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神山雄一郎
神山 雄一郎(かみやま ゆういちろう)さんの誕生日は1968年4月7日です。栃木出身の競輪のようです。
自転車競技への取り組み、主な獲得タイトルと記録などについてまとめました。卒業、父親、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。現在の年齢は56歳のようです。
神山 雄一郎(かみやま ゆういちろう、1968年4月7日 - )は、日本の競輪選手、自転車競技選手。血液型B型。作新学院高等部卒業。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第61期生。日本競輪選手会栃木支部所属。師匠は荒川博之。 GI勝利(16勝)と通算獲得賞金額(28億円超)、KEIRINグランプリ出場回数(16回)はいずれも競輪界史上最多、通算900勝は現役史上最多である。 栃木県小山市生まれ。生家は自転車屋で、父親は熱心なサイクリング愛好家だった。神山も父親とともにサイクリングをするようになり、休日になると自転車に乗って遠出していた。幼稚園時代から運動神経と脚力は抜群だったという神山は、小学校時代には休日になると筑波山や太平山まで片道40-50kmの道のりを往復するようになり、さらに長野県や岐阜県まで野宿をしながら1日200kmを走破して移動することもあった。神山はこの時期の自身について、苦しいと思いながらも自転車が好きだったため、サイクリングをやめなかったのだろうと振り返っている。幼少の頃から自転車の整備を欠かすことはなかったという。 中学校時代には剣道部に所属し剣道に打ち込んだが、県大会3位、東北大会ベスト16という成績に納得がいかず、自身の運動神経をより発揮できるスポーツとして自転車に目を向けた。神山は自転車部のある作新学院高等部に進学し、自転車部に入部。同校は自宅から約40km離れていたが、鍛錬のため片道約1時間をかけて自転車で通学した。入部1年目の1000mタイムトライアルの記録は1分20秒ほどであったが、長距離のポイントレースを中心としたトレーニングを積んだ結果、3年目には1分6秒にまで記録が伸び、インターハイと国民体育大会の1000m部門で優勝した。 高校在学中、神山は卒業後の進路としてプロの競輪選手を目指すかアマチュア選手として1988年のソウルオリンピック出場を目指すかの選択を迫られた(当時、プロの競輪選手がオリンピックに出場することはできなかった)。迷っていた神山であったが、1985年12月、父親に連れられて立川競輪場で開催されたKEIRINグランプリ'85を観戦し、場内の熱気と選手が入場した際の華やかさに魅せられ、競輪選手を目指すことを決めた。さらに、中野浩一や滝澤正光、井上茂徳、本田晴美らプロの選手がどのくらい強いのか挑戦してみたい気持ちもあったという。競輪選手となるには競輪学校に入学することが前提となるが、作新学院自転車部は練習場として宇都宮競輪場を使用しており、受験対策に不安はなかったという。その上、インターハイ優勝などの実績が評価されて1次試験は免除され、2次試験についても学科試験と小論文、面接に合格しさえすればいという優遇措置を受けることもできた。1回目の受験で競輪学校に入学した神山は、在学中も優れた成績を収め、在校成績1位で卒業した。神山はこの時期の自身について、「ボクはね、学校出るまで、ホント、苦労してないんです」と述べている。 1988年4月1日に選手登録され、同年5月8日に花月園競輪場でデビュー、そのデビュー戦で初勝利を挙げた。デビューから7か月でS級に昇格した。しかし神山によると、この間にA級で成績が伸び悩む時期が存在し、この時期に大きな期待を寄せていた周囲の目が「あいつ、期待してたほどじゃない」と変わるのを経験したという。神山によると、後で振り返ると「大したことない」と思えるものの、当時としては挫折であった。原因はラインを使ったブロックなどの駆け引きに対応しきれなかったためで、ブロックされないよう先行で勝負するようになってから成績が向上し、S級昇格を果たした。 1989年には競輪祭浜田賞・全日本競輪新人王決定戦を優勝。そして翌月12月からは当時の最高峰であったS級1班に昇格。また、同年の日本プロスポーツ大賞において新人賞を受賞した。 1990年の日本選手権競輪でも決勝に進出したため、ファンの多くは彼が特別競輪(現在のGI)のタイトルを獲るのも時間の問題だと思わせたが、その後はなかなか特別競輪を獲ることができず苦労の日々が続いた。1993年、ようやく地元の宇都宮競輪場での第36回オールスター競輪で優勝した時には、感激のあまりファンの前で号泣しながらインタビューに答えた。神山は、デビューからの数年はレースを落ち着いて振り返る余裕がなく、第36回オールスター競輪を優勝した頃にようやく余裕が出てきたと述べている。その後は、1995年に特別競輪を3勝するなど、トップレーサーの地位を不動のものにし、福岡県の吉岡稔真と共に「横綱」と呼ばれた。1997年には、滝澤正光(1987年)以来となる年間GI3優勝を果たした(以降この記録は2023年まで出なかった)。 そして1999年3月30日に静岡競輪場での日本選手権競輪を制したことで、競輪界史上3人目、現行の4日制以上GIが6レース制となってからは史上初となる特別競輪全冠制覇(グランドスラム)を達成した。また、記念競輪(GIII)においては、2007年12月12日の広島記念の優勝で、現役選手最高記録となる93回目の記念優勝を飾った。 2009年は寬仁親王牌の決勝で平原康多 - 武田豊樹 - 神山と並ぶことになり、既にKEIRINグランプリ09への出場を決めていた2人に助けてもらう形で自身の優勝を狙ったが、直線で直後に位置していた海老根恵太に阻まれ2着となってしまう。しかしオールスター競輪決勝でも同じ並びで挑むことになり、この時も武田の2着となったが、この特別決勝連続2着で年間獲得賞金上位(6位)となり、2005年以来4年ぶりにKEIRINグランプリへ出場し三度目となる平原・武田との並びで挑んだが、勝負どころで前2人への追走に失敗し4着となった。 2010年も高松宮記念杯やサマーナイトフェスティバルの決勝2着で年間賞金争いの上位となり、地元での開催となった全日本選抜競輪の決勝では神山拓弥と武田豊樹との連携で優勝を狙ったが、それを見抜いた佐藤友和に阻まれる形で完敗する。その後もオールスター競輪決勝で4着となるが結局は獲得賞金が足りずKEIRINグランプリへの出場は果たせなかった(2010年の神山は最終的には9位だったため)。 2011年は7月に松山競輪場で開催されたサマーナイトフェスティバルの決勝において、前を任せた長塚智広の後位から最後の直線で中を割り、先行していた深谷知広を捉え同開催を初めて優勝した。なお2007年12月27日に新設されたS級S班の18選手に選ばれていたが、この年まで4年間格付けを維持し続けた。 2012年6月6日、大垣競輪場でのFI開催で優勝し、通算獲得賞金額が競輪史上初の25億円を突破。同日時点での通算獲得賞金額は2,500,303,909円で、選手登録日より24年2ヶ月での達成であった。2023年6月3日時点での通算獲得賞金額は29億1463万609円であり、また過去において通算獲得賞金額が20億円を超えているのも神山が唯一である(次点は村上義弘の19億7690万3189円)。 2014年は7月29日に函館競輪場で800勝を達成。オールスター競輪の決勝で2着に入り年間賞金獲得額の上位(6位)に進出し、11月16日には高松競輪場の記念競輪(GIII)を優勝して記念での最高齢優勝記録(46歳7ヶ月)を更新する。さらに直後の競輪祭決勝でも3着に入り、5年ぶりとなるKEIRINグランプリ2014への出場を賞金枠上位(6位)で決定。この優勝からちょうど一ヶ月後の12月16日に行われた広島競輪場の記念競輪(GIII)も優勝して先述の記録を46歳8ヶ月に更新した。なお、2月の全日本選抜決勝の落車で右足腓骨を骨折し、日本選手権を欠場、24回連続出場で記録がストップした年でもあった。 2015年、最高齢記録更新となる形でS級S班に返り咲いた年。4月に防府競輪場で行われた共同通信社杯競輪の決勝において、山田久徳 - 稲垣裕之の先行ライン後位を追走し、稲垣が番手捲りを放ってから新田祐大を牽制するため外側へ動いた際に内を突くと、最終4角から先頭に出てそのまま押し切って優勝し、GIIIに続きGII最高齢記録も更新。さらにGIでも寛仁親王牌決勝で3着、オールスター決勝で2着に入る活躍を見せ、獲得賞金上位(5位)によりKEIRINグランプリへの出場権を獲得した。 2019年時点で、GI16勝は競輪界史上最多記録であり、特にオールスター競輪ではこれまで5回優勝と、もっぱら相性を良くしている。さらに地元の宇都宮競輪場では非常に強いことでも知られる。一方でKEIRINグランプリ(GP)にはこれまで16回出場し、1995年から1998年までは同一開催レース4年連続2着という競輪唯一といえる成績を残しているものの、未だ優勝だけは果たしていない。 ただ、デビュー後2年目にS級1班となって以来、足掛け30年間一度も降格することなくS級1班を維持してきたものの、2019年上期にほぼ連続して失格を3回も犯してしまったため、その影響で2020年上期はS級2班格付け(降格)が決定し、その記録も途絶えることになった。2020年下期より再びS級1班に昇格したが、その2年後の2022年下期より再びS級2班に降格することが決まった。その後は半年ごとにS級1班と2班の昇降級を繰り返している。 2023年、上期はS級1班格付けとなった。誕生日である4月7日の時点で55歳となり、これまで西川親幸が保持していたS級1班最年長格付けの記録を更新。そして6月3日、通算800勝を挙げた函館競輪場で通算900勝を達成。900勝達成は史上16人目だが、S級創設(1983年4月)以降にデビューした選手としては史上初の快挙であった(同日時点で現役2位は小嶋敬二の810勝)。 自転車競技への取り組み作新学院高校時代の1986年に開催されたソウル・アジア大会のポイントレースで銀メダルを獲得。競輪選手になってからは1989年のフランス・リヨンの世界自転車選手権(世界選)プロ・スプリントに出場し、イタリアのクラウディオ・ゴリネリにストレート負けを喫するものの銀メダルを獲得した。ちなみにこのときの世界選の模様をNHKで解説していた中野浩一は「ゴリネリに遠慮せず自分から一気にスパートをかけていれば勝てた」と悔しがっていた。1990年の前橋の世界選でもプロ・スプリントに出場したが7位に終わる。 翌年、吉岡稔真が世界選のケイリンに出場することを表明したことから、それに遠慮する形で自転車競技への挑戦は一旦途切れることになり、しばらくは競輪に専念していた。ところが吉岡が1995年の世界選出場を最後に競輪への専念を表明したことから再び自転車競技への意欲を出してきた。さらに1996年のアトランタオリンピックからオリンピックでもプロ・アマオープンとなり、競輪選手にもオリンピック出場への道が開かれたことで、専属トレーナーから挑戦を勧められた神山は、オリンピック出場に意欲を燃やすことになる。 ところが国内枠として1枠が設けられた1Kmタイムトライアルの代表選考会において、神山は十文字貴信の前に屈した。神山はこの時、1分3秒台で走破した十文字に1秒以上離され、十文字の強さを実感するとともに「やっぱり自分は五輪には縁がないのかな」と寂しさを覚えたという。この時点において神山のオリンピック出場の道は閉ざされた。しかし後にスプリントのワイルドカード枠が日本にも与えられることが決まった。神山は選考会を勝ち、日本車連は神山を推薦した。晴れてアトランタオリンピック出場を果たすことになった。しかしスプリント種目に出場したものの、一回戦、敗者復活戦ともに敗退に終わった。 1998年のバンコク・アジア大会ではスプリント決勝で馬渕紀明を下し優勝した。だが、その後のドーピング検査で陽性反応が出てペナルティーとして短期の出場停止処分を受けた。 それでも神山は再度オリンピックへの出場へ意欲を燃やし、2000年のシドニーオリンピックではこの大会から新たな種目として設けられることになったケイリンとチームスプリント(当時はオリンピックスプリントという名称)に出場。チームスプリントでは長塚智広、稲村成浩と組んで5位入賞を果たした。しかしケイリンではお家芸の意地をかけてメダル獲りに意欲を燃やすも敗者復活戦で1位入線するが斜行による妨害を取られて敗戦。失格の裁定が下された神山は涙を流した。神山はラインの駆け引きがなく純粋な走力勝負であるケイリンは競輪とは別種の競技であり、しかもダッシュ力、トップスピードにおいては欧米の選手のほうが力が一枚上であることを実感したという。 何とか次の2004年のアテネオリンピックではメダルを獲りたいと思っていた神山は、2002年の釜山・2002年アジア競技大会においてチームスプリントに出場しアテネオリンピックへの夢を抱いていた。ところが、2004年のメルボルンの世界選にチームスプリントの一員として帯同したものの、バックアップメンバーの扱い(レギュラーのメンバーは長塚、伏見俊昭、永井清史で、同種目予選終了後に永井から井上昌己に変更)であり、出場機会さえなかったことから、とうとうアテネオリンピックへの出場を果たすことはできなかったことで、自転車競技への取り組みはアテネオリンピックへの挑戦で一区切りした。もっとも、アテネオリンピックのチームスプリントのメンバーに決まった長塚、伏見、井上の3人は、「神山さんがいないメンバーで果たしてアテネで戦っていけるかどうか不安」と一様に漏らしていた。アテネオリンピック直後に行われたオールスター競輪ではオリンピックメダル後の凱旋で注目を浴びていた伏見を下し、四年ぶりの特別競輪制覇を果たしている。 主な獲得タイトルと記録1989年 - 競輪祭新人王戦(小倉競輪場) 年間賞金王5回 - 1993年、1995年、1997年、1998年、1999年 年間獲得賞金2億円突破 - 1997年 グランドスラム達成 6冠・1999年(3人目、6冠では史上初) GP・GI連続出場
オールスター33回連続出場(歴代最多記録。1990年 - 2022年)
競輪祭29回連続出場(歴代最多記録。1993年 - 2021年) 寬仁親王牌28回連続出場(歴代最多記録。1994年 - 2021年) 高松宮記念杯26回連続出場(歴代最多記録。1994年 - 2019年)
現役最多記録
勝数(2023年6月3日時点、900勝) KEIRINグランプリ出場回数(16回) 1991年 - 2001年、2004年 - 2005年、2009年、2014年 - 2015年 最高齢記録
GII 優勝(2015年共同通信社杯競輪・47歳22日) KEIRINグランプリ2015出場によるS級S班格付(2016年) GI最高齢出場(2022年第65回オールスター競輪・54歳4か月) GI戦における勝利(2019年第62回オールスター競輪・名古屋競輪場/8月18日1R一般戦・51歳) S級1班格付け(2023年上期。55歳2か月まで) 2024/05/18 18:48更新
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