田邊圀男: 1966年(昭和41年)には、当時懸案となっていた新東京国際空港を巡り、自民党政務調査会交通部会で中堅議員として長谷川峻らとともに現在の成田国際空港が位置する三里塚地区での建設について秘密裏に審議していたと言われる(成田空港問題)。
中野正剛: 書生の一人、長谷川峻(後の労働相・運輸相)に、庭のスズメの群れを見て「あのスズメに茶碗のご飯粒を分けてやっても大した事は無い、しかしスズメは腹を満たし大空に飛んでゆく。
鈴木昇: 鈴木より上位の落選者には土井喜美夫(前石巻市長)、安住淳(現宮城5区選出)、長谷川章(長谷川峻の長男で元宮城県議会議員)がいた)。
永野茂門: 上述の発言の責任を取らされ、事実上更迭される形で在任わずか11日で法務大臣を辞任した(戦後大臣通算在任記録では、2007年に遠藤武彦農林水産大臣の在任が8日間となるまで、同じ法務大臣を1988年暮れに4日間で辞任した長谷川峻に次ぐ記録である)。
石井光次郎: 引退する者や派閥離脱者が出ても、無理して新人を増やすこともしなかったため、石井派は選挙の都度勢力を減らしていったが、側近の坂田道太、田中伊三次、中垣國男、灘尾弘吉、長谷川峻らが損得抜きで最後まで石井を支え続けた。
遠藤武彦: 大臣就任期間は8日間であり、戦後政治史の短命閣僚としては竹下内閣の長谷川峻法相がリクルート事件に絡み4日間で法相辞任した記録、麻生内閣の国土交通大臣・中山成彬が度重なる舌禍により5日間で国交相辞任した記録に次ぐ。
川島正次郎: 川島はこの三里塚案について事前に長谷川峻ら自民党政調会交通部会から進言を受けており、瓜生順良宮内庁次長に対して宮内庁下総御料牧場の提供について打診していたともいわれる。
高辻正己: 1988年(昭和63年)12月、リクルート事件が騒がれていた頃にリクルートからの献金問題で長谷川峻法務大臣が辞任に追い込まれると、法律に詳しくリクルートとは無縁な点が評価され、残り2年の任期を残して国家公安委員会委員を辞任して後任の法務大臣に就任。
小坂徳三郎: これは国鉄改革論者から「線路を引きはがして全部売るという鉄道をやめた時の論理であり、ストックとフローを完全に錯覚した見当違いの論理」と猛反発を受け、1982年(昭和57年)11月に発足した第1次中曽根内閣で長谷川峻が運輸大臣に就任して国鉄改革の審議が進み始めた経緯から、行政改革を掲げた首相の中曽根康弘や土光敏夫など臨調メンバーの忌避に触れ、政財界の支持を失う一因になった。
田辺国男: 1966年(昭和41年)には、当時懸案となっていた新東京国際空港を巡り、自民党政務調査会交通部会で中堅議員として長谷川峻らとともに現在の成田国際空港が位置する三里塚地区での建設について秘密裏に審議していたと言われる(成田空港問題)。
加藤六月: 結果は安倍派座長の長谷川峻の裁定で三塚が後継者となり、後に加藤は三塚派を除名された。
三木武夫: 首相の三木以外でも、長谷川峻労働大臣、そして福田副総理兼経済企画庁長官も条件付きスト権付与を認める考え方であった。
中川一郎: 1979年(昭和54年)には石原、長谷川四郎、松沢雄蔵、長谷川峻らを結集して、自由革新同友会(事実上の中川派)を結成した。