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モハメド=アリの情報 (MuhammadAli)
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モハメド=アリの情報(MuhammadAli) ボクシング 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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モハメド=アリさんについて調べます

■名前・氏名
モハメド=アリ
(読み:Muhammad Ali)
■職業
ボクシング
■モハメド=アリの誕生日・生年月日
1942年1月17日 (年齢74歳没)
午年(うま年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和17年)1942年生まれの人の年齢早見表

モハメド=アリと同じ1942年生まれの有名人・芸能人

モハメド=アリと同じ1月17日生まれの有名人・芸能人

モハメド=アリと同じ出身地の人


モハメド=アリの情報まとめ

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モハメド=アリ(Muhammad Ali)さんの誕生日は1942年1月17日です。

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人物、生涯などについてまとめました。引退、映画、脱退、事件、家族、父親、テレビ、卒業、現在、病気に関する情報もありますね。74歳で亡くなられているようです。

モハメド=アリのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

モハメド・アリ(Muhammad Ali、英語発音: [muˈhɑməd ɑːˈliː]、1942年1月17日 - 2016年6月3日)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー、アクティビスト。ケンタッキー州ルイビル出身。元WBA・WBC世界ヘビー級統一王者。ローマオリンピックライトヘビー級金メダリスト。出生名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(Cassius Marcellus Clay Jr.)。

イスラム教改宗前の本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(Cassius Marcellus Clay Jr. 英語発音: [ˈkæsɪəs mɑrˈsɛləs kleɪ])。1964年にネーション・オブ・イスラムへの加入を機に、リングネームをカシアス・クレイからカシアス・X、次いでモハメド・アリに改めた(モハメッド・アリ、ムハマド・アリという日本語表記もある)。

1960年、18歳の時にローマオリンピックライトヘビー級で金メダルを獲得。その後プロに転向し、1964年には当時「史上最強のハードパンチャー」と称されたソニー・リストンを相手に大番狂わせを演じ、22歳でWBA・WBC世界ヘビー級統一王座を獲得した。ジョージ・フォアマンとザイールで対戦し、8Rでの一発大逆転を演じたタイトルマッチ(キンシャサの奇跡)や、ジョー・フレージャーとの3度にわたる死闘など、ボクシング史上に残る数々の名勝負を行っている。最終的には、ヘビー級史上初となる通算3度の王座獲得成功と19度の王座防衛に輝いた。「歴史上最も偉大なアスリート」のランキングにおいてトップにランクされることが多く「20世紀で最も偉大なスポーツ選手」とも称される。

引退から3年が経った42歳のとき、現役時代に受けた頭部へのダメージが原因とされるパーキンソン病と診断され闘病生活を送っており、2016年6月3日に74歳で死去した。死因は敗血症ショック。

弟のラーマン・アリ(英語版)、娘のレイラ・アリも元プロボクサーであり、レイラはWBC世界女子スーパーミドル級の初代王者となり、ジョー・フレージャーの娘であるジャッキー・フレージャー・ライドと2001年に対戦している。総合格闘家のケビン・ケーシー(英語版)は義理の息子。また、孫にプロボクサーのニコ・アリ・ウォルシュ、総合格闘家のビアッジョ・アリ・ウォルシュ、父方の祖先にアーチャー・アレクサンダー(英語版)(1815-1880)がいる。

人物

ファイトスタイル

大男の力任せな殴り合いだったパワー偏重のヘビー級ボクシングにおいて、アリはリング上を縦横無尽に絶え間なく旋回する「ダンシング」と形容される華麗なフットワークと、両手を低く構え予想外の角度から放たれる鋭い左ジャブを活用する型破りなアウトボクシングを持ち込んだ。また、アリは決してハードパンチャーではなかったが、相手のジャブにカウンターの右ストレート合わせる離れ業や、ブライアン・ロンドンとの試合で見せた2.8秒の間に12発のパンチを放つ驚異的なスピード、並外れた反射神経と動体視力を駆使し相手のパンチをノーガードで交わすディフェンス技術を持っていた。マイク・タイソンが出現した現代においてもなお、ヘビー級史上最速と評価される(アリを尊敬しているタイソン自身がアリとの比較で「アリは私には速すぎる」と語っている)。タイソンの共同マネージャーだったジミー・ジェイコブスは、シンクロナイザーを用いて全盛期のアリと、パウンド・フォー・パウンド史上最高のボクサーと称されたシュガー・レイ・ロビンソンのパンチ速度を測定したところ、アリの方が50ポンド(22.6kg)体重が重かったのにもかかわらず、アリのパンチはロビンソンのパンチよりも25%速く、アリのパンチは約1000ポンド(453.5kg)の威力を生み出していたという。全盛期のアリと対戦したジョージ・シュバロは「彼はとにかく速かった。彼がパンチの射程距離に入った時には、もう既に彼が先にパンチを打ち始めていた。だから、もし君がパンチを当てるために彼が射程距離に入るのを待っていたら、君は殴られ続けることになるだろう」と語っている。映画『ALI アリ』でアリ役を演じたウィル・スミスのトレーナーを務めたダレル・フォスターは「アリの特徴的なパンチは左ジャブと右オーバーハンドだった。また、アリは少なくとも6つの種類のジャブを使い分けていた」と語っている。蝶のように舞い、蜂のように刺す(Float like a Butterfly, Sting like a Bee)という著名なフレーズは、アリのトレーナーのドリュー・バンディーニ・ブラウン(英語版)がアリのフットワークとパンチを形容したもので、試合前によく肩を組んで「蝶のように舞い、蜂のように刺す!」と一緒に叫ぶパフォーマンスを見せていた。キャリア後期になりスピードとフットワークが衰えると、アリは試合中に自らロープにもたれかかり(ロープの弾力を利用し相手のパンチの衝撃を和らげるため)両腕でガードを固め、相手のパンチを腕でブロックしながら、時にリング外にのけぞるようにスウェーしてパンチを回避し、相手が攻め疲れたところを反撃するクレバーな戦法を取るようになり、これは後に『ロープ・ア・ドープ(英語版)』として定着した。ボクシング審判員のアーサー・メルカンテ(英語版)は、キャリア晩年のアリについて「アリは全ての技術を知っていた。特にクリンチの技術は私が見た中で最高だった。彼はクリンチを体力回復の為に用いただけでなく、身体の大きさを活かして相手に寄りかかり、押したり引っ張ったりして相手に休む暇を与えず、着実に体力を奪っていた」「彼はとても賢かった。ほとんどのボクサーはただリング上で無我夢中に戦っているだけだが、アリはリング上で起こっていることの一瞬一瞬を全て感じ取っていた。まるでリングサイドに座って試合を分析しながら戦っているかのようだった」と評している。

トラッシュ・トーク

トラッシュ・トーカーとして有名であり、注目を集めるための自己宣伝が非常に派手で巧みだった。「俺が最強だ」「俺が最も偉大だ」と公言し、わざと物議をかもす言動をし、試合の相手をからかった詩を発表し、KOラウンド数を予告してリングにあがった。また、60年代の時点で既に韻を踏むなどヒップホップの要素を取り入れたトラッシュ・トーク(リストン戦前に語った『If you like to lose your money, be a fool and bet on Sonny. But if you wanna have a good day, then put it on Clay.(もしお前が金を失いたければ、ソニーに賭けて愚か者になれ。だが、良い日を過ごしたいなら、クレイに賭けるんだな)』など)を披露しており、後世のヒップホップ・ミュージックに影響を与えた人物、あるいはラッパーの先駆者、史上初のラッパーとも称される。80年代から90年代を代表するラッパーのLL・クール・Jは「アリがいなかったら俺のヒット曲は存在しなかっただろうし、G.O.A.T.(Greatest of All Timeの略)という言葉も生まれなかっただろう」と語り、他にもジェイ・Z、エミネム、ショーン・コムズ、スリック・リック、ナズ等のラッパーからインスピレーションを受けた人物として挙げられている。アリの言動は一部の反感を買い、ベトナム徴兵忌避もあり、多数のアンチを生み出した。 本人はこの言動の理由を「ホラを吹けばみんな俺の試合を見にくるし、プロモーター達には、俺の試合が金になることが判るんだ。野次や怒号の中をリングにあがるのはいい気分だ。最後は俺の予告どおりになるんだからね」としている。

マルコム・Xとの関係

マルコム・Xは1962年にデトロイトで、初めてアリに出会ったと回想している。その後、マルコムがネーション・オブ・イスラムを脱退し、アリにスンニ派イスラム教への改宗を勧めたが、アリはマルコムとの関係を絶ってしまった。これについてアリは「人生で最も後悔している出来事の1つ」と自伝で述べている。

アリが影響を受けたボクサー

シュガー・レイ・ロビンソンを尊敬しており実際に影響をうけたと指摘する声も存在した。レオン・スピンクスとの再戦を前に「俺は三度ヘビー級王座を獲得する最初の男になる。ヘビー級のシュガー・レイ・ロビンソンになるんだ」と語っている。また、現役時代にアリはロビンソンについて「タイミング、スピード、反射神経、リズム、筋肉、全てが美しかった」「俺はヘビー級において史上最高だが、パウンド・フォー・パウンドにおいては、未だにシュガー・レイ・ロビンソンが史上最高だろう」と語っている。後にはシュガー・レイ・レナード等を育てた名トレーナー、アンジェロ・ダンディー(英語版)と常にコンビを組んでいた。

アリは現役時代に史上最高のボクサーの1人として黒人初の世界ヘビー級王者ジャック・ジョンソンを挙げており、1978年のインタビューで「ジャック・ジョンソンは私にとって大きなインスピレーションだった。白人が黒人をリンチしていた時代にもかかわらず、彼の言動は全て大胆不敵だった」と語っている。

後世に与えた影響

アリはボクシングのみならず様々なジャンルのアスリートや著名人から尊敬され、目標とされている人物である。

アスリート・著名人からの評価

    バラク・オバマ『モハメド・アリは史上最高だった。ほんの少しの間でも、彼と知り合えたことを神に感謝している』オバマは大統領時代に、アリから贈られたボクシンググローブとアリの写真をホワイトハウス内に展示していた。
    アリの写真集を紹介するオバマ(2016年、ホワイトハウス内にて)

    ドナルド・トランプ『彼はリング上では獰猛で、リング外では最も親切な人物だった』

    ビル・クリントン『彼はボクサーだがリング上ではバレリーナのように優雅だった。彼の動き、スピード、パワー。それは魔法そのものだった。また、彼は全世界に属していながら、決してアメリカ人としての誇りを捨てなかった』

    2000年のアリ(右)とクリントン(左)

    マイケル・ジョーダン『モハメド・アリはスポーツよりも大きく、偉大な存在だった。彼自身が言うように"史上最高"だった』

    アーノルド・シュワルツェネッガー『モハメド・アリは私のアイドルであり、私たち全員のモチベーションだった』

    マイク・タイソン『全ての頭は彼にお辞儀をし、全ての口は彼を"史上最高"だと告白しなければならない』

    ペレ『モハメド・アリは私の友人であり、同時に私のアイドルであり、ヒーローだった』

    デビッド・ベッカム『彼が偉大なボクサーであったことは疑いの余地がない。彼は史上最高だった。モハメド・アリが成し遂げてきた功績は私たちの想像を超えている』

    2012年のアリ(中央)とベッカム(右)

    生涯

    生い立ち

    1942年1月17日、アメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビルのルイビル総合病院で、父カシアス・シニアと母オデッサの間に、カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(奴隷制廃止のために活動した19世紀の政治家カシアス・マーセラス・クレイに由来)として生まれた。アリは南北戦争時代の黒人奴隷の子孫でアフリカ系アメリカ人だが、イングランドとアイルランドの血も引いており、母方の曽祖父であるエイブ・グレイディはアイルランドのクレア州エニスからの移民であった。アリは人種差別の中で育ち、幼少期に黒人であることを理由にレストランで水を飲むことを拒否されるなどの仕打ちを受けた。また、幼少期にアリは1955年に起こった黒人少年エメット・ティル殺害事件に衝撃を受け、後年にも「エメット・ティルの話ほど私を揺さぶるものはなかった。彼は私とほぼ同い年だったんだ」と語っていたという。母オデッサはキリスト教への強い信仰を通して、アリと弟ラーマンの精神的な成長に大きな影響を与えた。アリは後に、母オデッサについて「私の母はバプテスト派で、私が成長したとき、母は神について知っていることを全て教えてくれた。毎週日曜日になると、彼女は私に服を着せて、私と弟を教会に連れて行き、彼女が正しいと思う道を私たちに教えてくれた。人を愛すること、誰にでも親切に接すること、偏見や憎しみを持つことは間違っていると教えてくれた。彼女は優しく、太っていて、そして、料理をすること、食べること、服を作ること、家族と一緒にいることが大好きな、素晴らしい女性だった。彼女は酒も飲まず、タバコも吸わず、他人の仕事にも口出しをせず、誰にも迷惑をかけなかった。人生の中で、誰よりも私に良くしてくれた人だった」と振り返っている。アリは小学生の頃、父親から誕生日にプレゼントにもらった自転車を宝物にしており、それに乗ってよく近所にポップコーンとアイスクリームをもらいに行っていた。ところが12歳の時、誰かに自転車を盗まれ、警察に行った際に対応した警官のジョー・E・マーティン(英語版)がボクシングジムのトレーナーもしており、「犯人を殴りたい」と泣きながら言うアリにボクシングを勧めた。当初、アリはマーティンの申し出を断ったが、地元テレビのボクシング番組「トゥモローズ・チャンピオンズ」でアマチュアボクサーの試合を観てボクシングに興味が湧き、後日マーティンのボクシングジムに入った。これが、モハメド・アリがボクシングを始めたきっかけとなった。

    アマチュア時代

    ジムに入門後、アリは8週間でアマチュアボクサーとしてデビューした。対戦相手は、アリ同様にデビューしたてのロニー・オキーフだった。試合は3分3Rで行われ、スプリットデシジョンで判定勝ちした。アリが通っていたジムには、後のWBA世界ヘビー級王者ジミー・エリスも通っており、アリはアマチュア時代にエリスと2度対戦し、1勝1敗の戦績を残した。この間に、アリはヴァージニア大通り小学校とデゥヴァル中学校を卒業。セントラル高校に進学したが、アリは生まれつきディスレクシア(失読症)であったため、読み書きの際に困難が生じた。後にアリは、当時を「高校生の時、多くの教師が私に『馬鹿』というレッテルを貼っていた。だが、私は誰が本当の馬鹿なのかを知っていた。私は辛うじて高校を卒業し、そのまま大学に行くなんて考えたこともなかった。教科書もほとんど読めなかった。だが、それでも私は幸運だった。私には別の道(ボクシング)で偉大さを追求するための信念と自尊心があったからね」と振り返っている。なお、アリの娘の1人であるミヤもディスレクシアを患っている。

    その後、ケンタッキー州ゴールデングローブで6度優勝し、1959年、1960年の全米ゴールデングローブで2年連続優勝した。さらに、AAU全米選手権のライトヘビー級でも1959年から2年連続優勝を果たした。

    1960年9月に開催されたローマオリンピックボクシング競技(ライトヘビー級)に出場。決勝で前年度ヨーロッパチャンピオンのポーランドのズビグニェフ・ピトロシュコスキ(ポーランド語版)を判定で破り金メダルを獲得する。しかし帰国後、金メダルを首から下げ白人が経営するレストランに入店しチーズバーガーを注文したところ、ウェイトレスから「たとえ"カシアス・クレイ"であろうと、黒人に食事は提供しない」と言われたため、「アメリカを代表して金メダルを取っても黒人差別を受けるのならば、この金メダルには何の価値もない」と考えたアリは金メダルを自らオハイオ川に投げ捨てる事件を起こした。このエピソードは1975年に出版した自伝の中で書かれたものであるが、アリの友人数人がこのエピソードを否定しており、後に出版された伝記でも、エピソードは創作されたもので、実際にはメダルは単にアリが紛失したのだとの説も存在する。最終的に、アリは100勝5敗の戦績でアマチュアのキャリアを終えた。

    プロ転向と改名

    1960年10月29日にプロデビュー。タニー・ハンセーカー(英語版)と対戦し、6回3-0の判定勝ちを収め、プロデビュー戦を勝利で飾る。また、プロ転向直後にネーション・オブ・イスラムの信徒であると公表し、リングネームを現在の本名である、ムスリム(イスラム教徒)名モハメド・アリ(ムハンマド・アリー)に改めた。この名前は、預言者ムハンマドと指導者(イマーム)アリーに由来する。なお、1975年にはイスラム教スンナ派に改宗した。

    この頃、アリは元世界ライトヘビー級王者アーチー・ムーアのトレーナーを務めていたが、アリが皿洗いや掃除などの雑用を拒否したこともあり、1960年にムーアのキャンプを離れた。ムーアの後任として、アリはアマチュア時代から親交のあったアンジェロ・ダンディー(英語版)をトレーナーとして雇った。この際、アリは憧れのボクサーでもあったシュガー・レイ・ロビンソンにマネージャーになって欲しいと懇願したが拒否されている。

    1962年11月15日、アリのトレーナーであった元世界ライトヘビー級王者アーチー・ムーアと対戦。試合前に、控え室の黒板に「ムーアを4回にKOする」という予告を書いてリングに向かい、その予告の通り4回にダウンを3度奪ってKO勝ちを収めた。

    1963年3月13日に、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで元世界ライトヘビー級王座挑戦者ダグ・ジョーンズ(英語版)と対戦。アリは試合前にジョーンズを6回にKOすると予告してリングに上がるが、試合はアリがキャリア初とも言える苦戦を強いられた形となり辛うじて10回3-0の判定勝ちを収めた。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤー(年間最高試合賞)に選出されたが、アリは試合前のKO予告を外しただけでなく、判定が僅差までもつれ込む内容であったため、試合後に新聞からバッシングを浴びた。また、試合をリングサイドで観戦したWBA・WBC世界ヘビー級王者ソニー・リストンは「私がクレイ(アリ)と戦ったら、私は殺人罪で投獄されるかもしれない」とアリのパフォーマンスを皮肉混じりで批判した。

    リストンとの対戦

    1964年2月25日、フロリダ州マイアミビーチのコンベンション・センターでWBA・WBC世界ヘビー級統一王者ソニー・リストンに挑戦。リストンは元世界ヘビー級王者フロイド・パターソンに2試合連続で1回KO勝ちし、史上最強のハードパンチャーと評されていた。そのため、当時22歳だったアリは圧倒的不利と目され、オッズは7対1でリストンが優位だった。しかし、アリは臆せずリストンを「醜い熊」呼ばわりし「試合後に奴を動物園に寄付するつもりだ」と挑発、アリの度重なる挑発に怒ったリストンがアリに向かって拳銃の空砲を撃つ場面もあった。また、試合前の計量ではリストンに対して「今夜、リング上で誰かが死ぬだろう」と予告した。アリの脈拍数は120と測定され、通常の値となる54の2倍以上であったため、多くの人はアリの言動は虚勢を張っているだけだと考え、解説者の中にはアリが試合に現れるかどうか疑問に思う者さえいた。試合が始まると、リストンは早期決着を狙いアリに向かって突進するが、アリは軽やかなフットワークとスピードでリストンを翻弄。3回にはパンチのコンビネーションでリストンをぐらつかせ、左目の下に傷を負わせた。4回終了時、アリはトレーナーのアンジェロ・ダンディーに目の痛みを訴え、これはリストンの目の傷を塞ぐための軟膏を、リストンのコーナーが意図的にグローブ表面に塗布したのが原因だと推測されている。その後、6回にアリはリストンを圧倒し、鋭いパンチをヒットさせ続け、7回開始時にリストンが椅子から立ち上がれなくなったため大番狂わせとなるTKO勝ちを収め王座獲得に成功した。アリは試合終了直後にリングの端に駆け寄り、リングサイドの報道陣を指差して「前言を撤回しろ!」と叫び、試合終了後のインタビューで「俺は史上最高だ!俺は世界を震撼させた!」と興奮冷めやらぬ様子で叫んだ。試合後、アリは正式に本名をカシアス・クレイからモハメド・アリへと改名した。

    1965年5月25日、メイン州ルイストンのシビック・センターで元WBA・WBC世界ヘビー級統一王者ソニー・リストンとダイレクトリマッチで対戦し、左ジャブを放ったリストンにアリがカウンターの右ストレートをヒットさせダウンを奪い、1回2分12秒KO勝ちを収め王座の初防衛に成功した。しかし、リストンの倒れ方が不自然であったことから意図的に自ら試合を投げ出したのではないかと推測されている。動機としては、試合前のネーション・オブ・イスラムからの脅迫、リストンと関わりのあったマフィアの関与、また、借金を返済するためにリストン自身がアリに金を賭けてわざと負けた説などが挙げられているが真偽は定かではない。リストンは後に試合を投げ出したことを否定したが、アリについて「あの男はクレイジーだ。彼とは何の関わりも持ちたくなかった。彼の周りにはイスラム教徒がいる」と意味深な発言をしている。アリはフィニッシュブローとなった一瞬の右ストレートを、高速すぎて見えないという意味を込めて『Phantom Punch』(幻のパンチ)と名付けた。なお、この試合で写真家のニール・ライファーとジョン・ルーニーがリングサイドから撮影した、倒れたリストンを見下ろして叫ぶアリの写真は、アリを象徴する最も有名な写真とされており、バラク・オバマは大統領時代にその写真を額縁に入れてホワイトハウス内の壁に飾っていた。

    アリは引退後のインタビューで「リストンは当時史上最高のボクサーだった。彼はパターソンを2度KOするほどのパンチを持ち、彼の片手は俺の両手よりも大きかった。当時誰もが彼を恐れていた」と語り、アリ自身もリストンとの対戦を前に「死の恐怖」があったと振り返っている。また、2戦目でダウンを奪った際に、アリはリストンに対して「立ち上がって戦え!」と叫んでいたが、内心は立ち上がって欲しくなかったと同インタビューで語っている。

    パターソンとの対戦

    1965年11月22日、ネバダ州のラスベガス・コンベンション・センターで元世界ヘビー級王者フロイド・パターソンと対戦。当時、アリはネーション・オブ・イスラム入信を公表しアメリカ社会を激しく批判していた「白人の意のままにならない黒人」であり、パターソンはそれを止める刺客として担ぎ出された。パターソンもこの報道攻勢に乗せられる形で「タイトルをアメリカに戻す」と発言。これを聞いたアリは失望し、憧れのボクサーでもあったパターソンに対して「アンクル・トム」「ウサギ野郎」と罵った。試合はアリが終始パターソンを圧倒し、12回2分18秒TKO勝ちを収め2度目の王座防衛に成功した。試合後、パターソンの伝記作家W・K・ストラットンは、アリとパターソンの対立はチケットの売り上げと観客数を増やすために演出されたものであり、両者の関係はあくまでも良好だと主張している。また、スポーツメディアはアリが試合中にパターソンを弄んでいたと批判したが、ストラットンはアリがパターソンを弄んでいた訳ではなく、試合中にパターソンが負傷していることに気づいたアリが、パターソンをKOするのに躊躇していただけだと主張し、パターソンも後に「あんなに手加減した軽いパンチは受けたことがなかった」と振り返っている。

    パターソン戦後、アリは自身のプロモーション会社『メイン・バウト』を創立し、同社はアリの試合のプロモートやペイ・パー・ビュー放送を扱った。株主はネーション・オブ・イスラムの信者である実業化のジャビール・ハーバート・ムハンマド、ネーション・オブ・イスラム指導者イライジャ・ムハンマド(英語版)の首席補佐官であるジョン・アリ、後にトップランク社を創立するボブ・アラム等がいた。

    1966年3月29日、カナダ・トロントのメープルリーフ・ガーデンズでカナダの強豪ジョージ・シュバロと対戦。前試合で見せた圧倒的な強さからオッズではアリの圧倒的有利と目されていた。しかし、シュバロの徹底したインファイトと執拗なボディ攻撃に苦戦を強いられ、要所で有効打をヒットさせたアリが15回3-0の判定勝ちを収め3度目の王座防衛に成功した。

    1966年5月21日、イギリス・ロンドンのアーセナル・スタジアムでヘンリー・クーパーと再戦。クーパーは王者になる前のアリからダウンを奪うほどの実力者であった。試合はお互いの実力が拮抗したハイレベルな打撃戦となったが、クーパーが6回終了後に左瞼から大出血したためドクターストップでTKO勝ちを収め4度目の王座防衛に成功した。

    1966年8月6日、イギリス・ロンドンのアールズ・コート・エキシビション・センターでブライアン・ロンドン(英語版)と対戦し、3回1分40秒KO勝ちを収め5度目の王座防衛に成功した。勝負を決めた2.8秒間の12発のパンチは、カメラが捕らえきれないほどの高速でありながら、全てがクリーンヒットするという驚異的なものだった。

    1966年9月10日、ドイツ・フランクフルト・アム・マインのヴァルトシュタディオンでカール・ミルデンバーガーと対戦。アリは終始パワフルな攻撃を見せるが、ミルデンバーガーは打たれても打たれても強靭な精神力で耐え続けアリが休むと怒涛の反撃を見せる。しかし、ワンサイドで打たれ続けたミルデンバーガーのダメージを察したレフェリーが12回1分30秒に試合をストップし、6度目の王座防衛に成功した。

    1966年11月14日、テキサス州ヒューストンのアストロドームに35,460人を動員し「ヘビー級史上最高のハードパンチャーの一人」と称されたクリーブランド・ウィリアムズ(英語版)と対戦。アリは試合を通してウィリアムズのパンチをほぼ受けることなく、逆にウィリアムズから3度のダウンを奪うなど終始圧倒し、試合中に何度も『アリ・シャッフル』(Ali Shuffle、前後に素早くステップを踏むフェイント技術)を披露する余裕も見せ、3回1分8秒TKO勝ちを収め7度目の王座防衛に成功した。この試合がアリのキャリア史上最高のパフォーマンスだと主張するファンや関係者も多い。

    1967年2月6日、テキサス州ヒューストンのアストロドームでWBA世界ヘビー級王者アーニー・テレルと王座統一戦を行う。テレルは5年間無敗で、過去にアリが対戦した殆どのボクサーを破っていたため、リストン以来の強敵とされた。試合前、テレルはわざとアリの旧名であるカシアス・クレイと呼んで挑発し、これに激怒したアリは試合前に「奴を拷問してやる」「奴はクリーンにノックアウトされるのがお似合いだ」と罵った。しかし、アリは試合を完全にコントロールしたどころかわざとフィニッシュブローを打たず「俺の名前は何だ!俺の名前を言ってみろ!」と叫び続けて完全に打ちのめし15回3-0の判定勝ちを収め、8度目のWBC王座防衛とWBAの王座獲得に成功した。試合後、アリは「奴は早く楽になりたかったろうな。奴隷の名前で俺を呼んだ罰だ(当時アリが入信していたネーション・オブ・イスラムではほとんどのアフリカ系アメリカ人が持つ名前を、奴隷主に付けられた名として否定的に見る面がある)」と語った。テレルは、試合序盤にアリが故意に目を狙ってパンチを放ち、半盲状態で戦わせることを強制し、クリンチの際に負傷した目をロープにこすりつけたと主張した。また、アリのわざと試合を長引かせた戦法は物議を醸し、批評家たちはこの試合を「ボクシングで最も醜い試合の一つ」と評した。また、スポーツライターのテックス・モールは後に「あれはボクシングスキルの素晴らしいデモンストレーションであり、野蛮な残虐行為だった」と書いている。アリは試合後のテレルや批評家の主張を否定した。

    1969年3月11日、WBC世界ヘビー級王座を剥奪された。

    1970年10月26日、ジョージア州アトランタのミュニシパル・オーディトリアムで世界ヘビー級1位のジェリー・クォーリーを相手に復帰戦を行い、3回終了時にTKO勝ちを収め再起を果たした。

    1970年12月7日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでジョー・フレージャーの持つ世界ヘビー級王座へ挑戦する前哨戦として、フレージャーを相手に健闘したオスカー・ボナベナと対戦する。試合前、ボナベナはアリに対して「なぜ徴兵を拒否したんだ?」「お前はチキンだ」と挑発し、アリは「ここまでボコボコにしたいと思った男は初めてだ」と述べた。試合前はアリの圧倒的有利とされていたが、大苦戦の末に最終回にボナベナから3度のダウンを奪ってTKO勝ちを収めNABF北米王座獲得に成功した。

    フレージャーとの初戦

    1971年3月8日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでWBA・WBC世界ヘビー級統一王者ジョー・フレージャーに挑戦。31戦無敗のアリと26戦無敗のフレージャーの対戦は「世紀の一戦」として大々的に宣伝され、ボクシングライターのジョン・コンドンは「私の人生の中で最大のイベントだ」と述べた。試合前、アリはフレージャーを「白人の支配階級に利用されている間抜け」「奴は王者として醜すぎる」と罵り、フレージャーはアリの旧名であるカシアス・クレイと呼んで応戦した。試合が始まると、アリは下がりながらパンチのコンビネーションで牽制し、フレージャーは怯むことなく体を揺すりながらプレッシャーをかけフック系のパンチでアリのボディと顔面を捉える。試合中、アリはフレージャーを挑発し、パンチを受けても首を横に振り効いてないとアピールしたが、フレージャーのパンチでダメージが蓄積すると徐々に余裕がなくなり、中盤以降は逆にフレージャーがノーガードでアリのパンチを交わしながら笑みを浮かべて挑発し返した。終盤に入るとアリはフレージャーのフックで何度もぐらつき、15回には左フックでダウンを奪われるなどして0-3の判定負け。王座獲得に失敗し、32戦目でプロキャリア初黒星を喫した。この試合はリングマガジンのファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(3度目)。試合後、アリはこの敗戦について「彼は判定を手にしたに過ぎない。試合後の俺の顔と彼の顔を見てくれ。彼の両目は塞がり、鼻血を出し、唇をカットし、額は腫れ上がっていた。そして彼は試合後に1カ月入院した。だが、判定について文句を言うつもりはない。次は必ず彼を倒す」と語っている。アリはこの試合に向けてペンシルベニア州レディング郊外の農場でトレーニングキャンプを開始し、その後、田舎の環境が自分に合うと感じたアリは、ペンシルベニア州ディア・レイク村に5エーカーの敷地を購入しトレーニングキャンプの拠点を作り、1972年から1981年の引退までそこで試合へ向けたトレーニングを行った。

    1971年7月26日、ネバダ州のラスベガス・コンベンション・センターで元WBA世界ヘビー級王者ジミー・エリスとNABF北米ヘビー級王座決定戦を行い、12回2分10秒TKO勝ちを収め王座獲得に成功した。

    1972年5月1日、カナダ・ブリティッシュコロンビア州バンクーバーのパシフィック・コロシアムでジョージ・シュバロと再戦し、12回3-0の判定勝ち収め2度目のNABF王座防衛に成功した。6月27日、ネバダ州のラスベガス・コンベンション・センターでジェリー・クォーリーと再戦し、7回19秒TKO勝ちを収め3度目のNABF王座防衛に成功した。9月20日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで元世界ヘビー級王者フロイド・パターソンと再選し、7回終了時TKO勝ちを収め4度目のNABF王座防衛に成功した。11月21日、ネバダ州ステートラインのハードロック・ホテル&カジノ・レイク・タホで1階級下のWBA・WBC世界ライトヘビー級王者ボブ・フォスターと対戦し、8回40秒KO勝ちを収め5度目のNABF王座防衛に成功した。

    1973年3月31日、カリフォルニア州サンディエゴのペチャンガ・アリーナでケン・ノートンと対戦し、12回1-2の判定負けを喫し生涯2度目の敗北。さらに試合後、顎を骨折していたことが分かる。同年9月10日、イングルウッドのザ・フォーラムでケン・ノートンと再戦し、12回2-1判定勝ちを収め雪辱を果たしたが、試合後に判定は物議を醸した。

    フレージャーとの第二戦

    1974年1月28日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでジョー・フレージャーと3年ぶりの再戦を行う。序盤はアリが優勢となり、2回にはフレージャーをぐらつかせた。中盤からはフレージャーがアリを捉え始め、終盤は2人の勢いがラウンド毎に変化する死闘を繰り広げ、最終的にアリが12回3-0の判定勝ち。雪辱を果たすとともに王者ジョージ・フォアマンへの挑戦権を獲得した。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(4度目)。

    キンシャサの奇跡

    1974年10月30日、ザイール共和国(現在のコンゴ民主共和国)の首都キンシャサでWBA・WBC世界ヘビー級統一王者ジョージ・フォアマンに挑戦。この一戦は「アフロ・アメリカンのボクサー同士が、ルーツであるアフリカ大陸で行う初のヘビー級タイトルマッチ」のため「ランブル・イン・ザ・ジャングル」(Rumble in the Jungle、ジャングルの決闘)という謳い文句が付けられた。当時、40戦無敗(内37勝がKO勝ち)で、アリが過去に敗れたフレージャーとノートンを相手に圧勝し「象をも倒す」と言われたハードパンチャーのフォアマン(当時25歳)に対して、アリ(当時32歳)は復帰以降フットワークに衰えが見られ、この試合でキャリア初のKO負けを喫して引退に追い込まれるのではないかと囁かれた。アメリカの専門家筋の予想は4対1、ロンドンのブックメーカーの掛け率は11対5でフォアマン勝利を支持した。試合前、アリは「奴はのろまで、スキルもフットワークもない。フロイド・パターソンがウサギで、ソニー・リストンが熊ならば、奴は『ミイラ』がピッタリだろう」とフォアマンを罵った。

    試合は、 第1ラウンド開始から、両者が積極的に打ち合う展開。アリはフットワークを駆使して左右に動きまわりながら、リードブローの左ジャブではなく、ノーモーションの右ストレートを顔面に命中させる。フォアマンも怯むことなく前進し、強烈な左フックをアリに見舞う。第2ラウンド、フォアマンがアリをロープ際に追いつめ、連打を浴びせる。アリはガードを固めて防戦一方になりながら、隙を見てカウンターを当てる。第4ラウンド、アリの手数が減り、フォアマンの強打が猛威を振るう。第5ラウンド2分過ぎ、フォアマンはアリをロープ際に釘付けにし、大振りのパンチで滅多打ちにする。残り30秒、フォアマンの猛攻がやんだところでアリが反撃し、鋭い連打でフォアマンをたじろがせる。第6ラウンド、ロープ際の攻防が続くが、フォアマンの疲労が目立ち始める。パンチの手数・威力とも減り、アリにもたれかかる場面も見られる。第8ラウンド残り16秒、ニュートラルコーナー付近でアリが放った右フックでフォアマンがバランスを崩すと、アリは素早く身体を入れ替えロープ際を脱出。振り向いたフォアマンの顔面に右・左・右・左・右の5連打を浴びせる。最後の右ストレートがフォアマンの顎を直撃すると、フォアマンは足元をぐらつかせ、もんどりうってダウンする。カウント8で立ち上がるが、レフェリーは10カウントKOを宣告し、アリが8回2分58秒に大逆転のKO勝ちを収め王座返り咲きに成功した。この試合でアリは、ロープにもたれながらフォアマンの強打を腕でブロックし、自分では打ち返さずに防戦一方となっていたが、一見劣勢に見えながらも、フォアマンの体力を着実に消耗させるクレバーな戦法(後に『ロープ・ア・ドープ』として知られるようになる)をとっていた。試合直後のインタビューで、記者に囲まれたアリはカメラに向かって「俺を疑った批評家たちよ!言っただろう!俺こそが史上最高だ!」と叫んだ。

    1975年3月24日、オハイオ州のリッチフィールド・コロシアムで無名のチャック・ウェプナーと対戦。9回にアリがダウン(実はウェプナーがアリの足を踏んだため)を喫するなど、ウェプナーが予想外の善戦を見せたが、15回2分41秒KO勝ちを収め王座の初防衛に成功した。この試合は、後に映画『ロッキー』を作製するきっかけになったと言われている。

    1975年5月16日、ネバダ州のラスベガス・コンベンション・センターでロン・ライル(英語版)と対戦し、11回1分8秒TKO勝ちを収め2度目の王座防衛に成功した。7月1日、マレーシア・クアラルンプールのムルデカ・スタジアムでジョー・バグナー(英語版)と対戦し、15回3-0の判定勝ちを収め3度目の王座防衛に成功した。

    フレージャーとの第三戦

    1975年10月1日、フィリピンのアラネタ・コロシアムでジョー・フレージャーとラバーマッチを行う。試合序盤、アリは積極的に動き、フレージャーと打ち合いを繰り広げた。しかし、アリはすぐに疲れたような素振りを見せ、フォアマン戦で見せた『ロープ・ア・ドープ』を多用した。アリはカウンターを幾度かヒットさせたが、フレージャーも怯むことなく反撃。そして第12ラウンド、フレージャーに疲労が見え始め、アリは鋭いパンチを数発ヒットさせ、フレージャーの左目を腫れ上がらせ、右目をカットさせた。その後アリは第13ラウンドと第14ラウンドを圧倒し、14回終了時にフレージャーのトレーナーのエディ・ファッチがストップを要請したため、アリがTKO勝利を収め4度目の王座防衛に成功した。終生のライバルとなったフレージャーとは3度対戦して、アリが2勝1敗で勝ち越した。興行名を「ザ・スリラー・イン・マニラ」(The Thrilla in Manila)としたこの対戦は、両者が死力を尽くして形勢が何度も逆転した名試合であり、この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(5度目)。アリは後に、この試合が「人生で最も死に近い瞬間だった」と語り、後に試合を見返したかという質問に「なぜ俺があの地獄を振り返りたいと思うんだ?」と答え、フレージャーに敬意を表した。

    1976年2月2日、プエルトリコ・サンフアンのロベルト・クレメンテ・コロシアムでジャン=ピエール・クープマン(英語版)と対戦し、5回2分46秒KO勝ちを収め5度目の王座防衛に成功した。

    1976年4月30日、メリーランド州ランドーバーのキャピタル・センターでジミー・ヤング(英語版)と対戦し、15回3-0判定勝ちを収め6度目の王座防衛に成功した。試合後、スポーツジャーナリストのハワード・コーセル(英語版)は「アリのタイミングがこれほど狂ったのは見たことがなかった」とアリのパフォーマンスに疑問を呈し、試合後のインタビューでアリは「俺は歳をとった」「ノートン戦に向けてエネルギーを温存している」と述べた。

    1976年5月24日、ドイツ・ミュンヘンのオリンピアハレでリチャード・ダン(英語版)と対戦し、5回2分5秒TKO勝ちを収め7度目の王座防衛に成功した。アリはこの試合に向けてテコンドーの達人ジュン・リー(英語版)(ブルース・リーの友人)の元でトレーニングを行い、ジュン・リーはアリのフィニッシュブローを「アキュパンチ」(Accupunch、ブルース・リーが考案したブロック不可能な高速パンチ)と呼んだ。この試合がアリのキャリア最後のKO勝ちとなった。

    1976年6月26日、日本武道館でプロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」を行う。特別ルールで戦い、3分15回を戦って時間切れ引き分けに終わる(詳細はアントニオ猪木対モハメド・アリ)。

    1976年9月28日、ニューヨークのヤンキー・スタジアムでケン・ノートンとラバーマッチを行い、15回3-0の判定勝ちを収め8度目の王座防衛に成功した。ノートンとの対戦戦績を2勝1敗としたが、前回のノートン戦と同様またも判定が物議を醸した。前年にアリはネーション・オブ・イスラムと仲違いしてスンニ派イスラム教に改宗しており、試合後に信仰を実践するためボクシングから引退すると発表したが、後に撤回し現役続行を示唆した。

    1977年5月16日、メリーランド州ランドーバーのキャピタル・センターで22歳のアルフレッド・エヴァンゲリスタ(英語版)と対戦し、15回3-0の判定勝ちを収め9度目の王座防衛に成功した。試合後、エヴァンゲリスタは「35歳のアリがここまで動けるとは思わなかった。彼の年齢を考えると、すぐに疲れ果ててしまうだろうと思っていた」と語っている。

    1977年9月29日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでアーニー・シェーバースと対戦。シェーバースの強打に苦戦を強いられたが、15回3-0の判定勝ちを収め10度目の王座防衛に成功した。アリは後にキャリアを通して最もパンチが強かった相手としてシェーバーズを挙げている。試合後、長年アリのリングドクターを務めていたファーディ・パチェコはアリに反射神経テストを実施するが、アリがリングで自分自身を守るのに必要なレベルに達しなかったため、ボクシングから引退するよう勧告するがアリはそれを拒否したため、パチェコはこの試合を最後にアリのリングドクターを辞任した。パチェコは後に「ニューヨーク州アスレチック・コミッションが、アリの腎臓がぼろぼろになっていることを示した報告書を見せてくれたので、私はアンジェロ・ダンディー、アリのトレーナー、アリの妻、そしてアリ本人に手紙を書いたが、何の返答もなかった。この時に私はもうウンザリしたよ」と明かしている。意見の相違はあったものの、アリとパチェコの友人関係はその後も続き、2002年に最後に会った際、アリはパチェコに「お前が正しかった」と言ったという。

    1978年2月15日、ネバダ州のウエストゲート・ラスベガスでキャリア8戦目のレオン・スピンクスと対戦。試合前のオッズでは10対1でアリの圧倒的有利とされていたが、アリは試合前に体調を崩し、それを押して強行出場するも15回1-2の判定負けを喫し王座から陥落した。この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(6度目)。その後、スピンクスは初防衛戦をアリと行いたいという理由から、WBCから指名されていたケン・ノートン戦を拒否し、WBCの王座を剥奪された。スピンクスの保持する王座はWBA王座のみとなり、WBC世界ヘビー級王座にはノートンが認定された。

    1978年9月15日、ルイジアナ州ニューオーリンズのシーザーズ・スーパードームでWBA世界ヘビー級王者レオン・スピンクスと再戦し、15回3-0の判定勝ちを収め雪辱果たすとともに王座奪還に成功し、3度の世界王座獲得に成功した初めてのヘビー級ボクサーとなった。

    1979年7月27日に、アリはボクシングからの引退を表明し王座を返上したが、前人未到となる4度目のヘビー級王座獲得を目指して、WBC世界ヘビー級王者ラリー・ホームズに挑戦することを発表した。

    1980年10月2日、ラスベガスのシーザーズ・パレスでかつてスパーリング・パートナーだったWBC世界ヘビー級王者ラリー・ホームズに挑戦。この頃、アリはパーキンソン病の兆候である声の吃音や手の震えが見られ、ネバダ州アスレチック・コミッション(NSAC)はアリの健康状態を懸念してラスベガスで精密検査を受けるよう命じた。アリはメイヨー・クリニックで検査を受け、クリニックはアリが試合を行うことに問題はないと発表し、1980年7月31日、NSACは正式にアリの復帰戦を許可した。しかし、試合は減量のために服用した甲状腺薬の影響で衰弱していたアリをホームズが一方的に打ちのめし、14回終了時にアリのトレーナーのアンジェロ・ダンディーがストップを要請したため、TKO負けで王座獲得に失敗した。ホームズのトレーナーであるリッチー・ジャケッティは「ひどい…私の中で最悪のスポーツイベントだった」と語り、リングサイドで観戦した俳優のシルヴェスター・スタローンは「まだ生きている男の解剖を見ているようだった」と語っている。アリの元リングドクターのファーディ・パチェコは「あの戦いに関わった人たちは全員逮捕されるべきだった。あの試合は忌まわしい物であり、犯罪そのものだった」と怒りを露わにした。対戦相手のホームズは控室に戻って号泣し、ジャケッティは後に「ラリーはアリと戦うことを望んでいなかった。試合が惨劇になることを分かっていた」と振り返っている。一般的に、この試合がアリのパーキンソン病の一因となったと言われている。1982年、アリはこの試合のプロモーターのドン・キングに対して、ファイトマネーの110万ドルが未払いだとして告訴すると、キングはアリの旧友であるジェレマイア・シャバズに助けを求め、シャバズに現金5万ドルが入ったスーツケースと訴訟の取り下げを約束させる書類を渡し、シャバズは入院中のアリを訪ねて5万ドルを渡し書類にサインをもらって来るよう頼んだ。当時、パーキンソン病を患い金が必要だったアリは5万ドルを受け取り、訴訟の取り下げだけでなくアリのプロモート権をキングに与えると書かれた文書にもサインをしてしまう。この事を聞いたアリの弁護士は、なんの相談もなくアリがたった5万ドルのために訴訟を取り下げてしまったことに涙した。

    1981年12月11日、アメリカ全州のアスレチック・コミッションがアリの健康状態を懸念しライセンス交付を拒否したため、バハマ・ナッソーのクイーン・エリザベス・スポーツセンターでトレバー・バービックと対戦。全盛期は210ポンド前後であったアリの体重もこの試合ではキャリア最重量となる236ポンド(107kg)を計測し、試合では6回時点で疲労するなどアリに往年の面影は全く見られず、10回0-3の判定負けを喫し、この試合を最後に39歳で遂に引退

    現役生活21年、通算成績は56勝5敗で内37勝がKO勝ちだった。

    引退後、病との闘い

    引退後、1984年にパーキンソン病と診断され、長い闘病生活に入った。病の影響で喋ることすら困難な状態となり、公の場に出る機会も大きく減ったが、難病の中でも社会に対してメッセージを発し続けた。

    1990年に湾岸危機に際し、イラク大統領との直接対話のため、病をおしてバグダードに赴き、アメリカ人の人質解放に成功する。解放された人のうち6人が、早く帰れる飛行機には乗らず、アリと同じ飛行機に乗って帰国した。

    1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式で聖火を聖火台に点火した。女子水泳選手のジャネット・エバンスが点火台まで聖火のトーチを運び上げ、アリは彼女からトーチを受け取り、病気のため震える手で点火用のトーチに火を点けた(点火用トーチに着火するとそのトーチは上昇し、上にある聖火台に飛び込んで点火される仕掛けになっていた)。聖火台の点火者は当日まで秘密にされていた。なお、この際、自ら川に投げ捨てたローマオリンピックの金メダルが再授与された。

    2003年のMLBオールスターゲームで始球式を務めた。2005年11月9日、アメリカ合衆国のホワイトハウスにてジョージ・W・ブッシュ大統領から文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。

    2007年6月5日、ニュージャージー州プリンストンのプリンストン大学の第260回卒業式にゲストとして出席し、同大学から人文科学の名誉博士号を授与された。

    2009年、母方の曽祖父であるエイブ・グレイディの故郷アイルランド・クレア県エニスの名誉市民に選出され、9月1日に記念式典が行われた。2012年ロンドンオリンピックの開会式に参加、オリンピック旗掲揚の場面で姿を現した。

    死去

    2016年6月2日、呼吸器疾患のためアリゾナ州スコッツデールの病院に入院し、当初容態は良好とされていたが、翌日の6月3日に敗血症ショックで死去。74歳没。

    アリの死は、Twitterで12時間以上、Facebookで数日間トレンドのトップとなった。ブラック・エンターテインメント・テレビジョンはドキュメンタリー『モハメド・アリ:メイド・イン・マイアミ』を放映し、ESPNはアリのニュースをコマーシャル無しで4時間放送した。また、ABCニュース、BBC、CNN、FOXニュースなどのニュースネットワークもアリの死を大々的に取り上げた。政界からはバラク・オバマ、ドナルド・トランプ、ビル・クリントン、ヒラリー・クリントン、ジョー・バイデン、デーヴィッド・キャメロン、スポーツ界からはマイケル・ジョーダン、タイガー・ウッズ、ペレ、マイク・タイソン、フロイド・メイウェザー・ジュニア、レブロン・ジェームズ、ステフィン・カリー、ウサイン・ボルト、デビッド・ベッカム等がアリに哀悼の意を表した。総合格闘技団体「UFC」は、アリの死の翌日に開催されたUFC 199でアリの追悼ムービーを公開し、多くのUFC王者にインスピレーションを与えたとアリを称賛した。また、同じくアリの死の翌日に開催されたフランシスコ・バルガス対オルランド・サリド戦では、リングアナウンサーのマイケル・バッファーがアリへ追悼のコメントを発表し、アリを追悼する10カウントゴングが鳴らされた。また、サリドはアリがプリントされたTシャツを着用し「RIP ALI」(アリよ、安らかに眠れ)と書かれたキャップを被って入場した。

    アリの葬儀は6月9日と10日の2日間にわたって行われ、最終的に遺体は故郷ルイビルのケイブヒル墓地(英語版)に埋葬された。葬儀にはかつてアリと対戦したジョージ・フォアマン、ラリー・ホームズ、ジョージ・シュバロを始め、ビル・クリントン、ウィル・スミス、マイク・タイソン、デビッド・ベッカム、レノックス・ルイス等が出席した。アリの追悼式はテレビ放送され、世界中で推定10億人の視聴者数を記録した。

2024/06/09 12:48更新

Muhammad Ali


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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「モハメド=アリ」を素材として二次利用しています。

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