横溝正史のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
横溝 正史(よこみぞ せいし、本名: よこみぞ まさし、1902年〈明治35年〉5月24日 - 1981年〈昭和56年〉12月28日)は、日本の推理作家。戦前にはロマン的な『鬼火』、名探偵・由利麟太郎が活躍する『真珠郎』、戦後には名探偵・金田一耕助を主人公とする『獄門島』『八つ墓村』『犬神家の一族』などの作品を著した。
当初は筆名は本名読みであったが、誤読した作家仲間にヨコセイと渾名されているうちに、セイシをそのまま筆名とした。兵庫県神戸市東川崎出身。
横溝は1902年(明治35年)5月24日、兵庫県神戸市東川崎(現・中央区東川崎町)に父・宜一郎(ぎいちろう)、母・波摩の次男として生まれた(三男とする説もある)。父親は岡山県浅口郡船穂町柳井原(現・倉敷市船穂町柳井原)出身、母親は岡山県窪屋郡清音村柿木(現・総社市清音柿木)出身。翌日の旧暦5月25日が楠木正成(まさしげ)の命日にあたることから、名前の「まさし」までを取って命名された。5歳の時に母を亡くし、まもなく父が後妻(正史にとって継母)・浅恵を迎えた。
1920年(大正9年)3月、神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を卒業後、第一銀行神戸支店に1年間勤務。
1921年、大阪薬学専門学校(大阪大学薬学部の前身校)入学後、雑誌『新青年』の懸賞に応募した『恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)』で一等を獲得し、賞金10円を得た。これが処女作とみなされている。
1924年、専門学校を首席で卒業した後、一旦実家の生薬屋「春秋堂」で薬剤師として従事していたが、1926年に江戸川乱歩の招きに応じて上京、博文館に入社する。1927年1月、神戸にて中島孝子と結婚。東京市小石川区小日向台町(現・東京都文京区小日向)に居を構える。同年に『新青年』の編集長に就任。その後も『文芸倶楽部』、『探偵小説』等の編集長を務めながら創作や翻訳活動を継続したが、1932年に同誌が廃刊となったことにより同社を退社し、専業作家となる。
1945年(昭和20年)4月より3年間、岡山県吉備郡岡田村(のち大備村、真備町を経て、現・倉敷市真備町岡田)に疎開。第二次世界大戦終戦前から、「戦争中圧殺されていた探偵小説もやがて陽の目を見ることが出来るであろう」と考え、「晴耕雨読で、やがて来たるべき文芸復興の日に備えていた」。そして、終戦後、推理小説が自由に発表できるようになると本領を発揮し、1948年、金田一耕助が初登場する『本陣殺人事件』により第1回探偵作家クラブ賞(後の日本推理作家協会賞)長編賞を受賞。同作はデビュー後25年目、長編としても8作目にあたるが、自選ベストテンとされるものも含め、代表作と呼ばれるものはほとんどこれ以降(特にこの後数年間)に発表されており、同一ジャンルで書き続けてきた作家としては異例の遅咲き現象である。やや地味なベテランから一挙に乱歩に替わる日本探偵小説界のエース的存在となった。1948年8月に東京へ引き揚げ、その後も本格派推理小説を続々と発表する。
こうして戦後になって本人なりに文運が開けてきたと思っていた1949年(昭和24年)にふたたび結核を発症し、本人曰く「この時はマイシンという薬がなかったら、私はおそらくあの世とやらに旅立っていた」という危機に陥ったが、前述のようにストレプトマイシンが手に入るようになったため助かり、その後1970年頃までは胸の痼疾に悩まされることがなくなった。
人気が高まる中、骨太な本格派探偵小説以外にも、やや通俗性の強い長編も多く執筆。4誌同時連載を抱えるほどの売れっぷりだったが、1960年代に入り松本清張などによる社会派ミステリーが台頭すると執筆量は急速に減っていった。1964年に『蝙蝠男』を発表後、探偵小説の執筆を停止し、一時は数点の再版や『人形佐七捕物帳』のみが書店に残る存在となっていた。
1968年、講談社の『週刊少年マガジン』誌上で、影丸穣也の作画により漫画化された『八つ墓村』が連載されたことを契機として、注目が集まる。同時に、江戸川乱歩、夢野久作らが異端の文学としてブームを呼んだこともあり、横溝初の全集が講談社より1970年から1976年にかけて刊行された。また、1971年から、『八つ墓村』をはじめとした作品が、角川文庫から刊行され、圧倒的な売れ行きを示し、角川文庫は次々と横溝作品を刊行することになる。少し遅れてオカルトブームもあり、横溝の人気復活もミステリとホラーを融合させた際物的な側面があったが、映画産業への参入を狙っていた角川春樹はこのインパクトの強さを強調、自ら陣頭指揮をとって角川映画の柱とする。
1974年、角川文庫版の著作が、300万部突破。1975年、角川文庫の横溝作品が500万部突破。1976年、角川文庫の横溝作品が1000万部を突破。1979年、角川文庫横溝作品4000万部突破。その後横溝が亡くなる1981年までの間に計5500万冊を売り上げた。1977年には文壇長者番付で第3位となった。
実際に、この後期の執筆活動により、中絶していた『仮面舞踏会』を完成させ、続いて短編を基にした『迷路荘の惨劇』、金田一耕助最後の事件『病院坂の首縊りの家』、エラリー・クイーンの「村物」に対抗した『悪霊島』と、70代にして4作の大長編を発表している。『仮面舞踏会』は、社会派の影響を受けてか抑制されたリアルなタッチ、続く2作はブームの動向に応えて怪奇色を強調、『悪霊島』は若干の現代色も加えるなど晩年期ですら作風の変換に余念がなかった。また、小林信彦の『横溝正史読本』などのミステリー研究の対象となったのもブームとは無縁ではない。
1976年(昭和51年)勲三等瑞宝章受章。
1981年(昭和56年)12月28日、結腸ガンのため国立病院医療センターで死去した。戒名は清浄心院正覚文道栄達居士。
人物
小学校高学年の頃に世界的な探偵小説(ミステリー)ブームが起き、フランスの小説家、モーリス・ルブランの『古城の秘密』を手始めに探偵小説を読むようになる
。神戸二中に進学後は、同じくミステリー好きな同級生・西田徳重と海外のミステリー雑誌を読むため神戸市内の古書店をあちこち巡った。卒業から間もなく徳重が急逝するが、探偵小説を翻訳していた彼の兄・西田政治と親しくなる。
1925年、大阪在住の江戸川乱歩が「探偵趣味の会」を設立すると、西田政治に誘われて加入。以降、乱歩から弟のように可愛がられ、就職を斡旋されるなど、生涯に渡り交流が続いた。
1927年、継母・浅恵の遠縁にあたる女性と結婚し、その後1男2女をもうけた。4歳年下の妻とは、“文壇のおしどり夫婦”として有名だった。妻は結核の持病のある横溝を献身的に支え続け、その後105歳の天寿を全うした。
1927年から1928年9月頃まで月刊誌『新青年』の2代目編集長であった。初代編集長森下雨村より「相棒を探しておくように」と言われ、渡辺温を編集の相棒に指名する。『新青年』は当時の探偵小説文壇のみならず、文化人とクロス・オーバーする存在であり、横溝・渡辺コンビは誌面をモダニズム色強く刷新して行き、この後の『新青年』の方向性に深い影響を与えている。『新青年』が縁で知り合った乾信一郎とは、1945年から1979年まで三十数年間で272通もの書簡を送るほど親交が深かった。
1934年から5年間に渡る長野での療養生活を終えた後も肺結核の症状は完全には収まらず、仕事が重なった時など時々喀血した。しばらく安静にすると良くなって原稿を書くという生活を送り、74歳頃までこの症状が続いた。
1945年、義理の姉からの勧めに応じて吉祥寺の家を引き払い、両親の出身地に近い岡山県吉備郡岡田村字桜(現・倉敷市真備町岡田)に疎開し、そこで村の親しかった人達から農村の因習や農漁民の生活などの話を聞いて作品の構想をあたため、終戦後、『本陣殺人事件』『獄門島』など岡山を舞台とする作品を執筆した。
横溝の次女である児童文学作家の野本瑠美(wikidata)によると、「父は日常生活を送りながら頭の中では常に作品のことを考えているような人でした」と回想している。書斎の膨大な資料と共に創作活動を行い、物語の構想や犯罪のトリックなどは頭の中で組み立てた。このため普段は書斎か寝室で独りで食事をとり、家族と一緒に食事をするのは正月ぐらいだった。野本が10代の頃、帰宅後に横溝と散歩に出かけるのが日課だったが、散歩中も脳裏で構想を練っていたため、横溝はいつも無言で歩いたという。執筆に行き詰まった際には編み物をして気分転換をしていた。
温厚で誰に対しても偉ぶることのない人柄はブームの中でも好感を持って迎えられ、また膨大な再刊、映画化が(角川春樹事務所が管理していたとはいえ)ほとんどスルーで実現する現象につながった。多忙期に乱作したような作品も含め片っ端から文庫に収録されるので、心配した友人の西田政治らから忠告を受け、また自身もおいおい気恥ずかしくなって、「ええ加減にしてくださいよ。これ以上出すとおたく(角川文庫)のコケンにかかわりますよ」と尻込みしたが、角川春樹に押し切られ、その結果、自身が最低と決めつけている作品でも出ると売れたことから、最高と最低を自身で決めることは僭上の沙汰ではないか、読者諸賢の審判を待つべきであると割り切ることにした。
横溝研究の第一人者とされる二松学舎大学の山口直孝(ただよし)教授は、「よく練られた話は、予想できない展開の連続で伏線の張り方も見事。横溝は物語作りの天才でした」と評している。
「探偵作家」を自負し、中島河太郎が横溝のことを「最後の探偵作家」と折り紙をつけたことに気を良くしており、「推理作家」と呼ばれることに抵抗を感じていた。同様に、自身の小説が「推理小説」と呼ばれることを嫌い、自身の小説を最後まで「探偵小説」と言い続けた。
横溝の長男である音楽評論家の横溝亮一によると、横溝が一番親しみを感じていた作家はアガサ・クリスティで、酔っぱらうと「コナン・ドイルに及びもないが、せめてなりたやクリスティー」という戯れ歌をよく口にしたという。
戦前派探偵小説における唯一の現役作家であった(しかも晩年に突如空前のブームを迎えた)こともあり、困窮し病に伏した往年の作家仲間に援助したり、再刊の口利きをしつこく頼んでくる遺族に辛抱強く応対したりする様子も、公刊日記に控えめに記されている。
横溝は閉所恐怖症で、大の電車・飛行機嫌いであった。電車に乗る際は必ず酒の入った水筒を首からさげ、それを飲みながら電車を乗り継いだ。時には妻とともに乗ることもあったが、その際には妻が横溝の手をずっと握っていないとダメだったという。電車・飛行機嫌いの理由の一つに、“閉鎖空間でいつ喀血するか分からない怖さ”もあった。また、喀血だけでなく、血を見ること自体苦手だった。
酒は主に自宅での晩酌を好み、若い頃は毎晩月桂冠を1升飲み、後にウイスキーの水割りを愛飲するようになった。晩年も酒を欠かさず、時折乱れて妻を困惑させるさまは公刊日記にそのまま記されている。
愛煙家で、好きな銘柄はピース。“火を点けて少し吸っては消す”という吸い方で、一日50本以上吸っていた。
無類の愛犬家・愛猫家で、生前飼っていた愛犬には代々「カピ」と命名した。また、『白と黒』などいくつかの作品にもカピという名の犬を登場させている。
プロ野球球団では近鉄バファローズの大ファンであった。
昭和モダニストのたしなみ程度であるがクラシック音楽を好み、他にもシャンソンのレコードをよく聞いていた。『悪魔が来りて笛を吹く』『仮面舞踏会』『蝶々殺人事件』『迷路荘の惨劇』など、クラシック音楽がらみの長編もある。長男の亮一は『東京新聞』記者を経て音楽評論家となり、急逝直前のバス歌手・大橋国一との対談(新版全集収録)は亮一がセッティングした。
岡山県倉敷市真備町にあった疎開宅は、横溝の生誕100年にあたる2002年より「横溝正史疎開宅」として一般公開されている。
東京都世田谷区成城にあった横溝の書斎(1955年(昭和30年)頃建築)は、山梨県山梨市に移築され、2007年(平成19年)3月25日より「横溝正史館」として公開されている。
『仮面舞踏会』などいくつかの作品の舞台に設定した長野県軽井沢町に1959年(昭和34年)から別荘を所有しており、晩年まで毎年のようにそこで夏を過ごし、成城の自宅と共に執筆の拠点でもあった。別荘に遺された小説草稿やノートなどは次女の野本を経て、横溝正史旧蔵資料をコレクションしている二松学舎大学に2021年12月に寄贈された。旧宅や遺品については「所蔵品」節にて後述。
解説
横溝の作品は、編集者と兼業して、あるいは闘病生活と並行して執筆が進められた戦前の作品と、戦時中の抑圧から解放されて精力的に執筆を進めた戦後の作品とに大別することができる。
戦前の作品は華麗な美文調の文体とロマンチシズムの香気に溢れた耽美的な変格物が多い。代表作としては、『鬼火』『面影双紙』『蔵の中』『かいやぐら物語』などの耽美的中短編、江戸川乱歩に「横溝探偵小説の一つの頂点を為すものかも知れない」との賛辞を寄せられた長編『真珠郎』(探偵役は由利麟太郎)などが挙げられる。また、昭和初期に書かれた、洒落た中に一抹の哀愁を湛えた都会派コントの数々は、『新青年』編集長として昭和モダニズムの旗手であった横溝の一面をよく伝えている。
戦後には、従来からの妖美耽異の世界に論理性やトリックを融合させ、『本陣殺人事件』『獄門島』『八つ墓村』『悪魔の手毬唄』など土俗的な犯罪を描いて独自の領域を切り拓いた。本格的な執筆は、ほぼ同時に雑誌連載された『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』の2編の長編から始まっている。前者は金田一耕助の初登場作品で、第1回探偵作家クラブ賞長編賞受賞作としても知られている。一方の後者は戦前作品からの探偵役である由利麟太郎を登場させ、坂口安吾に世界的レベルの傑作と激賞された終戦直後の純謎解き長編である。
戦後の作品は金田一を探偵役とするものが多くを占めているが、1949年ごろまでは他の人物を探偵役とする作品も多数発表している。長編に限っても『蝶々殺人事件』の他に『びっくり箱殺人事件』『女が見ていた』やジュブナイル作品の『怪獣男爵』『夜光怪人』があり、『探偵小説』『かめれおん』などの「戦後初期短編」と呼ばれている作品群もある。しかし、金田一ものの代表作とされる作品群がおおむね出揃った1951年ごろからは、捕物帳を除いて専ら金田一を探偵役とするようになり、全く作風の異なる金田一登場作品を同時並行で雑誌連載していたこともある(たとえば悪魔の寵児#概要で言及されている事例)。ただし、ジュブナイル作品については1953年ごろから中学生向け作品の一部を除いて金田一を登場させずに三津木俊助と御子柴進を探偵役とするように変わっている。
金田一が登場する作品は、長短編あわせて77作(中絶作品・ジュブナイル作品等を除く)が確認されている。探偵・金田一は主に東京周辺を舞台とする事件と、作者の疎開先であった岡山県など地方を舞台にした事件で活躍した(岡山県以外では、作者が戦前に転地療養生活を送り、戦後は別荘を所有していた長野県や、静岡県の事件が多い)。前者には戦後都会の退廃や倒錯的な性、後者には田舎の因習や血縁の因縁を軸としたものが多い。一般的には後者の作品群の方が評価が高いようである(前者は倶楽部雑誌と呼ばれる大衆誌に連載されたものが多く、発表誌の性格上どうしても扇情性が強調されがちである)。外見的には怪奇色が強いが、骨格としてはすべて論理とトリックを重んじた本格派推理小説で、一部作品で装飾的に用いられるケースを除いて超常現象やオカルティズムは排されている。このような特徴は、彼が敬愛する作家ジョン・ディクスン・カーの影響であるとのこと。また、薬剤師出身であるにもかかわらず、理化学的トリックは意外に少なく、毒殺の比率は高いものの薬名があっさり記述される程度である。
一旦発表した作品を改稿して発表するケースも多かった。通常このような原型作品は忘れられるものであるが、「金田一耕助」シリーズについてはそれらの発掘・刊行も進んでおり、人気の高さが窺える。
戦前作品の都会派コントから続くユーモアのセンスは戦後作品でも健在で、金田一のキャラクターなどに表れている。また、上述の『びっくり箱殺人事件』は今日のバカミスの遠祖ともいうべき全編ドタバタに終始する異色長編である。
創作した探偵役としては、由利、三津木、金田一の他に、人形佐七、お役者文七を主役とする捕物帖のシリーズがある。また、複数作品に登場させたものの3作以上続くシリーズにはならなかった探偵役として、速水健二(『恐るべき四月馬鹿』と『化学教室の怪火』)と星野夏彦&冬彦兄弟(『双生児は踊る』と『双生児は囁く』)がある。
1980年、角川書店の主催による長編推理小説新人賞「横溝正史賞」が開始された(のちに「横溝正史ミステリ大賞」「横溝正史ミステリ&ホラー大賞」と改称)。
2019年以降、イギリスで『本陣殺人事件』と『犬神家の一族』、イタリアで『本陣殺人事件』と『黒猫亭事件』が翻訳出版されており、イギリスでは好評を受け、2021年から2022年にかけて『八つ墓村』と『獄門島』も出版される予定。