清水秀雄の情報(しみずひでお) 経営者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
清水 秀雄さんについて調べます
■名前・氏名 |
清水秀雄と関係のある人
成田啓二: 米子中学校4年次の1935年、1級先輩の清水秀雄-井上親一郎のバッテリーの活躍で、一塁手として春夏連続で甲子園に出場した(ちなみに井上とは、その後、大学、ノンプロ、プロと共に過ごすことになる)。 森下重好: 初本塁打:1946年5月26日、対近畿グレートリング3回戦(阪急西宮球場)、9回表に清水秀雄からソロ 藤本英雄: 1940年に明治大学黄金時代のエース清水秀雄が中退して職業野球入りすると、藤本がエースとなり秋季リーグでは4勝無敗、防御率0.62を記録して優勝に貢献。 児玉利一: 卒業後は1936年に明治大学へ進学し、4番・一塁手として活躍する傍ら、清水秀雄のリリーフ投手も務めた 。 藤村富美男: 1950年4月22日、熊本の水前寺で行われた対中日ドラゴンズ戦では、中日の先発が左腕の清水秀雄か、右腕の服部受弘か迷ったため、助監督兼内野手だった藤村が「それじゃ、トップに干場を入れておきましょう」と監督の松木謙治郎に助言し、これを受け松木がメンバー表の1番に「左翼手・干場一夫」と書いて提出した。 藤本英雄: 当時中日には清水秀雄・杉浦清といった明大出身の主力選手がいたが、明大関係での勧誘ではなく、かえってお互いをライバル視してしまい、簡単に団結はできなかったという。中日では17勝、防御率1.83(リーグ2位)を記録し、清水秀雄(23勝)・服部受弘(16勝)とともに中日の2位躍進の原動力となる。 杉浦清: 嶋は既に明大投手陣の一角を担った清水秀雄を超える力量を持っていたという。 井上親一郎: 米子中では捕手として清水秀雄とバッテリーを組み、5年次の1935年には甲子園に春夏連続出場したが、いずれも初戦敗退に終わる。 中河美芳: 資料としては残っていないが、米子中の左腕エース・清水秀雄攻略のため、右打席にも立ったことがあるといわれ、スイッチヒッターの草分けだったと推測される。 干場一夫: 1950年4月22日、熊本市水前寺野球場での対中日ドラゴンズ戦で、中日の先発投手が左の清水秀雄か右の服部受弘で迷った松木謙治郎選手兼任監督は、前日の対広島カープ戦で完投勝利を挙げた干場を1番・レフトとして出場させる。 |
清水秀雄の情報まとめ
清水 秀雄(しみず ひでお)さんの誕生日は1936年9月29日です。埼玉出身の経営者のようです。
父親、卒業、引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1964年に亡くなられているようです。
清水秀雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 清水 秀雄(しみず ひでお、1918年7月8日 - 1964年3月23日)は、島根県松江市出身のプロ野球選手。ポジションは投手、一塁手、外野手。 1918年7月8日出生。当時の米子市は、山陰で最も野球の盛んな地域と言われていた。清水は実家の近所に空き地があった事も関係し、自然と幼少期から野球に触れるようになる。明道小学校4年時に野球部(今で言う少年野球チーム)に入部し、野球を本格的に開始。後にサウスポーとしてプロ野球で活躍する清水だが、当初は右投げでプレーしていた。父親に左利きを矯正されていた事が大きく影響している。明道小学校6年生の頃にサウスポーに転向し、投手としてもプレーし始める。 米子中学校(現米子東高校)では1935年の甲子園にエースとして春夏連続出場。いずれも初戦敗退に終わったが、橋戸頑鉄から高い評価を受けた。当時、山陰のライバル校であった鳥取一中には、藤井勇・中河美芳・岩垣二郎と、後にプロ野球で活躍する選手が所属していた。三人とも左打者であったが、藤井と中河は左腕である清水の速球を打ち崩すために右打者に挑戦。一方で、岩垣は左打ちにこだわり、右打者への転向を断固拒否している。清水の同級生には、バッテリーを組んだ井上親一郎のほか、一塁手に成田啓二、一学年下の外野手に木下勇がいた。また、下級生には土井垣武、長谷川善三も在籍している。 中学卒業後は明治大学へ進学。東京六大学リーグでは、児玉利一との継投で1937年春季から1938年秋季にかけてリーグ初の4連覇に貢献。特に1938年は秋季シーズンだけで62三振を奪うなど、年間100奪三振を記録した。リーグ通算47試合登板、17勝8敗、防御率1.86、184奪三振。 1940年に大学を中退して南海へ入団する。契約金に関して南海側と連盟側で揉め、清水の選手登録は開幕の3日前となるが清水は開幕戦に先発。日本プロ野球2人目となる開幕戦初登板完封勝利を達成。それを皮切りに、1年目から二桁の11勝(23敗)を挙げ、チームトップ(リーグ11位)となる防御率1.75を記録する。「三振か四球か」と言われた、荒れ球の豪速球とブレーキのあるカーブを駆使して活躍する。この年の270奪三振はリーグ3位であったが、9イニング当たりの奪三振7.89個は2位以下を1個以上引き離して1位となっており、この奪三振率は戦前の規定投球回到達投手の中で2位の記録である。また同年には2度の毎回奪三振を記録しているが、通算かつ1シーズンで2度の達成は清水が日本プロ野球初。同年11月16日、神戸市民球場での阪急戦においては、1試合15奪三振の戦前最多タイ記録を作っている(延長を含めれば17奪三振)。なお、この年には一塁手としても56試合出場して規定打席に到達し、打者としてもチームトップ(リーグ19位)の打率.227を記録している。同年末に応召。1941年に中国戦線の中支で、小銃により手と腰に対する貫通銃創を受ける。1942年に南海に復帰するが、銃創の後遺症によりスローカーブ主体の軟投派に転向した。 戦後の1946年には松江中学校(現松江北高校)を率いて夏の甲子園でベスト8に進出した。同年はグレートリングに所属していたが、7月に突如退団。10月に杉浦清の勧誘で中部日本へ入団し、プロ野球に復帰。1947年には自己最多となる23勝を挙げ、リーグ7位の防御率1.93記録。以降は肘を痛め、騙し騙しの投球となるが、1948年と1949年の両年とも12勝を挙げて4年連続で二桁勝利を記録。チェンジオブペースを武器とし、その精度は若林忠志に次ぐと言われていた。1950年末に中日を退団。1952年からは大洋ホエールズでプレーし、1953年に通算100勝を達成して同年引退。 引退後は調理師免許を取得し、米子市朝日町で飲食店を経営した。1964年3月23日に山陰労災病院にて死去。45歳没。 役者のような顔立ちで女性に人気があった。甲子園に出場した際は、女性ファンが宿舎に押し寄せ、身動きが取れなくなる事もあった。女房役の井上親一郎が身を呈して追い払っていたという。また、プロ入団後は遊び好きとしても有名になる。試合が終わると風呂に入ってから薄化粧をし、和服を着込み、夜の街に出発。帰ってくるのはいつも午前3、4時だった。 また、女性関連のエピソードで、千葉茂は清水について「あの顔だから、女性にはよくモテた。愚妻が清水の写真を見て『この人だれ!』と弾んだ声をあげたことがある。こんなことは後にも先にもこれ一度。清水には女性を惹き寄せる『男の色香』があったのですな」と語っている。 1944年8月13日の巨人戦。6回まで無失点に抑えていた清水だが、7回に満塁のピンチを迎える。黒沢俊夫が放った打球は右翼手の富永嘉郎のもとに飛ぶが、富永は転倒。フライを捕れず3失点(記録は三塁打)。呆れた清水は監督でもないのに富永の交代を審判に告げた。 トラブルメーカーとしても知られ、中日の赤嶺昌志騒動の中心人物とされている。さらに、大井廣介著のプロ野球騒動史では、「人殺しはやっていまいが、なんでもやったというような人物。天狗、飲兵衛、女出入りと枚挙すればきりがない」と書かれている。 大和球士は豪腕サウスポーという共通点から江夏豊と清水を比較し、「清水が江夏より優れた点…大きく鋭角に曲がるカーブと、えぐるようなシュート」と記している。 大和球士や岡本利之など多くの人物が、清水の投球フォームについて「日本一美しい」と評価している。 選手晩年は肘の故障の影響でかなり太り、「相撲取り」と呼ばれていた。 野手としても活躍していることからわかる通り打撃が得意で、4番打者を19回務めている。大和球士は清水について「私は投球よりも打撃を買う。あの打撃を専門に生かせばまず打撃十傑へははいれそうである」と評価していた。 千葉茂は清水について「戦争で腰を撃ち抜かれる事が無ければ、200勝も狙えた投手だった」と語っている。 1940年当時の職業野球連盟には、契約金は3,000円以上支給してはいけないという規約があった。しかし清水が南海に入団した際、球団は清水に対して契約金5,000円を極秘裏に支払う。この事態を重く見た連盟は、連盟代表者会議にて当時南海球団社長の小原英一を呼びつけた。「3,000円の最高契約金を決定する会議には、小原さんも出席していたはず。南海はそれにも関わらず2,000円も上回った金をヤミで手渡ししている。清水の登録は認められない」と連盟は小原に通達。しかし小原は「証拠があるなら見せて頂きましょうか」と反論。清水の登録は宙吊り状態になった。未登録のままオープン戦に登板させるなど南海側はさらなる問題を生じさせたが、開幕3日前にようやく清水の登録が認められた。 各年度の太字はリーグ最高 南海(南海軍)は、1944年途中に近畿日本(近畿日本軍)に、1946年にグレートリングに球団名を変更 中部日本は、1947年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更 大洋(大洋ホエールズ)は、1953年に洋松(大洋松竹ロビンス)に球団名を変更 各年度の太字はリーグ最高 南海(南海軍)は、1944年途中に近畿日本(近畿日本軍)に、1946年にグレートリングに球団名を変更 中部日本(中部日本軍)は、1947年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更 大洋(大洋ホエールズ)は、1953年に洋松(大洋松竹ロビンス)に球団名を変更 開幕戦初登板完封勝利:1940年3月15日 ※史上2人目 同一年に2球団で勝利:1946年 ※史上2人目 通算100勝:1953年4月19日 ※史上15人目 毎回奪三振 通算と1シーズンの2度の達成はそれぞれ日本プロ野球初
1940年11月16日、対阪急軍戦、延長12回を17奪三振 5 (1940年、1942年 - 1943年、1952年 - 1953年) 8 (1946年 - 同年途中) 14 (1946年途中 - 1950年) 注:昭和19年は全6チームで背番号廃止 ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、274ページ ^ 『ベースボールマガジン』ベースボール・マガジン社、1952年9月1日、99頁。 ^ 『米子東高校野球部史』。 ^ 「黄金時代と戦争時代 史上初の4連覇(12.13年)の偉業、18年に突如リーグ戦中止命令」『明治大学野球部公式サイト』 ^ 『プロ野球騒動史』ベースボール・マガジン社、1958年。 ^ 1人目は藤村富美男 ^ 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』61頁 ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」692ページ ^ 『真説日本野球史 昭和編その四』ベースボール・マガジン社。 ^ 『勝陵高校野球部回顧60年』岡本利之。 ^ “試合後、薄化粧して遊びに出かけた遊び人・清水秀雄/プロ野球仰天伝説161”. 2023年11月1日閲覧。 ^ 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、1982年7月19日、106頁。 ^ 『新版プロ野球通になるまで』ベースボール・マガジン社。 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年 『ベースボールマガジン昭和27年9月1日号』ベースボール・マガジン社、1952年 鳥取県出身の人物一覧 明治大学の人物一覧 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 個人年度別成績 清水秀雄 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1936春夏 牧野潔 1936秋 加藤智男 1937春 森井茂 1937秋 森井茂 1938春 松尾幸造 1938秋 森井茂 1939 松尾幸造 1940 村松幸雄 1941 森井茂 1942 河村章 1943 松尾幸造 1944 森井茂 1946 森井茂 1947 松尾幸造 1948 服部受弘 1949 服部受弘 1950 清水秀雄 1951 近藤貞雄 1952 大島信雄 1953 杉下茂 1954 石川克彦 1955 石川克彦 1956 杉下茂 1957 伊奈努 1958 中山俊丈 1959 伊奈努 1960 伊奈努 1961 板東英二 1962 柿本実 1963 河村保彦 1964 河村保彦 1965 柿本実 1966 山中巽 1967 小川健太郎 1968 小川健太郎 1969 小川健太郎 1970 小川健太郎 1971 伊藤久敏 1972 水谷寿伸 1973 稲葉光雄 1974 星野仙一 1975 松本幸行 1976 星野仙一 1977 松本幸行 1978 星野仙一 1979 星野仙一 1980 藤沢公也 1981 三沢淳 1982 小松辰雄 1983 小松辰雄 1984 鈴木孝政 1985 小松辰雄 1986 郭源治 1987 杉本正 1988 小松辰雄 1989 小野和幸 1990 西本聖 1991 小松辰雄 1992 郭源治 1993 今中慎二 1994 今中慎二 1995 今中慎二 1996 今中慎二 1997 山本昌 1998 山本昌 1999 川上憲伸 2000 野口茂樹 2001 山本昌 2002 山本昌 2003 川上憲伸 2004 川崎憲次郎 2005 川上憲伸 2006 川上憲伸 2007 川上憲伸 2008 川上憲伸 2009 浅尾拓也 2010 吉見一起 2011 M.ネルソン 2012 吉見一起 2013 吉見一起 2014 川上憲伸 2015 山井大介 2016 大野雄大 2017 大野雄大 2018 小笠原慎之介 2019 笠原祥太郎 2020 大野雄大 2021 福谷浩司 2022 大野雄大 2023 小笠原慎之介 2024 柳裕也 表 話 編 歴 1938秋 鈴木芳太郎 1939 政野岩夫 1940 清水秀雄 1941 神田武夫 1942 神田武夫 1943 清水秀雄 1944 清水秀雄 1946 松川博爾 1947 別所昭 1948 別所昭 1949 柚木進 1950 柚木進 1951 江藤正 1952 江藤正 1953 柚木進 1954 大神武俊 1955 柚木進 1956 柚木進 1957 野母得見 1958 杉浦忠 1959 杉浦忠 1960 杉浦忠 1961 J.スタンカ 1962 J.スタンカ 1963 J.スタンカ 1964 三浦清弘 1965 杉浦忠 1966 森中千香良 1967 皆川睦男 1968 皆川睦男 1969 泉嘉郎 1970 西岡三四郎 1971 西岡三四郎 1972 西岡三四郎 1973 江本孟紀 1974 江本孟紀 1975 江本孟紀 1976 山内新一 1977 山内新一 1978 山内新一 1979 藤田学 1980 山内新一 1981 山内新一 1982 山内新一 1983 山内孝徳 1984 山内和宏 1985 山内孝徳 1986 山内孝徳 1987 山内孝徳 1988 西川佳明 1989 山内孝徳 1990 藤本修二 1991 村田勝喜 1992 村田勝喜 1993 村田勝喜 1994 吉田豊彦 1995 工藤公康 1996 工藤公康 1997 武田一浩 1998 工藤公康 1999 西村龍次 2000 西村龍次 2001 西村龍次 2002 田之上慶三郎 2003 斉藤和巳 2004 斉藤和巳 2005 和田毅 2006 斉藤和巳 2007 斉藤和巳 2008 杉内俊哉 2009 和田毅 2010 杉内俊哉 2011 和田毅 2012 攝津正 2013 攝津正 2014 攝津正 2015 攝津正 2016 攝津正 2017 和田毅 2018 千賀滉大 2019 千賀滉大 2020 東浜巨 2021 石川柊太 2022 千賀滉大 2023 大関友久 2024 有原航平 日本の野球選手 鳥取県立米子東高等学校出身の野球選手 明治大学野球部の選手 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 二刀流の野球選手 日本の野球監督 高校野球指導者 島根県出身のスポーツ選手 1918年生 1964年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/13 20:20更新
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