工藤裕司の情報 (くどうゆうじ) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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工藤栄一: 弟にはニッセイバックステージ賞を受賞した舞台大道具背景制作者の工藤和夫、フィールドホッケーメキシコシティ五輪日本代表の工藤明朗、家業を継ぎ苫小牧で画家としても活動する工藤裕司がいる。 中本伸一: 卒業まで残り半年というタイミングだったことから、ハドソンの創業者である工藤裕司らからは「大学を卒業してから入社しても遅くない」と中退を思いとどまるよう説得されたものの、その説得に応じず半ば無理やりハドソンに入社してしまったというエピソードが残っている。 加山雄三: これは当時ハドソンの会長であった同社の創業者工藤裕司と加山が知り合いであり、加山が工藤に「いつかテレビゲームの音楽を作曲する機会があったら、俺もやってみたいな」と話したところ、工藤が子供から大人まで楽しめるゲームのほうが加山のイメージに合うだろうということで『鮫亀』を推薦したことが経緯である。 |
工藤裕司
工藤 裕司(くどう ゆうじ)さんの誕生日は1947年4月6日です。北海道出身の経営者のようです。
歴史、沿革などについてまとめました。解散、退社、現在、テレビ、兄弟に関する情報もありますね。工藤裕司の現在の年齢は77歳のようです。
株式会社ハドソン(英: Hudson Soft Company, Limited)はかつて存在した北海道を発祥とするゲームソフト開発・販売会社。 ゲームソフトのパッケージ裏面やその説明書の裏表紙などに正式社名ロゴを記載していないゲームソフトメーカーの一つでもあった。 2012年3月1日をもって当時親会社であったコナミデジタルエンタテインメント (KDE) に吸収され、2013年12月31日まで同社のブランドとなっていた。 1973年5月18日、工藤裕司とその弟工藤浩により札幌市豊平区に通信機器と美術写真の販売を目的とした「有限会社ハドソン」として創業。同年9月にはアマチュア無線ショップCQハドソンを開店。 1970年代後半にパソコンのソフトウェアの制作で頭角を現し、1978年には日本で初めてパソコン用のゲームソフトウェアを販売した。1980年代初頭には高い技術力でパソコンソフトメーカーの大手となる。主にシャープのパソコン用にリリースされたBASICインタープリタHu-BASICや、X68000のOSであるHuman68kやそのグラフィカルのシェルであるビジュアルシェル等を開発していた。 任天堂がファミリーコンピュータを発表した際、まだブームになっていない時点から接近を図り、任天堂初のサードパーティとなった。以降家庭用ゲーム機向けソフト開発がメインとなる。自由な社風の元、独自の企画を行っていた。特に「ハドソン全国キャラバン」や「高橋名人」は人気児童誌で積極的にタイアップされたことから、当時の子供世代にとっては抜群の知名度を誇る。 一方で自社でのハード開発にも乗り出しており、日本電気ホームエレクトロニクス株式会社(現:日本電気株式会社)と組み、1987年にはハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれるHuC62シリーズを搭載した家庭用ゲーム機『PCエンジン』を発表、ソフトメーカーながら高い技術力の片鱗を見せた。1992年には将来を担う最新テクノロジーの研究開発部門として、芸術の森アートビレッジ内に「ハドソン中央研究所」を設立。1994年12月に発売した後継機種である次世代ゲーム機『PC-FX』の音源や動画処理などのチップセットもPCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用された。 1997年にはトレーディングカードの企画・開発・販売事業に乗り出し、同年4月にパイロットショップ「フューチャービー」を開店する。 1998年11月にメインバンクである北海道拓殖銀行が破綻して以降は資金繰りが難航して経営が悪化した。2001年にコナミ(現:コナミグループ)が筆頭株主になり、2005年には子会社化。その後2011年にコナミの完全子会社になり、翌2012年にはコナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、グループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い、KDEに吸収合併され、法人としてのハドソンは解散した。その後はブランド名としてハドソンの名が残されていたが、2013年年末に同ブランドが名実共に消滅する事となり、2014年1月よりコナミブランドに統一されている。 歴史ハドソンは本来、技術者の集団ということもあり、任天堂のサードパーティーとして、ファミコンブームの立役者としての立場に甘んじる事無く、独自のハード作りにも乗り出した。 1987年に日本電気ホームエレクトロニクス(NEC HE)と共同開発した家庭用ゲーム機PCエンジンは、ハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれるHuC62シリーズを搭載しており、実質ハドソンが開発したゲーム機である。 PCエンジンは、当時のライバル機である任天堂のスーパーファミコン(全世界累計4,910万台)やセガのメガドライブ(全世界累計3,075万台)と、日本を含め世界市場で覇権争いを展開した。全世界累計の販売台数は1000万台を記録しており、ライバル機の売上には及ばないものの、競合をはるかに凌駕する「美麗なグラフィック」「高音質な楽曲・音声セリフ」「CD-ROMドライブによる大容量ゲーム」などを実現するなど、プレステなどの次世代機の可能性を感じさせる一時代を築いた名機として、おおむね成功といえる結果を残した。 1994年12月に発売された、後継機種である次世代ゲーム機『PC-FX』の音源や動画処理などのチップセットも、PCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用された。しかし当時、次々と発表された競合ハードであるPlayStation、セガサターン、NINTENDO64の3D性能に対抗すべく急遽PC-FXに搭載する予定だった3Dポリゴン用チップの開発が間に合わず、結果としてPCエンジンの延長線上である従来型の2Dゲーム路線のソフト開発がメインになってしまうなど、急速に発展する3Dゲーム市場からは後塵を拝してしまう。 本機を最後に、ハドソンはハード開発から撤退する事になったものの、長年NEC HE系列のファーストパーティー的な存在であり続けた。 1991年にコンピュータプログラマー、デザイナーの養成を目的に「ハドソンコンピュータデザイナーズスクール株式会社」を設立し同スクールを開校、コンピュータゲームに関わる人材を養成していたが、1997年に同社を「株式会社フューチャービー(後に株式会社未来蜂歌留多商会に商号変更)」とし、トレーディングカードの企画・開発・販売事業に乗り出した。同年4月には東京都千代田区にあるサンポウ水道橋ビルの2階にトレーディングカードを扱うパイロットショップ「フューチャービー」を開店し、後に全国に展開された。 また1991年から札幌の老舗デパート丸井今井のデータウェアハウス構築に協力しており、その流通向けデータベース・マーケティングシステム開発のノウハウを活かしてデータウェアハウス用パッケージソフト「P2/S」を開発した。 1992年には札幌芸術の森アートビレッジ内に、将来を担う最新テクノロジーの研究開発部門であるハドソン中央研究所(コア・テクノロジー事業部)を設立し、ゲーム機用半導体開発、ゲーム開発環境の整備などを行っていた。その一方同研究所は1997年に育成散歩計「てくてくエンジェル」を開発し、日経産業新聞優秀賞を受賞。その他にも筑波大学の徳永隆治らと共同で画像圧縮技術「Hybrid Vector Quantization(HVQ)」及び動画圧縮技術「HVQM」を開発した。 さらに2002年には、日本ビクターと共同でCD-ROMコピー防止技術「ROOT」を開発する、株式会社イーブックイニシアティブジャパンと共同で独自のフォーマット形式の電子書籍を閲覧するソフトウェア「ebi.BookReader」を開発するなど、ゲーム業界だけではなく様々な業界に関わる技術開発を行っていた。 1990年代末、メインバンクだった北海道拓殖銀行の破綻により資金繰りが悪化。2000年3月よりiモード用のゲームコンテンツ配信を開始するなど、携帯電話向けの事業に乗り出すが、経営状態は好転せず、2000年代に入ってコナミの資本が入るようになり、2004年には創業者が経営から完全に手を引き、2005年にはコナミの子会社となる。同時に特徴的であった「自由な社風」も社内から無くなった。 2007年に本社を東京ミッドタウンに移すがヒット作がほとんどなく、2008年には社長を退任した遠藤やマリオパーティシリーズのスタッフがエヌディーキューブに移籍。コナミの完全子会社になった2011年は、開発ラインナップに家庭用ゲーム機向けタイトルが無くなったことで高橋名人が退社。 さらに、『桃太郎シリーズ』のゲーム監督さくまあきらも、長年付き合いのあった桃太郎電鉄の開発チーム「Team Kawada」に在籍するハドソン社員の多くが退社したり、ハドソンを吸収合併したKDE-Jに在籍する社員との間に発生したトラブルにより、コナミとの確執を経て決別。事実上、桃太郎シリーズ打ち切りと同シリーズの著作権をコナミと他社に譲渡せず、一旦「永久に封印する」という事態が起きた。 そして翌2012年3月1日に、コナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、コナミグループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い、KDEに吸収合併する形で法人としてのハドソンが消滅した。 なお、法人消滅後も当初は体裁上ハドソンブランドのサービスは継続されていたが、バーチャルコンソールでのラインナップの追加以外には目立った動きはあまりなく、2013年末をもってハドソンブランドが消滅。これらのアーカイブも全てコナミブランドに統一され、翌年の2014年元日付けでハドソンブランドの公式ホームページも閉鎖され、名実共に40年7か月の歴史に幕を下ろした。 2014年にコナミブランドに統一された後から現在に至るまで、旧ハドソンブランドのシリーズ作品が新たに発売されている。ただし、ハドソンが開発・販売をしていた時とは携わっているスタッフが異なる場合が多く、現時点(2022年6月現在)ではいずれの作品も従来のシリーズとは路線の異なる部分が少なくない。 沿革1973年(昭和48年)
9月 - アマチュア無線機器の販売店「CQハドソン」を開店。 1975年(昭和50年)9月 - パソコン用機器の販売を開始。 1978年(昭和53年)3月 - 日本で初めてパソコン用パッケージゲームソフトの開発・販売を開始。 1982年(昭和57年) 3月 - 東京事業所(東京都千代田区麹町)開設。 1984年(昭和59年)
10月 - 株式会社メディアを買収、同社を「株式会社ハドソン販売」に商号変更。 11月 - 有限会社ハドソンから株式会社ハドソンへ組織変更。 1985年(昭和60年)
7~8月 - 第1回TDKファミコン全国キャラバン大会開催。 12月20日 - ファミコン用ソフト『ボンバーマン』を発売。以後シリーズ化。 1986年(昭和61年)
9月12日 - ハドソン所属のファミコン名人・高橋名人をキャラクターに起用した『高橋名人の冒険島』を発売。以後シリーズ化。 10月3日 - 高橋名人を題材にしたテレビアニメ『Bugってハニー』が日本テレビ系列他にて放送開始。 1987年(昭和62年)
7月 - 独自のLSIを含む「C62システム」を開発。NECホームエレクトロニクスとゲーム機「PCエンジン」を共同開発。 9月 - PCエンジン用ソフトの開発・販売を開始。 10月26日 - ハドソン初のRPGであるファミコン用ソフト『桃太郎伝説』を発売。以後桃太郎シリーズとしてシリーズ化。 1988年(昭和63年)
12月 - R&D業務とMD業務(ライセンス管理等)を目的に「未来計画株式会社」を設立。 12月2日 - 前年に発売された『桃太郎伝説』の派生作品として、ファミコン用ソフト『桃太郎電鉄』を発売。以後シリーズ化。 12月4日 - CD-ROMを媒体とした世界初のゲームソフト『No・Ri・Ko』『ファイティングストリート』を発売。 1989年(平成元年)
6月30日 - CD-ROMを媒体とした世界初のRPG『天外魔境 ZIRIA』を発売。以後シリーズ化。 10月2日 - 「桃太郎伝説」を題材にしたテレビアニメ『桃太郎伝説 PEACHBOY LEGEND』がテレビ東京系列他にて放送開始。 1990年(平成2年)
10月8日 - 「桃太郎伝説 PEACHBOY LEGEND」の続編である『PEACH COMMAND 新桃太郎伝説』がテレビ東京系列他にて放送開始。 1991年(平成3年)4月 - コンピュータプログラマー、デザイナーの養成を目的に「ハドソンコンピュータデザイナーズスクール株式会社」を設立。 1992年(平成4年)
9月 - 札幌市南区、芸術の森アートビレッジ内に「ハドソン中央研究所(コア・テクノロジー事業部)」を設立。 9月 - ハドソン創業20周年を記念し、中央研究所内に庶民の穴銭資料館「方泉處」を開設。 1993年(平成5年)7月 - 世界初のハイビジョンゲーム『HI-TEN ボンバーマン』を開発、イベントに使用。 1994年(平成6年)
5月 - 創業者の弟・工藤浩が代表取締役社長に就任。 12月 - NECホームエレクトロニクスと共同開発したゲーム機「PC-FX」が同社より発売される。 12月 - PC-FX用ソフトの開発・販売を開始。 1996年(平成8年)
5月18日 - CIロゴの表記を「HUDSON GROUP HUDSON SOFT」から「HUDSON」に変更。 6月 - セガサターン用ソフト・周辺機器の開発・販売を開始。 1997年(平成9年)
2月 - ハドソンコンピュータデザイナーズスクール株式会社を「株式会社フューチャービー」に商号変更。会社目的も未来の玩具の企画・デザイン及び販売、トレーディングショップの管理運営に変更。 4月 - 東京都千代田区にあるサンポウ水道橋ビルの2階にパイロットショップ「フューチャービー」を開店。トレーディングカードを扱い、102名を収容可能な本格的なデュエルルームを備える。フューチャービーの店舗は後に全国に展開される。 8月 - NINTENDO64用ソフト・周辺機器の開発・販売を開始。 11月 - PlayStation用ソフトの開発・販売を開始。 12月 - 世界初の育成散歩計「てくてくエンジェル」を発売。 1998年(平成10年)
3月 - 株式会社フューチャービーを「株式会社未来蜂歌留多商会」に商号変更。フューチャービーはパイロットショップの名前として存続。 5月 - 任天堂ゲーム機の開発環境整備等を目的に任天堂と合弁で「招布株式会社」を設立。 12月18日 - 開発を手掛けたNINTENDO64用ソフト『マリオパーティ』が任天堂から発売される。以後シリーズ化。 1999年(平成11年)
2月7日 - 「Bビーダマン爆外伝」の続編である『Bビーダマン爆外伝V』がテレビ朝日系列にて放送開始。 3月 - ドリームキャスト用ソフトの開発・販売を開始。 5月 - 東京事業所、新宿区市谷田町から中央区築地に移転。 5月29日 - 自社が著作権を保有する「ボンバーマン」「桃太郎」などのキャラクターイラストについて、教育関係及び福祉関係団体等の非営利目的での使用の場合の無償使用許可、同一目的用のキャラクター線画配布を朝日新聞紙面上で発表。 2000年(平成12年)
3月 - 招布株式会社の第三者割当増資を引き受け、子会社化。 3月 - 携帯電話「iモード」向けゲーム配信サービスを開始。 7月~8月15日 - 「ボンバーマンシリーズ」とでんすけすいかのタイアップキャンペーンを実施。 10月3日 - 次世代ゲーム機向けソフトの開発・販売を行なうための合弁会社の設立について、フランスのアンフォグラム社と合意。 11月 - アンフォグラム社と合弁で「アンフォグラムハドソン株式会社」を設立。 12月 - 大証ナスダックジャパン・スタンダードに上場。 2001年(平成13年)
3月 - PlayStation 2用ソフトの開発・販売を開始。 3月 - 富士通他4社とASP事業の本格展開に際し、ジェイビートゥビー株式会社の第三者割当増資を引受。 3月 - ゲームボーイアドバンス用ソフトの開発・販売を開始。 3月 - ゲームソフトの長期開発資金としてシンジケートローンを実施。 5月 - CQハドソン閉店。 5月 - 庶民の穴銭資料館「方泉處」を閉館。 8月 - コナミが第三者割当増資を引き受け筆頭株主となる。 12月 - コナミコンピュータエンタテインメントの札幌事業を「ハドソンスタジオ」として分割、継承。企業体質強化及び収益の向上を図るため、組織を大幅に変更、社内カンパニー制を導入。 2002年(平成14年)
4月 - ニンテンドーゲームキューブ用ソフトの開発・販売を開始。 5月 - 株式会社イーブックイニシアティブジャパンと共同開発した、独自のフォーマット形式の電子書籍の閲覧ソフトウェア「ebi.BookReader」が同社よりリリースされる。 6月 - 台湾におけるiモードサービスを開始。 6月 - 筑波大学の徳永隆治らと共同で開発した独自の画像圧縮技術「HVQ」の提供により、株式会社イーブックイニシアティブジャパンと共に岩見沢市立図書館における岩波文庫電子書籍化サービスに参入。 7月 - 中央研究所を「コア・テクノロジーセンター」に、東京事業所を東京支社に改称。 8月 - CD-ROMコピー防止技術「ROOT」を日本ビクター(現・JVCケンウッド)と共同開発。 9月 - 当初の目的を達成・終了したため招布株式会社を清算。 10月 - パソコン用地図ソフト「MaPiVi」を株式会社ゼンリンと共同開発。 10月2日 - 「ボンバーマン」を題材としたテレビアニメ『ボンバーマンジェッターズ』がテレビ東京系にて放送開始。 12月 - 携帯電話用アクセサリー「チョ~!ワイドレンズ」(広角レンズ)を発売。 2003年(平成15年)
11月 - アメリカ・カリフォルニア州サンマテオに100%子会社「Hudson Entertainment, Inc.」を設立。 2004年(平成16年)11月 - 遠藤英俊が代表取締役社長に就任。創業者である工藤兄弟が経営から退く。 2005年(平成17年)
4月 - 第三者割当増資をコナミ(後のコナミホールディングス)が引き受け、コナミの連結子会社となる。 5月 - ハニービー音楽出版(連結子会社)を吸収合併。 5月 - ニンテンドーDS用ソフトの開発・販売を開始。 7月 - 本社を創業の地・札幌市豊平区から東京都中央区に移転する。 2006年(平成18年)
3月 - Xbox 360用ソフトの開発・販売を開始。 8月4日~8日 - 「桃太郎電鉄シリーズ」と五所川原立佞武多がタイアップ。「桃太郎電鉄 立佞武多」が制作・運行された。 12月 - Wii用ソフトの開発・販売を開始。 2007年(平成19年)
6月 - 本社を東京都港区赤坂のミッドタウン・イーストに移転。 2008年(平成20年)
3月19日 - Wii用ソフト『DECA SPORTA Wiiでスポーツ"10"種目!』を発売。以後シリーズ化。 6月 - 石塚通弘(元KDE経営本部長)が代表取締役社長に就任。 2009年(平成21年)
5月 - 東京本社を赤坂ミッドタウン・タワーに移転。 2011年(平成23年)
4月1日 - コナミとの間で簡易株式交換を実施し、コナミの完全子会社となる。上原和彦(KDE執行役員)が代表取締役社長に就任する。 5月 - 北海道本社を札幌事業所に改称。 7月 - 東京本社、かつてあったミッドタウン・イーストに再移転。 2012年(平成24年) 3月1日 - コナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、コナミグループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い、KDEに吸収合併され、法人としてのハドソンが解散した。 2014年(平成26年)1月1日 - ハドソンブランドの公式ホームページが消滅した。 2024/05/25 02:36更新
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kudou yuuji
工藤裕司と同じ誕生日4月6日生まれ、同じ北海道出身の人
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