塩瀬盛道の情報(しおせもりみち) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
塩瀬 盛道さんについて調べます
■名前・氏名 |
塩瀬盛道と関係のある人
竹村元雄: 通算1安打ながら、その1本がホームランであり、このような選手は他に塩瀬盛道(東急)、ドン・シュルジー(オリックス)がいる。 石山一秀: ^ NPB最終打席での初本塁打は、ほかに通算打席が1打席だった塩瀬盛道とドン・シュルジーがいる。 蔦文也: 蔦が東急フライヤーズに在籍した年の同僚には、塩瀬盛道がいた。 姫野好治: 1950年5月11日の対東急フライヤーズ戦で、塩瀬盛道に生涯唯一の打席で本塁打を打たれた投手である。 ドン=シュルジー: この記録は、長い日本プロ野球の歴史の中で、彼と塩瀬盛道(東急)の2例しかない。 加藤翔平: さらに、新人に限れば1950年5月10日の塩瀬盛道(東急フライヤーズ)以来、史上2人目。 小室光男: 初打席で加藤英夫の初球を打ち、塩瀬盛道以来当時2人目となる初球でプロ初打席初本塁打を記録した。 常見茂: 同年5月11日の対大映スターズでは、チームメイトの塩瀬盛道がプロ初登板してホームランを放ち、その後降板。 小野公誠: ^ このほか、塩瀬盛道とドン・シュルジーは一軍で1打席のみに立ち、その打席で本塁打を打っている。 ドン=シュルジー: その上シュルジーの日本での打席はこれ1回きりであったため、日本プロ野球での通算打率が10割、長打率40割という塩瀬盛道(1950年)以来の珍しい記録も誕生した。 |
塩瀬盛道の情報まとめ
塩瀬 盛道(しおせ もりみち)さんの誕生日は1931年5月23日です。東京出身の野球選手のようです。
現在、母親、映画、卒業、ドラマに関する情報もありますね。去年の情報もありました。2001年に亡くなられているようです。
塩瀬盛道のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 塩瀬 盛道(しおせ もりみち、1931年5月23日 - 2001年3月25日)は、日本のプロ野球選手(投手・外野手。右投右打)、大学野球指導者(監督)、実業家。 初打席初本塁打を放つも、以後再び打席に立つことも試合に出ることもなかったため、通算打率10割・通算長打率40割・通算OPS5.000という、稀有の記録を有する選手である。この記録は、日本プロ野球の歴史の中で、塩瀬とドン・シュルジー(オリックス)の2例しか見受けられない。通算出場試合が1試合での記録となると、塩瀬のみである。 東京府荏原郡馬込町(現在の東京都大田区馬込)で生まれる。戦火に遭い、母親の実家がある茨城県稲敷郡牛久村(現在の牛久市)へ疎開する。茨城県立龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)時代はエースで4番。國學院大學に進み、ここでもすぐにエース格となる。 1950年、大学に籍を置いたまま、東急フライヤーズに入団・プロ入りする。背番号は14。 1950年5月11日の対大映スターズ戦の0対18で迎えた5回裏二死の場面で、蔦文也に替わって4番手で塩瀬がプロ入り初登板、姫野好治を三振とした。6回表、二死一塁の場面で、塩瀬はプロ入り初打席に立ち、先ほど対戦した姫野から初球を打ち、右翼席上段への2ラン本塁打を放った。6回裏には四球、ボークで2点を許し、続く7回裏も四球、内野安打、四球と続けて無死満塁となり、常見茂と交代。以降、塩瀬は公式戦に出場することはなかった。 試合終了後、ホームラン賞として、伊勢崎銘仙、カルピス、栄養剤の「エーデー」、髙島屋の商品券などを獲得するも、大下弘から「第1号の賞品は全部チームメイトに分け与えなければいけない」と言われ、手元には何も残らなかった。その代わり大下にねだり、映画共演で大下と縁のあった高峰三枝子と帝国ホテルで一緒に食事をしている。この他大下からのホームラン祝いを元手にブレザーも作ったという。 1950年シーズンオフに東急退団後は熊谷組に所属。都市対抗野球大会に3回連続出場した。また大学にも復学し、会社員との二足のワラジを履きながら夜学に通い卒業する。 その後、新たに野球部を発足させた日本専売公社(現在の日本たばこ産業=JT)へ移籍し、1957年時点では外野手として所属。ほどなくして休部となってからは労務・総務畑でキャリアを積む。この間、1960年に1年間國學院大野球部監督も務めた。 1985年、JT発足と同時に産業機械事業部事業企画部部長代理に就任、その後関連会社の株式会社ニッタム社長を務めた。 初登板:1950年5月11日、対大映スターズ9回戦(後楽園球場)、5回裏2死に4番手で救援登板、1回1/3を2失点 初奪三振:同上、5回裏に姫野好治から 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、6回表に姫野好治から右越2ラン ※史上3人目(初球での達成は史上初、生涯唯一の打席) 14 (1950年) スポーツ・グラフィック・ナンバー編『プロ野球ヒーロー伝説』(文藝春秋、1992年)ISBN 4168118177 ^ 『読売スポーツ年鑑 1957年版』読売新聞社、1957年、364頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/2471946/1/187。2023年6月14日閲覧。 ^ “「DH制」なのに投手が打席に… “珍事”が生み出したドラマ”. AERA dot (2018年4月4日). 2018年4月15日閲覧。 ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、263ページ ^ スポーツ・グラフィック・ナンバー編『プロ野球ヒーロー伝説』(文藝春秋、1992年)pp.178 ^ 後年の専売東北野球部とは別組織 東京都出身の人物一覧 國學院大學の人物一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 個人年度別成績 塩瀬盛道 - NPB.jp 日本野球機構 日本の野球選手 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校出身の野球選手 國學院大學硬式野球部の選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 熊谷組野球部の選手 日本たばこ産業のスポーツ関係者 日本の野球監督 大学野球指導者 20世紀日本の実業家 東京都区部出身の人物 1931年生 2001年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/20 00:15更新
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shiose morimichi
塩瀬盛道と同じ誕生日5月23日生まれ、同じ東京出身の人
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