塚田茂の情報(つかだしげる) 放送作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
塚田 茂さんについて調べます
■名前・氏名 |
塚田茂と関係のある人
麻生よう子: 作詞:塚田茂、作曲:宮川泰、編曲:木森敏之 疋田拓: 1976年までの『夜のヒットスタジオ』は歌謡ドラマやコンピューター恋人選びなど「歌謡バラエティ」として放送してきたが、歌唱時の演出に力を入れはじめ、塚田茂らとともに歌手を中心とした「総合音楽番組」へ変容させた。 織本順吉: ウエディングドレス(1986年) - 塚田茂一 萩原哲晶: 馬鹿は死んでも直らない(作詞:塚田茂 1963年) 高田文夫: 大学卒業後は放送作家の塚田茂に弟子入り(後に破門)して、「スタッフ東京」設立に参加。 芳村真理: 前田武彦と共に『夜のヒットスタジオ』の初代司会に抜擢された理由は、番組がスタートする約1年前に放送されたニッポン放送のラジオ番組「男性対女性」のなかで展開された二人のやり取りを気に入った構成作家の塚田茂が、番組の初代プロデューサー・伊藤昭に推薦したためである。 谷啓: また、テレビ番組のコントで魚釣りの話をした時、谷啓が「でかい魚をつりあげたのに、ガチョーンと逃げられちゃって」といつもの口癖を出すと、それを聴いていた放送作家の塚田茂が「いいね、それ、使おうよ」と言い出したのが起源であるとも山下は伝えている。 トニー・タナカ: 高校時代に夜間制美容学校に行きながら、塚田茂の家に通い、エンターテインメントの世界に憧れる。 疋田拓: 1973年からはディレクター、1976年から1987年6月までプロデューサーとして約20年もの長きにわたって構成作家の塚田茂とともに番組製作の中枢を担い続けた。 鈴村一郎: 大相撲ジャズ場所(1955年1月、作詞:塚田茂、作曲:村山芳男) |
塚田茂の情報まとめ
塚田 茂(つかだ しげる)さんの誕生日は1926年3月9日です。東京出身の放送作家のようです。
テレビ、引退、ドラマ、事故、家族、映画、結婚に関する情報もありますね。2008年に亡くなられているようです。
塚田茂のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)塚田 茂(つかだ しげる、1926年(大正15年)3月9日 - 2008年(平成20年)5月13日)は、日本の演出家、放送作家、構成作家、作詞家、タレント。東京府東京市(現・東京都特別区)豊島区池袋出身。血液型はB型。 東京府立商工学校(現・東京都立北豊島工科高等学校)卒。 太平洋戦争中の1945年2月に徴兵検査で第一種乙種合格、それを受けて翌3月に召集令状が来た。しかし、工科系学校に在籍する特権で2年の入営延期を認められ、日本無線に動員されるという形で勤務。その間に戦争は終結した。塚田は工科系の学生になったのは、特権が狙いだったとも話している。終戦後はしばらくの間、親類の時計店の居候となった。 1946年、新聞の求人広告を見て、東宝に応募。2000人中3人の合格者に入り、帝国劇場に所属。最初の仕事は音響効果係だった。1947年に有楽座所属となり照明係、1949年に日本劇場(日劇)に転じるも、人員整理により解雇となる。その後は、有楽座に覚えたダンスを活かしてダンスの助教師、化粧品のセールスマンなどを務める。 1950年、日劇の地方興行専門の仕事を引き受け、照明係や演出などを担う。1953年に福島県平市(現・いわき市)で行われた雪村いづみショーにて、急遽ショーの1時間延長を要請され、コントを書いて踊り子らと一緒に自ら出演。これが初めて台本を書いた機会になったという。同年に日劇に復帰、演劇部で舞台演出家として活躍する。 1955年、『爆笑テイチク歌祭り』で演出家として一本立ち。同年『ガラクタ狂想曲』(NHK)で放送作家としてテレビ界に進出、1956年『お昼の演芸』(日本テレビ)で初のレギュラー構成演出。以後、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)、『8時だョ!全員集合』(TBS)、『お笑いオンステージ』(NHK)など、日本のテレビ番組史上に残る数多くの名番組の立ち上げに参加した。『NHK紅白歌合戦』にはテレビ中継が初めて行われた第4回(1953年)に、塚田は当時日劇の舞台監督をしていた関係上、日劇側のスタッフとして参加。また第16回(1965年) から第37回(1986年)までは、番組の主要ブレーンとしてかかわった。 このほか、放送作家のみならずタレントとしても活動した。 1990年代初頭に、テレビ番組の制作の一線からは引退。横浜・八景島シーパラダイスなど各地のレジャー施設、行事におけるイベントの企画・構成に活躍の場を移した。 2008年5月13日、脳梗塞のため、東京都内の病院で死去した。82歳没。 夜のヒットスタジオの構成を依頼された際、初代プロデューサー・伊藤昭から、「(視聴率を)10%採ればいい。これでいい正月が過ごせるじゃない。頼むよ」と半ば強引なオファーを受け、泣く泣く引き受けざるをえなくなってしまったという。1970年代前半の夜ヒットには「元祖 出たがり構成作家」を標榜して「歌謡ドラマ」などのコーナーに、コメディリリーフ扱いで頻繁に顔を出した。「歌謡ドラマ」とは、歌手が出演する寸劇コーナー。「有名歌手には新人タレントが抱き合わせでつけられる。だが、新人歌手の歌だけでは視聴者をひきつけられない。そこで人気歌手をチラチラ見せる寸劇を入れることにした。しかし切腹シーンとか頭蓋骨を割られる役とかを有名歌手にやらせるわけにいかず、自分が犠牲になってアホウな役を買って出たところが、これがうけた」と塚田は明かす。 また「コンピュータの恋人選び」というコーナーを発案。小川知子が2日前にテストカーの乗って事故死したカーレーサーの福澤幸雄のテープを見て泣いたときには、視聴率は一挙に42.2%に跳ね上がった。 男性司会者が休暇を取って番組に穴を開けるときには代打として、芳村真理とのペアで司会を組んだことが何度かあった。司会で盟友でもある前田武彦からは、番組内で「ドンドンクジラ」というニックネームが付けられた。本人は、「太っていてクジラそっくり。しかし、仕事はどんどんバリバリやる、といったところから命名されたらしいですが、当時の私の持つ雰囲気を一発で表現した、前武さん最高の傑作だと思っております」と説明しているが、太めなのにクジラの目のように細く可愛らしい目をしているから「クジラ」と名付けられ、「どんどん」は、番組において「どんどん踊り」という奇妙な踊りをさまざまな格好をして踊っていたからであるというのが、正解らしい。この頃には、ポリドールから歌手として、コミックソング『涙になりました』をリリースしている。 1970年代初頭に企画制作集団・スタッフ東京を作り、大学の新卒を集め、基本の基本から構成作家の養成を行い、プロパーの作家として世に出そうとした。その第一期生として入ったのが、昭和45年からの新人たちであり、その中から高田文夫、玉井貴代志、松岡孝などの放送作家が生まれてきた。 「スタッフ東京」の設立経緯につき、塚田は著書の中で「当時、放送作家の絶対数不足を感じていたからだ」と語っている。当時のテレビ業界では、テレビ局の制作ブレーンが絶対的な存在であり、放送作家はそのブレーンが本来すべき「構成」の仕事を「代行」しているにすぎないという実態があり、その関係から1回の仕事で得るギャランティーもきわめて少額(特にバラエティー番組に関してはドラマ番組の演出で受けるギャラを10として、最大でもその7割程度しかギャラが支払われなかったという)であったことから、「放送作家」を「代行業」ではなく、一端のれっきとした「職業」としたいという想いを塚田が兼々抱いていたことが、同社の設立に繋がったという。 塚田は自身が担当する番組の企画会議の席上に必ずといっていい程、高田や玉井ら有望な弟子を帯同させ、そこで自身が述べたことをメモに書き留め、それを元に自身で台本を作り上げるように指示するなど、弟子たちを厳しく指導、教育した。その甲斐もあって、1970年代の終盤に入った頃には弟子たちは塚田からの全幅の信頼を寄せられる存在となり、塚田は自身の代わりに現場の指揮に当たらせるようになった。これらの経験を糧として、1980年代に入ってからは高田は『オレたちひょうきん族』など、玉井は『なるほど!ザ・ワールド』などの構成で、30代前半にして、人気放送作家の仲間入りを果たすこととなった。 600 こちら情報部(NHK、子供からの相談の回答者) オールスター家族対抗歌合戦 (フジテレビ、一時期審査員を務めていた) 夜のゴールデンショー(フジテレビ、司会・構成) 独身のスキャット(TBS、第2話ゲスト) 歌謡曲ニッポン 戦前戦後人気歌謡投票(ニッポン放送) 塚田茂ヤングショー→サタデーニッポン(ニッポン放送) コント55号と水前寺清子のワン・ツー・パンチ三百六十五歩のマーチ(映画、幕引き役) ビッグスペシャル(NET系、1974年5月27日&6月3日、いずれも審判長として出演) 轟先生(日本テレビ) お昼の演芸(日本テレビ) 美女と野獣たち(TBS) ロッテ 歌のアルバム(TBS) 人生ご案内(TBS) シャボン玉ホリデー(日本テレビ) ホイホイミュージックスクール(日本テレビ) 夜のヒットスタジオ(フジテレビ) - 初期には番組本編にもコメディリリーフとして出演していた。 FNS歌謡祭(フジテレビ) 小川宏ショー(フジテレビ) 家族そろって歌合戦(TBS) TBS歌謡曲ベストテン → TBS歌のグランプリ(TBS) 今週のヒット速報(フジテレビ) お昼のゴールデンショー(フジテレビ) オールスター家族対抗歌合戦 (フジテレビ) 歌のグランド・ショー(NHK) スターどっきり(秘)報告 (フジテレビ) ひらけ!ポンキッキ(フジテレビ) カックラキン大放送(日本テレビ) ラブラブショー(フジテレビ) クイズ・ドレミファドン!(フジテレビ) 三波伸介の凸凹大学校(テレビ東京) 8時だョ!全員集合(TBS) お笑いオンステージ(NHK) 紅白歌のベストテン → ザ・トップテン(日本テレビ) ザ・ベストテン(TBS) 悪友親友(TBS) サンデーモーニング(TBS) NHK歌謡ホール(NHK) ゲーム ホントにホント?(NHK) 第1回 - 第15回初詣!爆笑ヒットパレード (フジテレビ) 新春かくし芸大会(フジテレビ) ビッグベストテン(フジテレビ) Audition House(フジテレビ) おめでとう郷ひろみ・二谷友里恵結婚披露宴(フジテレビ) 大爆笑!テレビ30年夢のオールスター大集合 (生) スペシャル(テレビ朝日) アイドル共和国(テレビ朝日) 郷ひろみの宴ターテイメント(テレビ朝日) NHK紅白歌合戦(NHK)、ほか 「めんどうみたヨ」(ハナ肇とクレージーキャッツ) 「馬鹿は死んでも直らない」(ハナ肇とクレージーキャッツ) 「無責任数え唄」(ハナ肇とクレージーキャッツ) 「銀色の道」(ダークダックス、ザ・ピーナッツ) 「涙のかわくまで」(西田佐知子) 『どんどんクジラの笑劇人生―人気番組で綴るテレビバラエティ史』河出書房新社、1991年3月。ISBN 978-4309006796。 ^ 生まれた当時(1926年)は北豊島郡西巣鴨町池袋。 ^ 第28回(1977年)紅白の構成と演出方法について、当時のプロデューサー 増子正利と意見が対立したことから、第31回(1981年)紅白までの3回分は制作に参加していない。 ^ 1980年代以降は高田、玉井ら「スタッフ東京」の有望な若手作家陣に現場での大半の構成を任せ、自らは総合監修の立場で弟子の考案した構成、演出方針に最終的な修正と決定を下すという役割で番組製作に関わっていた。 ^ 明星(集英社)1969年10月号 p.120 - 123「塚田茂のマンガ履歴書 人生の荒波を乗り切ったどんどんクジラの苦闘43年」 ^ 『放送作家年鑑』1965年版17頁 ^ 志賀 2003, p. 393. ^ “放送作家の塚田茂さん死去 「全員集合」「夜ヒット」”. 朝日新聞デジタル. (2008年5月16日). https://www.asahi.com/showbiz/tv_radio/TKY200805160067.html 2020年1月31日閲覧。 ^ 志賀 2003, p. 395. ^ 志賀 2003, p. 392. 志賀信夫『映像の先駆者 125人の肖像』日本放送出版協会、2003年3月。ISBN 978-4140807590。 ISNI VIAF 日本 MusicBrainz この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。 日本の舞台演出家 日本の放送作家 日本の作詞家 日本のタレント 東宝の人物 夜のヒットスタジオ トップテン 8時だョ!全員集合 東京都立北豊島工科高等学校出身の人物 東京都区部出身の人物 1926年生 2008年没 2025/01/28 20:48更新
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tsukada shigeru
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