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マーティー=ブラウン
マーティー=ブラウン(Marty Leo Brown)さんの誕生日は1963年1月23日です。
采配、度重なる退場処分などについてまとめました。引退、結婚に関する情報もありますね。現在の年齢は61歳のようです。
マーティ・レオ・ブラウン(Marty Leo Brown, 1963年1月23日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州コマンチ郡ロートン出身の元プロ野球選手(外野手及び内野手)・監督。右投右打。 日本では、広島東洋カープで選手としてプレー。その後広島および東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務めた。 1985年のMLBドラフト12巡目(全体292位)でシンシナティ・レッズから指名され、プロ入り。 1988年にメジャー初昇格。 1990年にボルチモア・オリオールズに移籍し、通算35試合に出場。その後、オリオールズ傘下(当時)のAAA級ロチェスター・レッドウイングスでプレーする。 1991年にクリーブランド・インディアンス傘下(当時)のAAA級コロラドスプリングス・スカイソックスでプレー。 1992年に広島東洋カープに入団。さほど突出した成績は残さなかったが、ヘッドスライディングや外野フライをキャッチした後にフェンスを乗り越えるプレーなどが話題となる。 1994年に広島を自由契約となる。 1996年にテキサス・レンジャーズ傘下(当時)のAAA級オクラホマシティ・エイティナイナーズに所属したのを最後に現役を引退した。 1997年からMLBのマイナーリーグで監督を務めた。 2003年からクリーブランド・インディアンス傘下(当時)のAAA級バッファロー・バイソンズの監督に就任。 2004年にはインターナショナルリーグで優勝、週刊誌『ベースボール・アメリカ』からマイナーリーグ最優秀監督賞を受賞する。この3年間の成績は、238勝193敗、勝率.552であった。また、AAA級監督時代に3年間で22回の退場を記録した。2004年にはグレッグ・ラロッカ、2005年にはケニー・レイボーンを古巣の広島カープに送り込むなどの実績も残していた。 2006年から広島東洋カープの監督に就任する。 2008年は勝率5割にわずかに届かなかったものの、最後までクライマックスシリーズ進出争いに踏みとどまり、4位で終了。ファンサービスを重視し、サインや写真撮影などを求められた時は笑顔で応じている。なお、現役時代はファンから「ブラウン」と呼ばれていたが、監督就任後は本人の要望で「マーティ」と呼ばれることも多い。 2009年シーズンは、10月4日の対横浜戦で敗戦したため、Bクラスが確定し退任が決定。10月10日の対巨人戦が広島で指揮を執る最後の試合となった。私生活では、この2009年キャンプイン前日に日本人女性と結婚し、オーナーの松田元に祝福を受けた。 2010年から東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任。楽天球団初の外国人監督となった。背番号は広島時代の「71」から、ブラウン自身のラッキーナンバーを揃えた「81」に決定。コーチ人事はヘッドコーチのジェフ・リブジー以外球団主導で決まった。球団からはブラウンをモチーフにしたBaby-Brownという公認マスコットが発表された。前年、初のAクラス入り(2位)を果たしたチームを引き継いだが、開幕から4連敗するなどシーズンを通して一度も勝率5割に届かず、チームとして4年ぶりの最下位に終わった。全日程を終了した9月29日、球団から解任が発表され、10月21日に帰国した。 帰国後の同年11月30日、トロント・ブルージェイズ傘下(当時)のAAA級ラスベガス・フィフティワンズの監督に就任。 2013年からは、この年よりブルージェイズ傘下に変更となったAAA級バッファローの監督に就任し、同年退任。 2014年には、ワシントン・ナショナルズの環太平洋地域コーディネーターに就任。 2015年からは、ミズーリ州ローラ(英語版)で自身の名前を冠した野球アカデミーを運営している。同アカデミー運営開始のきっかけは、自分が育った町から強豪大学に進学したりプロでキャリアを積み上げたりする選手が少なかった。故郷の野球レベルを上げる手助けをしたいといった内容である。 采配担当コーチによる選手評価表を導入し、1-2軍スタッフの情報共有を積極化した。31年ぶりにキャプテン制を導入し、黒田博樹を投手キャプテン、前田智徳を野手キャプテンに指名する。先発は黒田と大竹寛・ショーン・ダグラスを軸に、大島崇行・佐々岡真司を加えた5投手で中4日100球目処のローテーションを組んだ。中継ぎもローテーション形式として1登板につき2イニング30球を限度とし、3連投しない形をとった。守備では逆シングルを推奨し、一・三塁線を大きく開ける守備シフトを敷いた。打線では出塁率を重視し、1番に緒方孝市、2番に前田を据えるが、9試合連続2得点以下という日本新記録をマークしたため、オーダーを元に戻して復活した。また捕手以外の野手(内野手・外野手)を使い切ってしまうことが度々あった。5位に終わったが、2007年の続投が決定した。 前年同様に黒田を投手、前田を野手のキャプテンに指名。投手は先発ローテーションを中4日から中5、6日とし、また先発陣を中継ぎに起用することもあった。春先はある程度の安定があったものの調子を落とし、交流戦では黒田以外の先発投手に勝ち星が付かなかった。抑えの永川勝浩も不安定で、接戦を落とす試合が多かった。 捕手は打撃向上と1年間正捕手の固定を掲げる。4月は打撃好調の倉義和が、交流戦前からは石原慶幸がマスクを被る機会が増えるが、打撃の好不調や先発投手との相性もあり固定には至らなかった。 打線は梵英心を1番、東出輝裕を2番に固定、3~6番のどこかに前田を入れ、他の打順に新井貴浩・嶋重宣・栗原健太を据える。7番は緒方で固定。前年と同じように4月は調子が上がらず、5月に一時調子を上げるも交流戦では再び貧打となる。投手陣の不調も重なって交流戦では大きく負け越し、交流戦後に前年に中日を退団したアレックス・オチョアが加入して打線のテコ入れを図るも、最終的には最下位と1ゲーム差の5位で終わる。 野手では若い天谷宗一郎、FAで移籍した新井の人的補償で加入した赤松真人などの俊足外野手をスタメンに抜擢。守備に衰えが見えている前田を代打転属とし、機動力と守備重視の布陣にする。4番の栗原は好成績を残したが、新井が抜けた三塁手を埋める形で加入したスコット・シーボルが活躍出来なかった。一方で新人の小窪哲也が、極度の不振に陥った梵と、なかなか日本に適応しなかったシーボルの穴を埋める活躍を見せた。 黒田の移籍を受けた投手陣は、ベテランの高橋建と新加入のコルビー・ルイスが前半戦のチームを牽引した。特にルイスは中4日で登板し、交流戦では5勝を挙げ交流戦勝ち越しに貢献。抑えの永川も抜群の安定感を見せ、シーズン終盤は前田健太・篠田純平・齊藤悠葵といった若い投手を先発に抜擢するとこれが当たり、一時は3位に食い込んだものの、最後は中日に追い抜かれて4位で終えた。 本拠地がMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に変わり、前年から取り組んだ野球の真価が問われるシーズンとなった。球場が広くなったことで投手力はある程度向上したが、打力が低下し投打が噛み合わなかった。盗塁数は前年より増えたもののリーグ5位にとどまり、アレックスの放出で手薄になった中軸は栗原、嶋、シーボルの誤算が大きく、スコット・マクレーン、アンディ・フィリップスとシーズン中に加入した外国人野手で得点力向上を試みた。ヤクルトの失速で一時は3位争いに加わるも、結果的には新しい本拠地で負け越していることと打線の不調が最後まで響いて5位に終わる。このシーズンを最後に監督を退任した。 野村克也の後任として東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任。先発ローテーションは田中将大、岩隈久志、永井怜を軸に組んだ。野手では聖澤諒、内村賢介などの若手選手を積極的にスタメン起用した。しかし、チームは開幕4連敗を喫するなど低迷。交流戦を勝ち越して借金1まで復調するが、パリーグ同士の対戦が再開すると負けが先行していった。トッド・リンデンの再三のトラブルにも泣かされた。終わってみれば開幕から1度も勝率5割に達することなく、5位のオリックスと7.5ゲーム差付けられる最下位に沈み、シーズン終了を以って解任となった。 終盤で同点、もしくはビハインドで無死または1死で走者が三塁にいる場合、しばしば内野手5人、外野手2人のシフトをとる。 広島監督時代 楽天監督時代 2006年8月13日の対読売ジャイアンツ戦終了後の会見で、「巨人の原監督、ヤクルトの古田監督は尊敬しているが、他球団ではサインなどでルール違反が行われている。見つかったら大変なことになる。いつまでもやられっぱなしでは終われない。特に次に対戦するチームの監督はよく聞いてほしい」と発言した。 この次に対戦するチームとは中日ドラゴンズで、あたかも中日・阪神・横浜が不正を働いているかのような発言だったため、これを聞いた中日監督の落合博満は、8月14日の降雨による試合中止決定後、自ら記者会見を開くほど激怒した。翌日に中日の球団社長・西川順之助、球団代表・伊藤一正が急遽広島入りして広島の球団部長・鈴木清明から事情を聞くとともに、一連のブラウン発言での謝罪を受け、落合も「社長に任せる」とコメントしたため球団間での対立は一応回避された。この騒動以降、ブラウンと落合は試合前のメンバー表交換の時ですら目を合わせないほどであったが、10月16日に広島市民球場で行われた両チームのシーズン最終戦前のメンバー表交換時には握手を交わし、この騒動は一応の決着をつけた。 中日と同じく批判の対象となった阪神、横浜両球団の監督及び関係者はこの件に対して静観する姿勢を示し、横浜の監督・牛島和彦へは直接会って謝罪するなど、こちらは大きなトラブルにはならなかった。 メジャーリーグなどでは自軍の打者に対して相手投手の球種を伝えてはいけないことになっているが、セ・リーグでは禁止事項になっていないため、ブラウンの一連の発言は日米におけるルールの相違から生じたものであることが判明した。 度重なる退場処分ブラウンは、広島・楽天時代を通じて監督として史上最多となる12回の退場処分を受けている。その際にベースを投げたり、ホームベースを土で隠す行為に及ぶことがあったため批判される対象となった。ちなみに退場回数が一番多いのは14回のタフィ・ローズだが監督時代だけで一番退場が多いのはブラウンである。 2024/05/18 16:43更新
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Marty Leo Brown
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