千田啓介のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
千田 啓介(せんだ けいすけ、1943年6月28日 - )は、愛媛県松山市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
松山商では3年次の1961年に三塁手として、2年生エースの山下律夫を擁して夏の甲子園に出場するが、2回戦で報徳学園に敗れる。同年に行われた秋の国体では優勝した。
卒業後の1962年に読売ジャイアンツへ入団し、1966年から一軍に定着。黒江透修の控えではあったが、遊撃手、二塁手として30試合に先発出場。同年の南海との日本シリーズでは2試合に出場し、10月18日の第5戦(大阪)では自身のシリーズ初安打を放つ。
1970年に川藤龍之輔との交換トレードでロッテオリオンズへ移籍。同年は広瀬宰とレギュラー遊撃手を争って116試合に出場し、10年ぶりのリーグ優勝に貢献。同年の古巣・巨人との日本シリーズでは4試合に出場し、10月27日の第1戦、同29日の第2戦(共に後楽園)では8番・遊撃手として先発出場。1971年は打撃不振に陥って広瀬に定位置を譲り、1972年には復活。同年7月4日の南海戦(大阪)では2回表に先発の三浦清弘から三塁ゴロを放つが、ベースの手前で大きく弾んで三塁手の佐野嘉幸の頭を越え、左翼手のウィリー・スミスがこの打球を追っている間にランニング本塁打となる。その後は「史上最短距離の本塁打を放った打者」として千田の名前があがることになる。
1974年にはオールスターゲーム初出場を果たし、同年の中日との日本シリーズでは出場した5戦中3戦に2番打者として起用され、10月23日の第6戦(中日)では5回表に松本幸行から本塁打を放って日本一に貢献。その後は飯塚佳寛の台頭によって出場機会が段々と減り、1978年限りで現役を引退。
引退後はロッテで二軍守備・走塁コーチ(1979年 - 1981年)、一軍守備・走塁コーチ(1982年 - 1986年)を務めた後に退団。コーチ1年目には福田昌久一軍総合コーチにノックの技術を手取り足取り教えられ、強い打球を打てるように手首と腕の筋力アップは当然で、選手よりも早くグランドに現れノックの練習をする姿勢も教えられた。受け継いだ千田は手首と上腕を酷使したが、ロッテ時代に従事した山内一弘・山本一義・稲尾和久ら3人の監督に「選手より早く来てボールを打ってるコーチは初めて見たよ」と言われた。
退団後は1987年にパチンコ景品卸業の三友に入社し、社長に就任。後に食品販売会社「千田」の社長を務め、2000年には印西市長選挙に立候補。
社業の傍らでマスターズリーグの札幌アンビシャスに選手として参加し、現在は少年野球チーム「北総ボーイズ」の監督→総監督。
詳細情報
オールスターゲーム出場:1回 (1974年)
35 (1962年 - 1969年)
6 (1970年 - 1978年)
65 (1979年 - 1986年)