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一万田尚登の情報 (いちまだひさと)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

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一万田 尚登さんについて調べます

■名前・氏名
一万田 尚登
(読み:いちまだ ひさと)
■職業
銀行家
■一万田尚登の誕生日・生年月日
1893年8月12日
巳年(へび年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
大分出身

一万田尚登と同じ1893年生まれの有名人・芸能人

一万田尚登と同じ8月12日生まれの有名人・芸能人

一万田尚登と同じ出身地大分県生まれの有名人・芸能人


一万田尚登と関係のある人

中山素平: 日本銀行の一万田尚登総裁は金融引き締め政策に逆行する巨額投資に憤り、「製鉄所にペンペン草をはやしてやる」とまで言い放ち、反対した。


池田勇人: 政争の一環として、鳩山政権全期間にわたって大蔵大臣を務めた一万田尚登へ、背後から大蔵省に影響力を行使して嫌がらせをした。


佐々部晩穂: 日銀の同期には一万田尚登がいた。


新木栄吉: 1954年(昭和29年)にかつて自身の後任として日銀総裁になった一万田尚登が第1次鳩山一郎内閣の大蔵大臣を拝命して入閣すると、新木はその後任として8年ぶりに2度目の日銀総裁に就任した。


井上五郎: 長男・井上素彦(1963年生) - 慶応義塾幼稚舎、慶応義塾普通部卒業後、慶応義塾高校在学中に立教英国学院転校、東京国際大学卒業後、三井物産入社、脳出血により退職、著書に『「非常時の男」一万田尚登の決断力―孫がつづる元日銀総裁の素顔 』がある。


中村尚登: 家系が代々銀行員で、名前の「尚登」は本人出生時の大蔵大臣・一万田尚登から拝借したとのこと。


藤山愛一郎: →衆議院選挙区一覧 (1947-1993)#神奈川県)から立候補して初当選(現職の民間人閣僚が新人代議士候補として総選挙に出馬し当選したのは、1954年に第1次鳩山一郎内閣で民間から起用された一万田尚登大蔵大臣と高碕達之助経済審議庁長官が翌年の第27回衆議院総選挙に日本民主党公認で立候補して初当選を果たしたのと、その次の総選挙におけるこの藤山の場合の3例を数えるのみである) 。


石川一郎: 経団連会長就任の背景は、当時、「一万田法王」として日本経済に君臨していた一万田尚登日銀総裁との親密関係の賜物であったとされる。


井上五郎: 三男・一万田安城 - 一万田尚登の婿養子


森永貞一郎: 主計局長時代は日銀出身の一万田尚登大蔵大臣に強硬に反発をしたこともある。


桜田武: なお、この「亥二黒会」は、最初はそういう名前ではなく、内輪の小人数の財界人だけの会で、一万田尚登や白洲次郎なども入っていた。


井上五郎: 岳父に日銀総裁一万田尚登


永野重雄: 永野がニューデリーから直接、一万田尚登蔵相に国際電話を入れ決裁を仰いだ。


福田赳夫: 1960年(昭和35年)12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で坊秀男・田中龍夫・一万田尚登・倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗した。


中山素平: しかし、日本銀行総裁の一万田尚登が日銀理事の太田利三郎を副総裁に推した。


三木武夫: 芦田は自らが影響力を保持できる苫米地総裁、三木幹事長という人事案に賛成し、一万田尚登日銀総裁ら外部から総裁を招請する案には反対した。


一万田尚登の情報まとめ

もしもしロボ

一万田 尚登(いちまだ ひさと)さんの誕生日は1893年8月12日です。大分出身の銀行家のようです。

もしもしロボ

来歴、発言などについてまとめました。現在、卒業、解散、引退に関する情報もありますね。

一万田尚登のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

一萬田 尚登(いちまだ ひさと、1893年(明治26年)8月12日 - 1984年(昭和59年)1月22日)は、日本の銀行家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。姓は新字体で一万田とも表記される。

日本銀行総裁(第18代)、大蔵大臣(第58・59・60・63代)、衆議院議員(5期)。

日本銀行総裁としての在任期間3115日間は黒田東彦に次ぐ歴代二位である。一萬田自身の鋭い眼光の目つきと彫りの深い容貌もあいまって「法王」の異名を取り、戦後の金融界、経済界に重きを成した。

太平洋戦争後、連合国軍最高司令官総司令部占領下のインフレと資金不足の困窮経済のなか、大蔵省ではなく金融政策を掌る日本銀行が実質的に金融行政を掌握していたことが一萬田の力の背景にあった。一萬田自身の強力な政治力を背景に、政策委員会は日本銀行の下に置かれることとなり、議長の座も日本銀行総裁が兼ねることとなった。しかし、池田勇人や山際正道らとの日本銀行法改正論議を端緒にした大蔵省の権能の増大、また日本輸出入銀行による輸出補助金の割り当て権限を背景とした通商産業省の権能の増大、などにともなって、日本銀行そのものの役割は薄まることとなった。占領行政を脱した後に大蔵大臣となった際に、次官の平田敬一郎と対立して更迭しようとしたが、省内から大反発を受けてこれを断念せざるを得ないこともあった。

来歴

生い立ち

1893年、大分県大分郡野津原村(後の野津原町、現在の大分市野津原地区)に生まれた。先祖は豊後大友氏の支族、一萬田氏で大友能直の第六子一万田時景を始祖とし代々大友氏の重臣として著名であった。旧制大分県立大分中学校(現在の大分県立大分上野丘高等学校)を卒業し、第五高等学校に入学した。その後、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、1918年に卒業した。

日銀マンとして

東京帝国大学卒業後、日本銀行に入行した。1944年には、日本銀行の理事に就任した。1946年、前任の新木栄吉の公職追放に伴い、日本銀行の第18代総裁に就任した。インフレーション下の戦後日本経済再建のため、日本銀行は金融面での絶大な権威を持ち、ローマ教皇庁にたとえられたことから、「一萬田法王」の異名を取った。

1951年のサンフランシスコ講和会議では、大蔵大臣の池田勇人、国民民主党最高委員長の苫米地義三、自由党の星島二郎、緑風会総会議長の徳川宗敬とともに全権委員となり、首席全権である内閣総理大臣の吉田茂とともにアメリカ合衆国を訪問した。

1954年、日本銀行総裁を辞任した。一萬田の後任には、かつて総裁を務めた新木栄吉が再び就任した。

政治家として

1954年、第1次鳩山一郎内閣の発足にともない、政財界の有力者である肥田琢司による推薦で民間人閣僚として大蔵大臣に就任した。非国会議員としては、最後の大蔵大臣となる。大臣在任中の1955年に実施された第27回衆議院議員総選挙にて、大分県第1区から日本民主党で立候補して初当選。1956年に発足した第2次鳩山一郎内閣では、大蔵大臣に再任された。同年、自由党と日本民主党との保守合同にともない、自由民主党が発足した。これを受け、第2次鳩山一郎内閣は内閣総辞職したうえで、第3次鳩山一郎内閣が発足した。一萬田も自由民主党の結成に参加するとともに、第3次鳩山一郎内閣の大蔵大臣に再任された。翌年、石橋内閣の発足にともない、大蔵大臣を退任した。

1957年に発足した第1次岸改造内閣にて、大蔵大臣に就任し、デフレ政策を実行した。「デフレの山も富士山で言えば八合目。ここらで、ミルクでも飲んで後一息」と語り「富士山八合目ミルク論」と話題をまく。1958年、第2次岸内閣の発足にともない、大蔵大臣を退任した。

1962年11月、大分県庁舎建築資金として10万円寄付により1964年4月4日紺綬褒章受章。1965年春の叙勲で勲一等瑞宝章受章。1969年、衆議院解散にともない、政界を引退した。1984年、心不全のため死去、90歳。死没日をもって勲一等旭日大綬章追贈、正三位に叙される。墓所は杉並区築地本願寺和田堀廟所。

発言

総裁就任後、ただちに連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに会見を申し入れ、「日本経済の実情を知って欲しい。ありのままのことを話し私の意見を言うから、気に入らないことは聞き流しても結構だ」と率直に伝え、信頼関係を築いたといわれる。

日本銀行総裁として金融行政で慎重に注意深く実施したものの、金融政策と産業振興について国会で問われた際に「何か金融というものが産業に優先しているというような、そういうけちくさい考えは少しも持っておりません」と前置きした上で「道楽している場合に、女房役の金融というものは、懷中を預かっているのは当然なんだが、それを道楽している者に懷中を預けておけば、翌日配給物も受取れません。そういうようなことでは国がつぶれます。それだから、産業が真にインフレ的な考えから目ざめてやってくれれば、女房役はむしろお小づかいはどうだろうかくらいに思って、知らぬうちにたもとの中に小づかいを入れてくれるようになるのです。問題はそこにあると思うのです」と野放図な金融拡大を諫めている。

川崎製鉄(現在のJFEスチール)の西山弥太郎が主導して千葉に本格的高炉を備えた製鉄所を建設しようとした際に「建設を強行するなら今にペンペン草をはやしてやる」と俗に言われているが、一万田自身は経済安定九原則下での金融引き締め政策の中で企業規模に比して過大な投資に懸念を抱き国産の鉄鋼生産の拡充の必要性を問われて「鉄鋼などは何も国産に拘らずとも外国から安いのを買えば宜しい。仮に無理矢理製鉄所を新設しようとしてみたところで結局はペンペン草が生えるだけにしかならない」と国際分業の中でのポジションで発言したことが誤って広まったと言われている。また自動車工業についても「国際分業の中では日本が自動車工業を育成するのは無意味である」と不要論を唱えた。

2024/06/21 02:08更新

ichimada hisato


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