佐藤文隆のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
佐藤 文隆(さとう ふみたか、1938年3月23日 - )は、日本の物理学者(宇宙物理学)・理論物理学者。専門は、宇宙論・相対性理論。学位は、理学博士(論文博士・京都大学)(学位論文 「一般相対性理論における、宇宙項の寄与に関する研究」)。京都大学名誉教授。
1938年3月23日、佐藤茂吉・かね夫妻の三男として山形県西置賜郡鮎貝村(現:白鷹町)に生まれる。兄弟姉妹は兄2人、姉4人、妹1人がいる。父・茂吉は製材所を経営していた。小学校6年生の時に湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞して湯川ブームが起きたのがきっかけで湯川に憧れるようになる。中学卒業後は山形県立長井高等学校に進学し、この頃から勉強が面白く感じたという。だが帰宅して勉強しようとすると「勉強をさせるために学校にいかせてやっているのに、家に帰ってまで勉強するとは何ごとだ」と叱られ、家業の手伝いをさせられたため、家での勉強は親に隠れてしていた。当時の長井高校では大学に進学する生徒はは学年中の1、2割で、成績がよければ東北大学に、そうでなければ山形大学に進学するのが普通だったが、大卒の会社員と結婚して東京都で生活していた姉たちの助言もあって東京大学か京都大学を受験しようということになりそれなら湯川が教授を務める京大理学部物理学科に進学しようと考え京大理学部を受験し合格。学部生時代は統計力学の研究室に所属し、大学院に進学して林忠四郎が教授を務める核エネルギー学研究室(現:天体核研究室)に所属することになった。核エネルギー学研究室で宇宙物理学・天文学を学び、1964年に林の指示により大学院博士課程の学生のまま核エネルギー学研究室の助手に就任し、同じ頃に物理学科の事務職員と結婚。超重量星の一般相対性理論による不安定性の問題を学位論文のテーマに選び、1966年に「一般相対性理論における、宇宙項の寄与に関する研究」で理学博士の学位を授与された。佐藤は前年に京大大学院博士課程を満期退学しておりいわゆる論文博士である。1971年、京都大学基礎物理学研究所助教授に就任。1973年9月、ワルシャワで開催された国際天文学連合総会に出席するため妻と2人の子供を連れてポーランドに渡る。国際天文学連合総会出席後はクラクフに行き重力崩壊のシンポジウムに参加、さらにベルギーのブリュッセルで開催されたソルベー会議に参加。ソルベー会議参加後は大西洋を渡りアメリカ合衆国カリフォルニア州バークレーに行きカリフォルニア大学バークレー校の物理教室にて研究に従事。バークレー滞在中の1974年4月、京大基礎物理学研究所教授に就任。同年夏家族を連れて日本に帰国。1976年4月1日、京大基礎物理学研究所の第3代所長に就任。所長職は1980年3月31日に退任するまで続けた。1986年、林の退官後空席になっていた天体核研究室の教授に就任。2001年、京都大学を定年退官、甲南大学教授に就任。2013年、甲南大学教授を退職。
人物
1972年 - 「宇宙線の最高エネルギーと相対性理論の破れ」
1973年 - 冨松彰とともに、アインシュタイン方程式におけるトミマツ・サトウ解を発見した。この業績により冨松とともに仁科記念賞を受賞。この解は裸の特異点の存在を示唆していて、今日では数学的産物だとされている。
一貫して、相対性理論・宇宙物理学の研究を行う。
京都大学基礎物理学研究所所長時代、湯川秀樹を記念する、湯川記念財団の依頼により、湯川選集をまとめる。
西宮湯川記念賞の設立にも参加する。
中学生・高校生を対象とした理科教育にも熱心に取り組み、きっづ光科学館ふぉとん(京都府木津川市)の名誉館長も務めた。
一番の課題は、「最高エネルギー宇宙線によって生じる物理現象」を捉えることであり、JEM-EUSOの研究者にも名を連ねている。
一般相対性理論の佐々木節と位置天文学の郷田直輝は弟子。
東京大学の佐藤勝彦は後輩。文隆と勝彦は「ビッグバンと素粒子論」をテーマにして共同研究を行い、「佐藤・佐藤論文」という論文を共同で執筆し発表している。
受賞・栄典
1973年 - 仁科記念賞
1975年 - 松永賞
1999年 - 紫綬褒章
2001年 - 西宮市教育功労者
2007年 - 京都新聞大賞文化学術賞
2013年 - 瑞宝中綬章
2018年 - 京都府文化賞特別功労賞
2021年 - 京都市文化功労者
2022年 - 全国日本学士会アカデミア賞