山中伸弥のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
山中 伸弥(やまなか しんや、1962年〈昭和37年〉9月4日 - )は、日本の医師、医学者。学位は医学博士(大阪市立大学大学院・1993年)。京都大学iPS細胞研究所名誉所長・教授。
カリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所上席研究員。日本学士院会員。
大阪府枚岡市(現・東大阪市)出身。再生医学を大きく飛躍させる人工多能性幹細胞(iPS細胞)の作製技術を確立した。「成熟細胞が初期化され多能性をもつことの発見」により、2012年のノーベル生理学・医学賞をジョン・ガードンと共同受賞した。
その他称号としては京都市名誉市民、東大阪市名誉市民、奈良先端科学技術大学院大学栄誉教授、広島大学特別栄誉教授、ロックフェラー大学名誉博士、香港大学名誉博士、香港中文大学名誉博士などを有する。文化勲章受章者。
大阪府枚岡市(現・東大阪市枚岡地区)に生まれる。小学校は当初、東大阪市立枚岡東小学校に通っていたが、奈良県北西部の奈良市に転居した小学4年生からは奈良市立青和小学校に通っている。その後は大学1年生まで学園前で暮らしている。
中学校は中高一貫校である大阪教育大学附属天王寺中学校へ進学。中学3年で生徒会副会長を務めている。その時の生徒会長は長じて近畿大学理事長や経済産業大臣を務めることになる世耕弘成であった。中学時代に柔道を始めており、高校から大学2年まで取り組み、高校時代に二段を取得している。なお、山中と世耕は自宅も近く、中学高校の6年間を同級生の親友として過ごしており、同じ電車で通学していた。高校では世耕も柔道部に入部し、共に打ち込んだという。
高校は大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎(現・大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎)へ進学。友人と「枯山水」というバンドを組んで熱中した。この頃、父から医師になることを勧められたものの、将来の進路に迷っていた。しかし徳田虎雄の著書『生命だけは平等だ』を読み、徳田の生き方に感銘を受けて医師になることを決意したという。
大学は神戸大学医学部医学科へ進学。大学3年からはラグビーを始めている。
神戸大学医学部医学科を卒業後、国立大阪病院整形外科で臨床研修医として勤務。学生時代、柔道やラグビーで10回以上骨折するなどケガが日常茶飯事であったため整形外科の道を選んだが、研修では本人曰く「この世の物とは思えないくらい怖い先生」が待ち受けていて、他の医者と比べて技術面において不器用であったことから、指導医からは時に罵倒され、周囲から「レジスタント」「ジャマナカ」と揶揄されることもあり、「向いていない」と痛感したという。重症になったリウマチの女性患者を担当し、患者の全身の関節が変形した姿を見てショックを受け、重症患者を救う手立てを研究するために研究者を志すようになった。
すぐに新しいことをやりたくなる飽きやすい性格であるといい、整形外科の仕事を単調に感じてしまったこともあり、病院を退職、1989年(平成元年)に大阪市立大学大学院に入学。山本研二郎が教授を務めていた薬理学教室で、三浦克之講師の指導の下、研究を開始。当初はいずれ臨床医に戻るつもりだったという(実際に1991年途中から1992年途中までの約半年間、同大学の関連病院である田辺中央病院で週1回、午前中外来、午後に手術を行っていた)。指導教官の三浦は「非常に優秀ながら時間を効率的に使い、適当な時間になると研究を切り上げ帰宅していた。誰にでも好かれるさわやかな性格だった。」と述懐する。1993年、論文 "Putative Mechanism of Hypotensive Action of Platelet-Activating Factor in Dogs"(「麻酔イヌにおける血小板活性化因子の降圧機序」)を提出し、博士(医学)の学位を取得。しかし、学位取得後は、どうやったら人の3倍研究できるかを考えて研究に従事。ほとんど寝ずに研究を行うことも多く、ハードワークでは誰にも負けない自信があったという。
科学雑誌上のあらゆる公募(本人によると30件以上)に応募し、採用されたカリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所へ博士研究員として留学。トーマス・イネラリティ教授の指導の下、iPS細胞研究を始める。
その後、帰国して日本学術振興会特別研究員 (PD) を経たのち、日本の医学界に戻り、岩尾洋教授の下、大阪市立大学薬理学教室助手に就任。しかし、(就任直後当時の)研究環境の米国との落差に悪戦苦闘の日々が始まるようになる。アメリカ合衆国と異なりネズミの管理担当者がおらず、ネズミの管理に忙殺された。また当時としてはiPS細胞の有用性が医学研究の世界において重視されておらず、すぐに役立つ薬の研究をしなかったため、周囲の理解を得られずに批判される毎日が続き、半分うつ病状態になった。本人は当時のこの状態をPAD(Post America Depression=米国後うつ状態)と呼ぶ。基礎研究を諦め、研究医より給料の良い整形外科医へ戻ろうと半ば決意した中、科学雑誌で見つけた奈良先端科学技術大学院大学の公募に「どうせだめだろうから、研究職を辞めるきっかけのために。」と考え、応募したところ、採用に至り、アメリカ時代と似た研究環境の中で再び基礎研究を再開した。奈良先端大では毎朝構内をジョギングして、体調管理に努めた。
2003年から科学技術振興機構の支援を受け、5年間で3億円の研究費を得て、研究に従事。研究費支給の審査の面接をした岸本忠三は「うまくいくはずがないと思ったが、迫力に感心した。」という。奈良先端科学技術大学院大学でiPS細胞の開発に成功し、2004年(平成16年)に京都大学へ移った。2007年8月からはカリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所上級研究員を兼務、同研究所に構えた研究室と日本を月に1度は往復して、研究を行う。
2006年(平成18年)8月25日の米学術雑誌セルに京都大学再生医科学研究所教授である山中と特任助手だった高橋和利(現、講師)らによる論文が発表された。論文によると山中らはマウスの胚性繊維芽細胞に4つの因子 (Oct3/4, Sox2, c-Myc, Klf4) を導入することで ES細胞のように分化多能性を持つマウス人工多能性幹細胞(iPS細胞:induced pluripotent stem cell)を作成した。この作成には、高橋和利と共に山中伸弥研究室の第一期の博士号取得者であった徳澤佳美が奈良先端科学技術大学院大学において山中伸弥の下で作成していたFbx15ノックインマウスの存在が、同じく徳澤佳美が見つけていたKlf4の知見と共に重要であったと山中伸弥は回顧している。
2007年(平成19年)11月21日、山中のチームはさらに研究を進め、人間の大人の皮膚に4種類の発癌遺伝子などの遺伝子を導入するだけで、ES細胞に似たヒト人工多能性幹 (iPS) 細胞を生成する技術を開発、論文として科学誌セルに発表し、世界的な注目を浴びた。
また同日、世界で初めてヒト受精卵から ES細胞を作成したウィスコンシン大学教授のジェームズ・トムソン(英語版)も、山中のマウスiPS細胞生成の研究成果を基に、人間の皮膚に発癌遺伝子などの4種類の遺伝子を導入する方法でヒトiPS細胞を作製する論文を発表した。
これらの功績により、韓国のソウル大学校教授黄禹錫の論文捏造によって一時停滞していた幹細胞研究が、一気に進むことが期待されている。アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュは、研究が発表された2007年11月21日、すぐさまウィスコンシン大学の研究に支持を表明するなど世界中で注目を集めた。日本政府も、同年11月23日、5年で70億円を支援することを決定し、同年11月28日には総合科学技術会議で当時の内閣総理大臣福田康夫は資金支援強化を表明した。
マラソンを趣味とし、奈良先端科学技術大学院大学時代は毎朝構内をジョギング、京都大学に移ってからも鴨川沿いを昼休みに30分走る。日本に寄付文化を根付かせることを目的に、寄付募集のためのマラソン大会出場も恒例となっていて、2012年(平成24年)3月11日の京都マラソンで山中自身が完走することを条件に クラウドファンディングと呼ばれる募金方法によるiPS基金へ寄付を呼びかけたところ、金額は1000万円以上の寄付が集まった。マラソンは4時間29分53秒で完走した。なお山中の研究グループには2007年度から2011年度の研究予算として6億円以上が日本学術振興会より拠出されている。2013年10月27日の第3回大阪マラソンに再び募金活動を支援する「チャリティーアンバサダー」として出場。4時間16分38秒で完走した。2015年の京都マラソンでは3時間57分31秒でサブ4を達成した。さらに2017年の京都マラソンでは54歳で3時間27分45秒、2018年の別府大分毎日マラソン大会では55歳で3時間25分20秒と自己ベストを更新した。
受賞の報せを受けた当日のインタビューで「自宅の洗濯機の修理をしている最中に報せが入った」と語っていたことから、文部科学大臣田中眞紀子の提案で、2012年10月19日には野田内閣が閣僚懇談会でノーベル賞受賞の祝い金として洗濯機購入費16万円を贈ることを決定している。
安倍内閣の文部科学相下村博文は山中伸弥京都大教授の表敬訪問を受けた2013年(平成25年)1月10日には、iPS細胞研究に対して今後10年で1100億円規模の長期的な支援を行う意向を表明している。
2020年(令和2年)3月13日、2019新型コロナウイルスによる急性呼吸器疾患について
個人の活動として
「山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信」を開設した
。
2010年には京都大学に新設されたiPS細胞研究所(CiRA。サイラ)の所長に就任、6期(12年)にわたりiPS研究の指導・支援を担った。2022年に所長を退任、CiRA教授・主任研究者として研究の第一線に復帰した。
家庭
父・山中章三郎は同志社工業専門学校(現・同志社大学理工学部)を卒業後、父方の祖父・山中熊吉が創業したミシン部品を作る町工場「山中製作所」を経営していたが、肝炎を患い58歳で死去。伸弥に対しては放任主義だったが、体力作りとして柔道を勧め、自身の病気(仕事中に飛び散った金属片が骨に刺さったことによる骨髄炎)から医師になることを勧めた。
母方の実家・須貝家は大阪で溶接工場を経営していたが、太平洋戦争により焼失。戦後は大分県別府市に移住し、土産用の菓子の製造販売をしていた。結婚後は夫の工場の経理を担当し、共働き。
8歳上の姉がいる。
中学・高校の同級生で高校1年時から交際していた皮膚科医の山中知佳との間に、娘が2人いる。娘は二人とも医師。
ノーベル賞の受賞に際しては、81歳になる母に受賞を報告できてよかったと述べた。
事件
iPS細胞研究所の附属動物実験施設で、2011 - 13年、飼育室などで管理されていた実験用の遺伝子組み換えマウスが施設内の別の部屋で見つかり、2013年の年末に文部科学省が京大に対して口頭で厳重注意を行った。2014年の3月にこの件で謝罪会見を行った。マウスの施設外への逃亡は確認されなかった。
STAP細胞問題が社会的な大騒動となっていた2014年の5月1日に、新潮社が、週刊新潮のゴールデンウィーク特大号の目玉記事として、2000年にEMBO Journal誌に発表された論文についての指摘を報道した。この指摘は、STAP騒動の中で知名度を高めていた11jigenが2013年に自身のブログで「捏造指摘ではない」という言葉とともに記載していたものであり、元ネタは2ちゃんねるのスレッド「捏造、不正論文 総合スレネオ2」の240番目のレス(2013年3月30日)と511番目のレス(2013年4月6日)である。広報が指摘を認識していたため事前に調査を済ませていたiPS細胞研究所は、新潮社から連絡されたのを受けて週刊新潮が発売される直前に記者会見を行い、山中が捏造や改竄を行ったとは認定されなかったことを発表した。ただし、14年前の実験ノートの一部が見つからなかったことについて山中は謝罪した。謝罪会見の後に、11jigenはこの指摘をしたのは匿名Aだとツイートし、2ちゃんねるで指摘したとされた匿名Aは、ウェブサイト「日本の科学を考える」の中の「捏造問題にもっと怒りを」というトピックにおいて、なぜ謝罪する必要があるのか分からないと言及した(この発言は、2017年1月に管理者によって削除された)。論文を掲載したEMBO Journal誌は不正なしの見解を支持した。この指摘の妥当性や、14年前の実験ノートの保管の不備に謝罪がなされたことについては一部の研究者から疑問が呈され、九州大学の中山敬一教授などは「言いがかり」と批判した。一方、ディオバン事件が発覚する契機を作った由井芳樹助教授が、指摘された図7Bの右側の8つの標準偏差の一致は非常に奇妙だとInternational Journal of Stem Cells誌で主張した。ただし、11jigenは、図7BについてはExcel操作のうっかりミスの可能性があると述べている。山中は2014年の新経済連盟イノベーション大賞の授賞式や2016年の近畿大学の卒業式で、この謝罪会見がマウス管理不備の謝罪会見と共に辛かったことを言及した。iPS細胞研究所の年報やニュースレターには、この謝罪会見の報道が行われたことが伏せられずに記載されている。
共著者になっていた2報の論文に研究不正があったとの認定が2015年に熊本大学から発表されたが、山中の研究不正への関与は認められなかった。
iPS細胞研究所の特定拠点助教が研究不正行為を行ったことが2018年1月に認定された。その監督責任で処分されるとともに、当面の給与を自主返上した。