ」制作に合わせて詩「ゲルニカの勝利」を発表したのを機に、戦後は平和運動に尽力。1951年に鳩と女性の顔を重ねたピカソの石版画にエリュアールが詩を添えた詩画集『平和の顔』が刊行された。 1895年12月14日、パリ北郊のサン=ドニ(イル=ド=フランス地域圏、セーヌ=サン=ドニ県)のジュール・ゲード大通り(フランス語版)46番地で会計士のクレマン=ウジェーヌ・グランデルと裁縫師のジャンヌ=マリー・クーザンの子ウジェーヌ=エミーユ=ポール・グランデルとして生まれた。「エリュアール」という姓は、彼が21歳のときに母方の祖母フェリシーの相続人となったためである。父クレマン=ウジェーヌは社会主義者で、後に不動産会社を設立した。エリュアールはサン=ドニ、次いでオルネー=スー=ボワ(同セーヌ=サン=ドニ県)の小学校に通った。一家は1908年にパリ10区のルイ・ブラン通り(フランス語版)に越した。 コルベール高等小学校に入学したが、結核を患い、1912年7月に学業を断念してスイスで療養。喀血を起こしたために滞在を延長し、1914年2月までダヴォスのクラヴァデル療養所で過ごした。ここで後に結婚するロシア生まれのエレナ・イヴァノヴナ・ディアコノワに出会った。教養豊かで独立心が強く、奔放なエレナにエリュアールは惹かれ、彼女をガラ(ガラ・エリュアール)と呼んだ。療養中にネルヴァル、ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー、ロートレアモン、アポリネール、ホイットマンなどを読み、詩作を始め、自費出版した。 1914年8月、19歳のときに第一次世界大戦が勃発。12月に動員され、補助部隊に配属された。まもなく、第22衛生小隊、次いで1916年8月から北部ソンム県アルジクール(フランス語版)の野戦病院に転属された。ここで負傷者の苦しみと戦争の恐ろしさを目の当たりにしたエリュアールは、厭戦感から平和主義・自由至上主義に傾倒し、ミゲル・アルメレイダ(フランス語版)(夭折の映画監督ジャン・ヴィゴの父)が編集長を務める無政府主義の風刺新聞『ボネ・ルージュ(フランス語版)』や『カナール・アンシェネ』(1915年創刊、フランス最古の新聞)を読んだ。1916年12月に歩兵隊への転属を希望。第95歩兵部隊に配属されたが、病気のために入院を余儀なくされた。退院後、再び補助部隊に配属され、終戦を迎えた。この間、1916年9月にガラが渡仏し、1917年2月21日に正式に結婚、1918年5月10日に娘セシルが生まれた。 エリュアールはすでに『第一詩集』と(初めて「ポール・エリュアール」の筆名で)『義務』を自費出版していたが、1917年に友人のアリスティード=ジュール・ゴノンが経営する出版社からアンドレ・デリニエール(フランス語版)の木版画入りの詩集『義務と不安』が刊行された。翌18年には反戦詩の小冊子『平和のための詩編』を印刷して多数の作家に郵送した。 終戦直後、トリスタン・ツァラ、および1919年3月にダダイスムの文芸誌『リテラチュール (文学)』を創刊したばかりのルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポーに出会い、ダダの運動に参加した。『リテラチュール』誌に詩を寄稿する傍ら、自ら『プロヴェルブ (箴言)』誌を創刊。1年ほどの短命な雑誌であったが、アラゴン、イサドラ・ダンカン、ジャン・アルプ、バンジャマン・ペレらが参加し、第4号の表紙にピカビア作「若い娘」と題する穴が開けられるなど、ダダイストの表現の場となった。 だが、1921年には早くもトリスタン・ツァラとブルトンの対立が露わになり、他のダダイストを巻き込んで相互の溝を深めていった。同年の春に、かつてアナキスト・耽美主義者として青年知識人に深甚な影響を与えた文学者モーリス・バレスが極右的な政治思想に傾倒したことを批判して即興劇「バレス裁判」を上演したとき、ツァラは観客の前でブルトンをバレス並みの卑劣漢扱いをした(ピカビアはこの前日にダダからの離脱を宣言していた)。1922年1月にブルトンが「現代精神の綱領決定と擁護のための」パリ会議を呼びかけたときにも、ツァラはこれを伝統への回帰だとして参加を拒否した。ブルトンは立体派、未来派、そしてダダを連続的な流れとして捉え、これらを統合して、次の新しい段階へと飛躍するための場を設定しようとしていたのだが、先行するすべての文学運動を完全に否定し、まったく新しい独立した運動としてダダを捉えていたツァラには、ブルトンの発想は到底受け入れられるものではなく、結局、この企画は実現を見なかった。 さらに、ブルトンは1922年3月2日に日刊紙『コメディア(フランス語版)』に「ダダ以後」と題する記事を発表し、「ダダは勇名を馳せていた時期もあるにはあったが、あとにはほとんど哀惜の情しか残さなかった。時が経つにつれて、その絶対権力と専横とがダダを耐え難いものにしてしまったからである」と、ツァラを批判した。ツァラはこれに対する応酬として『髭の生えた心臓』紙を創刊した。これは創刊号をもって終刊となったが、ツァラ派とブルトン派との対立を際立たせることになった。『髭の生えた心臓』紙に作品を掲載したツァラ派はペレ、スーポー、マルセル・デュシャン、ジョルジュ・リブモン=デセーニュ(フランス語版)、エリック・サティ、ビセンテ・ウイドブロ(フランス語版)、そしてエリュアールらであった。だが、1923年7月6日にミシェル劇場で行われた「髭の生えた心臓の夕べ」はダダイスムの終焉を告げる事件となった。ツァラのほか、ブルトン、アラゴン、ペレ、ロベール・デスノス、エリュアールらが参加したこの企画で、ダダイストのピエール・ド・マッソ(フランス語版)が「ジッドは死んだ、ピカソは死んだ」と宣言文を読み上げたとき、友人のピカソを侮辱したことに腹を立てたブルトンらが舞台に飛び上がってド・マッソに殴りかかり、警察を呼ぶ騒ぎになった。既成の秩序の破壊を唱えるダダが、最後に秩序の維持にあたる公権力に訴えたのは決定的であり、これまでツァラを支持していたエリュアールも、「髭の生えた心臓の夕べ」事件を機に彼と決別した。ツァラ派とブルトン派の根本的な違いは、やがて、すべてを破壊し、無意味化するダダイスムと、無意味や無意識を重視し、そこに新しい表現を見出そうとするシュルレアリスムの違いとして現れることになる。 エリュアールはこの間にダダの詩集『動物たちと彼らの人間たち、人間たちと彼らの動物たち』、『生活必需品と夢の結果』を発表した。1921年にマックス・エルンストに出会い、翌22年8月に彼の不法入国を助けて自宅に迎え入れ、ガラとの3人の生活が始まった。エルンストは『リテラチュール』誌の同人たちを中心に大作『友人たちの集まり』を描き、1923年のアンデパンダン展に出品した。絵にはエルンスト自身のほか、エリュアール、アラゴン、ブルトン、スーポー、デスノス、ペレ、ジョルジョ・デ・キリコ、ジャン・アルプ、ジャン・ポーラン、ルネ・クルヴェル、ガラ、そしてラファエロとドストエフスキーも描かれている。 翌22年にエルンスト(画)とエリュアール(詩)の共著『不死者の不幸』が刊行された(二人はこの後、1925年にもガラに捧げる『沈黙の欠如に』を発表。エルンストは匿名でガラの画を多数掲載している)。だが、このとき、エリュアールはガラとの関係において精神的な危機に陥り、1924年3月に失踪を遂げた。7か月かけてオセアニアを旅し、10月に帰国。ブルトンに捧げる詩集『死なずに死ぬこと』を発表した。1924年は、パリ7区のグルネル通り(フランス語版)にシュルレアリスム研究所が設立され、シュルレアリスム宣言が発表された年である。とりわけ、アナトール・フランスが死去したときに共同で執筆した小冊子『死骸』は、この権威的な存在を葬り去り、乗り越えようとする最初の象徴的な行為であり、一大スキャンダルを巻き起こした。エリュアールはこの小冊子に「ありきたりの老人」と題する文章を掲載した。このほか、ブルトンの「埋葬拒否」、アラゴンの「すでに死者を殴り倒したか」、スーポーの「間違い」、(後に対独協力に転向することになる)ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルの「われわれは騙されない」などが掲載された。 1924年12月1日に文芸誌『シュルレアリスム革命』が創刊され、エリュアールはアラゴン、ペレ、デスノスらとともに「シュルレアリスム作品」として詩を掲載した。マン・レイの写真、デ・キリコ、エルンスト、ピカソ、アンドレ・マッソンらの画も多数掲載された。表紙には参加者全員の写真の下に「新人権宣言となるべきである」と書かれている。出版社はガリマール図書(ガリマール出版社の前身)で、最初の4号はペレとピエール・ナヴィルが編集、以後はアラゴンが中心となって1929年まで5年にわたって自動記述、睡眠実験、デペイズマン、コラージュ、無意識、夢、偶然、不条理などシュルレアリスムの重要なテーマをすべて取り上げ、運動の最も重要な雑誌の一つとなった。 1925年7月2日にシュルレアリストらが(特に20世紀前半にモンパルナスの芸術家・知識人が集まるカフェとして知られていた)クロズリー・デ・リラで詩人サン=ポル=ルーのための祝宴を行った。サン=ポル=ルーはすでに64歳であったが、自動記述の手法をいち早く取り入れ、シュルレアリストに先達と仰がれた詩人である。また、後にアラゴン、デスノス、ヴェルコールらと対独抵抗運動を牽引したことでも知られる。この席で、サン=ポル=ルーと同年代のデカダン派の女性作家ラシルド(フランス語版)が、愛国心から「フランス人女性がドイツ人男性と結婚することは決してないだろう」と発言したとき、ミシェル・レリスが「フランス打倒、(リーフ共和国大統領の)アブド・エル・クリム万歳」と叫んで窓から飛び降りたこともシュルレアリスムを象徴する逸話として残っている。実際、この頃、アンリ・バルビュスが1919年に発表した『クラルテ』を契機として共産主義知識人らが起こした国際的な反戦平和運動の機関誌『クラルテ』にシュルレアリストが参加するようになり、とりわけ、リーフ戦争でフランスが1925年7月にリーフ共和国に宣戦布告してモロッコに侵攻すると、バルビュスの反戦の呼びかけに賛同したシュルレアリストと『クラルテ』誌の共産主義者がリーフ戦争反対声明に共同署名し、これを「まず革命を、そして常に革命を」と題して共産党の機関紙『リュマニテ』紙に掲載した。これは、シュルレアリストらにとって文学芸術革命を社会革命へつなげようとする試みであり、以後、エリュアール、アラゴン、デスノス、レリスらが次々と『クラルテ』誌に執筆した。エリュアールは「革命的知性・サド侯爵」というコラムを3回にわたって掲載した 1926年末から翌27年にかけてエリュアール、アラゴン、ブルトン、ペレ、ピエール・ユニック(フランス語版)が共産党に入党した。5人はシュルレアリストの入党に関する誤解を解くために、「白日の下に」と題する小冊子を作成し、シュルレアリストは共産党において特殊な役割を担うことになると主張したが、逆に誤解を招くことになった。 1927年にシュルレアリスムの詩集『苦悩の首都』、1929年にはガラに捧げる『愛・詩』を発表した。一方、ガラはエルンストと公に付き合うようになっていたが、エリュアールがベルギーのシュルレアリスム作家カミーユ・ゲーマンス(フランス語版)を介して知った画家サルバドール・ダリに会うために、ガラとともに1929年にカダケスを訪れたとき、彼女はダリに惹かれ、1934年に正式に結婚した。エリュアールもまた、1930年にアルザス生まれの女優のマリア・ベンツに出会った。彼女もまたドラ・マール、リー・ミラー、ヴァランティーヌ・ユーゴー(フランス語版)らとともにシュルレアリストのミューズとされる。エリュアールは彼女をヌーシュ(ヌーシュ・エリュアール(フランス語版))と呼び、4年後に結婚。1946年に彼女が急死するまで16年間共に生きた。 1930年にエリュアールはブルトンとの共著『無原罪の御宿り』を発表した。これは、シュルレアリスムの自動記述を綴ったものであり、神経衰弱疑似症の実験、強烈な偏執狂の疑似症の実験、全身麻酔疑似症の実験、表現錯乱疑似症の実験、早発性痴呆症疑似症の実験などの内容を含む。部数は2,000部、併せて豪華版111部が刊行された。表紙にはダリによるエロティックな画が掲載されている。カトリックの「無原罪の御宿り」は、聖母マリアの「処女懐胎」と区別され、マリアが母アンナの胎内に宿ったときから原罪を免れていたとする教義であり、表紙画の原案では、ルルドの聖母の写真を使用し、頭部の周囲に「私は無原罪の御宿りである」と書かれていた。カトリックの教義の非科学性を批判する本書は、ダリの画を掲載することで、その意図を明確に示すことになった。 一方、この頃から共産党が組織する活動にも参加した。1931年にパリ12区、ヴァンセンヌの森近くのポルト・ドレ宮(フランス語版)で植民地博覧会(フランス語版)が開催された。共産党はこれに抗議し、エリュアール、ブルトン、アラゴン、ユニック、ペレらのシュルレアリストは「植民地博物館へ行ってはいけない」と題するビラを配布した。また、1930年にハルキウで開催された国際革命作家同盟 (UIER) の大会を機に、1932年3月にUIERのフランス支部「革命作家芸術家協会 (AEAR)」が設立され、エリュアール、アラゴン、ブルトン、デスノス、ペレ、ルネ・シャール、エルンストらのシュルレアリストのほか、ロバート・キャパ、バルビュス、アンドレ・ジッド、ロマン・ロラン、ウジェーヌ・ダビ(フランス語版)、ジャン・ゲーノ、ジャン・ジオノ、アンドレ・マルロー、ポール・ニザンらが参加した。同年8月には、バルビュスとロマン・ロランが呼びかけ、アムステルダムで開催された反帝国主義戦争国際会議に出席した。この会議に参加した知識人は、さらにパリのサル・プレイエルを拠点とする反ファシズム労働者運動に合流し、1933年に反戦・反ファシズムのアムステルダム=プレイエル運動(フランス語版)を結成した。このとき、エリュアール、ブルトン、シャール、ロジェ・カイヨワ、イヴ・タンギー、アンドレ・ティリオン(フランス語版)らシュルレアリストは「反戦は平和ではない」と題するパンフレットを配布し、ナチズムの脅威を前にしてもなお戦争を拒否する平和主義者を批判すると同時に、闘争・革命による平和の獲得を訴えた。 一方、ハルキウ会議を機に社会主義リアリズムに転じたアラゴンに対して、シュルレアリストらは『とんだ道化だ(アラゴン事件の終焉)』を発表して彼と決別した。これは、アラゴンがソ連滞在中に書いた長詩「赤色戦線(フランス語版)」が掲載された国際革命作家同盟の機関誌『世界革命文学』のフランス語版がパリで押収され、翌1932年1月16日に「無政府主義の宣伝のために」、「軍隊に不服従を促し、殺人を教唆した」として告発された事件であり、シュルレアリストらはさっそく「裁判を目的とした詩作品解釈の試みに抗議し、訴訟の中止を要求する」という声明を発表し、アラゴン告発に抗議する署名運動を開始。たちまち、フランスだけでなく、ベルギー、ドイツ、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなどの知識人から300人以上の署名が集まった。だが、シュルレアリストらにとってアラゴンを支持することと彼の詩に対する評価は別問題であり、ブルトンは『詩の貧困』を発表して「赤色戦線」は「新しい道を切り拓くものではなく」、「状況の詩」であり、「詩における後退」であると断言。これに対して、革命作家芸術家協会はアラゴンを支持し、アラゴンは『リュマニテ』紙に『詩の貧困』の内容を否認するとする囲み記事を掲載した。『とんだ道化だ』はこの件に決着をつけるために書かれたものであり、エリュアールのほか、シャール、クルヴェル、ダリ、エルンスト、ペレ、タンギー、ティリオン、ツァラらが寄稿している(ブルトンは参加していない)。なかでもエリュアールはさらに「証明書」と題する文書を発表し、「彼(アラゴン)が生の弁証法と呼ぶもののためにどれほどくだらない矛盾を犯してきたかが、今ようやくわかった」、「アラゴンは別人になった。もはや彼のことを思い出すこともない」と、最も辛辣な批判を投げかけている。 だが、共産党の対独レジスタンス・グループ国民戦線(フランス語版)幹事長を務めた共産党員のピエール・ヴィヨン(フランス語版)は後に『わが友、わが同志』に次のように書いている。 二人は10年後に再会して、共に文筆活動による対独抵抗運動を展開することになる。 1933年7月、エリュアールは共産党を離党。さらに、ブルトンが革命作家芸術家協会を除名されたのを受けて、エリュアールも脱会した。エリュアールは、アクション・フランセーズなどの右派・極右勢力がナチスによるドイツ制覇に連動して民衆を扇動して起こした1934年2月6日の危機に抗議する左派の呼びかけに参加した。これは人民戦線の結成につながる運動であり、1930年代には左派知識人による反ファシズム団体が複数結成されたが、これらは主に共産党が主導する団体であり、離党後のエリュアールはこれらの活動に関わっていない。実際、1935年6月にパリで開催され第1回文化擁護国際作家会議(フランス語版)では、アラゴンがソ連代表イリヤ・エレンブルグの協力を得て事務局を務め、ソ連からはエレンブルグのほかイサーク・バーベリ、ドイツからはハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、オーストリアからローベルト・ムージル、英国からオルダス・ハクスリーらが参加したが、エレンブルグと対立したブルトンが同会議から追放され、このことが間接的な原因となって結核を患っていたクルヴェルが自殺するなど多くの問題が重なった。さらに、ブルトンの代わりに彼の演説原稿を読み上げたエリュアールは、「仏ソ相互援助条約(フランス語版)の締結および仏ソ文化協力に反対した」と誤解された。この結果、コミンテルンおよびスターリンのソ連を支持する共産主義者らとシュルレアリストらの決別は決定的なものとなった。 1934年初めにピカソ展の一環としてスペインで一連の講演を行い、6月にはロンドンで開催された国際シュルレアリスム展で講演。スペイン内戦が勃発すると共和派(人民戦線政府)を支持して再び共産党に近づき、このため、同年9月にブルトンが発表したモスクワ裁判に抗議する声明には署名しなかった。同年12月には共産党の機関紙『リュマニテ』にエリュアールの詩が掲載されている。1938年3月にゲルニカ爆撃に抗議する「ゲルニカの勝利」を含む詩集『自然な流れ』を発表した。「ゲルニカの勝利」はピカソの「ゲルニカ」制作に合わせて書かれた詩であり、同年4月に発表した詩「連帯」にはピカソのほか多くの画家が挿絵を入れ、スペイン共和派支援のための小冊子として販売された。これ以後、『民衆の薔薇』から「ひとりの地平から万人の地平へ」とエリュアールの詩に対するピカソの影響はますます強くなっていく。同年12月にはルイ・パロ(フランス語版)との共訳でフェデリコ・ガルシーア・ロルカの詩「サルバドール・ダリ頌」を発表した。 一方、ブルトンとは1938年1月から2月にかけてパリのボザール画廊で国際シュルレアリスム展を共催したが、ブルトンがレフ・トロツキーと作成した独立革命芸術国際連盟結成に向けたマニフェストには署名しなかった。これを機に二人は決別した。 1939年9月、第二次世界大戦勃発。エリュアールは陸軍中尉としてミニエール(フランス語版)(ロワレ県)の経理部に配属されたが、翌1940年6月22日の独仏休戦協定締結後にサン=シュルピス=ラ=ポワント(フランス語版)で復員し、パリに戻った。スペイン内戦で共和派を支持したエリュアールは、再び、今度は文筆活動によってナチスの言論・思想弾圧に抵抗する運動を展開した。1942年に詩人マックス=ポル・フーシュ(フランス語版)がナチス・ドイツによる検閲を逃れるためにアルジェで創刊した『フォンテーヌ(フランス語版) (泉)』誌にエリュアールの最も有名な詩「自由」が掲載された。「私は生まれてきた、きみを知るために、きみの名前を呼ぶために、自由と」で結ばれるこの詩は、占領軍による弾圧、恐怖によって絶望に陥っていたフランス国民の心に希望を蘇らせた。マキは英国空軍機からこの詩をフランス全土にばら撒いた。 エリュアールは「自由」を含む詩集『詩と真実』、『戦争中の恋愛詩七篇』をフォンテーヌ誌出版社から偽名で刊行した。ピエール・セゲルス(フランス語版)もまたエリュアールの『無意識の詩と意図した詩』を南部の自由地帯で印刷し、配布した。1942年にエリュアールは再び共産党に入党し、同党主導の全国作家委員会(フランス語版)を北部地帯で結成するために、対独協力を拒否している作家・詩人たちと連絡を取り、その糾合に努めた。全国作家委員会はすでにアラゴン、エルザ・トリオレ、ジャン・ポーランらによって南部の自由地帯で結成され、アラゴンが代表を務め、ジャン・カスー、クロード・アヴリーヌ、ルイ=マルタン・ショフィエ(フランス語版)らが参加していた。当時、ニースで活動していたアラゴンは、南部地帯と北部地帯における全国作家委員会の活動を統一し強化するために、1943年の初めにパリに出てエリュアールと話し合うことにした。偽造通行証を持ってエルザとともにリヨン駅に着いたアラゴンを、エリュアールはヌーシュとともに出迎えた。10年ぶりの再会であった。アラゴンは、「木の葉や人々を吹き散らす風は、1930年代、我々の間を引き裂いた。この歴史は我々の歴史に留まらず(大文字書きの)「歴史」だった。我々を引き離したものは、ついに、永久に、再び我々を結びつけたのだ」と書いている。 一方、当時挿絵画家であったジャン・ブリュレル(ヴェルコール)と作家のピエール・ド・レスキュール(フランス語版)は地下出版社の深夜叢書を創設。エリュアールはエディット・トマ(フランス語版)を介して彼らに会い、1943年に抵抗詩人22人のアンソロジー『詩人たちの名誉(フランス語版)』を編纂し、深夜叢書から刊行した。アラゴン(筆名ジャック・デスタン)は「フランスの起床ラッパ」、「責苦のなかで歌ったもののバラード」、「薔薇と木犀草」などの詩を掲載した。エリュアールは偽名で「ナチの歌」、「敵の素晴らしき正義」、「勇気」を掲載するほか、無署名で書いた序文で、次のように訴えた。 1943年11月から翌44年2月まで南仏ロゼール県サンタルバン=シュル=リマニョルの精神病院の医師リュシアン・ボナフェ(フランス語版)のもとに身を隠した。『詩人たちの名誉』が民衆の共感を呼び、たちまち数版を重ねたため、再びパリに出て、5月に第2号「欧州編」を刊行した。エリュアールは上記のほか、『苦しみの武器』、『ドイツ軍の集合地にて』などの詩集をモーリス・エルヴァン、ジャン・デュ・オーの偽名で地下出版した。また、作曲家フランシス・プーランクは1943年にエリュアールの詩によるカンタータ「人間の顔」を作曲した。 戦後の2年間はエリュアールが最も精力的に執筆活動を行った時期であり、『長い愛の反射』、『とだえざる詩』、『持続することへの厳しい望み』などの詩集を発表した。1946年1月にはロマン・ロランらが1923年に創刊した『ユーロープ (欧州)』誌の編集委員を務めるほか、チェコスロバキア、イタリア(ミラノ、ローマ)、ユーゴスラビア、ギリシャなどで講演を行った。1946年11月28日、ヌーシュが脳卒中で急死、享年40歳。エリュアールは絶望に陥った。翌47年にヌーシュ追悼詩集『時は溢れる』(筆名ディディエ・デロッシュ)および『記憶すべき肉体』(筆名ブラン)を発表した。 1948年8月にポーランドのヴロツワフで知識人世界平和会議が開催され、エリュアールは、ピカソ、フェルナン・レジェ、イレーヌ・ジョリオ=キュリーとともに参加。世界平和評議会が結成され、ピカソの鳩が平和運動の象徴となった。翌49年4月にパリで開催された平和擁護世界大会に世界平和評議会代表として参加した。 エリュアールは、1949年に再度ギリシャを訪れた。今回はド・ゴール内閣で食糧相を務めた平和評議会議長のイヴ・ファルジュ(フランス語版)とともにマケドニアの山岳地帯、グラモス山の根拠地にパルチザン(英語版)部隊を見舞うためであった。同年9月に世界平和評議会代表としてメキシコで開催された大会に参加し、ここで、最後の詩集『不死鳥』を捧げることになるドミニク・ルモールに出会った。『不死鳥』所収の詩にエリュアールは、「人間は生れついている、互いに共鳴するように、互いに理解し合うように、愛し合うように・・・きみがやってきて孤独は敗れ去った」(大島博光訳)と書いた。二人は1951年に結婚した。 1950年に『ワルシャワ・ゲットーの殉難者と闘士に捧げる詩』を発表。ドミニクとチェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ソ連を訪れ、ソ連では仏ソ協会代表としてメーデーの祭典に参加した。1951年10月にピカソとの共著『平和の顔』が刊行された。鳩と女性の顔を重ねたピカソの石版画29作のそれぞれにエリュアールが詩を書いた詩画集である。 1952年2月にジュネーヴで「状況の詩」に関する講演を行い、2月末から3月初めにかけてモスクワで行われたヴィクトル・ユーゴー生誕150年祭とニコライ・ゴーゴリ没後100年祭した。9月に狭心症の発作を起こした。11月18日、再度の発作を起こして死去、享年56歳。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。 ^ Luc Decaunes (1982) (フランス語). 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Nicole Racine, ÉLUARD Paul (GRINDEL Eugène, Émile, Paul dit) Pseudonymes : Didier Desroches, Brun, Jean du Haut, Maurice Hervent - Maitron. Eugène Grindel, dit Paul Éluard - Éditions Larousse - Encyclopédie Larousse en ligne. ダダイスム シュルレアリスム レジスタンス運動 深夜叢書 ルイ・アラゴン 主な図書館収蔵著作物 他の図書館収蔵著作物 オンライン著作物 主な図書館収蔵著作物 他の図書館収蔵著作物 ポール・エリュアール公式ウェブサイト(友の会)(フランス語) 大島博光記念館公式ウェブサイト - 訳詩を多数掲載 ポール・エリュアール「ゲルニカ」(『苦しみの武器』大月書店。1951年) - ARCHIVE
表 話 編 歴 ウジェーヌ・アジェ ジャン・アルプ ケルテース・アンドル 上原木呂 アイリーン・エイガー マックス・エルンスト ジャック・エロルド 大島哲以 大塚耕二 尾澤辰夫 メレット・オッペンハイム クロード・カアン フリーダ・カーロ 加清純子 鎌田正蔵 北脇昇 レオノーラ・キャリントン イセル・コフーン フリオ・ゴンサレス アルベルト・ジャコメッティ 古賀春江 インジフ・シュティルスキー アンドレ・スーリー ケイ・セージ 高井貞二 ドロテア・タニング モーリス・タバール サルバドール・ダリ イヴ・タンギー ウニカ・チュルン マルセル・デュシャン ポール・デルヴォー クリスチャン・ドートルモン オスカル・ドミンゲス トワイヤン ヴォルフガング・パーレン レメディオス・バロ レオノール・フィニ ゴードン・オンスロー・フォード 福沢一郎 ルイス・ブニュエル ビル・ブラント エミー・ブリッジウォーター ファニー・ブレナン ヴィクトル・ブローネル ハンス・ベルメール ローランド・ペンローズ ジャック=アンドレ・ボワファール ドラ・マール ルネ・マグリット アンドレ・マッソン ロベルト・マッタ マルセル・マリエン 三岸好太郎 リー・ミラー ジョアン・ミロ ヘンリー・ムーア デズモンド・モリス 矢崎博信 山元恵一 米倉壽仁 ヴァランティーヌ・ユゴー ヴィフレド・ラム ジャクリーヌ・ランバ マン・レイ マクシム・アレクサンドル ギヨーム・アポリネール イレーヌ・アモワール ルイ・アラゴン アントナン・アルトー 上田敏雄 ポール・エリュアール ロジェ・カイヨワ ニコラス・カラス レーモン・クノー ジュリアン・グラック ルネ・クルヴェル ジャン・コクトー イヴァン・ゴル ルネ・シャール アルフレッド・ジャリ フィリップ・スーポー カレル・タイゲ 瀧口修造 棚夏針手 アンドレ・ティリオン トリスタン・ツァラ ロベール・デスノス ルネ・ドーマル ピエール・ナヴィル 西脇順三郎 ジョルジュ・バタイユ ジャック・バロン 冨士原清一 アンドレ・ブルトン ジャック・プレヴェール バンジャマン・ペレ フランシス・ポンジュ ジョイス・マンスール ルネ・メニル ジュール・モヌロ ジョルジュ・ランブール ジャック・リゴー ピエール・ルヴェルディ マルセル・ルコント ロジェ・ジルベール=ルコント ミシェル・レリス 山中散生 山本悍右 ジョルジュ・ユニエ アセファル 社会学研究会 第一宣言 ダダイスム 抽象表現主義 国際シュルレアリスム展 ロンドン国際シュルレアリスム展 自動記述 シュルレアリスム革命 デペイズマン 優美な屍骸 フロッタージュ コラージュ デカルコマニー トロンプ・ルイユ フュマージュ FAST ISNI VIAF WorldCat ノルウェー スペイン フランス BnF data アルゼンチン カタルーニャ ドイツ イタリア イスラエル フィンランド ベルギー アメリカ スウェーデン ラトビア 日本 チェコ オーストラリア ギリシャ 韓国 クロアチア オランダ ポーランド ポルトガル バチカン CiNii Books CiNii Research MusicBrainz ニューヨーク近代美術館 ヴィクトリア国立美術館 オランダ美術史研究所データベース ULAN ドイッチェ・ビオグラフィー Trove(オーストラリア)
RISM SNAC IdRef 20世紀フランスの詩人 フランスのシュルレアリスト詩人 フランスのダダイスト フランスのレジスタンス運動家 フランス共産党の人物 結核に罹患した人物 サン=ドニ出身の人物 1895年生 1952年没 出典の日付が正しくないページ FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BIBSYS識別子が指定されている記事 BNE識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 BNMM識別子が指定されている記事 CANTICN識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 ICCU識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 KANTO識別子が指定されている記事 KBR識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 Libris識別子が指定されている記事 LNB識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NKC識別子が指定されている記事 NLA識別子が指定されている記事 NLG識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NSK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 PLWABN識別子が指定されている記事 PortugalA識別子が指定されている記事 VcBA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 MusicBrainz識別子が指定されている記事 MoMA識別子が指定されている記事 NGV識別子が指定されている記事 RKDartists識別子が指定されている記事 ULAN識別子が指定されている記事 DTBIO識別子が指定されている記事 Trove識別子が指定されている記事 RISM識別子が指定されている記事 SNAC-ID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2025/04/01 15:03更新
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Paul Eluard
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