山田勝己の情報(やまだかつみ) YouTuber 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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■名前・氏名 |
山田勝己と関係のある人
松田大介: そして「俺SASUKEしかねぇんだよ」と言い、山田勝己に「俺の言葉や」とツッコまれた。 |
山田勝己の情報まとめ
山田 勝己(やまだ かつみ)さんの誕生日は1965年10月22日です。兵庫出身のYouTuberのようです。
人物、SASUKEでの戦歴などについてまとめました。卒業、テレビ、引退、ドラマ、家族、事故、事件、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。山田勝己の現在の年齢は58歳のようです。
山田勝己のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)山田 勝己(やまだ かつみ、1965年10月22日 - )は、TBS『SASUKE』のSASUKEオールスターズの1人で、SASUKEの象徴的存在。実業家(鉄工所社長)、YouTuberとしての顔も持つ。兵庫県加古郡播磨町出身。兵庫県立東播磨高等学校卒業。身長175cm 体重75kg(2012年12月時点)。『クイックマッスル全国選手権』(3分間腕立て伏せ)準優勝。2児の父(長男・次男)。 1965年10月22日、兵庫県加古郡播磨町に生まれる。阪神タイガースの掛布雅之に憧れて、小学2年生で地元のソフトボールチームに所属し、全国大会出場の経歴を持つ。陸上の長距離走が得意であり、小学4年生からマラソン大会は毎年優勝していた。躍進のきっかけは、自信を持って臨んだ小学3年生のマラソン大会で4位に終わった悔しさから練習を続けたことだという。中学では野球部に入るつもりだったが、強力な勧誘があった陸上部に入部。 兵庫県立東播磨高等学校に8期生として進学。「今度こそ、野球部に入る」と心に決め、合格発表の翌日にはジャージ姿で野球部の練習に押し掛けた。幼い頃からソフトボールには親しんでいたが、野球は未経験のまま入部。エースで4番を目指していたが、すぐに肩を壊して投手から野手に転向した。 高校1年生の11月、その年の最後の練習試合に、9回二死2、3塁の一打逆転の場面で代打に指名されたが、すべて見逃しで三球三振に終わった。山田は「ひざがガクガク震えてバットを振ることができなかった。野球ではそのとき初めて悔しいと思った」と語り、「そこからなにかにのめり込む際の度合いが激しくなっていったんです。春までの約5カ月、学校や寝ている時間以外はほとんどバットを振っていました」と語るほど野球に没頭。1日1500本のスイングを自身に課し、授業後の学級活動を抜け出して打撃練習をしたこともあったという。その後、高校2年生の春の2試合目に8番で先発出場。2打席続けて初球のストライクをホームランにし、その後は4番で固定されたという。山田は「あの三球三振がなければ、今のようにはなっていないです」と振り返っている。 高校卒業を境に野球を辞めた後は、22歳でソフトボールを始め、全国大会を目指すハイレベルなチームで汗を流し、25歳からトレーニングを再開し31歳でSASUKEと出会う。後に山田は「学生時代は人より運動ができましたので、できない人の気持ちを理解することができなかったですが、SASUKEは挑戦する度に落ち続け、非難を受けたことが挑戦を続ける理由の一つになりました」と述懐している ほか、「『俺より出来るやつなんて世の中におらへん』と思っていたんですよ。でも、SASUKEはやっても出来ひん、やっても出来ひんという。そこで自分って何やろうと考えたとき、自分って何にも出来ひんのやって気付かされたし、自分の弱さも実感出来ました」と語っている。 1996年、TBS『筋肉番付』の『クイックマッスル全国選手権』に出場。これはソフトボールの練習中に大怪我をして、1年ほどソフトボールができず、まともなトレーニングは腹筋と腕立て伏せしかできなかった頃に、テレビで腕立て伏せをやっている姿を見て、「これなら自分でもできそうだな」と思い、応募に至った。結果は準優勝(後述)。これが後のSASUKE出場のきっかけとなる。 1997年、SASUKE第1回大会に「クイックマッスル全国大会準優勝」の肩書きを引っ提げて出場した。 同年、TBS『筋肉番付』の『MUSCLE RECORD 9ミニッツ』(9分間腕立て伏せ)に出場。644回の記録を打ち立て準優勝となった。 1999年、第3回大会に出場。本大会開催前に、山田は自宅の庭にSASUKEを模したセットを製作して練習を重ねた。同大会は完全制覇まで残り約30cmまで迫り、初の大会最優秀成績を記録。 同年、第4回大会で初めてゼッケン100番を与えられるなど、一躍SASUKEを代表する選手となる。 2000年春、SASUKEの練習に熱中したことにより、放置したボンベが爆発したり、仕事の合間にいろんな施設に行って、筋トレや走り込みをしていたことが会社に知られ、ボンベ配送業の仕事をリストラされる。その後は妻の実家の鉄工所でアルバイト、野球場でビール売りのアルバイト(売上は1位)で生計を立てながら出場を続ける。同年秋開催の第6回大会にて2回目の大会最優秀成績を記録。しかし、この頃は1日に700回もの懸垂や何十キロの重りを背負った坂道ダッシュなどのオーバーワークを、仕事から帰ってきてから夜中の2時くらいまでトレーニングしていたため、膝や腰を痛める不調が続き、満身創痍の状態に。その後、紹介状をもらって病院に行ったが、病名がないと診断された。結果、翌大会の第7回大会では、自身初の1stステージでリタイアとなった。 2002年秋、第10回記念大会にて3回目の大会最優秀成績を記録。 2012年、第28回大会をもってSASUKEを引退。 2013年以降、「山田軍団 黒虎」というチームを結成し、自身を慕う若手選手たちとトレーニングを重ね、指導者という形でSASUKEに携わる。軍団の運営については「コーチという生温い形は嫌なので、師匠と弟子のように厳しく精神面も技術面も鍛えていきたいと思っています」と語っている。 2017年、妻の実家の鉄工所の跡を継ぎ、社長となる。 2020年、『SASUKE2020』第38回大会より現役復帰。 2021年、生涯現役宣言をした。 人物身長175cm、体重75kg。握力は60.8kg。背筋力は240kgを誇る。 藤井健太郎プロデュースの番組(『水曜日のダウンタウン』に15回以上出演)に出演しているほか、5つの主要放送局(日本テレビ・テレビ朝日・TBS・テレビ東京・フジテレビ)全てに出演経験がある。また、CM・ドラマなどにも起用された経験がある(後述)。YouTubeではHIKAKINとコラボしている。 焼肉屋では肉を焼かずに食べている。 SASUKEでの戦歴大会ごとの戦歴1996年の『クイックマッスル全国選手権』準優勝という実績を評価され、担当者からの出演打診の連絡により第1回大会に出場が決定。山田曰く「軽い気持ちで参加しました」と語っている。同大会は1stを5.9秒残しでクリアするも、2ndの五連ハンマーでバランスを崩して脱落(ゼッケン92)。 第2回大会の開催を山田は想定していなかったが、およそ1年後に担当者からの出演打診により出場が決定。前回クリアした2nd・スパイダーウォークで足が滑り脱落。山田の番で雨が降っており、水滴による影響を実況者が指摘していた(ゼッケン91)。山田はこの結果について「同じ相手(2nd)に2回負けました。それが許せませんでした。終わってからも悔しさがこみ上げてくるんですよ」と語っている。 第2回大会終了後、山田は自宅の鉄工所の一角に、スパイダークライムおよびスパイダーウォークのセットを自費で製作。その時点では第3回大会の開催があるか否かも決定していなかった。 山田は「もちろん、『今回で終わり』と言われていれば作ってはいなかったと思いますけど、やるかもしれないという感じだったので。次、やるんやったら絶対に勝ってやる、と。そうしたら大会が終わって2カ月経たないくらいのうちに、第3回の出場打診があったんです。待ってました、ですよ」と語っている。これが自宅に作った最初のSASUKEセットであり、以降の挑戦者たちに大きな影響を与えることとなる(後述)。 第3回出場前にスパイダーウォークはウエイトがある選手には不利だと判断し、3カ月で15kgの減量を敢行した(80kgから65kg)。山田は当時の状況について「ボクサーのように食べ物とか、水分摂取を制限しました。お腹がすき過ぎて寝られなかったですし、あそこまで体重を落とすと精神的にも不安定になるんですよ。でも、できる限りのことをやって臨もうと思ったので、もっと練習しよう、もっと体重を落とそう。そんな感じでした」と振り返っている。 あまりにも急激な減量に、家族をはじめとする周囲の人達は山田を本気で心配し、「病院に行くことを勧める者や癌を疑う者までいた」と語っている。 本大会では1stを9.4秒残して突破。2ndウォールリフティングでは3枚目の壁を最上段まで持ち上げ、その後片手で支えた後にゴールまでゆっくりと歩み寄るという姿を見せた。 3rdステージを初挑戦でクリアしFINALステージに進出。FINALは15m綱登りで、スタートから5m地点まで足を使わずに腕の力だけで登り、その後足を使うも残り約30cmでタイムアップ。挑戦後のインタビューでは「腕で一気に登りたかったのですが、ペースが掴めないままで…最初から足を使ってたほうが良かったかもしれないですね」と語り、実況の古舘に「なんでそこまで頑張れるのか?何かを確かめたいのか」という問いに対して「負けたくないっていう…ただそれだけです」と涙して語った(ゼッケン89)。 山田は今大会について「あのときは完全制覇まで行くつもりだったので、体重は軽いままにしようと朝から水分しか摂らなかったんです。それでもう深夜だったファイナルのころには空腹に加えて集中力も欠けてきていました。極端な減量がたたった部分もあるのでしょう。最後は力があまり入りませんでした。でも、手応えはありましたし、あれで心に火が点いた感じです」と振り返っている。 第4回大会はゼッケン100番となり、初めて両親を会場へ呼び寄せた。今回は体重を8kg増量して挑んだ。2ndのウォールリフティングでは前回と同様のパフォーマンスを見せた。3rdではプロペラうんていでタイミングが合わず、1本目から2本目への移動で2度失敗。さらに3本目への移動でも1度失敗。その後、新設されたクリフハンガーの2個目の空白で脱落した。 同大会では『クイックマッスル全国選手権』からのライバルであった秋山和彦が完全制覇を達成。完全制覇した秋山を3rdの沼地に投げ入れ、山田自らも沼の中に飛び込み、秋山の完全制覇を祝福した。しかし、後に番組の公式YouTubeチャンネルで公開された動画の中で、山田本人は当時の心境について、「SASUKEに勝ちたくて、ライバルにも勝ちたいという想いがありましたから、秋山の完全制覇は正直喜べなかったです」と語っている。 山田のトレーニング量は日に日に増していき、ボンベ配送業の仕事中にトレーニングをして会社から注意され、一度は改めようと考えたが、2000年2月にリストラに遭う。その後、時間が確保しやすいという理由で妻の実家の鉄工所でアルバイトをしながら大会に挑み続けた。 山田は当時の状況について「仕事を辞めさせられましたし、無茶をしていたので体のこととか、家族から心配をされたりはしましたけど、強く反対されることはなかったです。言っても無駄だと妻もわかっているので」と振り返っている。 また、自宅への取材の際には、スタッフからの「お金(完全制覇の賞金200万円)は欲しいですか」との問いに対して、「いりません。ハッキリ言って」「(欲しいのは)名誉ですね」と微笑みながら優しい口調で返答し、独自のモチベーションで挑んでいる事を明らかにした。 第5回は、前回の秋山の完全制覇によりリニューアルが施され、1stを竹田敏浩と山本進悟の2人のみがクリアしている状況で挑戦。ローリング丸太の後半で脱線事故に遭い、丸太ごとマットに叩き付けられたが、着水しているか微妙だったためそのまま先へ進んだ。新設されたジャンプハング・そり立つ壁もクリアし、1.7秒を残して1stのゴールボタンを押した。その後、スローVTRによる審議で着水していないことが確認され、クリアの判定となった。 しかし、続く2ndのスパイダーウォークで突如左足を滑らせてリタイア。自宅に初めて作ったSASUKEセットであるスパイダーウォークでのリタイアということもあり、落下後のインタビューでは「スパイダーウォークは得意中の得意と言ってもいいくらいなんですけどね」と語っている(ゼッケン100)。2nd終了後に挿入されたスタジオトークでの司会の古舘伊知郎の解説によると、「直後でこう色々と取材しますとね、股関節イっちゃってたみたいです。練習のし過ぎだったのかね」と話しており、「だから左の足から滑ったとき、股関節に力が入んなかったみたい」と分析している。 第6回開催前に体調を大きく崩し、親からも「そんなに無理して体を壊すならもうやめておけ」と通告された。同大会1st挑戦時の古館の実況によれば「あまりのオーバーワーク、あまりのトレーニングのしすぎで万全の体調ではなかった」という。 この状況から、第6回はラストチャレンジとして出場。1st・2ndを突破し3rdでは初の最終競技者に。前々回リタイアしたクリフハンガーを突破し、最終エリアのパイプスライダーまで進出。思い切り体を振って両足での着地に成功はしたものの、右にバランスを崩して一回転。ゴールマットの右脇へ転落し腰を強打。コースアウトによるリタイアとなった。 その後のインタビューで、実況の古舘から「諦めるか、あるいはまだこのSASUKEチャレンジ、ファイナルステージ成功目指して続けるか。どっちでしょうか。今の心境は」との問いに、山田は「やらせてください…」と懇願した(ゼッケン99)。この山田の脱落は筋肉番付のスタジオでも物議を醸し、レギュラーの中山エミリは「(着地地点に)柵をつけてあげてください」とスタッフに呼びかけている。 なお、パイプスライダーの池はレールと平行で、山田が転落したゴールマットの脇まで掘り下げていなかったが、このリタイアを受け、翌大会以降はゴールマットの両脇にも池が掘り下げられ、美術スタッフの間では「山田池」の通称がついた。 第6回終了後「体調が回復するまでに半年かかった」と語っている。また、医者から「運動をしてはいけない」とストップがかかり、山田は当時の状況について、「第7回大会はほとんどトレーニングなしでチャレンジしました。もしも、そこで体調が悪化したらさすがにアウトかなと思ったので、このときは妻と子どもを連れて行きました。いくらなんでも死んでまでやるわけにはいきませんので」と振り返っている。 同大会は、1stそり立つ壁に到達した時点でのタイムが前回と比較して10秒以上遅いペースとなった。さらに直近の2大会クリアしていたそり立つ壁で2度失敗してしまったことが原因となり、ロープクライムでのタイムアップで自身初の1stリタイア。出場者の中で唯一だった初出場からの6大会連続1stクリアの記録も途切れた(ゼッケン100)。 第8回は再び引退を決意し台風接近による大雨の影響で、幾度も中断を繰り返すコンディションの中で行われた。山本・秋山のリタイア後、ゼッケン100番での挑戦となった。1stのスタートエリア・五段跳びは古館に「100人中1番と申し上げてもいいでしょう」と実況されるほどスムーズに突破。そり立つ壁まで到達するも、雨の影響で滑りやすくなった壁に助走の段階で滑ってしまい2度続けて失敗し、残り時間10秒で動きを止めタイムアップ。自身初の2大会連続1stステージリタイアとなった。 山田自身は基本的に左右対称のエリアは左側を選択するが、(丸太上り、そり立つ壁は左側鉄則)雨の影響で最も滑りやすかったのが左側のコースだった。タイムアップ後、確認のために中央のコースを選択すると、一発で成功という結果となった。その後、パフォーマンスとしてゴール地点まで行き、拍手の止まない観客席に礼をした。 第8回終了後、SASUKEを諦め切れなかった山田は番組宛に手紙を出し自身の引退を撤回。第9回大会への出場を表明した。 大会前に精神面を鍛えようと四国の山中(徳島県:星谷寺、不動の滝)を訪れ、滝に打たれた。7kgの減量を敢行し仕上がりも順調だった。大会前日、家族宛てに「このまま終わってしまってはいけない。親として、夫としては失格かもしれないけど、夢を諦めるわけにはいきません」と手紙を書き残した。 ゼッケン99で出場しそり立つ壁で1回失敗するも、1stを3位のタイムでクリア。続く2ndで、同じく進出した挑戦者達がスパイダーウォークの下り部分で滑り苦戦。特に、2番目の挑戦者である長野誠の挑戦を見た山田は、「めっちゃ滑っとう」と声を漏らし、危機感を抱いていた。挑戦を終えた長野に滑ることを確認した山田は、地下足袋に滑り止めスプレーを噴射し、スパイダーウォーク到達までに足袋にゴミがつかないよう粘着テープで覆う二重の徹底対策で挑戦。 スパイダーウォーク挑戦前に地下足袋の裏に付着した粘着テープを剥がす予定であったものの上手く剥がすことができず、さらに手に滑り止めスプレーをつけるか否かで悩んだことで、挑戦前に17秒(実況の古舘より)のタイムロス。問題の下り部分は危なげなくクリアできたが、このタイムロスがたたり、最終エリア・ウォールリフティングの2枚目でタイムアップ。先に2ndをクリアしていた山本進悟は「気にしすぎだよ⋯」と声を漏らした。山田は競技後のインタビューで「テープを貼ったのが間違いです。テープがとれないです」と語り、考えが裏目に出る格好となった。 今大会終了後、3rdに新設されたランブリングダイスとランプグラスパーを自宅に製作。山田は独自の攻略法を考え、腕への疲労度を最小限に食い止めるトレーニング方法を編み出した。 第10回大会は、延べ人数1000人目の挑戦者としてゼッケン1000番をつけて出場。1stでオールスターズが4人連続で阻まれ、979番から21人連続リタイア。1stクリア者も4人の中で挑戦となった。そり立つ壁を一発で成功させ、1.77秒を残して1stを突破しクリア。2ndは前回大幅にタイムロスしたスパイダーウォークでは両手だけで滑り止めスプレーをかけ、クリア。4大会ぶりに3rdの最終競技者となり、自宅に製作したランブリングダイスやランプグラスパーを突破し最終エリア・パイプスライダーまで進出。勢いを殺してジャンプし右足をかけてゴールにしがみ付くも、後方にバランスを崩して転落。 直後のインタビューでは、古舘の「まだ整理はついていないのは分かるんですけども…今後、どうしますか」との問いに、山田は以下の通り答えている。 このシーンは、後の大会やバラエティに出演した際の紹介VTRにおいても頻繁に使用されている。SASUKE新世代組の一人である川口朋広はこのシーンについて、「『俺にはSASUKEしかないんですよ』という名言を超える名言は未だにないと思うんですよ。SASUKE30回やってきて。それは多分50回60回続けても永遠に語り継がれる名言だと思います」と語っている。 また、このパイプスライダーで脱落したシーンは2008年に『サスケマニア』で募集された「SASUKE名場面BEST10」で視聴者から多くの票を集め、第6回のパイプスライダー脱落シーンと共に第3位に選出された。 第11回は前回と対照的に、1stでゼッケン95番から99番まで5人連続クリアの中で挑戦。山田はスタッフに「オールスターズの他のメンバーは行けたとしても自分だけ取り残されるかもしれません」と語っていた。しかし、ゼッケン100番の山田も1stを危なげなく突破。2ndではオールスターズを含む6人連続クリアという状況での挑戦となるが、前回クリアしていたバランスタンクで後方に体が傾いた際に右足を踏み外し落下となり、オールスターズ唯一の2ndリタイアとなった。 第12回は、大会前に鹿児島県の最福寺に訪れ「護摩行」と呼ばれる荒行を行った。山田は「不動真言」を唱え続け、途中炎からわずかに後退する場面があったが、修行が終わるまでの2時間炎の前から離れることはなかった。 今大会は、前回FINALに進出した長野誠にゼッケン100番を譲り、山田は98番で出場。1stは慎重なペースでエリアを超え、0.72秒残しでクリア。ボタン押下後、長野の声援に対して山田は彼の名(誠)を叫んで応えた。 2ndではスタートエリアのチェーンリアクションにおいて、安全上の理由から手袋の着用が義務付けられていたが、第3エリアのスパイダーウォーク以降はその着用が禁止されており、スパイダーウォーク突入前に手袋を外さなければならなかった。挑戦前には「手袋をすぐに脱げるでしょうか」とスタッフに語りかけていたが、山田は手袋を着用したままスパイダーウォークに突入してしまい、スタッフからの「手袋を外して!」という指示を無視するかのように先を急いだ。3.55秒を残してゴールボタンを押したものの、手袋を外さずにスパイダーウォークに突入したため、ルール違反として失格の裁定が下る。 本放送は上記のシーンまでしか放送されなかったものの、その後の模様が2003年10月5日の『ZONE』で放送された。 山田は競技本部に向かい、「手袋は外さなければいけないとは聞いていましたが、失格とは聞いていなかったんです」と主張した。その結果、現場各所の情報を集約し、後日改めて審議を行うとして、失格の裁定が一時預かりとなり、ゼッケン99番のヨルダン・ヨブチェフの前に異例の再挑戦が認められた。 再挑戦は制限時間との闘いで、ゴールボタンを完全に押していないためタイムアップとなる。これに山田は「中指は触れていたんです」とメカニカルトラブルを主張した。遠方のカメラでは山田の右手がボタンにかかっている姿を捉えていたものの、ボタン付近にカメラを設置していなかったため、ボタンを押したか否かの明確な証拠が残っていなかった。審議の結果「抗議を却下するだけの決定打がその場では見当たらない」として、再々挑戦が認められた。 再々挑戦は2ndに進出した全選手分の挑戦終了後に実施されたが、既に2回も2ndに挑戦した山田にクリアする力は残っておらず、ブリッククライムの上段で落下。途中で足を痛め、スパイダーウォークの途中でタイムアップとなったが、スタッフから制止されながらもゴール地点まで向かった。 後日、改めて審議が行われ、山田に正式な裁定が下された。その結果、「ルールの解釈の相違があったとは認められない」として、最初のトライ(手袋を外さずにスパイダーウォークに突入したこと)における失格となった。 山田は今大会1stをクリアした11人中、唯一の2ndリタイア者となった。山田は涙を流し「長野誠が俺の分までやってくれると思います。できれば一緒に行きたかったですけど申し訳ないです」と語り、長野も涙を流した。 この大会の2nd脱落シーンは2008年に『サスケマニア』で募集された「SASUKE名場面BEST10」で多くの票を集め、「山田勝己 手袋失格事件」として第10位に選出された。 なお、この大会が山田にとって最後の2nd進出となった(2024年現在)。 第12回大会終了後、オーディション予選の実技テスト兼出場者枠決定戦でもある「SASUKEトライアル」で10.58秒を残して総合ランキング12位になり、第13回大会への出場権を獲得。しかし、山田は「今は家族との時間を大切にしたいです」と語り、自身初の欠場という道を選んだ。しかし、第13回大会の放送を視聴後、「今までずっと闘い続けてきた場所に、自分は出てなかったんだな。自分はもう存在しなかったんだなぁと痛感して涙が出てきました」と語っている。これに伴い、皆勤賞は同じくSASUKEオールスターズの山本進悟のみとなった。 2大会ぶりの出場となった第14回は、過去8大会一度も失敗したことのなかった1stのジャンプハングで跳躍に高さが出ず、直線的に飛んでしまいネットから手が離れてリタイア(ゼッケン99)。 第15回は30代で出場する最後の大会となった。1stのクロスブリッジ通過後にバランスを崩しコース外のマットの上に転落する形でのリタイア(ゼッケン99)。 第17回は3年ぶりにゼッケン100番で挑戦。今大会は極度の緊張が山田を襲い、自身の出番2時間前から全身に滑り止めスプレーをつけるという常軌を逸した行動に出るなど、平常心を失っていた。 1stはそり立つ壁まで到達し、4度目の挑戦で壁を乗り越えるもタイムアップ。山田は「緊張で立ってるときから足が震えていました」と語った。序盤のペースは前回とはうって変わってハイペースで進み、長野も「めちゃめちゃ良かった。もう(エリア間は)バッチリだった」と語っている。 また、同大会は山田に憧れてSASUKE出場を決意した長野誠が史上2人目の完全制覇を達成。山田は同大会の放送日に大阪にて行われたボウリング大会に参加し、終了後に車の運転中のコメントでオールスターズ全員でのファイナル進出を目標にしてきた長野誠に対し、「皆で(ファイナルに)行ったら面白ないやろと思ってましたが、やっぱりみんなでっていうのが、今回はね長野に教えられたのかなっていう風に思いました」と心境の変化を語っている。 リニューアルされた第18回大会は、ゼッケン争奪マラソンで73番という早めのゼッケンを選択した。今まで上半身裸で挑んだが、初めて半袖着用で挑んだ。オール新エリアの1stを最終エリア・ロープラダーでタイムアップ。これで3大会連続のタイムアップとなる。 第19回は、1stのポールメイズでポールを上手く動かせずに約60秒のタイムロス。辛うじてクリアするも続くジャンピングスパイダーで落下した(ゼッケン91)。 第20回は、大会前の2月に自宅の練習セットで顔面を負傷するアクシデントに見舞われた。同大会はゼッケン1999番で出場し、ジャンピングスパイダーで一度張り付いたものの、その直後に右足を滑らせ転落。腰を強打した。 第21回は身体の調子が万全ではなく、スタート前から肩や足にテーピングを巻いての挑戦となった。ジャンピングスパイダーをクリアするが、着地の際に足を負傷。負傷した足でハーフパイプアタックをクリアするも、そり立つ壁でタイムアップとなる。後のインタビューでは「もう一回ベストの状態でSASUKEに挑んでみたいですね」と語っている(ゼッケン96)。 また、今大会は山田の弟子が出場を懸けた予選会「SASUKEトライアル2008夏」を第1位で通過し出場権を獲得。ゼッケン48番で出場し、大会前には山田の自宅セットで練習を重ねたものの、1stのジャンピングスパイダーでリタイアとなった。 第22回は、大会前に白血病を患った男児から「僕は山田さんの戦う姿を見て手術をすることを決めて頑張りました。なので山田さんも頑張って今年は1stステージをクリアしてほしい」という手紙が届き、番組内でも取り上げられた。同大会は、1stのジャンピングスパイダーでリタイア(ゼッケン81)。 また、今大会は山田に弟子入りした俳優の中尾明慶がゼッケン88番で出場。大会前に山田の自宅セットで練習を積むも、1stのジャンピングスパイダーでリタイアとなった。 第23回は、そり立つ壁を4度目の挑戦でクリアするも、スライダージャンプの綱を掴み損ねて頭から落水した。リタイア後のインタビューでは「もう一度半年頑張って、次が最後のつもりでやりたいです」と語った(ゼッケン71)。 第24回は「1stをクリアできなければ最後のつもりで」という決意で臨み、7kgの減量を敢行して挑むもそり立つ壁でタイムアップ(ゼッケン80)。山田は引退こそ明言していないものの、番組中のテロップには「山田勝己 引退」と表記された。 第25回は欠場。緑山にも姿を現さなかった。 第26回を前に、山田はスタッフに「もう1回挑戦したいです」という内容の手紙を送り、3人のオールスターズメンバー(秋山兄・竹田・文平)の欠場も考えて、出場することが決まった。 同大会はそり立つ壁を攻略すべく、腰に20kgの錘をつけて坂道ダッシュをする対策を講じた。1stは脱落者の多かった新エリアのローリンクエスカルゴを突破。その後ジャンピングスパイダーで一度は張り付くも、直後にバランスを崩して転落し腰を強打した(ゼッケン90)。 第27回は、大会前に自宅のそり立つ壁の高さを20cm上げて練習を重ねた。そりたつ壁に到達するまではかなりハイペースでエリアをクリアしており、長野も「いけるよ今回!」と太鼓判を押すほどであったが、今大会は前半に脚力を要すエリアが多い影響でスタミナを奪われ、そり立つ壁に一瞬左手をかける場面があったものの、掴みきれずタイムアップ。リタイア後のインタビューでは「(同年春の東日本大震災もあり)頑張ろう日本、頑張ろう東北と言いたかったんですけどねぇ…もっともっと練習してきます」と語った(ゼッケン91)。 1年半ぶりの開催となった第28回は、番組内で「オールスターズ最後の戦い」と釘打たれ、秋山と山本(翌大会に撤回)が引退した。山田は引退こそ明言しなかったものの、本番前には「どこかでケジメをつけようというのは自分の中ではあります」と語った。 8大会ぶりにゼッケン99番で登場。前日に怪我をした左足を引きずりながら1stに挑み、難関エリア・スピンブリッジ、ジャンプハング改をクリアしたが、2連そり立つ壁に到達した時点で残り時間20秒を切り、クリアは絶望的となったが、タイムアップ音と同時に1つ目の壁を乗り越えた。 挑戦後のインタビューでは、SASUKEオールスターズに関するメッセージとして「いつもだらしない結果で、リーダーとしてもだらしなくずっとやってきましたが、皆に分かってほしいのは、オールスターズっていうのはSASUKEがすごく大好きで、ずっと十何年間も一緒に戦い続けて来て、いいメンバーに巡り会えて、俺はすごい幸せです」と語っている。 その後、漆原裕治を始めとする新世代組に向けて、以下のメッセージを残している。 本大会放送後、YouTubeで公式上で公開されたインタビュー動画では「SASUKEの為ならお前やれ(出場しろ)と言われたら体潰れるまでボロボロになったとしても出ますし、SASUKEが今後続いていく為であれば、俺はなんだってやるって決めました」「SASUKEを続けて応援してくれる人半分、否定する人半分でしたけど、諦めずに頑張るって言うことを本当の意味で学びました」「若い奴らに先越されている感はありますけど、完全制覇は諦めていないので、いつか必ず制覇してみせます」と最後までミスターSASUKEとしての意気込みを露わにした。 第29回は山田軍団 黒虎を率いて1stのエリアを徹底解説し、3rdのデモンストレーションも担当。2002年秋以来約10年ぶりに3rdに挑戦し、アイアンパドラーで苦戦する場面があったが突破し、最終的には第3エリア・クレイジークリフハンガーの2本目終盤でリタイアとなった。実況は総合演出の乾雅人が担当した。 第30回は各週刊誌において、ゼッケン2934番を着けて大会に出場したことが早期のうちから公開されていたが、放送及び記念DVDでは全カット。ホームページに掲載されている出場者リストでは欠場扱いとなった。 総合演出の乾雅人は本大会の山田の出場について「申し上げることはない」としている。山田本人によると「30回大会は自分から放送をカットしてくださいとお願いしました」としている。 第32回では、YouTubeで公開された1stからFINALまでの各エリアの解説を担当した。FINALではセット横の階段からゴール地点への登頂を行い、初めて頂上からの景色を眺めた。この際山田は「どこかチャンスがあるならば、必ず戻ってきます」と、復帰への意欲も見せていた。 第33回では番組開始20周年の節目に因んで特別招待選手として復帰。スタッフに「20周年を一言で」と問われると「ありがとうの一言ですね。こんなにダメやったやつをここまで育て上げてくれて」と語った。挑戦は1stのタイファイターでリタイア(ゼッケン33)。挑戦後のインタビューでは「俺の思いは、悔しさは持って帰りますが、完全制覇という昔からの思いは置いていくので若い奴らが必ず取り戻してくれると思います」と涙しながら語った。 第35回も黒虎を率いて緑山に姿を現し、山田自身は出場していない。なお、収録数日前の仕事中に、重さ700kgの鉄板を足の上に落として大怪我を負ったため、会場には車椅子姿で登場した。 第38回出場を自身のYouTubeで公言。黒虎・SASUKEオールスターズの肩書きに頼らず、一般枠での応募を選んだ。ゼッケン97番で出場し、1stのドラゴングライダーまで到達。トランポリンジャンプの際に1本目のバーを両順手でグリップしていたため、重力に耐え切れずリタイアした。競技終了後、山田は「みんなが応援してくれて、笑顔でやれたので楽しかったです」と語り、競技本部に向かって「ありがとうございました」と一礼した。 第39回はゼッケン96番で登場。降雨の中1stを挑戦し、スタートエリアのクワッドステップス4枚目の踏み板で滑り、足が着水する形でリタイア。山田はリタイア後もローリングヒルに進んだが、下りから対岸に移った際に滑り落ち、一度の挑戦で二度落水する異例の事態となった。 第40回は3996番で登場。前々回クリアしたフィッシュボーンで進入のタイミングを誤り、ポールに弾かれる形で落水。リタイア直後には、悔しさの余り絶叫し涙を流す姿も見られた。 第41回は95番で登場。大会半年前に母が逝去。前回リタイアしたフィッシュボーンの進入のタイミングに戸惑いながらも強引に突破。続く新エリアのツインダイヤ1個目→2個目の移行時に前傾姿勢になるも飛距離が足りずそのまま落水。黒虎の山本良幸がリタイアした後のインタビューでは、誰よりも山田を応援してくれていた母のことを想い、涙を流した。なお、本大会では山本進悟・長野誠が序盤でリタイアしたためSASUKEオールスターズの中では最優秀成績である。 大会別成績
※第18回大会はゼッケン争奪マラソンによって決定 通算成績
2023年第41回大会終了時点 SASUKEトライアル(2004年)
2024/06/13 02:02更新
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yamada katsumi
山田勝己と同じ誕生日10月22日生まれ、同じ兵庫出身の人
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