瀬長亀次郎の情報(せながかめじろう) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


瀬長 亀次郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
瀬長亀次郎と関係のある人
津嘉山正種: カメジロー〜沖縄の青春(1998年、シネマ沖縄) - 瀬長亀次郎・花卉農家 役(二役) 國場幸太郎: 瀬長亀次郎の側近で伊佐浜土地闘争を率いた沖縄人民党の国場幸太郎 (1927-2008) とは同姓同名の別人である。 仲井眞弘多: 米国民政府のバージャー民政官と何度も密談し、当時の那覇市長であった瀬長亀次郎の不信任案を成立させるべく米国民政府と画策していたことでも知られている。 佐古忠彦: 2016年8月21日に放送された、沖縄の米国統治に対する抵抗運動で活動した政治家・瀬長亀次郎を特集した「報道の魂スペシャル「米軍が最も恐れた男~あなたはカメジローを知っていますか?~」」ではディレクターを担当。 稲嶺一郎: 後に、移民は瀬長亀次郎などの沖縄人民党から、「棄民」であるとの批判を浴び、日本本土への出稼ぎが本格化すると衰退していった。 |
瀬長亀次郎の情報まとめ

瀬長 亀次郎(せなが かめじろう)さんの誕生日は1907年6月10日です。沖縄出身の政治家のようです。

事件、現在、引退、映画に関する情報もありますね。2001年に亡くなられているようです。
瀬長亀次郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年(明治40年)6月10日 - 2001年(平成13年)10月5日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。 1946年 - 1949年、米軍機関紙「うるま新報」(後の琉球新報)社長を務めた。復帰前に、那覇市長(1期)、立法院議員(3期)、沖縄人民党委員長、国政参加選挙で衆議院議員1期。本土復帰後、衆議院議員としては人民党で1期、日本共産党として連続5期。1973年以降共産党幹部会副委員長をつとめた。 太平洋戦争後のアメリカ合衆国による沖縄統治(施政権下)において、沖縄人民党を組織し、米国による統治に対する抵抗運動を行った。返還前の沖縄において立法院議員や那覇市長を歴任、国政参加選挙において衆議院議員に当選した。沖縄返還後は沖縄人民党を日本共産党へ合流させ、衆議院議員を通算7期務めた。沖縄県島尻郡豊見城村(現:豊見城市)出身。 一部不屈館公式サイトによる 1907年、沖縄県島尻郡豊見城村(現:豊見城市)我那覇に生まれる。沖縄県立二中(現:沖縄県立那覇高等学校)、東京・順天中学(現:順天中学校・高等学校)を経て旧制第七高等学校(現:鹿児島大学)に進んだが、社会主義運動に加わったことを理由に放校処分となる。2年間の兵役を務めた後、横浜市鶴見区に移り労働運動の組織化を進めるが、1932年に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄される。その後は蒔絵工などを経て、召集されて砲兵として中国へ出征する。 戦後、名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、1946年にうるま新報(現:琉球新報)社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。雑貨店を経営しながら、組織活動を指導し、沖縄人民党書記長となる。1950年、沖縄群島知事選挙に出馬するが、当選者の1割にも満たない得票数で落選。次回1952年第1回立法院議員総選挙では最高得票数で当選を果たす。同選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否した。米国民政府は公に好ましからざる人物として対応する。 1954年10月、米国民政府は瀬長を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕、懲役2年の刑の判決により再び投獄された。1人の証言を証拠として弁護士なしの裁判にかけるなど事実審理の形式に多くの問題があった。(沖縄人民党事件)。1956年4月の出獄後、 同年12月25日に行われた那覇市長選に出馬、当選。 瀬長が公然と反米を掲げる人民党の幹部であることを危惧した米国民政府は、管理する琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置を行い市政運営の危機に見舞われるが、多くの市民が、瀬長の市政を支えるために「自主的な」納税によって財源を確保しようとの瀬長側の呼びかけに応じ、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し、当選後の納税率は86%、最高で97%になった。これにより当座の市政運営ができるようになり瀬長は市政運営の危機を脱する。これに対し米国民政府と琉球民主党は7度にわたる不信任決議を提出するが、いずれも不発に終わる。1957年、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定し(米民政府高等弁務官布令143号、通称「瀬長布令」)1954年の投獄を理由に、瀬長を追放し被選挙権を剥奪した。 市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米国民政府との攻防は、当時沖縄県民の強い支持を受け、現在でも同県内では祖国復帰運動に身を捧げた市民活動家であるとの評価が高い。 1967年12月に瀬長布令が廃止されたことで被選挙権を回復。翌68年の第8回立法院議員選挙で立法院における議席を回復した。1970年の沖縄初の国政参加選挙では、沖縄人民党公認で当選、1972年の第33回衆議院議員総選挙でも人民党公認で2期目の当選を果たす。1973年に人民党は日本共産党と合流、以後は日本共産党公認として1986年の第38回衆議院議員総選挙まで通算7期連続して衆議院議員に当選した。その間、日本共産党副委員長であった。1990年、政治活動を引退する。2001年10月5日、肺炎で死去。享年94。墓所は豊見城市我那覇にある。 ジュリオ=キュリー賞、那覇市政功労賞、県自治功労賞、沖縄タイムス賞(自治賞)を受賞。那覇名誉市民、豊見城名誉村民。 1998年には映画『カメジロー 沖縄の青春』が制作され、2005年には小林よしのりが著書の沖縄論の中で「亀次郎の戦い」を掲載した。 2013年3月、記念館「不屈館」が那覇市に開館。施設名は反米闘争を行った瀬長が生前好んで揮毫した“不屈”にちなむという。 瀬長亀次郎, 琉球新報社『不屈 : 瀬長亀次郎日記』琉球新報社、出版年不明。 NCID BA84256598。 瀬長亀次郎『沖繩からの報告』岩波書店〈岩波新書, 青-353B101〉、1959年。ISBN 9784004111016。 NCID BN0194690X。 瀬長亀次郎『沖縄人民党 : 闘いの二十五年』新日本出版社、1970年。 NCID BN04243473。 瀬長亀次郎『民族の怒り : もえあがる沖縄』新日本出版社〈新日本新書, 142〉、1971年。 NCID BN02565989。 瀬長亀次郎『民族の悲劇 : 沖縄県民の抵抗』新日本出版社〈新日本新書, 135〉、1971年。 NCID BN02565049。 瀬長亀次郎『民族の未来 : 沖縄に平和と文化を』新日本出版社〈新日本新書, 255〉、1978年。 NCID BN10365704。 瀬長亀次郎『瀬長亀次郎回想録』新日本出版社、1991年。ISBN 4406019898。 NCID BN06762970。 ^ 不屈館公式サイト・瀬長亀次郎について ^ 加藤哲郎「史料紹介 新たに発見された「沖縄・奄美非合法共産党文書」について(上)」『大原社会問題研究所雑誌』第509号、法政大学大原社会問題研究所、2001年4月、32-46頁、ISSN 09129421、NAID 120000823665。 ^ 第七高等学校造士館編『第七高等学校造士館一覧 自昭和3年4月至昭和4年3月』第七高等学校造士館、1928年、p.157 ^ 小松寛「日本復帰の論理 : 民族・国家・天皇 (特集 「占領の継続」を問う : 講和、復帰、基地)」『琉球・沖縄研究』第4巻、早稲田大学琉球・沖縄研究所、2013年、9-32頁、NAID 40020440798。 第2章 p.45 より ^ 1952年3月22日付け琉球中央選挙管理委員会告示第6号(『琉球臨時政府公報』1952年第16号、1952年3月31日、p.13) ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、77頁。ISBN 9784309225043。 ^ 『那覇市議会史』第1巻通史編「那覇市議会の歩み」189頁 ^ 前掲書192頁 ^ 前掲書197頁 ^ 前掲書198頁 ^ 1968年中央選挙管理委員会告示第13号(『公報』号外第113号、1968年11月21日、pp.3-4) ^ カメジロー 〜沖縄の青春〜(岩波映像株式会社 販売作品のご案内)2015年2月11日閲覧 ^ “瀬長亀次郎氏の遺品展示 「不屈館」反米や復帰闘争”. 共同通信. (2013年1月7日). https://web.archive.org/web/20130413020301/http://www.47news.jp/CN/201301/CN2013010701001218.html 2013年1月7日閲覧。 『那覇市議会史』第1巻通史編「那覇市議会の歩み」 (PDF) 琉球列島米国民政府 沖縄人民党 人民党事件 新ゴーマニズム宣言スペシャル・沖縄論 民主主義擁護連絡協議会 米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー 不屈館公式サイト 表 話 編 歴 西銘順治 瀬長亀次郎 上原康助 國場幸昌 安里積千代 西銘順治 上原康助 國場幸昌 瀬長亀次郎 安里積千代 瀬長亀次郎 玉城栄一 上原康助 西銘順治 國場幸昌 上原康助 瀬長亀次郎 國場幸昌 大城眞順 玉城栄一 上原康助 玉城栄一 小渡三郎 國場幸昌 瀬長亀次郎 瀬長亀次郎 國場幸昌 上原康助 仲村正治 玉城栄一 小渡三郎 上原康助 宮里松正 玉城栄一 瀬長亀次郎 古堅実吉 仲村正治 宮里松正 上原康助 玉城栄一 西銘順治 仲村正治 上原康助 古堅実吉 宮里松正 表 話 編 歴 高嶺朝教1921.9.13-1925.9.12 仲吉朝助1925.9.21-1926.9.3 久高友輔1926.9.26-1929.6.15 太田朝敷1929.6.18-1934.3 高安玉兎1934.3-1938.3 伊豆見元永1938.3.21-1942 仲吉良光1942-1945 仲吉良光1946.1.23-1946.4 小湾喜長1946.5.1-1948 兼島由明1948.3.1-1954.8.31 宮里栄輝1953.10.1-1954.9.21 翁長助静1954.9.25-1957.12.16 太田祥介1896.4-1898 齋藤用之助1898-1908.3.31 喜入休1908.5.15-1911.7.29 当間重慎1911.9.16-1919.11.1 山城正馴1919.11.9-1921.5.19 山城正馴市長代理1921.5-1921.9 当間重慎1921.9-1923.9 麓純義1923.12-1925.7 岸本賀昌1925.10-1928.2 小嶺幸慶1928.3-1931.7 照屋宏1931.8-1935.8 金城紀光1935.8-1939.8 当間重剛1939.9-1941.12 崎山嗣朝1941.12-1942.7 富山徳潤1942.7- 兼島景義臨時市長1945.4-1945.7 当間重剛1946.4-1946.6 東恩納寛仁1946.7-1948.2 仲本為美1948.3-1949.11 賀数世隆市長代理1949.11-1949.12 当間重民1949.12-1952.2 又吉康和1952.3-1953.9 当間重剛1953.11-1956.11 瀬長亀次郎1957.1-1957.11 東江誠忠臨時市長1957.11-1958.1 兼次佐一1958.1-1962.1 西銘順治1962.1-1968.10 平良良松1968.12-1972.11 平良良松1972.12-1984.11 親泊康晴1984.12-2000.11.30 翁長雄志2000.12.1-2014.10.3 城間幹子2014.11.16-2022.11.15 知念覚2022.11.16- FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research SNAC 日本共産党の衆議院議員 沖縄県選出の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 平成時代の衆議院議員 琉球政府立法院議員 那覇市長 沖縄人民党 琉球新報社の人物 朝日新聞社の人物 毎日新聞社の人物 日中戦争の人物 日本の労働運動家 旧制第七高等学校造士館の人物 順天中学校・高等学校出身の人物 沖縄県出身の人物 1907年生 2001年没 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 SNAC-ID識別子が指定されている記事
2025/04/05 15:24更新
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