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【5月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

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桑原 征平さんについて調べます

■名前・氏名
桑原 征平
(くわばら しょうへい)
■職業
アナウンサー
■桑原征平の誕生日・生年月日
1944年5月14日 (年齢80歳)
申年(さる)、牡牛座(おうし)
■出身地・都道府県
京都出身

桑原征平と同じ年に生まれた芸能人(1944年生まれ)

桑原征平と同じ誕生日の人(5月14日)

桑原征平と同じ出身地の芸能人(京都府生まれ)


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桑原征平

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桑原 征平(くわばら しょうへい)さんの誕生日は1944年5月14日です。京都出身のアナウンサーのようです。

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趣味・人物、家族・親族などについてまとめました。テレビ、現在、卒業、結婚、退社、ドラマ、事件、解散、趣味、家族、兄弟、父親に関する情報もありますね。今年の情報もありました。現在の年齢は80歳のようです。

桑原 征平(くわばら しょうへい、1944年〈昭和19年〉5月14日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、司会者、ラジオパーソナリティ。ニックネームは「征平さん」(もしくは「征平ちゃん」)で、2015年度からは種智院大学人文学部の客員教授を務める。

1969年8月から2004年5月までは、アナウンサーとして関西テレビに勤務。2004年度から2014年度までは、アナウンサーとして活動するかたわら、大阪芸術大学で客員教授や教授を歴任した。また、一時は「丹後ふるさと観光大使」(京都府)も務めていた。

京都府京都市右京区西院の出身で、京都で「水泳一家」として知られた家庭の三男として出生した。

高校進学の際には、2人の兄の母校でもある京都市立西京高等学校商業科を受験するも不合格。結局、私立京都西高等学校(現在は京都外大西高等学校)を経て、2人の兄の母校でもある成城大学経済学部に進学した。

学生時代には、競泳や水球の選手として活躍。男子200mバタフライでは京都府の中学生記録を5年間保持していたほか、中学校時代には同種目で東京オリンピック(1964年)の日本代表候補選手になったこともある。高校時代にも3年連続で、国民体育大会の競泳・バタフライ種目に京都府代表で出場している。

中学校時代の同級生に、山本忠男(元・南海ホークス内野手・コーチ、三星ライオンズコーチ・監督)や桧山進次郎(元・阪神タイガース外野手)の伯母などがいる。桧山本人も、出身小学校の後輩である。京都西高校水泳部の同期生にお笑い芸人・宮川大輔(以下「大輔」と略記)の実父、成城大学水球部時代の同期生にピン芸人・TAIGAの実父がいた関係で、大輔やTAIGAとも幼少期から親しい。

成城大学を卒業後は、当時「黄桜クラブ」という水球部を擁していた黄桜酒造からの預かり社員として、髙島屋と縁の深い大阪市内の酒問屋・祭原(さいはら、2001年に菱食へ吸収合併、現在は三菱食品)に入社。かつて南海の選手だった上司に仕えながら、酒やクーポンサービスの営業マンとして勤務するとともに、社長の仲人によってTAIGAの実父(前述)のいとこ(現在の妻)と結婚した。また、「黄桜クラブ」の選手として、水球の全日本選手権で優勝している。

しかし、結婚1ヶ月後の営業活動中に、休憩のつもりで立ち寄った大阪ガスビル内の喫茶店で「サンケイスポーツ」の関西テレビアナウンサー募集記事を偶然目にした。この一件をきっかけに、妻や祭原の関係者に内緒で、同局の中途採用試験へ挑戦。1969年(昭和44年)8月に、約750人の応募者の中から、杉山一雄とともに同局に採用された。初の中途採用アナウンサーで、この年の新卒採用社員には、上沼真平(上沼恵美子の夫、元プロデューサー)、千草宗一郎(元社長)、荒田静彦(元カメラマン、のち系列局・鹿児島テレビ放送の社長)などがいる。

桑原が同局の中途採用試験を受けた1969年は、正社員の定期採用を実施しなかった。しかし、地元で大阪万博の開催を控えていたことや、同じフジネットワークへの加盟を前提にしたUHF局の開局が九州で相次いだことから方針を転換。大阪万博に関する自社制作番組への出演や、九州のUHF新局への派遣 を視野に、アナウンサーを大量に確保する必要に迫られていた。

テレビ局見学のつもりで受験した」という桑原は、受験資格に「標準語を話せる者」との条件がありながら、最終面談(6次試験)で社長から「自分自身の欠点は?」と聞かれて「欠点は標準語が話せないこと」と回答。しかし、試験官を務めた角倉節朗(当時の制作担当常務)から、「(桑原の話す)京都弁こそ100年前までは標準語だった」「おもろいやっちゃ(面白い奴だ)」という言葉を掛けられた。結局、人事部長から「研修の3ヶ月間で標準語のアクセントを身に付けられなければ(祭原への在籍中と同じ)営業職へ異動」という趣旨の同意書に一筆記すことを条件に、アナウンサーとして採用された。

ちなみに、同局のアナウンサー試験を受けたことを妻や祭原の関係者に打ち明けたのは、採用の通知後であった。当時の祭原の社長からは転職を強く反対されたため、入社の条件であった祭原の退社証明書を同社から発行してもらうために、先代社長の親戚筋へ周到な根回しを重ねたという。

桑原は入社直後から、「どうにかしてアナウンス室にとどまりたい」との一心で、自分へ仕事を回すよう制作部の部長へ直談判。自身の顔が出ない番宣番組で和田アキ子・笑福亭仁鶴(いずれも当時関西テレビで制作していた連続ドラマ『世の中さかさま』のメインキャスト)へのインタビュアーを任されたことを皮切りに、(通常はアシスタントディレクターや若手芸人が担当する)公開放送の前説や、本社で撮影していた江原真二郎出演のドラマ(タイトル不詳)のエキストラなどを務めながら、顔出しで番組へ出演する機会を徐々に増やした。

その一方で、入社2年目(1970年)に開かれた大阪万博は、中途採用の本来の目的であったアナウンサーとしてではなく、会場内で 取材スタッフの移動用に稼働させていた電気自動車の運転手として迎えた。関西テレビや他のフジテレビ系列局の重役がこの自動車に乗る機会も多かったため、実際にはガイド役を兼ねていた。

桑原の名が全国に知られるようになったのは、関西テレビ制作の全国ネット番組『ハイ!土曜日です』にレギュラーで出演してからである。当初はスタジオアシスタントに過ぎなかったが、1975年(昭和50年)から毎週担当したVTR取材コーナー『征平の挑戦』において、日本各地や世界各国で体当たりレポートを敢行(後述)。危険を顧みないほどのバイタリティ、喜怒哀楽を露わにしたリアクション、濁声の絶叫などで全国に名を知られるようになった。本人が後年回顧したところによれば、大阪万博会場での電気自動車の運転を通じて系列局の関係者と数多く知り合えたことも、全国規模の活動につながったという。

1976年(昭和51年)4月から1977年(昭和52年)3月までは、関西テレビと関連会社・ラジオ大阪(OBC)による相互交流企画の一環として、当時の関西テレビアナウンサーから唯一ラジオ大阪の番組にレギュラーで出演。『みんなでみんなでリクエスト バンザイ!歌謡曲』(同局が当時阪神百貨店梅田本店内のサテライトスタジオから放送していた生ワイド番組)の木曜日に、浅川美智子とともにパーソナリティを務めた。

『ハイ!土曜日です』の終了後も、後継番組の『DOサタデー』『モーニングスタジオ・土曜!100%』(以下『土曜100%』と略記)や、関西テレビ制作・全国ネットのクイズ番組『クイズDEデート』で司会を担当した。1985年(昭和60年)4月からは、その人気に注目したフジテレビ(関西テレビのキー局)からの強い要請で、アナウンサーのまま東京支社編成部へ異動(後述)。1987年(昭和62年)3月までの2年間、フジテレビ制作の全国ネット番組『おはよう!ナイスデイ』で司会を務めた。この時期には、近畿地方で大きな事件やブームが続発。単身で東京へ赴任していた桑原も、実際には取材リポーターとして頻繁に関西へ戻っていた。

1987年4月に本社へ復帰してからは、『ハイ!土曜日です』の放送枠で、『土曜大好き!830』『土曜ぴーぷる』の司会を担当。『めざましテレビ』の中継コーナーにリポーターとしてレギュラーで出演するなど、全国ネット・関西ローカルを問わず、関西テレビの看板アナウンサーとして情報・バラエティ番組を中心に活躍した。1990年3月末に毎日放送で放送された『あどりぶランド』(同局アナウンサー総出演のテレビ番組)300回記念スペシャルには、杉山や中島優子(いずれも当時の同僚アナウンサー)とともに、局の垣根を越えてゲストで出演している。

また、横山ノックが参議院議員選挙や大阪府知事選挙への出馬で『ノックは無用!』(関西ローカル向けの生放送による冠番組)への出演を見合わせた期間には、公職選挙法対策の一環でノックに代わって登場(詳細後述、番組名もこの期間のみ『ロックは無用!』に変更)。『ノックは無用!』でも、ノックが大阪府知事へ就任した1995年4月から、公務などで多忙なノックに代わって司会を一時務めていた。

2004年4月から大阪芸術大学の客員教授へ就任した後に、同年5月14日で関西テレビを定年退職。当時の定年は60歳であったが、杉本清(競馬実況で知られた先輩アナウンサー)に次ぐ歴代2人目の「局長待遇ゼネラルエキスパートアナウンサー」(管理職扱いの専門職)として、関西テレビでのアナウンサー生活を全うした。関西テレビのアナウンサーで専門職にまで登り詰めたのは、2023年の時点でも杉本と桑原のみで、2人には「新卒採用で入社せず、入社後も定時ニュースを担当する機会がほとんどなかった」という共通項が認められる。

関西テレビでは、桑原の退職翌日(5月15日)に、前代未聞の定年退職記念特別番組『さらば征平・最後の挑戦!』を生放送。後輩のアナウンサーや、『土曜大好き!830』で共演した板東英二や香坂みゆきなどをスタジオに迎えて、『征平の挑戦!』のダイジェストや定年間際での挑戦(東尋坊からのダイビングやマチュ・ピチュでのグッバイボーイ経験など)の模様を放送した。同番組は、関西ローカルでの放送ながら、2004年度の日本民間放送連盟賞でテレビ番組部門のエンターテインメント番組最優秀賞を受賞した。関西テレビ制作の番組としては初めての受賞で、視聴者からも大きな反響があったため、以降も4度にわたって放送している。その一方で、アナウンサー一筋で関西テレビの定年を迎えたことに対して、日本放送作家協会から第13回(2003年度)関西ディレクター大賞の特別賞を授与された。

桑原は、関西テレビからの定年退職の前後に、ライバル局の朝日放送(現在の朝日放送テレビ)やテレビ大阪(TVO)からテレビ番組へのレギュラー出演を打診。テレビ大阪では、関西テレビからの退職を機に、『征平・宮根のヨソ様の事情』(朝日放送〈所属当時〉を退社したばかりの宮根誠司との共同司会によるレギュラー番組)を放送することが内定していた。しかし、TVOからのプレスリリースで事情を知った当時の関西テレビ社長・出馬迪男が、桑原に対して定年退職後から5年間の専属出演契約を提案。その結果として、TVO制作番組への出演を容認することを条件に「メディアプルポ(同局の関連会社)所属のゼネラル・エキスパート・アナウンサー」扱いで関西テレビの番組出演を優先する契約を結んだ。

上記の経緯から、関西テレビでは契約期間満了の2009年まで、アナウンス室に桑原専用のデスクを設置。テレビ大阪では2005年4月から、関西ローカルの冠番組(『征平・宮根のヨソ様の事情』→『征平・宮根のクチコミぃ!?』)で、宮根と共に司会兼リポーターを務めていた。さらに、当時テレビ・ラジオ兼営局であった朝日放送では、上記の契約がラジオ番組への出演にまで及ばないことに着目(後述)。退職直後の2004年6月から、ラジオ放送部門(現在の朝日放送ラジオ)が制作する番組のパーソナリティへ桑原を起用するとともに、ラジオでは自身初めての冠番組として『桑原征平粋も甘いも』(以下『粋甘』と略記)の放送を開始した。

その一方で、関西テレビからの定年退職直後には個人事務所を設立。妻が代表を務めていたが、桑原曰く「(仕事で受け取ったギャランティなどの)お金の流れを妻に見抜かれるのはかなわない」との理由で解散させたという。解散後はどの事務所にも所属していないが、関西テレビのアナウンサー時代から依頼の多い講演については、解散前に続いて複数の講師斡旋会社から請け負っている。

テレビ番組については、『征平・宮根のクチコミぃ!?』へ出演していた2006年に、テレビ東京系列で1月2日に放送された正月特別番組『第2回全日本パフォーマンス人文字大賞』でテレビ大阪チームのリポーターとして登場。フジテレビ以外の在京テレビ局が制作する全国ネット番組へ初めて出演した。しかし近年は、出演番組を関西ローカルに限定。2009年4月から半年間『アップ&UP!』(当時関西テレビで放送されていた情報番組)のリポーターを務めたことを最後に、レギュラー出演の機会が途絶えている。

ラジオ番組では2004年10月から、『粋甘』を「ラジオのゴールデンタイム」とされる平日昼間の生ワイド番組へ移行した。現在では、週2回放送の『粋甘』に加えて、『征平・吉弥の土曜も全開!!』(土曜日の生ワイド番組、以下『土曜も全開』と略記)や『征平・あさおのどす恋ラジオ』(事前収録による平日夕方のラジオショッピング番組、以下『どす恋ラジオ』)でもパーソナリティを担当。2015年9月までの『どす恋ラジオ』では、「征太郎(しょうたろう)」というキャラクターで、パートナー・高野あさおとの掛け合いによるショートコントを披露していた。2011年と2014年には、同局の看板番組『おはようパーソナリティ道上洋三です』で、夏期休暇中の道上洋三の代役としてメインパーソナリティを担当。同局の制作番組では新年最初の生放送番組になる『新春スーパーワイド』では、2013年から第1部(5:00 - 11:00)のメインパーソナリティに起用されている。

2012年には、フリーアナウンサーに転身してから3019日を経過した9月12日に、転身後初の著書として『3019(さんれいいちきゅう)桑原征平』を発売。また、宮川大輔の一族を取り上げた『ファミリーヒストリー』(10月8日にNHK総合テレビで放送)の証言ゲストとして、NHKの番組に初めて登場した。

2014年の誕生日で70歳に達したため、同年度限りで大阪芸術大学を定年退職。2015年には、3月15日に万博記念公園で開催の「ABCラジオ スプリングフェスタ2015」で「公開断髪式」に臨んだ(詳細後述)。同年4月以降は、フリーアナウンサーとしての活動と並行しながら、地元・京都にある種智院大学の社会福祉学部で客員教授を務める。同年7月には、メインパーソナリティを務める『粋甘』が、2015年日本民間放送連盟賞の近畿地区・ラジオ生ワイド部門最優秀賞を受賞した。

75歳の誕生日(5月)、ABCラジオでのパーソナリティ生活15年(6月)、アナウンサー生活50年(8月)を相次いで迎えた2019年には、『粋甘』と『土曜も全開!!』の合同プロジェクトによる2部構成の有料イベントとして、9月13日(金曜日)にあましんアルカイックホール・オクト(兵庫県尼崎市)で「桑原征平生前葬~甦生(よみがえり)の儀~」を開催した(詳細後述)。80歳の誕生日を迎えたことに加えて、ABCラジオでのパーソナリティ生活が20年目に入った2024年にも、7月5日(金曜日)に「桑原征平生誕80年&ABCラジオ降臨20周年スペシャルパーティー『イッツ・征タイム!!』」の開催がリーガロイヤルホテルで予定されている。

趣味・人物

趣味は、全国各地の温泉巡りと、世界各地の石やHOゲージで走行できる模型車両(主にメルクリン社製の鉄道模型)の収集。『征平・宮根のクチコミぃ!?』の温泉ロケでは、入浴中にお湯を指で少し舐めただけで、お湯のおおよそのpHを当てる特技を度々披露していた。

    温泉巡りについては、2016年2月までに、600ヶ所以上の温泉を訪問。関西テレビのアナウンサー時代に、「征平の挑戦」のロケ直後に入ったという奥鬼怒温泉を、「最高の温泉」に挙げている。

    温泉巡りを始めたきっかけは、成城大学水球部での活動にある。征平によれば、野沢温泉にあった温水プールで合宿を実施していたことや、日本各地の高校生に対するスカウティング中に温泉地へたびたび宿泊していたことが影響しているという。

    関西テレビのアナウンサー時代には、リポーターを担当した番組で、日本国内の温泉地をロケ地にたびたび指定していた。同局が社員の保養所として使用していた白浜温泉内のマンションの1室を売却した際には、9名の社員(当時プロデューサーだった梁典雄など)と共同でその部屋を購入。管理費を共同で負担しながら、別荘代わりに使っていた(現在は売却済)。

    HOゲージに興味を持ち始めたのは関西テレビへの入社後で、当時の同僚(プロデューサー)の影響による。第一子(後述する長女の菜穂子)を授かるまでは、当時住んでいた自宅の一室(六畳間)にHOゲージの線路を組んで、模型の車両を走らせていたという。菜穂子の出生後には、現在の自宅(後述)の地下室で線路の再敷設を試みた時期もあったが、おおむね模型車両の収集と鑑賞にとどめている。

    京都での学生時代には、名門のスイミングクラブとして知られる「京都踏水会(とうすいかい)」に通いながら、水泳の腕を上げた。現在でも週に3日は、自宅近くのスポーツクラブのプールを利用。自分でタイムを計り、それと同時にプールを全速力で泳ぐことによって、アナウンスに必要な心肺機能や舌の筋力を鍛えているという。また、関西テレビのアナウンサー時代に番組取材を通じてヨガを体験したことをきっかけに、就寝前のヨガを日課にしている。

      71歳だった2015年12月9日(水曜日)には、長岡スイミングスクール(京都府長岡京市)内のプールで、『征平・吉弥の土曜も全開!!』の特別企画「どちそそ・冬の陣〜どっちが勝てるでSHOW〜」として50m自由形のタイムトライアルで桂吉弥(当時44歳)と対決。『粋甘』の本番終了後に対決へ臨んだにもかかわらず、タイムは36秒37で、37秒50の吉弥を上回った。

      長年にわたってマスターズ水泳への出場を固辞してきたが、73歳だった2017年7月には、「1回限り」という条件で第34回日本マスターズ水泳選手権大会(東和薬品RACTABドーム)・70歳以上の部2種目に出場。男子25mバタフライで優勝(タイムは17秒21)、男子50m自由形で2位(タイムは35秒21)という好成績を残した。

      コーヒー、紅茶、牛肉(ハンバーガーなど)が好きな一方で、酒問屋の祭原に勤務した経験を持つにもかかわらず、酒を一滴も嗜まない。また、幼少期から豚肉・鶏肉・松茸をほとんど食べない一方で、ふんどしを着用しているという。

        紅茶を嗜むようになったきっかけは、京都西高校へ在学中の1962年に堀江謙一が小型ヨットによる単独無寄港太平洋横断を成功させた後に日本へ帰国した際の中継をラジオで聞いたことにある。堀江が帰国後に著した『太平洋ひとりぼっち』で、「リプトンの紅茶を飲みながら太平洋上に沈む夕陽をヨットから眺めることが、単独航海の孤独を癒やす唯一のひとときであった」とされるエピソードに感化されたという。

        桑原家では征平の親の代から豚肉や鶏肉を敬遠しているが、征平自身は成人してから、豚肉の入った餃子や鶏肉の唐揚げを辛うじて食べられるようになったという。

        プロボクシング、プロ野球、プロレスの観戦が好きで、『Sports Graphic Number』を愛読。メジャーリーグへの関心も高い。大阪市内で開催されるプロボクシングのタイトルマッチ(井岡一翔や長谷川穂積などが出場する試合)を在京の民放テレビ局が全国に向けて中継する場合には、朝日放送関係者からの計らいによって、リング付近の招待席で観戦する桑原の様子が中継映像で見られることもあった。

          少年時代からのボクシング好きが高じて、関西テレビへの入社直後には、スポーツ中継を担当するプロデューサーに対して「(本業の)アナウンスでなくても構わないので、(同局が制作を担当する)ボクシング世界戦の全国向け中継で何か仕事をさせて欲しい」と直談判。その結果、入社1ヶ月目にあった中継で、先輩のスポーツアナウンサー・塩田利幸のアシスタント(塩田が担当した勝者インタビュー用マイクのケーブル裁き)を務めた。
            桑原自身は、「アナウンサーは出演するテレビ番組で顔や名前を知られてこそナンボ(価値がある)」という考えから、スポーツ実況の道を志したことが一切なかったという。それでも、上記の関心や過去の経歴を熟知しているスタッフからの依頼で、以降も全国ネット向けのスポーツ関連番組に携わることがあった。
              1974年11月28日には、関西テレビのスタジオから『スター千一夜』(フジテレビ制作・全国ネット番組)に生出演。当時のWBC世界ライト級チャンピオンで、放送の直前に大阪府立体育会館のタイトル防衛戦でロドルフォ・ゴンザレスに勝利したばかりのガッツ石松のインタビュアーを務めた。両局がこの試合のテレビ中継を担当したことを背景に、桑原がスポーツアナウンサーではないにもかかわらずボクシングに詳しいことを知っていた王東順(当時は同番組のプロデューサー)が、桑原を直々に指名したことによる。

              1993年に神戸市で開かれた第4回パンパシフィック水泳選手権では、フジテレビからの依頼による報道素材の収録に際して、「地元局(関西テレビ)のアナウンサーで水泳の選手経験者」という理由だけで一部の種目の実況を任された。実況音声自体は『プロ野球ニュース』(当時は地上波の全国ネット番組)で放送されたものの、生中継を実施していたNHK総合テレビの放送席の隣で収録していたため、NHKのスタッフからクレームが付く一幕があったという。桑原の実況中の声量が大きく、NHKの放送席にまで響いていたことによる。

              NPBの球団については、実父が南海ファンだった影響で、京都での学生時代まではもっぱら南海を応援。しかし、関西テレビへの入社直後に太田幸司が近鉄バファローズへ入団したことをきっかけに、近鉄→大阪近鉄バファローズのファンになった。現在は、東北楽天ゴールデンイーグルス(大阪近鉄出身の礒部公一と岩隈久志が2004年末の球団発足時に加入した球団)のファンであることを公言している。

              従妹の子(母の弟の娘の娘)がアマナキ・レレィ・マフィ(キヤノンイーグルス所属のラグビー選手・ラグビー日本代表)と結婚した2015年からは、ジャパンラグビートップリーグが関西地方で開催するマフィ所属チーム(NTTコミュニケーションズシャイニングアークス→イーグルス)の試合もたびたび観戦。同じスポーツクラブを利用する縁で、ラグビー日本代表や神戸製鋼コベルコスティーラーズで長年にわたって活躍した大畑大介とも面識がある。マフィが2018年7月にレベルズ(スーパーラグビーのシーズン限定で所属していたオーストラリアのチーム)の同僚選手に対する暴行容疑で現地の警察当局へ一時拘束された際には、日本での報道を受けて、『粋甘』と『土曜も全開』でマフィに代わって謝罪している。

              祭原に入社してから現在に至るまで、折々の勤務先や仕事先で配布される手帳に、仕事の内容、出会った人物の名前、社会的な事件、スポーツの結果、スケジュールを箇条書きで記入することを日課にしている。

                自分の行動を手帳へ毎日こまめに書くことを心掛けるようになったきっかけは、関西テレビへの入社10年目(1979年)に自宅の近辺で殺人事件が発生したことにある。定山渓温泉(北海道)内の旅館の名前が記されたタオルが事件の現場に落ちていたことから、事件の2週間前に番組の取材で同温泉を訪れていた桑原が、参考人として警察署に呼ばれた。もっとも桑原は、事件が発生した時間帯に、関西テレビの本社スタジオで『クイズDEデート』の収録に参加。当時使っていた同局支給の手帳にもその旨を記していたことが決め手になって、事件当日のアリバイが立証された。桑原によれば「自分の身辺で起きた出来事を手帳に毎日書いていれば、身に覚えのない事件の容疑者として警察署で取り調べを受けたとしても、自分が無実であることを証明できる」とのことである。

                2019年の夏に「桑原征平 生前葬」の企画で長男の達秋と高野が桑原の自宅(達秋の実家)を探索した際に、桑原が自宅で保管している上記の手帳が30冊以上にのぼることが判明した。桑原本人は、探索の模様を収録した映像が「生前葬」で上映された際に、「『粋甘』の開始から生前葬の直前まで(の15年余り)の間に出演番組で披露した身の上話や思い出話は、まだ手帳3冊分に過ぎない」と告白している。

                  「征平の、私は忘れない」では、「生前葬」の翌月(10月10日放送分)から4冊目(1979年の関西テレビ手帳)の記述内容を紹介。2021年3月11日放送分から8冊目(1995年の手帳)の紹介に入っていたが、『粋甘』が同年9月30日に週1回(水曜日のみ)の放送へ移行してからは、自身の意向で折に触れて話す程度にとどめている。ちなみに、日本国内で新型コロナウイルスへの感染が拡大している時期(2020年4月18日 - 5月27日)には、手帳を保管している部屋(桑原曰く「鳩小屋」)からスカイプを通じて朝日放送ラジオのレギュラー番組へ出演している。

                  家族・親族

                  次兄は、水球の日本代表選手として1964年東京オリンピック・1968年メキシコシティーオリンピック・1972年ミュンヘンオリンピックに出場した桑原重治(元・水球日本代表監督。2007年永眠)。長兄・次兄とも著名な水球選手であったことから、征平が成城大学の学生だった1964年(東京オリンピックの開幕前)には、当時朝日放送で毎週火曜日の20時台に放送されていた『圭三ファミリー・アワー クイズ・クイズ・クイズ』(NHKのアナウンサーだった高橋圭三がフリーアナウンサーへの転向後初めて司会を務めたTBS制作のクイズ番組)に三兄弟揃って解答者として出演した(結果は1回戦で敗退)。

                  長女は桑原菜穂子(元・フジテレビディレクター)。菜穂子の弟に当たる桑原達秋(福井テレビ局員、元・同局アナウンサー)が長男で、征平の関西テレビアナウンサー時代(フジテレビへの出向前)に『オールスター家族対抗歌合戦』(フジテレビ制作)へ揃って出演したこともある。達秋は近畿大学への在学中に生田教室(多数のアナウンサーを輩出したアナウンス専門学校)へ通っていたが、達秋によれば、教室を主宰していた生田博巳(元・NHKおよび読売テレビアナウンサー)は面識のない征平のアナウンスに一目置いていたという。

                  親族には、マフィ、TAIGA・近江知永夫妻、テレビカメラマンの柿内孝文(菜穂子の夫)などがいる。また、自身の孫(柿内・菜穂子夫妻の3人の息子)は、「かきうちパンティーブラザーズ」と称して小学生時代からYouTuberとしても活動。「かきうちパンティーブラザーズ」の長兄は、「柿内ロッコウ」という名義で、学業と並行しながら「『カニバル』(オルタナティブロックバンド)のリーダー兼ボーカリスト」としても活動している。逆に、孫がYouTubeへ投稿する動画には、桑原、宮川大輔、宮川の父親、マフィも随時登場。長男の達秋も、1人の子ども(男児)を授かっている。

                  「柿内ロッコウ」が作詞と作曲も手掛ける「カニバル」は、アマチュアバンドでありながらYouTubeを中心に高い人気と知名度を得ているほか、「十代白書」(将来有望なシンガーソングライターやバンドを関西地方の10代から発掘する目的で2011年から大阪を中心に京阪神地区のライブハウスで年に1回開催されているトーナメント方式の音楽イベント)の2024年大会で決勝に進出。桑原は、「ロッコウ」を小学校6年生の時に『粋甘』の生放送へ出演させたほか、「カニバル」での活躍を2023年頃から折に触れて同番組で紹介している。「ロッコウ」自身も、「カニバル」での活動の一環でメディアに随時露出していて、2024年4月13日・20日放送分の『ミュータマ』(朝日放送ラジオ)へゲストで出演した際には桑原が「おじいちゃん(祖父)」に当たることを明かしている。

                  ちなみに桑原は、いわゆる「後期高齢者」の年齢に差し掛かっても朝日放送ラジオの番組パーソナリティをレギュラーで続ける理由の1つに、3人の孫を大学へ進学させるための学費を(番組出演のギャランティーなどで)賄うことを挙げている。もっとも、孫たちは「かきうちパンティーブラザーズ」としての動画配信を通じて多額の広告収入を得ているとのことで、通っている学校の授業料もその収入だけで賄えるという。

2024/05/16 23:22更新

kuwabara syouhei


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(なかむら ちえ)
1978年5月14日 東京

中村 千絵(なかむら ちえ、1978年5月14日 -)は、日本の女性声優。アクセルワン所属。東京都出身。 幼少の頃から歌や芝居に興味を持ち、小学生時代に児童劇団に、中学生時代は演劇部に所属。当初は…

春林
(しゅんりん)
1977年5月14日 東京

春林(しゅんりん、1977年5月14日 - )は、日本の女性声優。以前はB-Boxに所属していた。東京都出身。血液型はB型。身長163cm。 出演年不明 生命協奏曲 2000年 人造人間キカイ…

黒田浩一
(くろだ こういち)
5月14日 東京

黒田 浩一(くろだ こういち、5月14日 - )は、日本の男性声優。東京都出身。ステイラック所属。 以前はアセンブルハート(預かり)、オフィスPAC(預かり)に所属していた。 フォースアベニュー…

坂東 三津五郎 〈9代目〉
(ばんどう みつごろう)
1929年5月14日 東京

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森本 雅樹
(もりもと まさき)
1932年5月14日 東京

森本 雅樹(もりもと まさき、1932年(昭和7年)5月14日 - 2010年(平成22年)11月16日)は、日本の天文学者。専門は、電波天文学。東京大学・国立天文台名誉教授。数学者・森本清吾と森本治…

村田 幸子
(むらた さちこ)
1940年5月14日 東京

村田 幸子(むらた さちこ、1940年5月14日 - )は、福祉ジャーナリスト。 NHKのアナウンサーおよび解説委員を歴任。NHK退職後、福祉問題を専門に取材活動を続けている。 実践女子学園高等…

安井 敏雄
(やすい としお)
1943年5月14日 京都

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加藤 みや子
(かとう みやこ)
1948年5月14日 東京

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金原亭 馬好 〈5代目〉
(きんげんてい ばこう)
1948年5月14日 東京

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桑原征平と近い名前の人

桑原 由気
(くわはら ゆうき)
1991年6月24日 長崎

桑原 由気(くわはら ゆうき、1991年6月24日 - )は、日本の女性声優。長崎県佐世保市出身。マウスプロモーション所属。 旭プロダクションプロデュースによる声優ユニット「あいまいみーまいん」のメ…

桑原 英人
(くわはら ひでと)
1979年8月15日 新潟

桑原 英人(くわはら ひでと、1979年8月15日 - )は、日本の声優、俳優。プロダクション東京ドラマハウス所属。新潟県出身。血液型はA型。 キノの旅 -the Beautiful World-…

桑原 たけし
(くわばら たけし)
1936年12月15日 東京

桑原 たけし(くわばら たけし、1936年12月15日 - 2014年頃)は、日本の男性声優、俳優。東京都出身。旧芸名・本名は桑原毅。 明治大学文学部演劇科卒。TBS放送劇団6期、土の会、牛の会、…

桑原 和男
(くわばら かずお)
1936年2月23日 兵庫

桑原 和男(くわばら かずお、1936年〈昭和11年〉2月23日 - 2023年〈令和5年〉8月10日)は、日本のお笑いタレント、喜劇俳優。福岡県小倉市(現:北九州市)出身。本名:九原 一三(くはら …

桑原苑美
(くわばら そのみ)
11月27日 島根

桑原 苑美(くわばら そのみ、11月27日 - )は、日本の女性声優。島根県出身。声優事務所sitoa所属。 A&Gアカデミー出身。 2016年6月よりアミュレートに預かり、2017年4…

桑原 功
(くわばら いさお)
1945年2月4日 群馬

桑原 功(くわばら いさお、1945年2月4日 - 2023年7月10日)は、日本の政治家。 衆議院議員(1期)、群馬県議会議員(1期)、前橋市議会議員(4期)、民主党群馬県連会長などを務めた。 …

桑原 豊
(くわばら ゆたか)
1958年2月4日 東京

桑原 豊(くわばら ゆたか、1945年10月14日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、石川県議会議員を歴任。 1964年 石川県立金沢泉丘高等学校卒業。 1969年 早稲田大学第一法学部…

桑原 安治
(くわはら やすはる)
1908年2月15日 埼玉

桑原安治(くわばら やすはる、1908年ー1985年12月26日)は、日本の眼科医。 埼玉県出身。1932年慶應義塾大学医学部卒、37年「色神の時間刺戟閾價に関する研究」で医学博士。東京医科大学眼…

桑原 みずき
(くわばら みずき)
1992年2月19日 高知

桑原 みずき(くわばら みずき、1992年〈平成4年〉2月19日 - )は、日本の女優、ドッグトレーナー、ペットシッター。本名、桑原 瑞希(読みは同じ)。愛称は、みずき。 高知県出身。女性アイドルグ…

桑原 彰
(くわはら あきら)
1985年4月4日 神奈川

RADWIMPS(ラッドウィンプス)は、日本のロックバンド。 所属事務所は有限会社ボクチン(英語: voque ting、所属はRADWIMPSのみ)。所属レコード会社はユニバーサルミュージ…

桑原 隆
(くわはら たかし)
1948年5月5日 静岡

桑原 隆(くわはら たかし、1948年5月5日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。静岡県藤枝市出身。フットメディアに所属。 現役時代は古河電気工業サッカー部(ジェフユ…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「桑原征平」を素材として二次利用しています。

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