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松田次生の情報 (まつだつぎお)
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松田 次生さんについて調べます

■名前・氏名
松田 次生
(まつだ つぎお)
■職業
レーシングドライバー
■松田次生の誕生日・生年月日
1979年6月18日 (年齢44歳)
未年(ひつじ年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
三重出身

松田次生と同じ1979年生まれの有名人・芸能人

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松田次生と関係のある人

小暮卓史: Hondaのエース格であった松田次生が日産へ移籍したこともあって、Honda陣営の中心ドライバーの一人として注目を集めた。


星野一樹: 2022年4月28日、日産自動車とNISMOから、6月4〜5日に富士スピードウェイで開催されるS耐第2戦「NAPAC 富士SUPER TEC 24時間レース」に、新型ニッサンZをベースとしたレースカーでST-Qクラスに参戦すると発表し、230号車を松田次生、ロニー・クインタレッリ、平手晃平らとドライブ、決勝5位で完走した。


星野一樹: 同年のスーパー耐久シリーズ第3戦・十勝24時間レースでは本山哲・服部尚貴・松田次生と共に「日産自動車ドリームチーム」を結成し参戦、総合7位で完走しクラス優勝を果たした。


近藤真彦: フォーミュラ・ニッポンには第5戦から松田次生を擁して復帰し、その後同選手権が「スーパーフォーミュラ」に改称された後も参戦。


松本恵二: 5ZIGENでは以後道上龍、本山哲、松田次生を監督として指揮、鼓舞した。


井出有治: 2003年にセルモより念願のフォーミュラ・ニッポンに参戦を開始し、予選順位では揮わなかったが決勝では卓越したタイヤマネージメントにより安定したペースで走行し、ゴール時には上位に食い込む走りで、最終ランキングではルーキーイヤーにチームメイトの松田次生よりも上位になり、関係者の注目を集めた。


松田次生

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松田 次生(まつだ つぎお)さんの誕生日は1979年6月18日です。三重出身のレーシングドライバーのようです。

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経歴、エピソードなどについてまとめました。趣味、テレビ、卒業に関する情報もありますね。松田次生の現在の年齢は44歳のようです。

松田 次生(まつだ つぎお、1979年6月18日 - )は、日本のレーシングドライバー。三重県桑名市出身。

愛称は「究極のGT-Rオタク」。

身長:175cm

体重:68kg

血液型:RH+A

愛車:スカイラインGT-Rを5台(ハコスカ、R32、R33、R34[Z tuneエアロ装着、フルチューン]、NISMO 400R)、GT-R(R35 08モデル、GT-R nismo MY20)を所有する他、エルグランド 、C35 ローレル(MT換装ドリフト仕様)、ノートニスモS、ER34も所有している。(GT-R nismo MY17 所有歴あり)

趣味:鉄道模型

    地元三重テレビでのレギュラー番組への出演時や鈴鹿でのレース時には桑名の実家へ戻りNゲージの自作レイアウトで車両を走らせる。この自作レイアウトは鉄道模型専門誌やレース雑誌にも度々紹介された。また東京の自宅にいるときはレンタルレイアウトへ足を運んで車両を走らせる。最近はHOゲージにも手を伸ばし始めている。またとあるイベントに参加した当日が、ブルートレイン「富士・はやぶさ」の最終運行当日であったために、トークショーで悔しがっていたという根っからの鉄道ファンでもある。愛知県愛西学園弥富高校卒業

    経歴

    幼少時から大の車好きで、遊園地のゴーカート(特に鈴鹿サーキット)が大好きな少年だった。中学生時代は陸上競技に熱中したが、故障をきっかけに陸上競技を断念。その後、カートショップの門を叩いたことがレーシングドライバーへのきっかけとなる。

    1993年 - カート競技を開始。カート競技は1997年まで続け、それほど目立った成績は上げられなかった。

    1996年 - CIK-FIAアジア・パシフィック・カート選手権・ICAクラスで優勝したことで注目され始めた。このレースは、フォーミュラカーへの登竜門として注目され、世界各地から有力若手ドライバーが参集することでも有名なレースであった。

    1997年 - 鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラクラス(SRS-F)に入校。同期生には、後にF1で活躍する佐藤琢磨や、ドイツF3選手権でシリーズチャンピオンになった金石年弘らがおり、彼らは通称『華の3期生』と呼ばれている。このSRS-F時代に熱心にライバル達のドライビングを研究し切磋琢磨したことで、スカラシップ生の一人として選ばれた。

    1998年 ‐ 中嶋企画から全日本F3選手権に参戦し、ランキング4位でシーズンを終えた。また、同年には山西康司の代役としてフォーミュラ・ニッポン第5戦にスポット参戦し、地元鈴鹿サーキットで初戦ながら6位入賞を果たす。

    1999年 - マカオGPで4位に入賞するなどして、ホンダ期待の有望若手ドライバーとして業界での評価が高まっていった。

    2000年 - 中嶋企画からフォーミュラ・ニッポンにフル参戦を果たすと共に、全日本GT選手権・GT500クラスにも第5戦よりチームテイクワンから参戦。以降は両シリーズを主戦場としている。

      この年のフォーミュラ・ニッポン第3戦美祢で初優勝を飾っているが、これは日本人による最年少初優勝記録となった。その後、フォーミュラ・ニッポンでは2001年~2002年は中嶋企画から参戦するも、チームメイトのラルフ・ファーマンの後塵を拝し低迷、2003年~2004年はセルモから参戦するもトップ争いには絡めず、2005年は5ZIGENから参戦し、最終戦でポールポジションを獲得した。

      また全日本GT選手権(現・SUPER GT)には2001年~2005年まで中嶋企画よりフル参戦。特に2002年は、ラルフ・ファーマンと共に、脇阪寿一・飯田章組のエッソウルトラフロースープラとシリーズチャンピオンを最後まで争った。

      2006年 - ホンダから日産系のホシノインパル及びNISMOに移籍。2005年のシーズン・オフからF1(テストドライバー契約)やGP2・IRL等の海外移籍を含め様々な噂が流れる中で、国内有力のライバルチームへの移籍という選択を行った。この移籍劇は、フォーミュラ・ニッポンやGTにおいて時折優勝するものの、まだ一度もタイトルホルダーになったことがないことが影響しているものと思われた。フォーミュラ・ニッポンにおいては、第5戦オートポリスで久々に勝利し、ドライバーランキングもチームメイトのブノワ・トレルイエについで2位となり、チーム部門でのタイトル獲得に貢献するなど一定の成果を上げた。SUPER GTでも第8戦オートポリスで勝利しており、オートポリスは鈴鹿と共に松田次生の得意とするサーキットの一つとなっている。

      2007年 - 引き続き、フォーミュラ・ニッポンにはホシノインパルから、SUPER GTはNISMOから参戦し、フォーミュラ・ニッポンでは未勝利ながら初のシリーズチャンピオンとなった。

      2008年 - フォーミュラ・ニッポンのみならず、SUPER GTでもホシノインパルから参戦し、SUPER GTでは新規に投入されたGT-Rをドライブ。フォーミュラニッポンでは「0勝チャンピオン」と揶揄された前年から一転、開幕3連勝をふくめ圧倒的な速さでシリーズを支配した。そして最終戦前の第7戦富士で史上初の2連覇を達成した。SUPER GTでも、第6戦インターナショナルPOKKA1000kmと最終戦富士300kmで優勝を飾った。

      2009年 - 前年同様にフォーミュラ・ニッポンとSUPER GTともにホシノインパルより参戦した。フォーミュラ・ニッポンはこの年は苦戦し、わずか11ポイントでシリーズ11位に終わり、SUPER GTも未勝利に終わり36ポイントでシリーズ11位となった。

      2010年 - ホシノインパルの活動縮小のため、ついにフォーミュラ・ニッポンのシートを喪失した。しかしKONDO Racingのフォーミュラ・ニッポン復帰においてシートを獲得し、第4戦もてぎよりフォーミュラ・ニッポンの舞台に復帰し、第5戦菅生で久々のポイントを獲得した。SUPER GTでは第4戦マレーシアで08年最終戦富士300km以来の優勝を果たし、シリーズ5位となった。

      2011年 - スポンサー不足から再びシートを喪失、ついにポイントレースで1度も走ることが出来なかった。しかしJAFグランプリ(富士スプリントカップ)では欠場したアレキサンドレ・インペラトーリに代わりKCMGからスポット参戦、決勝レースこそスタート直後の接触でフロントウイング交換を余儀なくされたことで完走した14台中最下位に終わるも、フリー走行でいきなり3番手をマークするなど地力を見せた。また同年より、NISMOが開発を進めている日産・リーフ(レース仕様車)の開発ドライバーに起用されている。

      2012年 - 2009年以来3年ぶり(シリーズそのものは2年ぶり)にインパルからフォーミュラ・ニッポンにレギュラー参戦する。SUPER GTにも同じチームでGT500に参戦し、第6戦の富士では独走で優勝を果たした(チームメイトはジョアオ・パオロ・デ・オリベイラ)。

      2013年 ‐ 引き続きホシノインパルからオリベイラと組んでSUPER GTのGT500クラスに参戦、第3戦で優勝するもその後は表彰台獲得もなくランキング6位に終わる。アジアン・ルマン・シリーズや世界耐久選手権(WEC)にKCMGからスポット参戦。

      2014年 - 7年ぶりにNISMOへ復帰、ロニー・クインタレッリと組んで参戦。第3戦オートポリスでシーズン初優勝を飾ると、次戦のSUGOではノーポイントに終わるもののその後の富士・鈴鹿と2戦続けて2位表彰台を獲得。ランキング3位で迎えた最終戦もてぎはポールポジションからスタートし、1周目でタイトルを争うジェームズ・ロシターとジョアオ・パオロ・デ・オリベイラが接触するという荒れたレースとなったが、2位の伊藤大輔に50秒もの大差をつけて圧勝。ランキングトップだったロシターが10位に終わったため2000年(当時の名称は全日本GT選手権)の参戦以来15年目にして悲願のSUPER GT初タイトルを獲得、涙を見せた。前年に引き続き、世界耐久選手権(WEC)にKCMGからスポット参戦。

      2015年-昨年に引き続きNISMOからロニー・クインタレッリと組んでスーパーGTへ参戦。またル・マン24時間レースにも、日産ワークスドライバーとしてGT-R LM NISMO21号車で参戦。スーパーGTは、第2戦富士の優勝以降、不運なレースが続いたが自身でも10キロを超えるダイエットに臨み、フィジカルを鍛えた結果、第7戦オートポリスでカルソニック IMPUL GT-Rの安田裕信と激闘の末に優勝。最終戦もてぎでは、予選12位からドライバー2人の走りで2位表彰台を獲得。その結果、逆転で総合優勝を勝ち取る。昨年の最終戦に続き、歓喜の涙を見せる。相方ロニーもゴールの瞬間号泣。2年連続総合優勝。

      2016年-3年連続で、NISMOからスーパーGTに参戦。引き続き、ロニー・クインタレッリとの黄金コンビでスーパーGT初の三連覇にチャレンジする。初戦の岡山国際サーキットで、予選3番手から圧巻の優勝。初戦の優勝はNISMOとして8年ぶり。続く第二戦の富士は、ハンディウェイト40㎏の影響もあったが、予選4番手からゴール直前のカルソニックインパルGT-Rのタイヤバーストのトラブルもあり、奇跡の逆転勝利で二連勝。しかし鈴鹿1000kmでの3位走行中のガス欠やタイ戦でのクラッシュが響き、また最終戦に行われた2レースにてセッティングが決まらないなど不運に見舞われシリーズランキング3位に終わる。

      2017年-前年と同じくNISMOから参戦する。本シーズンからのレギュレーション変更とエンジンの出力不足により、開幕から日産陣営が不調の中でも着実にポイントを稼ぎ、一時期はランキングトップに浮上する。そして、最終戦にて今シーズン初勝利を挙げたものの、結局ランキング2位に終わる。

      2018年-前年と変わらずNISMOから参戦する。昨年以上に日産陣営が苦戦する中で、第2戦で勝利するものの、その後のレースにおいて大きくポイントを獲得できぬまま、日産最上位とはいえNISMO復帰後最低となるランキング8位に終わる。

      2019年-スーパーフォーミュラに参戦するKCMGの監督に就任。

      エピソード

      愛用のヘルメットデザインは頭頂部にグラデーションと星が描かれているが、これは少年時から好きだったミハエル・シューマッハのヘルメットデザインから影響を受け「真似しました(笑)」と自身で話している。

      愛猫家であり、自宅で「まる」を溺愛する様子が自身のSNSで報告される。

      タイのチャーン・インターナショナル・サーキット第5コーナーは通称「次生コーナー」と呼ばれている。かつてはZENT (#38)との接触によるリタイアに始まり、GT300との接触によるリタイアによってポイントを得ることが出来ず、結果としてシーズンチャンピオンを逃す等、不運が重なる悪いコーナーとして有名である。

2024/05/22 03:22更新

matsuda tsugio



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